第三話 望郷の大罪人
2018.9/29 更新分 1/1
悪夢の中で、彼は必死に逃げまどっていた。
恐ろしい化け物が、うなり声をあげて彼を追ってきている。それは闇が凝り固まったかのように真っ黒の化け物で、その双眸は炎のように燃えていた。
その熾烈な眼光に、彼ははっきりと見覚えがあった。
ただ、それが誰のものであったのかは思い出せない。
彼が何よりも恐れていた、父であろうか?
それと同じぐらい恐れていた、父の姉の息子であろうか?
あるいは、あの陰気な貴族の小男であろうか?
それとも、小男の弟たる醜悪な大男であろうか?
そんな疑念を腹の中に抱えながら、彼は暗闇の中を逃げまどっていた。
そうして、ようやく悪夢から覚めると――そこには、悪夢と大差のない苦悶に満ちみちた生が待ち受けていた。
◇
「……おお、ようやく目覚めたのか」
聞き覚えのない声が、頭の上で響いていた。
しかし、全身が激しい痛みに苛まれており、それに返事をすることもままならない。腕にも足にも力が入らず、全身が焼けただれているかのように熱かった。
「無理に動くと、傷口が開くぞ。水を飲みたいのか?」
男の声が近づいてきたかと思うと、口もとに何か冷たいものがあてがわれてきた。
それは金属の杯であったらしく、冷たい水が口の中に流れ込んでくる。大半は顔の横にこぼしてしまったが、彼はむさぼるようにそれを飲んだ。
「このまま魂を返してしまうかと思ったが、しぶといやつだ。……まあ、素直に魂を返したほうが、よほど楽であったかもしれんがな」
男の声は、何かの感情を懸命に押し殺しているように感じられた。
しかし彼には、そのようなことにかかずらっている余力もない。
「ここはいったい……? お前は、誰なのだ……?」
「お前こそ、名は何というのだ? 俺はお前の名前も知らされぬまま、見張りの仕事などを受け持つことになったのだ」
そのように述べながら、男が顔を寄せてきた。
粗末な革の兜をかぶった、兵士である。まだそれほど年は食っていないようで、彼にとっては息子ぐらいの年齢であるように見えた。
「我は……いや、俺は……ズーロ=スンというものだ……」
「ズーロスン? ずいぶん、奇妙な名だな。妙に浅黒い肌をしているが、東の血筋であるのか?」
「いや……俺は、森辺の民だ……森辺の民で、あったものだ……」
そのように答えると、これまでとは異なる痛みが胸の中に走り抜けた。
故郷のことを思うとき、ズーロ=スンの胸には常に痛みが走るのだ。いまの彼は、森辺の民を名乗ることも許されない、大罪人であった。
「森辺の民。どこかで聞いた覚えがあるな。たしかジェノスの近在に住まう、自由開拓民だったか」
「いや……モルガの森辺はジェノスの領土なので……森辺の民は、ジェノスの民とみなされていたはずだ……」
「ふん。まあ、何でもかまわぬさ。罪を贖わない限り、故郷も血筋も意味をなさないのだからな」
そのようなことは、ズーロ=スンが誰よりも承知していた。
兵士の男は身体を引いて、視界の外に消えていく。ズーロ=スンは首を動かすことも困難であったので、それを目で追うこともできなかった。
「おい……教えてくれ……俺はいったい、どうしてしまったのだ……?」
「お前は、何も覚えていないのか? お前たちは……鉱山で働いているさなかに、大きな地震いに見舞われたのだ」
その言葉で、ズーロ=スンはようやくすべてを思い出すことになった。
暗い坑道を逃げまどう人々の姿や、その者たちのあげる悲痛なわめき声が、ありありと脳裏に蘇る。あれはまさしく、悪夢のごとき出来事であったのだった。
「お前はあの騒乱の中、自らの生命もかえりみずに、多くの人間を助けたそうだな。だから牢獄には戻されず、このように手厚い看護を受けることになったのだ」
「そうか……あの者たちは、助かったのだろうか……?」
そこで、男の声が途切れた。
それから、いっそう感情を押し殺したような声が響く。
「あれだけの地震いで、すべての人間が助かるわけはない。しかし、お前が身を挺したために、数十名の人間は救われたことだろう。……お前は何故、そうまでして他者のために身体を張ろうと考えたのだ?」
