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異世界料理道  作者: EDA
第三十八章 群像演舞~四ノ巻~
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    大神の民(下)

2018.10/1 更新分 1/1 ・2020.9/15 誤字を修正

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 ティアの家で、晩餐が始まろうとしていた。

 巨大な洞穴にはペイフェイの毛皮が敷きつめられて、そこに15名ほどの家族が座している。族長ハムラの兄弟と、その子供たちである。さらにこの夜は、《白》を始めとするヴァルブの狼が5名ほど招かれていた。


「ヴァルブを客人に招くのも、ちょっとひさびさだな。我らの準備した晩餐を、心ゆくまで食べてほしい」


 ティアの母にして族長たるハムラが、穏やかな声でそう述べた。5名のヴァルブは、黄金色や黒色の瞳を瞬かせて、それに応じている。


「では、父たる大神に感謝を捧げよ。大神は深い眠りに身をゆだねつつ、夢の中で常に我々を見守っておられる」


 ティアたちは、敷物に額をこすりながら、「大神に感謝を」と言葉を捧げた。

 同じように食前の儀式を終えたハムラが、まずは木皿の汁物料理をすする。それでようやく、ティアたちも晩餐に手をのばすことが許された。


 今日はライタの狩ったペイフェイを食べることになったので、とても豪勢な晩餐であった。ペイフェイは身を潜めるのが巧みであるので、リオンヌやナッチャより口にする機会は少ないのだ。最大のご馳走はもちろんマダラマの肉であったものの、それよりもペイフェイの肉を喜ぶ人間は少なくなかった。


 ただし、客人も含めて20名ばかりもいるので、ひとりが口にできるペイフェイの肉はごくわずかだ。じきに族長となるティアにはとりわけ美味である胸の肉が与えられたので、それを半分ほど食してから、《白》のほうを振り返った。


「《白》に与えられたのは、ペイフェイの腸だったな。よかったら、胸の肉と半分交換してやろうか?」


「…………」


「ふむ。《白》は胸の肉よりも、腸のほうを好んでいるのか。だったら、いらぬ世話であったな」


 それでも《白》は、ティアの厚意をきちんと喜んでくれていた。ティアは大きな満足感を胸に、ペイフェイの肉を噛みちぎった。


「けっきょく今日も、外界の民は現れなかったな。族長ハムラよ、俺たちはいつまであの場所を見張らなくてはならんのだ?」


 ベリンボの団子を食していたライタが、そのように声をあげた。

 ラモラモの蒸し焼きを噛んでいたハムラは、それを呑み下してから、ライタを振り返る。


「外界の民が姿を現してから、ようやく10日ほどの日が過ぎた。ハムラはひと月が巡るまで、あの場所を見張るべきだと考えている」


「それでは、あと20日ほどか。外界の民は、再び現れるのであろうか?」


「それは、誰にもわからない。しかし我々は、この地を守らなければならないのだ」


 ハムラは静かな声音で、そう答えていた。

 チェリルの酒をぐびりと飲んでから、ライタはなおも言葉を重ねる。


「ライタは外界の民がどのような姿をしているかも知らない。また、我らの一族がかつて目にしてきたのは、いずれもギバ狩りの一族であったと聞いている。族長ハムラは、ギバ狩りの一族ならぬ外界の民を目にしたことがあるのだろうか?」


「ない。しかし、山の北側を狩り場とする一族が、ギバ狩りの一族ならぬ外界の民と出くわしたという話を、母から聞いている。いまからもう、50年は昔の話であろう」


 ハムラの母は、数年前に魂を返していた。赤き民の多くは、50の齢を重ねる前に、魂を返すものであるのだ。


「その外界の民たちは、北の側から森を抜け、山の恵みを荒らしていたらしい。よって、全身の皮を剥がされることになった。我々も、外界の民がモルガを荒らすようであれば、同じ罰を与えねばならんのだ」


「ふむ。外界の民は弱いのに、どうしてモルガに近づくのであろう?」


「おたがいの地を踏み越えないという誓約を結んでから、すでに長きの時が過ぎている。外界は広いので、その誓約を忘れてしまった民もいるのかもしれない」


 その誓約が外界の民と結ばれたのは、数百年もの昔であるという。赤き民はその誓約を守るために、親から子へと言葉を伝え続けているのだが、外界の民はそうではないのだろうか。


