吾輩はトトスである(下)
2018.10/16 更新分 1/1
翌日、我々は予告通りに、早朝から仕事に駆り出されることになった。
案の定、8頭の同胞の全員に荷車が繋がれる。本日の荷車にはどっさりと荷物が積まれており、昨日の荷車の比ではなかった。
それに、人間の数もなかなかのものである。昨日にお目見えした《北の旋風》なるひょろ長い人間も含めて、総勢は20名以上にも及ぶようだ。その全員が外套の頭巾を深々とおろしているのが、何やら奇妙な感じであった。
そしてその中にひとり、際立って奇妙な人間もまざっていた。
奇妙というより、不吉というべきであろうか。何故だか顔に幾重もの布を巻きつけて、その隙間から月光のごとき灰色の瞳を光らせている、長身の男である。
見たところ、その不吉な男と《北の旋風》が、この一団の長であるようだった。
もうひとり、妙に賑やかな人間も取り仕切りの仕事を果たしているようであったが、不吉な男と《北の旋風》のかもしだす存在感は、別格である。吾輩の故郷である牧場に、このように不可思議な空気を纏った人間はひとりとして存在しなかった。
しかしまあ、どのような人間でも、主人は主人である。
我々が為すべきは、荷物を引いて地を駆けることのみだ。その合間にきちんと食事を与えてくれるならば、文句をつける筋合いもなかった。
「では、出発だ」
《北の旋風》の号令のもと、我々は街道へと繰り出した。
4台の荷車に8頭のトトス、そして20名以上にも及ぶ人間の群れである。ただし、人間の大半は荷台に乗り込んでいたので、外に出ているのは手綱を引いている4名のみであった。
まずは昨日も通った石造りの大通りに出て、ゆったりと歩を進める。しかるのちに、とある建物の裏手に回り込むと、4名の人間たちはそれぞれ御者台に這いあがった。
しかし、そこはわずかばりの空き地が広がっている空間で、駆けるべき道も見当たらない。それをいぶかしく思っていると、吾輩の手綱を握っていた《北の旋風》が、雑木林のほうに首を向けさせてきた。
そこには、細い道が切り開かれていたのだ。
我々が歩を進めるのに不都合はないが、荷車の幅はほとんどぎりぎりであるように感じられる。我々がきっちり道の真ん中を進まなければ、たちまち樹木に荷車をぶつけてしまいそうだった。
なおかつ、道は斜面になっており、進むほどに勾配はきつくなっていく。幸いなことに、速く駆けろとせっつかれることはなかったので、無駄に疲れの溜まらない自然な足取りで進むことができた。
そうしてその斜面をのぼりきると、ようやく道らしい道に出た。
地面は土のままであるものの、平坦であるし、横幅も申し分ない。これならば、普段の調子で駆けることもできそうであった。
やはり、険しい道をのろのろ進むよりも、平らな道をすいすいと駆けるほうが、気分的には楽であるように感じられる。我々は、列をなしてその道を駆けることになった。
道の左右には、延々と樹木が立ち並んでいる。
人間たちの会話によると、これは雑木林ではなく、森というものであるらしい。樹木と樹木が折り重なって、まったく先を見通すこともできないほどであるのだ。その向こうには、さまざまな獣が潜んでいる気配が感じられた。
吾輩は、人間の他に獣というものを間近にしたことはなかった。空に舞う小さな鳥たちや、草むらを駆ける小さな獣を見かけたことがあるていどである。ダバッグでは、トトスよりもたくさんのカロンという獣が育てられているという話であったが、それを目にする機会も与えられることはなかった。
しかしまあ、この世にどのような獣がいようとも、トトスほど速く走れる獣がそうそういるとは思えない。何か危険な事態が生じれば、さっさと逃げ出してしまえばいいだけのことだ。
そのときの吾輩は、不覚にもそのように楽観視していたのだった。
道はなだらかに湾曲しながら、どこまでも続いている。何度か短めの小休止をはさみつつ、我々が道を駆けていくと、やがて前方にたくさんの人影が見えてきた。
浅黒い肌をした、人間の群れである。
人間――なのだろう。少なくとも、外見上はそういう形をしている。
しかし、彼らもまた、吾輩の知る人間とはまったく異なる気配を纏っていた。
