洗礼の日
2018.9/10 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
2日が過ぎて、白の月の27日である。
屋台の仕事の休業日であるその日、俺たちはゼディアス=ルティムの洗礼を見届けるために、宿場町に下りていた。
本来であれば、その日はガズやラッツなどの人々にギバ骨スープや中華麺の作り方を手ほどきする予定になっていた。が、幸か不幸か、キミュスの皮を城下町から買いつける話が遅延してしまったために、スケジュールがぽっかり空いてしまったのである。
とはいえ、俺にとって幸いであったことに間違いはない。料理の手ほどきは次の休業日に果たすことがかなうが、ゼディアス=ルティムの洗礼を見届けるには今日という日しか存在しなかったのである。
宿場町には、とても大勢の人間が下りてきていた。
まず、ルティム本家の人間は全員参加である。血の縁をもたない家人であるツヴァイ=ルティムとオウラ=ルティムも、もちろんそこに含まれていた。
そして親筋たるルウ家からは、ジバ婆さん、ジザ=ルウ、ダルム=ルウ、リミ=ルウの4名。さらに、ルウの血族たる他の5氏族からも、男女2名ずつが姿を見せていた。
さらに北の集落からは、ディック=ドムとレム=ドム、そしてジーンの若き狩人が下りてきている。このジーンの男衆は、以前にトゥール=ディンが祝宴をまかされることになった婚儀でリッドの女衆と結ばれた人物であり、我が子の誕生が目前に迫っているために、見学を申し出たのだという話であった。
そして、どさくさまぎれなのか何なのか、ちゃっかりルド=ルウも同じ荷車で参上していた。まあ、ルド=ルウとてガズラン=ルティムとは親交が深かったのだから、誰も文句を言いたてはしなかったのだろう。
で、グラフ=ザザはディック=ドムらが見届ければよいと考えたようであるが、サウティ家からはダリ=サウティとお供の男衆がやってきている。これは宿場町で初めて行われる新生児の洗礼であるのだから、自ら見届けようと思いたったのだろう。若いだけあって、この辺りのフットワークは非常に軽いダリ=サウティであった。
さらにさらに、小さき氏族からはラッツ、レェン、ヴィンという3氏族から、それぞれ2名ずつの人間が参加している。統一感のない顔ぶれであるが、それも当然の話で、彼らもまたお産を控えた伴侶を持つ男衆と、その付添人であったのだった。
また、それとは別にバードゥ=フォウとジョウ=ランが加わっているのは、バードゥ=フォウが聖堂というものに興味を抱いているためである。聖堂では幼子たちに読み書きや計算を教えているのだと聞き、それならば森辺の幼子たちを預けるという道もあるのだろうかと、バードゥ=フォウはその点に着目していたのだ。
これで俺とアイ=ファを加えると、総勢は35名である。
何台もの荷車で聖堂に押しかけるのは迷惑であろうから、それは懇意にしている宿屋で預かってもらい、一同は徒歩で聖堂に向かっている。実のところ、聖堂の正確な場所を把握しているのは俺やアイ=ファやジョウ=ランぐらいであったので、人々を案内しなければならなかったのだ。
これだけの森辺の民がいっぺんに下りてくるというのはなかなかないことなので、宿場町の人々はさぞかし驚いたに違いない。
しかし、こちらが理由を告げると、たいていの人々は笑顔で祝福の言葉を投げかけてくれた。また、ついに森辺の民も自分たちと同じように宿場町の聖堂で洗礼を受けるのかと、感銘を受けている人間も少なくはないようだった。
「やあ、待ってたよ。ガズラン=ルティムにアマ・ミン=ルティム。それに、森辺のみなさんがた」
そうしてヴァイラス通りを進み、目的の場所まで辿り着くと、そこにはユーミとテリア=マス、カミュア=ヨシュとレイトとザッシュマ、それにターラとドーラの親父さんが待ち受けていた。
その先頭に立っていたユーミが、「うわあ」と目を輝かせて、アマ・ミン=ルティムの手もとを覗き込む。
「アスタから聞いてたけど、本当におっきな赤ちゃんだね! これなら、親父さんや祖父さまに負けない狩人に育ちそうだ」
