祝いの日②~ルティムの集落~
2018.9/4 更新分 1/1 ・9/6 誤字を修正
そうして、昼下がりである。
屋台の商売を終えて、ルウの集落に帰還すると、広場にはいつも通りの落ち着きが戻っていた。
女衆は薪割りや毛皮をなめす仕事に励み、いくつかの家からはかまどの煙があがっている。幼子たちは追いかけっこや木登りに興じており、なんとも牧歌的な風景であった。
しかし――アマ・ミン=ルティムのお産は、まだ終わっていなかったのだ。
俺にそれを教えてくれたのは、本家のかまど小屋で下ごしらえの仕事に取り組んでいたシーラ=ルウであった。
「無事に赤子が産まれたら、タリ母さんたちが戻ってくるはずなのですが、いまだに姿を見せません。きっとまだ、お産のさなかであるのでしょう」
「え……だけど、もうずいぶん時間が経っていますよね? アマ・ミン=ルティムは、大丈夫なのでしょうか?」
俺がそのように問いかけると、ミーア・レイ母さんが「大丈夫さ」と応じてくれた。
「お産にこれぐらいの時間がかかることは、ないわけじゃないよ。アマ・ミン=ルティムの苦労は大変なものだろうけど、無事に産まれちまえば、すべてが報われるさ」
それでも俺は、胸騒ぎを止めることはできなかった。
俺たちがルウ家を出立してから、すでに5時間近くが経過しているのだ。お産についてロクな知識を持ち合わせていない俺には、とうてい安心できるものではなかった。
「あの……血族でもない俺がルティムの家に行ってしまうのは、森辺の習わしにそぐわないことでしょうか?」
「え? これからルティムの家に出向こうってのかい? アスタが到着する頃には、産声があがっているかもしれないよ?」
「ええ。ですが、居ても立ってもいられないんです。親筋のルウ家としては、どのように思われますか?」
ミーア・レイ母さんは、目もとに笑いじわを作りながら微笑んだ。
「アスタがそこまで心配してくれるなんて、ありがたいに決まってるじゃないか。何も森辺の習わしに背く行いではないから、よかったら行ってあげておくれよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、下ごしらえの仕事だけは、片付けていきますね」
そうして俺は、普段以上に集中しながら、下ごしらえの仕事に取りかかることになった。
俺以外の人々は、みんな平常心の様子である。お産に対しての心がまえが、俺などとは異なっているのだろう。どの氏族の人間でも、たいていは身近な家人がお産をする姿を目にしている経験があるはずなのだ。
(俺が知ってるのは、スドラ家の双子ぐらいだからな。あのときも、母子の生死が危ぶまれるぐらいの難産だったし……アマ・ミン=ルティムは、本当に大丈夫なんだろうか)
そんな煩悶の中、下ごしらえの仕事は終了した。
では、ルティム家に向かうにあたって、他の人々はどうしようかと思案していると、ミーア・レイ母さんが笑いかけてきた。
「アスタ。よかったら、リミにでも送らせようか? もうそれほど長い時間はかからないと思うけど、他の氏族の人らはこのまま帰ってもらったほうがいいだろう?」
「はい。そうしていただけたら、ありがたいのですが……ご迷惑ではありませんか?」
「何も迷惑なことはありゃしないよ。リミ、お産が済んだら、タリ=ルウたちを連れて戻ってきておくれ」
リミ=ルウは嬉しそうな笑顔で「はーい!」と答えていた。
すると、ユン=スドラが穏やかな笑みをたたえつつ、近づいてくる。
「それでしたら、アイ=ファにはわたしたちが事情をお伝えしておきますね。何も告げずにアスタの帰りが遅くなってしまったら、アイ=ファもたいそう心配してしまうでしょうし」
「うん、ありがとう。恩に着るよ、ユン=スドラ」
「いえ。わたしたちも、自分の家でアマ・ミン=ルティムとその子の無事を祈りたいと思います」
古株のかまど番であれば、屋台の商売でアマ・ミン=ルティムと縁を結んでいるのである。というか、今日のメンバーであれば、リッド、ミーム、ダナ、サウティ以外の女衆は、みんな面識があるはずだった。