一言で言って、凄まじい力感が感じられる。実は他の獣が人間の皮を纏っているのではないのかと、そんな妄想がわきたつほどの、異質な雰囲気であった。
「やあやあ、お待たせいたしました。本日はどうぞよろしくお願いいたします、ダリ=サウティ」
「ああ。こちらこそな」
その浅黒い人間たちの中で、とりわけ大きな身体と、とりわけ力強い雰囲気を持った者が、《北の旋風》にそう応じていた。
「しかし、ずいぶんな人数でありますね。案内役は、約定通り4名で十分でありますよ?」
「わかっている。本家の家長たる俺が家を離れるので、血族が見送りに出てきただけのことだ。……それに、お前たちの姿もひと目は見ておきたいという話であったのでな」
どうやらこれが、昨日から話題にのぼっていた「森辺の民」というものであるようだった。
昨日の屋台は遠目でしかうかがっていなかったし、あの場にいたのは若い娘たちばかりであった。しかしその場に集まっているのは、そのほとんどがむくつけき男たちである。このような男たちに追われたとしたら、空腹で倒れるまで逃げ惑うことになってしまいそうだった。
「……ダリ、どうぞお気をつけて」
と、その中では数少ない女のひとりが、さきほどの大柄な森辺の民、ダリ=サウティに声をかけていた。
「ああ、行ってくる。集落の皆を、よろしく頼んだぞ。明日の夕刻には、必ず戻れるはずだからな」
「はい。お帰りをお待ちしています」
そうしてダリ=サウティを始めとする4名の男たちだけが、荷車に乗り込んだ。
道は、まだまだ続いているのだ。《北の旋風》に鞭を打たれるままに、吾輩は道を駆け続けた。
そうして、道がやや細くなり、下り坂になりかけたところで、ふいに手綱を引かれることになった。
「これが、農村に出る道でしたね。では、いったん荷車を降りましょう」
すべての荷車が止められて、手綱を握った人間と森辺の民だけが地面に降り立つ。《北の旋風》はにんまりと微笑みながら、左手側の森を見やっていた。
「では、案内役をお願いいたします」
「ああ。俺が先頭に立つので、お前たちは左右と後方に回れ」
同胞に指示を送ったのち、ダリ=サウティが徒歩で森に分け行っていく。すると驚くべきことに、手綱を握った《北の旋風》もその後を追い始めた。
よく見れば、そこにも道らしきものが切り開かれている。しかし、最初に通った道よりもなお頼りなげな、細い細い道筋である。これで荷車をぶつけたところで、文句を言われる筋合いはないように思われた。
「いやあ、ついにモルガの森に出陣でありますね。胸が高鳴ってきましたよ」
「ふん。お前にも、そのように殊勝な心があったのか」
「もちろんです。森辺の民ならぬ人間がモルガの森に踏み込むのは、これが10年ぶりの2度目なのでしょうしね」
そのような会話を聞き流しながら、吾輩はたいそう落ち着かない心地であった。
道はせまいし、足もとは悪いし、周囲には獣の気配が満ちている。危険が生じたら走って逃げればいいと考えていた吾輩であるが、このような悪路では満足に走ることもかなわない。重い荷車などを繋がれていては、なおさらだ。どのような危険が生じても、森辺の民の男たちが何とかしてくれると信ずる他なかった。
隣に繋がれた縞模様の同胞は、それでもとぼけた面持ちで歩を進めている。つくづく、呑気な気性であるのだろう。この際は、その呑気さが羨ましいほどであった。
先頭を歩いているダリ=サウティは、ときおり我々の足を止めては、耳をそばだてて周囲の気配を探っている。そのたびに、吾輩は何が起きるのかと身構えることになった。
だがそれは、用心に用心を重ねた結果であったらしく、どのような異変も生じない。我々は、止まっては進みを繰り返して、その暗鬱なる道をひたすら進んだ。
「そろそろ、ギバの縄張りに差し掛かる。ギバ除けの実をほどこしておこう」
やがてそのように述べたダリ=サウティが、小さな木の実を握り潰して、それを荷車や人間たちに降りかけ始めた。
たちまち、えもいわれぬ悪臭が空気を汚していく。これならば、凶暴な獣でも顔をしかめて逃げていくのかもしれなかった。