「何故……? 窮地にある人間を救うのに、理由が必要なのだろうか……?」
「あの場には、大罪人と見張りの兵士しかいなかった。大罪人の中に、大事な仲間でもいたのか?」
「仲間……仲間など、いない……俺は、すべての同胞と縁を絶たれた身であるのだ……」
胸の中が、ずきずきと痛んだ。
兵士の男は、視界の外で「ふん」と鼻を鳴らしている。
「まったく、酔狂なやつだ。巨大な岩盤の下敷きになったお前は、あちこちの骨をへし折られた上に、皮膚も肉もずたずたに引き裂かれていた。可能な限りの手当てはほどこされているが、その傷では長くもつまい」
「そうか……俺の生命も、ここまでであるのだな……」
ズーロ=スンの頬に、涙が伝わった。
しかし、胸の痛みはさきほどよりも軽くなっている。
「ならばそれが、母なる森の思し召しであるのだろう……俺はそれだけの大罪を働いてしまったのだから、是非もない……」
「……お前は、魂を返したかったのか? 苦役の刑というのは、死よりも苦しい罰だからな」
ズーロ=スンは、「いや……」と答えてみせた。
「俺は、故郷に帰りたかった……それがかなわぬことを、何よりも苦しく思う……しかし、これが母なる森の思し召しであるのだろう……」
「死にたくないのなら、どうしてあのような無茶をした? 他の連中にかまっていなければ、お前は誰よりも早く逃げ出せたはずだ」
兵士の声に、怒気のようなものが混じった。
ただ、本当はそれと異なる感情を隠しているようにも感じられる。それを心の片隅で奇妙に思いつつ、ズーロ=スンは再び「いや……」と応じてみせた。
「ただ生きのびるだけでは、意味がない……俺は森辺の民として、誇り高くあらねばならんのだ……それができないのなら、おめおめと生きのびる意味もない……」
「ふん! それで自分がくたばったら、何の意味もなかろうが?」
「死にたくはない……しかし、森辺の民であれば、誰もが同じようにしたはずだ……だから、俺もそうしないわけにはいかなかった……」
ズーロ=スンの目からは、止めようもなく涙がこぼれていた。
それはいったい、どういう理由から流される涙であるのか――故郷に帰ることのできない無念の涙であるのか、わずかなりとも森辺の民らしく振る舞えたこと嬉しく思っての涙なのか、ズーロ=スン自身にも判別することはできなかった。
ズーロ=スンは、一度として正しく生きたことのない人間であった。
族長筋の跡継ぎとして生まれながら、父親の存在を恐怖することしかできず、その間違った教えに諾々と従っていた。家族や分家の人間たちがどれほど苦しんでも、それを救うことはできなかった。そして、恐ろしい父親が病魔によって動けなくなったのちは――それまでの惨めな半生に報復するかのように、堕落し果ててみせたのだ。
しかし、本当に惨めであったのは、その堕落してから後の生であった。いまのズーロ=スンは、その事実を無念の思いとともに噛みしめていた。
強大無比であった父親が病魔で倒れたとき、ズーロ=スンは心を入れ替えるべきであったのだ。
父親から押しつけられた掟を打ち捨てて、森辺の民としての誇りを取り戻すべきだった。それができなかったからこそ、ズーロ=スンはこうして故郷を追われることになったのである。
ズーロ=スンは、誰ひとり救うことができなかった。美しい伴侶も、5名もの子供たちも、同じ家に住む年長の家人も、ともに苦しんできた分家の者たちも――誰ひとり救うことなく、ズーロ=スンは安楽な道を選んだ。それが、ズーロ=スンの罪だった。
眷族たる北の一族や、長年の宿敵たるルウの血族の目に怯えながら、ズーロ=スンは堕落の限りを尽くした。ギバ狩りの仕事もせず、森の恵みを食い荒らし、褒賞の銅貨を独占した。それは父親の間違った教えであったが、受け入れてしまったのはズーロ=スンだ。父親が倒れてからの10年間は、ズーロ=スンこそがスンの血族たちに間違った運命を強いていたのだった。
