稀代の料理人(中)
2018.9/25 更新分 1/1
ヴァルカスがまともに動けるようになったのは、それから3日後のことであった。
どうやらヴァルカスの身体は、この長旅でずいぶん痛めつけられていたらしく、丸2日間は寝込むことになってしまったのである。
寝込んでいる間は、タートゥマイが薬膳というものを準備してくれた。それは料理とも呼べないような薬草の煮汁に過ぎなかったので、ヴァルカスはどうか普通の料理を作ってはもらえないかと懇願したが、そのたびに「なりません」とすげなくされるばかりであった。
しかし、そんなタートゥマイのおかげをもって、ヴァルカスは復調することができた。
3日後の朝、タートゥマイの天幕で身を起こしたヴァルカスは、すっかり凝り固まってしまった首や肩をもみほぐしながら、「ああ」と吐息をついてみせた。
「ようやく熱も下がったようです。この2日間、大変な面倒をかけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「お元気になられたのなら、何よりです。……差し出口やもしれませんが、あなたはこのまま西に帰られたほうがよろしいのではないでしょうかな?」
「そうですね。あなたもともにジェノスに来てくださるのでしたら、そうしましょう。あなたという人材を得られるのでしたら、それだけでシムに来た甲斐もあろうというものです」
ヴァルカスがそのように答えると、タートゥマイは無表情に溜息をついた。
「あなたは、まだそのようなことを仰っているのですか。……よろしい。それでは、近在の集落までご案内いたしますので、そこでお好みの人間を探されなさい」
「ええ。きっと、あなたほど香草の扱いが巧みな人間は、そうそういないのでしょうけれどね」
ヴァルカスは、タートゥマイとともに天幕を出た。
そこに広がるのは、実に殺風景な草原の有り様である。草原といっても、ところどころに突兀とした岩塊などが顔を覗かせており、それがまばらな樹木と重なって、見通しを悪くしてしまっている。いちおう足もとは緑に覆われているものの、草原というよりは荒野と呼びたくなるような情景であった。
「……ここは、《ギ》の領土においても西の端となる辺境です。ヤンムルの葉と根には事欠きませんが、それ以外の恵みを収穫することは難しく、どの川からも遠い場所となります」
「なるほど。わたしは足を棒にしてあちこち歩き回ったつもりなのですが、それでもシムの端っこを行ったり来たりしていただけなのですね」
砂塵よけの襟巻きを鼻から下に巻きながら、ヴァルカスはそのように答えてみせた。
天幕のかたわらには大きな荷車が置かれており、その内側からは獣の濁った鳴き声が聞こえてきている。タートゥマイが荷台の扉を開けると、そこから2頭のトトスと3頭のギャマが下りてきた。鳴き声をあげていたのは、もちろんギャマのほうである。
「トトスとギャマは、荷台の中であったのですか。やはり、夜の間は危険なのでしょうか?」
「はい。この辺りに危険な獣はいないはずですが、毒虫や毒蛇はいくらでもうろついておりますからな。我ら人間とて、天幕に毒虫よけの薬油をほどこしていなければ、無事に夜を明かすこともかないません」
「なるほど。トトスを失うだけで済んだわたしは、まだ幸運であったわけですか」
タートゥマイは、いぶかるようにヴァルカスを見つめてきた。
「あなたはまさか、草原の真ん中で天幕も張らずに夜を明かしたわけではないでしょうな?」
「ええ。最初の数日は行きあった集落で宿を借りることができたのですが、その日は草原の真ん中で夜を迎えてしまったのですね。夜の間にトトスを走らせるのは危険であろうと思ったので、そこで火を焚き、一夜を明かしました」
タートゥマイは、大きな溜息とともに首を振った。
