主従の誓い(下)
2018.9/28 更新分 1/1
それから数年間、ラービスとディアルはそれぞれの道を歩むことになった。
とはいえ、同じ屋敷に住む主人と従者の間柄である。ひとたびも顔をあわせない日はなかったし、時間さえあればおたがいの近況を語ることになる。これまでが特別すぎただけで、ことさら疎遠になったわけではなかった。
ディアルは学舎で学業に励み、ラービスは屋敷で剣術の手ほどきを受けている。最初の2年間は住み込みの守衛たちに身体の鍛え方を習い、それに没頭することになった。何せラービスはまだ11歳の子供であったので、まずは刀を振り回せるだけの力をつけることが先決であったのである。
ただしラービスは、南の民としては長身のほうだった。12歳になる頃にはグランナルの背丈を追い越し、13歳になる頃には屋敷で一番の長身となりおおせていた。
「お前の親父さんも、なかなか背は高いほうだったからな。これなら、立派な剣士になれそうだ」
守衛の男たちは、笑いながらそのように述べてくれていた。
そういえば、ジャガルの民はこれぐらいの年齢から髭が濃くなり、のばし始めることが多い。しかし、ラービスの父親は髭を生やしていなかったし、ラービス自身も髭が濃くなる様子は見られない。こうしてみると、ラービスはずいぶん父親似なのかもしれなかった。
(だけど父さんだって、ただ背が高いことだけに頼らず、努力を重ねて剣士としての力を身につけたはずだ)
そんな思いを胸に、ラービスは身体を鍛え続けた。
もちろん使用人としての仕事もおろそかにはできないので、そちらも変わらず励んでいる。薪割りや荷運びでも身体に力をつけられるように工夫を凝らし、負担の大きな仕事ほど率先して引き受けるようにしていた。
「だったら、俺の仕事も手伝ってもらうか」
そう言って、グランナルに駆り出される日もあった。
買い出しなどは女性の仕事であったので、ラービスが屋敷を出る機会はほとんどない。どこに連れていかれるのかと思ったら、それは屋敷の裏手にある商売用の倉庫であった。
「これらが銅貨に化けるのだから、決して粗末に扱うのではないぞ。傷でもつけたら、お前の給金からさっぴかせてもらうからな」
グランナルは鉄具屋であったので、それらはいずれも鉄具であった。厨で使う鉄鍋や調理器具、それに刀や甲冑などを木箱に詰め込み、仕分けするのだ。それは屋敷で行う荷運びなどよりも、よほど過酷な仕事であった。
その甲斐もあってか、ラービスはいっそうの力をつけることがかなった。
細かった手足には肉がつき、身長もまだまだのびている。さらに、骨まで太くなったようで、屋敷の使用人たちには「すっかり可愛げがなくなった」と笑われるほどであった。
そうして13歳となったラービスは、いよいよ本格的に剣術の手ほどきを受けることになった。
屋敷に剣士を招いて、一から手ほどきを受けるのである。
これには相応の費用がかかっているはずなので、ラービスはいっそう懸命に励むことになった。
「俺が教えるのは、貴族様の習うようなお上品な剣術じゃねえ。無法者に襲われたとき、自分と主人を守るための剣術だからな」
そのような宣言とともに、指南役の剣士は容赦なくラービスをしごいてくれた。それこそ、ラービスの望むところであった。
もちろん屋敷や倉庫の仕事も免除されるわけではないので、身体のほうは疲労困憊である。しかしラービスにとって、それは満ち足りた日々であった。
(わたしがこの手で、主人とそのご家族を……グランナル様ばかりでなく、アメリア様やディアル様をもお守りするのだ)
そのように考えれば、どのように過酷な日々も耐えられないわけがなかった。
いっぽう、ディアルである。
ラービスが剣術の手ほどきを開始した頃、ディアルの生活にもちょっとした騒ぎが巻き起こっていた。どうやら学舎で他の子供たちと諍いになり、相手を泣かせてしまったようなのである。
「しかも相手は、年長の男児であるという話なのだからな。まったく、呆れたやつだ」
その日の夜、ラービスの寝所を訪れたグランナルは、そのように述べていた。グランナルが使用人の部屋を訪れるというのは、きわめて珍しい話である。
「おたがいが男児であるならば、何も珍しい話ではなかろう。しかし、8歳の女児が男児に手をあげて、相手を泣かせてしまうとは……先行きが思いやられてならん」