「それでは、行きますね。万が一、明日の仕事に何か支障が出るようでしたら、ご連絡をお願いいたします」
「うん、わかった。他のみなさんも、せっかくの勉強会を潰してしまって申し訳ありませんでした」
「何を仰っているのですか。どうぞルティムの力になってあげてください」
俺とティアをその場に残して、2台の荷車は駆け去っていった。
そこに、ルウルウを荷車に繋ぎなおしたリミ=ルウが歩み寄ってくる。
「それじゃあ、出発だね! 赤ちゃん、もう産まれてるかなー!」
そうして俺たちは、ルティムの集落に向かうことになった。
ルウからルティムまでは、荷車を使えば10分もかからない。しかし俺には、その道のりがやたらと長く感じられてしまった。
「お産というのは、多かれ少なかれ危険がつきまとうものだからな。アスタがそのように不安がるのも、わからなくはない」
そう言って、ティアはにこりと笑いかけてきた。
「しかし、赤子を産み落とすというのは、かけがえのない行いだ。無事に赤子が産まれたら、ぞんぶんに祝福してやるといい」
「ああ、もちろんそのつもりだよ」
誰も彼もが、ナーバスになっている俺を励まそうとしてくれている様子である。俺としても、スドラ家の一件で自分が過敏になっていることは自覚していた。
やがて、荷車はルティムの集落に到着する。
その場でも、表面上は平穏を保っているように見受けられた。
ただ一点だけ、普段と異なる姿も見受けられる。
ルティム本家の前で火が焚かれて、そこに何名かの人々が寄り集まっていたのだ。
その中に、俺は涙が出るほど頼もしい長身を見出すことになった。
「ガズラン=ルティム! 今日は家に留まっていたのですね!」
「ああ、アスタ。アマ・ミンを心配して、ここまで来てくださったのですか?」
焚き火の前で膝をついていたガズラン=ルティムが、普段通りの静かな面持ちで身を起こした。
その他に集っているのは年配の女衆が3名と、あとは長老のラー=ルティムである。ラー=ルティムは、何かを念じながら火の中に香草をくべているようだった。
「アマ・ミンのお産が長引いているために、その無事を祈願しているのです。ルティムに伝わる、古い習わしですね」
「そうだったのですか……まだお子は産まれていなかったのですね」
「はい。思っていたよりも遅い日取りであったので、腹の中の子が大きく育ちすぎたのでしょう。しかし、それ以外におかしな兆しは見られないという話でした」
すると、ラー=ルティムのかたわらで膝を折っていた女衆が、優しげな笑顔を向けてきた。
「アマ・ミン=ルティムは初めてのお産だったから、なおさら時間がかかっているんだろうねえ。でも、特別に危険なことはないはずだよ」
「そうですか……俺もこの場で待たせていただいてもかまいませんか?」
すると、ガズラン=ルティムはとても申し訳なさそうに微笑んだ。
「この祈願は血族のみで成されなくてはならないのです。よろしければ、分家の家でお待ちください。いま、人を呼びましょう」
「あ、そういうことでしたら、どこかで適当に待たせていただきます。大事な儀式の最中に、失礼いたしました」
そうして俺が身を引くと、リミ=ルウが腰あてを引っ張ってきた。
「あの女衆のひとりは、ミンの女衆だったね。たぶん、アマ・ミン=ルティムの母さんなんだと思うよ」
「そっか。それじゃあきっと、血族の中でも血の近い家人だけが、あの儀式に参加できるんだね」
しばらく歩いてから振り返ると、ガズラン=ルティムはまた焚き火の前に膝をついて、頭を垂れていた。
きっと内心の不安感を、持ち前の精神力でねじ伏せているのだろう。アマ・ミン=ルティムの初めてのお産がここまで長引けば、さしものガズラン=ルティムも不安にならないわけはないように思われた。
「何だ、アンタたちまで来ちまったのかい? 男衆や幼子が来たって、何の役にも立ちゃしないだろうヨ」