「それがギバ除けの実ですか。しかし、すべてのギバを遠ざけられるわけではないのでしょう?」
「うむ。しかし、よほど空腹で我を失っていない限りは、これで近づいてくることもない。この辺りはギバも少ないし、これだけ大勢の人間が群れていれば、それだけでも普通のギバは近づいてこないはずだがな」
「念には念を入れて、ということですね。希少なギバ除けの実を、ありがとうございます」
「ふん」とそっけなく応じてから、ダリ=サウティは再び道なき道を進み始めた。
いったいどこまでこの森は続くのか。そろそろ太陽も中天に差し掛かったのではないだろうか――と、吾輩がそのように考えたとき、ふいに視界が開けた。
深い森がいったん途切れて、岩場に差し掛かったのだ。
ごつごつとした岩で形成された、至極殺風景な場所である。そこに足を踏み入れるなり、《北の旋風》がひゅうと口笛を吹いた。
「ここが例の岩場ですか。話には聞いていたものの、森の中にこのような岩場があるとは、驚きです」
「……例の岩場とは、何の話だ?」
「ほら、10年前に全滅した商団の話ですよ。そのうちのひとりは、岩場の崖から転落していたという話であったのでしょう?」
「ああ、その男が狩人の首飾りを握りしめていたのだという話だったな。……我々がそれを聞かされたのは、ほんのつい最近のことだが」
「宿場町では、もっぱらの評判であったそうですけれどね。それをわざわざ森辺の民に伝えようという人間もいなかったのでしょう」
ダリ=サウティは、苦々しげな面持ちで頭をかいていた。
「もうしばらく進むと、その断崖だ。荷車の車輪がすべらぬよう、気をつけておくことだな」
「承知いたしました。それでは、進みましょう」
手綱を引かれて、吾輩もしかたなしに足を踏み出す。邪魔な樹木がなくなったのは幸いであるが、足もとは凸凹としていて歩きにくいし、荷車ががたがたと揺れるのが、いらぬ疲れをかきたてる。見晴らしがよくとも、これでは森の中を進むのと大差はない悪路であった。
「お、これが断崖ですか。これは確かに、危険な場所だ」
《北の旋風》が呑気たらしくつぶやいたので、同じ方向に目をやると、そこには地面が存在しなかった。はるかな向こうに同じような岩場が見えており、その合間からはどうどうと聞き慣れぬ音が聞こえてくる。どうやら地面に巨大な亀裂が走っており、その底を大量の水が流れているようだった。
「ここから落ちれば、自力で這いあがることはまず不可能だ。ラントの川にそって下流に向かい、そちらから森に戻るしかなかろう」
「剣呑ですね。気をつけます」
危険な断崖を左手側に眺めながら、一団はさらに歩を進めていく。
頭上では、鳥がぎゃあぎゃあと鳴いている。やはり、太陽はずいぶん高くなっているようだ。
そろそろ小休止の頃合いではなかろうかと、吾輩が《北の旋風》のきらきら光る頭を見下ろしたとき――ダリ=サウティが、「止まれ!」と鋭い声をあげた。
それにかぶさるようにして、雷鳴のごとき咆哮が響きわたる。
さらに、不可解な現象が勃発した。
断崖とは逆の側に立ち並んでいた樹木の上から、甘い香りのする木の実が投じられてきたのである。
その木の実が荷車にぶつかると、甘い香りが爆発的に広がった。
そして、惨劇の始まりである。
わけもわからずに立ちすくんでいた我々の目の前に、凶悪な獣が出現する。丸々とした身体に黒ずんだ毛皮を纏った、さも恐ろしげな獣である。そんな獣が10頭ばかりも樹木の間から飛び出してきて、この一団に突進してきたのだった。
「なるほど、こうやってギバをけしかけるのか」
《北の旋風》が、笑いを含んだ声でつぶやいた。
それと同時に、吾輩の胴体を拘束していた器具が、外された。《北の旋風》が、我々を荷車から解放したのだ。
「これでトトスにまで暴れられたら、目もあてられないからね。お前にも神がいるなら、生きて戻れることを祈るがいい」
そんな言葉とともに、革鞭で尻を叩かれた。
トトスに、祈るべき神など存在しない。そもそも人間が神と呼ぶ、それが何を意味するのかも、吾輩には理解しきれていなかった。
ともあれ、自由に駆けることができるのなら、あの恐ろしい獣にも追いつかれることはないだろう。吾輩は、同じように解放された同胞らとともに、来た道を駆け戻ることになった。
