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異世界料理道  作者: EDA
第三十八章 群像演舞~四ノ巻~
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第九話 いつか見果てぬ空へ(上)

2018.10/21 更新分 1/1

「あなたはいったい、何度同じことを言われれば気が済むのですか?」


 さまざまな香りのあふれかえった《銀星堂》の厨において、その主人の声が陰々と響いていた。


「ピコの隣はイラ、イラの隣はナフアと決まっているのです。このような場所に、チットの実を置かないでください」


「でも、イラの葉に一番味と香りが近いのは、チットの実でしょう? だったらそれを隣り合わせにしたほうが、何かと便利じゃないですか?」


 ロイがそのように応じると、ヴァルカスはぼんやりとした表情のまま深々と溜息をついた。


「イラの葉とチットの実は味と香りばかりでなく、その色合いまでもが似ています。チットの欠片がイラの瓶に混ざってしまったら、何とするつもりですか?」


「味と香りが似てるんだから、べつだん問題はないんじゃないですかね」


「……あなたは本気でその言葉を口にしているのですか?」


 ヴァルカスの目が、わずかに見開かれる。

 こんなことで破門にはされたくなかったので、ロイは「冗談ですよ」と答えてみせた。


「でも、チットの欠片をイラの瓶に飛ばしたりはしませんよ。俺だって、そこまで迂闊じゃありません」


「その慢心が、味の調和を壊しかねないのです。あなたは調理の技術よりも、まず料理人としての心がまえを学ぶべきでしょうね」


 そう言って、ヴァルカスはゆるゆると首を振った。


「香草の修練は、ここまでとしましょう。わたしは地下室の食材の様子を見てきますので、後片付けをお願いします」


「あ、それじゃあ俺も、連れていってくださいよ。もう正式な弟子になったんですから、そのとっておきの食料庫を拝見させてください」


 ヴァルカスは、感情の感じられない横目でロイを見やってきた。


「……あなたが料理人としての心がまえを身につけるまでは、とうていそのような気持ちにはなれません。タートゥマイ、手伝いをお願いします」


「はい。承知しました」


 タートゥマイを引き連れて、ヴァルカスは地下室への扉に消えていく。

 その姿を見送ってから、ロイは「あーあ」と肩をすくめてみせた。


「まったく、口うるさいこったなあ。いいかげんにしてほしいもんだぜ」


「……いいかげんにするのは、あなたのほうです。いったいあなたは、どういうつもりなのですか?」


 と、少し離れたところでロイたちのやりとりを見据えていたシリィ=ロウが、眉を逆立てて近づいてきた。


「ヴァルカスは師匠であり、あなたは新入りの弟子なのですよ? それなのに、いちいちヴァルカスの指示に逆らって……あなたはいったい、どういうつもりでヴァルカスに弟子入りを願ったのですか?」


「そんなの、料理人としての腕を上げるために決まってるだろ」


「だったら、どうしてヴァルカスに逆らうのです?」


「俺は俺なりの意見を述べてるだけで、逆らってるつもりはねえよ。似通ってる食材は近い場所に置いておいたほうが、使いやすくねえか?」


「……師匠の定めた規範に逆らうことなど、弟子には許されません」


 シリィ=ロウはわなわなと肩を震わせながら、ロイの顔をにらみつけてきた。

 そこに、笑顔のボズルが「まあまあ」と割って入ってくる。


「疑問に思ったことを口に出すのは、べつだん悪いことでもあるまい。シリィ=ロウも、そう目くじらをたてるな」


「でも――!」


「さあ、とにかくロイは後片付けだ。シリィ=ロウだって、自分の仕事があるのだろう?」


 シリィ=ロウは最後にロイの顔をひとにらみしてから、「ふん!」と自分の作業場に戻っていった。

 ロイは頭をかきたかったが、手の先は香草の粉末まみれであったので、それもままならない。


「いつも面倒をかけちまって申し訳ないですね、ボズル。俺も騒ぎを起こすつもりはないんですけど……」


「なあに、ジャガルの厨なんて怒号が飛び交うのが当たり前だったから、こんなていどじゃあ騒ぎと呼ぶ気にもなれないさ」


 ロイが正式に弟子と認められて以来、ボズルの態度はいっそう気さくなものになっていた。もしゃもしゃと髭をたくわえた厳つい顔にも、陽気な笑みが浮かべられている。


「……ボズルはもともとジャガルの料理人で、数年前にヴァルカスに弟子入りしたって話でしたよね?」


 汚れた皿を洗いながらそのように問うてみると、ボズルは「ああ」とうなずいた。


「俺のもともとの師匠が、例のトゥラン伯爵家の前当主に招待されてね。俺はその手伝いで、ジェノスまで連れてこられたんだけど……そこでヴァルカス殿と巡りあうことになったのさ」


