青の月の二十四日②~六番目の家人~
2018.5/18 更新分 1/1
俺たちがルウの集落に帰還すると、そこでは数ヶ月前と同じ光景が繰り広げられていた。
すなわち、新入りの猟犬たちにシュミラルが調教をほどこしているさまである。ルウの集落の人々も、その多くは仕事の手を休めてシュミラルと猟犬の姿を見守っているようだった。
「やあ、お疲れさん。これだけの猟犬が集まると、なかなかの迫力だよねえ」
切り出した丸太の上に腰を下ろしていたバルシャが、汗をふきながら呼びかけてくる。今日も家を建てなおす仕事に励んでいたのだろう。そのかたわらには、リャダ=ルウや13歳未満の若衆の姿もあった。
「確かに、すごい数ですね。今回は、何頭の猟犬を買いつけることができたのですか?」
「今回はなんと、34頭だってよ。町での商売で稼いでなかったら、それだけの猟犬を買いつけることもできなかっただろうねえ」
それは、なかなかの頭数であった。
城下町から戻ってきたシュミラルは、自分の荷車だけではすべての猟犬を運ぶことができず、城下町のトトス車にも助力を願うことになったのだ。そうして2台の荷車が通りすぎていく姿は屋台の商売をしながら見届けていたので、俺も内心で期待はしていたのだが、これは期待以上の結果であった。
なおかつ、値段のほうを考えてみても、猟犬の価格は1頭で赤銅貨650枚なので、34頭ならば赤銅貨22100枚。家長会議の前に貯蓄した共有の資産だけでも、余裕でまかなえる価格であった。
「アスタ、無事に戻ったのだな!」
と、人垣にまぎれていたティアが、ミーア・レイ母さんをともなって、ひょこひょこと近づいてきた。今日はお昼寝中ではなかったようだ。
ミーア・レイ母さんは屋台のメンバーにねぎらいの言葉をかけてから、俺に笑いかけてきた。
「いやあ、大変な騒ぎだねえ。今回も、ファの家は1頭を引き取ることができるんだっけ?」
「ええ。この数だと、そうなりますね。家長会議で、そのように決まりました」
ただし今回は、ファの家が独自で買いつけるわけではない。これらはすべて共有の資産で買いつけられた上で、全氏族に配分される手はずになっていた。
むろん、森辺には37の氏族があるので、この頭数でも数は足りないことになる。それでもファの家は、9つの親筋の次に猟犬を手にする資格がある、と認めてもらうことがかなったのだった。
まずは親筋の9氏族とファの家に猟犬が配分されて、あとは眷族の氏族とスン家の中から、狩人の数が多い順に配分されるのだと聞いている。その方法だと、家人の少ないスドラやリリンの家はかなり後回しにされてしまうことになるが、両家の家長が文句を言いたてることはなかった。
「スドラの家は数日置きにスン家の狩場に足をのばしているので、そちらで猟犬を扱うことはできる。それに、親筋であるフォウ家に新たな猟犬を迎えることができれば、そちらで扱う機会も増えることだろう」
「リリンの家には、もともと2頭の猟犬がいたので、後回しでもかまわない。まずはすべての氏族が猟犬の力を知るべきだろう」
もちろんドンダ=ルウも、以前にルウ家から貸し与えた猟犬はそのまま使い続けることを許していた。ならば、それぞれの親筋の氏族にはもとから1頭ずつの猟犬が控えているので、今回配分されなかった眷族に猟犬を譲ることもできるだろう。
(34頭もいるなら、ラン家も1頭を配分されるかもしれない。そうしたら、フォウ家に配分される1頭は、スドラ家に回されるんじゃないのかな)
俺は、そのように期待をかけておくことにした。
そんな俺のかたわらで、ティアはあまり関心のなさそうな目を猟犬に向けている。
