再びの《銀星堂》④~菓子と余興~
2018.7/26 更新分 1/2
「こちらが本日の締めくくりとなる、菓子でございます」
ヴァルカスの言葉とともにその皿が並べられていくと、楽しげな歓声があちこちからあがった。
歓声をあげているのは、おもに女性陣である。それは、甘味を好む人間の期待感をかきたててやまない見栄えをしているようだった。
西洋風の、焼き菓子である。白い生地と黒い生地が順番に重ねられており、そこに赤いソースと白いソースが掛けられている。ふわりと鼻腔をくすぐってくるのは、カロン乳と果実の甘い香りであった。
「そちらの黒い生地はバナームの黒フワノを使っており、さらにギギの葉も加えています。いささかの苦みはありましょうが、幼い方々にも問題なく食していただけるかと思います」
そのように述べてから、ヴァルカスはぼんやりとトゥール=ディンのほうを見た。
「トゥール=ディン殿は、以前からフワノにギギの葉を加える菓子を作っておいででしたね。わたしがその技法を真似たということで、気分を害されてしまったでしょうか?」
「と、とんでもありません! そもそもそれは、アスタに習った技法でありますし……」
トゥール=ディンは、恐縮しきった様子でおずおずと微笑んでいる。その間も、その目はヴァルカスの焼き菓子に釘付けにされていた。
「すっごく美味しそー! 見た目も、すっごく綺麗だね!」
こちらは無邪気そのものの様子で、リミ=ルウがはしゃいだ声をあげている。
が、その目がちらりと心配そうにヴァルカスのほうを見た。
「でもこれ……お酒とか使ってるのかなあ?」
「いえ。菓子に酒をもちいるのは、ティマロ殿の得意とされる技法ですね」
ヴァルカスの返事を聞いて、リミ=ルウはまた満面に笑みを広げる。1年近くが経過してなお、リミ=ルウはティマロの菓子がトラウマとなっているようだった。
(その間に、酒を使わないティマロの菓子も口にしてるはずなのに、なかなか根深いな)
とはいえ、いまとなってはそれも笑い話である。俺は至極ほのぼのとした心地で、その菓子を口に運んでみた。
とたんに、鮮烈な甘さが口に広がる。
これはなかなか、目の覚めるような甘さであった。
(甘いのは、この白いソースか。練乳みたいな甘さだな)
しかし、フワノの生地を噛んでいく内に、その甘さはやわらかく舌に馴染んでいく。生地そのものにも甘い味付けが為されてはいたが、そちらは実に上品な風味であり、それがカロン乳のソースと見事に調和しているようだった。
(最初は強烈に甘いけど、後に引くようなしつこさはないし、これはさすがの出来栄えだな)
そして、赤いソースのほうは複数の果実を使っているらしく、なかなかに酸味がきいていた。
しかし、酸味が強すぎることはなく、これもまたフワノの生地と調和している。甘さにおいても酸味においても、人を驚かせるほどの強烈さを持ちながら、最終的にはゆるやかに馴染んでいく。そういう絶妙なる計算のもとに仕上げられた味わいであった。
それに、生地のほうも白と黒とで味付けが変えられている。白い生地はカロン乳とキミュス卵の風味を活かした王道のスポンジケーキであり、黒い生地はギギの香ばしさと黒フワノの軽い食感を活かしたやわらかめのクッキーのごとき仕上がりであるのだ。
白いソースと赤いソース、白い生地と黒い生地で、4種の味が存在し、それらが相乗効果を為している。また、それらを口に運ぶ分量を自分で調節することによって、さまざまな美味しさを楽しめるのだ。これもまた、緻密な計算のもとに組み上げられた、見事なひと品であった。
「ああ、すごく美味しいです。思わず顔がゆるんでしまいますね」
こちらに背中を向けたユン=スドラが、サイドテールを揺らしながら、そのように述べていた。そのななめ前に座したトゥール=ディンも、満ち足りた面持ちで微笑んでいる。
「ええ、本当に。食べ終えてしまうのが惜しいほどです。……オディフィアもそう思うでしょう?」
「うん」とうなずいてから、オディフィアはトゥール=ディンの耳もとに口を寄せた。
それでも、トゥール=ディンの作る菓子のほうが、自分は好きだ――とでも囁いたのだろうか。トゥール=ディンは「まあ」と驚いたような声をあげてから、幸福そうに目を細めていた。
