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異世界料理道  作者: EDA
第三十八章 群像演舞~四ノ巻~
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第八話 ひとたびの交錯

2018.10/20 更新分 1/1

 ドンダ=ルウがその奇妙な男の存在を知ったのは、およそ19年前――ドンダ=ルウが、24歳の頃であった。

 場所はスンの集落で、時は青の月の10日。すべての氏族の家長たちが集う、家長会議においてのことである。


 当時のドンダ=ルウは、いまだ家長ならぬ身であった。しかし、家長にして父親たるドグラン=ルウがギバ狩りの仕事で足を痛めてしまったため、その代理としてスン家に乗り込むことになったのだ。


「いいか、スン家の連中にどれだけ挑発されようとも、決して我を見失うのではないぞ。いずれあやつらには報いを受けさせてやるが……いまはまだ、そのときではないのだ」


 出立前、ドグラン=ルウはしつこいぐらいにそう繰り返していた。

 この家長会議から2年ほど前に、ルウ家とスン家の関係には修復し難い亀裂が入ってしまったのだ。ドンダ=ルウとともに家長会議に出向いた、分家の家長――ドグラン=ルウの弟たる男衆も、その全身から真摯と緊迫の気配をみなぎらせていた。


 また、眷族の家長たちも、それは同様である。祭祀堂に到着し、親筋たるドンダ=ルウたちを囲むように座した家長たちは、まるでギバを眼前に迎えているかのごとく、勇猛なる面持ちになっていた。


「ドンダ=ルウが出向くのなら、俺もともに出向きたかったぞ! スン家の連中は、この手でぶちのめさなければ気が済まんからな!」


 ルティムの長兄たるダン=ルティムなどは、そのように述べていたものだった。

 しかし、ドンダ=ルウよりも血の気の多いダン=ルティムがこの場にいたならば、とんでもない騒ぎになっていたかもしれない。スン家の者どもは、家長会議が始まるなり、ドンダ=ルウたちに嘲笑をあびせかけてきたのだった。


「勇猛と名高きルウの家長が、ギバに遅れを取るとはな。家長会議におもむけぬほどの手傷を負ったのなら、とっととそこの頼もしい長兄に跡目を継がせればよかろうに」


 そのように述べていたのは、スンの分家の家長たるミギィ=スンであった。

 異様にせり出た眉の下で、獣のごとき双眸を燃やす、異相の巨漢である。族長ザッツ=スンのかたわらに座したミギィ=スンは、乱杙歯を剥き出しにして醜く笑っていた。


「そのようにぶざまな姿をさらしながら家長の座にしがみつこうなどとは、まったく嘆かわしいことだ。お前もそう思わんか、ルウの長兄よ?」


「……ギバ狩りの仕事を果たしていれば、手傷を負うこともある。そのようなことで同胞を悪し様に罵ろうなどと考える人間は、ルウの血族に存在しない」


 内心の激情を懸命に押し殺しながら、ドンダ=ルウはそのように答えてみせた。

 ミギィ=スンは、「はん!」と口もとをねじ曲げる。


「それはお優しいことだ。勇猛で知られるルウの血筋も、代を重ねるにつれて柔弱の気をおび始めたということか」


「貴様! いつまでもその口を閉ざさぬ気なら、ルウの子たる俺たちが相手になるぞ!」


 レイの家長が、怒号をあげながら立ち上がろうとする。

 それを、ルティムの家長が「やめよ」と掣肘した。


「親たるルウの者たちがこらえているのに、子たる我々が騒いで何とする。我らが刀を取るのは、ルウの家長の許しを得てからだ」


 レイの家長はぎりぎりと歯を噛み鳴らしながら、その場に座りなおした。

 ルティムの家長は、静かだが刃物のように鋭い眼光を、上座の族長に突きつける。


「すべての家長がそろったのだから、会議を始めるがよろしかろう。最初の議題は、何なのだ?」


「ふん。最初の議題か……それはやはり、滅びに瀕している腑抜けどもを叱咤するべきであろうな……」


 重々しい地鳴りのような声音で、ザッツ=スンはそう言った。

 ミギィ=スンにも劣らぬ巨体で、ミギィ=スンをも上回る迫力を有する、森辺の族長である。ミギィ=スンは野獣じみていたが、こちらのザッツ=スンは野獣そのものだ。このザッツ=スンは、ドンダ=ルウがこの世で唯一、父親たるドグラン=ルウよりも強大な力を感じる狩人であった。


