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異世界料理道  作者: EDA
第三十六章 合縁奇縁
620/1675

予期せぬ来訪者①~再会~

2018.7/16 更新分 1/1

・今回は変則的な更新となります。本日から4話分を更新し、来週の月曜日から残りの4話分を更新する予定です。

 フォウとスドラの婚儀の祝宴から1日置いて、白の月の10日である。

 その日も俺たちは、元気に屋台の商売に励んでいた。


 建築屋の人々の送別会から中5日で婚儀の祝宴という慌ただしい日々であったものの、いずれも休業日の前日であったので、疲れがたまったりはしていない。むしろ2回の祝宴を経て、屋台のメンバーの士気はいよいよ高まっているようにすら感じられた。


 屋台のメンバーの過半数は、その両方の祝宴に参加していたのだ。なおかつ、婚儀のほうに参加できなかったメンバーも、送別会のほうには確実に参加している。同じ祝宴をともにしたことによって、みんなはますます結束が固まったように思えてならなかった。


「この後には、またフォウとスドラの婚儀も控えているのですよね。それにも招いてもらえるようだったら、とても嬉しく思います」


 本日の当番であるマトゥアの女衆が、にこにこと笑いながらそのように述べたてると、やはり笑顔のユン=スドラが「そうですね」と答えていた。


「でも、そちらの婚儀はしばらく時期を見ることになるかと思います。スドラでは幼子が生まれたばかりであるので、女衆を嫁に出してしまうと、いささか手が足りなくなってしまうのですよ」


「ああ、フォウとランから嫁入りした女衆は、分家として他の家に住まっているのですものね。それは、しかたのないことです」


 スドラにはもともと5名の女衆しかいないし、ユン=スドラはほとんど外に出ずっぱりである。これでフォウとの婚儀が決まっている女衆を嫁入りさせると、あとはリィ=スドラとふたりの年配の女衆しか残らないのだった。


「もちろん、分家となった女衆らも力を貸してくれていますが、あまり立て続けに婚儀をあげるのもせわしないことですし……何ヶ月かは時間を空けることになるかもしれませんね」


「いいのです。あまり立て続けだと、こちらも何だかもったないような気がしてしまいますし。先に楽しみが控えているというのも、また嬉しいものです」


 ユン=スドラとマトゥアの女衆のペアというのは、ファの屋台においてもっとも華やぐ組み合わせであった。

 ちなみに、俺の相方はリリ=ラヴィッツであり、ヤミル=レイの相方はマルフィラ=ナハムである。俺はそれなりに会話をしていたが、ヤミル=レイたちは黙々と仕事に取り組んでいる様子であった。


(ヤミル=レイもマルフィラ=ナハムも、自分からは雑談したりしないタイプだもんな。でもまあ気詰まりな感じではないし、問題はないだろう)


 どのみち、このペアリングは1日の中でも何回か入れ替えているのだ。各人にはそれぞれのペースで仕事に取り組んでもらえれば一番であった。

 そんな風に考えながら、俺はリリ=ラヴィッツに新たな話題を持ちかけてみせる。


「俺も立て続けにラヴィッツの方々と交流できて、とても嬉しく思っていました。今回の宴は2回連続で、デイ=ラヴィッツ自らが出向いてくれましたしね」


「ええ。やはりこういう新しい試みに対しては、まず家長として正しい行いであるかどうかを見極めなければならない、と考えているようです。それが間違った行いであった場合は、うかうかと家人を参加させるわけにもいかないでしょうからねえ」


