多端の日②~さらなる騒動~
2018.9/7 更新分 1/1
翌朝である。
俺は昨日とは打って変わって、非常に不安定な精神状態で町に下りることになった。
しかもこの話は、周りの女衆と共有することがかなわない。大切な同胞たちに秘密を抱え込んだ、これがその代償なのである。察しのいいトゥール=ディンやユン=スドラに内心の不安を気取られないように苦心しながら、俺はギルルの手綱をふるっていた。
「ズーロ=スンがどのような運命を迎えようとも、それは母なる森と父なる西方神の思し召しだ。お前が心を痛める必要はない」
昨晩、アイ=ファはそのように述べていた。
森辺でこの話を知るのは、ヤミル=レイとマルフィラ=ナハムを除けば、アイ=ファとドンダ=ルウのみであったのだ。俺は森辺の人間の義務として、カミュア=ヨシュから伝え聞いた話を族長のドンダ=ルウに報告したのだが、けっきょくそれは他の族長たちに届けられなかったのだった。
「内容も定かでない話を伝えても、意味はあるまい。むしろグラフ=ザザなどは、それを特定の人間に隠そうという行いにこそ、異議を申し立てるはずだ」
かつてドンダ=ルウは、そのように述べたてていたのだった。
「だから貴様も、そのような話は捨て置け。いずれ真実が知れるというのなら、その日まで黙って待っていればいいだけのことだ」
つまりは、ドンダ=ルウに報告した俺の行いこそ無意味であった、ということである。まだまだ新参者の俺は、森辺の習わしをきちんと把握しきれていないようだった。
ともあれ、すべては今日という日に、明らかになるはずであるのだ。
タイミング的に、別件であるということはないだろう。王都にはメルフリードが滞在していることだし、それに先んじて森辺の民に使者を届ける用事はないように思われた。
やがてルウの集落に到着すると、本日の取り仕切り役であるレイナ=ルウがにっこりと笑いかけてくる。
「お待ちしていました。それでは、出発いたしましょう」
「うん、そうだね。……ドンダ=ルウたちは、まだ戻っていないのかな?」
「はい。ずいぶん早くから家を出ましたが、戻るのはわたしたちの商売の最中ではないでしょうか。ルドがいないので、供にはダルム兄を連れていきました」
レイナ=ルウは、普段通りの朗らかな面持ちである。もちろんドンダ=ルウも、ズーロ=スンの一件を家人にもらすことはなかったのだ。
マイムとヤミル=レイを迎え入れて、いざ宿場町に出発する。余人の目があるのでヤミル=レイは無言のままであったが、その切れ長の目にはさまざまな感情の光が渦巻いているように感じられた。
すべての事実が明らかになれば、それはすみやかにすべての氏族へと伝えられる。
もしもズーロ=スンが魂を返してしまっていたら、ミダ=ルウやツヴァイ=ルティムやオウラ=ルティムは、どのような気持ちに見舞われることになるのか――それに、ディガやドッドやスンの分家の人々や、トゥール=ディンやゼイ=ディンといった人々はどうなのか――それを考えるだけで、俺はずしりと重たい気持ちになってしまうのだった。
(苦役の刑は、死よりも苦しい刑罰だって話だけど……それでもズーロ=スンは、それをやりとげて森辺に戻りたいと願っていたはずなんだ)
だからどうか、ズーロ=スンに加護の手を――と、俺はもう何回目かもわからぬ祈りを母なる森と西方神に捧げることになった。
しかし、その日の西方神は、さらなる騒動を俺たちに準備していたのだった。
俺がそれを知らされたのは、《キミュスの尻尾亭》に到着したのちのことである。
いつものように扉を開けると、受付台に座していたテリア=マスがハッとしたように面を上げて、それからすぐに肩を落とした。
「ああ、アスタにレイナ=ルウ……もうみなさんが訪れる刻限でしたか」
「ど、どうしたんです、テリア=マス? 顔色が真っ青ですよ?」
