予期せぬ来訪者③~思惑~
2018.7/18 更新分 1/1
翌日の、白の月の12日である。
マルスタインからの了承を得られた俺たちは、荷車で城下町に向かっていた。
これは臨時の公式会談であるので、三族長とガズラン=ルティム、バードゥ=フォウ、ベイムの家長の全員が参席する。さらに、それらのお供である狩人が1名ずつと、俺とアイ=ファを加えて、合計14名という大所帯であった。
城下町における会談は、狩人の仕事のさまたげにならぬよう、朝の早い時間から行われる。そのために、俺は屋台の商売をまたユン=スドラに任せることになってしまった。
ついこの間も《西風亭》の会談に参加するために仕事を任せてしまったし、今回などは下ごしらえの仕事までまるまる任せることになってしまったのだ。俺としては心苦しい限りであったが、幸いなことに、ユン=スドラはとても嬉しそうに微笑んでくれていた。
「いつも同じ言葉をお返ししていますが、アスタにそこまでの仕事を任せていただけるのは、わたしにとって何よりの誇りであるのです。決してアスタを失望させるような真似はしませんので、アスタもどうぞご自分の仕事を果たしてきてください」
ユン=スドラにそんな風に言ってもらえるのは、俺にとってもありがたい話であった。
また、下ごしらえの仕事に関しては、いままで通りトゥール=ディンも力を貸してくれるので、何も心配なことはない。修練を重ねてきた他のかまど番たちにしてみても、それは同様だ。そんな心強い仲間たちに見送られながら、俺は出立することになったわけであった。
「でも、まさか昨日の今日で、いきなり会談になるとは思っていませんでした。マルスタインも、このたびの一件を重く見ているということなのでしょうか?」
ルウの集落で待ち合わせて同乗したガズラン=ルティムに問うてみると、「どうでしょう?」という言葉が返ってきた。
「リャダ=ルウから伝え聞いたところによると、あちら側にそれほど深刻な様子はなかったようだと聞いています。たまたま今日、時間が空いていただけなのかもしれませんね」
「そうですか。何にせよ、丸くおさまるのを願うばかりですが……」
俺はそのように述べながら、向かいの側に陣取っているドンダ=ルウの姿をちらりと見やった。
三族長もまた、「ムスルの言い分はわかった」としか述べてはいなかったのだ。ムスルは恩赦に値する人間であると見極めたのかどうか、その厳ついライオンのような顔から内心をうかがうことはできなかった。
そうして城門の前まで到着すると、すでにサウティとザザの面々もその場に控えていた。家の遠い彼らは、ほとんど夜が明ける前に家を出立したはずだ。しかしもちろん、その場にあくびを噛み殺しているような人間はいなかった。
グラフ=ザザやダリ=サウティとは、家長会議以来の対面となる。しかしその前はもっと会えない期間が長かったので、それほどひさしぶりという感じはしない。グラフ=ザザは相変わらずドンダ=ルウにも匹敵する迫力をみなぎらせており、ダリ=サウティはどっしりとした大岩のような貫禄を漂わせていた。
「では、行くか」
跳ね橋の前で待ちかまえていた案内役の武官に話を通して、車を乗り換える。俺にとってもお馴染みの所作であるが、今日はいささか勝手が違った。三族長と貴族の公式会談に同席するというのは、俺にとってもそうそうありえる話ではなかったのだ。
(しかも今日は、調停役のメルフリードじゃなく、領主自らが参席するんだもんな。こんなのは、王都の監査官がらみの一件以来か)
そんな俺たちが導かれたのは、ジェノス城のすぐそばにある会議堂という建物である。
俺が王都の監査官たちに審問される際も、この建物が使われていた。三族長がふだんメルフリードらと会談するのも、この場所であるのだ。
灰色がかった煉瓦で組み上げられた建物に、武官の案内で歩を進めていく。そうして到着した扉の前には、2名の武官が立ちはだかっていた。
「お待ちしておりました。会談に臨む8名のみ、お通りください」