「あの犬という獣は、わざわざ余所の土地から連れてきているのだという話だったな。それほど役に立つ獣であるのか?」
「うん。大いに役に立っているという話だったよ。ティアたちだって、モルガの山ではヴァルブの狼を同胞として扱っているんだろう?」
「犬と狼は、異なる生き物だ。身体の作りは似ているようだが、それ以外はまったく似ていない」
「ふうん? 山を下りた狼は犬になるっていう伝承を聞いたことがあるんだけど、それは間違いだったのかな?」
ティアは俺のほうを振り返ると、にこりと屈託なく微笑んだ。
「いや、それは正しい言葉なのかもしれない。たぶん、赤き民もモルガを捨ててしまったら、外界の民へと変じてしまうのだ。狼と犬の違いは、赤き民と外界の民の違いと似ているのだと思う」
それはきっと、森辺の民ではなく町の人々を指しての発言なのだろう。マイムやミケルや建築屋の面々など、ティアはわずかながらに町の人々と接しているのだ。
「だから、赤き民にモルガを捨てることは許されない。大いなる神を捨てて、外界の民となることは、決して許されないのだ」
「そっか。怪我の治る日が待ち遠しいね」
ティアは元気に、「うむ」とうなずいた。
ティアが森辺を訪れて、まもなくひと月が経過しようとしている。アイ=ファによると、ティアの骨折は驚くべきスピードで快方に向かっており、添え木を外せる日も近いという話であった。
「アスタ、ヴィナ=ルウ、戻っていたのですか。仕事、お疲れさまです」
こちらの姿に気づいたシュミラルが、猟犬たちに「待て」を命じてから、近づいてきた。
「猟犬、34頭でした。アスタ、1頭、連れ帰りますか?」
「いえ、アイ=ファはまた自分の目で選びたいそうです。何を基準にして選んでいるのかは、俺にもわからないのですけれども」
「猟犬、狩人、相性、重要です。アイ=ファ、何か、感ずるもの、あるのでしょう」
シュミラルは、優しげに微笑んでいる。その黒い瞳が、ふっと俺の後方へと差し向けられた。
「あの女衆、こちら、見ています。何か、用事でしょうか?」
「ああ、あれは昨日からうちの屋台で働くことになった、ナハムの女衆です。これだけたくさんの猟犬を目の当たりにして、驚いているのでしょう」
マルフィラ=ナハムは荷台に控えたまま、御者台の陰からこちらをうかがっていた。絵に描いたような、覗き見のポージングである。
「あれは猟犬じゃなくて、あなたを見ているんじゃなぁい……? そういえば、あの娘はシムの民のように細くて背が高いのよねぇ……」
と、ヴィナ=ルウがすねたような声で言い、シュミラルを振り向かせた。
「あなたも、挨拶をしてくればぁ……? 案外、気が合うかもよぉ……?」
「いえ。必要、感じません。アスタ、私、挨拶、必要ですか?」
「え? いえ、べつだんシュミラルが挨拶をする必要はないように思いますが……」
「ならば、挨拶、けっこうです」
妙にきっぱりとした口調で言って、シュミラルはヴィナ=ルウの顔を見つめた。たちまち、ヴィナ=ルウは頬に血をのぼらせる。
「何よぉ……わたしが何か、悪いことを言ったぁ……?」
「いえ。私、他の女衆、関心、ありません。それを、忘れてほしくない、思っただけです」
そのように述べてから、シュミラルはふわりと微笑んだ。
「表情、動かす、忘れていました。ヴィナ=ルウ、不快な思い、させていたら、謝罪します」
「何よぉ、もう……」と、ヴィナ=ルウは色っぽく肢体をくねらせる。
どうやらこの勝負は、シュミラルに軍配が上がったようだった。
(ヴィナ=ルウまでマルフィラ=ナハムを意識することになったのか。なんだか、おかしな偶然だな)
とりあえず、ヴィナ=ルウの心に平穏をもたらすために、俺はマルフィラ=ナハムともども撤退することにした。