 相変わらず、お地蔵様のように柔和でつかみどころのないリリ=ラヴィッツである。

 お客に料理を手渡して、手が空いた隙に、俺はまた言葉を投げかける。


「それで、デイ=ラヴィッツはどのようにお考えなのでしょう? 大勢の客人を招いた祝宴が間違ったものである、とお考えでなければいいのですが……」


「どうでしょうね。少なくとも、まだしばらくは自分の目で見届ける必要がある、と考えているようですが」


 そんな風に言ってから、リリ=ラヴィッツはにたりと微笑んだ。

 柔和な彼女が最近になって垣間見せるようになった、悪戯心たっぷりの表情である。


「ただ……家長はずいぶん、あのユーミという娘の歌に感銘を受けていたようですねえ」


「え? ユーミの歌にですか?」


「ええ。帰りの道中では、ずっと首を傾げておりましたよ。何なのだあれは、何なのだあれは、と、まるで幼子のようでしたねえ」


 それが、感銘を受けたことによって発露されたものであるのなら、ずいぶんユニークな感情表現であるように思える。

 しかし、デイ=ラヴィッツがひょっとこのような顔でしきりに首をひねっている姿を想像すると、何だか楽しい気持ちになってきてしまった。


「俺の故郷では歌というものはあちこちに満ちあふれていましたが、ユーミの歌にはすごく心を動かされてしまいます。本人は否定していますが、きっと優れた才覚を持っているのだと思いますよ」


「そうですか。では、森辺の女衆が真似することは難しいのでしょうかねえ」


「あ、いえ、修練を積めば、きっと上達すると思います。歌を歌うには咽喉や肺の力なども重要だと思うのですが、森辺の女衆なら町の人間よりもそういう力は優れているでしょうからね」


 そう言って、俺はリリ=ラヴィッツににこりと笑いかけてみせた。


「かまどの仕事と同じことで、けっきょくは本人のやる気しだいだと思います。マルフィラ=ナハムがかまど番としての才覚を秘めていたように、歌に関しても才覚を秘めた女衆は存在すると思いますよ」


「そうですか。アスタはずいぶんとマルフィラ=ナハムの才覚を買っておられるようですね。だから、ナハムの長兄にその心情を疑われてしまったのではないでしょうか?」


 リリ=ラヴィッツの丸っこい顔には、まだねっとりとした笑みが浮かべられたままだった。

 俺は負けじと、いっそう明るく笑い返してみせる。


「マルフィラ=ナハムをそのように評しているのは、俺だけではないでしょう? というか、現在はルウ家の人々を筆頭に、商売に関わっているかまど番の全員がマルフィラ=ナハムの力を認めていると思います」


「なるほど。マルフィラ=ナハムはいまだ自分の手で何も成し遂げたわけでもないのに、不思議なものですねえ」


「そうですね。でも、今後はそういう女衆が続々と出てくるのかもしれませんよ。何せ森辺には、何百名ものかまど番が存在するのですからね」


 リリ=ラヴィッツとこのように込み入った話ができるようになったのも、俺にとってはやっぱり嬉しい進展であった。

 おそらくこういった会話は、彼女を通じて家長のデイ=ラヴィッツにも余すところなく伝えられているのだ。俺にとってはこのリリ=ラヴィッツとマルフィラ=ナハムこそが、ラヴィッツの血族とのかけがえのない架け橋であるのだった。


(市場の商売を引き継いだことによって、ラヴィッツの血族もけっこうな富を得ているだろうしな。宴料理に感銘を受けて、新しい食材に興味を持ってくれたら万々歳なんだけど……そこのところは、どうなんだろう)


 俺がそんな風に考えたとき、「やあ!」という元気な声が響きわたった。

 目をやると、外套のフードを外したディアルがにこにこと微笑んでいる。


「いらっしゃい。祝宴以来だね、ディアル」


「うん! あのときは、どうもありがとう! あれから何日かは、ずーっと祝宴の熱気にあてられっぱなしだったよ!」


 そんな風に述べるディアルのかたわらには、もちろんラービスが控えている。俺はそちらにも、「いらっしゃいませ」と笑いかけてみせた。


「ラービスも、先日はお疲れ様でした。その後、お変わりはありませんか?」


 ラービスは不明瞭な面持ちで、「はあ」と述べていた。

 ディアルはそちらを振り返り、悪戯っぽい笑みを差し向ける。


「何だか気の抜けた返事だなあ! 祝宴をともにしたんだから、もうちょっと打ち解けてもいいんじゃない?」


「……自分は、ディアル様をお守りする仕事の最中ですので」


「ラービスは、いつだってそんな感じじゃん。まったく、人見知りなんだから!」


 そうしてディアルは、ぐりんと俺に向きなおってきた。


「あのさ、祝宴のときは騒ぎを起こしちゃってごめんね。他の人たちも、怒ったりしてなかった?」


「もちろんだよ。ちょっと驚いてはいたけれど、何も迷惑をかけたわけではないからね」


「いやー、あんな騒ぎを起こしただけで、十分に迷惑でしょ! 僕って、頭に血がのぼりやすいからなあ」


 ディアルはいくぶん申し訳なさそうな顔になりながら、濃淡まだらの短い髪をかき回した。そんなディアルに、俺は「大丈夫だよ」と言ってみせる。


「南の人たちは、素直に感情を出すことを美徳にしているからね。そこのところは、森辺の人たちだって理解してくれてるさ。……俺としては、ラービスみたいに心情を表に出さない人のほうが、ちょっと珍しく感じられるかな」