(こやつと顔をあわせるのは、2年ぶりだが……いまだ、俺の力は届かぬか)


 ドンダ=ルウは、怒りと無念の激情を胸の中でねじふせていた。

 ザッツ=スンは、ミギィ=スンよりも邪悪な顔で笑っている。


「森辺の民は、わずかずつでも民の数を増やしつつある……しかしその中で、血族を増やせずに滅びに瀕している氏族も多い。リリン、クゥラ、ファの家長よ、立ってその姿をさらすがいい……」


 ザッツ=スンの言葉を受けて、3名の家長が立ち上がった。

 いずれもドンダ=ルウと同じか、あるいはそれよりも若く見える狩人たちである。とりわけその中でも、ファの家長などはずいぶんな若衆であるようだった。


「貴様たちは眷族もなく、分家の人間を本家に招き入れて、ようよう家の名を残しているという話であったな……そのような生き恥をさらすぐらいであれば、氏を捨てて力のある家の家人になるべきではないのか……?」


「はい。我々もそのように考えて、ガズの家人になる道を選ぶことにいたしました」


 クゥラの家長が、目を伏せてそのように応じていた。

 きっと、ザッツ=スンやミギィ=スンが恐ろしくてたまらないのだろう。ドンダ=ルウの目から見ても、それは家長の名に値しない狩人であった。


(しかし、残りのふたりはずいぶん肝が据わっているようだな)


 ドンダ=ルウがそのように考えていると、ザッツ=スンが「ふん……」と鼻を鳴らした。


「ようやく自分たちがどれほどの恥をさらしているかを、思い知ったわけか……しかし、何故にガズなのだ……?」


「は……ガズはもっとも近在にあり、水場もともにしているため、かねてより絆を深めていたのです」


「ふん……貴様らの血が、ガズの力を弱めないことを祈るばかりだな……」


 そうしてザッツ=スンは、残りの2名に燃えるような眼光を突きつけた。


「では、貴様たちはどうなのだ……? まずは、リリンの家長から答えよ……」


「うむ。確かに我々は眷族も分家も失ってしまったが、近在にはルウかサウティの眷族しかない。我々のように力なき氏族が血の縁を求めるのは、あまりにおこがましいように思えてしまうのだ」


 気負うことなく、リリンの家長はそのように答えていた。

 ドンダ=ルウと同じぐらいの年齢で、すらりとした体躯の狩人である。その表情は涼やかで、ザッツ=スンをむやみに恐れている様子もなかった。


「いましばらく力を蓄えて、ルウやサウティの眷族に相応しい力を持つことができたら、血の縁を求めたいと願っている。それがかなわなかった場合は……やはり、氏を捨ててでも家人になることを願う他あるまい」


「なるほど……では、リリンの家がルウの眷族となることもありえる、ということか……」


 ザッツ=スンの岩塊じみた顔に、威圧するような笑みが浮かべられた。

 リリンの家長は猛風になぶられる一枚布のごとく、それをふわりと受け流している。


「それほどの力を持つことができれば幸いであるが、どうであろうかな。勇猛で知られるルウ家であれば、生半可なことでは眷族となることを許さぬはずだ」


 リリンの家がルウの眷族となるのは、これより十数年後のことである。

 しかしそれは、リリンの家が力をつけたからではなく、この当時から家長であったギラン=リリンがレイの女衆に心を奪われたためであった。

 しかし、そのような行く末を予見できる人間がいようはずもない。ザッツ=スンはギラン=リリンの姿を値踏みするようにねめつけながら、また「ふん……」と鼻を鳴らした。


「氏を捨てる覚悟があれば、近在の氏族にこだわる必要もあるまい……家人の数が10名やそこらであれば、家屋を捨てて、力のある氏族の集落に移り住めばいいだけのことなのだからな……」


