青の月の二十八日①~城下町に~
2018.5/19 更新分 1/1
日は過ぎて、青の月の28日。
お茶会のために城下町に招かれた俺たちは、まずはトゥール=ディンと合流してから、ランの家に向かうことになった。
ランの家でも、新しい家を再建しているさなかである。倒壊した家屋は一軒のみであるものの、ランには6名の狩人しかいないので、ルウ家よりも進捗は遅れている様子だった。
「おお、もう出立の時間なのだな。俺たちも、そろそろ腹ごしらえを始めるか」
丸太を運んでいたランの家長が、笑顔で挨拶をしてくれた。それを手伝っていたのは、かつてのフォウ本家の次兄にして弓の名手たるマサ・フォウ=ランである。
「ジョウ=ラン、アイ=ファたちが迎えにきてくれたぞ。すぐに準備をするがいい」
「はい、準備はできています」
再建中の家の横手から、刀と狩人の衣を抱えたジョウ=ランが、あたふたと駆け出してきた。フォウの血族からは、またジョウ=ランが護衛役に任命されたのである。
「今日はよろしくお願いします、アイ=ファにアスタ。それに、トゥール=ディンも」
「うむ」とうなずき返しつつ、アイ=ファはランの家長を振り返った。
「では、ファの家の猟犬を預かってもらってかまわんだろうか? それに、ジルベも連れてきてしまったのだが」
「ジルベというのは、あの番犬というやつか。2頭でも3頭でも変わりはない。アイ=ファが城下町から戻るまで、しかと預かろう」
アイ=ファがヒュッと口笛を吹くと、3頭の犬が荷台から降り立った。
ブレイブとジルベ、そして4日前からファの家の家人となった、ドゥルムアである。
ドゥルムアというのは、古い言葉で『疾き矢』という意味であるらしい。
そして、シュミラルに確認したところ、それはきわめてシムの言葉に近いのだそうだ。
そもそも森辺においてはジドゥラやミム・チャーなど、東の言葉を名づけに使う例が見受けられていた。森辺に伝わる古い言葉がシム語に類するものだということは、半分がた公然の事実であったのだろう。それも森辺の民のルーツを考えれば、当然の話なのかもしれなかった。
「俺たちも女衆も、犬の扱いには慣れてきたからな。何も心配せず、仕事を果たしてきてくれ」
ランの家長は、ブレイブらに笑いかけながら、そのように述べていた。
ランの家でも、無事に猟犬を授かることができたのである。37の氏族の内、猟犬が割り振られなかったのは、スドラとリリンと、そしてサウティの眷族であるタムルの3氏族であった。
その3氏族には、次に猟犬が届けられた際に、優先的に割り振られる手はずになっている。そして、ジャガルの猟犬屋には、今回の倍の数でも引き取る準備があるということが、すでにシュミラルの口から告げられているのだという話であった。
どうやらジェノスを訪れているのは問屋の人間であり、その人物がジャガル各地の猟犬場から猟犬を集めているのだそうだ。ジェノス侯爵家の立ち会いのもとに売買の証文を交わしたのち、その人物は小躍りをして喜んでいたとのことであった。
「では、行くぞ」
アイ=ファの号令のもとに、ギルルの荷車がランの家を出立する。
お次に目指すは、ルウの集落である。そこに辿り着いてみると、男衆はすでに再建の仕事に区切りをつけて、昼の食事をとっているさなかであった。
「よー、アイ=ファにアスタじゃん。これから城下町か?」
木皿の汁物料理をすすっていたルド=ルウが、笑顔で呼びかけてくる。広間の真ん中に敷物を敷いて、まるで祝宴のような騒ぎである。
「うん、そっちもお疲れさま。新しい家も、ずいぶん出来上がってきたみたいだね」
「ああ、地震いからもうすぐ半月になっちまうしな。あと何日かすれば、住めるようになるだろ」
そんな風に言いながら、ルド=ルウはかたわらのミダ=ルウの背中をばんばん叩いた。
「ま、今回はミダ=ルウが役に立ったよな。さすがはひとりで家を建てただけのことはあるぜ」
「うん……みんなリャダ=ルウのおかげなんだよ……?」