と、聞き覚えのある声とともに、ツヴァイ=ルティムが現れた。
いつも通りの仏頂面で、その手にはなめした毛皮を抱えている。
「やあ、ツヴァイ=ルティム。そっちは家の仕事を任されてたんだね」
「フン。年を食った女衆はみんな本家に詰めてるんだから、その分はアタシらが働くしかないでショ?」
そういえば、広場で見かける女衆は、みんな若めであるようだった。出産の経験があるオウラ=ルティムは、きっとアマ・ミン=ルティムのかたわらにあるのだろう。
「それじゃあ、タリ=ルウも本家なのかな? タリ=ルウなんて、4人も子を産んでるもんねー!」
「どれがタリ=ルウだか知らないけど、とにかく年を食った女衆はみんな本家だヨ。あーあ、そろそろかまど仕事も始めなくっちゃネ」
そのように述べたのち、ツヴァイ=ルティムはきらりと目を光らせた。
「そうだ。アンタたち、することがないなら、かまど仕事を手伝いなヨ」
「え? だけど、その家の食事は家人が作らないといけない習わしだろう?」
「アンタたちも一緒に食べれば、習わしに背くことにはならないでショ? 家長の親父が、今日は祝いの日だから立派な食事を作るのだぞ! とか何とか、また勝手なことを言い出しちまったんだヨ」
そう言って、ツヴァイ=ルティムは細っこい肩をすくませる。
「他の女衆だって、今日は自分の家の仕事で手一杯だからネ。モルンもさっきから、ひとりで頭を悩ませてたんだヨ」
「え? モルン=ルティムも帰ってきているのかい? ……って、そりゃあ帰ってくるのが当たり前か」
「……当たり前の話をくどくど述べたてて、何の意味があるってのサ?」
ツヴァイ=ルティムは、底光りする目で俺をねめつけてくる。なんとなく、普段以上にとげとげしい雰囲気である。
俺がそのように考えていると、リミ=ルウが「あは」と笑い声をあげた。
「ツヴァイ=ルティムも、アマ・ミン=ルティムが心配なんだね! 大丈夫だよ、ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムの子だったら、元気に産まれてくるに決まってるから!」
「……勝手に人の心を察した気になってるんじゃないヨ、ちび」
ギバの毛皮を抱えなおしつつ、ツヴァイ=ルティムはこれ以上ないぐらい鼻に皺を寄せていた。
が、彼女もいまではアマ・ミン=ルティムと同じ家に住まう、ルティム本家の家人であるのだ。こう見えて、情に厚いツヴァイ=ルティムであるのだから、アマ・ミン=ルティムの身を心配していないわけはなかった。
「それじゃあ、かまど仕事を手伝うよ! ミーア・レイ母さんには、あとでタリ=ルウに伝えてもらおーっと! ……それで、アスタはどうするの?」
「うーん、家長の断りもなく、勝手な真似はできないんだけど……でも、お祝いの料理だっていうんなら、是非とも手がけたいところだなあ」
「アイ=ファだったら、きっと許してくれるよ! あとで誰かに言伝てを頼めばいいんじゃない?」
俺はしばし悩んだ末、「そうだね」と答えることになった。
「アイ=ファもアマ・ミン=ルティムのことは気にかけてたから、きっと了承してくれるだろう。ツヴァイ=ルティム、アイ=ファもこっちに呼んでかまわないんだよね?」
「フン。そいつを決めるのは、うちの家長でショ? あの家長が文句を言いたてるとでも思ってるの?」
ガズラン=ルティムが文句をつける図は想像できなかったが、その反面、こんなおめでたい日にお邪魔してしまっていいのだろうかという気後れはなくもなかった。
「それじゃあ、いちおう後でガズラン=ルティムにも確認させてもらうよ。とりあえず、モルン=ルティムに挨拶をさせてもらおうかな」
「モルンは、かまど小屋だヨ。こいつを干しちまうから、ちっと待ってな」
樹木の枝に渡されている紐に、ツヴァイ=ルティムがその手の毛皮を掛けていく。その作業が終了してから、俺たちは本家の裏のかまど小屋まで導かれた。
