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異世界料理道  作者: EDA
第三十五章 青の終わり、再び
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青の月の二十三日③~ささやかなすれ違い~

2018.5/16 更新分 1/1 ・2019.10/5 誤字を修正

 無事に屋台の商売を終えた俺たちは、森辺の集落に帰還した。

 本日はルウの家で勉強会を行なう日取りであったので、そちらに集合する。再建中のふたつの家は、土台と骨組みが出来上がって、屋根や壁に着手したところであるようだった。


「今日の朝に見たときよりも、ずいぶん作業は進んでるみたいだね。これなら半月もかからずに完成するんじゃないのかな?」


「どうでしょう。わたしには見当もつきません。でもきっと、休息の期間であれば、もうとっくに仕事を終えていたのでしょうね」


 狩人たちはギバ狩りに出向いていたので、作業を続けているのはリャダ=ルウとバルシャ、それに13歳未満の若衆のみである。女衆は、普段通りの家の仕事に励んでいる様子だった。


 それらの人々と挨拶を交わしつつ、みんなで本家のかまど小屋を目指す。

 その道中で、マルフィラ=ナハムはきょときょとと周囲を見回してていた。


「あ、あ、朝方にも思いましたが、やっぱりルウ家というのは大きな氏族なのですね。や、8つも家がありますが、眷族とともに暮らしているわけではないのでしょう?」


「うん。ここで暮らしているのはルウ家の人たちと、あとは4人の客人だけだね。家人の数は、40人ぐらいだっけな?」


「40人! す、す、すごい家人の数ですね……」


 そんな言葉を交わしている間に、かまど小屋に到着する。そこではシーラ=ルウとミーア・レイ母さん、ヴィナ=ルウ、ララ=ルウ、タリ=ルウといった人々が、明日のための下ごしらえに励んでいた。


「やあ、ルウの家にようこそ。こっちはもうすぐ片付くから、ちょいと待ってておくれ」


「はい。それではこちらも場所をお借りしますね」


 こちらもこちらで、明日のための下ごしらえだ。おもな作業は肉の切り分けと、『ケル焼き』などのタレの配合である。


「明日の商売で使う分の肉を、今日の内に切り分けておくんだ。って言っても、薄く切り分けたりするわけじゃなく、ざっくり大ぶりに分けておくだけなんだけどね。あんまり小分けにすると、ピコの葉に水分を吸われる比率が高くなって、肉が縮んじゃうからさ」


「しょ、承知いたしました。わ、わたしは何を為すべきでしょうか?」


「その切り分け方を、覚えてもらうつもりだよ。それも以前にラヴィッツの家で習っているかもしれないけど、肉っていうのは切り方ひとつで味が変わってきちゃうから、この仕事はひときわ重要なんだ」


 そうして俺が手ほどきを進めていると、洗い物を抱えたララ=ルウが「んー?」と覗き込んできた。


「その娘、見ない顔だね。屋台の手伝いを増やしたの?」


「ああ、うん。トゥール=ディンが菓子の屋台を開くことになったから、ひとり増やすことになったんだよ。あっちのリッドの女衆も、ルウ家に来るのは初めてなんじゃないのかな」