「はい、実は……ラーズが、姿を消してしまったのです」
テリア=マスの言葉に、レイナ=ルウがきょとんと目を見開いた。
「ラーズというのは、レビの父親の名でしたね? あの御方は、胸と足を痛めていたのではなかったのですか?」
「はい。胸のほうはずいぶんよくなったようですが、杖を使わなくては歩けない身体です。そのような身体で、夜の内に姿を消してしまったようなのです」
立ち上がったテリア=マスは、前掛けをぎゅうっと握りしめながら、そう言った。
「レビは朝から、宿場町を探しています。ユーミやベンたちも力を貸してくれているはずですが……いまだに、見つかっていないようです」
「それはいったい、どういうことなのでしょう? どうしてそのラーズという御方が、姿を隠さなくてはならないのですか?」
「わかりません。レビも、途方に暮れてしまっています」
そのように述べてから、テリア=マスは思いつめた面持ちで俺たちに近づいてきた。
「それで、あの……非常に申し訳ないのですが、アスタたちにも力を貸していただけませんか……?」
「はい。人手が必要なら、力を貸しますよ。何かあってからでは遅いですからね」
「あ、いえ、そういうことではないのです。ただ、屋台を訪れるお客様たちに、ラーズを見かけたかどうかをお聞きになってもらえませんか?」
「それだけでいいのですか?」と、レイナ=ルウが小首を傾げる。
テリア=マスはその目に涙をにじませながら、「はい」とうなずく。
「宿場町の裏通りは入り組んでいますし、無法者も多いですから、森辺の方々が足を踏み入れるのは危険なことでしょう。ただ、ラーズはそれなりに人目につきやすい風貌をしていますので……すれ違っただけでも、人の目にとまると思うのです」
「そうですね。それじゃあ、お客さんたちに聞いてみます。それで商売が終わった後は、俺たちも宿場町を探しますよ。危険な区域さえ避けて通れば、何も危ないことはないでしょうから」
俺の言葉に、テリア=マスはぽろりと涙をこぼしてしまう。
「ありがとうございます……アスタたちには、ご迷惑ばかりかけてしまって……」
「テリア=マスがそのように心を痛める必要はありませんよ。テリア=マスは、何も悪くないのですから」
「いえ……これはきっと、わたしの浅ましさに対する、罰なのです」
俺とレイナ=ルウは、「罰?」と同時に反復することになった。
テリア=マスは頬に涙を伝わせながら、子供のようにうなずいている。
「この数日間、わたしはラーズのことを疎んでしまっていました……この人さえもっとしっかりしていれば、レビがこんな苦労を背負うことにもならなかったのに、と……それで……この人さえいなければ、とさえ考えてしまったのです……」
「だけど……それをラーズ本人に伝えたわけではないんでしょう?」
「そのようなことを、言えるはずがありません……でも、わたしがそのように浅ましい思いを抱いてしまったことを、西方神は知っています……だからきっと、このような罰がくだされてしまったのです……」
レビを思うあまり、レビにさらなる苦難を与えてしまった――テリア=マスは、そのように考えているのだろうか。
俺としては、西方神がそのように無慈悲な真似をするわけがない、と信じたいところであった。
「大丈夫ですよ。ラーズは、きっと見つかります。だいぶ歩けるようになってきたから、ちょっと遠出をしただけなんじゃないでしょうかね。それでもしかしたら、どこかで転んでしまったのかもしれません」
「でも……ラーズは夜明け前から姿が見えなかったのですよ……?」
夜も明ける前から散歩をするというのは不自然であるし、現在はすでに上りの六の刻も間近である。俺の言葉に説得力が欠けていたのは、明らかであった。