「その頃から、ヴァルカスはトゥラン伯爵家の料理長だったんですか?」


「いや、ヴァルカス殿もようやく頭角を現したころで、俺の師匠と同じように、屋敷に初めて招かれた立場だったんだ。それで、俺の師匠とヴァルカス殿で、ジャガル料理の味比べをさせられたんだけど……まあ、結果はご想像の通りさ」


「ヴァルカスの圧勝ですか。でも、ジャガル料理じゃあ香草の出番もないですよね?」


「あの頃はもう食材の流通をトゥランの伯爵様が牛耳ってたから、ヴァルカス殿もなかなか香草を扱えないような状況だったんだよ。だからこそ、伯爵様に自分の腕を売り込みたかったんだろうな」


 昔を懐かしむように目を細めながら、ボズルはそのように言葉を重ねた。


「それでも、身銭を切って香草を買いつけて、独自に修練を積んでいたようだけどね。香草を使わないジャガル料理でも、それは見事なものだったよ。……で、うちの師匠を完膚なきまでに叩きのめした上で、トゥラン伯爵家のお抱え料理人になることができたわけさ」


「なるほど。それで、ボズルは師匠を乗り換えたわけですか。……あ、別に、責めてるわけじゃないですよ?」


「いいさいいさ。俺が不義理だったことに違いはないからな。……でも、そうせずにはいられないぐらい、ヴァルカス殿の腕に惚れ込んじまったんだよ」


 そう言って、ボズルは豪放な笑い声をあげた。


「しかし、懐かしい話だな。どうしていきなりこんな話を始めたんだ?」


「どうしてって、これまでに聞く機会がありませんでしたからね。……ボズルはいつか、ジャガルに帰るおつもりなんですか?」


「そりゃあまあ、西の地に骨をうずめるつもりはないがね。でも、ヴァルカス殿の技量は底が知れないから、数年ていどじゃあまったく学びきれないんだよな」


 それは確かに、その通りなのだろう。それだけの料理人であるからこそ、ロイはヴァルカスに弟子入りを願ったのである。


「それじゃあ、シリィ=ロウはどうなんです? あいつはもともと、いいところのお嬢さんだったんでしょう?」


「うん? シリィ=ロウの話が聞きたいなら、本人に聞けばいいじゃないか」


「……あいつが俺に、そんな話を聞かせてくれると思いますか?」


「本人が聞かせたくないなら、俺も迂闊に語るわけにはいかんなあ」


 そうしてひとしきり笑ってから、ボズルは遠くのかまどで鍋を煮込んでいるシリィ=ロウの後ろ姿を見やった。火を使う作業をしているので、頭から布の頭巾をすっぽりとかぶっている。


「それじゃあまあ、シリィ=ロウに怒られない範囲で……いいとこのお嬢さんって言っても、シリィ=ロウは旧家の出なんだよ。そいつは、ロイも知ってるだろう?」


「ええ。自由開拓民の末裔ってやつですよね。それがどうしてそんなにありがたがられているかは、よく知りませんけど」


「もともとこの土地は、自由開拓民の領土だったんだろう? それをジェノス侯爵家に受け渡す代わりに、それなりの身分を与えられたっていう話なんじゃないのかね。まあ、俺だってこの数年間で小耳にはさんだだけの話だけどさ」


 ボズルは笑顔で、そのように語らってくれた。


「ただ、家柄はよくてもそれほど裕福だったわけじゃなく、もともとシリィ=ロウも自分の家で料理を作ったりしていたらしい。それで、ロウ家がジェノスの貴族と会食することになって……そこでヴァルカス殿と巡りあったっていうことらしいな」