「あー、そっかそっか! あたしも3日にいっぺん宿場町には下りてるから、よろしくね」


「よ、よ、よろしくお願いします。ナハムの家の三姉、マルフィラ=ナハムと申します」


「ナハム?」と、ララ=ルウは小首を傾げた。

 朝方に挨拶を済ませているミーア・レイ母さんが、遠くのほうから声をあげる。


「ナハムは、ラヴィッツの眷族だよ。ルウの家とは、これまでまったく関わりのなかった氏族だね」


「ラヴィッツの? へーえ、それじゃああんたの家も、昔はファの家と血族だったんだ?」


 海のように青い瞳で、ララ=ルウがじろじろとマルフィラ=ナハムの姿を観察する。マルフィラ=ナハムは、溺れた金魚のように目を泳がせた。


「ふーん。へーえ。確かにちょっと、アイ=ファと髪の色が似てるかな? アイ=ファはこう、もっときらきらしてるけどさ」


「あ、は、はい。ナハムには、色の淡い髪をした人間が多いです。せ、背の高い女衆も、他の氏族よりは多いかもしれません」


「あー、アイ=ファもけっこう背が高いもんね。あんたほどじゃないけどさ」


「ほらぁ、仕事の邪魔をしちゃ駄目よぉ、ララ……そちらの娘が困ってるじゃない……」


 同じく後片付けを始めていたヴィナ=ルウも近づいてくる。その姿を認めると、マルフィラ=ナハムはまた目を泳がせた。


「ル、ル、ルウの家にはお綺麗な人が多いのですね。さ、さすがは族長筋の氏族です」


「……わたしたちが生まれたのは、ルウ家が族長筋になる前だけどねぇ……」


 ヴィナ=ルウは涼しい面持ちで、俺たちのかたわらを通りすぎていった。ララ=ルウもひとつ肩をすくめて、その後を追いかけていく。


「い、い、いささか緊張してしまいました。ぞ、族長筋の方々は、みんな力と輝きにあふれているように感じられます」


「うん、確かにね。でもまあ、1日置きに通っていれば、緊張することもなくなるんじゃないかな」


 少なくとも、他の屋台のメンバーは、ルウ家の人々に恐れをなしたりはしていない。族長筋として敬いつつ、順当に絆を深めているのだ。


「そういえばさ、家の建てなおしが済んだら、いよいよ北の集落と家人を預け合おうかって話になったんだよね」


 ミーア・レイ母さんがこちらに近づいてきながら、そう言った。


「ルウはザザと、レイはジーンと、ルティムはドムと、ふたりぐらいずつ女衆を行き来させようってさ。あと、ルティムでは男衆も行き来させるつもりみたいだよ」


「そうですか。ルウとザザの血族の絆が深まるのは、とても心強い話ですね」


「そうだねえ。ディンの家でも、どこかの氏族と家人を行き来させるんだろう?」


 ミーア・レイ母さんの言葉に、トゥール=ディンが「はい」とうなずいた。


「リッドとディンが、ハヴィラやダナと家人を預け合うことになりました。ハヴィラやダナは家が遠くて、ファやルウの家に通うことができないので、そうしてかまど番の仕事を学びたいそうです」


「ハヴィラとダナか。そいつはもともと、ディンやリッドの血族なんだっけ?」


「はい。血の繋がりは薄いですが、いずれもザザの眷族です」


 家長会議で決議された氏族間の交流が、いよいよ実施されようとしているのである。《アムスホルンの寝返り》さえなければ、もっと早くに実施されていたのだろう。


 サウティやベイムやダイの血族などは、すでにルウの眷族の家に通って、目新しい食材の扱い方を学んでいるのだと聞いている。明日にはまた肉の市が行われるので、生鮮肉を準備した代価で目新しい食材を購入しようというのだろう。


(これで、他の氏族との交流に参加していないのは……ラヴィッツの血族と、スン家だけか)


 ラヴィッツは眷族のすみずみにまで富が行き渡るまで、目新しい食材に手を出すつもりはない、と聞いている。が、美味なる食事に関心を持っているならば、いずれはファの家の勉強会に参加してくれることだろう。

 そうなると、残る氏族はスン家のみだ。スン家もなかなか北寄りに家をかまえているので、ファやルウの家に通うことは難しいはずだった。


「スンの家は、どうなるのでしょうね。スン家が他の氏族と家人を預け合うというのは許されないのでしょうか?」


「うーん、どうだろうねえ。もうスンの集落に居残ってる連中も、すっかり心を入れ替えたみたいだから、他の氏族も家人を預けることを嫌がったりはしないと思うけど……ただ、いまはそれどころじゃないからね」