「とにかく俺たちも力を貸しますから、どうか気を強くもってください。レビもラーズも、きっと大丈夫ですよ」
「はい」と弱々しく応じながら、テリア=マスは懐から倉庫の鍵を取り出した。
「それでは、屋台をお渡しします。……どうかくれぐれもよろしくお願いいたします、アスタ、レイナ=ルウ」
屋台を受け取った俺たちは、露店区域に向かう道すがらで、他の女衆に事情を伝えることにした。
屋台を押して歩きながら、ユン=スドラは「そうですか」と気の毒そうに目を伏せる。
「わたしはそのラーズという御方をよく知らないのですが……たしか、片方の足が曲がってしまって、もうもとには戻らないと言われていたのですよね?」
「うん。俺はそう聞いているよ」
「そうですか……それなら、姿を消す理由はふたつしかないように思います」
そうして面を上げたユン=スドラは、思いの外、強い光を目にたたえていた。
「まともに働くことができないのなら、まともでない手段で銅貨を得ようとしているか……そうでなければ、家族のために生命を絶とうとしているのではないでしょうか?」
「い、生命を絶つ?」
「はい。自分の存在が家族の重荷にしかならないのなら、自ら生命を絶つしかありません。スドラの家でも、深手を負った狩人は家に戻らず、そのまま森で朽ちるようにしていたのです」
俺は、言葉を失ってしまった。
ユン=スドラはそれをなだめるように、目の光をやわらげる。
「もちろんそれは、スドラが貧しかった時代の話です。いまであれば、どれほどの深手を負おうとも、まずは生かそうとするでしょう。それが許されるだけの豊かさを、わたしたちはアスタのおかげで手にすることができたのですから」
「そうか……スドラは本当に、過酷な生に身を置いていたんだね」
「はい。……いまであれば、わたしの父も魂を返さずに済んだかもしれませんね」
俺は、再び言葉を失う。
しかしユン=スドラは、まぶしいものでも見るように俺を見つめていた。
「わたしの父は、狩りの最中で深手を負いました。それでも家長は、父を連れ帰ろうとしたそうですが……父のほうが、それを拒んだのです。こんな役立たずに食べさせる食事があったら、それは娘に……わたしに与えてやってくれ、と……そんな言葉を言い残して、父は森の奥深くに消えていったそうです」
「…………」
「だからわたしは、アスタのことをかけがえのない存在だと思っていたのです。……そして、レビとラーズの話を聞いたとき、父のことを思い出してしまったのです」
力のこもった声で、ユン=スドラはそう言った。
「わたしにとってのファの家が、レビにとってのマスの家だったのではないでしょうか。だけどラーズという御方は、自分のせいでレビが苦しむことに耐えきれず……それで姿を消してしまったのではないでしょうか」
「うん……そうなのかもしれないね」
「もしもそうなのだとしたら、何としてでもラーズを見つけださなくてはなりません。レビはどのような苦労を背負おうとも、ラーズに生きてほしいと願っているはずです」
「うん。それは間違いのないことだね」
そうして俺たちは、所定のスペースに辿り着いた。
本日も、俺は『ギバ・カレー』の担当であったので、その温めはフェイ=ベイムにおまかせして、開店を待ち受けているお客のもとに突入する。お客たちは、俺の常ならぬ行動にみんな目を丸くしていた。
「お前さんよりも小さくて、痩せこけていて、杖をついた年配の男か。そんなやつを見かけた覚えはないな」
「そうですか。もしも見かけたら、いったん宿屋に戻るように伝えていただけませんか?」
「お安い御用だ。なんなら縄でひっくくって、お前さんのところまで連れてきてやるよ」
「あ、どうか穏便にお願いいたします。その御方は、あちこち怪我を負っておりますので。……でも、俺たちのところか《キミュスの尻尾亭》という宿屋まで連れてきていただけたら、本当に助かります」