「なるほど。そのような考えもあるのだということを、念頭に置いておこう」


 ザッツ=スンはひとまず満足した様子で、最後のひとりに目を向けた。


「では、ファの家長よ……貴様はこの先、どのように血族を導いていく心づもりであるのだ……?」


「俺はとりたてて、何も考えてはいない」


 ファの家長は、至極あっさりとそのように言ってのけた。

 たちまち、ザッツ=スンの双眸に炎が渦巻く。


「何も考えてはいないとは、どういうことだ……? 貴様は血族を導く立場であろうが……?」


「うむ。しかし俺は、あるがままに生きることを信条にしている。いまでも健やかに生きることはできているので、ことさら新しい道を探そうとは思わない」


 他の家長たちが、ざわめき始めた。

 ファの家長の言葉に驚いたのではなく、ザッツ=スンの怒りを恐れているのだ。

 ザッツ=スンは、いまや業火のごとき眼光で、ファの家長の姿をにらみすえていた。


「そのような生き恥をさらしながら、よくも健やかに生きているなどと言えたものだな……ファの家には、何人の家人が残されているのだ……?」


「俺を含めて、5名だな」


「5名……それでそんな、老いぼれた狩人を引き連れているわけか……」


 ファの家長の足もとに座しているのは、髪に白いものが混じり始めた初老の男衆であった。家長会議の供に長老を連れてくる人間もいなくはないが、ファの家の場合は他にめぼしい狩人がいなかっただけのことなのだろう。


「わずか5名の家人では、血の縁を広げることもできまい……それとも、近在の氏族と婚儀をあげる予定でもあるというのか……?」


「いや。俺もフォウの家に婚儀の話を持ちかけられたのだが、それは断ることになってしまった」


「……では、ファの氏とともに滅びようという考えであるのか……?」


「俺たちが滅ぶなら、それは母なる森の思し召しであるのであろう。それを嘆いて、無駄にあらがう気にはなれん」


 ザッツ=スンは、巨大な拳で床を殴打することになった。


「貴様のような腑抜けがいるから、我々は町の人間に軽んじられるのだ……! 我々が誇りをもって生きるには、より強き力を持つしかないのだぞ……?」


「ふむ。しかし我々は、森辺の掟を守りながら、ギバ狩りの仕事を果たしている。町の人間がどう思おうと、何も恥じ入る必要はあるまい」


 ファの家長は、気負う様子もなく、そのように答えていた。

 黒い髪と青い瞳を持つ、とりたてておかしなところのない男衆である。年齢は、まだ20にもなっていないぐらいであろう。背丈は高くも低くもなく、すらりとしたしなやかな体格をしており、顔立ちはなかなかに精悍であるが、表情はやわらかい。さきほどのリリンの家長よりも、いっそう内面の読めない面がまえであった。


「なるほどな……貴様には、誇りを取り戻そうという気概もない、ということか……」


 と、ザッツ=スンの声から怒りの響きが消失した。

 その黒い双眸には、したたるような侮蔑の念が宿っている。


「ならば、好きにするがいい……貴様のような腰抜けにかまっていても、時間の無駄であるからな……」


「そうか。何か失望させてしまったのなら、謝罪しよう」


 ファの家長は目礼して、腰を下ろそうとした。

 そこに、ミギィ=スンの声が響く。


「しかし、ファの家にはたいそう美しい女衆がいるそうだな。ならば、他の氏族と血の縁を結ぶことも難しくないのではないか?」


 さきほどとは異なる緊張とざわめきが、祭祀堂に満ちていった。

 そして――ルウの血族の間には、怒りの情念が燃えあがっていく。


「そのように美しい女衆が、飢えて死ぬなどとは惜しい話だ。どうしてその女衆を、嫁に出そうとしないのだ?」


「ファの家で婚儀をあげていない女衆は、ひとりだけだ。その女衆は、もうじき俺と婚儀をあげることになっている」


「ほう……お前がその女衆を娶るのか。それは、羨ましい話だ」


 ミギィ=スンが、飢えたムントのように舌なめずりをした。


「ならばいっそ、その女衆を手土産にして、スンの集落に移り住んだらどうだ? かくいう俺も婚儀をあげてはいないので、美しい嫁を欲していたところだ」


「族長筋たるスン家の人間にそのような申し出をされるのはありがたい限りだが、俺たちはもう約定を交わしてしまったのだ」


「約定を交わしても、身体を重ねてはおるまい? 婚儀の前にそのような真似をするのは、大きな禁忌であるからな」


 いよいよおぞましい欲情をあらわにしながら、ミギィ=スンがねっとりと微笑んだ。


「……お前たちは、いつ婚儀をあげるつもりでいるのだ?」


「さて。まだそこまでの話は決まっていない」


「では、俺がそれよりも先にその女衆をいただいてやれば、お前たちは晴れてスン家の家人になれるということだな」


 ドンダ=ルウは、怒声をあげようとした。

 しかし、それよりも早く、ファの家長が声をあげていた。


「残念ながら、そのような行く末は訪れない。お前がメイ=ファに指一本でも触れたら、俺がお前を叩き斬ってしまうからな」


「……何だと?」


「メイ=ファが俺以外の男衆を受け入れることはない。だから、お前がメイ=ファに触れれば、それは掟を踏みにじることになる。……たとえ冗談でも、そのように汚らわしい言葉は口にせぬことだ」