「それでは、俺は失礼しますね。今日中には、アイ=ファがやってくるはずですので」
「はい。待っています」
俺は他の人々にも別れを告げて、ギルルの荷車の御者台に乗り込んだ。
そうしてルウの集落を出立すると、とたんにマルフィラ=ナハムが語りかけてくる。
「あ、あ、あれがリリンの家のシュミラルなのですね。つ、ついつい見入ってしまいましたが、何か礼を失してしまいましたか?」
「いや、そんなことはないけれど……何かシュミラルに興味でもあったのかな?」
「い、い、いえ、森辺の家人となることを望む東の民というのは、どのような御方なのかと思って……ル、ルウ家の長姉のヴィナ=ルウとは、と、とても似合いであるように思いました」
シュミラルがヴィナ=ルウとの婚儀を願っているということは、いまや周知の事実であるのだ。森辺のすべての同胞に去就を見守られるというのはどのような心地なのだろう、と俺はいくぶんヴィナ=ルウに同情してしまった。
「俺も同じように考えているよ。でも、ヴィナ=ルウの前でそんな言葉を口にしたら悶死させてしまうから、気をつけてね」
「も、も、悶死ですか。そ、それは大変なことですね。う、うっかり口をすべらせないように気をつけたいと思います」
どこかで、くすりと笑う声が聞こえた。ユン=スドラあたりが、ついつい笑ってしまったのだろうか。マルフィラ=ナハムの生真面目さは、妙に人を愉快な心地にさせるのだ。
あとはたわいもない話に興じながら、ファの家を目指す。そうして到着してみると、大勢の女衆の他にアイ=ファとブレイブの姿も見えた。ついでにジルベも家を出て、アイ=ファの足もとにまとわりついている。
「やあ、アイ=ファ。今日はずいぶん早かったな」
「うむ。まだまだ狩り場の実りも育っていないのでな。いずれの罠にも、ギバは掛かっていなかった」
驚異の収穫量を誇るアイ=ファでも、この時期ばかりは苦戦を強いられていた。他の氏族と縁を絶っていた時代には、備蓄の干し肉をかじりながら、森の恵みが回復する日を待つことになっていたのだろう。
「でも、ちょうどよかったよ。実は今日、新しい猟犬が――」
「猟犬が届いたのか?」
アイ=ファはぎらりと目を光らせて、俺に詰め寄ってきた。その迫力に後ずさりつつ、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「ならば、ルウ家に向かわねばなるまい。さ、ギルルの手綱をよこせ」
「あ、ちょっと待ってくれよ。その前に、調理器具や食材を下ろさないと」
「ああ、そうか……私も手伝うので、早くしろ。今回はブレイブらも連れていきたいので、荷車も必要なのだ」
「うふ」と笑う声が聞こえたので振り返ると、荷台から下りたところであったマルフィラ=ナハムが、真っ青な顔で立ちつくしていた。
「も、も、も、申し訳ありません。け、け、決してアイ=ファをご不快にさせるつもりでは……」
「……だったら、何を笑ったのだ?」
仏頂面でアイ=ファが反問すると、マルフィラ=ナハムは死人のような顔色でぺこぺこと頭を下げ始めた。
「お、お、幼子のように急いているアイ=ファの姿が可愛らしくて、ついつい笑ってしまったのです。ど、ど、どうかお許しください」
「……お前はとても正直な人間であるのだな、ナハムの女衆よ」
アイ=ファはふるふると肩を震わせながら、それでも鋼の意思で平静な声を出していた。
「しかし、余所の家の狩人を可愛らしいなどと述べるのは、礼を失した行いであろう。謝罪するほどのことではないが、以後はつつしんでもらいたく思う」
「も、も、もちろんです。こ、こ、心よりお詫びを申しあげます」
「……だから、謝罪するほどのことではないと言っているだろうが」