が、かまどの間にモルン=ルティムの姿はない。ツヴァイ=ルティムは首をひねりながら、その隣の食料庫の扉を引き開けた。
「何だ、こっちにいたんだネ。モルン、助っ人が来たヨ」
「助っ人? ……ああ、アスタにリミ=ルウ! わざわざいらしてくださったのですか?」
しばらくぶりに見る、モルン=ルティムである。そのふくよかなお顔には、安堵と喜びの笑みがひろげられていた。
「ひさしぶりだね、モルン=ルティム。今日、戻ってきたのかい?」
「はい。中天ぐらいに報せを受けて、ついさきほど到着したところです。おふたりとも、お元気そうで何よりです」
「うん! モルン=ルティムも、元気そうだねー!」
はしゃいだ声で言いながら、リミ=ルウはモルン=ルティムの手を取った。
モルン=ルティムは、「はい」といっそう朗らかな笑みをたたえる。
「北の集落では、皆によくしていただいています。……それで、おふたりが晩餐を作るのを手伝ってくださるのですか?」
「うん、ツヴァイ=ルティムが誘ってくれたんだけどね。ただ、ガズラン=ルティムとアイ=ファの了承はまだもらってないんだ」
「ガズラン兄さんなら、了承しないわけがありません。このようにめでたき日をアスタたちと過ごせるなら、それにまさる喜びはないでしょう」
「うん! ドンダ父さんも、許してくれるに決まってるしねー!」
リミ=ルウは無邪気に笑いながら、そう言った。
「とりあえず、下ごしらえをしておこうよ! モルン=ルティムは、何を作るつもりなの?」
「それを、考えあぐねていたのです。ただ立派な料理を作るばかりでなく、お産を終えたばかりのアマ・ミン=ルティムにはどのような料理が相応しいのかを考えなければならないので……」
「それだったら、俺がいくつか助言できると思うよ。というか、ルティムの人たちには、もう伝えてあるんだけどね」
俺の言葉に、モルン=ルティムは「え?」と目を丸くした。
「それは、何のお話でしょうか? 料理人たるアスタは、そのような知識まで備えていたのですか?」
「いや、少し前に、近在の家でもお産があってさ。そのときに子を産んだリィ=スドラが、色々と話を聞かせてくれたんだよ。それで、いずれは森辺のすべての氏族に伝えるつもりだけど、お産を控えていたルティムの家には真っ先に伝えておいたんだ」
俺が視線を差し向けると、ツヴァイ=ルティムは「フン」と鼻を鳴らした。
「話を聞いた女衆はお産にかかりきりか、自分の家の仕事で手一杯だヨ。アタシは、なんにも聞いちゃいないからネ」
「そっか。それじゃあ、もう一回説明しておくよ。……まずリィ=スドラは、カロンの乳やそれを元にする食材を控えたほうがいいと言ってたね」
モルン=ルティムは「そうなのですか?」と再び目を丸くした。
「赤子に乳を与える人間には、むしろカロンの乳を使った料理が相応しいのかと思ったのですが……そうではなかったのですね」
「うん。その人も同じように考えて、カロンの乳や乳脂や乾酪を食べてみたら、逆に乳の出が悪くなっちゃったんだってさ。あと、ギバの脂もよくないって言ってたね」
「ああ、それは森辺の習わしにもあるようですね。子に乳を与える人間は、肉をよく食べ、脂を控えるべし、と聞いたことがあります」
そのように述べてから、モルン=ルティムは丸っこい顎に手をやった。
「あとは……ミャームーなどの香りの強いものは避けるべし、とも聞きましたね。肉についたピコの葉も、なるべく洗い流したほうが望ましいようです」
「ああ、確かにその人も、早くカレーを食べたいですって言ってたね。あと、甘い菓子も控えてるって話だよ」
「えー! お菓子を食べたら、いけないの?」
「よくわからないけど、菓子を食べた後に乳をやると、赤ちゃんたちが不満そうにしているように思えたんだってさ」
リィ=スドラは、いったいどのような食事が自分と赤子たちに相応しいのか、それを確かめるためにさまざまな試行錯誤を重ねることになったのである。どのような料理でも、いっぺんに口にすることは控えて、自分の身体と赤子たちの反応を見ながら、食するべき食事を慎重に見定めていったのだ。