 ファの家長は、まったく心を乱した様子もなく、ミギィ=スンの巨体を見返していた。

 いっぽうミギィ=スンは、いよいよ飢えた獣のように笑っている。


「お前のほうこそ、面白い冗談を言うではないか……誰が誰を叩き斬るのだ?」


「俺が、お前をだ。まあ、お前がそのように馬鹿げたことをするわけはないと、俺は信じている」


 そんな風に言ってから、ファの家長はふいに口もとをほころばせた。


「ただ、お前にはよからぬ噂があったからな。万が一のことがあってはならじと思って、忠告しているのだ。魂を返したくなければ、身をつつしんで生きるがいい」


「ほう……お前には、俺をも上回る力が備わっているというのか?」


「うむ。族長ザッツ=スンにはかなわぬが、お前に遅れを取ることはないだろう」


 ミギィ=スンが、腰を浮かせた。

 その瞬間、ドンダ=ルウは吠えてみせた。


「いいかげんにしろ! 貴様はどこまで下劣な人間なのだ、ミギィ=スンよ! 貴様の言葉は、聞いているだけで耳が腐るわ!」


 ミギィ=スンは中腰のまま、醜悪な笑みをドンダ=ルウのほうに差し向けてきた。巨大な獣が獲物に飛びかかろうとしているかのような姿である。


「ふふん……ルウの長兄よ、家長のいない場でスン家に刀を向けるつもりか?」


「貴様が許されざる大罪人であるならば、そうする他あるまい。族長ザッツ=スンとて、異存はないはずだ」


 すると、鋭い眼差しでこのやりとりを見守っていたルティムの家長も、「うむ」とうなずいた。


「ミギィ=スンの言い様は、2年前に大罪を犯したと白状しているも同然に聞こえる。これを斬り捨てたところで、誰にも文句のつけようはあるまい」


 ミギィ=スンは2年前に、ルウに嫁入りをしようとしていたムファの女衆を嬲りものにした、という疑いをかけられていたのだ。その際には証がなかったので罰を与えることもできなかったが、それでルウとスンの絆は完全に断ち切れてしまったのだった。


 ルウの血族の狩人たちは、全員が火のような目でミギィ=スンをにらみすえている。それに反応して、スンの眷族たるザザやドムの狩人たちが気色ばみ――そこに、ザッツ=スンの笑い声が響きわたった。


「誰も彼もが、血の気の多いことだ……沈着で知られるルティムの家長までもが、そうまで我を失おうとはな……」


 名指しされたルティムの家長は、炯々たる眼差しを族長に突きつけた。


「何を笑っている。おぬしもミギィ=スンの言葉を聞いたであろうが?」


「うむ……ミギィ=スンの軽口が過ぎたことは認めよう……しかし、我はミギィ=スンがそのように悪辣な人間でないことを、誰よりもよく知っている……」


 その面に笑みを浮かべながら、ザッツ=スンの巨体からも凄まじい気迫が発散されていた。

 まるでその巨体が、黒い炎に包まれているかのようである。ドンダ=ルウは、その迫力に気圧されぬよう、きつく奥歯を噛みしめることになった。


「2年前の大罪というのは、ムファの女衆のことであるな……? あれは、ミギィ=スンに罪はなかったということで決着したはずであろう……?」


「ああ。あの女衆はルウを滅ぼすために、俺を利用しようとしたのだ。それを斬り捨ててやったのだから、礼を言われたいぐらいだな」


 ムファの家長が、ミギィ=スンに飛びかかろうとした。

 その腕を、ルティムとミンの家長が左右からつかみ取る。これでは、2年前の夜の再現であった。


「軽口を叩くのは、ここまでだ……ミギィ=スンよ、貴様もしばらくは静かにしているがいい……」


 ザッツ=スンの言葉に、ミギィ=スンは浮かせかけていた腰を下ろした。


「族長の言葉に従います。……貴様も口をつつしむことだな、ファの家長よ」


 ファの家長は「うむ」とだけ言って、何事もなかったかのように膝を折る。その姿を見て、レイの家長が舌打ちをした。


「何なのだ、あのとぼけた男衆は。スン家に牙を剥く気概があるのやらないのやら、さっぱりわからんな」


「どの道、滅びかけた氏族ではスン家にあらがいようもない。あのような者は、放っておけ」


 マァムの家長はそのように応じていたが、ドンダ=ルウは何かひっかかるものを感じていた。ドンダ=ルウと同等かそれ以上の力を持つミギィ=スンに対して、あの男衆は平然と自分のほうが強いなどと言ってのけていたのだ。それはただの虚勢であったのか、それとも真情からの言葉であったのか、その取りすました横顔からは判別をつけることができなかった。


(おかしなやつだ……ファの家などとは聞いたこともないが、いったい何なのだ、あいつは?)