「うむ! ついに俺も爺と呼ばれる日が来たのだな!」
ダン=ルティムは呵々と笑い声をあげる。そんな中、産着にくるまれたゼディアス=ルティムはすぴすぴと寝息をたてていた。話によると、ゼディアス=ルティムは乳をせがんで泣くとき以外、たいていはこうして眠り続けているらしかった。
ターラもゼディアス=ルティムの寝顔を確認した後は、さっそくリミ=ルウやルド=ルウと手を取り合っている。それを笑顔で眺めていたドーラの親父さんが、「おや」と声をあげた。
「最長老さんに、ジザ=ルウとダルム=ルウじゃないか。あんたがたも来なさったんだね」
「ええ、あたしがまた我が儘を言っちまってね……まあ、そうじゃなくっても、ジザは見届ける役目を与えられていただろうけどさ……」
ジザ=ルウは次代の族長というだけでなく、ちょうど2番目の子を授かろうとしているさなかであったのだ。ジザ=ルウは普段通りの仏像めいた微笑みとともに、ドーラの親父さんへと挨拶を返していた。
ちなみにジバ婆さんは、ダルム=ルウに背負われている。歩くことも苦にならなくなってきたジバ婆さんであるが、さすがに他の人々と歩調を合わせるのは難しかったのだ。目的の場所に到着したということで、ジバ婆さんはようやく地に降り立つことになった。
「さ、あんまり引き止めちゃ悪いよね。きっちり見届けるから、頑張ってね」
「はい。ありがとうございます、ユーミ」
穏やかな面持ちで微笑みながら、ガズラン=ルティムが聖堂の扉に手をかけた。
それを開くなり、幼子たちのけたたましい声があがる。
「森辺の民だ! 森辺の民が来たよ!」
「うわあ、あれが赤ちゃんかなあ?」
このように早い時間から、聖堂ではもう15人ぐらいの幼子たちが預けられていた。ただし、聖堂というのは石造りの大きな建物であるので、まだまだスペースは十分に空いている。なおかつ、ルティム家の人々が本日訪れることは俺が事前に通告しておいたので、幼子たちは興味津々でそれを待ち受けていたようだった。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」
白い長衣に赤い肩掛けを羽織った修道士の老人が、やわらかく微笑みながらガズラン=ルティムらを差し招いた。
「ありがとうございます。実は、30名ほどの同胞が見学を申し出ているのですが、全員お邪魔してしまってもよろしいでしょうか?」
「西方神は、己の敬虔なる子を拒んだりはいたしません。……とはいえ、30名もの親族を引き連れていらっしゃる御方は珍しいですな」
そんな風に言いながら、老人はあくまで優しげに笑っている。
「どうぞお入りになって、お席でお待ちください。わたくしは、司祭様をお呼びいたします。……皆は壁のほうに寄って、席を空けておあげなさい」
幼子たちはきゃあきゃあと言いながら、修道士の指示に従った。
まずはルティム家の人々が最前列の席に進んでいき、俺たちも適当な席に腰を落ち着ける。族長筋の人々を前側に座らせようという配慮も見られたが、ターラなどはリミ=ルウの隣に座っていたし、それほど徹底はされていなかった。
森辺の民たちが厳粛な面持ちをしているために、やがて町の幼子たちも静かになっていく。そうして聖堂に静寂が訪れたところで、司祭らしき人物と2名の修道士が現れた。片方はさきほどの老人で、もう片方は同じぐらい年を取った老女である。
「ようこそいらっしゃいました。わたくしがこちらの聖堂をおあずかりしている、司祭のタイムと申します」
その人物は、修道士たちよりもいくぶん若い、初老の男性であった。
やはり白の長衣と赤の肩掛けという身なりであり、修道士よりは装飾が多く見られたものの、それほど華美な感じはしない。城下町の大聖堂で見た祭司長でさえ、それほど着飾ったりはしていなかったので、ジェノスの神官職の人々は総じてつつましい身なりをしているのであろう。
司祭のタイムが挨拶をしている間に、ふたりの修道士が洗礼の準備を整えていく。金色の壺に、白い皿、黒い鳥の羽に、赤い扇――大聖堂で見たのと同じアイテムであったが、いずれも大きさは小ぶりであった。白い皿などは、おちょこていどの大きさしかない。