「料理人を志していたわけでもないのに、ああまでヴァルカスに心酔することになったんですか?」


「ああ。吟遊詩人風に言うなら、運命の出会いってやつなのかね。弟子入りについては親とかなりもめたみたいだけど、最後にはシリィ=ロウが自分の意思をつらぬいたってわけだ」


「それよりも、ヴァルカスに弟子入りを認められたことのほうが、驚きですね。だって、ただ家で家族の料理を作っていただけの、お嬢さんだったわけでしょう?」


「天賦の才ってのは、そういうものさ。俺はもちろん、一番弟子のタートゥマイ殿だって、たかだか2、3年でシリィ=ロウに追い抜かれることになってしまったわけだしな」


 シリィ=ロウは18歳なので、2、3年前ならば15、6歳だ。そんな小娘が、すでにトゥラン伯爵家のお抱え料理人となっていたヴァルカスに腕を認められるなんて、ちょっと尋常な話ではないだろう。


「えーと、タートゥマイなんかは、もう10年来の弟子なんでしたっけ?」


「ああ。だけどタートゥマイ殿は、自分の身を立てることよりも、ヴァルカス殿を支えることに生き甲斐を見出してるんじゃないのかな。あの人の腕なら、いつだって自分の店を出せるはずだ」


「それはボズルやシリィ=ロウも同じことでしょう。まだ小娘のシリィ=ロウはともかく、ボズルはどうして自分の店を持とうとしないんですか?」


「それはさっきも言った通りさ。まだまだ学んでる最中なんだから、とうていヴァルカス殿のそばを離れる気にはなれないね」


 ロイは洗い終えた皿を織布で拭きながら、ふっと息をついてみせた。


「何だか、おっかない話ですね。自分もヴァルカスから離れられなくなるんじゃないかって、ちょいと不安になっちまいますよ」


「ふふん。だったら、たゆまず精進することだな。まあ、ロイやシリィ=ロウは若いから、俺なんかよりは飲み込みも早いだろうさ」


 そう言って、ボズルは髭面を近づけてきた。


「それで、お前さんはどうなんだ?」


「え? 何がです?」


「だから、どういう心持ちで、ヴァルカス殿に弟子入りを願ったんだ? トゥラン伯爵家の世話になっていたころは、俺たちのほうに近づいてこようともしなかったのにさ」


「それはだって……俺はいつか、料理長の座をぶん取ってやるんだっていう気構えでしたからね。そういう相手と馴れ合う気持ちにはなれなかったんですよ」


「へえ、ヴァルカス殿を打倒するつもりだったのか! そいつは、たいそうな気構えだ!」


「あ、あんまり大声を出さないでくださいよ。シリィ=ロウが見てるじゃないですか。……あのころはヴァルカスの料理なんて、味見ぐらいでしか食べたことがなかったから、そんな大それたことを考えちまったってだけのことです」


「ふうん。だけど、そんな相手に弟子入りを願うってのは、どういう心境の変化だったんだ? ロイはわざわざ《銀星堂》の料理を食べに来て、その上で弟子入りを願ってきたんだったよな」


「それはだから……まあ、話せば長い話ですよ」


 ロイがそのように答えると、ボズルはにんまり微笑んだ。


「長い話なら、立ち話で済ませるわけにもいかんな。ここはひとつ、酒場にでも足を向けてみるか」


「ええ? 明日だって、朝一番から仕込みの仕事ですよね?」


「外で食事をするのも、立派な修練さ。……おおい、シリィ=ロウ、歓迎会がてら、今日はロイと食事にでも行かんか?」


 頭巾をかぶったシリィ=ロウが、その穴ごしに毅然とした眼差しを向けてきた。


「いいでしょう。わたしも一度、あなたとは腰を据えて語るべきだと思っていました」


「決まりだな。支払いは俺が受け持つから、心配するな」


 いよいよジャガルの民らしい強引さと気さくさである。しかし、兄弟子からの誘いをじゃけんにすることもできず、ロイは「はあ」と溜息まじりに応じるしかなかった。


                    ◇


《銀星堂》においては、ほとんど毎日遅くまで仕事が為されている。客を招くのは数日に1度であるのだが、仕込みの作業と調理の修練で、朝から晩まで厨にこもることになるのだ。