 ドンダ=ルウがそんな疑念を抱え込む中、家長会議は進められていった。

 しかし、それほど実のある内容だとは思えない。ザッツ=スンが弱き氏族の家長たちをなじり、ジェノスの人間たちの愚鈍さを説く、ただそれだけの場であるように感じられてしまう。ミギィ=スンの他にもスン家の人間は複数居並んでいたが、族長ザッツ=スンの言葉に口をはさむ人間は、そこにもいなかった。


 とりわけ、本家の長兄であるズーロ=スンなどは、ずっと顔を伏せたまま、父親の言葉を聞き流しているばかりである。ズーロ=スンはザッツ=スンどころか、分家の家長に過ぎないミギィ=スンをも恐れている様子であった。


(あの長兄めは、どうでもいい。厄介なのは、北の一族だ。あいつらさえいなければ、たとえザッツ=スンとミギィ=スンがどれだけの力をもっていようと、我々の力がまさるものを……)


 そんな思いを胸に、ドンダ=ルウはいずれ討ち倒すべき敵の姿を目に焼きつけていた。

 ルウの一族は、決してスン家を許さない。大罪を犯したミギィ=スンも、それを正しく裁こうとしないザッツ=スンも、ドンダ=ルウたちにとっては同胞ならぬ敵に過ぎないのだった。


(たとえどれだけの時間がかかっても、俺たちは必ず貴様らを滅ぼしてみせる。束の間の安寧をむさぼっているがいい)


 そうして日は暮れて、得るもののない家長会議は終了した。

 スン家の女衆の手によって、晩餐の準備が整えられる。ザッツ=スンたちは眷族の家長らに囲まれながら、盛大に果実酒をあおっていた。


 ルウの血族は諍いを避けるために、離れた場所で煮汁をすすっている。それ以外の氏族も、スン家の者たちに文句をつけられないように、誰もが小さく縮こまっている様子であった。


「……俺たちとて、リリンやファの家と大差はない。いずれはクゥラのように、氏を捨てる他ないのだろう」


 耳をすませば、そんな陰気な声が聞こえてくる。

 横目で見ると、女衆よりも小さな体躯をした男衆が、眷族の家長と思しき男衆と語らっていた。


「それでもスドラとミーマには、まだそれぞれ10名以上の家人がいます。あきらめるには、早いでしょう」


「うむ……ともかくは、次代の家長を育てあげねばな」


 なんとも陰鬱なる様相であった。

 それを振り払うように、ドンダ=ルウは果実酒の土瓶を傾ける。そのとき、ふたりの狩人がこちらの輪に近づいてきた。


「失礼する。ルウとムファの家長は、こちらだろうか?」


 それは、ファの家長とその供である初老の狩人であった。

 ミンの家長と語らっていたムファの家長が、うろんげにそちらを振り返る。


「ムファの家長は俺だが、ルウの家長はこの場にいない。家長会議の最初にそう語られたであろうが?」


「ああ、そうだったな。では、誰が家長の代理であるのだ?」


 ドンダ=ルウは「俺だ」と述べてみせた。

 ファの家長は目礼をして、その場に膝をつく。


「さっきはおかしな騒ぎに巻き込んでしまい、申し訳なかった。ムファの家長とその親筋たるルウの人間に、詫びておきたいと思ったのだ」


 ドンダ=ルウは、間近からその男衆と相対することになった。

 やはり外見上は、おかしなところのない姿である。それほど長身ではないが、引き締まった体躯からは瑞々しい生命力が感じられて、首にはドンダ=ルウにも負けない数の牙や角を下げている。凛然としたその顔は、まだいくぶん線が細いようにも感じられるが、あと数年もすればさぞかし狩人らしい風貌になるのではないかと思われた。


「俺はファの家の家長で、ギル=ファという。あのような場で、ルウとムファの話を持ち出すべきではなかった。俺もいささか頭に血をのぼらせてしまっていたので、どうか許してもらいたい」