「はい。ですが、ディアル様は理由もなく暴力をふるうような御方ではありません。何か、よほどのわけがあったのではないでしょうか?」
グランナルの言葉には逆らいたくなかったが、さりとてディアルを庇わないわけにもいかなかった。
グランナルは、ぶすっとした面持ちでラービスをにらみつけてくる。
「そんなことは、俺だってわかっている。しかし、その理由を話そうとしないのだ。……お前がそれを聞き出してくれんか、ラービスよ?」
「は、わたしがですか? 親御様にお話しされないことを、わたしに語るとは思えないのですが……」
「そんなことはあるまい。幼い頃から、あいつはお前に一番なついていたではないか」
それはただ、ラービスがもっともディアルと長い時間を過ごしていたゆえであった。グランナルは朝から晩まで仕事に励み、余所の町に逗留することも多かったので、家族と過ごせる時間はごく短いのだ。
「とにかく、理由を聞いてみてくれ。諍いの理由がわからなければ、俺も相手の親にどう謝っていいのかわからんのだ。……ディアルのほうに非がなければ、そうそう頭を下げることもできんしな」
そのように言われては、ラービスも従う他なかった。
グランナルとともに部屋を出て、ディアルの部屋の前で別れる。話は明朝聞かせてくれればいいと言い置いて、グランナルは自分の寝所に戻っていった。
ラービスは溜息を噛み殺しつつ、扉を叩く。
「ディアル様、ラービスです。少しお話をうかがいたいのですが、よろしいでしょうか?」
しばしの静寂の後、「いいよー」という声が返ってきた。
どうやら鍵は掛けられていなかったようで、扉はすみやかに開かれる。が、室内に足を踏み入れた瞬間、ラービスは息を呑むことになった。
「ディ、ディアル様! そのお姿は、どうされたのですか?」
「大げさだなあ。そこまで驚くほどのことじゃないでしょ?」
部屋の真ん中で、ディアルは腕を組んで立っていた。
ディアルは、8歳となっている。南の民としては相応の背丈であったが、母親譲りのほっそりとした体格をしており、顔立ちもますます端正になっていた。
しかし、背中までのばしていたその髪が、肩につかないぐらいの短かさに切りそろえられてしまっている。朝方に見たときは、確かにいつも通りの姿をしていたはずであった。
「邪魔くさいから、自分で切っちゃったんだ。これならもう、あいつらにちょっかいを出されることもないんじゃないのかな」
「あ、あいつらとは……?」
「何だ、その話で来たんじゃないの? 僕が泣かせてやった、あの弱虫たちのことだよ」
そう言い捨てて、ディアルはぷいっとそっぽを向いてしまった。
その横顔から垣間見えた一瞬の表情に、ラービスは再び息を呑む。
「……どういうことでしょう? ディアル様の髪が、諍いの原因であったのですか?」
「うん、そうだよ。僕の髪が汚くて目障りだって言うから、その横っ面をひっぱたいてやったんだ。でかい図体をしてるくせに、それだけで泣いちゃうんだもん」
ラービスの腹に、熱い激情がとぐろを巻いた。
「失礼します」と声をあげ、ラービスはディアルに近づいていく。
「それは、無法な話ですね。ディアル様がそのような言葉に惑わされて、大切な髪を切る必要などはなかったはずです」
「いいんだよ。僕だって、こんな汚い髪は大ッ嫌いだったからさ」
「汚くなどはありません。ご両親の色合いをそれぞれ受け継いだ、とても美しい髪ではないですか」
「ふん! だったら、どっちか片方でよかったよ。そうしたら、犬女なんて呼ばれたりはしなかっただろうしね」
ラービスは身を屈めて、ディアルの手をそっと持ち上げた。
その瞬間、そっぽを向いたディアルの頬に、ひと筋の涙がこぼれ落ちる。
「僕だって……母さんみたいに綺麗な髪に生まれつきたかったよ」
「ディアル様は、何も悪くはありません。その髪も、わたしは本心から美しいと思っていました」
ディアルはラービスの胸につかみかかると、声を殺して泣き始めた。
ディアルが涙を流すのは珍しくなかったが、これほどに悲しげな姿を見せるのは数年ぶりであるように思えた。
それ以降、ディアルは短い髪で過ごすようになった。
ちなみにラービスから事情を聞いたグランナルは怒り心頭となって、相手方の家に怒鳴り込むことになったらしい。それでは余計にディアルの立場が悪くなるのではないかとラービスは不安に思ったが、当人はけろっとしていた。