ともあれ、俺たちは荷車をかまど小屋のほうに移動させて、積み荷を下ろすことになった。
アイ=ファはブレイブと、ついでにジルベも荷車に乗せて、ルウの集落へと出立する。そうしてアイ=ファの姿が見えなくなると、マルフィラ=ナハムは息も絶え絶えといった様子で小屋の壁に取りすがった。
「ああ、し、心臓が破けてしまうかと思いました。ア、アイ=ファというのは、とても寛大な御方であるのですね」
「そうなのかな。まあ、マルフィラ=ナハムの発言には、俺も驚かされたけどね」
俺が言うと、ユン=スドラも「そうですね」と笑いを含んだ声で追従した。
「わたしはもうアイ=ファと縁を結んでからけっこうな時間を重ねていますが、それでもなかなか面と向かって可愛らしいなどとは言えないと思います。顔をあわせて2日目では、なおさらですね」
「ほ、ほ、本当に悪気はなかったのです。で、でも、虚言は罪ですし……」
「ええ、あなたは本当に正直な人間なのですね、マルフィラ=ナハム。わたしはあなたのような人を好ましく思いますよ」
周囲の女衆も、みんな賛同するように明るい表情であった。ただひとり、トゥール=ディンだけはアイ=ファの心情を思いやっている様子で、ちょっと心配げな面持ちになっている。
(こういうときにアイ=ファのほうを思いやれるっていうのは、やっぱりトゥール=ディンならではだよなあ)
それはもしかして、トゥール=ディンも自分の発言で他者を不快にさせてはいないかと、常々考えながら過ごしているからなのかもしれない。
何にせよ、それはトゥール=ディンの美点であると思えてならなかった。
「さて、それじゃあ下ごしらえを始めようか。その後は、菓子作りの勉強会をしようと思うんだけど、どうだろう?」
俺が言うと、トゥール=ディンは「え?」と目を丸くした。
「か、菓子ですか? でも、2日前にも菓子を扱ったばかりですが……」
「あれは、屋台の献立を決めるための勉強会だったからね。今度は、お茶会の献立を決めなきゃいけないだろう?」
「だ、だけど、それはわたしだけの都合ですし……」
トゥール=ディンが不安そうに周囲を見回すと、ユン=スドラが「何を言っているのですか」と微笑んだ。
「トゥール=ディンの菓子の味見をできるなら、みんな大喜びです。それに、わたしたちだって菓子作りの腕をあげることがかないますからね。誰にも不満などありませんよ、トゥール=ディン」
屋台のメンバーも下ごしらえと勉強会のために集まったメンバーも、みんな笑顔でうなずいていた。その中で、ひとりむっつりとした面持ちであったフェイ=ベイムが、トゥール=ディンの前に進み出る。
「わたしも家長から、菓子作りに関してせっつかれています。ベイムとダゴラの女衆はムファやマァムの家に通って手ほどきを受けているのですが、いまだ菓子の作り方にまでは及んでいないようなのです」
「そ、そうですか……そういえば、ベイムの家長は収穫祭に招かれたときも、熱心に菓子を食べられていたようですね」
トゥール=ディンがおずおずと微笑むと、フェイ=ベイムは真面目くさった面持ちのまま、「はい」とうなずいた。
「ベイムでも、きっともうじきにギギの葉を買うことになるでしょう。トゥール=ディンには、どうか手ほどきをお願いしたく思います」
「わ、わかりました。アスタのお許しがいただけるのでしたら……」
「もちろんだよ。俺だって、もう少しは菓子作りの腕を上げておきたいところだからね」
そうして本日は、菓子作りの勉強会が行われることに決定された。
トゥール=ディンのかたわらで、リッドの女衆も誇らしげに微笑んでいる。菓子の屋台も順調であるようだし、ディンの家長やグラフ=ザザも同じ誇らしさを抱いてくれていれば幸いであった。