「ほう……傍目には、落ち着きはらっているように見えたがな」


 ドンダ=ルウがそのように応じると、ギル=ファはふっと微笑んだ。


「愛する女衆を手にかけるなどと言われて、平静でいられるわけがない。お前たちが騒いでくれたおかげで、俺はその間に頭を冷やすことができたのだ」


「ふん……ルウともスンとも縁のない氏族でも、2年前の一件は取り沙汰されているのか?」


「うむ。俺は近在に住むフォウの人間からその話を聞いた。真実はどうあれ、家人を失ってしまったムファの家長に悔みの言葉を届けたい」


「……真実は、お前たちの間で語られている通りだ。俺はあのミギィ=スンめに、家人を奪われた」


 憎悪に震える声で、ムファの家長がそう言い捨てた。

 ギル=ファは「そうか」と目を半分だけ閉ざす。


「ならば俺も、メイ=ファを守るために何らかの策を講じなければならないのだろうか。いつ訪れるかもわからない災厄に備えて、ギバ狩りの仕事を放り出すわけにもいかないのだが……」


「だったら、さっさと婚儀をあげることだ。婚儀をあげて髪を落とした女衆をつけ狙うほど、あのけだものめも酔狂ではあるまい」


 ドンダ=ルウがそのように答えると、ギル=ファは「そうか」と目を見開いた。


「なるほど。それは妙案だ。家に戻ったら、すぐに婚儀の日取りを決めることにしようと思う。助言を感謝するぞ、ルウの長兄よ」


 顔立ちは精悍であるのに、やはりどこかつかみどころのないやわらかさが感じられる。特にその青い瞳には、とても澄みわたった光がたたえられていた。

 と、このやりとりを見守っていたルティムの家長が、鈎のように曲がった鼻をひくつかせる。


「ファの家長よ。おぬしの身体からは、何やら甘い香りが感じられるのだが……それはもしや、ギバ寄せの実の香りか?」


「うむ。最近は《贄狩り》を行っていないのに、よくも嗅ぎつけることができるものだな」


《贄狩り》というのは、ギバ寄せの実の香りを自らに纏ってギバを呼び寄せる、きわめて危険な狩りの作法であった。

 ドンダ=ルウは、ギル=ファの泰然とした顔をねめつけてみせる。


「いまだに《贄狩り》などを行っている狩人がいるとはな……貴様、生命が惜しくはないのか?」


「ギバ寄せの実も、正しく使えば危険なことはない。おかげで俺たちも、飢えずに済んでいるのだ」


「……余所の氏族の家人となれば、そうまでしなくとも飢えることはなかろうにな」


「ルウほど力のある氏族であれば、そうかもしれん。しかし小さき氏族では、飢えて死ぬ人間も珍しくはないぞ」


 と、そこでギル=ファは、またふわりと微笑んだ。


「まあ、すべては母なる森の思し召しだ。俺はあるがまま、思いのままに生きて、森に魂を返したいと願っている」


「ふん。それに巻き込まれる家人こそが気の毒だな」


 ドンダ=ルウはそのように答えたが、ギル=ファのかたわらにある初老の狩人は、とても穏やかな眼差しで家長の姿を見守っていた。その首にも、小さき氏族とは思えぬほどの立派な首飾りが掛けられている。


「では、血族の語らいを邪魔してしまい、申し訳なかった。助言、感謝するぞ」


 ギル=ファはそのような言葉を最後に、ドンダ=ルウの前から消えていった。

 眷族の家長たちは、えもいわれぬ表情でその後ろ姿を見送っている。


「やはり、得体の知れない男衆だな。悪い人間ではなさそうだが……とろけたポイタンのようにつかみどころがないようだ」


 レイの家長は肩をすくめて、そのように評していた。ドンダ=ルウも、同じような気持ちである。


(まあ、この先は言葉を交わす機会もあるまい。……あいつの嫁となる女衆がミギィ=スンめに害されれば、その限りではないがな)


 そのように惨たらしい行く末が訪れないことを、ドンダ=ルウは心中で祈ることにした。


                     ◇


 その翌日である。

 ドンダ=ルウが目を覚ますと、もう半数ぐらいの家長が祭祀堂から姿を消していた。

 長々と居残って、スン家の人間に目をつけられることを恐れているのだろう。ファの家長ギル=ファの姿も、すでにそこには見当たらなかった。


「我らも、早々に出立するべきであろう。ドグラン=ルウの姿がないことで、スン家の者たちもいっそう気を大きくしているであろうからな」


 ルティムの家長の言葉に従い、ルウの血族の家長たちも祭祀堂を出ることにした。

 太陽は、ようやくモルガの山から顔を出したばかりのようである。スン本家の家屋の前に立ち並んでいる北の一族の狩人たちを一瞥してから、ドンダ=ルウたちはスンの集落を後にした。