ミダ=ルウは嬉しそうに、頬の肉を震わせている。そういえば、ミダはかつて体力作りのために、たったひとりで自分の家を造りあげたのである。
その際に手ほどきをしたのはリャダ=ルウで、現在その家にはダルム=ルウとシーラ=ルウと4名の客人たちが暮らしている。客人たちの新しい家が完成すれば、また新婚生活を水入らずで満喫できることだろう。
「あーっ! アイ=ファたち、来てくれたんだね! リミはいつでも出られるよ!」
と、配膳の仕事を手伝っていたリミ=ルウが、笑顔でてけてけと駆けてきた。そちらに「うむ」とうなずきかけてから、アイ=ファは敷物の中央に陣取っていたドンダ=ルウに呼びかける。
「それでは、リミ=ルウをお預かりする。ティアはこの場で預けてもかまわぬだろうか?」
「ああ。無事に仕事を果たせることを願っている」
ドンダ=ルウは、威厳たっぷりの声音で重々しくそう述べていた。
リミ=ルウはそちらを振り返り、「いってくるねー!」とぶんぶん手を振っている。
「それじゃあね。普段よりは早く帰れるはずだから、ティアも大人しくしてるんだよ?」
「うむ。アスタに災厄が近づかぬことを祈っている」
真面目くさった顔で言ってから、ティアは敷物の上にぺたりと座り込んだ。
ルド=ルウたちにも別れを告げて、いざ出発である。
「あの……仕事を終えた後、宿場町に立ち寄ることは許されるのでしょうか?」
荷車が道に出て、軽快に走り始めるなり、ジョウ=ランがそのように言い出した。
御者台で手綱を握っていたアイ=ファは、「ならん」とそっけなく言い捨てる。
「休息の期間は、すでに終わったのだ。お前とて、森辺ではギバ狩りの仕事が待っているのであろうが?」
「ええ、はい、それはそうなのですが……城下町の仕事が早く終わるようなら、少しは時間も余るかと……」
「私にそれを許す裁量はないし、私はすぐに森辺に戻りたいと願っている。そのような考えがあったのなら、あらかじめランの家長に伝えておくべきであったな」
「……わかりました。アイ=ファの言葉に従います」
そうしてジョウ=ランは、深々と溜息をつくことになった。
その姿を眺めながら、リミ=ルウはきょとんと小首を傾げた。
「ねえねえ、あなたはランの家のジョウ=ランだよね? もしかしたら、ユーミと会いたかったの?」
「あ、はい。地震いの後はけっきょく顔をあわせていなかったので、せめて無事でいる姿をひと目だけでも見ておきたかったのですが……」
「そっかー、残念だったね! でも、ユーミは元気だから、心配する必要はないと思うよ!」
そのように言ってから、リミ=ルウはにこりと微笑んだ。
「あと、ユーミもすごくジョウ=ランに会いたいみたいだったよ! 早く祝宴が開けるようになるといいね!」
ユーミの一件もいちおうは家長会議において議題に出されていたので、現在ではすべての森辺の民の共通認識に至っていた。
それに、リミ=ルウはしょっちゅう宿場町に下りているので、ユーミとも仲良しの関係である。人の心の機微に敏感なリミ=ルウであれば、ユーミの心情もお見通しであるはずだった。
そんなこんなで、荷車は宿場町に到着する。
現在は、上りの五の刻の半ていどである。普段であれば、あと半刻で屋台の商売が始められる頃合いだ。俺が御者台の脇からひょっこり顔を覗かせると、前方から歩いてきた南の民が「おお?」と目を丸くした。
「どうしたんだ? 今日は屋台を開かないという話だったはずだぞ?」
「あ、はい。今日はちょっと、別の用事がありまして……」
「何だ、そうなのか。喜んで損をした」
南の民はがっくりと肩を落として、通りすぎていった。
ギルルの手綱を引いて歩いていたアイ=ファは、横目で俺を見やってくる。
「アスタよ、お前はむやみに顔を見せぬほうがいいのではないか?」
「うーん。そうなのかな。ドーラの親父さんに挨拶をしておきたかったんだけど」
「あー、リミもターラにごあいさつしたい!」
「露店区域はまだ先だ。ドーラらを見かけたら声をかけるので、それまでは大人しくしておけ」