 よって、3人が《銀星堂》を出たとき、外界はとっぷりと日が暮れていた。街路を歩く人間の数もまばらで、遠くでぽつぽつと灯籠の火が揺れているばかりである。夜の早い人間であれば、もうぐっすりと寝入っている頃合いであろう。


「それじゃあ、行こうか」


 シムの硝子で囲いのされた灯籠に火を灯し、ボズルが先頭を切って歩き始める。シリィ=ロウと並んでその後を追いながら、ロイはまだ躊躇いの気持ちを打ち消せていなかった。


「俺は通いですからかまいませんけど、ふたりは住み込みなんですよね? わざわざ外に出て食事をするなんて、馬鹿馬鹿しくないですか?」


「馬鹿馬鹿しいどころか、楽しくてたまらんよ。たいていは自分たちの料理の味見で腹いっぱいになってしまうから、外食自体が珍しいことだからな」


「……今日は腹いっぱいじゃないんですか?」


「外食に備えて加減したから、いまにも腹が鳴りそうだよ」


 ロイが溜息を噛み殺していると、隣を歩いていたシリィ=ロウが横目でにらみつけてきた。


「往生際が悪いですね。そんなにわたしたちと行動をともにするのが、気に食わないのですか?」


「そんなことはねえけどよ。ただ、明日の心配をしているだけさ」


 ヴァルカスの家――というか、《銀星堂》の2階で暮らしているシリィ=ロウたちは、どんなに朝が早くとも、階段をおりればもう仕事場なのだから、それほど苦労もないのだろう。しかし、自分の家から通っているロイは、毎朝日も昇らぬうちから身支度を始めなければならないのだ。