「また、世界がこの家の大きさだとすると、モルガの地はベリンボの団子ぐらいの大きさでしかないと伝えられている。モルガの近くに住む外界の民は誓約を忘れないのかもしれないが、遠くから訪れた人間はその誓約そのものを知らないのかもしれない」


「モルガの外には、それほどまでに大きな世界が広がっているのか。大神は、どうしてそのように多くの地を、外界の民に与えてしまったのであろう?」


「我々には、モルガの山だけで十分な広さであるからだ。ライタは、モルガを窮屈だと感じるか?」


「いや、感じない。何日かけてもモルガのすべてを巡ることは難しいのだから、これより大きくても困ってしまうだろうと思う」


「うむ。それが正しき考えだ」


 ハムラは、満足そうにうなずいた。

 リオンヌの干し肉をかじっていたティアが、そこで声をあげてみせる。


「では、外界の民はどうしてモルガに踏み込もうとするのであろう? 外の世界がそのように広いのなら、わざわざモルガの恵みを奪う理由はないように思える」


「外界の民は卑しいので、恵みがあればそれに手をのばそうとするものであるのであろう。モルガの恵みは、モルガでしか手にすることはかなわないのだ」


「なるほど。しかし、ギバ狩りの一族は決してモルガに足を踏み入れないと聞く。あいつらは、善良であるのだな」


 ティアの言葉に、ハムラが目を光らせた。


「卑しき心を持っていないとしても、大神を捨てた民を善良と呼ぶことはできない。外界の民は、いずれも大神を捨てた裏切りの一族であるのだ」


「それはもちろん、わかっている。でも、《白》の出会ったギバ狩りの一族も、善良な人間であったようだ」


「善良という言葉を使ったのはお前だ、ティア。ヴァルブの狼は、言葉を使わない」


「それはわかっているが……でも、《白》の心がそのように語っていたのだ」


 ティアが唇をとがらせると、ハムラはふっと口もとをほころばせた。


「では、言い方を変えよう。たとえ善良な心を持っていたとしても、外界の民とは相容れない。ペイフェイやリオンヌやナッチャと友になれないのと、同じことだ」


 それらはいずれもモルガに住まう獣たちであったが、同胞ではなく獲物である。心を通じ合わせることはできないし、ただその肉を喰らうことしかかなわない。モルガの民にとって、それらは樹木になる果実などと同じ存在に過ぎなかった。


「では、禁忌を犯した外界の民を見つけたら、皮を剥いでその肉を喰らうのか?」


「喰らわない。同じ人間を喰らうのは、大きな禁忌であろう?」


「同じ人間ではない。外界の民だ。……それでは、肉を喰らわないのに、どうして皮を剥ぐのだ?」


「それは、苦しみを与えるためだ。また、その者に人間としての資格がないと思い知らせるために、獣と同じように皮を剥ぐ。剥いだ皮と剥き出しの肉は、外界へと放り捨てて、その恥辱を同胞にさらすのだ」