ルド=ルウを筆頭とするお供の狩人たちは、この場で待機である。
入室する人間は、ここで刀を預けなくてはならない。ただ、以前の審問のときのように、狩人の衣まで預けるようには指示されなかった。
(まあ、この前は監査官が取り仕切り役だったもんな。これが本来の会談の様式ってことか)
そんな風に考えながら、俺はアイ=ファとともにその扉をくぐることになった。
室の真ん中には、巨大な卓が置かれている。前回、監査官に呼びつけられたときとは、部屋が異なるようだ。これがもともと、三族長との会談で使われている部屋であるのだろう。
「貴き方々はまもなく参られます。どうぞ座してお待ちください」
案内役の武官が、そのように述べたてる。その口調も、以前の武官とは異なり、客人を遇する丁寧さであった。
それからほどなくして、貴族の入室が告げられる。族長たちは、武官にうながされるより早く、席を立ってその入室を迎えた。
入室してきたのは、マルスタインとポルアースとトルストの3名である。
トルストはリフレイアの後見人であるので、招集をかけられたのだろう。顔をあわせるのはひさびさであるが、相変わらずくたびれたパグ犬のような面相をしており、その目は気弱そうに伏せられていた。
いっぽう、ポルアースは普段通りの様子で、ふにゃふにゃと微笑んでいる。そのゆるみきった笑顔を目にした瞬間、俺は張り詰めていた心がいくぶんほぐれていくのを感じた。
「待たせたね。今日は調停役のメルフリードが不在であるので、私がこの場に加わらせていただくよ。もともとメルフリードは、私の代理人として森辺の族長がたと語らっていたわけだからね」
やはり、監査官が同席していた際よりも、マルスタインはくだけた態度であるようだった。その面には、ゆったりとした微笑が広げられている。
「さあ、座ってくれたまえ。森辺の族長らと顔をあわせるのは、王都の監査官を交えた会談以来かな。……皆、息災そうで何よりだ」
「このたびは、急な申し出を受け入れていただき、とても感謝している」
三族長の中でもっぱら応答の役を担うダリ=サウティが、やはりゆったりと微笑みながら、そのように応じていた。
「ところで、あのムスルという者はまだ参じていないのだろうか? 今日はあの者も交えて道を決すると聞いていたのだが」
「ああ。その者は別室に控えさせているよ。本人を参席させる前に、色々と確認しておきたいことがあったのでね」
マルスタインは形のいい口髭をひねりながら、俺たちの姿をゆっくりと見回していった。
「本日の議題は、そのムスルという者の処遇についてだそうだが……森辺の族長がたは、すでに彼と面談しているそうだね。それで、彼の希望をかなえるべきだという結論に達したということなのかな?」
「いや、昨日一日でそこまでの結論を出すことはできなかった。そうだからこそ、あなたがたの意見をお聞きしたかったのだ」
悠揚せまらず、ダリ=サウティが言葉を重ねていく。
「まず、最初におうかがいしたい。ジェノス侯爵らは、あの者をリフレイアに近づけるのは危険だと見なして、トゥラン伯爵家から遠ざけた……それで間違いはないだろうか?」
「ああ、そうだね。当時のトゥラン伯爵家の従者たちは、その身の罪やこの先の危険性を吟味した上で、それぞれ処遇を決められた。そうだったよね、ポルアース?」
「はい。ただし、トゥラン伯爵家で従事していた武官や従者の中に、明確な罪人というものは存在しませんでした。サイクレウスやシルエルの命令を受けて汚れ仕事をこなしていたのは、護民兵団の一部の人間と《黒き風》なる死罪人の集団であったので、主人たちの裏の顔を知る人間はそうそういなかったのですね」
手もとの書面を繰りながら、ポルアースがそのように述べたてた。
「しかし、当時のトゥラン伯爵家はとても不安定な状態にあったので、新たな当主たるリフレイア姫や後見人のトルスト殿に悪い影響を与えそうな人間は、のきなみ遠ざけられることになりました。というか、武官も従者もすべて余所の場所に移した上で、顔ぶれを一新させたのですね。トゥラン伯爵家に残されたのは、北の民であるシフォン=チェルなる侍女と、例のサンジュラという人物のみであったわけです」