「ほんとに美味しいねー! もうおなかはいっぱいだったのに、このお菓子だったらもっと食べたくなっちゃうよー」
リミ=ルウも、ご満悦な様子である。デザートにそれほどの執着をもたないアイ=ファは、それでも満足そうにその菓子を食していた。
「いやあ、どれもこれも美味だった! ヴァルカス殿、今日も大いに楽しませていただいたよ!」
ポルアースがそんな風に声をあげると、ヴァルカスは「恐縮です」と一礼した。
「本日の料理は、以上で終了となります。本来であれば、ここで弟子たちを呼び寄せてご挨拶をさせていただくところなのですが……その前に、余興をお目にかけさせていただきたく思うのですが、よろしいでしょうか?」
「余興? 食べ終えた後に余興というのは、あまり聞かない話ね。いったいどのような余興を準備してくれたのかしら?」
エウリフィアが興味深げに尋ねると、ヴァルカスは無表情に「はい」とうなずいた。
「その前に、皆様にひとつお詫びをさせていただきたく思います。実は、本日お出しした6種の料理の内、ひとつだけはわたし以外の人間がこしらえた料理であったのです」
エウリフィアが、きょとんと目を丸くした。
もちろん俺も、それは同じ心境であった。ただ、ポルアースだけはにこやかに微笑んでいる。
「いや、実は事前にヴァルカス殿からこの余興について、相談を受けていたのですよ。それに許しを与えたのは僕なので、ご不満のあるかたは僕のほうにお願いいたします」
「不満なんてないけれど、ヴァルカスでない人間の料理がまぎれこんでいたなんて、話を聞いても信じられないわ……もしかしたら、それはお弟子のひとりがこしらえた、という意味なのかしら?」
「いえ」と、ヴァルカスは首を横に振る。
「それは、さきほども名前のあがりました、ロイなる若者の手による料理となります」
今度こそ、食堂にいる人間のほとんどがざわめき始めた。
知らん顔をしているのは、森辺の狩人たちとオディフィアぐらいのものである。
その中で、レイナ=ルウが惑乱しきった声をあげていた。
「お、お待ちください、ヴァルカス。それは、本当のお話なのですか? あれらの料理のひとつを、ロイが作ったなんて……わたしには、とうてい信じられないのですが……」
「はい。そのように思っていただけたのなら、幸いです。では、6種の料理の中で、ロイ殿がこしらえた料理はどれであったのか……それを当てていただくのが、本日の余興となります」
ヴァルカスがそのように述べたてると、ポルアースも笑顔でうなずいた。
「もしもその答えを的中させることができたら、本日は料理の代価も必要ない、という話であったのですよ。そうだったよね、ヴァルカス殿?」
「はい。わたしの料理と見分けのつかない出来栄えであったのなら、その料理には代価をいただく価値があったということになりましょう。しかし、そうでなければ6種の料理の調和が乱れていたということになりますので、代価をいただくことはとうていかないません」
すると、レイナ=ルウが「何故ですか?」と声をあげた。
「ヴァルカスがそのような真似をする理由が、わたしにはまったくわかりません。この店のかまどを任されているのはヴァルカスなのですから、そこに弟子ならぬ人間の料理をまぎれこませるなんて……そのような真似を、あなたが許すとは思えないのです」
俺の位置から見えるレイナ=ルウの横顔には、真剣きわまりない表情が浮かんでいるようだった。
ヴァルカスは、南の民のごとき緑色の瞳で、それをぼんやりと見返している。
「……気分を害されてしまったのなら、幾重にもお詫びを申し上げます」
「気分を害しているのではなく、ただ不思議に思っているのです。ロイの弟子入りを許さなかったあなたがその料理を自分の料理の中に組み込むなんて、あまりに道理が通っていないのではないですか?」
レイナ=ルウは、いまにも席を蹴って立ち上がりそうな剣幕である。
すると、それをなだめるように、ポルアースが笑いをふくんだ声をあげた。
「それでは、僕が種明かしをするとしよう。実はこれは、そのロイ殿の採用試験なのだそうだよ」