 他にもちらほらと帰路を辿っている人間は見受けられるが、ルウの血族に近づいてこようとする者はいない。正面きってスン家にたてついているルウの血族は、スン家と同じぐらい恐れられることになったのだ。スン家とルウ家に次ぐ力を持つサウティやラッツの血族でさえ、巻き添えになることを恐れて距離を取っているのだった。


(そう考えると、昨日から今日にかけて、俺たちに声をかけてきたのは、あのファの家長ただひとりであったわけか)


 まあ、ミギィ=スンを相手に一歩も引かなかったあの男衆であれば、ルウの血族を忌避する理由もないのだろう。それは勇敢であるゆえなのか、はたまた危機感が足りていないだけなのか、何とも判別し難いところであった。


 ドンダ=ルウの周囲では、血の気の多いレイやマァムの家長らが、スン家について取り沙汰している。スンの集落では語りたくとも語れなかった鬱憤を晴らしているのだろう。その度が過ぎそうになると、沈着なるルティムやミンの家長たちがたしなめる。昨日、スン家に向かっていたときと同じ光景が、また繰り広げられているようだった。


 そうして長い道のりの、半分と少しぐらいが過ぎた頃である。

 行く先に、ぽつんと立ち尽くしている男衆の姿が見えた。


「おい。あれは、ファの家長ではないか?」


 レイの家長がうろんげに言った通り、それは黒い髪と青い瞳を持つ、ファの家の若き家長であった。


「ああ、待ちくたびれたぞ、ルウの長兄よ。ずいぶんのんびりとした出立であったのだな」


 ファの家長ギル=ファはそのように述べながら、ドンダ=ルウたちのほうに近づいてきた。


「申し訳ないのだが、少しばかり時間をもらえないだろうか? 家人たちが、ルウの長兄に礼を申し述べたいと言っているのだ」


「礼だと? 貴様たちに礼を言われる覚えはない」


「いや、昨晩、俺に助言をしてくれたであろう? それで、明日にでも婚儀をあげようという話に落ち着いたのだが……これは、お前の助言あってのことだからな。やはり、礼をせずに済ますわけにもいかぬだろう」


 つかみどころのない笑みをたたえながら、ギル=ファはそう言った。


「この道を入った先に、ファの家があるのだ。そんなに時間は取らせんので、どうか立ち寄っていただきたい」


「ふん。だったら、家人たちをこの場に呼び寄せるべきではないのか?」


 マァムの家長がそのように言うと、ギル=ファは「うむ」と申し訳なさそうに微笑んだ。


「俺もそのように思うのだが、家人のひとりが熱を出してしまっていてな。……それが俺と婚儀をあげるメイ=ファという女衆なのだが、あやつはどうにも身体が弱いのだ」


「……礼など不要だ。明日に婚儀をあげようというつもりなら、せいぜい身体を休ませてやるがいい」


「いや、しかしメイ=ファも礼を言いたいと言い張っているのだ。たぶん、俺がルウの人間に何か非礼な真似をしたのではないかと危ぶんでいるのだろうな」


「…………」


「このままお前を帰したら、メイ=ファは気が休まらずに、いっそう熱を出してしまうかもしれん。どうかお願いできないだろうか?」


 ドンダ=ルウは、深々と溜息をついてみせた。


「俺たちにもギバ狩りの仕事が待っているのだからな。一言挨拶を交わしたら、それで帰らせてもらう」


「ああ、それでかまわない。面倒をかけてしまい、本当に申し訳なく思っている」


 そのように述べてから、ギル=ファは目を細めて微笑んだ。


「申し訳ないついでに、もうひとつ。……メイ=ファは気が小さいので、このように大勢の狩人を前にしたら、震えあがってしまうかもしれない。供はひとりだけにしてもらえるだろうか?」