「どうして、そのように危険な真似を? それまで集落で世話になっていたのなら、そこの住人に草原での過ごし方を教えられていたはずです」
「きっと、教えてくれてはいたのでしょう。しかしわたしは、東の言葉をあやつることができないのです」
「……それでどうやって、旅を続けて来られたのでしょうかな?」
「身振り手振りで、意思の疎通をはかっていました。べつだん、不自由は感じませんでしたね」
「そのおかけでトトスを失ったのですから、十分に不自由でありましょう。東の言葉もわからずに、たったひとりでシムを旅しようなどとは――」
と、タートゥマイはそこでいっそう不審げな目つきになった。
「……そういえば、セルヴァとシムの間に広がる自由国境地帯こそ、とりわけ危険な区域であったはずです。まさか、その地もたったひとりで進んできたのではないでしょうな?」
「はい。その際は、ジェノスからシムに帰る商団に同行をお願いいたしました。しかし彼らは、シムの王都たるラオリムに向かってしまったので、そこで袂を分かつことになったわけです」
「どうしてあなたも、ラオリムに向かわなかったのでしょうか? あちらであれば、少なくともトトスを失うことにもならなかったでしょうし、また、砂塵に悩まされることもなかったでしょう」
「わたしは砂塵と同じぐらい、人混みというものが苦手であるのです。大勢の人間のかもしだす臭気や熱気にあてられて、すぐに目を回してしまうのですよ」
タートゥマイは無表情のまま、がっくりと肩を落としていた。
「つくづく、難儀なお身体でありますな……思うに、あなたのような御方は故郷を離れるべきではなかったのです」
「しかし、ジェノスではシムの香草を手に入れることも難しいですからね。最近では貴族が香草を買い占めるようになってしまって、ますます我々の手もとまで届かなくなってしまったのです」
ヴァルカスは、そのように答えてみせた。
「だからわたしは、貴族のもとで働けるぐらい、名前をあげなければならないのです。ジェノスで料理人として生きるには、もはやそれしか道は残されておりません」
「……それは、生命を懸けるに値する行いなのでしょうか?」
タートゥマイが、低い声音でそのように問うてきた。
ヴァルカスは、意味がわからずに首を傾げてみせる。
「生命を懸けるというのは、あまりに大仰なお言葉です。そのようなお言葉は、王国に剣を捧げた騎士にこそ相応しいものでしょう」
「では、どうしてあなたはこのように無謀な行いに身をさらしておられるのですか?」
「それは、美味なる料理のためです。苦労を厭うては、美味なる料理を作りあげることはかないません」
そこでヴァルカスは、ひとつ咳き込むことになった。こまかい砂塵が、襟巻きの隙間から侵入してきたのだ。
ヴァルカスは予備の襟巻きを二重に巻きつけてから、「さて」とタートゥマイを振り返った。
「出発は、いつでしょう? トトスやギャマたちは、朝の食事を始めてしまったようですね」
2頭のトトスと3頭のギャマは、足もとの草を食んでいる。そちらをちらりと見やってから、タートゥマイはまた息をついた。
「……天幕を片付け終わる頃には、こやつらの腹もひとまずは満たされましょう。少々お待ちくだされ」
ヴァルカスは手伝いを申し出たが、それはやんわりと断られた。またヴァルカスに熱を出されてはたまらないと考えたのだろう。タートゥマイは、巨大な天幕をひとりでてきぱきと片付け始めた。
それを荷台に収納したのちは、トトスを荷車に繋ぎとめて、ギャマを再び荷台へと誘導する。ギャマの歩に合わせるのではなく、トトスに草原を駆けさせるつもりであるらしい。
「窮屈でしょうが、あなたも荷台のほうにどうぞ。中天の前には、近在の集落に辿り着けるはずです」
「はい、ありがとうございます」
ヴァルカスが自分の荷袋を担いで荷台に乗り込むと、タートゥマイはトトスの尻に革鞭を振り下ろした。
