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異世界料理道  作者: EDA
第三十八章 群像演舞~四ノ巻~
643/1675

第一話 稀代の料理人(上)

2018.9/24 更新分 1/1

・今回の更新は全8回です。

 目を覚ますと、誰かが薄明かりの中でかまどに火を焚いていた。

 周囲や頭上には革の幕が張られており、足もとにはやわらかい敷物が敷かれている。どうやら草原の民が住居とする、天幕の内部のようである。彼にはさっぱりわけがわからなかったので、「あの」と声をあげることにした。


「あなたは、どなたでしょうか? わたしは、どうしてしまったのでしょうか?」


 こちらに背を向けて鉄鍋をかき回していた人物が、空気も乱さない静けさでこちらを振り返ってくる。

 それはやはり、草原の民と思しき初老の男性であった。

 年齢は、50を少し過ぎたぐらいであろうか。東の民らしく長身痩躯で、黒い肌をしており、長くのばした髪には白いものが混じり始めている。目は切れ長で、鼻は高く、唇が薄い。目もとや口もとには皺が寄り、その痩せた面にはいかなる表情も浮かべられていなかった。


「ようやく目を覚まされましたか……あなたは行き倒れていたのですよ、旅のお人」


 その口から放たれたのは、よどみのない西の言葉であった。


「ずいぶん弱っておられたようなので、滋養のある食事をこしらえております。もうすぐ煮えますので、それまではゆっくり身体をお休めなさい」


「はい、ありがとうございます。……わたしはまた倒れてしまったのですね」


 その言葉を聞いた男の目に、いぶかしげな光が灯った。


「あなたは何か、病魔でも抱えておられるのか? それならば、それに見合った香草を使わねばなりますまい」


「いえ、病魔というわけではありません。わたしの鼻や口の内側はことさら敏感にできているようで、砂塵などにきわめて弱いのです。それできっと呼吸が困難になり、意識を失うことになってしまったのでしょう」


 ますますいぶかしげな目つきをする男に、彼は頭を下げてみせた。


「わたしは西の民、ジェノスのヴァルカスと申します。危ういところを助けていただき、ありがとうございました。……よければ、お名前を聞かせていただけますか?」


「……儂は、タートゥマイと申します。故郷を持たない、風来坊でありますな」


 そう言って、タートゥマイは身体ごとヴァルカスに向きなおってきた。


「しかし、そのように難儀な御身なのでしたら、どうしてあなたはこのような場所におられたのでしょう? まさか、盗賊か何かにかどわかされてしまったのでありましょうか?」


「いえ。わたしは自分の意思で、このシムの草原を旅していたのです」


「旅」と、タートゥマイは繰り返した。


「しかし、この《ギ》の領土は、そのほとんどが自然の姿をそのまま残しております。大地を隠す石畳もないのですから、どの場所でも砂塵が舞い上がりましょう」


「ええ。本当に、どこに行っても砂塵まみれで、心底うんざりしてしまいます」


「……では、何故にそのような場所で、旅などを? ジェノスといえば、セルヴァにおいてもっとも東寄りにある領土でありましょうが、それでもトトスでふた月はかかるはずです」