「うーん、そうなのかな? 僕はもう慣れっこだから、あんまり気にしてなかったけど……そっか、確かに南の民としては、珍しい性格なのかもね」


 そう言って、ディアルは俺のことをじっと見つめてきた。


「でも、ラービスは決して悪い人間ではないからさ! 森辺の民に悪意を持ったりもしていないし……これからも、ラービスと仲良くしてもらえる?」


「もちろんだよ。どうぞよろしくお願いしますね、ラービス」


 それでもなお、ラービスは「はあ」と述べるばかりであった。

 その彫りの深くて角ばった顔には、表情らしい表情も浮かべられていない。あえて言うなら、仏頂面としか言いようのない表情である。彼は東の民ばりに、表情を動かさないタイプであるのだ。


(ただ、東の民ほど内心の見えない感じではないからな。それに、冷静沈着ってタイプでもないんだろうし)


 そういう意味では、彼もやっぱり南の民らしい人柄ではあるのだ。先日の祝宴を経て、俺はこの気難しい御仁といっそう絆を深めたい気持ちを強めていた。


「今日の日替わり献立は、『ギバの揚げ焼き』だよ。……ラービスも、よかったらいかがです?」


「そうだよ! ラービスも一緒に食べよう?」


「……自分は、ディアル様をお守りする仕事の最中ですので」


「仕事の最中だって、食事は必要でしょ? どうせ城下町に戻ったら何かしらを口にするんだから、いま食べたって一緒じゃん」


 ディアルがそのように言いたてても、ラービスは頑なに「いえ」と首を振っていた。


「城下町で暴漢に襲われる危険はほとんどありませんが、宿場町では話が異なります。この場では、一瞬たりとも気を抜くことは許されないのです」


「大げさだなあ! もう1年以上も宿場町に通い詰めてるけど、暴漢に襲われたことなんて1度もなかったじゃないか?」


「これまでがそうだったからといって、これからも安全だとは限りません。自分はこの身にかえても、ディアル様をお守りしなければならないのです」


 ディアルは幼子のようにすねた顔をしながら、「むー」とおかしな声をあげた。

 それから、ぽんと手を打ち鳴らす。


「それじゃあ今日は、城下町に持ち帰れる料理を買おう! それで、あっちで一緒にギバ料理を食べようよ!」


 ラービスは虚をつかれた様子で、わずかに身体をのけぞらせた。


「じ、自分のためにディアル様がそのような手間をかける必要はありません。それでは、ごく限られた料理しか口にすることができないでしょう?」


「うん。それでも僕は、ラービスと一緒に食べたいんだよ。それに、ギバ料理をたくさん食べて、アスタたちとも仲良くなってほしいしさ」


 そう言って、ディアルは白い歯を見せた。

 おひさまのように明るくて魅力的な、ディアルの屈託のない笑顔である。ラービスは、困惑しきった様子で眉を下げてしまっていた。


「そうだ! 今度からは、料理を持ち帰るための器を持ってこよう! 最近はすっかりご無沙汰だったけど、あれを使えば、だいたいの料理は持ち帰ることができるからね!」


「ああ、そういえばディアルは、その器でリフレイアに料理を届けたりしてくれていたもんね」


「うん! あのサンジュラってお人が動けるようになってからは、すっかり出番もなくなっちゃったけどさ。……でもまあとりあえず、今日は手づかみで持ち帰れる料理だね」


 ディアルのエメラルドグリーンの瞳が、ずらりと立ち並んだ屋台を物色していく。本日、この時間で持ち帰れる料理となると、『ギバまん』と『ギバ・バーガー』とマイムのカロン乳の料理、そして『ギギまん』の4種であろう。というか、もともと木皿が必要なのは、ルウ家の汁物料理と、俺の日替わり献立と、あとは数日置きに順番で提供しているカレーおよびパスタのみであったのだった。