その背中に、何者かの笑い声がぶつけられてくる。
それはどうやら、樹木の上に潜んでいた何者かのあげている哄笑であるようだった。
「貴様らの命運はここまでだ……我らの森に踏み込んだ己の愚かさを呪いながら、魂を返すがいい!」
それは、禍々しい怨念に満ちみちた声音であった。
その声音に尻を叩かれているような心地で、我々は惨劇の場を後にしたのだった。
◇
それから、どれほどの時間が過ぎ去ったのか。
気づくと、我々は森の中で立ち往生していた。
岩場から森に舞い戻り、来た道を駆けていたはずであるのに、どこまで進んでも森が終わらない。もともと道などあってないようなものであったので、我々は見知らぬ場所に迷い込んでしまったようだった。
かたわらにある同胞は、わずか2頭である。どうやら8頭のうち、2頭は荷車から解放されることなくその場に留まり、残りの3頭は森に入ってすぐにはぐれてしまったようだった。
吾輩のかたわらにあるのは、どちらもあまり馴染みのない顔ぶれである。同じダバッグから連れて来られた縞模様の同胞も、黒みがかった羽毛を持つ同胞も、黄色みがかった羽毛を持つ同胞も、みんなはぐれてしまったのだ。やはり、吾輩と縞模様が加わるまでの間、6頭の中では黒色と黄色が取り仕切り役であったらしく、それとはぐれてしまった彼らはひどく心細そうな様子であった。
しかしまあ、心細いのは吾輩も同様である。腹を満たすべき草葉はいくらでも生えているものの、そこは決して安楽な世界ではなかったのだ。
さきほどのギバと呼ばれていた恐ろしい獣の気配をあちこちに感じるし、それ以外の獣の気配もひしひしと感じられる。走って逃げられればいいのだが、足もとは悪いし枝葉は折り重なっているし、これでは十全に力が発揮できるとは思えない。我々が生きながらえるには、何としてでもこの森から脱出を果たさなければならなかった。
頭上は森の天蓋に閉ざされているために、太陽の位置もわからない。
それでも我々は、とにかく足を踏み出すしかなかった。
樹木の枝をかいくぐり、木の根に足を取られないように気をつけながら、慎重に歩を進めていく。これまでとて、好きで地面を駆けていたわけではないが、このように楽しくない行軍はかつてなかったに違いない。はからずも、我々は野生の世界に放り出されてしまったのだった。
そうして、いくばくも進まぬうち――同胞の片割れが、クエーッと憐れげな鳴き声をあげた。
見ると、草むらの上に崩れ落ち、狂ったように首を振り回している。その右の足は、鋭い棘のついた蔓草に腿までからめ取られてしまっていた。茂みの中にそのようなものが潜んでいるとも知らず、うっかり足を踏み入れてしまったのだろう。
吾輩は、その憎き蔓草から同胞を救うべく、くちばしをのばしてみせた。
しかし、吾輩がわずかに蔓草を引っ張っただけで、同胞は断末魔のごとき声をほとばしらせて、吾輩の首に自分の首をぶつけてきた。その蔓草は、まるで確固たる意思でもって同胞の足に喰らいついているかのごとく、その禍々しい鋭さを持つ棘を肉の内にまで突きたてていたのだった。
人間のように器用な指先を持っていれば、それをほどくこともできたのかもしれない。
いや、人間であれば、きっと何か便利な道具を使って、このような蔓草は簡単に断ち切ってしまうことだろう。
しかし、トトスたる我々に為すすべはなかった。
この武骨なくちばしや鉤爪では、余計に同胞を傷つけるばかりである。こんな蔓草ひとつを排除することもできないぐらい、我々は無力な存在であった。
そして――野生の世界において、無力というのは罪であったのだ。
その無情なる運命を体現するかのごとく、新たな脅威が我々に近づいてきていた。
ぐるるるる……と、湿ったうなり声が聞こえてくる。
それも、複数だ。
森の獣が、群れをなして我々に近づいてきたのだった。
がさりと草を踏む音が響き、最初の1頭が姿を現す。
それはギバではなく、別なる獣であった。
ギバよりは小さいが、その落ちくぼんだ目は飢餓に燃えている。初めて顔をあわせる獣でも、それが我らを捕食するべき立場にあることは、本能で理解できた。