「採用……試験?」
「うん。これで僕たちが答えを当てることができなかったら、ロイ殿はヴァルカス殿と遜色ない料理を作りあげたことになる。そのときは、彼を4番目の弟子として迎えようと、つまりはそういう話なのさ」
レイナ=ルウは、食い入るようにポルアースを見つめているようだった。が、そちらに目をやってしまうと、俺からは後ろ姿しか確認することができない。
しばらくののち、レイナ=ルウは溜息まじりに「承知しました」とつぶやいた。
「取り仕切り役であるあなたがお認めになられたのなら、わたしが文句を言いたてることはできません。余計な口をはさんでしまって、申し訳ありませんでした」
「いやいや、こちらこそ騙し討ちをするような真似をしてしまって、申し訳なかったね。あくまで余興として楽しんでもらえればと思ったのだけれども、やっぱり森辺の方々の気性には合わなかったのかな」
「…………」
「あのロイ殿というのは、たびたび森辺にも招かれているという話だったしねえ。もしも気が進まないなら、森辺の方々はこの余興に参加しなくても――」
「いえ。きっとロイも相応の覚悟をもってこのような行いに及んでいるのでしょうから、わたしも誠心をもって向き合いたいと思います」
レイナ=ルウは、力のこもった声でそのように応じていた。
「また、森辺において、虚言は罪とされています。たとえロイにとっては不都合であろうとも、わたしは自分が真実と思う答えを述べることを、ここにお約束します」
「うん。答えはひとりずつ提示して、正解している数が一番多ければ、ロイ殿の敗北ということになるからね。……それじゃあ、よろしくお願いするよ、ヴァルカス殿」
「はい」とうなずいたヴァルカスが目配せをすると、老女が各人の前に小さな紙片を配り始めた。ここに答えを記入せよ、ということなのだろう。
「ロイ殿の作った料理は何番目であるか、そこに書いていただきたい。……えーと、森辺の方々も文字や数字を書けるように学んでいるさなかと聞いているのだけれども、問題はないかな?」
「そいつを学んでるのは、かまど番だけだよな。俺たちは、さっぱりだよ」
ということで、狩人たちの分はそばにいるかまど番が代筆することになった。
「うーん」と悩んでいるのは、マイムである。
「あのロイという御方は、ヴァルカスのお弟子に手ほどきされているのですものね。6種の料理はすべて同じ作法で作られていましたし、どれも見事な出来栄えであったので、わたしにはさっぱり判別がつきません」
「……それならば、6種の料理の調和で考えればよいのではないでしょうか?」
ヴァルカスがぼんやりとした声で答えると、マイムの光に明るい輝きが宿った。
「なるほど。そういうことなら、見当がつきますね」
「え、本当に? わたくしには、まったく見当がつかないわ」
エウリフィアは、とても楽しげな面持ちで考え込んでいる。その隣では、オディフィアが早々に筆を置いていた。
また、森辺の民は男女の区別なく、すでに全員が答えを出している。アイ=ファを始めとする狩人たちは、このような余興に関心が薄いので、頭を悩ませる手間をはぶいたのだろう。
いっぽう、それなりの内情を知るかまど番としては、答えはひとつしかないように思われた。少なくとも、俺はそれなりの論理的帰結として、答えを出すことができている。かまど番の中で最後まで思い悩んでいたのは、ヴァルカスたちとそれほどの交流がないユン=スドラであるようだった。
「よし、みんな書けたようだね。それでは、回収させていただこう」
老女が紙片を回収し、それをポルアースのもとに届ける。それを検分していく内に、ポルアースの目は愉快げに細められていった。
「おやおや、意外に票はばらけていないようだ。半数近い人間が同じ料理に票を入れて、それ以外は……3種にしか分かれていないようだね」
「あら、それでどういう結果になったのかしら?」
「前菜が8票、菓子が6票、肉料理が4票、シャスカ料理が2票です」
ポルアースはふにゃふにゃと笑いながら、その場にいる人々を見回していった。