「うーん、どうしよっか? とりあえず、ふたりで持てるだけの量を買っていけば、軽食には十分だよね!」


「……両手がふさがっていては、いざというときに剣をふるうこともできなくなってしまうのですが」


「そんなのは、無法者に襲われてから悩みなよー」


 ディアルはすっかりご満悦の様子で、屋台を見回している。いっぽうのラービスは、やっぱり仏頂面のままだ。

 と――次の瞬間、ラービスの力強い指先が、後ろからディアルの肩をわしづかみにした。


「ディアル様、こちらに」


「え、なに? どうしたのさ、ラービス?」


 もがくディアルの肩を引き寄せて、ラービスが左側に退いていく。

 それで空いたスペースに、のそりと大柄な人影が立った。


「……ファの家のアスタ……ですね……?」


 その人物が、くぐもった声音でそのように問うてきた。

 ディアルたちと同じように、旅用のフードつきマントを纏った、あやしげな男である。西の民なのであろうが、俺よりも一回りは大柄な体格をしており、フードの陰では茶色い瞳が爛々と光っていた。


「は、はい。どこかでお会いしましたか?」


 反射的に、俺はそのように答えてしまっていた。

 どことなく、その顔や声には覚えがあったように思えたのだ。


(でも、常連のお客さんとかではないよな。ここ数ヶ月で見た顔なら、もっとはっきり思い出せるはずだ)


 それはいささか年齢のわかりにくい、荒んだ風貌をした男であった。

 それほど年はくっていないのかもしれないが、顔の下半分が無精髭で覆い尽くされており、落ちくぼんだ小さな目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。骨太で、いかにも頑強そうな身体つきをしているのに、その頬などはげっそりとこけてしまっているのだ。


「あの、俺に何かご用事なのでしたら――」


 俺がそのように言いかけたとき、その人物がいきなり腕をのばしてきた。

 骨ばっているが逞しい指先が、鉄鍋ごしに俺の両手をつかまえて、引き寄せてくる。それは、遠慮も容赦もない挙動であった。


「お、お願いです、どうかわたしに力を……わたしには、もはやあなたしか頼るものがないのです……」


「ちょ、ちょっと、危ないです! 油! この鉄鍋では、油が煮えたぎってますから!」


『ギバの揚げ焼き』をこしらえるための、レテンの油である。強火で熱せられたその鉄鍋の真上で、俺は両手を握られてしまっているのだった。

 しかもその人物は、その巨体に相応しい腕力で、俺の指先を力まかせに握りしめているのである。それは悪意や敵意からの行いではなく、単に我を失っているだけのようであるが、そうだからといって俺の危機感が軽減されることにはならなかった。


「お、落ち着いて話しましょう! とりあえず、この手を離してください!」


「お、お願いです……このままでは、わたしは生きている意味を見失ってしまいます……わたしには、どうしてもあの御方が必要なのです……」


 その人物は、俺の言葉など耳に入っている様子もなく、くぐもった声を絞り続けていた。

 その茶色い瞳には手負いの獣じみた炎が燃えており、やつれた顔には脂汗がにじんでいる。その思い詰めた眼差しに、俺はいっそうの危機感をかきたてられることになった。


「……あなたはいったい何なのでしょう? 森辺の家人に害を為せば、必ずや報いを受けることになりますよ?」


 柔和だが力のこもった声で、リリ=ラヴィッツがそのように問い質した。

 きっと他の屋台のメンバーもこの異様な事態に気づいているのであろうが、俺にはそちらに目をやるゆとりもない。その人物がぐいぐいと俺の腕を引っ張っているために、おたがいの身体が屋台を前後から揺り動かし、熱された油がたぷたぷと波打ってしまっているのだ。