「それどころじゃない? スンの家で、何かあったのですか?」


「あれ? 聞いてなかったのかい? スンの集落では、あの祭祀堂ってやつが潰れちまったらしいよ。この前の馬鹿でかい地震いでさ」


 それは俺も、初耳であった。

 トゥール=ディンやユン=スドラも、びっくりまなこでミーア・レイ母さんを振り返っている。ルウの血族以外で祭祀堂に出向いたことのあるかまど番は、この場にこの3名しかいなかったのだ。


「あのときは慌ただしかったから、他の話にまぎれちまったのかね。ちょうど家長会議を終えたばかりで、あと1年は使うあてもない場所の話だしさ」


「そ、それでスン家の人たちは? 大きな怪我を負った人などはいないはずですよね?」


「ああ。だけど、祭祀堂を守るのはスンの人間の役割だったからね。そんな馬鹿でかい建物をどうやって直せばいいのかもわからなくて、途方に暮れてるって話だったよ」


 そう言って、ミーア・レイ母さんはひょいっと肩をすくめた。


「そもそも祭祀堂ってのは、黒き森で暮らしていた頃の作り方で建てられていただろう? そんなもんの作り方はスン家にも伝わっていないから、余計に困り果てているんだとさ」


「それは大変ですね。いったいどうするんでしょう?」


「さあねえ。いっそのこと木造りにしちまえばいいって話も出てたみたいだけど、それも難しいのかねえ。何せ祭祀堂ってのは、馬鹿でかいからさ」


 そう言って、ミーア・レイ母さんは小さく息をついた。ミーア・レイ母さんも前々回の家長会議ではスンの集落を訪れていたので、その馬鹿でかさは身にしみてわかっているのである。


「やっぱりちょいと、無茶な話だよねえ。かといって、ジャガルの人らを頼るわけにもいかないんだろうしさ」


「ジャガルの人ら? 建築屋の方々ですか?」


「ああ。ファの家があのお人らを頼るって聞いたとき、だったら祭祀堂も頼んでみたらどうだって話にもなったのさ。だけど、普通の家で銀貨9枚もかかるんじゃあ、祭祀堂なんてとんでもない値段になっちまうだろうからねえ」


 それは確かに、祭祀堂を木造りで建てなおしたりしたら、途方もない銀貨が必要になってしまうだろう。それこそ、銀貨100枚でも足りないぐらいかもしれない。

 しかし――と、俺は思案した。


「でも、そこまで立派な造りにする必要はないですよね? 1年に1回しか使わないんだし、そもそもが草で造られた建物だったのですから。とりあえずその場で眠れるぐらいの場所を確保できたら、それで十分なのでしょう?」