「いきなり正解を聞くのも面白みがないから、先にこちらの感想を申し述べていきましょうか。……まず、シャスカ料理に票を投じたのは、どなたかな?」
挙手をしたのは、ディアルとラービスであった。
ディアルがラービスを振り返り、にこりと微笑む。
「やっぱりラービスもシャスカ料理にしたのですね。そんなような気はしていました」
「ふむふむ。理由をうかがってもよろしいかな?」
「はい。それほど明確な理由はありません。ただ、その御方は森辺の方々と懇意にされていると聞いていましたし、あの料理はアスタの作法で作られたものであるという話だったので、そのように予想しただけです」
そうしてディアルは、ドレスに包まれた華奢な肩をわずかにすくめたようだった。
「あと、シャスカというのはシムの食材であるという話であったでしょう? そのせいで、南の民たるわたしたちは、他の料理よりも厳しい目を向けてしまったのかもしれませんね。それがなければ、あの料理が他の料理に劣っていると考える理由はなかったのですけれど」
「なるほど。南の民ならではのお答えということだね」
ポルアースは笑顔でうなずきながら、紙片の束に視線を落とした。
「それじゃあ、次は……4票の、肉料理か。こちらに票を入れたのは、どなたかな?」
ここで手をあげたのは、ポルアース、オディフィア、トルスト、サンジュラであった。
オディフィアが、くりんとトゥール=ディンを振り返る。
「トゥール=ディンは、べつのりょうりだったの?」
「はい。オディフィアは、肉料理だったのですね」
「うん……」と、オディフィアは残念そうに目を伏せてしまう。トゥール=ディンは、それをなだめるように微笑んでいた。
「僕はさきほどのディアル嬢と同じような理由で、肉料理を選んだのだよね。森辺の方々と懇意にされていたのなら、ギバ肉を扱う機会もあったのじゃないかと考えたんだ」
「はい。わたくしもそのように考えました。また、ギバ肉はもともと美味なる食材であるので、年若き料理人でも、あれほど見事な料理が作れるのか、と……」
トルストが同意を示すと、サンジュラもそれに便乗した。
「私、同じ気持ちです。すべて、見事な料理だったので、それぐらいしか、理由、思いあたりませんでした」
「オディフィアも、そのように考えたのかしら?」
エウリフィアが尋ねると、オディフィアはこくりとうなずいた。
6歳の身でポルアースらと同じ結論に至るというのはなかなかの慧眼であると思えるが、本人はきわめて残念そうなオーラをたちのぼらせている。
「では、次は……6票の、菓子だね」
ここで手をあげたのは、俺、トゥール=ディン、リミ=ルウ、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、マイムである。
その統一された顔ぶれに、ユン=スドラがいささか泡を食っている。
「わ、わたし以外の森辺のかまど番は、全員同じ答えだったのですね。やっぱりわたしが未熟であるために、アスタたちと同じ答えを出すことができなかったのでしょうか……?」
「いや、そういうことではないと思うよ。俺たちは、ヴァルカスともロイともそれなりの交流を持っていたから、同じ答えに行き着いたんじゃないかな」
「はい。ヴァルカスはかつて、重い料理と軽い料理を交互に出すのが作法であると述べていました。そう考えると、あの菓子はいささか重すぎるように思ったのです」
レイナ=ルウがそのように述べると、シーラ=ルウもゆったりとうなずいた。
「わたしも、そのように考えました。あの菓子がそこまで重かったわけではないのですが、6種の料理の締めくくりとしては、わずかに調和が乱れていたように思います」
「はい。わたしも調和で考えると、あの菓子だけが少し浮いていたかなと思いました」
「リミはねー、あれはお茶会のお菓子みたいだなって思ったの! それで、ロイはシリィ=ロウと仲良しで、シリィ=ロウはすっごくお菓子作りが上手だから、あんなに美味しいお菓子を作れるようになったのかなーって思ったんだあ」
「うん。それにヴァルカスは、6種の料理の締めくくりとしての菓子を研究していたから、単品で出される菓子はシリィ=ロウのほうが得意なぐらいだと言っていたんだよね。それらをあわせて考えると、答えは菓子であるように思えます」