思えば、さきほどのギバに飢餓の情念を感ずることはなかった。ギバは我々を喰らおうとしていたのではなく、何かの怒りに我を失って突進してきたのだ。然して、この新たな獣は、はっきりと我々を食料であると見定めていた。
蔓草に捕らわれていた同胞が、けたたましい絶叫をあげると同時に、立ち上がる。蔓草はぶちぶちと千切れたが、その邪悪なる棘は容赦なく同胞の肉を引き裂き、真っ赤な血をしぶかせた。しかし同胞は、そのようなことにかまいつけるいとまもなく、一目散に走り始める。
痛みよりも、生存本能がまさったのだろう。呆然と立ちすくんでいた吾輩ともう1頭の同胞も、それでようやく我を取り戻し、同じ方向に逃げることになった。
しかしやっぱり足を傷つけた同胞は、本来の力を発揮できずにいる。真っ先に逃げ出したはずであるのに、あっという間に我々に追い抜かれて、その姿はどんどん後ろに遠ざかっていった。
その背中に、追いすがった獣が飛びかかる。
同胞は、あっけなく地に伏してしまった。
その上に、何頭もの獣たちが折り重なっていく。その数は、7頭ぐらいに及ぶようだった。
のちに聞いたところによると、それはムントなる獣であった。
腐肉喰らいなどと呼ばれており、本来は死した獣の肉をあさるばかりであるが、あまりに飢えたときは、生ある獲物にも襲いかかる。それに、動きの鈍った獣などというのは、彼らにとって格好の標的であるらしかった。
ともあれ、我々はまた同胞を失うことになった。
ムントというのはトトスよりも遥かに小さな獣であったが、そのときの我々に戦おうなどという考えが芽生えることはなかった。ムントは捕食する側であり、我々は捕食される側であったのだ。我々は、本能でその事実を思い知らされていたのだった。
そうして我々の、苦難に満ちた生が始まった。
腹だけは存分に満たしつつ、常に死の影に怯えなければならない。それは、過酷な生であった。
思った通り、ギバは我々を捕食の対象にはしていないようで、ときおりその姿を見かけても、やみくもに襲いかかってくることはなかった。
しかし、最初に見たあのギバたちのように、怒りで我を失えば、どうなるかもわからない。このような森の中ではギバよりも早く走れるという保証もなかったので、いっそう万事に備えなければならなかった。
それに、ギバやムントの他にも、森にはさまざまな脅威が満ちていた。
その脅威のひとつに同胞が見舞われたのは、森をさまよい始めて3日目のことだった。頭上の梢から落下してきた毒蛇に、背中を噛まれてしまったのだ。
そんな小さな毒蛇が、トトスを捕食しようとしたのだとは考えにくい。だからきっと、毒蛇はうっかり同胞の上に落ちてしまい、それで暴れられたものだから、自らの生存本能に従って、毒牙の攻撃を繰り出す事態に至ったのであろう。
ともあれ、吾輩は最後の同胞を失うことになった。
このように恐ろしい森の中で、誰に頼ることもできないまま、孤独に生きていくことになったのだ。
吾輩の心に去来していたのは、とめどもない無力感であった。
人間に育てられたトトスに、野で生きる力はないのだろう。もしもこの背に人間が乗っており、敵を踏みつぶせと手綱を操ってくれるのならば、きっとその仕事を果たすこともかなうのであろうが――我々には、それを自分の意思で為す力が備わっていなかった。この心を呪縛する弱者としての本能を、人間の命令によって解きほぐされない限り、捕食者たる相手と戦おうという気概を振り絞ることもかなわないのだ。
吾輩は、孤独であった。
こんなにも強い思いで他者の存在を欲したのは、生まれて初めてのことであっただろう。
が、おかしなことに、吾輩が欲しているのは、同胞ではなく人間の存在であった。
まあ、ここで他のトトスと巡りあったところで、森の脅威から逃げられるわけではない。こんなやるかたない無力感を同胞と分かち合ったところで、詮無きことであった。
しかし、そういった即物的な考えとは別に、吾輩は人間の存在を欲していたのだ。
人間に、正しい道筋を示してほしい。我々が野で生きる力を奪ったのは人間たちであるのだろうから、そうするのが人間の役割であり、責任であるはずだ。吾輩は、そのように信じて疑わなかった。