なだらかに見える草原も、石の街道に比べれば、あちこちに隆起を隠している。ヴァルカスは3頭のギャマとともに、その振動に耐えることになった。
「……このギャマは、肉ではなく乳のために育てているのですか?」
「ええ。肉にしてしまえば、それで恵みは尽きてしまいますからな。儂はこやつらの乳を売ることで、ようよう食いつないでいるのです」
「なるほど。乳には、さまざまな使い道がありますからね。乳酒ばかりでなく、乳脂に乳清、乾酪に酪……それらがどのような味わいであるのか、想像しただけで胸が高鳴ってしまいます」
「……川辺の集落に着けば、いくらでも味わうことがかないましょう」
そのように述べてから、タートゥマイは「はて」と首を傾げた。
「そういえば、あなたはいくつかの集落を訪れたのに、ギャマの乳酒を口にするのは初めてだと仰っておりましたな」
「はい。食事をともにした集落の方々も、みんな水を飲んでいましたよ。そもそもわたしの訪れた集落では、ギャマの姿もそれほど見かけなったのです」
「ならばそれは、草原の民ではなく自由開拓民の集落だったのではないでしょうかな? 儂が天幕を張ったあの場所は、ちょうど《ギ》の領土と自由開拓地帯の狭間であったのです」
「なるほど。言われてみれば、そうなのかもしれませんね。自由開拓民といえども東の民であるのなら、わたしには見分けがつきません」
タートゥマイの背中を見やりながら、ヴァルカスはひとつ肩をすくめる。
「では、彼らは貧しき自由開拓民であるばかりに、あんな粗末な料理を食していたのでしょうか。……いや、それは違いますね。彼らもまたふんだんに香草を使っていたのですから、きちんと調理すればもっと素晴らしい料理を作りあげることが可能であったはずです」
「……自由開拓民よりも寄る辺なき儂などには、答えようがありませんな」
そんな言葉を最後に、タートゥマイは口をつぐんでしまった。
しかたないので、ヴァルカスはギャマの挙動を見守ることにする。
ギャマは、2本の角と6本の足を持つ、不可思議な獣である。身体はそれほど大きくなく、濁った声でべえべえと鳴く。ヴァルカスはシムにおもむくことによって、ようやくその干し肉を口にする機会を得たが、その味は野性味にとんでおり、なかなかの臭みを有していた。
(しかし、山育ちのギャマはもっと臭みが強いと聞くからな。きちんと正しく香草を使えば、臭みのない素晴らしい肉に仕上げることもできるだろう)
思うに、東の民はチットの実を始めとする香辛料とあわせるだけで、臭みは気にならなくなると考えているのではないだろうか。ヴァルカスに言わせれば、それは欺瞞であり、怠慢であった。肉の持つ臭みという欠点を風味という美点に転化するには、きわめて入念な処置が必要であるのだ。
(このタートゥマイでさえ、野鳥の肉の扱いはまだまだだったからな。きっとあれは、ヤンムルの根との調和を突き詰めた、香草の配合であったのだろう)
3日前の晩、タートゥマイのこしらえてくれた煮汁は、かなり上等な調和を見せていた。あれが具材のない煮汁だけの料理であったのなら、ほぼ完璧に近いぐらいの仕上がりであったのだ。
しかし、肉と野菜の粗末な扱いが、その調和を台無しにしていた。そして、その事実を知ることによって、ヴァルカスには正しき道筋が垣間見えたのだった。
(アリアの扱いも粗末だったが、その出汁はあの煮汁に深みを与えていたはずだ。レテンの油で炒めたアリアと、もう何種かの野菜を使えば、あれはさらに美味なる料理に仕上げられるだろう。そして、野鳥の肉……肉そのものにはわずかに臭みを感じたが、煮汁に溶け込むほどではなかった。もしもキミュスの皮つき肉などを使ったら、あの香草の調和も壊されてしまうだろうか? こまやかな調整をすれば、和を保つことは可能だろうか?)