「それは、修練のためですね。わたしは、料理人であるのです」


「料理人」と、タートゥマイはまた繰り返した。


「わかりませぬな。料理人というのは、銅貨と引き換えに料理を作る人間のことでありましょう? どうして草原を旅することが、料理人としての修練になるのです?」


「それはもちろん、シムの香草の扱いを学ぶためです」


 そのように答えてから、ヴァルカスは激しく咳き込むことになった。鼻や咽喉の内側に、まだいくらかの砂塵が残されていたのだ。


「ああ、身体をお休めなさいと言いながら、無理をさせてしまいましたな。水か、あるいは乳酒でも飲まれるがよろしいでしょう」


「乳酒? それは、ギャマの乳で作った酒のことですね?」


 ヴァルカスが身を乗り出すと、タートゥマイは「ええ」と袋状の水筒を取り出した。


「草原で暮らす人間にとっては、水よりも乳酒のほうが身近なものとなります。ギャマさえそばにあれば、いくらでも作ることができますのでな」


「それでは是非、味を見させていただきたく思います」


 タートゥマイはひとつうなずくと、袋状の水筒をヴァルカスに差し出してきた。

 手に持ってみると、何か独特の感触が伝わってくる。それはなめした革ではなく、ギャマの胃袋か何かで作られた水筒であるようだった。


「あなたのご厚意に感謝いたします」


 そのように述べてから、ヴァルカスは水筒の乳酒を口に含んだ。

 とたんに、とてつもない酸味が口の中に跳ね上がる。まるで、腐ったカロンの乳のごとき味わいであった。

 しかも香りは、カロンの乾酪よりも強烈である。酸味の強い、もったりとした重い香りだ。


 ただ、その向こう側にまろやかな甘みも感じられる。

 砂糖や蜜や果汁とも異なる、きわめてなめらかな甘みである。それはまさしく、乳を原料に作られたものだけが持つ、独特の甘みであった。


 料理の主体とするには、きつすぎる味と香りだ。

 しかし、別なる食材と組み合わせれば、乳酒ならではの味わいを作りあげることがかなうだろう。

 ヴァルカスは大いに満足しながら、タートゥマイに水筒を返してみせた。


「ありがとうございます。とても参考になりました」


「遠慮はなさらず、いくらでもお飲みくだされ。乳酒などは、いくらでも作れますのでな」


「いえ。わたしは酒をたしなみません。口の中を清めたいので、水をいただけますか?」


 タートゥマイはヴァルカスの顔をじっと見つめてから、別の水筒を差し出してきた。

 ヴァルカスは、それで口の中を洗い流しつつ、飲み下す。水筒の中身は、あっという間に空になってしまった。


「ありがとうございます。身体が乾ききっていたようで、ついつい飲み干してしまいました」


「それは、まったくかまいませぬが……あなたはそれほどまでに乾ききっていながら、飲めもしない酒を所望したのですか?」


「はい。これまで乳酒を口にする機会はなかったので、非常にありがたく思っています」


 タートゥマイは小さく息をついてから、鉄鍋のほうに向きなおった。


「ああ、鍋が煮えたようですな。お口に合うかはわかりませぬが、お身体のために食べなさるがよろしいでしょう」


「ええ、ありがたくいただきます」


 ヴァルカスの前に、煮汁の注がれた木皿が置かれた。

 いかにも辛そうな赤い色合いをしており、こまかく刻まれた具材が見え隠れしている。それに、さまざまな香草が使われているのだろう。さきほどから、ヴァルカスの胸には大きな期待感が去来していた。


「お熱いので、用心なさい。……それに、咽喉がお弱いのでしたら、いささかならず食べにくいやもしれませんな」


「その心配は、ご無用です。わたしが砂塵に弱いのは、それが異物であるからです。わたしはどれほど刺激の強い食材でも、それで咳き込むことにはなりません」


 そのような返事をするのももどかしく、ヴァルカスは木皿を持ち上げた。

 実に心地好い芳香が、ヴァルカスの鼻を撫で回している。それは確かに強い刺激を有した香りであったが、ヴァルカスにとっては悦楽そのものであった。


 まずは正確に味を計るために、煮汁だけを木匙ですくいあげる。

 赤い煮汁に、ほのかに油の膜が張っている。それに、黒い香草の微細な欠片らしきものも確認できた。


 鼻を寄せると、複雑に組みあがった香りがより緻密に感じられる。

 最低でも、4種ぐらいの香草が使われていそうな香りであった。

 東の民が何よりも好むというチットの実は当然として、それとは異なる酸味や苦みの香りが入り乱れている。それに、ヴァルカスの知らない食材も使われているようだった。


(チットの実だけでこれほど赤くなったら、さしもの東の民でも口にすることはできないはずだ。これはきっと、煮汁の主体となっている食材の色合いであるのだろう)


 しかし、タラパでないことははっきりしている。この酸味は明らかにタラパとは異なる香りであったし、煮汁のとろりとした質感も、タラパとは似て異なるものであった。


(この酸味は、香草からもたらされるものであるように感じられる。では、この赤い食材は何なのか……質感は、すり潰したギーゴを少し軽くしたような感じだな)


 ヴァルカスがそのように考えていると、「どうされました?」と声をかけられた。


「香りはきついやもしれませんが、身体の毒となるものは使っておりません。ご安心して、召し上がりください」


「はい。まずは香りを確かめていました」


 ヴァルカスは、すっかり冷め切った煮汁を木皿に戻すと、あらためて木匙ですくいあげた。

 ごくわずかな分量を、舌の上に均等に広げる。

 やはり、先に立つのは辛みであった。

 チットの実と、それよりもいくぶん清涼な辛みが、舌の上を跳ねている。トトスのあげる甲高い鳴き声に、人間の赤子の泣き声がかぶさっているような、そんな具合の辛さであった。