そして、司祭や修道士の背後には、西方神の神像が立ちはだかっていた。
これも大聖堂で見たものよりははるかに小さいものの、ディック=ドムに匹敵するぐらいのサイズはある。4枚の翼を持ち、巨大な槍を掲げて、不動明王のように厳めしい姿をした――それでいて、とても涼やかな眼差しを持つ、西方神セルヴァの像である。
やはりその赤一色に塗られた勇壮なる姿を前にすると、俺の心には抑えようもない畏怖の気持ちがわきあがった。
その姿は燃える炎のようでもあり、俺に故郷での死の記憶をまざまざと思い起こさせてやまないのだ。
祝宴で盛大に儀式の火が焚かれても、俺の胸にこのような思いが去来することはない。何故だか俺は、西方神の存在にのみ、自分の死を連想させられてしまうのだった。
(……だけど俺は、誰かに焼き殺されたわけじゃない。自分の意思で、火の中に飛び込んだんだ)
大聖堂のときと同じ思いを、俺はまた胸の奥に抱え込むことになった。
畏怖はあっても、恐怖はない。セルヴァの神像は、その姿で俺を脅かしながら、その眼差しで俺を癒してもくれるのだった。
そうして俺が人知れず胸を高鳴らせている間に、儀式の準備は完了する。
司祭のタイムに招かれて、ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムが小さな祭壇の前に進み出た。
「それでは、新しく産まれた子と親御の名をお聞かせください」
「はい。産まれた子の名はゼディアス=ルティム、父はガズラン=ルティム、母はアマ・ミン=ルティムと申します」
「ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムの子、ゼディアス=ルティム……西方神セルヴァの新しき子に、祝福を授けます」
修道士の指示で、ゼディアス=ルティムが祭壇のゆりかごに寝かされた。
4つの神具で、それに祝福が与えられていく。赤い扇を肩にあてられ、金色の壺から砂をかけられ、黒い羽ですねをさすられ、白い皿の水滴を垂らされるのだ。
ただ、最初に肩から肩へと扇を動かす所作が見られなかった。ということは、あれはジャガルからセルヴァに神を乗り換えるための儀式であったのだろう。最初から西の民として生まれたゼディアス=ルティムには、不要な儀式であるのだ。
「火神セルヴァ、大地神ジャガル、風神シム、氷神マヒュドラが、新しき子に祝福を与えました。ゼディアス=ルティムの父と母は、セルヴァの面に目を向けなさい」
ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムが、その言葉に従った。
司祭タイムは赤い扇を手に、両者の前に立つ。それでもセルヴァの神像は大きかったので、ガズラン=ルティムたちの視線がさえぎられることはなかった。
「宣誓の儀式を……ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムは、新しき子ゼディアス=ルティムを、西方神の子として正しき道に導くことを誓いますか?」
ガズラン=ルティムはなめらかな動作で、右の腕を横に広げ、左の拳を心臓の上に置いた。それでアマ・ミン=ルティムも為すべきことを理解したらしく、同じ動作を真似ていく。西の民にとっては幼き頃から教え込まれてきたこの所作も、森辺の民にとっては覚えたての習わしであるのだ。
「私、ガズラン=ルティムはゼディアス=ルティムを正しき道に導くことを誓います」
「アマ・ミン=ルティムは、ゼディアス=ルティムを正しき道に導くことを誓います」
この誓いが破られたとき、人間の魂は死後に引き裂かれてしまうという。
しかし、ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムが、その誓いを口にすることをためらうはずがなかった。
司祭タイムはおごそかな面持ちで、赤の扇をさっと振り払う。
「西方神セルヴァは、ゼディアス=ルティムが己の子として生きることをお許しになりました。ゼディアス=ルティムを、正しき道にお導きなさい」