「了解したよ。いつも美味いもんを食わせてもらってる御礼だ」
お客たちの大半は気安く応じてくれたが、ラーズの姿を見かけた人間はひとりとしていないようだった。
とりあえず屋台に戻ってみると、そこにジョウ=ランを筆頭とする森辺の若衆が近づいてくる。彼らは今日も宿場町に下りていたのだ。
「ああ、アスタ。レビの父親の話は聞いていますか?」
「うん、もちろん。ジョウ=ランたちも探してくれていたのかい?」
「はい。とりわけ無法者の多いという区域を、ユーミと一緒に回っていました。でも、ラーズはそちらにも姿を見せていないようです」
ジョウ=ランは、しょんぼりとした面持ちで眉を下げていた。
「本当はこのまま宿場町に居残りたいところなのですが、さすがにギバ狩りの仕事はおろそかにできませんし……ただ、なんとか家長を説得して、狩りの仕事を早めに切り上げようかと思っています」
「レビとて、俺たちには大事な友だからな。父バードゥやランの家長だって、きっと了承してくれるはずだ」
フォウの本家の長兄も、厳しい面持ちでそのように述べていた。
きっとユーミやベンたちは、いまでも宿場町を駆けずり回っているのだろう。自分の息子がどれだけ多くの友たちに支えられて生きているか、ラーズはそれを知るべきなのだと思われた。
(俺だって、レビの力になろうっていう矢先だったんだ。本当にラーズが、自分の存在が重荷にしかならないなんて考えてるんなら……それは大間違いだって教えてあげないとな)
そうしてジョウ=ランたちは森辺に帰り、俺たちは商売を開始した。
朝一番から待ち受けていたお客たちがはけた後は、お客のひとりずつにラーズを見かけていないか尋ねさせてもらう。しかしやっぱり、望むような答えが得られることはなかった。
「やあ、アスタ。大変なことになっちゃったね」
と、客足がゆるやかになったところで、ユーミが登場した。
額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐい、革の水筒で咽喉を潤してから、あらためて俺に向きなおってくる。
「レビの親父が隠れそうなところはひと通り見て回ったんだけど、ぜーんぶ空振りだったよ。あの馬鹿親父、いったいどこに逃げちまったんだろうね」
「そっか。宿場町にくわしいユーミでも見つけられないんだね……」
「そんな、アスタまで不安そうな顔しないでよ! ああいう小悪党は、そう簡単に自分の人生をあきらめたりはしないさ」
そのように述べながら、ユーミは屋台の内側に顔を突っ込んできた。
「テリア=マスも、馬鹿親父が自ら魂を返そうとしてるんじゃないかって心配してるみたいだったけどさ、あたしはそうは思わないね。そんな殊勝な人間だったら、悪党なんざに成り下がるもんか」
「それじゃあ、ユーミはどう考えているんだい?」
「そんなの、わかんないけど……ただ、馬鹿親父が何か罪を犯して、レビやテリア=マスたちの温情を踏みにじらないことを祈ってるよ」
数々の無法者を、宿屋のお客として相手取ってきたユーミである。その言葉は、非常な重みをともなって、俺の心にのしかかってきた。
「ま、事情を詮索するのは、後回しさ。これからちょっと別の区域も探してみるから、何か手づかみで食べられる料理をくれる?」
「うん。いまならまだ『ギバまん』も売り切れてないよ」
「それじゃあそいつと、あとはトゥール=ディンのお菓子でいいや。あんまり腹いっぱいになると、走るのも億劫だからね」
そうして目当ての食事を手にすると、ユーミはそれをかじりながら早々に立ち去っていった。
その背中を見送ってから、フェイ=ベイムは「なるほど」とうなずく。
「やはりあの娘は、情けの深い気質をしているようですね。それに、このような際でも食事をおろそかにしないのは、非常に分別をわきまえているように思います」