「あとその人は、なるべくギバの肝臓と心臓を食べるようにしてるって言ってたよ。その部位なら脂はないし、臭みはあるけど乳の味には影響なく、なおかつ自分が力をつけることができたんだってさ。……その話で思い出したんだけど、たしか人間の乳っていうのは、かなり血液と近い成分であるはずなんだよね。だから、赤ん坊に乳をやると、母親の側は鉄分とかが不足しちゃうんじゃないのかな」
「鉄分? 人間の身体の中に、鉄が入ってるの?」
「鉄そのものじゃなくて、鉄の成分が入ってるはずだよ。それで鉄分が不足すると貧血なんかを起こしやすくなるから、乳をやる人は多めに摂取するべきなんだろうね」
「それじゃあ、鉄をかじるの!? 歯が折れちゃいそうだけど!」
「いやいや、鉄分っていうのは、食材の中にも含まれているんだよ。心臓はよくわからないけど、肝臓には多く含まれているはずだね。それに、俺の故郷ではナナールに似た野菜にも多く含まれていたから、リィ=スドラにおすすめしてみたんだけど、それも力になったみたいだって言ってもらえたね」
「ふーん! へーえ! ギバの肝臓もナナールも鉄みたいに固くないのに、不思議だね!」
リミ=ルウは、好奇心に満ちみちた面持ちで微笑んでいた。
その無邪気さに心を癒されながら、俺は言葉を重ねてみせる。
「それ以外だと、リィ=スドラは温かい汁物料理と、魚や海草の出汁と、ジャガルのキノコ類なんかが力になるようだと言っていたよ」
「なるほど。それでようやく、どのような料理を作るべきかがわかってきました。燻製魚や海草で出汁を取った汁物料理で、ナナールやジャガルのキノコを使えばいいのですね。あとは男衆の帰りを待って、心臓や肝臓も使ってみようと思います」
そう言って、モルン=ルティムは深々と頭を下げてきた。
「アスタ、ありがとうございます。よかったら、この後も力をお貸しください」
「うん。だけど、他のみんなも同じ料理でいいのかな? スドラの家では、リィ=スドラの分だけ別の献立にしてたはずだけど」
「そうですね。他の人間が力を保つには、他の料理も必要なのでしょう。ただ、アマ・ミンと喜びを分かち合うために、この夜ぐらいは同じ料理を口にするべきだと思います。その上で、他の家人だけが口にする料理も準備すればいいのではないでしょうか」
頭を上げたモルン=ルティムは、とても魅力的な笑みを浮かべていた。
「アマ・ミンと同じものを食べてもらった上で、別の料理を食べてもらいましょう。ガズラン兄さんもダン父さんもラー爺も、きっとそれを望んでいるはずです」
「うん、わかったよ。それじゃあ俺は、最近完成した中華麺でも作らせてもらおうかな」
俺がそのように答えたとき、食料庫の扉がノックされた。
扉は開け放しであったので、全員がそちらを振り返る。そこに待ちかまえていた凛然とした立ち姿に、俺は「あれ?」と声をあげることになった。
「ア、アイ=ファじゃないか。これから連絡しようとしていたところなのに、いったいどうしたんだ?」
「ルティムに子が産まれるようだと聞いて、駆けつけたのだ。途中でルウ家に寄ってお前を拾おうと考えていたのだが、いらぬ世話であったな」
リミ=ルウは「わーい」と声をあげながら、アイ=ファの腰に抱きついた。
その赤茶けた髪を優しく撫でながら、アイ=ファはさらに言葉を重ねる。
「途中で、ユン=スドラらとの荷車とも行きあったぞ。だから、ルウ家には寄らず、真っ直ぐこの場に駆けつけた」
「ってことは、ユン=スドラたちから聞いたわけでもないのか。いったい、どこからお産の話を聞いたんだ?」
「お前がファの家を出てしばらくしたのち、リャダ=ルウが訪れてくれたのだ。北の集落に向かう途中で、立ち寄ってくれたのだという話であったな」
それならば、アイ=ファが早々に仕事を切り上げて、この場に姿を現したのも納得である。リャダ=ルウは、ファとルティムの関係を思いやって、アイ=ファに言葉を届けてくれたのだろう。