「弟子が3人までってのは、部屋の数も考えてのことだったのかもな。だけどまあ、それでも弟子の座を勝ち取ったロイは、大したもんだよ」


「ふん。1年近くもわたしたちにつきまとっていたのですから、腕が上がるのは当然です」


「おやおや、一番面倒見がよかったのはシリィ=ロウだったのにな。ロイの弟子入りが認められたときも、あんなに喜んでいたじゃないか?」


「あ、あれは……わたしから菓子作りの技を盗んでおいて、ぶざまな結果をさらすことが許せなかっただけです!」


 シリィ=ロウは顔を赤くして、ボズルの逞しい背中をにらみつけていた。

 頭をかきながら、ロイは再び溜息を噛み殺す。


「なあ、あんまり騒ぐと、衛兵を呼ばれちまうぞ? 世間様では、もう寝ててもおかしくない刻限なんだからな」


「わ、わかっています! 何ですか、まるで他人事みたいに!」


「騒いでるのは、俺じゃねえからなあ」


 そうして四半刻ほど歩くと、ボズルはようやく足を止めた。


「ああ、ここだここだ。暗いから、うっかり通りすぎるところだった」


 それはずいぶん小さな煉瓦造りの建物で、看板には《ライオウの羽ばたき亭》と刻みつけられていた。


「えーと、ライオウっていうのは、ジャガルの珍しい鳥でしたっけ?」


「ああ。ここはなかなか、美味いジャガル料理を出すんだよ」


 シリィ=ロウは、とてもうろんげにその建物を眺め回していた。


「ボズルの言うことなら間違いはないのでしょうが、このような料理店の名は初めて耳にしましたね」


「料理店じゃなく、酒場だからな。こんな刻限まで新規の客を入れる料理店はないだろうさ」


 ボズルは灯籠の火を消すと、恐れげもなくその扉を引き開けた。

 とたんに、人間のざわめきとさまざまな香気があふれかえってくる。さすがジャガル料理を売りにしているだけあって、タウ油やケルの根の香りが強い。


「ここの主人は他の料理屋のツテを辿って、トゥラン伯爵家からジャガルの食材を買いつけていたんだ。だからまあ、昔からそれなりの料理を出せていたわけさ」


 さして広くもない店内には、ぎっしりとお客が詰め込まれていた。その半数ぐらいが南の民であるせいか、人数以上に賑やかな様相であった。

 その勢いに気圧されたシリィ=ロウが、すすっとロイの背中に身を隠す。見渡す限り、その場には若い娘などひとりとして存在しなかった。


「……ここは城下町なんだから、荒くれ者なんかはいねえと思うぞ?」


「そ、そのようなことは、わかっています」


 などと言いながら、ロイの背中から離れないシリィ=ロウである。その姿を見て、ボズルは愉快そうに笑った。


「何だか、森辺の祝宴を思い出してしまうな。機会があれば、また森辺に招いてもらいたいものだ」


 そんなことを話していると、お盆を掲げた年配の女性が近づいてきた。


「いらっしゃいませ。3名様ですか? 奥のほうに、ひとつだけ席が空いておりますよ」


「それじゃあ、お邪魔しよう。図体がでかくて、申し訳ないね」


「とんでもない。さあ、どうぞ」


 酔漢たちの合間をぬって、店の奥へと歩を進める。案の定、シリィ=ロウはロイの背中の布地をぎゅうっと握りしめていた。


(まあ、いいとこのお嬢さんだったんなら、こういう騒ぎが苦手なのも当然か)


 もちろんロイとて、このような酒場に出入りした経験はなかったが、どうせ客筋は城下町の民か、通行証を獲得した豪商などである。どれだけ賑やかでも、ロイたちに危険を及ぼすような人間は存在しないはずだった。


 空いていた卓は4人掛けであったので、身体の大きなボズルがその片面を占領し、ロイはシリィ=ロウと並んで座る。そこは壁際の隅の席であったので、シリィ=ロウもほっと安堵しているようだった。


「俺は、ニャッタの発泡酒をいただこう。ふたりは、どうするね?」


「俺は白の果実酒を、シールの果汁で割ってくれ」


「わ、わたしもそれでお願いします」


「料理は、適当につまめるものをお願いするよ。もちろん、ジャガル料理でな」


「かしこまりました。少々お待ちくださいね」


 いったん引っ込んだ給仕の女が、酒杯を盆にのせて戻ってくる。木造りの、小さな樽みたいな形状をした酒杯で、持ち手と縁取りだけが金属製である。あまり見慣れない造りであるので、きっとジャガル風であるのだろう。ボズルは笑顔でその酒杯をひっつかんだ。


「それじゃあ遅ればせながら、ロイの弟子入りを祝して! セルヴァとジャガルに祝福を!」


「祝福を」とひかえめに復唱しつつ、ロイとシリィ=ロウも酒杯を持ち上げてみせた。

 口をつけてみると、注文もしていないのにケルの根の風味が感じられる。ママリアの果実酒にケルの根というのは初めてであったが、まあなかなかの調和を見せていた。


「さて、それじゃあ聞かせてもらおうか。ロイはどういった心境の変化があって、ヴァルカス殿に弟子入りすることになったんだ?」


「え? それは、何の話です? ロイに料理人としての心がまえを教授するのではないのですか?」


 いぶかしげに眉をひそめるシリィ=ロウに、ボズルは白い歯を見せる。


「それにはまず、ロイの心情を知っておく必要があるだろう? トゥラン伯爵のお屋敷では俺たちを目の敵にしていたロイが、どうして弟子入りを願うことになったんだ?」


「別に、目の敵になんてしていませんよ。俺は世間知らずの小僧だったから、恐れ多くもヴァルカスに挑もうと考えちまっていただけです」


「それじゃあ、どこで世間を知ることになったのかな?」


 ボズルはどうしても、その話を捨て置いてはくれないようだった。

 ロイはケルの根とシールの果汁で風味の足された果実酒をもうひと口飲んでから、しかたなく白状する。


「最初に俺を打ちのめしてくれたのは、あのアスタのやつですよ。知ってるでしょう? あいつがお姫さんにさらわれたとき、面倒を見させられていたのは、俺なんです」


「ほうほう。アスタ殿か。自分よりも年若いアスタ殿があれほどの腕前を持っていたことに、打ちのめされてしまったということかな?」


「年齢は、おまけみたいなもんですね。それを言ったら、シリィ=ロウだって年少ですし」


「なるほど。わたしごときの腕前では、あなたを打ちのめすことはできないということですね」


「誰もそんなことは言ってねえだろ。お前の作ったもんを初めて口にしたときには、ぞんぶんに打ちのめされることになったよ」


 シリィ=ロウは、意表を突かれた様子で顔を赤くしていた。


「こ、心にもないことを言っているのではないですか? あなたの言動には、まったく敬意というものが感じられません」


「そういうもんを表に出すのは苦手な性分だから、勘弁してくれ。心の中では、大したやつだってずっと思ってたよ」


 酒の勢いとその場の空気で、ロイもそのように言葉を重ねてしまった。

 シリィ=ロウは赤くなった顔を隠すように、酒杯を口に運ぶ。


「ただ、俺がアスタに打ちのめされたのは、年齢よりも出自のほうが原因だと思います。本当なら城下町に入ることも許されない下賤の人間が、どうしてこんな凄い腕を持ってやがるんだって……そんな風に考えちまったんでしょうね」