(父ザッツは、ジーンの狩人の咽喉を噛み破って、逃げたという……俺が父ザッツの教えを破っていたら、同じ目にあっていたかもしれない……それでも俺は、そうするべきであったのだ)
そうすることができなかったため、ズーロ=スンはこうして大罪人となっている。
しかし、ズーロ=スンはこの状況に満足していた。
これまで1度として正しく振る舞うことのできなかった自分が、ようやく正しい道を見つけることができた。ズーロ=スンは、そのように考えていた。スン家の大罪を一身に背負い、死よりも苦しい刑罰に身をさらす。それでようやく、ズーロ=スンはすべての呪縛から解き放たれたような心地を得ることがかなったのだった。
(このようなものは、俺が勝手に満足しているだけかもしれない……自分の身を痛めつけることで、かつての罪から目を背けているだけなのかもしれない……しかしそれでも、俺にはこれが唯一の、正しい道であると思えたのだ)
苦役の刑が苦しければ苦しいほど、ズーロ=スンの心は救われた。これほどの苦しみを乗り越えれば、故郷に戻ることも許されるのではないか。そのように信じることもできた。たとえ10年ののち、故郷の同胞たちが冷ややかな目で自分を迎えたとしても、森辺で最後の時を過ごし、母なる森に魂を返すことができれば、それで満足だった。その願いを果たすためにこそ、ズーロ=スンはこの1年間の苦しみに耐えてきたのだった。
(残りの苦役は、9年ほどだった……俺は石にかじりついてでも、その苦役をやりとげてみせたかった……)
しかし、どうやらズーロ=スンの命運は、ここまでであるようだった。
故郷に残してきた、家族たち――いや、かつて家族であった者たちの面影に思いを馳せながら、ズーロ=スンは涙を流し続けることになった。
(オウラ、ヤミル、ディガ、ドッド、ミダ、ツヴァイ……お前たちは、森辺の民として正しく生きているのか……? 父ザッツに、テイ=スン……あなたたちの魂は、母なる森の腕に抱かれることができたのか……?)
全身が燃えるような苦悶の中、ズーロ=スンはそのように考えた。
しかしもちろん、その問いに答えられる者はなかった。
◇
それから、短からぬ日が過ぎ去っていった。
暗い部屋の中で横たわっているだけのズーロ=スンには、それがどれだけの時間であったのかも判然としない。意識のある間は全身の痛みに苛まれ、眠っている間は悪夢に脅かされる。毎日が、その繰り返しだった。ただ、毎日定まった刻限に食事と薬が届けられているようなので、その回数を考えると、ずいぶん長い日が過ぎ去ったのではないかと思われた。
「お前の処遇に関しては、王都の審問官におうかがいを立てているのだ。大罪人を、いつまでも手厚く遇するわけにはいかんだろうからな」
見張りの兵士は、そのように述べていた。
「王都からの使者が到着すれば、お前はきっと牢獄に戻されるだろう。まともな薬も与えられず、己の傷口に蛆がわくのを感じながら、苦しみ抜いて死ぬことになるのだ」
「そうか……それが、母なる森の思し召しであるのであろう……」
ズーロ=スンがそのように答えると、兵士がぐっと顔を近づけてきた。
その目には、何やら思いつめたような光が浮かべられている。
「何なのだ、お前は? 何を聞かされても、悟りきったような顔をしおって……魂を返すのが、恐ろしくはないのか?」
「恐ろしくはない……ただ、無念であるばかりだ……」
「だったら、少しは無念そうな顔をしてみろ。このような最期を迎えることになって、お前は後悔しておらんのか?」
「後悔は、していない……ただ、無念であるばかりだ……」
兵士の顔が、苦悶をこらえるように引きつった。
この兵士は、ときおり心を乱すことがある。その理由が、ズーロ=スンにはわからなかった。
「ズーロスン、お前は……まだ自分が助かるのではないかと、心のどこかで思っているのか? それともまさか、こうして牢獄の外にあれば、悪党仲間が助けに来るとでも思っているのか?」
兵士は、ひび割れかけた声でそう言った。
「ここはな、傷ついた兵士たちが身を休めている宿舎であるのだ。見張りの兵士はいくらでもいるのだから、どのような悪党でもお前を救うことはできん」