◇
その夜である。
晩餐を終えた俺たちは、玄関口に腰を下ろして、土間でくつろぐ家人たちの姿を見守っていた。
ギルルと、ブレイブと、ジルベと、そして本日から家人となった、新たな猟犬である。土間を広めに作ってもらったのも、こうして家人が増えることを見越しての行いであったのだった。
新たな猟犬は、ブレイブとジルベにはさまれた格好で、ゆったりと身体をのばしている。犬種はブレイブと同一であるが、ややすらりとした体格をしており、毛の色は黒と茶のぶちであった。
「最初はちょっと警戒してたみたいだけど、ジルベもすっかり打ち解けたみたいだな」
俺の言葉に、アイ=ファは「うむ」とうなずいた。表情は厳粛であるものの、その瞳には隠しきれない慈愛の光が灯されている。
「ジルベはブレイブよりも、やや気弱なところがあるからな。それに、警戒心が強くなければ、護衛犬というものの役は果たせなかったのかもしれん」
いっぽうブレイブは、最初からすみやかに新たな家人を受け入れていた。もともと猟犬場という場所で育ったブレイブは、同胞との共同生活に慣れているのかもしれない。
「それで、名前はどうするんだ? 今夜の内には名付けたいんだろう?」
「うむ。晩餐の間もずっと頭を悩ませていたのだが、なかなか思いつかんのだ」
ブレイブは俺が名付けることになったので、今回はアイ=ファが名付けることになっていたのである。
アイ=ファはいくぶん悩ましげな表情を浮かべると、俺のことを横目で見てきた。
「……仮に、お前が名付けるとしたら、何とする?」
「俺か? そうだなあ……毛皮の模様にちなんで、『ブチ』とかかなあ」
「…………」
「いや、だから、今回はアイ=ファに任せるってば。さっき、そういう話になっただろう?」
「しかし、思いつかんのだ」
アイ=ファは、ふっと息をつく。
「普通、子の名をつけるときは、先人にあやかったり、古い言葉を使ったりする。しかし、私は両親の他に血族の名を知らぬし、古い言葉も習ってはいないのだ」
「ギルルは、親父さんの名にあやかったんだもんな。それじゃあ、お袋さんの名前は?」
「母メイは、たおやかで心優しい女衆だった。猟犬の名に相応しいとは思えん」
「うーん、そうか。そういえば、ライエルファム=スドラは俺なんかの名前にあやかってくれたんだよな。それなら、大事な友の名にあやかるというのはどうだろう?」
そのように言ってはみたものの、アイ=ファの友として真っ先に浮かぶのは、ジバ婆さんとリミ=ルウとサリス・ラン=フォウの3名だ。いずれもギバ狩りの仕事に励む猟犬に相応しいとは思えない。
かといって、現存する狩人たちにあやかるというのも、何かおかしな気がしてしまうし――これはなかなかの難問であるのかもしれなかった。
そうして俺たちが思い悩んでいる間に、ティアはうつらうつらと船を漕いでいる。当の猟犬も、前肢の上に下顎を乗せて、寝入る準備は万端であるようだった。
「それならさ、アイ=ファの中で元になる言葉だけを決めておいて、明日にでも古い言葉を知る人に相談してみたらどうだろう?」
「ふむ? 元になる言葉、というのは?」
「古い言葉を使うんでも、まずは元になる言葉があるわけだろ? えーと、たしかライエルファムっていうのは、『猛き猿の牙』だったっけな。そういう言葉だけを決めておいて、ジバ婆さんあたりに古い言葉を教えてもらえばいいんじゃないかな」
「なるほど」と、アイ=ファはうなずいた。
「それは妙案かもしれん。きっとこやつに相応しい名を与えることができるであろう」
「あ、もうすでに言葉を思いついてるのか?」
