白の月の一日②~ゆるやかな幸福~
2018.6/7 更新分 1/1
その日も屋台の商売は、至極順調であった。
トゥール=ディンの菓子の屋台にも、他の屋台に負けない行列ができている。宿場町に住む女性や幼子の姿も多く見かけられたが、かといって男性客がそこまで少ないようにも思えない。西や南や東の区別なく、幅広い客層に支持を得ている様子である。
「フン。あっちの屋台に客が集まる分、こっちの屋台の勢いが弱まった気がするネ。いずれは売り上げにまで影響が出てきちまう気がするヨ」
ツヴァイ=ルティムなどは、そのように述べたてていた。
隣の屋台でマルフィラ=ナハムの面倒を見ていた俺は、そちらに向かって「きっと大丈夫だよ」と笑いかけてみせる。
「甘いものは別腹だなんて言葉もあるぐらいだから、いままで通りにギバの料理を食べた上で、『ギギまん』を食べてる人も多いんじゃないかな。ジャガルの建築屋の人たちなんかは、まさにそんな感じらしいしね」
「みんながみんな、あの連中みたいに大食らいなわけじゃないでショ? 女衆や幼子なんて、甘い饅頭を食べたら、それだけで腹がふくれちまうんじゃないのかネ」
「だったらこちらも菓子の屋台に負けないように、販売促進の努力をするべきだろうね」
トゥール=ディンに屋台の開設を提案したときから、俺はうっすらそのように考えていた。
「確かにこれで、他の人たちも菓子の屋台を出すようになったら、売り上げの競争も激化するかもしれない。それでも客足が離れないように、工夫を凝らすべきなんじゃないかな」
「工夫を凝らすって、何をどうするのサ?」
「それはもちろん、料理の内容で勝負するしかないだろうね。目新しい料理を売りに出せば、これまで他の屋台に通ってた人たちを引きつけることもできるだろうからさ」
「フン。だったら、アタシの出る幕はないネ。レイナ=ルウやシーラ=ルウの尻をひっぱたくことにするヨ」
すると、ツヴァイ=ルティムの向こう側の屋台で働いていたレイナ=ルウが、楽しげに笑いながら目を向けてきた。
「だけど、新しい献立を売りに出すならば、またツヴァイ=ルティムにげんかりつというものの計算をしてもらわなくてはなりません。お手数をかけますが、どうぞよろしくお願いしますね、ツヴァイ=ルティム」
「フン! 使った食材の代価ぐらい、自分たちで計算できないもんかネ」
「それが、なかなかに難しいのです。……きっとマルフィラ=ナハムであれば、そのような仕事も果たすことができるのでしょうけれども」
遠目にも、レイナ=ルウがふっと真剣そうな面持ちになるのが見て取れた。
間に俺をはさんでいるマルフィラ=ナハムは、何も気づかずに『ケル焼き』の具材を焼き続けている。
「……確かに、ソイツぐらい頭の回る女衆がいたら、肉を売る仕事でもたいそうな役に立つだろうネ。アンタ、そっちの仕事に回る気はないの?」
「え? わ、わたしですか? な、何でしょう? は、話を聞いていませんでした」
「それだけ頭が回るんだから、市場で肉を売る仕事に回る気はないのかって聞いてるのサ。そうしたら、アタシもずいぶん楽になるんだけどネ」
「そ、そ、それはあの……わ、わたしはかまど番の仕事を習いたいと願っていたもので……も、申し訳ありませんが、お力にはなれそうにありません」
恐縮しきった様子で頭を下げながら、マルフィラ=ナハムは火の通った具材を鉄板の端に寄せた。どれだけ心を乱しても、それで失敗をするようなマルフィラ=ナハムではないのである。
「フン。アンタはいい女衆を引き当てたネ、アスタ」
「いやあ、ラヴィッツの人たちに感謝するばかりだよ。でも、市場の仕事のほうも、引き継ぎの作業は順調に進んでるんだろう?」
「そりゃあ、家長会議が終わってから20日も経ってるんだから、ちっとはマシになったってだけの話だヨ。こんなにポンポン人間を入れ替えてたら、いつまで経ってもアタシが抜けられないじゃないか」
ツヴァイ=ルティムは鼻のあたりに皺を寄せていたが、レイナ=ルウの仕事を手伝っていたオウラ=ルティムは、優しげに微笑んでいた。