ヴァルカスは、無意識の内に右手の指先を撫でさすっていた。
調理刀を握りたい。たったいま頭に浮かんだ考えを、実際にこの手で試してみたい。故郷を離れて苦しいのは、こういった欲求を抑制しなければならないことだけだった。
「あの、これらの木箱には食材が詰められているのでしょうか?」
ヴァルカスが声をかけると、御者台のタートゥマイはぎょっとした様子で首をすくめた。
「お眠りになられていたのではなかったのですか。……ええ、おおむね、その通りです。干したアリアや、香草や、蛇の干し肉……あとは、集落の人間に引き渡す乳酒などですな」
「あなたは乳酒を引き渡すことで、アリアや香草などを手に入れているのですか?」
「はい。川辺でしか採取できない野菜や香草は、そうやって手に入れる他ありません。もっとも、これから向かう川辺の集落では乳酒などありあまっているため、儂が取り引きを持ちかけるのは、もっぱら自由開拓地帯の住人たちでありますな」
東の民ならぬタートゥマイは、実りの多い川辺で暮らすことができないのだろう。だからきっと、この荒涼とした辺境区域を住処としているのだ。
「あなたが東方神に神を移さない理由が、わたしにはやっぱりわかりません。いずれはセルヴァに帰ろうというお気持ちなのでしょうか?」
「……儂は20年も前に、故郷を捨てました。いまさら戻るべき場所はありません」
「では、どうして神を移さないのでしょう? 東の民は大らかなので、西方神を捨てても忌避の目で見られることはないように思うのですが」
タートゥマイは、答えなかった。
その痩せた背中は、ヴァルカスの問いかけを強く拒んでいるように感じられる。やはりこの話題は、タートゥマイにとって禁忌であるようだった。
(わたしはただ、好きなだけ香草を使える立場になったほうが、より幸福であろうと考えただけなのにな)
しかし、その幸福とも引き換えにできない事情があるならば、しかたがない。ヴァルカスはギャマのほうに視線を戻しながら、また頭の中で研鑽を進めることにした。
それからどれぐらいの時間が経ったのか。何度かの小休止をはさみつつ、荷車はようやく目当ての場所に辿り着いた。
小さな川のそばにある、草原の民の集落である。その場には、タートゥマイのものよりも巨大な天幕が川沿いにいくつも立ち並び、大勢の人間がひしめいていた。
「*****?」
東の言葉で、民のひとりが声をかけてくる。
タートゥマイもまた、東の言葉でそれに答えていた。どうやら顔見知りであったらしく、タートゥマイの来訪を警戒している様子はない。
「長老のもとまで案内をしてくださるそうです。あなたも荷台をお降りください」
タートゥマイの言葉に従って、ヴァルカスは地に降り立った。
その場にいるのは、ほとんどが女性であるようだった。川で洗い物をしたり、香草を干したり、ギャマの皮をなめしたりしている。幼い子供もそれを手伝っており、遊んでいる人間などはほとんど見当たらなかった。
東の民が好んで纏うのは、渦巻き模様の美しい、布の装束である。長身痩躯で、黒い肌をした女衆や幼子が、無表情に淡々と仕事をこなしている。この数日間で、ヴァルカスも何度か目にしてきた異国的な光景であるが、これほどの規模を持つ集落は初めてであった。
「東の民は幼いと、男か女かの判別が難しいですね。みんな髪を長くのばしているし、装束にも違いが少ないようです」
ヴァルカスがそのように評すると、案内役の人間がうろんげな目を向けてきた。とりわけ背の高い、年配の女性である。ヴァルカスも西の民としてはかなり長身のほうであったが、この女性はそれとほとんど変わらないぐらいの背丈であった。
「****。*****?」
女が再び声をあげると、タートゥマイがそれに答えたのち、ヴァルカスを振り返ってきた。
「どうしてあなたは襟巻きで顔を隠しているのかと問われましたので、事情を説明いたしました。おかしな病魔を患っているのでなければ、長老のもとまで案内してくださるそうです」
「ありがとうございます。東の民というのは、みな親切であるのですね。いまのところ、わたしはどの集落でも一度として追い返されたことがありません」
すると、タートゥマイの目がふっと翳った。
「シムの中でも親切であるのは、《ギ》や《ジ》の領土に住まう草原の民のみです。あなたはいまだ草原の民としかまみえていないので、そのように考えなさるのでしょう」