牧場で我々を育てた人間たち――あるいは、その人間たちから我々を買い取った《北の旋風》たち――誰でもいいから、この地面に引きずられている手綱を握ってほしい。吾輩は、胸中にそんな痛切なる思いを抱え込みながら、孤独に森をさまようことになった。
そうして、最後の同胞を失った日の、翌々日――森をさまよって、5日目のことである。
その日に吾輩は、驚くべき邂逅を果たすことになった。
森の中で、あのダリ=サウティなる森辺の民と遭遇したのである。
「何だ、お前は……どうして森に、トトスなどがいるのだ?」
ダリ=サウティのほうも、かなりの驚きに見舞われている様子であった。
頭や腕には布を巻きつけて、そこにうっすらと血をにじませている。やはり無傷では済んでいなかったが、ダリ=サウティもまた生きながらえていたのだ。
ダリ=サウティのかたわらには、2名の男たちもいた。そちらには見覚えがなかったが、やはり驚きに目を見開いている。そして、その手には刀が握られていた。
「そうか。お前は、カミュア=ヨシュが森に逃がしたトトスだな。まさか、いまだに森の中をうろついていたとは……よくも魂を返さずに済んだものだな」
「どうしますか、家長ダリ? こやつらは、放っておくと森の恵みを食い荒らしてしまうかもしれません」
「そうだな。とりあえずは、集落に連れて帰るしかあるまい。あとの始末は、ドンダ=ルウと相談しよう」
そうして吾輩は、森辺の民の導きによって、森から脱することがかなったわけである。
それはあまりに唐突な出来事であったので、吾輩は喜ぶよりも先に、呆気に取られることになった。
それに、きっと喜ぶべきではなかったのだ。そこで喜んでいたら、きっと吾輩はのちのち失意の底に突き落とされていたことだろう。吾輩の苦難は、まだまだ終わりを迎えてはいなかったのである。
その晩はダリ=サウティの住まう家で過ごし、翌日には、別の家に連れていかれることになったわけであるが――苦難の運命は、そこに待ちかまえていた。
「何だ、これは? このようなものをルウの集落に連れてきて、いったいどうせよというつもりなのだ?」
その男は、地鳴りのような声音でそのように述べていた。
ダリ=サウティに劣らず大柄で、ダリ=サウティよりも強い力感に満ちた、森辺の民である。顔の下半分にもぼうぼうと毛を生やしており、周囲の者たちはその男をドンダ=ルウと呼んでいた。
そして、そのドンダ=ルウと相対しているのは、ダリ=サウティではなく森辺の娘である。ダリ=サウティは、途中で別の家に立ち寄って、吾輩の身柄をこの娘に引き渡したのだ。娘は、アマ・ミン=ルティムと呼ばれていた。
「ダリ=サウティは狩人の仕事がありますので、わたしがドンダ=ルウのもとまで届けるように言い渡されたのです。こちらのトトスは、どのように扱うべきでしょうか?」
「そんなものは、俺の知ったことか! ダリ=サウティが見つけたものなら、ダリ=サウティの好きにすればいいだろうが!」
すると、玄関口の戸板の隙間から、小さな幼子がぴょこんと顔を覗かせた。
「ねえねえ、まだお話は終わらないの? リミ、トトスと遊びたいなあ」
「やかましい! 話が終わるまで、入ってくるな!」
「なんだよー。ドンダ父さんのけちんぼ!」
幼子はべーっと舌を出すと、戸板の向こうに消えていった。あんな小さな娘であるのに、なかなかの蛮勇を有しているようである。
吾輩はもう、このように恐ろしい人間と相対しているだけで、生きた心地がしなかった。その丸太のように太い腕であれば、トトスの首を引きちぎることさえ容易なのではないだろうか。そんな危機感を煽られるほどに、このドンダ=ルウという森辺の民は凄まじい迫力と力感をみなぎらせていたのだった。
「ダリ=サウティは今日からルティムの家に留まり、血抜きと解体の技を習いますので、そちらに頭が向いてしまっているのでしょう。このトトスに関しては、ドンダ=ルウに一任したいと仰っておりました」
「……だったら、羽をむしって、肉にでもしてしまえ。ファの家のかまど番ならば、喜び勇んでその役を引き受けるだろう」