 ティアは肩をすくめながら、ライタから奪ったヌーモの殻でチェリルの酒を口にした。


「面倒な仕事だな。外界の民とは出くわさないように祈ろうと思う」


「掟を面倒と言うことは許されない。ティアはまもなく、ナムカルの族長となる身であるのだぞ?」


「でも、いまはただの狩人だ。だから、見張りなどという面倒な仕事も引き受けている」


 ティアがそのように述べたてると、別の家族が笑い声をあげた。ハムラの弟で、ライタの父となる男衆である。


「ティアは幼い頃のハムラにそっくりだな。きっと立派な族長になるだろうから、何も心配をする必要はない」


 ハムラは溜息をこらえているような面持ちで、木皿の煮汁をすすった。

 すると、リオンヌの骨をかじっていた《白》が、ぴくりと身を起こす。


「どうした、《白》? 誰か近づいているのか?」


 ヴァルブの狼は、赤き民よりも鼻や耳の力が優れている。《白》は洞穴の入り口をにらみすえながら、鼻に皺を寄せていた。


「……晩餐の最中に失礼する」


 笑いを含んだ声とともに、黒い人影が入り口に浮かびあがった。

 それが赤き民の同胞であることは誰もが察していたが、驚かない人間はいなかった。


「何だ、ラズマの一族が、このような場所で何をしている?」


 ハムラが鋭い声をあげると、その者はふてぶてしく笑いながらティアたちに近づいてきた。さきほども帰る途中で出くわした、ルジャ=ホルア=ラズマである。


「さきほどは族長の跡継ぎに非礼な真似をしてしまったので、その詫びをしに出向いてきた。久しいな、ナムカルの族長よ」


「ラズマの族長たるホルアの長兄よ。非礼な真似とは、お前がティアに矢を放ったことだな」


 狩人は、全員がその目を光らせながら、腰を浮かせていた。

 ルジャはにやにやと笑いながら、それを見回していく。


「そんな風に、ナムカルとラズマの絆に傷がつくことを恐れたのだ。俺の謝罪を、受け入れてはもらえぬか?」


「……いったい、どのようにして謝罪しようというのだ?」


「それは、そちらの娘にもすでに伝えている」


 ルジャが、ひゅるりと奇妙な音色の口笛を吹いた。

 その音色に呼ばれて、洞穴の入り口に巨大な姿が浮かびあがる。それは、昼間のマダラマよりもふた回りは巨大な大蛇であった。


 洞穴の入り口にはマダラマ除けの香りをまぶしているのに、まったく苦にした様子もなく侵入してくる。ナムカルの狩人たちはいよいよ緊迫して、敷物に置いていた刀に手をのばしつつ、小さな幼子たちを背中にかばった。


「こやつは俺の荷運びを手伝ってくれただけだ。お前たちにもヴァルブたちにも牙を剥くつもりはないから、心配はいらない」


 巨大なるマダラマが、ルジャのかたわらにまでしゅるしゅると進み出てくる。その頭はルジャよりも大きく、首の太さなどはちょっとした大木ぐらいもありそうであった。その長大なる身体を覆う鱗は、てらてらと漆黒に照り輝いている。


「こやつは俺の友で、マダラマの族長だ。俺は、《ベルゼ》と呼んでいる。ベルゼの石のように黒く、硬い鱗を持っているからな」


「名など、どうでもいい。ヴァルブを友とする我らの家にマダラマを招き寄せることこそ、非礼ではないか」


「マダラマ除けの実の臭いもこらえて入ってきてくれたのだから、そうじゃけんにするな。マダラマとヴァルブと赤き民の族長が顔をそろえることなど、そうそうあるまい?」


 不敵に笑いながら、ルジャがマダラマの族長たる《ベルゼ》の顔を見上げる。

 黒き大蛇は、闇の向こうに溶けていた胴体を洞穴の中に引きずり込む。その胴体がもっとも太くなっている辺りに、3頭のペイフェイが蔓草でくくられていた。


「これが、詫びの品だ。その娘が逃がしたマダラマひとりと同じぐらいの滋養はあるだろう」


 ルジャが蔓草をほどくと、ペイフェイの身体が敷物の上に落ちた。

 敵意に満ちた眼差しに囲まれながら、大蛇の《ベルゼ》はまったく臆した様子もない。その太い首には、ラズマの族長から贈られたのであろう祝福の輪が巻かれていた。


「……ラズマの狩人よ。お前の母にして族長たるホルアは、この行いを許しているのか?」


 厳しい声でハムラが問うと、ルジャは「ふん」と鼻を鳴らした。


「家に戻る時間も惜しんでペイフェイを狩っていたので、まだ族長ホルアに許しは乞うていない。まあ、怒声のひとつは覚悟している」


「……そもそもお前がナムカルの狩り場に足を踏み入れなければ、いらぬ騒ぎが起きることもなかったのだ。族長の子として、少しは行いをつつしむがいい」


「ふん。族長の子といっても、跡継ぎになれぬ男衆ではな。そこらの狩人と立場は変わらぬさ」


 そう言って、ルジャは身をひるがえした。


「では、《ベルゼ》に我慢を強いるのは気の毒であるので、早々に帰らせてもらおう。……ティア=ハムラ=ナムカルよ、さっきは悪かったな」


「うるさい。さっさと立ち去るがいい」


 ティアが歯を剥いてみせると、横目でそれを確認したルジャは、また「ふふん」と鼻を鳴らした。

 そうしてヴァルブ狩りの狩人とマダラマの族長は、闇の向こうに消えていく。その気配が完全に感じられなくなり、ヴァルブたちが身を伏せてから、ナムカルの狩人たちもようやく息をつくことができた。