そのような言葉を最後に、司祭タイムはふわりと微笑んだ。
「これにて、洗礼の儀式は終わりとなります。次はゼディアス=ルティムが5歳の齢を重ねたときに、またおいでなさい」
「はい。ありがとうございました」
ガズラン=ルティムは司祭に目礼し、アマ・ミン=ルティムは祭壇の我が子を抱きあげた。
次の瞬間、聖堂にたちこめていた厳粛なる空気が、木っ端微塵に粉砕される。
「ガズラン=ルティム、アマ・ミン=ルティム、おめでとう! これ、あたしたちから、お祝いの品だよ!」
真ん中の通路を通って、ユーミたちがガズラン=ルティムのもとに駆けつけたのだ。まだ祭壇の前にいたガズラン=ルティムたちは、いささか面食らった様子でその姿を見返していた。
ユーミは大きな包みを抱えており、テリア=マスは花束を手にしている。ドーラの親父さんは野菜を詰め込んでいるらしい大きな袋で、カミュア=ヨシュとザッシュマはそれぞれ果実酒の土瓶、レイトは小さな木像であった。
すると、ターラも横合いから進み出て、アマ・ミン=ルティムに「はい」と手を差し出す。そこには、花で編んだ小さな輪っかが握られていた。
「あ、ありがとうございます。でも、神の前でこのように騒いでも許されるものなのでしょうか?」
「何を言ってんのさ! 儀式が済んだらおもいっきりお祝いするのが、宿場町の流儀だよ!」
ユーミは気安くウインクなどをしながら、ガズラン=ルティムの手に大きな包みを押しつけた。おそらく中には、大量のおしめが詰め込まれているのだろう。
「宿場町の聖堂で儀式をしたんだから、宿場町の流儀を曲げる必要はないはずでしょ? 迷惑だったら、突き返してくれてもいいけど」
「いえ、決してそのような真似はしませんが……」
ガズラン=ルティムがこれほど目を白黒とさせるのは、きわめて珍しい話である。
しかし、ガズラン=ルティムが背後を振り返ると、司祭や修道士たちは温かい笑顔でこのやりとりを見守っていた。
「そちらの娘さんの仰る通りですよ。これだけ数多くの親族が駆けつけたのだから、さぞかし大変な騒ぎになるかと思っていたのですが……どうやら、杞憂であったようですね」
「そうなのですか。こちらで洗礼の儀式を行うのは初めてのことであったので、いくぶん戸惑ってしまいました」
すると、壁際の席から見知らぬ幼子たちも、「おめでとー!」と元気な声をあげてきた。これもきっと、宿場町の流儀であるのだろう。
そして、この賑やかさに触発されたのか、レイ家の代表たるラウ=レイがずかずかとガズラン=ルティムたちに近づいていく。
「それでは、俺もあらためて祝いの言葉を述べさせてもらうぞ! 遅い婚儀だったが、これほど立派な赤子を授かって幸いだったな、ガズラン=ルティムよ!」
「はい、ありがとうございます、ラウ=レイ」
それで大人しく座していた他の同胞も、立ち上がって祝福の言葉をかけ始める。俺はアイ=ファをともなって、ガズラン=ルティムのもとに参じることにした。
「おめでとうございます、ガズラン=ルティム、アマ・ミン=ルティム。今日もまた、記念すべき日となりましたね」
「はい、ありがとうございます、アスタ。それに、アイ=ファも」
「うむ。その赤子が強き狩人に育つ日を楽しみにしているぞ」
アイ=ファもとてもやわらかい目で、ゼディアス=ルティムの寝顔を見つめていた。
ゼディアス=ルティムはターラの手によって可愛らしい花の冠をかぶせられていたが、それでもなお安らかに寝息をてている。周囲の騒ぎなど、これっぽっちも耳には入っていない様子だった。
そしてそこに、ダン=ルティムも近づいてくる。
「では、祝いの品は俺が運ばせてもらおう! 森辺にはない習わしだが、とてもありがたく思っているぞ!」
「ああ。こいつで美味い料理をこしらえておくれよ」
「果実酒は、あんたがたが飲み干すことになるんだろうな」
ザッシュマとドーラの親父さんも、一緒になって笑っている。この両名は面識がなかったように思うのだが、聖堂に満ちたおめでたい空気が、ある種の連帯感を生み出しているように感じられた。