その口ぶりだと、タートゥマイは他の領土に住まう東の民とも面識があるのだろうか。ヴァルカスは何気なくそれを問い返そうとしたが、それよりも先に案内役の女が身をひるがえしてしまった。
ヴァルカスたちがそれを追いかけると、来客に気づいた人々が視線を向けてくる。表情を動かさない東の民であるので確かではなかったが、やはりそれほど警戒されている感じはしなかった。
「ああ、そうか。東の民は毒を扱うので、西の旅人など恐れる理由がないのですね。強い力を持つゆえに、他者に親切に振る舞うこともできる、というわけですか。見たところ、男性はほとんどいらっしゃらないようなので、これが西の領土であれば、さぞかし警戒されたことでしょう」
トトスの手綱を引きながら、タートゥマイは横目でヴァルカスを見やってくる。
「男衆や若い女衆は、ギャマの面倒を見ているのでしょう。年を食った女衆と幼子だけでも100人ぐらいはいるはずですが、お気分のほうは大丈夫なのでしょうか?」
「ええ。これだけ広々とした場所であれば、問題はありません。それに、香草の香りが人間の臭気を消してくれていますからね」
集落のあちこちでは、大量の香草が干されたり燻されたりしている。ヴァルカスとしては、いますぐそちらに駆け寄りたいぐらいの心情であった。
(しかし、わたしが勝手な真似をすると、このタートゥマイにまで塁が及んでしまうだろうからな)
さしものヴァルカスでも、それぐらいの自制をすることはできた。現在のところ、ヴァルカスにとってもっとも興味をひかれる人間はこのタートゥマイであったので、なるべく機嫌を損ねたくなかったのだ。
(彼よりも巧みに香草を扱える人間がいるならば、べつだんかまわないのだが……何故だか、そのような人間は存在しないように思えてしまうのだ)
それはほとんど、ヴァルカスの直感のようなものだった。
あえて理由をつけるならば、タートゥマイがもともとは西の領土に住まっていた、ということであろうか。彼は20年ばかりを草原で暮らしていたと述べていたから、その前の数十年は西の領土で暮らしていたはずであるのだ。
(彼は50歳ぐらいに見えるから、最初の30年ほどで西の食文化というものを肉体に刻みつけられたはずだ。そののちに、20年ほどを草原で暮らすことにより、西の民にとって最適な香草の調和というものを身につけることができたのかもしれない)
それにタートゥマイは、西の言葉を扱うことができる。どれほど香草の扱いの巧みな人間と巡りあうことができても、言葉が通じなければ指南を願うことも難しいのだった。
(何とかして、彼の教えを乞いたいものだ。……しかしまずは、この集落の人間の腕前を見せてもらわなければな)
ヴァルカスがそのようなことを考えている間に、とりわけ大きな天幕へと導かれた。
他の天幕よりも立派な造りをしており、入り口の帳には見事な刺繍がほどこされている。これが、この集落の長老の天幕であるのだろう。
案内役の女衆が、その内へと声をかけた。
内からしわがれた声が返ってきたが、どちらも東の言葉であったので、内容はわからない。ヴァルカスは、女衆とタートゥマイに続いて、その帳をくぐることになった。
天幕の奥に、年老いた男が座していた。
やはり長身痩躯で、髪はほとんど白くなっている。髭のないその面には深い皺が刻み込まれて、まるで老木のようだった。
「*****。……*******」
しわがれた声が、その口から放たれる。
何とはなしに、威厳の感じられるたたずまいであった。
タートゥマイにうながされて、ヴァルカスは天幕の中央あたりで膝を折る。タートゥマイもその隣に座し、女衆は長老のかたわらに控えた。
しばらくは、タートゥマイと長老の間で言葉が交わされた。
声音からも感情を読み取ることはできないので、どのような会話がされているのか、想像することも難しい。ヴァルカスは、旋律に乏しい歌でも聞かされているような心地であった。
「……あなたのように物珍しい旅人は初めてだ、と長老は仰っております」
やがてタートゥマイが、そのように告げてきた。
「たったひとりで草原におもむき、料理のために香草の扱い方を学びたいなどとは、とうてい本気とも思えない。その言葉が虚言でないかどうか、神に宣誓してほしい……と、仰っております」