「ふむ。あのサンジュラは、野放しにするよりも目の届く場所に置くべきだということで、リフレイア姫のもとに留まることを許したのだったね。北の民の侍女に関しては……単に、引き取り手が現れなかった、ということなのかな?」
「ええ。それに、サイクレウスたちは北の民を対等の人間とは見なしていなかったため、悪事の片棒を担がせることもなかっただろう、という判断もありました。彼女がサイクレウスらを恨む理由はあっても、その身を救い出そうなどと考えることはありえない、ということですね」
真面目くさった顔で言いながら、ポルアースは書面をめくりあげた。
「とまあ、ここまでが前置きの話となりまして……そんな中で、あのムスルという人物は、とりわけ厳しい処分を受けた立場となります。トゥラン伯爵家直属の武官の中で、もとの役職を失ったのは彼ひとりであったのですね。それ以外の人間は、全員別の場所で武官として過ごしているのです」
「それはやはり、あの者がアスタをさらうという大罪を犯したためなのであろうか?」
ダリ=サウティの言葉に、ポルアースは「はい」とうなずく。
「ただそれ以外にも、彼の気性というか人柄というものも吟味されております。彼が主人の命令でやむなく罪を犯した立場であったのなら、ここまで厳しい処分を受けることはなかったと思うのですが……彼はリフレイア姫に対して、異常なまでの忠誠心を抱いているようなのですね」
「ふむ。サイクレウスにではなく、リフレイア姫に対してか」
マルスタインが念を押すように言葉をはさむと、ポルアースはまた「はい」とうなずいた。
「彼らがアスタ殿をさらった一件に関しても、サンジュラからの当時の証言がこちらに記されています。ええと、サンジュラいわく、『ファの家のアスタを内密に招くべしという命令を受けた際、ムスルひとりに任せては血を見る騒ぎになる恐れがあったので、自分がやむなく協力することにした』とあります」
「血を見る騒ぎか。当時のアスタは森辺の狩人らに守られていたのだから、その際に流されるのはムスル本人の血であったのだろうがな」
ブラックユーモアのつもりなのか、マルスタインは笑顔でそのように述べていた。
ポルアースは「ははは」と愛想笑いをしている。
「それでですね、サンジュラ以外の者たちからもさまざまな証言が取れておりまして……とにかくムスルという人物は、リフレイア姫のためならばどのような罪も厭わない危うさがある、と見なされたのですね。それで、武官としての役職を解かれた上で、トゥラン伯爵家とは縁もゆかりもない男爵家の従者として生きることを余儀なくされたわけです」
「ふむ。ならば、どうしてサンジュラだけが許されるのだというあの者の言葉も、まんざら的外れではないわけか。どのような罪も厭わない危うさというものは、あのサンジュラも抱えていたはずであるしな」
四角い顎をさすりながら、ダリ=サウティがそのように述べたてた。
「そうですねえ」と、ポルアースはわずかに首を傾げている。
「ただ、そこに気性や人柄というものが加味されるのでしょう。サンジュラは冷静沈着な気性であるようですが、ムスルという人物は短慮で暴力的な人間だと見なされています。たとえば、リフレイア姫が誰かに誹謗されたなら、怒りを抑えることができないのではないか、という危険が生じてしまうわけです」
「ああ、そういえば、あなたもムスルに襲われかけたそうだな、ポルアースよ」
「はい。その際は、アイ=ファ殿が見事に撃退してくれたおかげで、事なきを得ましたが」
ポルアースはにこにこと微笑みながら、アイ=ファのほうを見た。むっつりと押し黙っていたアイ=ファは、静かに目礼を返している。
「とりあえず、これまでの経緯はそんなところです。正直に言って、いまさら彼がこのような騒ぎを起こすとは思っていませんでした。彼は1年の時を経てもなお、リフレイア姫に対する執着を捨てられずにいたのですねえ」