俺とリミ=ルウは、素直に顔をひっこめることにした。
すると、ジョウ=ランが悄然とした眼差しを向けてくる。
「アスタたちは、通りすがりに挨拶をすることができるのですね。とても羨ましく思います」
「あ、うん。《西風亭》が主街道沿いにあればよかったのにね」
しかし《西風亭》があるのは裏通りであるし、そもそもユーミが在宅であるかもわからない。そうだからこそ、アイ=ファも《西風亭》に立ち寄ることを許さなかったのだろう。
(だったら、ユーミと待ち合わせでもしておけばよかったな。こいつは申し訳ないことをした)
たしかジョウ=ランが護衛役に選ばれたことは、ユン=スドラがユーミに告げていたはずだ。俺はマルフィラ=ナハムの研修をしていたので、その会話には加われなかったのである。
(こんな機会でもなければ、ふたりは顔をあわせることもできないんだもんな。これじゃあ、絆を深めるのだって、ひと苦労だ)
俺がそのように考えたとき、荷車の外から「うむ?」というアイ=ファの声が聞こえてきた。
「このような場所で、いったい何をやっているのだ?」
「あ、いや……ちょっと挨拶をさせてもらおうと思ってさ」
その瞬間、ジョウ=ランが狩人としての身体能力を発揮して、御者台のほうに駆けつけた。
「ユーミ! まさか、会えるとは思っていませんでした!」
もちろん俺も、その声の主がユーミであることは察していた。ジョウ=ランに続いて顔を覗かせると、アイ=ファと並んで歩いているユーミの姿が見える。
「元気そうで何よりです、ユーミ! 家も家族も無事だとは聞いていますが、本当に大丈夫でしたか?」
「ああ、うん、まあね。……そっちも大丈夫だったんでしょ?」
「はい! 家がひとつ潰れてしまいましたが、俺も家人もみんな無事です!」
隣を歩いているユーミと御者台の脇から身を乗り出しているジョウ=ランの姿を見比べてから、アイ=ファは荷車を停止させた。
「まったく、せわしない連中だな。何か話でもあるのなら、お前も荷車に乗るがいい」
「ええ? だってあたしは、城下町なんかに入れないもん」
「城下町まで連れていくことはできん。だが、宿場町を抜けるまでに、まだいくばくかの時間はかかろう」
アイ=ファがそのように言いたてると、ユーミは意を決した様子で荷台に乗り込んできた。
アイ=ファが前進を再開させると、また荷車は揺れ始める。壁に手をついて身体を支えながら、ユーミは俺たちの姿を見回してきた。
「えーと、ごめんね。ちょっと挨拶に来ただけなんだけどさ。……町を抜けるまで、お邪魔しちゃってもいいかなあ?」
「もちろんだよ」と、俺は笑顔を返してみせた。
ジョウ=ランとリミ=ルウも満面に笑みをたたえており、トゥール=ディンはおずおずと微笑んでいる。そんな俺たちの笑顔に囲まれながら、ユーミはわずかに頬を赤くしていた。
「きょ、今日は城下町で、お茶会ってやつに招かれてるんだってね。せっかくの休みの日に、大変だね」
「ううん! 城下町はたまにしか行けないから、リミは楽しみにしてたよ!」
そのように述べてから、リミ=ルウはジョウ=ランのほうを振り返った。
「でも、宿場町にはしょっちゅう来てるからさ。ユーミは、ジョウ=ランとお話ししたほうがいいんじゃない?」
「はい。そうしてもらえたら、俺はとても嬉しいです」
ジョウ=ランは、無邪気な様子でにこにこと微笑んでいる。いっぽうユーミは、ますます顔を赤くすることになった。
「な、何をそんな、馬鹿みたいに笑ってるのさ? あたしは、挨拶に来ただけなんだからね!」
「馬鹿みたいですか? 俺はただ、ユーミと会えたことが嬉しいだけなのですが」
虚言は罪である上に、ジョウ=ランはマイペースかつ正直な気性である。ユーミは羞恥のきわみといった様子で、がしがしと頭をかいていた。
(ユーミは俺たちが城下町に向かう刻限まで聞きだして、わざわざ待ちかまえていたんだろう。だったら、ぞんぶんにおしゃべりさせてあげないとな)