「まったく、道理を知らぬ小僧だな。あれがラズマの跡継ぎでなくて幸いだ」


「ああ。ラズマの一族は、やはり気に入らん」


 ライタとその父が、そのように言い合っていた。ティアはがりがりと頭をかきながら、かたわらの《白》を振り返った。


「けっきょくあいつは、お前には一言も詫びなかったな。獲物を奪われたのはお前も同じだというのに、まったく気に食わないやつだ」


「…………」


「うむ。おかしな争いにならなかったのは、幸いだと思う。だけどやっぱり、気に入らないのだ」


 すると、ライタがティアのほうに向きなおってきた。


「あいつはティアのことをやたらと気にしていたように思う。ティアは、あいつと何か縁を結んだのか?」


「ヴァルブ狩りの一族と縁を結ぶことなどない。顔をあわせたのも、今日を除けば族長の会合のときだけだ」


 ティアは跡継ぎの身として、その会合に同行したことがある。それで、ラズマの家で会合が開かれた際に、あのルジャと顔をあわせることになったのだ。


「もちろんラズマの一族とて、モルガの同胞であることに変わりはないが……ティアは、マダラマそのものよりも、マダラマを友とする一族のほうが、気に食わん」


「うむ。それは俺も、同じ気持ちだ」


 ライタは何やらほっとしたような面持ちで息をついていた。

 ヴァルブを友とする一族は、マダラマを友とする一族と仲が悪い。おたがいの友を獲物として狩る立場であるのだから、それが当然だ。


「あいつらには、きっとマダラマと同じぐらい冷たい血が流れているのであろう。だから、ヴァルブではなくマダラマに心を寄せるのだ」


「ティアよ、そのように悪し様に述べ立てるものではない。マダラマも、ヴァルブ狩りの一族も、同じモルガの子であるのだからな」


 ハムラはそのように述べてから、まだざわついている家人たちを見回した。


「では、ペイフェイの始末をしろ。せっかくだから、1頭はこの夜に食し、1頭は《白》に持ち帰ってもらうことにする。あの者に獲物を奪われた《白》には、それを口にする資格があるはずであるからな」


                      ◇


 その翌朝である。

 ティアが目を覚ますと、目の前に《白》の大きな顔があった。

《白》は昨晩、4名の同胞とともに、この家で身を休めることになったのだ。ぱちりと目を開いた《白》は、大きな舌でティアの頬をなめてきた。


「ふふ。くすぐったいぞ、《白》。この夜は、ぐっすり眠れたか?」


「…………」


「ああ。マダラマなどが忍び込んでこなくて幸いだった。まあ、普通のマダラマであれば、我らの家に近づくことなどはできないはずであるのだからな」


 ナムカルの一族の家は、いずれもマダラマ除けの実の香りで守られている。そうでなければ、狩人たちが安心して仕事に向かえないためだ。刀と弓を置いた女衆と幼子だけでは、マダラマにあらがうすべは存在しないのだった。


「マダラマの族長というのは初めて目にしたが、あれはなかなかの勇者であるようだな。ナムカルの狩人でも、かなりの人数を集めなければ太刀打ちできないことだろう」


「…………」


「うむ。マダラマは数が少ない分、ひとりひとりがとてつもない力を持っている。《白》もマダラマに狩られてしまわないように、くれぐれも気をつけるのだぞ」


 そんな言葉を最後に、ティアは寝床で身を起こした。

 洞穴の入り口からは朝の光が差し込んでおり、他の家族たちも目を覚ましつつある。ティアにくっついて眠っていた一番下の妹カシャも、ようやく目もとをこすりながら身を起こした。


「……おはよう、ティア。今日も朝から、ティアが見張りの仕事だったっけ?」


「うむ。3日ずつで交代だから、今日もティアが見張りの当番だ」


 他の狩人たちは、早くも狩りの準備をしている。リオンヌやナッチャは朝方のほうがよく狩れるので、まずは朝一番の仕事を果たすのだった。

 その間、家に残される女衆や幼子は、ペイフェイの皮をなめしたり、チェリルの酒を仕込んだり、ベリンボの団子を作ったりする。日が高くなったら、今度は新しいチェリルやベリンボを収穫するために、マダラマ除けの香りを纏って山を歩くのだ。妹は、まだ眠そうに目をしばたかせながら、ティアの顔を見やってきた。


「カシャも早く、狩人になりたいな。そうしたら、みんなに毎日ペイフェイを食べさせられるのに」


「ペイフェイを狩るのは、なかなか難しいのだぞ。あいつらはちっとも動かないから、まず見つけるのが難しいのだ。そうして迂闊に近づくと、思いも寄らぬ素早さで引っ掻かれてしまうからな」