「さ、騒ぐだけ騒いだら、とっとと退散しようかね。あんまり長々と居座ると、さすがに迷惑になっちゃうからさ」
ユーミの号令で、ようやく俺たちは聖堂を辞去することになった。
が、バードゥ=フォウは司祭のほうに向き直って、こう発言する。
「俺はこの場で幼子たちが読み書きを手ほどきされている姿を見物していきたいのだが、それは許されるだろうか?」
「はい。さきほども申しましたが、西方神は己の子を拒みません。こちらの聖堂に足を踏み入れるのに、誰かの許しは必要ないのです」
「では、しばし見物させていただく。ジョウ=ランも、わかったな?」
「あ、はい、承知しました。……あの、アスタ、表のユーミにこのことを伝えていただけますか?」
俺への言葉は小声で届けられていたが、バードゥ=フォウの目をごまかすことはできなかったに違いない。バードゥ=フォウは、やれやれといった様子で息をついていた。
そうして表に出てみると、ユーミはルティム家の人々に少し歓談していかないかと誘いをかけていた。家の遠い氏族でも中天までに戻れるように、かなり早い時間に集合していたので、それ以外の人々はけっこうゆとりがあるのである。
「せっかく町まで下りてきたんだし、交流を結ぶいい機会でしょ? 赤ちゃんの姿も、もっとじっくり拝んでおきたいしさ!」
「そうですね。では、しばらく留まろうかと思います」
「それじゃあ、最長老さんはミシル婆さんの店まで案内しようか? こんな機会でもないと、なかなか顔もあわせられないだろう?」
ドーラの親父さんの言葉に、ジバ婆さんは顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「そいつは、ありがたい申し出だねえ……ジザ、ダルム、もうちょっとつきあってもらえるかい……?」
「ふん。干し肉などは持ち歩いていないのだから、家で食事をする時間ぐらいは残してもらうぞ」
ぶっきらぼうに言いながら、ダルム=ルウがジバ婆さんの前で膝を折る。なんとも微笑ましい光景であった。
北の集落とサウティの人々は、残念ながら早々に帰らなければならない。少し離れたところでは、モルン=ルティムとラー=ルティムがドム家の兄妹と語らっている姿が見えた。
「えー! ルド=ルウは、もう帰らなくっちゃいけないの?」
そのように声をあげていたのは、もちろんターラであった。
ルド=ルウは「しかたねーだろ」と頭をかいている。
「北の集落は遠いし、今日はトトスに荷車を引かせてるからな。さっさと戻らねーと、ギバ狩りの仕事に遅れちまうんだ」
「そっかあ。ひさしぶりに会えたのに、残念だなあ……」
「ひさしぶりったって、まだ5日やそこらしか経ってねーだろ? 横笛の手ほどきをされる前は、何月も顔をあわさないのが当たり前だったじゃねーか」
「うん。だから、しょっちゅうルド=ルウに会えるようになったのが、すごく嬉しかったの」
ターラは心から残念そうに、肩を落としている。
ルド=ルウは溜息をつきながら身を屈めると、ターラの焦げ茶色をした髪をくしゃくしゃにかき回した。
「あと10日もすりゃあ、ルウの家に戻れるからよ。それまで、大人しく待ってろよ」
「うん……そうしたら、また宿場町にも遊びに来てくれる?」
「当たり前だろ。まだまだ横笛で覚えたい曲がいくつも残ってるんだからな」
ターラはルド=ルウの顔をじっと見つけてから、やがて「うん」とうなずいた。
「ルド=ルウの横笛、早く聴きたいな。また祝宴に呼んでくれる?」
「あー、親父に頼んどくよ」
ルド=ルウがにっと白い歯をこぼすと、ターラもようやく笑顔になった。
ずっと静かにそのやりとりを見守っていたリミ=ルウも、満面に笑みをたたえてターラの首にかじりつく。
「祝宴、楽しみだね! ルド、ザザ家の人たちと喧嘩しちゃダメだよ?」
「喧嘩なんてする理由ねーだろ。お前こそ、かまど仕事の腕を上げておけよな」
「ふふーん! リミはトゥール=ディンのおかげで、また美味しいお菓子が作れるようになったもんねー!」
どの場所においても、和気あいあいとした光景が繰り広げられている。