「宣誓ですか。それは、西方神への宣誓ということでよろしいのでしょうか?」
「ええ、それでかまいません。ここはシムの領土なのですから、東方神もその言葉を聞いております」
「承知いたしました」
ヴァルカスは鼻から下に巻きつけていた襟巻きを取り外してから、立ち上がった。
そして、左の拳を心臓に置き、右の腕を大きく広げる。西方神セルヴァへの、宣誓の儀式である。
「わたし、ジェノスのヴァルカスは、一切の虚言を吐いていないことを、ここに誓います。このシムには、香草の扱い方を学ぶために来訪いたしました」
本来これは、己が西方神の子であることを証すための儀式である。それ以外の言葉で虚言を吐いても、魂を引き裂かれたりはしないだろう。これですべての虚言を封じられるなら、この世界ももっと異なる様相を見せていたはずだ。
しかしまた、西方神に言葉を届けていることに違いはないので、信仰心の厚い人間であれば、うかうかと虚言を吐くことはできなかろう。相手の真情を見定めるのに、いくばくかは有効であるのだろうと思われた。
儀式を終えたヴァルカスは、腕をたたんで座りなおす。
長老が目を向けると、タートゥマイは静かにうなずいた。
(……そうか。このご老人は西の言葉がわからないから、わたしがきちんと宣誓したかどうか、タートゥマイに確認したのだな)
ということは、タートゥマイはそれなりにこの人物から信頼されている、ということなのだろうか。
ともあれ、ヴァルカスの言葉が虚言でないということは、信じてもらえたようだった。
「あなたの滞在を許すと仰っております。ただし、どれほどの力になれるかは約束できないと仰っております」
「はい。もちろん、異存はありません」
「あなたに西方神の祝福が訪れることを祈っております。では、儂はこれにて――」
と、タートゥマイが腰をあげようとしたので、ヴァルカスは「お待ちください」と声をあげた。
「この集落でお世話になる間、あなたも行動をともにしていただけませんか? わたしは東の言葉がわからないので、ひとりにされてしまうと不安でなりません」
「……しかしあなたは、最初からそのつもりでシムを訪れたのでしょう? それに、儂と出会うまでは、ずっとおひとりで過ごされていたと仰っていたはずです」
「あなたと巡りあったことによって、言葉の通ずる利便さを思い知らされたのです。御礼はいたしますので、どうかお願いできませんか?」
タートゥマイは、迷うように目を伏せた。
ここぞとばかりに、ヴァルカスは言葉を重ねてみせる。
「わたしがこちらでお世話になるのは、今日だけです。今日だけ、あなたの時間を買わせてください。決しておかしな真似はしないとお約束しますので」
タートゥマイはしばし逡巡したのち、溜息をつくように答えた。
「では、今日だけ……ただし、まだ儂を説得しようという心づもりなら、それはおあきらめくださいますように」
「はい。努力はいたします」
ヴァルカスは、ここで虚言を吐くことになった。タートゥマイをあきらめるつもりなど、最初から毛頭なかったのだ。
(しかしまずは、彼を説得する言葉を考える他あるまい)
ヴァルカスがそんな風に考えたとき、長老が声をあげた。
その言葉を受けて、女衆が外に出ていく。長老と言葉を交わしたのち、タートゥマイがこのように告げてきた。
「そろそろ中天となりますので、食事をふるまってくださるそうです。そこにも香草は使われているので、あなたの役に立てば幸いだと仰っております」
「はい。心より感謝いたします、とお伝えください」
ヴァルカスの胸に、期待感がふくれあがっていく。この集落に住まう人々への期待感ではなく、未知なる食材や調理法に対する期待感である。どれほど粗末な料理を出されたとしても、シムの香草が使われているだけで、いまのヴァルカスには糧になる。今後、ヴァルカスがさらなる高みを目指すには、シムの香草が不可欠であるのだった。
(思うに、わたしが料理店から暇を出されたのも、天啓であったのだろう。あのような店に居残っていても、もはや得るものはなかったからな)
そんなことを考えながら、ヴァルカスは食事が届けられるのを待ち受けた。
傍目にはわからないことであろうが、ヴァルカスの心は幼子のように弾んでしまっていた。