そろそろ露店区域に差しかかる頃なので、残された時間は数分ていどである。俺はユーミの赤い顔を眺めながら、腰を上げることにした。
「さて、そろそろドーラの親父さんの店のはずだ。俺はちょっと挨拶してくるよ」
「リミもー! ね、トゥール=ディンも一緒に行こう?」
「あ、はい。わかりました」
「ちょ、ちょっと! みんな荷車から降りちゃうの!?」
「うん、ユーミはごゆっくりね」
俺たちは後部の幌を開いて、そちらから地面に降り立った。急ぎ足で前側に回り込むと、アイ=ファがじろりとにらみつけてくる。
「何だ、ドーラの店はまだ見えておらんぞ」
「うん。でもまあ、俺たちの目があると、ユーミも色々と気をつかっちゃうだろうからさ」
そうして歩を進めていくと、やがて親父さんの露店が見えてくる。親父さんとターラに挨拶をしたのちも、もちろん俺たちが荷台に戻ることはなかった。
ずいぶん日は高くなっているので、露店区域もなかなかの賑わいだ。ときたま見知った人々が声をかけてくれるので、そちらに挨拶を返していると、すぐに宿場町の端まで到達してしまった。
立ち入り禁止の縄が張り巡らされた青空食堂のかたわらで、アイ=ファが荷車を停止させる。すると、数秒後にユーミが荷台から飛び降りてきた。
「もう! なんで誰も戻ってこないのさ! おかしな気をつかわないでよね!」
「いいじゃないか。俺たちとは、いつでも喋れるんだからさ」
街道に降り立ったユーミは、やっぱり赤いお顔のままだった。
長い褐色の髪をかきあげながら、俺のことを恨めしげににらみつけてくる。
「それじゃあ、あたしは帰るからね! せいぜいヘマをしないように頑張りな!」
そのように言い捨てるなり、ユーミはもと来た道を駆けていった。
アイ=ファに視線でうながされて、俺たちは荷台へと帰還する。
「戻ったよ。ユーミとは楽しくおしゃべりできたかな?」
「はい! でも、まったく語り尽くせませんでした。明日はまた肉の市ですので、そのときにも言葉を交わしたいと思います」
「ふうん? だけど、マドゥアルの広場から《西風亭》までは、けっこう距離があるよね」
「はい。ですから、ユーミが広場まで来てくれると約束してくれました」
ジョウ=ランのほうはまったく照れる様子もなく、にこにこと微笑んでいるばかりである。
その間に御者台へと乗り込んだアイ=ファが、ギルルを軽快に走らせる。その振動に身をゆだねながら、ジョウ=ランはさらに言葉を重ねた。
「正直に言って、俺はまだ自分の心情を見定めることができていません。でも、ユーミと言葉を交わすのはとても楽しくて、胸が躍ります。……そして今日は、自分がどれだけユーミと言葉を交わしたいと願っていたか、つくづく思い知らされることになりました」
「そ、そっか。話だけ聞いていると、すっかり心は決まっているように感じられてしまうね」
「はい。だけど家長らには、よほどの覚悟が固まるまでは浮ついた気持ちを起こさぬようにと厳命されていますので。……ユーミもきっと、同じ気持ちで正しい道を探そうとしてくれているはずです」
そんな風に述べてから、ジョウ=ランはにこりと目を細めた。
「母なる森と父なる西方神に正しき道を示してもらえるように、俺も心正しく生きていきたいと思います。その姿をアスタたちに見届けてもらえたら、俺はとても嬉しく思います」
「うん、もちろんさ。俺もふたりに正しい道が開けることを、心から願っているよ」
どれだけマイペースなジョウ=ランでも、決して軽はずみな気持ちでユーミと婚儀をあげたいなどとは言い出さないだろう。俺は、そのように信じることができた。
それからしばらくして、荷車はすみやかに停止させられた。
城下町の城門に到着したのだ。まだ約束の刻限にはゆとりが残されていたが、跳ね橋の手前にはジェノス侯爵家のトトス車がすでに待ちかまえていた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらの車にお移りください。そちらのトトスと車はお預かりいたします」