「でも、そうしてツヴァイがさまざまな仕事を果たしているおかげで、ルティムの家はさらなる富を得ることになったでしょう? それは、誇るべき話であるはずよ?」
「フン。どんなに銅貨をためこんだって、どうせトトスや猟犬で消えちまうサ」
「その前に、まずはあなたの好きなものにつかっていいと、家長はそのように言ってくれていたじゃない。あなたももう13歳なのだから、新しい飾り物でも買ったらいいのじゃないかしら?」
ツヴァイ=ルティムは下唇を突き出したまま、何も答えようとはしなかった。
ごく何気ない会話であるが、オウラ=ルティムの声には慈愛の感情があふれかえっているように感じられる。たとえ血の縁を絶たれようとも、彼女たちが同じ家の家人として過ごせていることを、俺は心から祝福したかった。
ともあれ、中天のピークも過ぎ去って、屋台の商売はラストスパートを迎えようとしている。
菓子の屋台の影響か、あるいはお得意様である建築屋の20名が不在であるためか、準備した料理を売り切るには、定刻まできっちりかかりそうな気配だ。日替わり献立の『青椒肉絲』を受け持ってくれていたユン=スドラが、「そういえば」と俺に目を向けてきた。
「建築屋の方々は、スンの集落で昼の食事をしているのでしょう? その準備は、誰が受け持っているのですか?」
「ああ、北の集落の女衆が引き受けてくれたよ。家長会議であれだけ立派な食事を出していたんだから、トゥール=ディンがいなくても心配はいらないだろうね」
「そうですか。北の集落の女衆が、そのような仕事を受け持つことになるなんて……本当に、少し前では考えられなかったことですね」
きっと陣頭指揮は、スフィラ=ザザが取っているのだろう。もしかしたら、見届け役のゲオル=ザザたちも、おやっさんたちと同じ場で軽食を取るのかもしれない。そんな図を想像すると、なかなかに微笑ましかった。
と、俺がそんなことを考えたところで、新たな人影が屋台の前に立つ。
「いらっしゃいませ」と反射的に声をあげてから、俺はそれが旧知の人々であることに気づいた。
「あれ……これはまた、ちょっと珍しい組み合わせですね」
「はい。城下町、出たところで、行き会ったので、ともに訪れたのです」
旅用の外套を纏った、背の高い男女の二人連れ。それは何と、サンジュラとアリシュナであったのだった。
サンジュラは穏やかに微笑み、アリシュナはすました無表情を保ちつつ、ともに俺の顔を見やっている。この両名が立ち並んでいる姿を見るのは、おそらく俺にしてみても初めてのことであるはずだった。
「えーと……おふたりは、お知り合いだったのでしたっけ?」
「はい。親しく口をきく機会、ありませんでしたが、顔見知りです。最近、リフレイア、同じ晩餐会、招かれること、増えました」
リフレイアも、貴族として社交することを許されたのだ。そうすると、あちこちの晩餐会にお招きされているらしいアリシュナとも、顔をあわせる機会が増えるということなのだろう。俺の記憶では、これまでリフレイアとアリシュナが顔をそろえていたのは、お茶会のときぐらいのものであった。
「何にせよ、ご来店ありがとうございます。サンジュラも、この前のお茶会では顔をあわせることができなかったので、お会いできて嬉しいです」
「はい。ご挨拶できず、申し訳ありませんでした。ですが、陰から、アスタたちの様子、見守っていました。リフレイア、いっそう元気、取り戻せた様子で、深く感謝しています」
「こちらこそ、リフレイアと交流を深めることができて、とても楽しかったです。また何かの会でご一緒できることを願っておりますよ」
「ありがとうございます」と、サンジュラはいっそう目を細めて微笑した。
そのかたわらで、アリシュナはぽつねんと立ち尽くしている。
「あ、アリシュナも先日はお疲れ様でした。今日は『ギバ・カレー』をお届けする日だったのに、わざわざ買いにいらしてくれたのですか?」
「はい。無念の気持ち、なだめるため、ギバ料理、必要と思いました」
「無念の気持ち?」
「はい。明日、南の民と、祝宴なのでしょう? それに、参加できない、無念です」