「知っている。ライタの腹にある大きな爪痕を見せてもらったもの。……でもカシャは、きっとライタより強い狩人になれると思う」


 いまだ9歳の幼子にそのように言われているとも知らず、ライタは狩りの準備を進めていた。


「確かにライタは、ティアほど収穫をあげることはできていない。でも、女衆は13歳で婚儀の準備を始めるが、男衆は力を失うまで狩人として生き続ける。カシャが狩人になる頃には、ライタもいまよりは立派な狩人になっていると思うぞ」


「ふーんだ。それでも、カシャのほうが立派な狩人になるもん」


 カシャは、小さな顔をぷっとふくらませた。

 赤き民の女衆は、誰もが10歳から13歳までを狩人として生きる。その間に強き力を見せた人間こそが、より多くの男衆から婚儀を願われることになるのだ。後世に強き血をのこすための、それが赤き民の習わしであるのだった。


「ティア、お前は今日も見張りの仕事だったな。今日も1日、決して気を抜くのではないぞ?」


 と、仕事の準備を終えたライタが、ティアたちのほうに近づいてきた。

 カシャはすました顔でそっぽを向き、ティアは《白》の首筋を撫でながら、小首を傾げてみせる。


「仕事のさなかに気を抜いたりはしない。どうしてわざわざ、そのようなことを述べたててくるのだ?」


「いや……あのラズマの男衆が、またやってくるのではないかと思ってな。あいつがまたマダラマの族長などを引き連れていたら、危険であろう?」


「黒いマダラマなど、ティアはこれまでに見たことはなかった。あのマダラマの一族はもっと遠くで暮らしているのだろうから、そうそう姿を見せることはないように思うぞ」


「しかし、昨日は姿を見せたではないか」


「しつこいな。あいつらがまた禁忌を犯すようだったら、ティアが罰を与えてやる」


 ティアは鼻に皺を寄せて、ライタを追っ払ってみせた。

 ライタはすねたような顔で、父親とともに洞穴を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、カシャが「ふん」と鼻を鳴らした。


「ライタはきっと、ティアと婚儀をあげたいと願っているんだよ。ライタより立派な狩人なんて他にもいくらでもいるんだから、無理に決まっているのにね」


「ティアの婚儀など、まだまだ先の話だ。次に《大神の目》が瞬くのは、半年以上も先だからな」


「でも、たくさんの男衆が、ティアと婚儀をあげたがっているよ。ティアはとても強い狩人だし、目や耳や口もこんなに大きいしね」


 目や耳や口が大きいと、その力が優れているように感じられる。ゆえに、その一点をもって、赤き民は容姿の美醜をはかるのだった。


「それでも、婚儀はまだまだ先の話だ。それまでは、ティアは狩人としての生をまっとうする」


 それだけ言って、ティアは立ち上がった。見張りの仕事を果たすティアも、狩人としての装備を整えなければならないのだ。


「カシャ、干し肉と団子を持ってきてくれ。あと、水筒もな」


「うん。リオンヌの干し肉をもらってきてあげるね」


 カシャはぴょこんと立ち上がると、食料を蓄えている横穴のほうに駆けていった。見張りの仕事は中天までなので、食事も持参しなければならないのだった。


 カシャから受け取った食料の袋を腰にくくりつけ、狩人の衣を身に纏う。ベルゼの刀を腰の帯に差し、弓と矢筒を肩に掛ければ、出立の準備も完了だ。

《白》のまわりにも、4名のヴァルブが寄り集まっている。そのうちのひとりは、昨晩ハムラから贈られたペイフェイの身体を背中にくくられていた。


「では、行ってくる。カシャもきちんと、家の仕事を果たすのだぞ?」


「わかってるよーだ」


 家族たちと別れを告げて、ティアは洞穴の入り口に立った。

 岩盤に穿たれた大きな洞穴で、酸っぱい香りが濃厚にたちのぼっている。辺りの岩に塗りつけられた、マダラマ除けの実の香りである。


 また、この洞穴は断崖の途中にぽっかりと空いている。地面までの距離はかなりのものであり、赤き民は蔓草を伝って、下まで降りていくのだった。

 そうしてティアが蔓草を伝っていくと、そのかたわらを5名のヴァルブが風のように駆け下っていく。ヴァルブはこれほど急な斜面でも、己の力だけで踏み越えることができるのだ。肉体の力で劣る赤き民が、ヴァルブやマダラマと同等に渡り合えるのは、刀や弓を使える器用さゆえであった。


(そういえば、《白》と別れの挨拶をしていなかったな)