「あんな連中、どうでもいいさ。気に食わないのは、おたがいさまだしね」
南の民というのは、感情を隠すことをよしとしない。それが大勢集まれば、このような騒ぎも日常茶飯事なのかもしれなかった。
ラービスは、南の民らしくないと言われることが多々ある。何を考えているかわかりにくい、まるで東の民のようだとからかわれることさえあった。しかしラービスとしては、無理に感情を隠しているつもりもなかった。ラービスにとっては、これが自然体であるのだ。
(わたしは、騒ぎを起こすことなど許されぬ身だ。だから、このような気性に育ってしまったのだろうか)
ラービスはそのように考えたが、いまさら自分の気性を変えることはできなかった。
また、気性を変える必要も感じない。生活には多少の変化が生じたものの、ラービスの立場に変化はないのだ。主人のために尽くす従者としては、自分のような人間も有用なのではないかとすら思えるほどだった。
そうして、また月日は巡りゆき――ラービスが18歳となった年である。
その日、ディアルはグランナルと大いにもめることになった。
「だからさ、僕はもっと商売のことを学びたいんだよ! どうしてわかってくれないのさ?」
「商売については、いまも学んでいる最中だろうが? まずは目の前の仕事を滞りなく片付けることを考えろ」
「僕の仕事が、いつ滞ったっていうのさ? 帳簿に何か間違いでもあったんなら言ってみてよ!」
応接の間にて、両者は大きな卓をはさみながら、おたがいの姿をにらみつけていた。
ディアルもついに13歳となって、それ相応の背丈になっている。が、体格はやっぱりほっそりしたままで、髪も短いままだった。おまけに男児が身につけるような脚衣をはいているので、顔立ちの整った男の子のようにも見えなくはなかった。
「もう家に閉じこもって帳簿をつけるだけの生活なんて、僕は飽き飽きなんだよ! 父さんは、こんな仕事のために、僕を学舎に通わせてたの?」
「こんな仕事とは、なんという言い草だ! 銅貨の管理をする帳簿をつけることは、何よりも大事な仕事であるのだぞ!」
「いーや、違うね! 一番大事なのは、鉄具を売ることでしょ? 鉄具を売らなきゃ帳簿をつける必要もなくなっちゃうんだから、まずはそっちの腕を磨くべきなんだよ!」
それはべつだんどちらが上という話でもないだろう、とラービスは内心で考えていた。
が、ラービスが口をはさむような話ではない。そもそも、どうして自分がこのような場に呼ばれたのかも、わからないままだった。
身体を鍛え始めてから7年、剣術の手ほどきを受けてから5年が経ち、いまではラービスも護衛役の仕事を果たすことができるようになっていた。使用人の仕事からは解放されて、グランナルとともにあちこちを駆け回るのが、現在のラービスの使命であるのだ。もうこの近在の町などはひと通り巡ることになり、つい先日などは野盗を捕縛する役を担うことになった。グランナルから聞かされていた通り、町と町を繋ぐ街道には、さまざまな脅威が待ち受けていたのである。
ディアルは前々から、そんなラービスの新しい仕事を羨んでいた。学舎を卒業したディアルは、家で経理の仕事を手伝うようになり、そちらで如何なく能力を発揮していたのだ。おたがいに大きな仕事を果たせるようになって、ラービスはひそかに感慨深く思っていたのだが、ディアルのほうはまったく納得していなかったのだった。
「だからさ、僕も父さんのもとで勉強させてよ! 商売相手とどんな話をして、どうやって鉄具を売りつけてるのか、僕はそれを学びたいんだ!」
「お前がそのようなことを学ぶ必要はない! 帳簿をつけるだけで、立派に仕事を果たせているのだ!」
「だから、それだけじゃつまんないんだってば! それに僕は、この家の長子なんだよ? 父さんは、咽喉から手が出るぐらい跡継ぎが欲しかったんじゃないの!?」
そこでグランナルは、ぐっと言葉を詰まらせた。
「……それは、婿を取るしかなかろう。跡継ぎの心配をするなら、よい婿を取れるように、少しは娘らしくするがいい」
「ふーんだ! そんな役目は、妹たちにまかせるよ! 僕は自分で、父さんみたいに立派な商人になりたいんだよ!」
そのようにわめいてから、ディアルも少しだけ声を落とした。