「そろそろブレイブたちを休ませてやりたいと考えていたところであったので、ギバ狩りの仕事は早めに切り上げてきた。しかし、子はまだ産まれていないのだな」
「はい。それでも日が落ちるまではかからないだろうという話でした」
と、モルン=ルティムが笑顔で進み出た。
「アイ=ファも、おひさしぶりですね。それで今日は、ファのおふたりを晩餐に招きたいと話していたところなのですが、了承していただけますか?」
「なに? しかし、本家の長子が産まれるという大事な日に、血族でもない我々がまぎれこむというのは――」
そのように言いかけてから、アイ=ファはふっと目もとだけで微笑んだ。
「……とはいえ、友たるルティムと喜びを分かち合えるのなら、それは嬉しく思う。ちょうどギルルやブレイブたちも顔をそろえているので、このままルティムの家に留まることは可能だ」
「え? ギルルの荷車はユン=スドラたちが乗っていたはずだけど……」
俺が口をさしはさむと、アイ=ファは横目で視線を送ってきた。
「ユン=スドラらと行きあった際、トトスを交換したのだ。他の家人はみなそろっているのに、ギルルだけを離しておくのは不憫であろうが?」
「あはは。アイ=ファは優しいねー!」
リミ=ルウは無邪気に笑いながら、アイ=ファの胸もとに頭をこすりつけた。アイ=ファはいくぶん顔を赤くしつつ、「やめんか」とその小さな頭をおさえつける。
「それでは、どうぞよろしくお願いいたします。家長には、わたしから伝えておきますので――」
と、モルン=ルティムが言いかけたとき、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が、母屋のほうから聞こえてきた。
俺たちは顔を見合わせてから、声もあげずに食料庫を飛び出す。母屋の前には、さきほどよりも大勢の人々が寄り集まっていた。
ラー=ルティムは焚き火の前にひざまずき、ぶつぶつと何事かを念じている。
アマ・ミン=ルティムの母親と思しき女衆は、胸の前で手を組み合わせて、はらはらと涙をこぼしていた。
ガズラン=ルティムの姿はない。母屋の戸板がわずかに開かれていたので、きっと屋内に入っていったのだろう。
その戸板の隙間から、威勢のいい産声がもれていた。
まるで怪獣の鳴き声のように、びりびりと響く声である。
俺は膝が震えそうになるのをこらえながら、他の人々を見回していった。
人々は、誰もがその顔に喜びの笑みを浮かべていた。
アマ・ミン=ルティムの母親と思しき女衆も、涙をこぼしながら微笑んでいたのだった。
「ああ、アスタにリミ=ルウ、それにアイ=ファも……ルティムの家にいらしていたのですね」
と、母屋から姿を現したオウラ=ルティムが、やわらかく笑いかけてきた。
額に汗をにじませて、ほつれた前髪を頬にはりつけたオウラ=ルティムはとても疲弊した様子であったが、その顔にはやはり喜びの表情が広げられている。
「家長とアマ・ミンの子は、無事に産み落とされました。……さ、長老ラーとモルンとツヴァイも、中にどうぞ」
その3名が、それぞれ異なる表情で母屋の中に消えていく。
アイ=ファは、とても穏やかな目でオウラ=ルティムを見つめていた。
「ひさしいな、オウラ=ルティムよ。たしかお前も建築屋を招いた祝宴に居合わせていたはずだが、あの日はあまり言葉を交わすこともできなかった」
「ええ、あの日はたくさんの人間が招かれていましたからね。お元気そうで何よりです、アイ=ファ」
「うむ。お前も家人と喜びを分かち合わなくてよいのか?」
「いまも、分かち合っています。そして、明日からもこの喜びを胸に生きていけることを、心から感謝しています」
穏やかに答えるオウラ=ルティムの目に、うっすらと涙がにじんでいた。
「頭の皮を剥がされてもおかしくない大罪を働いていたわたしたちが、このような喜びを与えられていいのでしょうか……かつての父や伴侶たちに、申し訳なく思えてくるほどです」