 そのように考えながら、ティアは地面に降り立った。

 すると、その場には《白》だけが待っていてくれた。


「うむ。お前も挨拶をしたいと思ってくれたのだな。ひさびさに長きの時間をともにできて、とても嬉しく思っているぞ」


「…………」


「何? あの場所まで、一緒に行ってくれるのか? ……そんなに長い時間、伴侶や子を放っておいて大丈夫なのか?」


《白》は、ぺたりと身を伏せた。その姿に、ティアは思わず笑みをこぼしてしまう。


「なるほど。お前の足ならば、それほどの時間もかかるまい。それならば、大した時間もかけずに伴侶たちのもとに戻ることもできるだろう」


 ティアは、《白》の逞しい背中にまたがった。

 他の家からナムカルの同胞たちがやってきたのは、ちょうどそのときであった。ティアと同じ時間、見張りの役をつとめる狩人たちである。


「おや。ティアはまた《白》と一緒に移動するのか?」


「うむ。皆には悪いが、ひと足先に行っているぞ」


「いや。ティアは間もなく族長となるのだから、《白》とは絆を深めておくがいい」


 笑顔の同胞に見送られて、ティアは《白》とともに出立した。

《白》の首にしがみついて、強い風を頬に感じる。地面を駆けることに関して、赤き民はヴァルブに遠く及ばなかった。


(その分、ヴァルブは木登りが苦手であるからな。それに、その牙や爪は鋭いが、マダラマを仕留めるには、いささか長さが足りていない。その代わりに、マダラマや赤き民よりも早く走る力を与えられたのだろう)


 いっぽう、赤き民は木の上を自由に動けるので、マダラマを相手取るのに苦労が少ない。その代わりに、ヴァルブの牙や爪を防ぐ手立てがない。赤き民はマダラマより強く、マダラマはヴァルブより強く、ヴァルブは赤き民より強い――と言われる所以であった。


(だから、ヴァルブ狩りの一族は、自分たちがモルガでもっとも強き一族なのだと驕っているのだろうな。しかしそれも、マダラマの力を借りた強さだ。もっとも強いのは、ヴァルブとともに戦う一族だぞ)


 ティアは、そのように信じていた。

 昨晩の《ベルゼ》はたいそうな勇者であるようであったが、《白》とともにあれば、負けることはない。誰よりも素早いヴァルブと、遠くから矢を放つことのできる赤き民が力をあわせれば、どのようなマダラマでも仕留めることができるのだ。


(だけどまあ、あのような勇者と戦えば、《白》が危険にさらされてしまうからな。族長同士の争いなど、避けるに越したことはないだろう)


 ティアがそのように考えたとき、《白》がいきなり横合いに跳躍した。

 そうして、岩塊の上に飛び乗ると、樹木の上を見上げながら、敵意に満ちたうなり声をあげる。ティアは一瞬意味がわからなかったが、地面に一本の矢が突き刺さっていることに気づいて、息を呑んだ。


「やれやれ。今日はこのような呼び止め方をする気はなかったのだがな」


《白》のにらみあげている梢から、またあの皮肉っぽい笑い声が聞こえてくる。ティアは岩盤の上に降り立って、弓を取り上げた。


「またお前か! お前は何度、禁忌を破れば気が済むのだ!?」


「いまのは、そこのヴァルブめの足を止めたかっただけだ。お前に話があったのに、素通りされそうなところであったからな」


 樹木の上から、ルジャが飛び降りてきた。

 やはりその弓はすでに肩に掛けられていたが、ティアはそうする気持ちにはなれなかった。


「いったいお前は、何なのだ! ティアと《白》に恨みでもあるのか!?」


 そのように叫びながら、ティアは周囲の気配を探っていた。それに気づいたルジャが、「ふふん」と鼻を鳴らす。


「そのように警戒しなくとも、《ベルゼ》は連れてきていない。族長たるあいつをそう好き勝手に連れ回すことはできないし、《ベルゼ》がいたら、お前も心安らかにはできぬだろうからな」