「……もちろん僕だっていつかは婚儀をあげるだろうし、その相手には一緒に商売をしてほしいと思ってるよ。でも、面白いところを全部人にまかせて、自分は帳簿をつけるだけなんて、そんなの退屈でたまらないんだ。だったら、余所の家に嫁に入って、そっちの仕事を手伝うほうがまだマシだね」
「な、何? まさかお前、どこかの男と言い交わしたのではあるまいな?」
「そんなわけないじゃん。たとえばの話だよ」
ディアルはわずかに頬を赤らめつつ、そう言った。
「だけど僕は、鉄具屋が好きなんだ。こんなちっちゃい頃から鉄具を見て育ったんだから、それが当たり前でしょ? それで父さんは、ゼランドで一番の鉄具屋なんだから、心から尊敬してる。だからこそ、父さんのもとで学びたいんだよ」
「し、しかし……俺の商売相手は、余所の町の連中ばかりだ。商談をするには、危険な街道を踏み越えて、余所の町まで出向かわなくてはならん」
「だから、何? 野盗に襲われたって、父さんが刀を振り回すわけじゃないでしょ? それなら、男も女も関係ないじゃん」
そう言って、ディアルはラービスを振り返ってきた。
「無法者が現れたら、みんなラービスが退治してくれるよ。ね、そうでしょ、ラービス?」
「はい。それがわたしの使命ですので」
もしかしたら、このためだけに自分はディアルに呼びつけられたのだろうかと考えつつ、ラービスはうなずいてみせた。
グランナルは、苦渋の面持ちで考え込んでしまっている。
「父さんだって、余所の家から入ってくる婿なんかにすべてをまかせるのは心配でしょ? 僕に商売のあれこれを教えてくれれば、それをきっちり孫の代まで伝えてみせるよ!」
「しかし、お前を商売に連れ回すというのはなあ……相手方からの信用にも関わってくる話だし……」
「商売の巧さに、男も女もないでしょ? 僕は、父さんの子なんだよ? 僕が父さんを失望させると思うの?」
グランナルはいっそう難しい顔になって、頭をかき回した。
そこでディアルが、再びラービスを見やってくる。
「ね、ラービスはどう思う?」
「は……わたしは従者に過ぎませんので、このように大事な話に口をはさむ立場ではないかと思われます」
「でも、ラービスは子供の頃からこの屋敷に住んでて、いまは父さんの商売についていってるじゃん! ラービスぐらい僕と父さんのことを知っている人間は、そうそういないはずだよ」
ディアルは思いつめた面持ちで、ラービスに顔を寄せてきた。
「僕に肩入れする必要はないから、ラービスの正直な意見を聞かせてよ。ラービスは、この話について、どう思う?」
ラービスが自分の立場を重んじるならば、ここはグランナルの顔を立てるべき場面であった。ラービスの主人は、あくまでもグランナルであるのだ。
しかし、ディアルの真剣な眼差しが、そんな小賢しい想念を打ち砕いた。
ディアルに肩入れをして、心にもない言葉を述べたてる必要はない。ただ、自分の思ったことをそのまま口にすればいいのだ。そのように結論づけて、ラービスは発言することにした。
「わたしはこの屋敷の使用人であり、グランナル様の従者です。最近ではグランナル様の供として行動をともにしていますが、商売についてはいっさい知識を持ちません。そんなわたしの言葉に、どれほどの価値や意味があるかはわかりませんが……」
「うん。ラービスは、どう思う?」
「……ディアル様は、すでにグランナル様の心を動かしかけているように思います。これほど弁舌が巧みであるならば、商売人としての才覚が十分に備わっているのではないでしょうか?」
グランナルが、探るようにラービスをねめつけてくる。
その眼光に耐えながら、ラービスは言葉を重ねてみせた。
「商売人に必要なのは、情理を尽くした言葉ではないかと思われます。人の心を動かすために、どれほど理にかなった言葉を届けられるか――そして、それが相手にとっても有益なのだということを、どうにかして伝えることが必要なのでしょう。そういう意味で、ディアル様には商売人としての才覚の片鱗を感じるように思うのです」
「ふん。商売についてはさっぱりわからんなどと述べながら、ずいぶん偉そうな口を叩くものだな」
「はい。すべてはわたしの思い込みなのかもしれません。しかし、わたしはこうしたディアル様の言葉により、剣術を習うことを許されたのです。わずか6歳のディアル様がグランナル様の心を動かしたと聞き、わたしは心底から驚くことになりました」