そんな中、すっかり取り仕切り役の貫禄であるユーミが、また声をあげた。
「それじゃあ、場所はどうしよっか? やっぱ、ヴァイラスの広場かな」
「あ、ユーミ。ジョウ=ランは、しばらく聖堂に居残るみたいだよ」
俺が告げると、ユーミは「えっ」と目を丸くした。
「な、何で? もう聖堂なんかに用事はないでしょ?」
「子供たちが勉強を教わる姿を見学していくんだってさ。バードゥ=フォウは、前々からそのことに関心を持ってたからね」
ユーミは、さきほどのターラに負けぬ勢いで肩を落としていた。今日もジョウ=ランと語り合えるものと、心待ちにしていたのだろう。
すると、ラッツやレェンの人々がその話にくいついてきた。
「例の、読み書きや計算の手ほどきというやつか。それは俺たちも、見届けておきたい気がするな。……お前だって、そうは思わぬか?」
そのように問われたのは、ヴィンの男衆であった。馴染みは薄いが、ヴィンはラヴィッツの血族である。
「ラヴィッツの血族は市場で肉を売る仕事を受け持っているのだから、まさに計算というものを習得しているさなかであるのだろう?」
「……それを受け持っているのはラヴィッツとナハムなので、ヴィンの俺たちは関わっていない」
「それは、惜しい話だな。美味なる料理を作るためにも、計算や文字の読み書きというのは大いに役立つという話であるのだぞ?」
ラッツを始めとするかまど番には、そういった名目で文字の読み書きを手ほどきしたのである。食材の分量を帳面に書き留めるという新たな習わしも、じわじわと浸透してきているはずだった。
ヴィンの男衆は相方の女衆と小声でやりとりをしてから、しかたなさそうに「うむ」と応じる。
「どのみち、俺たちは同じ荷車で来たのだから、先に帰ることもできん。それがどのような手ほどきであるのか、見物させてもらおう」
「よし。それでは、フォウの家長のもとまでおもむくか」
すると、テリア=マスが笑顔でユーミを振り返った。
「でしたら、わたしたちは先に広場へと行っています。ユーミは聖堂に居残って、見物が済んだらみなさんを広場まで案内してあげたらいいのじゃないですか?」
その言葉に、ユーミがぴょこんと顔をあげた。
「で、でも、言いだしっぺのあたしが、そんなんでいいのかなあ?」
「何も問題はないでしょう。森辺の方々が迷子になってしまったら大変ですし」
広場はこの通りを真っ直ぐに行った場所にあるので、迷いようがない。また、ジョウ=ランはその場所を知っているのだから、伝言を残しておけば用事は足りるはずだった。
が、もちろんそのような発言をして馬に蹴られる気はないので、俺も「そうだよ」と便乗してみせる。
「バードゥ=フォウたちを、どうぞよろしくね。赤ちゃんの姿は、あとでじっくり拝ませてもらいなよ」
「ちぇっ、何だかふたりがかりでやりこめられてる気分だよ」
わずかに頬を赤らめながら、ユーミは頭をかきむしった。
「それじゃあ、そっちはおまかせするよ。広場では、ベンたちが遊んでるだろうからさ」
「承知しました。では、のちほど」
案内人を引き継いだテリア=マスが、先頭に立って人々を導いていく。ミシル婆さんのもとに向かうのはルウ家の人々とドーラ親子のみであるので、広場に向かうのはルティムとルウの血族という顔ぶれになった。
ジバ婆さんとリミ=ルウがミシル婆さんのもとに向かってしまうので、アイ=ファはたいそう残念そうな面持ちになっている。が、それでも俺のもとを離れようと考えもしないところが、何とも幸福でくすぐったいような心地である。
「洗礼が儀式がすんなり終わったから、ずいぶんゆっくりできそうだよな。しばらくしたら、ジバ婆さんたちもこっちに参加するんじゃないかなあ?」
「うむ……ジザ=ルウやダルム=ルウが、それを許せばな」
「大丈夫だよ。あのふたりだって、ドーラ家の人たちとは懇意にしてるんだから。ターラたちが誘えば、きっと了承してくれるはずさ」
「そうだな」と、アイ=ファは苦笑めいた笑みを浮かべる。
「そのように気をつかわせるほど、私は落胆した姿を見せてしまっていたか?」
「うん。だけどまあ、そこまで見抜けるのは俺ぐらいだろうから大丈夫さ」