 そこに、苦みと酸味が混入している。苦みをもたらしているのは、こまかく砕かれた黒い香草の破片であり、酸味のほうは、煮汁の中にしっかり溶け込んでいた。

 この黒い香草は、きっと入念に燻されているのだろう。香ばしくもなめらかな、独特の深みを持つ苦みであるようだ。

 酸味には、いくつかの種類が重ねられている。そのうちのひとつは、さきほど口にした乳酒と同種の酸味であった。


(ただし、乳酒そのものの酸味ではない。ギャマの乳で作られた、別の食材……乳清か酪のどちらかなのだろう。それもまた、この質感に影響を与えているのだろうか)


 カロンの乳に関しては、ヴァルカスもすでに研究しつくしている。ジェノスの隣にはカロンの牧場を有するダバッグが存在したので、研究には事欠かなかったのだ。

 ただし、カロンとギャマでは、やはり乳にも差異が出るようだ。ヴァルカスの知る乳清や酪よりも乱暴でとげのある酸味が、強い辛みとともに舌を刺激していた。


 それらをなだめているのは、甘みともつかないほのかな風味と、肉からしみだした油分であった。

 どちらも、ヴァルカスの知らない味である。ギャマの干し肉は何度か口にする機会があったが、それよりも重みのない、すっきりした油分だ。もっとも近いのはキミュスの皮の油であるように思えたが、それよりはいくぶん荒っぽい感じがした。


(獣の味は、何を食するかで決まる。これはきっと……野鳥の類いであるのだろう)


 野鳥であれば、木の実ばかりでなく虫を食することもある。そこからもたらされる滋養が、この荒っぽさを生み出すのではないかと思われた。


 では、甘みともつかない風味のほうはどうだろう。

 数々の香草で覆い隠されているものの、煮汁の主体となっているのは、まぎれもなくその風味であるはずだった。やや土臭いようにも感じられるが、その奥に深みのある風味が感じられる。砂糖や蜜や果実とは異なる、野菜だけが持つほのかな甘やかさである。これほどひかえめな風味であるのに、香草の辛みや苦みや酸味を結びつけて、調和させているのは、その食材であるようだった。


(わたしが知る中で、もっとも近いのはネェノンか……うむ、このまろやかな風味は、根菜に相応しいかもしれない。ただ、田畑を耕す習わしのない草原で、根菜などが存在するのだろうか)


 ヴァルカスは、しばし考え込むことになった。

 すると、タートゥマイが再び声をかけてきた。


「お客人、本当に大丈夫なのでしょうかな? お気分が悪いのなら、食事の前に少し休まれるがよろしかろう」


「気分は、非常に上向いています。このシムの草原を訪れて、もっとも昂揚しているぐらいかもしれません」


 ヴァルカスは木皿を敷物に置き、タートゥマイに一礼してみせた。


「見ず知らずのわたしに、このように素晴らしい食事を与えてくださり、心から感謝しています。重ねて、御礼の言葉を述べさせてください」


「感謝も何も、あなたはまだ煮汁をひと口すすっただけではありませんか」


 見ると、タートゥマイの木皿はすでに空になっていた。


「お気分が悪くないのでしたら、いったい何を考え込んでおられたのです? この食事に、何か不審な点でもありましたかな?」


「いえ。わたしはただ、見知らぬ食材の数々に心を打たれていたばかりです。それらの味を確認するのに、いささか時間がかかってしまいました」


「……しかし、あなたはまだ肉も野菜も口にしておられぬようにお見受けするが」


「はい。この煮汁だけでも、感銘を受けるには十分です。具材のほうも、楽しみでなりません」


 タートゥマイは、溜息をつきながら首を振っていた。


「料理人というのは、誰もがあなたのように奇矯なのでしょうかな。……いや、失礼。これまでに、料理人というものを生業にする御方には巡りあう機会がなかったもので……」


「わたしは料理人としても、変人と見なされておりました。つい先ごろも、働いていた料理店から暇を出されてしまったもので、こうして心置きなくシムを訪れることができたのです」