「ええ、そうですね。その気持ちが報われるといいのですが……」
「そのラーズなる者が正しき心を持っているなら、きっと西方神が救いの手を差しのべることでしょう」
その後は、ベンやカーゴたちも次々に屋台を訪れることになった。
誰もが手づかみで食べられる料理を購入し、話もそこそこに立ち去っていく。レビと交流を持つ人間は、誰もが親身になって捜索活動に協力している様子だった。
ただ、いつまでたっても、レビ本人は姿を現さない。
きっと屋台に立ち寄る時間も惜しんで、あちこち駆け回っているのだろう。その心中を思うと、俺は居たたまれない心地になってしまった。
そんな中、ひょろりとした人影が屋台の前に立つ。
それは、レイトを引き連れたカミュア=ヨシュであった。
「やあやあ。今日は何だか、慌ただしい日になってしまったね」
「あ、カミュア……カミュアたちも、レビの父親探しに協力していたんですか?」
「うん、まあ、その人物に関しては、レイトがひどく気にかけていたようだったからね。ひとかたならぬ縁を持つミラノ=マスも関わる話だし、俺なりに力は尽くしたつもりだよ」
いつも通りの飄々とした顔で笑いながら、カミュア=ヨシュは細長い下顎をまさぐった。
「だけど、俺が推測するに……その御仁は、もうジェノスにいないのじゃないかなあ」
「え? どうしてです?」
「いや、さっき裏界隈の元締めのところに話を聞きにいったんだけどね。あのイカサマ野郎が古巣に出戻ってきたんなら、自分の耳に入らないはずがない、と言いきっていたんだよ」
何か恐ろしい言葉が飛び出したような気もするが、いまはそのようなことにかかずらっているゆとりもなかった。
「でも、だからといってジェノスにもういないっていうのは、極端じゃないですか? 悪党の縄張りじゃなくても、身をひそめられる場所はいくらでもあるんでしょうし……」
「でも、そのラーズなる御仁は銅貨の1枚も持っていないという話だったからね。それじゃあ長屋や宿屋に入ることもできないから、身をひそめることも難しくなると思うよ。どこにも隠れずにほっつき歩いているなら、もうユーミやレビたちに見つかっているはずだろうしねえ」
カミュア=ヨシュがそう言うのならば、そうなのかもしれない。このカミュア=ヨシュは、俺の知る中でもっともこの世界の情勢に通じた人間であるのだ。
そんなカミュア=ヨシュのかたわらで、レイトは無表情に立ち尽くしている。その姿は、懸命に自分の内心を悟られまいとしているように思えてならなかった。
「まあ、一息ついたら、今度はトゥランやダレイムのほうに足をのばしてみようと思うよ。可能性は低いけれど、そちらで身を隠しているのかもしれないし……おや」
と、カミュア=ヨシュが北の方角を振り返った。
同じほうを見た俺は、ハッと息を呑んでしまう。荷車を引いたガズラン=ルティムが、ゆったりとした歩調でこちらに近づいてくるところであったのだ。
「おひさしぶりだね、ガズラン=ルティム。無事にお子が産まれたと聞いて、とても喜ばしく思っていたよ。俺の頼んだ言伝ては、もうそちらに届いているのかな?」
「ああ、カミュア=ヨシュ、おひさしぶりです。洗礼の件ならば、ツヴァイからうかがっています。ともに我が子の洗礼を祝福していただけるのなら、心から嬉しく思います」
屋台の前で足を止めたガズラン=ルティムは、いつも通りの穏やかな笑顔である。すると、荷台からダルム=ルウがぬっと顔を覗かせた。
「聞き覚えのある声だと思ったら、お前か。……息災のようだな、カミュア=ヨシュ」
「やあやあ、ダルム=ルウも一緒だったのだね。族長のお供で、城下町まで出向いていたわけか」
カミュア=ヨシュはその瞳に透き通った光をたたえながら、静かに微笑んだ。