城下町を訪れるのは、シャスカを手にすることになった勉強会以来、およそひと月ぶりである。しかしこれだけ回数を重ねれば、俺たちのほうも手馴れたものであった。
正直に言って、もう護衛役など必要ないのではないかという思いもある。しかし、森辺の民は城下町の情勢を知り尽くしているわけではないし、また、いまだに自分の足で町を歩いたことすらない。どこにどのような脅威が潜んでいるかもわからないのだから、今後も護衛役をつけるべきである、というのが、三族長の総意であった。
(まあ確かに、森辺の民を敵視する貴族が存在しないとも限らないし……今後は王都の監査官が常駐するかもしれないんだからな。やっぱり、用心は必要か)
旅程が順調であれば、メルフリードもそろそろ王都に到着しているはずだ。そこでどのような話し合いが為されて、どのような決断が下されるのか。現時点では、まだまだ予断を許せない状況であるのだった。
「到着いたしました。こちらにどうぞ」
そんなことを考えている間に、トトス車の扉が開かれた。
案内されたのは、これまでと同じく白い石造りの小宮、その名も《白鳥宮》である。初めての来訪となるジョウ=ランは、物珍しそうに周囲の様子を見回していた。
先導役は武官から小姓へとバトンタッチされて、まずは浴堂に案内される。ひと月ぶりの蒸し風呂で身を清めたのち、お召しかえの部屋に導かれて、恒例の着替えタイムだ。
事前に話を聞かされていたジョウ=ランは、楽しげにも見える面持ちで着替えに取り組んでいた。
「なるほど、これは面妖な装束ですね」
護衛役の狩人が纏わされるのは、白い武官のお仕着せである。
なかなかの二枚目で、すらりとした体躯をしているジョウ=ランには、その装束もばっちり似合っていた。森辺の狩人としては迫力を表に出さないタイプであるので、とても優雅に見えてしまう。
「よく似合ってるよ。ちょっとユーミにも見せたかったぐらいだね」
「ユーミに? 何故ですか?」
「何故って言われると困るけど……普段とは違う魅力を感じられるかと思ってさ」
「そうですか」と応じながら、ジョウ=ランは小首を傾げていた。
まあ、男衆は普段着飾ることがないので、あまりピンと来ないのだろう。森辺の男衆にとっては、狩人の衣こそが唯一の誇るべき装束であるのだ。
そうして回廊に出て待っていると、やがて女衆も姿を現す。
アイ=ファはジョウ=ランと同じく武官の白装束で、トゥール=ディンとリミ=ルウはエプロンドレスのごとき、侍女のお仕着せだ。
それらの姿を目にすると、ジョウ=ランは「おお」と目を丸くした。
「なるほど……アスタの言葉が少し理解できたように思います。アイ=ファからは、普段と異なる凛々しさが感じられてしまいますね」
「うん、そうだろう? ジョウ=ランも、それに負けないぐらい、凛々しいと思うよ」
「そうでしょうか? なかなかアイ=ファの凛々しさにはかなわないように思うのですが……」
アイ=ファは険悪な面持ちで、「やかましい」と言い捨てた。
その背後から楚々とした足取りで進み出てきたのは、シェイラである。また今回も、アイ=ファの着付けは彼女が手伝ってくれたらしい。
「少々お時間にゆとりがありますため、控えの間にご案内いたします。こちらにどうぞ」
シェイラの案内で、俺たちはぞろぞろと回廊を歩き始めた。
小宮といえども、かなりの広さを有した建物であるし、造りもけっこう入り組んでいる。ごく何気なく歩を進めながら、アイ=ファは用心深く視線を巡らせているようだった。
「……この建物も、地震いの影響などは受けておらぬようだな」
「はい。城下町では、大きな被害が出ることもありませんでした。……唯一の被害は、罪人を収容していた刑務の堂が崩れたことぐらいでしょうか」
歩きながら、シェイラはふっと息をつく。
「リフレイア姫には、お気の毒なことでした。でも、本日はアスタ様や森辺の皆様がたにお会いできることを、とても楽しみにされているようだとお聞きしています」