ディアルとラービスは無事に参席することが決定されていたが、さすがにアリシュナを招待することは提案することさえできなかったのだ。彼女は東の民である上に、建築屋の面々とは縁もゆかりもないのだから、これはしかたのないことであっただろう。
「その節は申し訳ありませんでした。いずれまた、何か機会があったら、森辺にお招きさせてください」
「機会、ありますか?」
「え? いやまあ、まだその予定はないのですが……機会ができたら、お声をかけさせていただきますね」
「……機会、待ちます」
まったくの無表情ながら、アリシュナはとても残念そうな目つきになっていた。
このやりとりを見守っていたサンジュラは、少し不思議そうに小首を傾げている。
「アリシュナ、あなた、行動の自由、ないのですか?」
「はい。行動の自由、ですか?」
「はい。あなた、貴族、ありません。自分の意思、森辺、訪れること、できないのですか?」
アリシュナはしばらく黙考してから、「わかりません」と答えた。
「ただ、私、多忙です。長い時間、城下町、離れること、難しいです」
「占星の仕事、忙しい、聞いています。では、その後、どうなのでしょう? 城下町の外、一夜を明かすこと、禁じられているのですか?」
「わかりません。これまで、願ったこと、ありませんので。……そのような願い出、申し出ること、心苦しい、思います」
彼女は、ジェノス侯爵家の客分という立場であるのだ。それが城下町の外で一夜を明かしたいと願い出たら、やはり大仰な護衛役などが必要になってしまうのだろうか。
(確かに、アリシュナの立ち位置ってよくわからないところがあるんだよな。こうしてひとりで宿場町にやってきたりするんだから、そこまで厳しく行動を制限されてるわけじゃないんだろうけど……実際のところは、どうなんだろう)
俺はそのように考えたが、答えの見つけようはなかった。
というか、アリシュナ自身も、あまりはっきりとは把握していない様子である。寄る辺ない身を庇護してもらっていることに感謝して、これまではそういう要求をしたこともない、といった様子だ。
「……そういえば、アリシュナは自分で身を守るすべをお持ちなのですか?」
アリシュナは「はい?」と静かな眼差しを向けてきた。
「いや、東の方々というのは身を守るすべがあるので、長旅をするのに護衛役が必要ない、とされているでしょう? ジェノスに来るまでは放浪の生活をされていたアリシュナなら、やっぱり自衛の手段を持ち合わせているのかな、と思って」
「毒草の知識、持ち合わせています。祖父、教えてくれました」
アリシュナは、感情の欠落した声でそう答えた。
「ただし、現在、毒草、持つこと、禁じられています。そうでなくては、貴人に近づけること、できないのでしょう。ジェノス、客人になったとき、すべての毒草、処分されました」
「わかります。暗殺、恐ろしいのでしょうね」
とても和やかに微笑みながら、サンジュラが恐ろしい言葉を口にした。
「リフレイア、社交、許されるようになって、私、貴族の屋敷、同行すること、増えました。そのたび、毒草、持っていないか、警戒されます。私、毒草の扱い、知らないのですが、釈明、いつも大変です」
確かに、表情がいくぶん豊かであることを除けば、どこからどう見ても東の民にしか見えないサンジュラであるので、そのように警戒されてしまうのだろう。しかし、彼はれっきとした西の民であり、得意とするのは剣術であるのだ。
「そうなると、やっぱりアリシュナが城下町の外で過ごすというのは、多少なりとも危険がつきまとってしまうのですね。宿場町やダレイムの人たちなんかは、晩餐だけともにして、眠るときは自分の家に戻る、という形で森辺に招いたこともあるのですが……城下町だと、夜は城門が閉ざされてしまいますもんね」
それなら、森辺の集落で一夜を明かすという手段もなくはないのだが、けっきょく肝になるのは、ジェノス侯爵家にそれが許されるかどうかだ。
「……アスタ、頭、悩ませてしまい、申し訳ありません。どうか、お気になさらないでください」
と、アリシュナがふいに目を伏せて、そう言った。