その場の昂揚した空気にあてられて、俺は気安い言葉を返す。
アイ=ファも同じ状態にあったのか、目を細めて微笑むばかりで、足を蹴ってこようとはしなかった。
「アスタとアイ=ファも、こちらに来ていただけるのですね」
と、ななめ前方を歩いていたガズラン=ルティムが、人をぬってこちらに近づいてきた。
「今日はゼディアスのために、ありがとうございました。今日という日の喜びをアスタたちと分かち合うことができて、心より嬉しく思っています」
「こちらこそですよ、ガズラン=ルティム。子育てというのは色々と大変な面もあるのでしょうが、どうか頑張ってください」
「はい。この数日で、私もそれを強く思うことになりました」
ゼディアス=ルティムの夜泣きに困らされているのだろうか、と俺は首を傾げることになった。
しかしガズラン=ルティムは、何やら真剣な眼差しになっている。
「いえ、父の有り様というものを、色々と見つめなおすことになったのです。それはきっと、この数日で聞かされた話によるものなのでしょう」
「この数日というと……もしかしたら、ズーロ=スンの一件ですか?」
「はい。それに、ラーズという人物に関してもです」
その件は、ツヴァイ=ルティムごしにガズラン=ルティムのもとまで届けられているはずだった。
「立場も状況もまったく異なりますが、ズーロ=スンとラーズなる者は、ともに父親の身でありました。それで私も、身につまされることになったのです」
「ふむ。ガズラン=ルティムがそのような話を気にかける意味はあるのであろうか? 言っては悪いが、ズーロ=スンは大罪人であり、ラーズなる者も無法者であったと聞く。ガズラン=ルティムのように正しき心を持った人間とは、並べて考えることも難しいように思えるぞ」
アイ=ファも、けげんそうな表情になっていた。
ガズラン=ルティムは、「いえ」と首を横に振る。
「それでもなお、彼らは父でした。父たる存在が道を踏み外せば、我が子に苦難を招き寄せ、正しき道に立ち返れば、幸福や安らぎをもたらすのでしょう。そんな当たり前のことを、あらためて思い知らされた心地です」
「ガズラン=ルティムのようなお人を父に持てば、ゼディアス=ルティムは幸福な人生を歩むに違いないですよ。それはきっと、ラー=ルティムからダン=ルティムに、ダン=ルティムからガズラン=ルティムに引き継がれてきた、正しき道なのでしょう」
俺は、そのように答えてみせた。
「ズーロ=スンが道を踏み外したのは父親たるザッツ=スンの影響が大きいのでしょうし、もしかしたらラーズもそうであったのかもしれません。でも、ズーロ=スンもラーズも、いまでは子たちに正しき道を示せたのではないでしょうか? 俺はそのことを、心から素晴らしいことだと思っていました」
「そうですね。私もそのように考えていました」
ガズラン=ルティムが、ふっと優しげな微笑をもらす。
「そして、サイクレウスとシルエルの父とは、いったいどのような人間であったのかと……そのようなことまで考えてしまいました」
「はい。だけどサイクレウスも」
「ええ。娘のリフレイアに正しき道を示せたのかもしれません」
俺たちの掛け合いにきょとんと目を丸くしてから、アイ=ファは不満そうに唇をとがらせた。
「何なのだ、お前たちは。まるで家族のように心が通じ合っているようだな」
「いや、同じ話について考え込んでいたから、同じような結論に至ったってことなんじゃないのかな」
俺は笑ってみせたが、アイ=ファは唇をとがらせたままだった。
ガズラン=ルティムは、そこでまた真剣そうな眼差しになる。
「あの、アスタ、これまではあえて口にしなかった言葉を、この場で口にしようかと思うのですが……それを許していただけますか?」
「え、何です? ガズラン=ルティムが俺なんかに遠慮をする必要はいっさいありませんよ」
「ですが、このようなことでアスタの気分を害してしまったらと考えると……どうしても、ためらってしまうのです」
それはあまりに、ガズラン=ルティムらしからぬ言い様であった。