「それはそうだろうねえ。何か気の利いた考えでもあるのかい?」


「気が利いているかはわかりませんけれど、木の柱に革の幕でも張れば十分なのかなと思ったのです。……ほら、《ギャムレイの一座》の天幕みたいな感じでさ」


 俺がそのように水を向けると、レイナ=ルウが「ああ」と手を打った。


「あれは確かに、かなり大きな造りでしたね。全部あわせたら、祭祀堂ぐらいはありそうです」


「そうだよね。それだけの革を準備するのは大変かもしれないけど、木造りの家を建てる苦労に比べれば、どうってことなさそうだ」


 ただし、祭祀堂サイズの天幕を張るというのは、やっぱりそれ相応の苦労がともなうことだろう。それに、素人考えで取り組んだら、すぐに倒壊してしまいそうだ。


「よかったら、建築屋の方々に相談してみましょうか? 何か助言をいただけるかもしれません」


「そうだねえ。話を聞くだけ聞いてみておくれよ。もしも銀貨9枚ぐらいで済む話なら、ルウの家で出すことはできるからさ」


 それでとりあえず、祭祀堂にまつわる話は一段落した。

 その間もずっと俺の手ほどきに従って肉を切り分けていたマルフィラ=ナハムが、おずおずと問いかけてくる。


「あ、あ、あの……さきほどからお話しになられている銀貨というのは、何なのでしょう? 銅貨とは、また違ったものなのですか?」


「ああ、うん。銅貨にも赤と白があるだろう? それと同じようなもので……銀貨は、赤銅貨1000枚の価値を持つ貨幣なんだよ」


「せ、せんまい? そ、それはとてつもない額ですね……ファの家は家を建てなおすために、その銀貨を9枚も支払ったのですか?」


「うん。こういうときにこそ富をつかうべきなのかなって考えたんだ」


「す、すごいですねえ……」と、マルフィラ=ナハムは深く息をついていた。

 少し離れた場所で同じ仕事に励んでいたリリ=ラヴィッツは、にんまりと微笑んだまま、無言である。彼女の伴侶であるデイ=ラヴィッツがこの件に関してどのような思いを抱いたかは、教えてもらえないらしい。


(まあいいや。周りの人がどう思おうと、俺とアイ=ファはこれが正しいと思ったんだからな)


 そのとき、かまど小屋の戸板がぴしゃんと開けられた。

 振り返ると、松葉杖をついたティアが眉を逆立てて立ちはだかっている。そのガーネットのごとき瞳が俺をとらえて、大きく見開かれた。


「あーっ! やっぱり帰っていたのだな、アスタ! どうしてティアを起こしてくれなかったのだ!?」


「いや、ティアは昼寝の最中だって聞いてたからさ。ティアは少しでも身体を休めたほうがいいだろう?」


「それでもアスタが帰ってきたならば、ティアはともにあらねばならんのだ!」


 ティアは、左足だけで地団駄を踏んでから、ミーア・レイ母さんに向きなおった。


「ミーア・レイ=ルウ! この建物に足を踏み入れる許しをもらいたい!」


「そいつは別にかまわないけどさ。みんな刀を扱ってるんだから、アスタに飛びかかったりするんじゃないよ?」


「わかっている!」とわめき散らしてから、ティアはひょこひょこと俺に近づいて、恨みがましく見上げてきた。


「……今後はアスタが帰ってきたら、きちんとティアを起こしてほしい」


「わかったよ。気が利かなくて、悪かったね」


 そんな一幕を経た上で、下ごしらえは完了した。

 いよいよ勉強会の開始である。さまざまな氏族のかまど番たちは、みんな期待に満ちた眼差しで俺のほうをうかがっていた。


                   ◇


「それで今日は、ホボイの油の扱い方について勉強してたんだけどさ。試食のたびにマルフィラ=ナハムが涙をこぼしちゃって、それは大変な騒ぎだったんだ」


 その日の夜、ファの家の広間で晩餐を囲みながら、俺はそのように報告することになった。


「ナハムの家ではアリアとポイタンぐらいしか買ってないって話だったから、何もかもが目新しかったんだろうな。それにしても、ずいぶんな反応だったと思うけど」


「……そうか」


「うん。それに、いきなりそんな凝った料理を口にしたら、なかなか舌に馴染まないんじゃないかと思うんだけどな。それでもマルフィラ=ナハムは何を食べても美味しい美味しいって、ずっと感激してるんだよ。家長会議の家長たちでも、あそこまでの反応を見せてくれる人はいなかったと思うなあ」


 本日の主菜は、青椒肉絲を意識した料理であった。カロンの足肉を使ったものであれば、すでに《キミュスの尻尾亭》でも提供されていたが、このたびはギバ肉とホボイの油を使って、より本格的な味を目指したのだ。