そのように述べてから、ラービスは深々と頭を下げてみせた。
「グランナル様は、わたしに剣士としての資質が存在するかどうか、それを確かめる機会をくださいました。それと同じように、ディアル様に商売人としての資質が存在するかどうか、それを確かめる機会を与えてはくださりませんでしょうか?」
「余所の町まで、ディアルを連れ回せというのか? それがどれほど危険な行いであるかは、お前もその身に叩き込まれているはずだな、ラービスよ」
「はい。ディアル様の身は、わたしが生命を懸けてお守りいたします」
グランナルは、黙り込んでしまった。
そこに、扉の開かれる音色が響く。
続いて聞こえてきたのは、アメリアのやわらかい声だった。
「あら、静かになっていたから、もうお話は終わったのかと思ったのですけれど……そうではなかったのでしょうか?」
「話はまだ途中だ。このような場に幼子を連れてくるものではない」
アメリアは、左右で娘たちの手を引いていた。10歳になる次女と、7歳になる三女である。いまでは、どちらも学舎に通っている身だ。
「でも、これは家族の大事なお話なのでしょう? それなら、わたしたちも参加するべきなのではないでしょうか?」
ゆったりと微笑みながら、アメリアは歩を進めてくる。すると、三女のほうが母親の手をすりぬけて、ディアルの膝に取りすがった。
「姉さまは、父さまといっしょにお仕事にいってしまうの? 町の外は、とてもあぶないんでしょう?」
いくぶん舌足らずな声で、三女はそう言った。彼女も次女も姉に似ず、きわめておっとりとした気性であったのだ。
しかしまた、ディアルがラービスに剣術を習わせるようにグランナルを説得したのは、この三女よりも幼い6歳の時分である。それを思えば、ラービスの言葉もあながち見当外れではないように思えた。
(わたしは他に幼子というものを知らないので、どちらが普通なのかはわからない。だけどやっぱり、ディアル様のほうが特異な存在なのではないだろうか)
ラービスがそのように考えていると、ディアルはとても優しげな顔で微笑みながら、三女の頭を撫で始めた。
「何も心配する必要はないよ。無法者が現れても、みんなラービスがやっつけてくれるからね」
「おい、まだお前を商売に連れていくとは言っておらんぞ」
苦虫を噛みつぶしたような顔をするグランナルに、アメリアが微笑みかける。
「でも、そちらでも人手が足りていないのでしょう? 自分と同じぐらい頭の回る人間がいれば、もっと商売の手を広げられるのにと、いつも嘆いていたではないですか」
「それはそうだが、わずか13歳の娘ではなあ……」
「父さんだって、13歳の頃は見習いの小僧だったんでしょ? 若い人間が見習いなのは、当たり前のことじゃん」
ディアルが口をとがらせると、アメリアは「そうですよ」と言葉を重ねた。
「いまから鍛えれば、数年後には誰よりも優れた商売人に育つことでしょう。ディアルは、あなたの子なのですからね」
「お前は、ディアルの肩を持とうというのか? まったく、信じられんな!」
「そうでしょうか? 姉妹の中で、もっともあなたの血を強く受け継いでいるのは、ディアルのはずです。これ以上、跡継ぎに相応しい人間が他にいるのでしょうか?」
そう言って、アメリアは次女の頭を優しく撫でた。
「家を守る仕事は、下の子たちが立派に果たしてくれるでしょう。番犬を鎖に繋いでも、満足な仕事を果たすことはできないと言うではないですか」
「やだなー、人を犬あつかいしないでよ」
そのように述べてから、ディアルはにっと白い歯を見せた。
「でも、母さんは賛成してくれるんだね! やっぱり僕のことをわかってるなあ」
「ええ。あなたが一度言いだしたら後に引かない人間だということは、よくわかっていますよ」
そのように述べるアメリアもまた、ただたおやかなだけの人間ではないのだ。ラービスを屋敷に留めたときも、このように穏やかに微笑みながら、グランナルを説得してくれたのだろう。
「まずは、力を見てあげればいいではないですか。それで芽が出なかったら、ディアルもあきらめがつくことでしょう」
「そうだよ! 何もやらないままあきらめるなんて、僕は御免だね!」
グランナルは深々と溜息をつくと、よく光る目でディアルをにらみすえた。