「ふむ。しかしアスタ殿は、渡来の民だったからな。聞くところによると、アスタ殿の故郷ではずいぶんと食材が豊富で、しかも安値であったようだし……それで修練を積み重ねて、あれだけの腕を身につけることになったのだろう」


 そのように述べてから、ボズルは酒杯を掲げて「もう一杯」と声をあげた。料理も届かぬうちに、最初の一杯を飲み干してしまったらしい。


「しかし、アスタ殿というのは、きわめて特殊な存在だ。そんなアスタ殿の存在だけで、ロイは打ちのめされてしまったのか?」


「いや、問題はその後でしょうね。アスタのせいで揺さぶられた心情に、次から次へと追い討ちをかけられることになったんですよ」


 その追い討ちをかけたのは、森辺の女衆たちと、そしてミケルの娘であるマイムであった。


「アスタにちょいと手ほどきされただけで、森辺の娘たちはたいそうな料理を作れるようになっていました。それに、ミケルは城下町から追い出されちまったのに、娘をあんな立派な料理人に育てていて……それですっかり、俺の自信ってやつは木っ端微塵にされちまったんですよ」


「ふむ。しかし森辺の娘さんたちも、それなりの熱情をもって料理に取り組んでいたからこそ、あれだけの腕を身につけることができたんじゃないのかな」


「それですよ。その熱情ってやつに、俺は打ちのめされたんだと思います。俺は昔からけっこう小器用で、何でもそつなくこなせるような人間だったから……あんな風に熱情を剥き出しにする人間を、内心で小馬鹿にしていたんだと思います」


 ロイの脳裏には、レイナ=ルウの姿が思い浮かんでいた。

 あの、明るく輝く青い瞳は、ことあるごとにロイの心を揺さぶってやまなかった。美味なる料理を作りあげたいという、そのひたむきなまでの熱情に満ちた眼差しが、どうにも忘れられないのだ。


「俺は宿場町でミケルの娘さんと出会って、その腕前に打ちのめされました。それでも何くそと思って、ひとりで勉強を重ねていたんですけど……どうにも上手くいかないから、もういっぺんアスタたちの屋台に出向いたんですよ。それで、ひさかたぶりに森辺の娘たちの料理を食べて……完膚なきまでに、自信をぶっ潰されることになっちまったんです」


「あなたは以前にも、そのように語っていましたね。……その森辺の娘というのは、レイナ=ルウのことなのですか?」


「ん? まあそうだけど、よくわかったな」


「……だってあなたは、いつもあの娘のことを目で追っているではないですか」


 シリィ=ロウが、じっとりした目つきでそのように言う。ロイは顔をしかめながら、果実酒をあおってみせた。


「言いがかりはよしてくれよ。それに、俺が打ちのめされた料理ってのは、シーラ=ルウと一緒に作ったものだって言ってたからな。俺の自信を打ち砕いてくれたのは、あのふたりさ。ミケルの娘さんの料理で亀裂だらけになってた自信が、それで木っ端微塵にされたわけだな」


「そうか。ロイはミケル殿と同じ店で働いていたのだったな。だからいっそう、思い入れも強いわけか」


 ボズルが口をはさんできたので、ロイは「いえ」と首を振ってみせる。


「俺はそんなことを言える立場じゃありません。俺は……ミケルがひどい目にあわされたことを知っていながら、トゥラン伯爵家で働く道を選んだんですからね」


 ロイの胸に、鈍い痛みが走り抜けた。

 それを誤魔化すために、ロイはまた果実酒を咽喉に流し込む。


「……あの、こんな話は面白くもないでしょう? 湿っぽくなるいっぽうだし、もうやめませんか?」


「いや、俺はめっぽう面白いね。もっとくわしく聞かせてもらいたいものだな」


「ええ。わたしも興味深く聞いています」


 羞恥ではなく酒気で顔を赤くしたシリィ=ロウが、ずいっと身体を近づけてくる。


「それで、あなたはどうして《銀星堂》の門を叩くことになったのですか? アスタやマイムや森辺の娘たちに打ちのめされたのなら、そちらの陣営に下るべきだったのではないですか?」