「俺を救おうとする者など、いない……俺とともに道を間違えた人間は、すでに魂を返しているか……あるいは、罪人として捕らえられているのだ……まあ、そうでなくとも、俺を救う筋合いなどはあるまいが……」
「では、故郷の仲間たちというのは、どうだ? まわりの連中に聞いたところによると、森辺の民というのは固い血の結束を有しているというではないか」
「この身の罪を贖わない限り、森辺の民が俺の身を救おうとするはずがない……森辺の民は血の縁を重んずると同時に、法や掟をも重んずるのだ……」
「ふん。それでは、見殺しか。ずいぶん薄情な連中ではないか」
「掟のためならば、情をも殺す……とはいえ、掟を守りさえすれば、情を殺す必要もない……だからこそ、森辺の民は掟を重んずるのであろうよ……」
この兵士と語らうことは、ズーロ=スンにとって苦痛ではなかった。口をきくだけで身体は苦しかったものの、己の心情を言葉にすると、それがより明確に形をなすように思われたのだ。
しかし、今日の彼はいつもよりもいっそう思いつめた顔になっているように思われた。
その目はくいいるようにズーロ=スンを見つめており、顔からは血の気が引いている。兜のひさしが濃い陰影を作り、妙に不吉な表情にも見えた。
「それでは、お前は……完全に覚悟を固めているのだな、ズーロスンよ」
「覚悟とは……? 魂を返すことを言っているのならば、無念ではあるが恐れてはいない……」
「そうか」と、兵士は腰の刀に手をかけた。
「では……お前が望むなら、俺がお前に魂を返させてやろう」
「何故に、お前が……? お前はひょっとして、俺に恨みでも持っていたのか……?」
「この場で初めて顔をあわせたのに、どうしてお前を恨む理由がある。俺は……」
と、兵士は顔を引き歪めた。
「……俺は、お前に弟を救われたのだ」
「弟を……? お前の弟は、大罪人か見張りの兵士であったのか……?」
「俺の弟が、罪など犯すものか。俺の弟も兵士であり、お前が働いていた坑道を監視する役を担っていたのだ」
剣の柄をつかんだ男の指先が、わずかに震えていた。その目は、いっそう思いつめた光をたたえている。
「弟は何本かあばらを折ってしまい、いまも別の部屋で休んでいる。しかし、お前が救いの手をのばしていなければ、きっと生き埋めになっていただろう。弟自身が、そのように語っていたのだ」
「そうか……では、どうして俺がお前に殺されなければならないのだろうか……?」
「弟を救ってくれたことに対する、せめてもの礼だ。もしも牢獄に戻されれば、お前は苦しみ抜いた上で死ぬことになる。そのように無残な運命から、お前を救ってやろうというのだ」
ズーロ=スンは、心から驚くことになった。
「そうか……しかし、そのような真似をする必要はない……どのような苦痛に見舞われようとも、それは母なる森の思し召しであるのだからな……」
「お前は、何もわかっていない。お前の苦痛をやわらげるために、どれだけ上等な薬を使われていると思っているのだ? その薬を与えることを禁じられれば、お前はさらなる苦痛と熱に見舞われながら、全身の傷が腐り果てていくことになるのだぞ」
「そのように貴重な薬が、俺に与えられていたのか……それこそ、身にあまる行いであるのだろう……」
ズーロ=スンは、裂傷でひきつる顔に、何とか笑みを浮かべてみせた。
「それでも、お前が俺などのために罪を犯す必要はない……そして俺も、どれだけ苦しくとも自ら死を選ぶことはない……お前はどうか、弟のためにも正しき道を生きてくれ……」
兵士は、がっくりと肩を落とした。
「……本当に、それでいいのだな?」
「いいのだ……これで、いいのだよ……」
そのとき、扉を叩かれる音色が響いた。
食事や薬の刻限には、まだ早いように感じられる。兵士の男も、うろんげに横合いを振り返っていた。
「何用だ。ついにこの罪人の処遇が決められたのか?」
返事はなく、ただ扉の開かれる気配がした。
たちまち、兵士の男は青い顔で敬礼をする。