「……その手を離せ。衛兵を呼ばれたいのか?」


 と、新たな声がその場に響きわたった。

 それと同時に、横合いからのばされた手が、男の太い手首をわしづかみにする。


「話をしたいのなら、好きにするがいい。しかし、まずはその前に手を離せ。さもなくば……貴様を、無法者と見なす」


 それは、ラービスであった。

 ラービスが、ディアルを背後にかばいつつ、男の手首を握りしめていたのである。


 体格でいえば、わずかに男のほうがまさっていたことだろう。

 しかし、ラービスがぎりぎりとその手首をしめあげていくと、やがて男はうめき声をあげて俺の手を解放した。

 そして、追い詰められた獣の眼光を、ラービスに差し向ける。


「邪魔をするな……わたしは、ファの家のアスタに用事があるのだ!」


「その身に触れずとも、話はできよう。貴様は、いったい何者なのだ?」


「うるさい!」とがなりたてるや、男はマントの内側に手をのばした。

 それと同時に、ラービスも腰の刀に指先を添える。


「貴様が刀を抜けば、ジェノスの法を破ることになる。そんな貴様を無法者として斬り捨てても、わたしが罪に問われることはあるまい」


 その瞬間、ディアルが「駄目だよ!」と悲鳴まじりの声をあげた。


「絶対に、刀なんか抜いちゃ駄目! そうしたら、あなたは本物の罪人になっちゃうよ? そうしたら、もうアスタと言葉を交わすこともできなくなっちゃうんじゃない?」


 屋台に群がっていた人々は、彼ら3名を遠巻きにして、呆然と立ちすくんでいた。

 ようやく手を引っ込めることのできた俺も、いまだに状況を理解できていない。そして、そんな俺のかたわらには、いつのまにかヴィナ=ルウがぴったりと寄り添ってくれていた。


「もう……護衛役の真似事なんてする必要はなくなったと思ってたのに、いったい何なのよぉ……?」


「そ、それが俺にも、よくわからなくて……ただ、あの人の顔には見覚えがあるような気がするのですが……」


 俺たちの会話が耳に入ったのか、ラービスの背中に隠れたディアルが、光の強い視線を差し向けてきた。


「何だ、ラービスだけじゃなく、アスタもこのお人のことがわかってなかったの? まあ、僕もついさっき気づいたところだけどさ」


「え? ディアルもその人を知ってるのかい?」


「当たり前じゃん。って言っても、そんなに親しい間柄でもなかったから、名前はすっかり忘れちゃったけどさ」


 そう言って、ディアルはラービスの脇からその人物に声を投げかけた。


「あなた、リフレイアの護衛役だった武官でしょ? どうしていまさら、アスタの前に姿を現したのさ? まさか、アスタに逆恨みしてるわけじゃないだろうね?」


 その言葉で、俺はハンマーで殴られたような衝撃を受けることになった。

 この人物は、かつてリフレイアのお付きの武官であり――そして、サンジュラとともに俺の身をかどかわかした、あのムスルであったのである。


(何てこった。すっかり人相が変わってたんでわからなかったけど……言われてみれば、これは間違いなく、あのムスルだ)


 以前のムスルはもっと肉付きがよくて、ずんぐりとした体型をしていた。それに、無精髭をたくわえてもおらず、髪などもきちんと整えていたはずだ。

 しかし、陰火のように燃えるその眼差しは、確かにムスルのものだった。鈍牛のように虚ろな表情も、くぐもっていて聞き取りづらい声も、俺の眠っていた記憶を呼び起こすのに十分な要素だった。


「ねえ、どうなの? さっきの様子からして、アスタに危害を加えようって気持ちではなかったみたいだけど……それでも、いまさらアスタにどういう用事があるってのさ? あなたはきちんと罪を裁かれて、別の場所で従者として働いていたんでしょ?」


「わたし……わたしは……」


「うん。あなたはとてもリフレイアのことを大事に思ってたみたいだよね。そんなあなたがまた罪人として捕らえられてしまったら、きっとリフレイアも悲しむはずだよ。リフレイアのためにも、絶対にその刀は抜かないでね?」


 ムスルは獣のようなうめき声をあげると、そのまま地面に崩れ落ちてしまった。

 そして、革のフードを背中にはねのけると、地べたから俺を見上げてくる。


「わたしは、アスタに謝罪をしに来たのです……どうか……どうかわたしを許してください……そして、どうかわたしに力を貸してください……」


 そのように言い放つや、ムスルはぽろぽろと涙を流し始めた。

 かつてはネイルを人質に取って、俺の身をかどわかし、トゥラン伯爵邸においては告発者のポルアースに襲いかかって、アイ=ファに投げ飛ばされたあのムスルが、恥も外聞もなく泣き始めてしまったのだった。


 ともあれ――俺はそうして、1年以上ぶりにムスルと再会することになったわけである。

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