 そのように答えてから、ヴァルカスは再び木皿を取り上げた。


「では、食事の続きに取りかからせていただきます。いったいどのような具材が使われているのか、口にする前から胸が躍ってやみません」


「……あなたが表情を動かさないのは、シムの流儀に則っておられるのでしょうかな?」


 ヴァルカスは、「いえ」と首を振ってみせた。


「表情があまり動かないのは、生まれつきのものとなります。それもまた、他者から忌避される要因のひとつであるのでしょう」


「そうですか。しかし、表情を動かさなくとも、あなたが幼子のように胸を弾ませているのは、その瞳の輝きで見て取ることができるようです」


 そのように述べるタートゥマイこそ、無表情のまま苦笑しているような気配が感じられた。


「ああ、食事の邪魔をしてしまいましたな。どうぞ召し上がりください」


「はい。それでは、失礼して」


 ヴァルカスは皿の中身をかき回し、今度は具材ごと煮汁を口に運んだ。


「ああ、これは……やはり、鳥の肉を使っていたのですね。野鳥か何かでしょうか?」


「はい。野鳥や蛇がとれた日は、その肉を食します。ギャマの干し肉には、限りがありますのでな」


「これは、アリアとプラですか。シムにもアリアとプラは存在するのですね」


「ええ。儂が育てたものではなく、川辺の集落から買いつけたものとなります」


「では、この煮汁の主体となる根菜も、そちらで手に入れたものなのでしょうか?」


「それは、ヤンムルの根と申します。そちらは草原で簡単に収穫することができるので、東方神の恵みと称されておりますな。ギャマというのは、そのヤンムルの葉を食して生きているのです」


「ああ、ギャマの食む草の下に、この根菜が隠されているわけですか。ここ数日は草原をさまよっていたのに、まったく知る機会がありませんでした」


 そこでヴァルカスは、食事の手を止めてタートゥマイを見つめた。


「では、山で育ったギャマよりも、草原で育ったギャマのほうが、肉も乳も臭みが少ないとされるのは、そのヤンムルの葉を食しているかどうかで異なってくるのでしょうか?」


「おそらくは、そうなのでしょう。少なくとも、山にヤンムルが生えることはないでしょうからな」


「なるほど。またひとつ、学ぶことがかないました」


 そうしてヴァルカスがすべての食事を食べ終えるまでに、かなりのやりとりが交わされることになった。

 ようやく空となった木皿を敷物に置き、ヴァルカスはあらためて頭を下げてみせる。


「素晴らしい食事を、ありがとうございました。これでこそ、シムを訪れた甲斐があったというものです」


「それは、大仰でございましょう。儂などは、草原でもとりわけ貧しい生活に身を置いているのですからな。いずれの集落を訪れても、これよりは上等な食事を口にすることがかなうはずです」


「いえ。わたしがシムに到着したのは数日前ですが、これほど素晴らしい食事を口にする機会はありませんでした。重要であるのは、調理をした人間の腕であるのです」


 タートゥマイは、うろんげに目を細めていた。


「この草原において、儂などは貧しき流浪人にすぎません。そんな儂の作る食事に、どうしてそこまでの価値がありましょう」


「香草の使い方が、秀逸であるのです。これまでに食したシムの料理は、いずれも香草の強い香りがおたがいを殺し合い、それは粗末な仕上がりでありました。あのように粗末な料理に使われる香草が、わたしには気の毒でなりません」


 それはヴァルカスの、心からの言葉であった。


「確かにあなたも、肉や野菜の扱いに関しては、まったく理解が及んでいないようですね。この煮汁にプラの苦みは邪魔ですし、アリアは熱の通り方が不十分でした。それに、あらかじめレテンの油で炒めてから鍋に投じれば、より深みのある味わいを生み出すことも可能でしょう。野鳥の肉も、何か余分な風味が感じられましたので、もっと入念に臭み取りをする必要があるのかもしれません」


「……仰る通り、粗末な食事であったのでしょう」


「いえ。そうであるにも拘わらず、香草の扱いは秀逸です。その一点に、わたしは深い感銘を受けました」


 そう言って、ヴァルカスは膝を進めてみせた。


「香草の扱いにかけては東の民の右に出るものはないと聞いていたのに、その期待を大きく裏切られて、わたしはひどく落胆していたのです。しかし、あなたのような御方と巡りあえて、ようやく本懐を遂げることができました」


「大仰です。……そもそも儂は、東の民ですらないのですからな」


 ヴァルカスは、「はい?」と首を傾げることになった。


「それは、どういう意味なのでしょう? あなたはどこからどう見ても、東の民ではありませんか」


「それは儂が、東と西の混血であるためでしょう。しかし、儂は西で生まれた西の民であるのです」


 それを証明するかのように、タートゥマイはわずかに口もとをほころばせた。

 しかし、それはずいぶん悲しげに見える微笑であった。


「儂はセルヴァの北方に位置する、イラカの町で生まれ落ちました。しかし、このような姿をしているためか、周囲の人間と馴染むことができず……20年前、母を失ったのを契機に、この草原へと移り住むことになったのです。ただし、神を乗り換える覚悟は持てなかったため……東方神の地を西方神の子として、ひとり草原をさまよっているのです」