「陣営って何だよ。ヴァルカスはアスタたちと戦ってるわけじゃねえだろ?」


「しかし、ヴァルカスはアスタやミケルを好敵手と呼んでいました。敵と腕を競うなら、それは戦も同然ではないですか」


 勢い込んで言ってから、シリィ=ロウはわずかに眉を下げた。


「……もちろんわたしも、彼らを敵と思っているわけではありません。でも、あなたの行動は不可解に感じられるので、説明を求めたいと思います」


「別にそんな、たいそうな話じゃねえよ。いまの俺に必要なのは、ヴァルカスの力だと思っただけさ。それを確かめるために、俺は《銀星堂》の門を叩いたんだ」


 当時のことを思い出しながら、ロイはそのように答えてみせた。

 ヴァルカスの所在を探しあてたロイは、ひとりの客として《銀星堂》に予約を入れ、さんざん待たされたあげくに、ようようヴァルカスの料理を口にし――そうして、自分の判断が正しかったことを確信したのである。


「俺はミケルを尊敬してたけど、やっぱり作法が違いすぎる。俺がミケルの弟子になるとしたら、これまでに学んできたことをいったん全部捨てなきゃならなかったはずだ。せめてもっと、自分の中の軸っていうのかな、そういうもんをしっかり固めない限り、ミケルの弟子になっても意味はないって思ったんだ」


「それじゃあ、あなたは……ヴァルカスのもとで技術を学んだら、今度はミケルに弟子入りしようと目論んでいるわけですか?」


 沈静しかけていたシリィ=ロウの目に新たな炎が燃えあがり、間近からロイをにらみつけてくる。思わずのけぞりながら、ロイは「違うよ、馬鹿」と答えてみせた。


「いくら何でも、そんな不義理なことができるもんか。それに、さっきも言っただろう? トゥラン伯爵家でのうのうと働いていた俺が、ミケルに弟子入りなんてできるかよ」


「それでしかたなく、ヴァルカスに弟子入りを願ったということですか?」


「だから、違うって。俺に必要なのはヴァルカスの力だって、心からそう思ったんだよ」


 それでもシリィ=ロウはぐいぐいと顔を近づけてきたので、ロイも言葉を重ねるしかなかった。


「確かに俺は、ミケルのことを誰よりも尊敬していた。俺がこれまでで一番美味いと思ったのは、ミケルの料理だったんだ。だけど、俺だって……俺だって、自分のやってきたことを否定したくなかったんだよ。だから俺は、俺のやりかたでミケルに負けない料理人になりたいと願ったんだ」


「それに、ヴァルカスがどう絡んでくるというのです?」


「どう絡むも何も、俺が目指す味の終点にいるのは、あの人だろ。俺はあの人の持っている技を、すべて学んで……ゆくゆくは、さらにその先を見たいと思ったんだ」


「その先?」と、シリィ=ロウはうろんげに目を細める。

「ああ」と、ロイはうなずいてみせた。


「ヴァルカスとミケルがおたがいのことを知ったのは、5年ぐらい前の話だって言ってただろ? ヴァルカスはミケルより若いけど、それでも35歳ぐらいだったはずだ。その頃にはもう三大料理人なんて呼ばれてたから、自分の軸ってのはすっかり固まりきった後だったんだろう」


「……それが、何だというのです?」


「ヴァルカスはすでに完成されてたから、ミケルの技や理念ってやつを取り入れることができなかった。でも、俺はまだこんな若造のうちから、ミケルとヴァルカスの両方を知っている。これだったら、ヴァルカスのできなかったことを成し遂げられるんじゃないかって……そんな風に思ったんだよ」


 間近に迫ったシリィ=ロウの瞳を見返しながら、ロイはふっと苦笑する。


「もちろん、そんな風に筋道立って考えられるようになったのは、つい最近のことだけどな。俺はまず、ヴァルカスみたいな料理人になりたい。その上で、ヴァルカスにもできなかったことを成し遂げたいんだ」