「俺がガズラン=ルティムの言葉で気分を害するなんて、想像がつきません。何でも遠慮なく仰ってください」
「では、問わせていただきますが……アスタの父親とは、どのような人物であったのですか?」
さすがにそれは、意想外の問いかけであった。
ガズラン=ルティムの眼差しは、いっそう真剣なものになっている。それは、俺の心の傷をえぐる言葉であったりはしないのか――と、強く危ぶんでいるかのような眼差しである。
しかしもちろん、それで俺の心がえぐられることはなかった。
「俺の親父は、頑固者の偏屈者ですね。自分が変人だっていう自覚もないんで、余計な騒ぎばかりを起こす、とても困った人間でした」
俺は笑顔で、そのように答えてみせた。
「ただ、俺が知る中では最高の料理人でしたよ。富や名声とは無縁な、しがない食堂の主人でしたが、俺は誰よりも、親父のことを尊敬しています」
「そうですか」と、ガズラン=ルティムは微笑んだ。
「アスタのような人間を育てたのはどのような人物であるのかと、ずっと気にかかっていたのです。このように無遠慮な問いかけに答えていただき、心から感謝しています」
「そんなたいそうな話ではないですよ。俺自身、まったくたいそうな人間ではないですからね」
ガズラン=ルティムはひとつうなずくと、アイ=ファのほうに向きなおった。
「これでアスタの心を傷つけることになっていたら、アイ=ファに殴打される覚悟を固めていました。いらぬ心配をかけてしまい、心よりお詫びを申しあげます」
「うむ。お前がいったい何を言うつもりなのかと、いくぶん肝を冷やしてしまったぞ」
アイ=ファは厳粛きわまりない面持ちで、そのように述べていた。
「しかし、敬愛する親のことを問われて、気持ちを害する人間はおるまい。ガズラン=ルティムがそこまでアスタの心情を気にかけることのほうが、奇異に思えてしまったな」
「そうですか。アスタにとって、故郷や家族のことに触れられるのは、大きな痛みをともなう行いなのではないかと思ってしまっていたもので……そうでなかったのなら、幸いです」
「家族と二度と会えないというのは、確かに大きな苦しみです。でも、その苦しみから目を背けても、気持ちが楽になるわけじゃないですからね」
俺は笑顔のまま、そのように答えてみせた。
「それに、ガズラン=ルティムと家族や故郷のことを語り合うのに、苦痛がともなうことはありません。これからは、何でも気兼ねなくお話ししてください」
俺の笑顔が強がりの結果ではないと、信じることができたのだろう。ガズラン=ルティムは、ようやく笑顔を取り戻してくれた。
「ありがとうございます。それでは、また機会があれば、お話を聞かせてください」
「はい。いつでも、お待ちしています」
俺が家族や故郷のことを語らないのは、「自分が1度死んでいる」という突拍子もない話がつきまとうゆえであった。そうでなければ、俺は親父や玲奈のことを語るのをためらったりはしないし――また、それらを失ってしまった苦しさから目を背けるつもりも、毛頭なかった。
(そうだからこそ、俺はいまの生活がかけがえのないものだってことを、強く思い知ることができるんだ)
そうして俺たちは、ヴァイラスの広場に到着した。
遠くのほうで、ベンたちが手を振っている。いきなり登場した森辺の民の集団に、ぎょっと身をすくませる人たちもいなくはなかったが、それで広場から逃げだそうとする人間はいないようだった。
世界は、こんなにも光り輝いている。
だから俺は、心の奥底に鈍い痛みを感じつつ、それよりも大きな喜びを噛みしめることができるのだろう。
そんな風に考えながら、俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
「カーゴがな、アイ=ファと盤上遊戯で手合わせしたくてうずうずしてるんだよ。よかったら、相手をしてあげてくれ」
「そうか」と、アイ=ファは微笑んでいた。
きっと俺が笑っているから、アイ=ファも笑ってくれているのだ。
俺はアイ=ファのしなやかな指先を握りしめたい衝動を懸命にこらえながら、宿場町の友人たちが待つ広場へと足を踏み入れた。