「それはべつだん、不思議なことではないように思う。あやつをトゥラン伯爵家から遠ざける際、2度と主人のもとには戻さぬと告げたわけでもないのだろう?」
「ええ、それはそうなのですが……しかし、いったん余所の家に移された彼が、トゥラン伯爵家に戻される道理はありません。普通であれば、そのような希望を抱き続けることも難しいように思いますよ」
「一縷の希望があるならば、むしろ希望を捨てるべきではないように思える。……まあ、そのようなことを言い合っても、詮無きことか」
ダリ=サウティは、いくぶん悩ましげな面持ちで、丸太のような腕を組んだ。
「たとえば俺たちは、スン本家の人間たちに血の縁を絶たせた。この先、あやつらがどれほど心を改めようとも、スンの氏を取り戻すことだけは決してかなわない。しかし、あのムスルはトゥラン伯爵家との縁をそういう形で完全に絶ち切られたわけではない、ということだな?」
「ええ、まあ、そうですね。アスタ殿をさらった罪に関しては、鞭叩きの刑罰と官職の剥奪という形で、すでに贖われております。それ以上の罰を与える理由は、こちらにもありません」
「しかしあやつは、再びリフレイアのもとで働きたいと申し出ている。この一件に関して、あなたがたはどのように考えているのだろうか?」
「それは……僕はあくまで森辺の民に対する調停役の補佐官に過ぎませんので、意見を述べる立場ではないのですよね。ここは、ジェノス侯とトルスト殿のご判断にお任せしたく思います」
「私は、この一件に関わる人間たちの心情こそが肝要だと思っている。だからまずは、トルストの心情を聞いておくべきだろうね」
「わ、わたくしの心情ですか?」と、トルストが目を見開いた。
「わたくしは、その……現在は、リフレイア姫に社交を許されたばかりの、きわめて大事な時期でありますし……個人的には、そのように危うい人間をトゥラン伯爵家に迎えたくはないと考えておりますが……」
「では、ムスルの申し出をはねのけるのかな?」
「あ、いえ、しかし、わたくしはまだそのムスルという人物と言葉を交わしたことすらないのです。わたくしが後見人として選出された頃には、もうすでにその人物はトゥラン伯爵家から遠ざけられておりましたので……」
トルストは、あたふたとしながら視線をさまよわせている。彼にしてみても、これは寝耳に水の出来事であったのだろう。俺だって、昨日はトルストと同じような有り様であったのだ。
「それでは、アスタや森辺の皆の心情はどうなのだろう? 其方たちは、ムスルの犯した罪をもう許しているのだろうかな?」
マルスタインの言葉を受けて、ダリ=サウティが俺のほうに視線を差し向けてきた。俺は背筋をのばしながら、「そうですね」と答えてみせる。
「あくまで俺個人の心情としてならば、ムスルを恨む気持ちはありません。彼はすでに罰を受けているのですから、それで罪は贖われているはずです。……ただ、俺は彼がどのような人間であるかをよく知らないため、手放しでその申し出を受け入れるべきだと述べるわけにはいきません。だからまずは、彼の人柄や心情というものを、もっと深く知りたいと願っています」
「つまり、ムスルが信用に足る人間であるならば、その申し出を受け入れてもかまわない、ということかな?」
「はい。もちろん、リフレイア本人がそれを受け入れるならば、ですが……リフレイアは、この件に関してどのようにお考えなのでしょう?」
「彼女は、我々に一任すると述べていたよ。ムスルを罪人にしたのは自分なのだから、自分がそれを許す立場にはない、という考えのようだね」
ならば、リフレイア自身もムスルの申し出を嬉しく思っているのだろうか。俺はリフレイアとムスルがどのような関係であるのかも、いまひとつ理解しきれていないのだ。
「では、アイ=ファはどうなのかな? この場においては、其方がもっとも腹を立てているように見えるのだが」
マルスタインが優雅に微笑みながら、アイ=ファのほうに目を向ける。
アイ=ファはむっつりとした面持ちのまま、溜息をつくように返事をしていた。