「私、身体、弱いので、どこに行っても、ご迷惑、かけると思います。森辺の集落、招かれたい、考えること、不遜であったのでしょう」
「いえ、決してそのようなことは……」
「思い、募ったら、また考えます。そのとき、話、聞いてくだされば、十分です。今、機会、待ちたい、思います」
そう言って、アリシュナは気を取りなおしたように、面を上げた。
「ギバ料理、いただきます。こちら、何でしょうか?」
「これは、ジャガルのケルの根というものを使った焼き物料理です。アリシュナは、まだ口にされていませんでしたっけ?」
「似た料理、食べたこと、あります。でも、香り、違うように思います。ひとつ、お願いいたします。……あと、『ギバ・カレー』、お願いします」
「はい。今日の分はもうダレイム伯爵家の方にお渡ししているのですが、それでかまいませんか?」
「はい。そちら、晩餐です。昼、夜、『ギバ・カレー』、食べられる、幸福です」
アリシュナとサンジュラの注文を受けて、俺たちは料理を作りあげた。サンジュラのほうは折箱を準備していたので、それに料理を詰め込んでいく。
「あ、菓子の屋台も出ているのですが、そちらはいかがでしょう?」
「はい。トゥール=ディン、菓子ですね? そちら、楽しみ、していました」
お茶会で話を聞いていたアリシュナに説明されて、サンジュラも『ギギまん』を購入することになった。どっさりと準備されていた折箱も、すぐにいっぱいになってしまったようだ。
「すごい量ですね。ふたり分ではないのですか?」
「はい。3名分です。リフレイア、私、シフォン=チェルです」
「ああ、シフォン=チェルの……彼女ともなかなかゆっくり言葉を交わす機会がないので、残念に思っています」
「そうですか。アスタ、リフレイアの屋敷、招待できると、いいのですが……無用の銅貨、つかうこと、禁じられているのです」
そう言って、サンジュラはまた微笑んだ。
貴族が森辺のかまど番を呼びつける場合、いつも褒賞の銅貨というものが支払われているのだ。財政を立て直している最中であるトゥラン伯爵家に、そういった贅沢はなかなか許されない、ということなのだろう。
「でも、いずれ、アスタ、招きたい、言っていました。その日、来ること、私、願っています」
「はい。俺もそのように願っています」
そんな会話を最後に、サンジュラは身をひるがえそうとした。
その途中で、たくさんのギバ料理を抱えたアリシュナを振り返る。
「あなた、食べていくのですね。帰り道、大丈夫ですか?」
「はい。心配、無用です。身を守るすべ、ありませんが、東の民、襲う無法者、滅多にいません」
サンジュラはうなずき、「それでは」と最後に笑みを振りまいてから、立ち去っていった。アリシュナも途中までは一緒に歩き、それから青空食堂に腰を落ち着ける。
「ふう……ひ、東の民があんなにたくさん喋る姿は、初めて拝見いたしました」
ずっと沈黙を守っていたマルフィラ=ナハムが、最後の具材を鉄板で焼きあげながら、そのように述べたてた。
「うん。だけど、東の民にもおしゃべり好きの人は多いみたいだよ。シュミラルなんかも、そう言ってたしね。……あ、ちなみにサンジュラは西の民だからね」
「は、はい。トゥラン伯爵家の、当主の護衛役の方なのですよね? お、お話はうかがっています。……そ、その、かつてアスタに不埒な真似をした、というお話も」
「そうだね。でも、こうしてトゥラン伯爵家の人たちとも和解できて、何よりだったよ」
宿場町を行き交っている人々だって、まさかさきほどの人物が、かつて俺の身をかどかわかした張本人だなどとは想像だにできないことだろう。
(俺がサンジュラにさらわれたのは……たしか、白の月になって、5日目ぐらいだったかな)
あの頃から、外見上は穏やかで優しげなサンジュラであった。
だけどもう、その笑顔の裏側を探る必要もない。そのことを、俺は心から喜ばしく思った。
それからしばらくして、ようやく屋台の料理を売り切った俺たちは、森辺に帰還することになった。
本日の勉強会はファの家で、内容は明日の祝宴のための最終チェックだ。祝宴に参加するメンバーだけが招集されて、段取りが整えられていく。