「はい、俺も楽しみにしています」
シェイラが立ち止まり、かたわらの扉を指し示した。
「こちらが控えの間となります。貴婦人がたがすべてお集まりになられたら、お声をかけさせていただきますので――」
そのとき、ガシャンッという、けたたましい音色がどこからか響きわたった。
アイ=ファとジョウ=ランは剣の柄に指先をかけて、3名のかまど番をはさみ込む。シェイラはきょとんとした面持ちで、周囲を見回していた。
「どこかで花瓶か何かが割れてしまったようですね。《白鳥宮》は厳重に警護されておりますので、何もご心配は――」
その語尾に、「ふざけんな!」という怒声がかぶさった。
シェイラはぎょっとした様子で、俺たちの背後を振り返る。そこにも扉が設置されており、その声はそちらから聞こえていたのだ。
「あの、いまのはもしかしたら、ディアルの声ではないですか?」
「ディアル様……? ああ、ジャガルの鉄具屋のご令嬢ですね。はい、確かにディアル様は、本日の茶会に招かれていたはずですが……」
と、シェイラは不安げな面持ちで、その扉の前に進み出た。
「でも……こちらのお部屋で休まれているのは、占星師のアリシュナ様であるはずです」
アリシュナもディアルと同様に、茶会に招かれていたのである。
扉からは、少しくぐもった感じでディアルの声が聞こえてきている。さきほどよりはトーンダウンしていたが、しかしやっぱり怒声であることに変わりはないようだった。
「ちょ、ちょっと様子を見てみませんか? 俺はどちらの方とも懇意にさせてもらっているので、心配です」
「おふたりは、南と東のお生まれですものね……少々お待ちください」
シェイラはきりっと面を引きしめつつ、問題の扉をノックした。
「失礼いたします。何か問題でもありましたでしょうか、アリシュナ様?」
返事はなく、ディアルの怒声もやむことはなかった。
シェイラはいっそう差し迫った面持ちで、ついに扉に手をかける。
「失礼いたします」
シェイラが扉を引き開けると、たちまちディアルの声が勢いを増して、俺たちの耳に飛び込んできた。
「なんとか言いなよ! あんたは、リフレイアの父親を、見殺しにしたの!?」
部屋の奥に、ディアルとアリシュナの姿が見えた。
ディアルはこちらに背を向けて、アリシュナの胸ぐらをひっつかんでいる。そのかたわらではお供のラービスが石像のように立ち尽くしており、人々の足もとには砕け散った花瓶と水と色とりどりの花が無残に散乱していた。
「ディアル様! 何をなされているのですか?」
シェイラが仰天した様子で踏み込もうとすると、ディアルはこちらを振り返りもしないまま、「うるさいな!」と怒鳴り返した。
「関係ないやつは引っ込んでてよ! 僕は、こいつと話をしてるんだ!」
「……アリシュナ様は、エウリフィア様のお客人です。そして、西の領土で南と東の民が相争うことは大きな禁忌であることをお忘れでしょうか?」
普段はおっとりとしているシェイラが、毅然とした様子でそのように応じた。
「こちらの言葉に従っていただけない場合は、衛兵を呼ぶことになってしまいますが……それでもよろしいのでしょうか?」
「ま、待ってください、シェイラ。俺に話をさせてくれませんか? そうすれば、騒ぎを収めることができるかもしれません」
俺はとっさに、そのように述べてしまっていた。
実際に、騒ぎを収める自信があったわけではない。しかしこれは、なるべく余人の耳に触れさせてはいけない話であると判断したのである。
「俺とアイ=ファで、話を聞いてみます。それでどうしようもなかったら助力を願いますので、それまで外で待っていてくれませんか?」
シェイラはずいぶん悩ましげな面持ちをしていたが、やがて「承知いたしました」と言ってくれた。
「何かありましたら、すぐにお声をかけてください。わたしは扉の前に控えさせていただきます」
「はい、ありがとうございます」