「注文の多いやつだ。どれだけ俺たちに手間をかけさせれば、気が済むのだ?」


 そのように答えながら、ドンダ=ルウはわずかながらに愉快な気分でもあった。ルウ家の人間にこうまでずけずけとものを言える人間は、そうそういないことだろう。

 それでドンダ=ルウはギル=ファの言葉を受け入れ、ルウの分家の家長だけを引き連れてファの家に向かうことにした。


 細い道を進むと、すぐに小さな家屋が見えてくる。その玄関口には、昨日も見た初老の狩人が待ちかまえていた。

 ギル=ファが手を振ると、ひとつうなずいて戸板に手をかける。そこから、3名の人間が出てきた。


 年老いた男女と、若い女衆だ。

 その女衆の姿を目にするなり、ドンダ=ルウは思わず息を呑むことになった。


 確かに、美しい。

 金褐色の髪を長く垂らしており、切れ長の目には淡い色合いをした碧眼が瞬いている。ちょっと乱暴にしたらすぐに壊れてしまいそうな、優美ではかなげな姿であった。


「メイよ。こちらがさきほど話した、ルウの長兄だ」


 老女に支えられながら、その美しき女衆メイ=ファは弱々しく一礼した。


「お初にお目にかかります……病魔を患ってしまったために、このような姿で申し訳ありません……」


「……だったら、大人しく身を休めることだな」


 ぶっきらぼうにドンダ=ルウが応じると、メイ=ファは「はい……」と力なく微笑んだ。


「ですが、わたしたちはあなたのおかげで、これからも心安らかに生きていくことができます……スン家の人間に襲われるなんて、そんな恐ろしいこと……想像しただけで、身がすくんでしまいそうなほどです……」


「うむ。俺がずっとそばにあれるなら、何も恐れる必要はないのだがな」


 ギル=ファがメイ=ファのかたわらまで歩を進めた。

 ギル=ファも若かったが、メイ=ファはそれよりも若いのだろう。しかし、視線を見交わすふたりの間には、確かな情愛が感じられた。

 そして、老いた男女と初老の狩人は、とても穏やかな眼差しでふたりの姿を見守っている。そこから感じられるのは、家族の固い絆であった。


(なるほど……このように年老いた人間を抱えていては、他の氏族の人間たちも、なかなか血の縁を結ぼうとは考えられぬことだろう)


 ドンダ=ルウは、ようやくギル=ファの言動が理解できた気がした。

 ファの家は、すでに滅びかけていたのだ。

 他の氏族と血の縁を結ぶにせよ、氏を捨てて家人になることを願うにせよ、すでに時を逸している。それならば、愛する家族たちと手を取り合い、あるがままの生を生きて、魂を返したい――彼らは、そのように望んだのではないだろうか。


「あの……家長ギルは、何か礼を失したりはしませんでしたか……?」


 と、メイ=ファがふいにそのようなことを述べたててきた。

 ギル=ファよりも色の淡い瞳が、すがるようにドンダ=ルウを見つめている。たいそう落ち着かない心地にさせられながら、ドンダ=ルウは「ふん」と鼻を鳴らしてみせた。


「とりたてて、非礼な真似をされた覚えはない。しかし、スン家を相手にするときは、もう少し口をつつしむべきだろうな」


「まあ……やっぱりあなたは、何か余計なことを口にしてしまったのですね……?」


 メイ=ファが、責めるようにギル=ファを見た。

 しかしその眼差しにも、どこか甘やかなものが感じられる。ギル=ファは頭をかきながら、薄く笑っていた。


「今後は、気をつけることにしよう。……ルウの長兄よ、あまりメイを心配させないでやってくれ」


「それを心がけるのは、貴様の役割であろうが? 俺の役割は、もう果たされたはずだ」


 そう言って、ドンダ=ルウは身を引いてみせた。


「挨拶は済んだのだから、俺たちは帰らせてもらう。婚儀を終えるまで、せいぜい気を抜かぬことだ」


「うむ。今日と明日だけはギバ狩りの仕事を休んで、メイ=のそばにあろうと思う。ルウの長兄も、息災にな」


 返事をせずに、ドンダ=ルウはきびすを返した。

 老いた家人たちの礼の言葉も聞こえてくるが、ドンダ=ルウはそれにも答えなかった。


(俺たちも、滅びかけている氏族なんぞにかかずらっている暇はねえ。最後に残されたわずかな時間を、家族と心安らかに過ごすがいい)


 眷族の家長たちのもとに歩を進めながら、ドンダ=ルウはそのように考えていた。


(ただし……スン家の連中がそんな安息をも脅かそうというのなら……俺たちが刀を取って、始末をつけてやろう)


 ドンダ=ルウはそのように考えたが、ミギィ=スンの魔手がメイ=ファにのばされることはなかった。

 そして、ギル=ファとメイ=ファの間に生まれる子が、今後のドンダ=ルウにどのような運命の変転をもたらすものか。シムの占星師ならぬドンダ=ルウに、そのようなことを予見することはできなかったのだった。

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