「……2年だ。2年で見込みがないと思ったら、お前には婿探しをしてもらうからな」
「ふふーん! 2年もあれば、いっぱしの商売人になってみせるさ!」
満面に笑みを広げながら、ディアルはラービスを振り返った。
「ラービスも、2年で剣士としての下地を作ったんだもんね! 今度は、僕がそれをする番だよ!」
すると、アメリアもラービスのほうを見つめてきた。
「どうかこの子を守ってあげてね、ラービス。あなたがいてくれるから、わたしも安心してこの子を送ってあげられるのですよ」
「……はい。一命に懸けて、ディアル様をお守りいたします」
ふたりの笑顔で胸をいっぱいにしながら、ラービスはそのように答えてみせた。
そうしてラービスとディアルの道は、ここで再び重ね合わされることになったわけである。
◇
(あれからもう、4年もの歳月が過ぎたのか……)
轟々と燃えさかるかがり火の明かりを見つめながら、ラービスはそんな風に考えた。
現在は、森辺で行われている祝宴のさなかである。敷物の上でディアルのかたわらに座し、ギバの料理ののせられた木皿を手に、ラービスは時ならぬ想念に身をゆだねていた。
(ディアル様が、グランナル様に見限られることはなかった。それどころか、グランナル様は誰よりもディアル様の力を評価することになったのだろう。そうでなければ、ディアル様を置いてゼランドに帰ってしまわれるはずがない)
ディアルとラービスがジェノスに居座って、ちょうど1年ぐらいが過ぎている。ディアルはグランナルの期待を裏切ることなく、このジェノスを拠点として着々と商売の手を広げていた。先日などは、ついに近隣のバナームという町の人間とも大きな商談を取りつけることに成功せしめたのだ。このままでは永久にジャガルに帰ることもできなくなってしまうのではないかと思えるぐらい、商売のほうは順調に進んでいた。
(ディアル様には、たいそうな才覚が秘められていたのだろう。……まあそれは、おたがいが子供であった頃から、わかりきっていたことだ)
ディアルはさきほどから、森辺の女衆と熱心に語り合っていた。こんなに立派な料理を作れるのなら、もっと立派な道具を使うべきだと熱弁しているのである。
しかしディアルは、損得勘定でそんな話をしているわけではないはずだった。自分たちの売る鉄具に絶対の自信を持っているから、それに相応しい相手に使ってほしいと、まずはそのような気持ちが先に立っているのだ。最初は興味なさげにしていた女衆も、じょじょに心を動かされている様子であった。
(ディアル様の言葉には、嘘がない。だからきっと、虚言を罪にしているという森辺の民の心をも動かすことができるのだろう)
そうしてラービスがひとつ溜息をついたとき、話を終えたらしいディアルが顔を向けてきた。
「いやー、どの料理を食べても美味しいね! ラービスも、そう思うでしょ?」
「……ええ。少なくとも、ジェノスの城下町で口にする料理よりは、わたしの口に合うようです」
それは、本当の心情をごく抑えた返答であった。
本音を言えば、彼らの作る料理はどれも驚くほど美味であったのだ。粗末な小屋のような家で暮らす森辺の民がこれほどの料理を作れるなどとは、ラービスは想像だにしていなかったのだった。
「……あのさ、さっきはごめんね、ラービス? 本当は、あんな風にラービスを責めるつもりはなかったんだ」
と、ふいにディアルがそのように言いだした。
ラービスだけに聞こえるように、顔を近づけて、声をひそめている。その翡翠のごとき瞳が、かがり火の明かりを受けて、きらきらと輝いていた。
ラービスとディアルはついさきほどまで、ギバ料理を食べる食べないで口論をしてしまっていたのだ。とりあえずはラービスが折れることで騒ぎは収まったものの、主人たるディアルに衆目の前で恥をかかせてしまい、内心ではすっかり気落ちしてしまっていたのだった。
「ディアル様が謝罪をするいわれはないかと思われます。主人の心情を見誤ったわたしこそ、叱責されるべき立場でありましょう」
「主人とか従者とか関係ないよ。僕だって、ラービスの気持ちを見誤っていたんだからさ」
ディアルもまた、しょげた顔になっている。17歳まで齢を重ねても、そういう表情に変わりはないディアルであった。