そんな中で、マルフィラ=ナハムは力いっぱい目を泳がせていた。
「ほ、ほ、本当にわたしなどが参加してしまって、大丈夫なのでしょうか? わ、わたしなんて、何のお役にも立てませんのに……」
「屋台の商売に参加している人たちは全員参加って決められたからね。リリ=ラヴィッツともども、祝宴を楽しんでおくれよ」
俺がそのように答えても、マルフィラ=ナハムは普段以上に動揺しまくっている。宴料理を口にできる喜びと、それを調理しなければならないプレッシャーで、ぞんぶんに気持ちをかき乱されている様子である。
「アスタたちが宿場町から戻るまでに、あたしらが下ごしらえを済ませておくからね。あんたはアスタの言いつけ通りに、自分の仕事を頑張りな」
フォウの年配の女衆が、気さくに笑いながら、マルフィラ=ナハムを励ましていた。誰よりも謙虚でありながら、確かな力量を感じさせるマルフィラ=ナハムは、すでになかなかの人望を獲得できているのだ。
「わたしたちも、初めてアスタたちと祝宴をともにできるので、とても嬉しく思っています。明日が待ち遠しくて、たまりません」
そのように述べていたのは、ガズの女衆であった。
それこそが、今回の祝宴のもうひとつの眼目であったのだ。これだけさまざまな氏族の人間が参加する祝宴というのは、森辺でも初めての試みであるはずだった。
「建築屋の方々に喜んでもらえるように、明日は頑張りましょう。みなさん、どうぞよろしくお願いします」
そんな俺の挨拶を締めくくりとして、女衆は各自の家に帰っていった。
後に残されたのは、俺とティアのみである。邪魔にならないように壁際に引っ込んでいたティアは、慎重な足取りで俺のほうに近づいてきた。
「祝宴の前は、いつも大変な騒ぎだな。でも、アスタが楽しそうにしているので、ティアも嬉しく思う」
「うん。ティアは参加できなくなて、残念だったね」
調停役の補佐官であるポルアースにおうかがいを立てたところ、たとえ相手が南の民でも、親睦を深める祝宴というものに赤き野人を参席させるのは不適切である、という解答をいただいていたのだ。おやっさんたちをフォウやルウに招いた晩餐では同席を許されていたのだが、それがギリギリのボーダーラインであったらしい。
「それが外界の法ならば、ティアは従う他ない。家の中で、アスタに災厄が近づかぬことを祈っている」
「うん。何もおかしなことは起きないから、ティアは安心して休んでてね」
「うむ」と、ティアは素直にうなずいていた。
そこに、アイ=ファの声が響きわたる。
「帰ったぞ。晩餐の準備は、これからか」
「あ、おかえり、アイ=ファ。森のほうは、どうだった?」
「うむ。今日は1頭のギバを捕らえることができたが、ずいぶんと老いているので、商売に使うことはできまいな」
そのように述べつつも、アイ=ファは何やら満足げな面持ちであった。
「しかし、ドゥルムアの働きっぷりは見事なものであった。どれだけ緑の深い場所でも、平地と同じように駆けることができる。まさしく、矢のごとき素早さだ」
「そっか。ドゥルムアとブレイブも、お疲れ様」
2頭の猟犬は、アイ=ファの足もとで静かに立ちはだかっている。さらにその後方にはジルベの姿もあったので、アイ=ファが途中で母屋に立ち寄ったのだろう。
「では、私はギバの始末にかかる。何か必要な部位はあるか?」
「あ、それじゃあ、タンを使わせてもらおうかな。内臓は……これから下処理だと時間がぎりぎりだから、次の機会にしておこうか」
「舌だな。了解した」
普段通りの、平穏な会話である。
しかし、その平穏さが、俺を満ち足りた気持ちにする。明日に控えている祝宴が楽しみなのは当然として、こういった何気ない日常も、俺にとってはかけがえのないものであるのだった。
(こういう日々を、幸せっていうんだろう。まだあの大地震から半月ぐらしか経ってないけど……俺たちは、幸せだよな)
きっと明日には、また異なる意味合いでそれを体感できるはずだ。
俺は平穏なる日常の幸せを噛みしめながら、誰よりも大事なアイ=ファのために晩餐をこしらえることにした。