「それで、王都からの使者は、どのような話を告げてきたのかな? ……ああ、昨日は伝令役の武官が屋台を訪れたとき、ちょうど俺も居合わせていたのでね。王都の使者がやってきたという話を、その際にうかがっていたのだよ」
「ふん。このような場所で、長々と語らう気はない」
それだけ言い捨てて、ダルム=ルウは引っ込んでしまう。すると、荷車を引かせていないトトスの手綱を引いた男衆とダリ=サウティが、荷車の前側に回り込んできた。
「ひさしいな、カミュア=ヨシュ。それにアスタも、息災のようで何よりだ。……いま、サウティの女衆があちらで商売を手伝っている姿を見かけたぞ。手厚く面倒を見てくれているようで、心から感謝している」
ダリ=サウティも、普段通りのゆったりとした笑顔であった。
が、ガズラン=ルティムもダリ=サウティも、人並み外れた沈着さを備え持っているので、その心情を読み取ることは難しい。
「いえ、サウティの方々と縁を深めることができて、俺も嬉しく思っています。それで、今日の会談についてなのですが――」
「うむ。話せば長くなるな。サウティの家は遠いので、これから戻っても中天を過ぎてしまうだろう。いずれすべての氏族に通達を回すので、それを待ってもらいたい」
そんな言葉を残して、ダリ=サウティとお供の家人は人混みの向こうに消えてしまった。さらにその後を、フォウの若衆が引いた荷車も追従していく。バードゥ=フォウとベイムの家長も、もちろん本日の会談に参席していたのである。
グラフ=ザザたちは、北側にある別のルートで集落に戻ったのだろう。残されたのは、ルウ家の荷車のみであった。
俺とカミュア=ヨシュが視線を差し向けると、ガズラン=ルティムはにこりと微笑んだ。
「王都からの使者が告げてきたのは、苦役の刑に服していたズーロ=スンに関してでした。いささか込み入った話であるのですが、アスタはこの場で聞くことを望みますか?」
「はい! それが許されるのでしたら、是非!」
「それでは時間の許す限り、お話しいたしましょう。実は、先日の大きな地震いで、ズーロ=スンらの働いていた鉱山というものが崩れてしまい――」
そこに、「おお!」という大きな声が響きわたる。
驚いて振り返ると、そこには懐かしい笑顔があった。
「そこにいるのは、ガズラン=ルティムと《北の旋風》ではないか! こいつはずいぶん、愉快な取り合わせだな!」
「やあ、ザッシュマ。君もジェノスに戻ってきたのだね」
それは、どこか別の地で《守護人》としての仕事を果たしていた、ザッシュマであった。
さきほどのサウティの男衆と同じように、トトスの手綱を引いている。そしてザッシュマが足を止めると、その後ろからついてきていた2頭引きの荷車も動きを停止させた。
「バルドの辺りをうろついていたら、ジェノスに向かう商人の護衛役を頼まれてな。そろそろギバ料理も恋しくなってきたところだったから、引き受けることにしたんだ。お前さんたちも、そろってギバ料理を食いに来たのか?」
「いや、ちょっとこっちも込み入った話があって――」
カミュア=ヨシュがそのように答えかけたとき、荷台の窓からでっぷりと肥えた壮年の男性が顔を覗かせた。
「おい、《守護人》よ、立ち話などしている場合か。この厄介者を、早く何とかしろ!」
「ああ、はいはい。承りましたよ、雇い主殿。……なあ、《北の旋風》よ、この宿場町にも医術師のひとりぐらいはいたはずだよな?」
「医術師? それはもちろん、いないことはないだろうけど……医術師なんかに、何の用事だい?」
「実は、ここに来る途中で行き倒れを拾っちまってね。見捨てるわけにもいかんから、こうしてジェノスまで連れてくることになっちまったんだ」
俺は、カミュア=ヨシュと顔を見合わせることになった。
「そ、その行き倒れの方は、この近くで見つけたのですか?」