俺がそのようにまとめあげると、ポルアースは「なるほど!」と手を打った。
「さすがにこれだけの数の料理人が口をそろえると、説得力が段違いだねえ。これはロイ殿の勝利かと思えてきてしまったよ」
「……それでは、答えをお伝えしましょうか?」
「いやいや、その前に、前菜を選んだ方々の話も聞いてみよう。えーと、残っているのはリフレイア姫と、エウリフィア、ムスル……それに、森辺の狩人の面々か」
「わたしはただ、ヴァルカスが余人に任せるとしたら、前菜か菓子のどちらかだと思っただけね。ヴァルカスが順番や調和を重んじることは知っていたから、最初か最後のどちらかだろうと思ったの」
そのように述べてから、リフレイアはふっと微笑んだ。
「それで、菓子のほうが豪華な作りだったから、前菜のほうを選んだのだけれど……アスタたちの言葉を聞いていたら、すっかり自信がなくなってしまったわ」
「そうね。わたくしも、ヴァルカスほどの料理人であるならば、余人に任せるのは前菜ぐらいかしらと思ったのだけれど、ちょっと考えが足りていなかったようね」
リフレイアとエウリフィアの言葉に同意を示すように、ムスルがうなずいている。それを確認してから、ポルアースは森辺の狩人たちに視線を巡らせた。
「では、アイ=ファ殿たちはいかがかな? 奇しくも、森辺の狩人は全員が同じ答えを示したようだけれども」
「……ロイなる者は見習いのかまど番と聞いていたので、もっとも美味とは思えなかった料理を選ばせていただいた。しかし、これは単に、我々が生の肉を好んでいないために一致しただけなのではないだろうか」
「あー、少なくとも、俺はそうだな。美味い不味いの問題じゃなくって、生の肉を食うのは落ち着かねーんだよ」
「うむ。南の民がシムの食材を忌避するのと同じような心地なのかもしれん」
シン=ルウもそのように答えたが、ゲオル=ザザは無言で肩をすくめていた。このような余興には、とりわけ興味がない様子だ。
「それでは、ヴァルカス殿に答えをお聞きしようか。ヴァルカス殿、ロイ殿が作った料理は、どの料理であったのかな?」
「彼が作ったのは……最後に出された、菓子となります」
ヴァルカスは、もったいぶった様子もなく、ごくあっさりとそう答えていた。
「あれは確かに、茶会などで出される単品の菓子としては、申し分ない出来栄えであったことでしょう。しかし、6種の料理の締めくくりとしては重たすぎますし、あの味の強さは調和を乱します。アスタ殿らが言い当てていた通りです」
「なるほどね! それでは、ロイ殿の勝利ということだ。喜んで、料理の代価を払わせていただくよ」
「ええ。答えを聞いても、まだ信じられないほどだわ。シリィ=ロウ本人ならまだしも、その見習いであった方があのように見事な菓子を作れるとは、本当に驚くべきことね」
城下町サイドの人々は、和気あいあいとした様子で語らっている。
しかし、俺としては内心で安堵の息をついていたし、こちらに背を向けたレイナ=ルウも、ほっとした様子で肩の力を抜いていた。
(俺たちのせいで弟子入りの話が台無しになっていたら、申し訳が立たないもんな。……でも、結果としてはアイ=ファたちのおかげで勝てたようなもんか)
俺がそのようなことを考えている間に、厨のほうからヴァルカスの弟子たちが参上していた。
その末席に立ち並んだロイが、張り詰めた面持ちで目を伏せている。まだ勝負の結果を知らされていないのだろう。その隣のシリィ=ロウも、わずかに唇を噛みしめつつ、そっとロイの様子をうかがっていた。
「では、ご挨拶をさせていただきます。本日の料理は、わたしとこちらの4名で作らせていただきました。弟子ならぬロイ殿には、菓子のみを受け持ってもらいました」
「うん。どれも見事な料理だったよ。……それで、余興の結果はまだ伝えないのかな? ロイ殿は、気が気でないように見受けられるよ」
ポルアースにうながされると、ヴァルカスは感情のつかめない眼差しでロイのほうを見た。
「お客人の方々は、その内の8名までが前菜を選んでいました。菓子を選んだのは6名のみであったので、勝負はあなたの勝利となります」