「た、隊長殿でありましたか。これは失礼をいたしました」
「かまわん。こちらも、急用であったのでな」
少しは首の動かせるようになっていたズーロ=スンは、そこにふたりの人間の姿を見出すことになった。片方は革の甲冑を纏った壮年の男であり、もう片方は、赤く染めあげた外套を纏った若い男であった。
「こちらは、王都の審問官殿から遣わされた使者殿だ。そちらのズーロ=スンに対する処遇が定められたので、それを伝えに参上した」
壮年の男がそのように述べたてると、使者なる若者が厳しい面持ちで一礼した。
その所作を見届けてから、隊長の男は兵士の男を振り返る。
「そのズーロ=スンは、傷が癒えるまでこの宿舎で預かることになった。お前には、引き続き見張りの任務を命ずる」
「き、傷が癒えるまで? しかし、この者の傷が癒えるには、最低でも1年の時間がかかると聞いておりましたが……」
「その期間、他の負傷兵たちと同じように、この場で看護することになったのだ。そやつが自分の足で歩けるようになったときは、足枷が必要となろうが……まあ、あと何月かはその必要もなかろうな」
呆然と立ち尽くす兵士の顔を、隊長の男はじろりとねめつけた。
「治療にかかる費用は、ジェノス侯爵家が負担するそうだ。王都の審問官殿がお認めになられたことであるので、我々に口をさしはさむ権限はない。そのつもりで、任務に励め」
「は、はい! 承知いたしました!」
「それで、使者殿からこのズーロ=スンに言伝てがあるとのことでしたな?」
使者の若者はひとつうなずいて、ズーロ=スンの前に進み出てきた。
「大罪人を手厚く遇するというのは、異例の処置となる。我々の温情を踏みにじることあらば、苦役の刑よりも重い罰が下されることとなろう」
「は……だけどどうして、俺などに温情を……?」
「それを、其方が知る必要はない。また、服役のさなかにある大罪人に、外の話をもたらすのは大きな禁忌であるのだが……」
と、使者の若者はわずかに目を細めた。
いくぶん笑っているように見えなくもない表情である。
「……審問官の定めた恩赦として、ひとつだけ伝えることを許された。かつてのお前の家族であった者たちは、いずれも健やかな生を送っているそうだ」
「…………」
「故郷に戻りたいと願うならば、その傷を癒して苦役の刑をまっとうせよ。……以上が、審問官からのお言葉である」
それだけ言って、使者の若者は身をひるがえした。
隊長の男も、無言でそれに追従していく。
兵士の男は、首を振りながらズーロ=スンのほうを見やってきた。
「まさか、王都の審問官がそのような温情を与えるとはな……俺は危うく、とんでもない間違いを犯すところだった」
「…………」
「ああ、好きなだけ泣くがいい。お前も、さぞかしほっとしたことだろう」
ズーロ=スンは、滂沱たる涙を流していた。
しかし、我が身の幸運を喜んでいたわけではない。そのような心情は、使者の言葉で脇へと追いやられてしまっていた。
(皆が、健やかに生きている……ディガもドッドも、ミダもツヴァイも、ヤミルもオウラも……みな、息災であったのか……?)
かつての家族たちと袂を分かつたのは、サイクレウスとシルエルが大罪人として捕縛された場であった。
確かにあのときの彼らは、それぞれが森辺の民としての誇りを取り戻しているように見えた。悪辣なる貴族たちの甘言を退けて、森辺の民として正しく生きようと懸命に振る舞っていたのだ。
(その姿を目にしていなければ、俺も覚悟を固めることはできなかったかもしれん……俺を救ってくれたのは、お前たちであったのだ……)
そのように考えると、ズーロ=スンは涙を止めることができなかった。
兵士の男は椅子に座り、ズーロ=スンの顔を覗き込んでくる。
「あと1年は、顔をつきあわせることになってしまったな。面倒を起こしてくれるなよ、ズーロスン」
そんな風に述べる兵士の顔には、ズーロ=スンが初めて見る穏やかな笑みが浮かべられていた。
ズーロ=スンも笑顔を返そうとしたが、そうするにはまだしばらくの時間が必要なようだった。