「私が腹を立てているのは、あやつが取り乱してアスタの身を危険にさらしたためだ。あやつの申し出自体に、思うところはない」
「思うところはない?」
「うむ。あやつをよく知る人間が、リフレイアのもとに戻しても危険はないと見なすならば、それが正しき道なのであろう。あやつのことをよく知らぬ私が口をはさむような問題ではないように思える」
「そうか。森辺の民というのは、個人の心情よりも公正さを重んじるものであったね。心情などを問うた私のほうが浅はかであったよ」
マルスタインは大らかに笑いつつ、ポルアースとトルストの姿を見比べた。
「ここはやはり、ジェノスを治める我々こそが決断すべき立場であるようだ。しかしポルアースは、森辺の民さえ納得していれば、自分が口を出すべき問題ではないと考えているのだね?」
「はい。僕はあくまで調停役の補佐官でありますからね。ジェノス侯と森辺の方々の意見が食い違うまで、出番はないと考えています」
「では、トルストはどうなのかな? リフレイア姫の後見人として、今少し見解を明らかにしてもらいたいのだが」
「わ、わたくし個人の心情は、さきほど述べた通りです。ただ……」
と、トルストはパグ犬のようにたるんだ頬をわずかに震わせた。
「……ただ、リフレイア姫が正しき心を取り戻せたのは、シフォン=チェルなる侍女とサンジュラの存在あってのことと考えております。むろん、森辺の方々の温情こそが、リフレイア姫の頑なな心を溶かしたことに疑いはないのですが……それでもやはり、シフォン=チェルとサンジュラの存在がなければ、リフレイア姫の心はまた冷たく凍てついていたように思うのです」
「ふむ。それで?」
「で、ですからその……そのムスルという人物もまた、リフレイア姫の心に安らぎを与えられるような存在であるならば……言葉も交わさぬ内に、その申し出をはねのけるようなことはするべきではない、と考えております」
「そうか」と、マルスタインは微笑んだ。
「確かに、私も其方も、いまだそのムスルという者の顔すら目にしてはいないのだからね。正しき道を見出すために、そろそろムスルをこの場に呼びつけるとしよう」
マルスタインが視線を送ると、武官のひとりが部屋を出ていった。
それからほどなくして、武官はムスルを引き連れて帰還する。フードつきマントを脱いだムスルは、城下町でよく目にする従者のお仕着せ姿でその場に現れた。
従者のお仕着せとはいえ、城下町の装束であるのだから、きちんとした身なりである。が、ムスル自身がざんばら髪で無精髭を生やし、なおかつげっそりとやつれた顔をしていたために、何だか気の毒になるぐらいアンバランスな様子に見えてしまった。
「お、お招きにあずかりました……わたしがムスルでございます……」
「ふむ。なかなか立派な体格をしているが、ずいぶんなやつれようだな。よほど現在の処遇が不満であるらしい」
マルスタインがいきなりそのように切り出したので、俺は思わずぎょっとしてしまった。アイ=ファはうろんげに眉をひそめており、ドンダ=ルウやグラフ=ザザは探るように両目を光らせている。
「其方は大罪を犯した身でありながら、トゥラン伯爵家に戻りたいなどと申し述べているそうだな。あまつさえ、森辺の民に近づくべからずという禁を破り、ファの家のアスタのもとにまで馳せ参じたと聞いているが……それで相違はなかろうな?」
「は、はい。ですが、わたしは……」
「其方の弁は聞いていない。ジェノス侯爵たる私の言葉をさえぎるとは、ずいぶん不遜な男ではないか」
マルスタインは取りすました面持ちで、辛辣な言葉を吐き続けている。気の毒なムスルは一瞬で真っ青になってしまい、追い詰められた獣のような目つきになってしまっていた。
(まさか、ムスルを挑発して、その本性を暴こうとしてるのか? それはちょっと……危うい気がするぞ)
ここでムスルが我を失ってしまったら、何もかもがおしまいである。俺は手に汗を握りながら、わなわなと震え始めたムスルの姿を身守ることになってしまった。