「お前の顔を見ているだけで、心を安らがせることはできん! このような真似をする、理由を言え!」


「俺は、お前と語らいたいのだ。見張りの仕事が始まってからにしようかとも考えたが、俺もそろそろ家に戻らないと、こっぴどく叱られてしまうのでな」


 そのように述べながら、ルジャは足もとに弓と矢筒と刀を置いた。

 そしてそこから5歩ほど離れてから、地べたに座り込む。


「リオンヌあたりが現れても、お前たちが仕留めてくれるだろう。こうして武器を遠ざけたから、俺と言葉を交わしてはもらえぬか?」


「お前と語らう理由などない! ヴァルブ狩りの一族とマダラマ狩りの一族は、同胞なれども友ではないぞ!」


「そら、その習わしだ。俺は、そいつが気に食わん」


 そう言って、ルジャは立てた膝に頬杖をついた。

 その顔はにやにやと笑ったままであったが、赤みがかった瞳にはいくぶん真剣そうな光が浮かべられている。


「俺たちは、長らく反目し合ってきた。おたがいの友を獲物としているのだから、それも当然のことなのかもしれないが……同胞であるのに友にもなれないというのは、何やらおかしな話だとは思わんか?」


「ふん! ティアたちはヴァルブを友としているのだから、ヴァルブの肉を喰らうお前たちを友とは思えん! 何もおかしな話ではない!」


「そうであろうか? では、どうしてマダラマを友とするヴァルブの一族は存在しないのであろうな。赤き民だけが、マダラマやヴァルブを友としている。この有り様は、本当に正しいものであるのだろうか?」


 ティアには、ルジャの言わんとすることが、いまひとつわからなかった。

 ただ、かまえていた弓だけは下ろして、ルジャの顔をにらみつける。《白》も、うなり声こそあげていなかったが、十分に警戒した目つきでルジャを見据えていた。


「だったら、お前たちがヴァルブを喰らうのをやめればいい。そうすれば、友として振る舞うこともできるだろう」


「それでは、ヴァルブが増えすぎてしまう。すべての赤き民がヴァルブを友としたら、マダラマはひとり残らず狩り尽くされてしまうかもしれんぞ」


「では、どうせよと言うのだ? 我々は、決してヴァルブを狩ったりはせんぞ!」


「だから、お前たちまでマダラマを友としたら、今度はヴァルブが滅びてしまうというのに。お前も、少しは頭を使え」


「…………」


「おや、怒ったのか? いずれ族長となる人間に、また失礼をしてしまったかな」


 ルジャは、ひょいっと肩をすくめた。


「まあいい。とにかく俺は、それで思い当たったのだ。赤き民が正しく生きるには、ヴァルブとマダラマを両方とも友とするか……あるいは、両方とも獲物とするか、どちらかの道を選ぶべきではないか、とな」


「何を馬鹿な……ヴァルブとマダラマを両方とも友としたら、ペイフェイやリオンヌが狩り尽くされてしまう。かといって、両方を獲物としたら、赤き民がマダラマとヴァルブに滅ぼされてしまうかもしれないではないか」


「しかし、そうすれば、すべての赤き民が手を携えることができるようになる。俺は、それこそがもっとも重んずるべき点ではないかと思えるのだ」


 ルジャは、そのように言葉を重ねた。

 もはや、その顔から笑みは消えている。


「少し考えてみるといい。ヴァルブやマダラマを友にしたのは、掟に従ってのことではない。我々の祖はおそらく、このモルガの山で生き抜くために、自らその道を選んだのだ。ヴァルブやマダラマを味方につければ、より容易く生きることがかなうであろうからな」


「……だったら、何だというのだ? 掟に従った行いでなくとも、掟に背いた行いでもないのだから、大神の怒りに触れることはあるまい」


「しかし、赤き民の力が弱まれば、大神の目覚めるその日まで、血筋をのこすこともかなわなくなる。そのために、赤き民はより強き力を得るべきであるのだ」


「…………」


「ヴァルブとマダラマの両方と戦っても、負けない強さを得るか……あるいは、ヴァルブとマダラマの両方と友になれる力を得るか。俺は、そのどちらかを選ぶべきなのだろうと思う」