(笑うときも怒るときも、ディアル様は以前のままだ。グランナル様のように果断で、アメリア様のようにお優しい……これが、ディアル様というお人なのだろう)
ラービスがそのように考えていると、ディアルは不安そうに目を瞬かせた。
「ねえ、どうして何も答えてくれないの? やっぱり、まだ怒ってる?」
「……わたしがディアル様に怒りを覚えることなど、ありません」
ラービスの言葉に、ディアルはふっと笑みをもらした。
「そうだよね。ラービスは優しいからなあ。……でも、森辺の民に対しては、ちょっと当たりがきついよね。それが前から、僕は少し不思議だったんだ」
「…………」
「ラービスは、何か理由があって森辺の民を嫌ってるの? よかったら、僕に理由を教えてくれない?」
「わたしが彼らを嫌う理由などありません。……ただ、森辺の狩人らを見ていると、自分の無力さを思い知らされてしまうのです」
ディアルは、相当びっくりした様子で目を見開いていた。
「無力さって、どういうこと? 彼らは狩人であって、剣士ではないんだよ?」
「そうであるにも拘わらず、彼らは凄まじい力を秘めているように感じられます。おそらくは……相手が13、4歳の若衆でも、わたしには太刀打ちできないでしょう」
ラービスは言葉を飾らずに、そう伝えてみせた。
「いま、彼らのひとりでも刃を向けてきたら、わたしにはディアル様をお守りすることができません。だから、このような場所で食事をするのは、ひどく落ち着かないのです」
「そうだったんだ……だったら、最初からそう言ってくれればよかったのに」
ラービスは溜息をこらえながら、首を横に振ってみせた。
「わたしにとて、剣士としての矜持があります。このように情けない話は、そうそう口にする気持ちにはなれません」
「うん。だけど、正直に話してくれたんだね。ありがとう、ラービス」
ディアルが、またにっこりと微笑んだ。
以前はアメリアに似ていると思った笑顔であるが、いまはもうそのように思わない。再び行動をともにするようになったこの4年間で、そういった印象は払拭されていたのだった。
(しかし、ディアル様のほうが変わったわけではない。だからきっと、わたしの心情に変化があったのだろう)
以前はアメリアの言葉を重んじて、ラービスはディアルを守るのだと決意していた。しかしいまは、自分の中に芽生えた気持ちや信念に従って、その誓いを守っているつもりであった。
アメリアのことは、いまでも敬愛している。その心情にも、変わりはない。ただ、それと同じかそれ以上の大きさでもって、いまはディアルがラービスの心にのさばっていたのだった。
(まあ、4年も寝食をともにしていれば、それが当然か)
またラービスは、追憶の中に引きずりこまれそうになった。
そこをディアルに、荒っぽく肩を揺さぶられる。
「ねえ、どうしたの? 何かぼーっとしてるみたいだけど、気分でも悪いの?」
「いえ、かがり火に酔ってしまったのでしょうか。どうもこの夜は、やたらと昔のことを思い出してしまうのです」
「ふーん? まあ、こんな盛大に火が焚かれることなんて、そうそうないもんね」
そう言って、ディアルはまた無邪気に微笑んだ。
「でも、ラービスがぼーっとするなんて、すごく珍しいよね。いったい何を思い出してたの?」
ラービスは、言葉に詰まることになった。
何を考えていたかというと、それはおおむねディアルと過ごした日々の思い出であったのだ。羞恥の感情などとは無縁のラービスでも、それをそのまま口にするのははばかられてならなかった。
「……いずれも、たわいもない話ばかりです。わたし自身がたわいもない人生を送ってきたのですから、それも致し方のないことなのでしょう」
「やだなー、ラービスのそばには、いっつも僕が一緒にいたはずだけど? 僕のことまで、たわいのない存在だって言うつもり?」
冗談めかして言いながら、ディアルはまだ屈託なく笑っていた。
濃淡まだらの褐色の髪が、その動きに合わせて揺れている。かがり火の明かりで見るその髪も、やっぱりラービスには美しく感じられた。
(そういえば……)
ディアルはもう、髪をのばすことはないのだろうか。
ディアルの髪はアメリアに負けないぐらい美しいのに、もったいない、と思ってしまう。
そんなたわいもない想念を胸に、ラービスはディアルの笑顔を見つめ続けた。
森辺の祝宴は、まだまだ終わりを迎える気配も感じられなかった。