「……ようやく弟子入りを認められた分際で、よくもそこまでの大口を叩けるものですね」


「ああ。気を悪くさせたんなら、謝るよ」


「ふん!」と盛大に鼻を鳴らしてから、シリィ=ロウはようやく身を引いてくれた。


「師匠を超えたいと願うのは、当たり前の話でしょう。そのていどの気概もなくて、弟子などはつとまりません」


「ふふん。タートゥマイ殿はそのように考えていないかもしれないが、まああのお人はヴァルカス殿よりもご老齢だからな」


 3杯目の酒を所望しながら、ボズルは豪快に笑っていた。


「しかし、ロイの気持ちは痛いほどわかるぞ。ロイばかりでなく、シリィ=ロウも、アスタ殿も、マイム嬢も、まだまだこのように若い身で、ヴァルカス殿とミケル殿の両方を知ることができたのだ。それがどれほどの財産であるか、という話なのだろうな」


 そう言って、ボズルはにっと白い歯を見せる。


「そして俺だって、ロイたちに比べれば年を食ってしまっているが、30を少し過ぎたばかりだ。ヴァルカス殿を超えるという夢を抱いていないわけではない。偉大なる先人たちが切り開いてくれた道を、さらにその先まで切り開くべき立場であるのだろうよ」


「いまはまだ、わたしたちなどヴァルカスの足もとにも及んでいませんけれどね」


「ああ。いまはまだ、な」


「ええ。いまはまだ、です」


 シリィ=ロウは、ぐりんとロイに向きなおってきた。


「言ってみれば、わたしたちは山麓に、ヴァルカスは山頂にあるのです。その山頂をも飛び越えて空を翔けるには、血のにじむような修練を続けるしかないことでしょう」


「ああ、うん、そうだと思うよ」


「……ではまずあなたは、心がまえから学ぶべきです。ヴァルカスに対してはもちろん、兄弟子であるわたしたちに対しても、あまりに態度がなっていません」


「そこに話が戻るのかよ」


 ロイが苦笑したとき、給仕の女が大きな盆を手に近づいてきた。


「どうもお待たせいたしました。ジャガル風の煮込み料理と、カロンの胸肉の窯焼きです。それに、発泡酒のおかわりですね」


「ああ、ありがとう。こいつは美味そうだ」


 卓の上に、料理と酒杯が並べられていく。タウ油の濃厚な香りが、心地好く鼻をくすぐった。


「さあ、こいつをいただきながら、話の続きを楽しもうか。今日は長い夜になりそうだな」


「勘弁してくださいよ」と応じつつ、ロイも妙に浮きたった気持ちになってしまっていた。

 ボズルやシリィ=ロウの存在が、これまでよりもぐっと近くに感じられる。思えばロイは、彼らがどのような心情でヴァルカスのそばにあるのかも、これまではまったく聞かされていなかったのだった。


(ヴァルカスに心酔してるシリィ=ロウでさえ、師匠超えを考えていたとはな。……まあ、それが当たり前の話なのか)


 シリィ=ロウはすいぶん酒が回っているようであったが、それでも真剣な眼差しで卓上の料理を見据えている。料理を楽しもうなどという気持ちはなく、勉強の材料ぐらいにしか考えていないのだろう。その心がまえが全面的に正しいとは思えないものの、そのひたむきさはとても好ましく感じられた。


「そんなまじまじとシリィ=ロウの横顔を見つめて、どうしたね? 酒気に染まった顔の色っぽさにやられちまったのか?」


 ボズルが人の悪いことを言うと、シリィ=ロウはいっそう顔を赤くしてロイをにらみつけてきた。


「な、な、何を言っているのです! 不埒なことを考えているのなら、許しませんよ!」


「言ったのは俺じゃなくてボズルだろ。何で俺が怒鳴られなきゃいけねえんだよ」


「う、うるさいです! もう!」


 顔どころか首まで赤くしながら、シリィ=ロウはそっぽを向いてしまう。

 そんな仕草にも普段以上の親しみを感じつつ、ロイはボズルおすすめのジャガル料理にいざ挑むことにした。

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