「ええ? それでよろしいのですか?」
そうだそうだと、吾輩も内心でアマ・ミン=ルティムに声援を送っていた。老いて働けなくなったトトスは肉にされるという話であるが、食材としては下の下だと聞き及んだ覚えがある。吾輩などはようやく売りに出されたばかりの若いトトスであるのだから、もっと有用なる使い道はいくらでも残されているはずだった。
が、ドンダ=ルウに慈悲の心はなかった。
「……そのようなものを家に置いていたら、リミがかまいつけるに決まっている。おかしな情がわかぬうちに、さっさと始末してしまえ」
「そうですか……それなら、アスタに一任してみてはいかがでしょう? 町の人間とゆかりの深いアスタであれば、正しく処置できるのではないでしょうか」
「何でもいいから、ルウの家からそいつを連れ出せ。肉にしても、こちらに届ける必要はないからな」
かくして吾輩は、また別の家に連れ出されることになった。
足取りは、重くなるいっぽうである。吾輩の命運は、もはや油の尽きかけた燭台の火も同然であった。
吾輩の手綱を握っているのはアマ・ミン=ルティムであり、ともに歩いているのは、さきほどのリミ=ルウなる幼子だけだ。吾輩の足で両者を蹴飛ばしてやれば、逃げることも容易いのだろうが――トトスは、人間とともに生きる獣である。たとえ人間の側が我々を喰らおうとしていても、人間を害して逃げのびようというのは、何か道から外れているように思われた。
それに、森辺の民を害せば、森辺の民が追ってくることだろう。あの恐ろしい力を持つ男たちに追われて、無事に逃げられる気はしない。吾輩は、ギバやムントや毒蛇よりも、森辺の民のほうがよほど力のある種族だと考えていた。
それに――吾輩を森から救い出してくれたのは、森辺の民たるダリ=サウティであるのだ。そのダリ=サウティの同胞でもあるアマ・ミン=ルティムらを害しては、いっそう道理が通らない。森辺の民に救われた生命が、森辺の民に喰らわれて、その血肉になるというのならば、それはそれで享受せざるを得ない運命であるのではないだろうか。
そうして吾輩は、忸怩たる思いの中でも懸命に覚悟を固めつつ、最後の裁きの場へと導かれた。
アマ・ミン=ルティムたちがファの家と呼ぶ、木造りの小さな家屋である。
吾輩は、そこでアスタと邂逅を果たしたのだった。
「な、な、な、何ですか? どうして森辺にトトスなんかがいるのですか?」
そこで吾輩は、運命の皮肉を感ずることになった。
それはあの、屋台というところで働いていた、黄色の肌を持つ森辺の若者だったのである。
そういえば、このアスタなる若者はギバ料理というものを売っていた。だからこそ、吾輩を肉とする使命をおびることになったのであろう。
が、アスタはその使命をはたはた迷惑に思っている様子であった。
また、アマ・ミン=ルティムやリミ=ルウなる幼子たちも、吾輩を肉にするべきではないと考えている様子であった。リミ=ルウに至っては、その目に涙をためながら、吾輩を食べないでほしいと擁護してくれていたのである。
しかし、気をゆるめるには、まだ早い。しばらくの後、家に帰ってきたアスタの家族は、ドンダ=ルウと似た眼差しで吾輩の姿を検分していた。
「……ドンダ=ルウは、また厄介なものを押しつけてきたものだな。私はトトスの肉など食う気にはなれんぞ」
「うん。だから、カミュア=ヨシュと相談して、今後のことを考えようと思っているよ」
そこで吾輩は、おや、と首を傾げることになった。
たしか、ダリ=サウティが《北の旋風》のことをその名で呼んでいたということを、わずかながらに記憶に留めていたのである。
もしかしたら、吾輩は《北の旋風》のもとに戻されるのだろうか。
そして――またあの恐ろしい森の中に連れていかれるのだろうか。
そのように考えると、吾輩の心はずしりと重たくなってしまった。森の中でムントに食い散らかされるぐらいであれば、人間の胃袋に収まったほうが、まだしも救われるような心地であったのである。
しかし、結論として、吾輩のもとには別なる運命が準備されていた。
てんやわんやの騒動を経たのちに、吾輩の身はファの家に引き取られることになったのだ。