「近くと言えば、近くかな。少なくとも、ベヘットの宿場町に舞い戻るよりは、ジェノスのほうが近かったよ」
「……それは、小柄で痩せていて杖をついている、年配の御仁かな?」
カミュア=ヨシュの問いかけに、ザッシュマはきょとんと目を丸くした。
「何だ、まるで知り合いみたいな口ぶりだな。お前さんたちは、あの貧相な小男と顔馴染みであったのか?」
「うん、どうやらそうみたいだね。レイト、確認してもらえるかな?」
レイトは得たりと、荷車の後部に回り込んだ。
さきほどの人物がやいやいと騒ぐ声が聞こえてきたが、何とか言いくるめることに成功したのだろう。やがてこちらに戻ってきたレイトは、実に複雑そうな面持ちで報告した。
「ラーズでした。ずいぶん弱っているようでしたが、怪我を負ったりはしていません。無理に歩いたので、力尽きてしまったのでしょう」
「そうか。それじゃあ、《キミュスの尻尾亭》に運んでもらおうかね。医術師は、必要になったときに呼べばいいだろう」
「それじゃあ僕は、レビを連れ戻してきます。……カミュア、くれぐれもラーズから目を離さないでくださいね」
いつにない性急さで、レイトは駆けていってしまう。
その後ろ姿を見送りながら、ザッシュマはまだきょとんとしていた。
「よくわからんが、あのいつもの宿屋に連れていけばいいのか? それなら、手間もかからんので助かるな。雇い主は、とっとと城下町に連れていけとうるさいのだ」
「ああ、うん。それじゃあ、よろしくお願いするよ。……やれやれ、今日は本当に慌ただしい日だ」
すると、ガズラン=ルティムがちょっと困ったような面持ちで、「あの」と声をあげてきた。
「何か取り込んでいるようでしたら、お話は後にしましょうか? 我々も、中天までには戻らなければなりませんので……」
「あ、いえ、できればすぐにお話を――」
「おおい、俺はもう出発するからな? あの小男は、宿屋の親父さんに引き渡せばそれでいいのか?」
それぞれの仕事を抱えたガズラン=ルティムとザッシュマを前に、俺は頭を抱え込むことになった。
その末に、かたわらで鉄鍋をかき回していたフェイ=ベイムを振り返る。
「あの……俺はどうするべきでしょう?」
「知りませんよ、そんなこと」
呆れたように言ってから、フェイ=ベイムはぷっとふきだした。
フェイ=ベイムが笑みをもらすというのは、実に珍しいことである。
「何にせよ、ラーズなる者が見つかったのは、幸いでしたね。もうお客に声をかけなくて済むのなら、アスタがしばらくこの場を離れても問題はありません。どうぞお気の済むようにふるまってください」
「は、はい。ありがとうございます」
すると、カミュア=ヨシュが溜息まじりに「やれやれ」とつぶやいた。
「それじゃあ、王都の使者の一件は、アスタにおまかせしようかな。俺はラーズという御仁を見張っておくことにするよ」
「あ、はい。それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「うん。レイトにも名指しで頼まれてしまったことだしね。……ただ、俺にもそちらの話を、後でじっくり聞かせておくれよ?」
「はい、もちろんです」
そういった顛末で、カミュア=ヨシュはザッシュマとともに《キミュスの尻尾亭》へと向かうことになった。
満を持して、俺はガズラン=ルティムに向きなおる。
「どうもお待たせしました。それじゃあ、お話をうかがわせてください。ズーロ=スンは、いったいどうなったのですか?」
「はい。それでは邪魔にならぬよう、荷車は裏手に回しましょう。荷台のドンダ=ルウにも、声をかけておかなければなりませんね」
そう言って、ガズラン=ルティムは優しげに微笑んだ。
その微笑には、果たしてどのような意味や思いが込められているのか。あらためて、俺は心拍数が上昇するのを感じることになった。