 ティアは溜息をつきながら、頭を横に振ってみせた。


「ティアはいまだに、ひとりの狩人にすぎん。このような身で、一族の命運を左右するような話を語るべきではないように思う」


「しかしお前は、いずれナムカルの族長となる身だ。だからこそ、俺はお前に語っている」


「お前は族長になれぬ男衆ではないか。自分が正しいと思うのなら、族長たる母と語るべきではないか?」


「あの頑固者は、俺の話に耳を傾けようとしない。跡継ぎたる妹も、それは同じことだ。だから俺は、ラズマの家を出て、正しき道を探したいと願っている」


 そう言って、ルジャはにっと白い歯を見せた。


「だから、俺と婚儀をあげてはもらえぬか、ティア=ハムラ=ナムカルよ?」


 ティアは、きょとんと目を丸くしてしまった。


「お前は、何を言っているのだ? ティアと婚儀をあげるのは、ナムカルでもっとも強き狩人だ」


「同じ一族の人間と婚儀をあげるというのも、べつだん掟ではあるまい。ただ、先人が重ねてきた習わしに過ぎない。正しき道を進むには、古い習わしを捨てる必要もあろう」


「しかし、ナムカルとラズマは、とても仲が悪い。おたがいの家族が、そのような婚儀を許すわけがない」


「だからこそ、意味があるのだ。ナムカルとラズマの人間で婚儀をあげれば、すべての赤き民が驚きに打ちのめされることになるだろう。そしてきっと、俺たちがどうしてそのような真似をしたのか、聞きほじるに違いない。そうして言葉を交わし合い、一族を正しき道に導くのだ」


「……ティアと《白》に2度までも矢を射かけてきたお前と、婚儀をあげる気持ちにはなれん」


「お前たちを傷つけるための矢ではなかった。ペイフェイを3頭も贈ったのだから、いいかげんに許してはもらえぬかな」


 ルジャは、苦笑まじりにそう言った。

 その瞳には、思いがけないほど穏やかな光がたたえられている。


「それに俺は、ナムカルでもっとも力を持つ狩人よりも、大きな収穫をあげられるはずだぞ。あのわずかな時間で3頭もペイフェイを狩ることのできる狩人が、ナムカルにいるか?」


「ふん。どうせマダラマの力を借りたのであろうが?」


「あの《ベルゼ》は、そこまで親切なマダラマではない。それに、これは俺ひとりで成し遂げなければならない仕事であったのだ」


 そう言って、ルジャはゆっくりと立ち上がり、己の武器を拾いあげた。


「まあ、《大神の瞳》が瞬くまで、あと半年ばかりは残されている。その間に、じっくり考えてみてくれ。その間に、俺はより強き力をつけてみせよう」


「…………」


「それではな。外界の民と出くわしたら、どのような連中であったか話を聞かせてくれ」


 ルジャは最後ににやりと笑ってから、手近な木に飛びついた。

 その気配が十分に遠ざかってから、ティアは《白》を振り返る。


「あいつがあれほどまでにおかしなことを言い出すとは思っていなかった。ヴァルブとマダラマの両方を友とするか、両方と絆を絶つか……そのような話を、他の同胞が承諾するとは思えん」


「…………」


「それはまあ、すべての赤き民とヴァルブとマダラマが友になれれば、より安らかな生を送れるだろうけれど……それが簡単な話なら、先人たちがそうしていたはずだ」


「…………」


「ああ、もういい! ティアは、狩人にすぎないのだ! まだ族長にもなってはいないのだから、このような話で頭を悩ませる筋合いはない!」


 ティアは弓を肩に引っ掛けて、《白》の上に飛び乗った。


「さあ、外界との境目に連れていってくれ! 他の者たちに遅れてしまうかもしれんからな!」


 得たりと、《白》は駆け始めた。

 その首にしがみつき、ティアは止まらない溜息をこぼす。


(まったく、わけのわからぬやつだ。あいつは族長でもないくせに、どうしてそんな小難しい話を考えたのだ? それは、ラズマの族長にそっぽを向かれるのが当たり前だ)


 ティアの胸には、大きな動揺が残されてしまっていた。

 正体のわからない、川の濁流じみた感情のうねりである。


(それに、ティアがあいつの子を産むなんて、まったく想像がつかんぞ。こんなにティアを怒らせておきながら、あのような口を叩くとは……まったく、礼を失したやつだ!)


 しかしまた、あのように短い時間でペイフェイを3頭も狩ることのできる狩人は、ナムカルに存在しない。それも、まぎれもない事実であった。


(とにかく、家に戻ったら母ハムラに相談しよう。……どうせ叱られることになるのだろうがな)


 そのように結論づけて、ティアは《白》の毛皮に顔をうずめた。

 ティアはこの日、見張りの仕事を終えた帰り道でペイフェイを発見し、それを捕らえたところで手負いのマダラマに襲われて、川に落ちることになるのだが――むろん、その朝のティアにそのようなことを予見することはできなかった。


 外界の地を踏むことになったティアが、その後にどのような運命を歩むことになるのか。それを知る者も、またいない。父なる大神は深い眠りの中にありながら、その運命を夢の中で見通しているのかもしれなかったが、現世に生きる人間たちには関わりのないことであった。

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