しかもその騒ぎの渦中で、吾輩は3頭の同胞と再会する幸運に見舞われた。
縞模様の同胞と、黒みがかった羽毛の同胞と、黄色みがかった羽毛の同胞である。彼らも森の中で森辺の民に遭遇し、救出されることになったのだという話であった。
縞模様の同胞はドンダ=ルウやリミ=ルウの住まうルウの家に、黄色みがかった羽毛の同胞はダリ=サウティの住まうサウティの家に、黒みがかった羽毛の同胞は北の集落という場所に、それぞれ引き取られることになった。
我々は、ついに安息の地を得たのである。
しかもファの家の人間たちは、吾輩を森の中に連れていこうなどとは、露とも考えていないらしい。アスタは荷車を買いつけて、それを吾輩に引かせるつもりだと、アイ=ファに語っていた。
それこそが、トトスとしての本分である。
実際のところはどうだかわからないが、吾輩にとっては、それが真実であった。人間とともにあり、荷物を引くという仕事をこなしながら、草葉を食んで空腹を満たす。それこそが、吾輩の進むべき正しい道であるはずだった。
「……トトスとは、不思議な獣だな」
ファの家に連れてこられてから4日目の夜、アイ=ファはそのようにつぶやいていた。
ようやくすべての騒動が収まって、吾輩の身柄が正式にファの家の預かりとなった、その当日のことである。ようやく安息の地を得た吾輩は、ここしばらくの心労を癒すべく、土間と呼ばれる場所で身を休めていた。
アイ=ファはきっと、吾輩がすでに寝入っていると思っているのだろう。こっそり薄目で確認してみると、アイ=ファはひどく穏やかな眼差しで吾輩のことを見つめていた。
最初に出会ったとき、あれほど苛立たしげな顔をしていた人間と、本当にこれが同一人物であるのかと、そんな思いにとらわれてしまうぐらい、アイ=ファの眼差しは静謐で、優しげであった。
彼女は吾輩を、家族と見なすようになったのだ。
出会って2日目には吾輩の背に乗って、道を走らせていた。これまでトトスに乗ったことはないという話であったのに、その手綱さばきは見事なものであった。まるで、手綱や身体の触れている箇所を通じて、アイ=ファの心や考えが流れ込んできているかのような感覚であった。
もしかしたら、アイ=ファのほうも同じ感覚を得ていたのかもしれない。吾輩の背中から降りた後、アイ=ファの瞳にはすでにこの優しさの萌芽が存在していた。
やっぱりトトスは、人間とともにあるべきなのだ。
アスタやアイ=ファと出会ったことによって、吾輩はいっそうそれを強く確信するに至っていた。
きっとこの主人たちならば、吾輩に正しい道を示してくれることだろう。
そんな風に考えられることが、どれだけ幸福であったか。余所の家に引き取られていった3頭の同胞も、同じ安らぎを得られるように、吾輩は祈りたい気分であった。
こんなとき、人間は神に祈るのだろうか。
しかし吾輩は、トトスである。祈るべき神を持っていないし、神がどういうものなのかもわからない。だから、同胞に幸いあれかしと、心の中で念じるしかなかった。
そんな中、アイ=ファとアスタはまだ語らっている。
吾輩の眠りをさまたげまいとする、静かな声だ。しかしその声は、しっかりと吾輩の耳に届いていた。アイ=ファとアスタは、吾輩の名前を考案してくれていたのである。
「ならば、ギルルにしよう。ギルル=ファでは響きが美しくないが、こやつには氏を与えるわけではないので、まあよかろう」
アイ=ファが、そのように語っていた。
アスタは、何も答えようとしない。ただ、何やら胸を打たれた様子で、アイ=ファの姿をじっと見返していた。
「それも気に食わぬか?」
アイ=ファがそのように言葉を重ねると、アスタは夢から覚めたように、「いや――」と首を振った。
「それもいい名前だと思う。愛嬌もあるし、こいつにはぴったりだな」
「そうか」と言って、アイ=ファは微笑んだ。
これまで以上に、それは優しげな微笑みであった。それを見返すアスタの顔にも、同じぐらい優しげな微笑みがたたえられていた。
どうやらそれで、吾輩の名前が決定されたらしい。
吾輩はトトスである。名前は、ギルルだ。
吾輩は、えもいわれぬ充足感を胸に、まぶたを閉ざすことにした。