「そうですか。故郷をお捨てになったのなら、神を乗り換えてもよさそうなものですが」


 タートゥマイは、無言で首を振っていた。

 きっと、何かしらの事情が存在するのだろう。しかし、ヴァルカスにとっては、どうでもいいことであった。


「タートゥマイ殿、ひとつお願いがあります。あなたの持つ香草の知識を、わたしに授けてはいただけませんか?」


「……香草の知識を?」


「はい。もちろんあなたの培った技術は、あなたのものです。それをわたしに明かせとは申しません。ただ、どの香草にどのような特性があるか、それを教えていただきたいのです。いくばくかの謝礼をお支払いすることはできますので、何卒よろしくお願いいたします」


 タートゥマイは、しばらく考え込んでいた。

 その末に、ゆっくりと首を横に振る。


「申し訳ありませんが……儂にそのような役目はつとまりますまい」


「そのようなことはありません。あなたはこれほど数々の香草を使いこなしているではありませんか」


「20年も暮らしていれば、香草の扱い方など誰でも身につけられましょう。それは頭ではなく身体にしみついたものでありますので、言葉で説明するのは難しいかと思われます」


「ですから、扱い方を明かす必要はないのです。それは、あなたという料理人にとっての財産であるのですからね」


「儂は料理人でなく、一介の流浪人にすぎません。……それに、香草の知識を授けてほしい、と仰いましたか? それとて、言葉にすることは難しいのです。儂はあなたのように筋道立って食事を作っているのではなく、勝手気ままに手を動かしているだけなのですからな」


 ヴァルカスは、「なるほど」とうなることになった。


「それならば、あなたはきっと天性の料理人であられるのです。勝手気ままに手を動かすだけで、あれほどの料理を作れるというのならば、それは天賦の才としか言い様がありません」


「いえ、ですから――」


「どうぞ、お願いいたします。これはわたしの、せめてもの気持ちとなります」


 ヴァルカスは、懐から出した銀貨の包みを、タートゥマイに差し出してみせた。

 タートゥマイは、わずかに眉根を寄せている。


「そのような真似をなさってはいけません。儂が邪な気持ちを抱いていたら、何とするのですか?」


「あなたが邪な人間であれば、わたしが気を失っている間に、これらをかすめ取っていたことでしょう。これで足りなければ、もうひと包み、お支払いいたします」


 タートゥマイは深く息をつき、銀貨の包みを押し返してきた。


「こちらは、受け取れません。……さきほどもお話しした通り、儂は他者と交わることを苦手にしているのです」


「それは、わたしも同じことです。しかし、べつだん友誼を結ぼうと願い出ているわけではないのですから、それでかまわないではないですか」


「…………」


「わたしにとって重要なのは、美味なる料理を作りあげることのみです。そのために、どうかお力を貸してはいただけませんか?」


 タートゥマイはさきほどよりも長い時間、黙りこくっていた。

 その末に、またゆっくりと首を振る。


「お断りいたします。……夜が明けたら、手近な集落にご案内いたしましょう。そちらで香草の扱い方を学ばれるがよろしいです」


「そうですか。その集落に、あなたを上回る料理人が存在すれば、そうしましょう」


 ヴァルカスは銀貨の包みを懐に戻しながら、そう答えてみせた。


「でもきっと、そのようなものは存在しない気がします。そのときは、あらためてお考えください」


 タートゥマイは溜息をつくばかりで、何も答えようとしなかった。

 ヴァルカスは、額に浮かんだ汗をぬぐってから、その場に身を横たえる。


「では、お先に休ませていただきます。どうも熱が上がってきてしまったようなので」


「熱……? やはり、何かの病魔であったのでしょうか?」


「いえ。旅の疲れが出たのでしょう。2日ほど前にトトスが毒虫にやられてしまったため、今日までずっと荷物を抱えて歩いていたのです」


 タートゥマイは、呆れ果てた様子で目を見開いていた。


「だから、あなたのそばにはトトスも荷車もなかったのですな。銀貨をお持ちなら、どこかの集落でトトスを買うことはできたはずでありましょう?」


「この銀貨は、もともと香草を買いつけるために携えてきたのです。なるべく無駄にはしたくありません」


 ヴァルカスは、重たいまぶたを閉ざすことにした。

 血の流れがぐんぐんと速まって、こめかみのあたりが強く脈打っているのを感じる。首から上だけが、燃えるように熱かった。


(しかし、さきほどの煮汁は見事だった……あれで肉と野菜の扱いを間違えなければ、どれほど美味なる料理に仕上げられるだろう……それに、ジャガルの茸を加えれば、また一段と深みが増すのではないだろうか……しかしそうすると、茸の風味が加わる分、香草の分量も調整しなければならないだろうな……)


 そのような想念にとらわれているうちに、ヴァルカスの意識は闇の中へと沈み込んでいくことになった。

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