「うむ。こやつはブレイブよりも身が軽く、走ることを得手にしているようなのでな。その姿は、逆風を引き裂く矢のようであったのだ」
「なるほど。それなら、矢にちなんだ名前にすればいいわけだ。いかにも猟犬らしい名前だし、いいじゃないか」
アイ=ファは再び、「うむ」とうなずいた。
そしてその瞳には、思いがけないほど優しげな光がたたえられている。
「私の思いついた言葉を、アスタの妙案で、ジバ婆に名にしてもらうというのは、とても幸福なことであるように感ぜられるぞ」
「そ、そうか。それなら、何よりだったよ」
俺は、ちらりとティアの様子をうかがってみた。
ティアはがっくりとうつむいて、いまにもそのまま潰れてしまいそうな姿である。少なくとも、俺とアイ=ファの会話が耳に入ったりはしていなそうであった。
「あのさ、話はまったく変わるんだけど……昨日のことは、俺も迂闊だったよ。アイ=ファに余計な心配をかけちゃって、ごめんな?」
「それは、もういいのだ」
と、アイ=ファは少し照れくさそうに微笑んだ。
「お前と言葉を交わしたのちに、私はつくづく自分の浅はかさを思い知らされることになった。私はお前とともに暮らし、誰よりも幸福な生を歩んでいるというのに、あのていどのことで心を乱してしまって、本当に恥じ入っている」
「恥じ入る必要なんてないよ。俺だって逆の立場だったら、同じように心を乱していたかもしれないし――」
「何だ、私が熱心に他の男衆の話をしたら、お前も心を乱してしまうのか?」
アイ=ファは、くすりと微笑んだ。
アイ=ファが滅多に見せることのない、年齢相応の少女めいた笑い方である。
「そうだとしても、私はかまわん。そのときは、思い悩まずに、すぐにそれを私に伝えよ。そうすれば、昨日の私のように、すぐに心の平穏を取り戻せるはずだ」
そう言って、アイ=ファはすっと顔を近づけてきた。
「そのように信ずることのできる今を、私は心から幸福に思う」
「……うん、そうだな」
俺は胸中にあふれかえった温かい感情に従って、微笑みを返してみせた。
アイ=ファも同じように微笑んだまま、俺の額にこつんと額をあててくる。
「また身に触れることを許せ。これはおそらく、ティアのせいであるのだ」
「ティアの? それは、どういう意味なんだ?」
「そやつがいると、私は家でもいくぶんは心を隠すことになる。そういったものの積み重ねが、私の心を乱してしまったのだろうと思うのだ」
囁くような声で言ってから、アイ=ファはすっと身を遠ざけた。
「べつだん、そやつが居座っていることを苦にしているわけではないのだが……時にはこうして心情をさらけ出さぬと、どこかに鬱憤が溜まってしまうのであろう」
「そっか」と、俺は笑ってみせた。
アイ=ファも、静かに微笑んでいる。
「とはいえ、そやつが森辺に留まるのも、あと70日ほどだ。森辺の民として、課せられた仕事は最後まで果たしてみせよう」
「うん。鬱憤が溜まったら、こうしてこっそり心情を打ち明ければいいさ」
「そうだな」と、アイ=ファはティアのほうに手をのばした。
「起きよ、ティア。寝所に移るぞ」
「ううん……ティアは、アスタとともにあるのだ……」
「だから、そのために同じ寝所で眠っているのであろうが?」
アイ=ファは苦笑っぽい表情を浮かべてから立ち上がり、ティアの小さな身体を抱きあげた。
「余計な口を叩かねば、こやつも幼子のようで愛くるしいのにな。……行くぞ、アスタよ」
「うん」とうなずきつつ、俺は立ち上がった。
すでにまぶたを閉ざしているブレイブたちに「おやすみ」と声をかけてから、アイ=ファとともに寝所に向かう。
何かと騒がしい日々は続いているが、俺たちは幸福である。それだけは、間違いようのない真実であった。