「……魂を返したお前のかつての父も、母なる森の腕の中で、この光景を見下ろしていることだろう」
そのとき、また扉が開かれて、モルン=ルティムが笑顔を覗かせた。
「アイ=ファ、アスタ、リミ=ルウ、どうぞこちらに。家長がお呼びです」
「うむ? しかし、他の血族に先んじるわけにもいくまい」
アイ=ファがそのように答えると、年配の女衆が「何を言ってるんだい」と笑いかけてきた。
「どうせあたしらは、明日からもその子と一緒に生きていくことができるんだよ。遠慮はいらないから、どうぞお入りなさい」
「そうか。では――」と足を踏み出しかけたアイ=ファが、ずっと静かにしているティアのほうを振り返る。
アイ=ファが何か言う前に、ティアは笑顔でその場に屈み込んだ。
「どうせティアは、祝福の言葉をかけることもできぬ身だ。ここで待っているので、さっさと行ってくればいい」
「うむ。大人しくしているのだぞ」
アイ=ファに視線でうながされて、俺とリミ=ルウは母屋に足を踏み入れることになった。
土間の先に、大きな帳が張られている。お産の最中に扉を開けても、中を見られないようにするための配慮だろう。先に履き物を脱いだモルン=ルティムが「どうぞ」と帳を引き開けると、とたんに産声の迫力が倍増した。
「すごい声でしょう? 産まれたばかりなのに、力がありあまっているようです」
モルン=ルティムの幸福そうな声を聞きながら、俺たちは並んでその帳をくぐった。
広間には布の敷物が敷きつめられて、その中心にアマ・ミン=ルティムが座している。ガズラン=ルティムとラー=ルティム、それに何名かの年配の女衆がそばに控えており、タリ=ルウの姿もそこにあった。
「ああ、アスタ……アイ=ファに、リミ=ルウも……今日はわざわざありがとうございます」
ガズラン=ルティムに背中を支えられたアマ・ミン=ルティムが、ふわりと笑いかけてくる。その手に、白い産着にくるまれた赤子の姿があった。
スドラの双子たちとは比べるべくもない、大きくて丸々とした赤子である。
産まれたばかりであるというのに、頭には黒褐色の髪がふさふさと生えている。スドラの双子たちもいまではずいぶん大きくなっていたが、それと遜色ないぐらい、その赤子は大きな姿をしていた。
真っ赤な顔をしわくちゃにして、オギャアオギャアと産声を響かせている。本当にそれは、エネルギーの塊のごとき元気のよさであった。
「長子は、男児となりました。いずれはこの子が、ルティムの血族を導いてくれることでしょう」
ガズラン=ルティムも、静かに微笑んでいる。
いつも通りの穏やかな面持ちであったが、その瞳には慈愛の光があふれかえっていた。
アマ・ミン=ルティムも、それと同様である。いつも冷静で沈着なふたりが、いつも通りの表情で、ただ幸福そうに我が子を見やっている。その姿は、まるで一幅の絵のようだった。
俺は、「おめでとうございます」と言おうとした。
しかし、なかなかそうすることができない。声をだそうとすると、とたんに嗚咽がもれてしまいそうだった。
「……2度目のお産でも、まだそれか」
アイ=ファの声が響くと同時に、やわらかいものが顔に押しつけられてきた。アイ=ファが、懐から出した布切れを押しつけてきたのだ。
俺の顔は、すでに涙でしとどに濡れてしまっていた。
回数など、関係ないのだ。大切な友人とその伴侶の間に、これだけ元気な赤ん坊が産まれたのだから、俺が情動を揺さぶられないわけはなかった。
(おめでとうございます、ガズラン=ルティム、アマ・ミン=ルティム。心から、祝福します)
まだしばらく声は出せそうになかったので、俺は心中でそのように述べておくことにした。
涙にかすんだ景色の中で、赤ん坊はまだ元気に泣いている。ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムの幸福そうな姿とともに、その光景は俺の胸の奥深くにまで、しっかり焼きつけられたのだった。