俺が室内に踏み込むと、アイ=ファもジョウ=ランに目配せをしてから追従して、扉を閉めた。
そうして俺たちが近づいていくと、ラービスがゆらりと立ちはだかる。
「何用だ。ディアル様への無礼は許さん」
「無礼もへったくれもありませんよ。ディアルがジェノスを追い出されることになってもいいんですか?」
すると、ディアルも俺たちを振り返ってきた。
青いドレス姿で、短い髪にも綺麗な飾り物をつけているのに、そのエメラルドグリーンの瞳は爛々と燃えている。
「何だよ! アスタは関係ないでしょ! ひっこんでてよ!」
「関係なくはないよ。君たちはふたりとも大事な友人だし、それに俺は、れっきとしたジェノスの民だからね」
ラービスのがっしりとした身体の横合いから、俺はそんな風に答えてみせた。
「ディアル、君はアリシュナの占星術にまつわる話で、そんな風に騒いでるんじゃないのか? だったらそれは、ジェノス侯爵マルスタインにとっても見過ごせない話であるはずだよ」
俺はそのように判断したからこそ、アイ=ファだけをともなってきたのだった。
アリシュナから聞かされた「たとえ話」について、俺はアイ=ファとドンダ=ルウにしか告げていない。森辺でも宿場町でも、それ以上は広めるべきではないと、考えたのだ。
もちろんその話は三族長と、バードゥ=フォウおよびベイムの家長にも周知されることになったものの、真偽をぼやかしていたアリシュナの言葉に重きを置くことはできず、また、風評が広がることは危険であると判断されて、それ以外の同胞には伝えられなかったのだった。
「とにかく冷静になって、事情を話しておくれよ。そうすれば、衛兵を呼ばれたりはしないはずだ」
「冷静になんかなれるもんか! こいつは――こいつは、リフレイアの父親を見殺しにしたんだ!」
そう言って、ディアルはアリシュナに向きなおった。
「あんたは、あの地震いを予見してたんでしょ? だったら、リフレイアの父親が危険だってことも予見してたんじゃないの? それで何の手も打たなかったっていうんなら、あんたがあの人を殺したも同然だ! あの人は確かに大罪人だったけど、でも……リフレイアにとっては、たったひとりの父親だったんだぞ!」
「待ってくれ、ディアル。どんな予見をしていたとしても、アリシュナにジェノスの人たちを動かすことなんてできないんだろうから――」
そこでアリシュナが、「いいのです」と低くつぶやいた。
アリシュナは背が高いので、ディアルの頭ごしにその顔がうかがえる。アリシュナはいつも通りの感情が欠落した面持ちで、静かにディアルのことを見返しているようだった。
「私、事情、お話しいたします。聞いていただけますか、ディアル?」
「何だよ! どんな風に言い逃れるつもりさ!」
「はい。私、占星師ですが、人の死、予見しません。それは、大きな危険、知っているからです」
アリシュナの声は、とても静かであった。
その黒い瞳も、夜の湖みたいに静まりかえっているように感ぜられる。
「また、それは、祖父、遺言でもあります。私の祖父、藩主の死、予見したため、シム、追放されたのです。逃れようのない運命、読み取ること、悲劇しか生みません。だから、私、人の死、予見しないのです」
「でも――!」
「むろん、はからずも、人の死、予見してしまうこと、あります。大きな星、消えるとき、星図、大きく変わるので、どうしても、知れてしまうのです。ですが……サイクレウス、衰退の運命、ありました。サイクレウス、星の光、とても弱かったです。だから、私、ジェノスの災厄、予見していたとしても、サイクレウスの死、知ること、ありません」
ディアルはほっそりとした肩を震わせながら、押し黙っていた。
アリシュナは、その姿をじっと見返している。
「また、滅落の運命、回避すること、とても難しいです。シム、藩主すら、その運命、回避すること、かないませんでした。たとえ、サイクレウスの死、予見して、逃れよう、思っても、難しかった、思います。だからこそ、人の死、予見するべき、ないのです」