ロイは、電流に打たれたように身を震わせた。
「そ……それは本当ですか、ヴァルカス……?」
「貴き方々の前で虚言などは吐けません。これであなたの弟子入りを認めなければなりませんので、今後は敬称を外してロイと呼ばせていただきます」
ロイはぐらりとよろめいて、隣のシリィ=ロウにもたれかかってしまった。
シリィ=ロウは顔を赤くしながら、その身体をじゃけんに押し返す。
「し、しっかりなさい。貴き方々の前ですよ?」
「あ、ああ、お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません……」
「あはは。ずいぶんと思いつめていたご様子だね。それほどまでに、ヴァルカス殿への弟子入りを願っていたのだねえ」
ポルアースが陽気に応じると、やはり笑顔のボズルが「そうですな」と声をあげた。
「この余興で結果を出せなかったときは、我々のもとを去る約束をしていたのです。彼にしてみれば、文字通り進退をかけた勝負であったのでしょう」
「うん? 君たちのもとを去るというのは……お弟子の仕事を手伝うことすら許されなくなる、という意味かな? それはずいぶんと厳しい条件であったのだね」
「ええ。彼はこれまで、いっさいの給金もないままに、我々の仕事を手伝っておりましたからな。そんな状態で1年近くを過ごして、いよいよ蓄えが尽きてしまったそうなのです。正式な弟子入りを認められなければ、どのみち我々のもとに留まることもできない状態にあったのですよ」
ボズルの言葉に、エウリフィアが「まあ」と声をあげた。
「1年近くも働いていて、いっさいの給金を受け取っていなかったというの? あなたはたしか、お茶会やサトゥラス伯爵家の晩餐会でもシリィ=ロウの仕事を手伝っていたはずよね?」
「はい。ですがそれは、自分が勝手に手伝っていただけのことでしたので、ヴァルカスから給金をいただくいわれはなかったのです」
そう言って、ロイは挑むような眼差しをヴァルカスに差し向けた。
「でも、これでようやくあなたの弟子と認めていただくことができました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします、ヴァルカス」
「ええ。あなたはまず、他の料理との調和を学ぶべきでしょうね。森辺の料理人の方々は、のきなみ調和の乱れに気づいていたようですよ」
「はい。あなたのもとで、学ばせていただきます」
挑むような眼差しのまま、ロイが深々と頭を下げる。ポルアースやエウリフィアたちは温かい眼差しで、レイナ=ルウはきわめて真剣な眼差しで、それぞれその姿を見守っていた。
(ヴァルカスに手ほどきを受けられるようになったら、きっとロイもいっそう腕を上げることになるだろう。俺たちも、うかうかしてられないよな)
そのように思うと同時に、俺はひとつの想念にとらわれていた。
それは、ヴァルカスの心情についてである。
(この勝負をもちかけたのはロイの側なんだろうけど、ヴァルカスがそれを承諾する理由はないはずなんだよな。もともとヴァルカスは、これ以上の弟子を雇うゆとりはないって言い張ってたんだし)
それでもヴァルカスが承諾したのは、やはりロイの腕前に感ずるところがあったからなのだろうか。
少なくとも、ロイの作ったあの菓子は、お茶会で出されたシリィ=ロウの菓子と遜色のない出来栄えであったように思う。なおかつ、フワノの生地にギギの葉を投じるというトゥール=ディンの作法を取り入れつつ、きちんと城下町の菓子らしい体裁を整えていた。あれほどの腕前を見せつけられれば、さしものヴァルカスも心を動かされるのではないだろうか。
(それに……ヴァルカスは、森辺の民が肉を生食する習わしがないことも知ってたはずだ。それなのに、どうしてわざわざ前菜に生食の料理を選んだんだろう)
それは、森辺の民に前菜を作ったのはロイであると思わせようとしたためである――などというのは、あまりにうがった考えであるだろうか。
しかし、何にせよ、ロイは正式に弟子入りを認められたのだ。いまその事実を、心から寿ぎたかった。