「……それはきっと、大地震を予見することができても、それを止める手立てはないっていうのと、同じような話なんじゃないのかな」
ディアルが口を開こうとしないので、俺が口をはさませていただいた。
「俺は占星術に関して素人だから、何も偉そうなことは言えないけど……占星術で人の死を回避できるものなら、どの王国でもそれはもっと重要視されているはずさ。少なくとも、アリシュナのお祖父さんが故郷を追放されるようなことにはならなかったんじゃないかと思えるよ」
しばらくの沈黙の後、ディアルが振り絞るような声で言った。
「難しい話は、よくわからないよ。……それじゃああんたは、サイクレウスの死を予見したりはしてなかったの……?」
「はい。父なる東方神、誓います。私、サイクレウスの死、予見、していません」
ディアルの手が、アリシュナの胸もとから離れた。
青いドレスに包まれた肩が、がっくりと落とされている。
「だったら、最初からそう言ってよ……僕が馬鹿みたいじゃん……」
「申し訳ありません。あなた、迫力、驚かされていため、頭、回らなかったのです」
「どこがだよ。ずーっと取りすました顔してたくせに」
そうしてディアルは、アリシュナのほうに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。あんたがあの地震いを予見してたって噂を聞いて……それで、頭に血がのぼっちゃったんだ。あんたがリフレイアの父親を見殺しにしたんじゃないかって思っちゃったから……」
「いいのです。あなた、リフレイア、友であるのですから、そう思う、当然です」
まったくの無表情のまま、アリシュナは小さくうなずいた。
「そして、誤解、解けたこと、とても嬉しい、思っています。私、あなた、親愛の情、抱いています」
「や、やめてってば。南と東は、敵対国でしょ?」
「はい。ですが、西の地、あれば、手を携えること、可能です」
ディアルは鼻の頭をかきながら、足もとに散乱した花瓶の破片を眺め回した。
「これ、片付けてもらわないとね。ラービス、外の人を呼んできてもらえる?」
「あ、ちょっと待って! その前に、ディアルはどこで占星の話を聞いたんだい? いちおうそれは、内密の話だったと思うんだけど……」
俺がそのように述べたてると、ディアルは「うん」とうなずいた。
「知ってるよ。セルヴァの王はいにしえの術が大ッ嫌いだから、占星の結果とかを重んずるのを許さないって話でしょ? でも、おおっぴらにできないってだけで、あちこち噂になってるんじゃないのかな。僕にそいつを教えてくれたのは、商売相手の城下町の民だしね」
「そうなのか。いずれまた王都の人間がやってくるっていうのに、大丈夫なのかなあ」
「大丈夫です」と答えたのは、アリシュナであった。
「秘密、守り抜く、難しいですが、ジェノス侯爵、大丈夫、言っていました。そうでなければ、私、たとえ話すら、許されなかったでしょう」
「そうそう、こいつ、ずーっとたとえ話だって言い張っててさ、それで余計に頭にきちゃったんだよね。……まあ今回のことは、僕が悪かったけど」
そう言って、ディアルは上目づかいにアリシュナのことを見た。
「……あんた、このことをジェノス侯爵に言いつけたりしないの?」
「しません。あなた、親愛の情、抱いていますので」
あくまで感情のこもらない声で、アリシュナはそう述べたてた。
「ただし、この話、なるべく口外法度、願います。ジェノス侯爵、そのように願っています」
「うん、わかったよ」
ディアルが悄然とうなずいたとき、扉が外から叩かれた。
「あの、アスタ様……貴婦人がたが到着されたようなのですが、如何いたしましょうか……?」
それは、シェイラの声であった。
どうやら、俺たちが控えの間に足を踏み入れる時間はなくなってしまったようだ。
「それじゃあ、行こうか。気持ちを切り替えて、ディアルもお茶会を楽しんでおくれよ」