 その青椒肉絲を黙々と食しながら、アイ=ファは俺の言葉を聞いている。俺の報告は、まだまだネタが尽きていないのだった。


「あと、ただ感激してるばかりじゃなくってさ、すごくかまど番の仕事に熱心なんだよ、マルフィラ=ナハムは。そのせいか、ものを覚えるのも早くって、ほとんどの食材は初めて目にするはずなのに、一回聞いただけできちんと名前を覚えられてるみたいなんだ」


「……ふむ」


「それに、味覚もしっかりしてるんじゃないかな。ちょっとした感想を口にするときでも、きちんと的を得てるというか……喋り方は頼りなげなのに、内容はしっかりしてるんだ。他のみんなも、感心してたぐらいだよ」


「…………」


「で、聞くところによると、マルフィラ=ナハムはもともと美味なる食事への関心がすごく強かったみたいなんだ。だったら最初からそう言ってくれればいいのに、リリ=ラヴィッツは人が悪いよな。以前に俺たちが教えた料理を口にして、ものすごい衝撃を受けたんだってさ。それ以来、ラヴィッツの血族がファの家の手伝いをできるようになる日を、心待ちにして――」


 と、そこで俺はアイ=ファが静かすぎることに、ようやく気づいた。


「……あのさ、アイ=ファは何か怒っているのか?」


「何故、私が怒らねばならんのだ?」


「いや、何だか不機嫌そうな表情だなと思ってさ」


 正確には、不機嫌そうなオーラが放出されているように感じられる。お顔のほうは無表情であるのだが、その青い瞳にも熾火のような光が宿っているように感じられなくもなかった。

 すると、青椒肉絲を頬張っていたティアが、それを呑み下してから、発言した。


「ティアは思うのだが、アスタが他の女衆のことを熱心に喋りすぎたから、アイ=ファは不機嫌になってしまったのではないだろうか?」


「おかしなことを抜かすな! 私はそのように狭量な人間ではない!」


 大きな声をあげてから、アイ=ファはじろりと俺をねめつけてきた。


「……しかし、お前がそのように熱心に語るのは珍しいと思っていた。マルフィラ=ナハムというのは、それほど特異な存在であるのか?」


「いや、特異ってほどではないけどな。何というか……立派なかまど番に育つかもしれないっていう予感がするんだ。普段はそんなこと感じないから、俺にしてみても物珍しくってさ」


 なんとかアイ=ファの心をなだめるべく、俺は笑いかけてみせる。


「それに、ラヴィッツの血族にそういうかまど番がいるっていうのは、ちょっと心強いことだろう? トゥール=ディンがザザの血族にいい影響を与えてくれたみたいに、彼女がラヴィッツの血族にいい影響を与えてくれるかもしれないじゃないか?」


「……うむ。我々は、とりわけラヴィッツの血族と正しき縁を紡ぐべきであろうからな」


「うん。だからまあ、マルフィラ=ナハムからかまど番の才能を感じることを、俺は喜ばしく思っているんだよ」


 アイ=ファはしばらく無言で俺の顔をにらみつけてから、食事を再開させた。

 やっぱり機嫌がいいようには思えない。マルフィラ=ナハムについてはそれなりに語ることができたので、俺は話題を転換することにした。


「そういえば、城下町のお茶会は青の月の28日に決定されたんだ。護衛の狩人はどうしようか?」


「……その件については、バードゥ=フォウと話し合った。ファやフォウの狩場ではまだギバも少ないので、私とフォウの血族からもうひとりが護衛の役をつとめることにする」


「そっか。狩人の仕事は休むのか?」


「いや。城下町から帰った後に、森へと入る。仕掛けた罠を巡るぐらいの仕事は果たすことができよう」


 お茶会は中天の前後に行われるので、昼下がりには帰還することができる。それなら確かに、アイ=ファの言うような段取りで動くことも可能なはずだった。


「でも、アイ=ファとそのもうひとりは大変だな。苦労をかけて、申し訳なく思ってるよ」


「かまうな。お前とて、城下町から戻った後にかまど番の仕事を果たすのだろうが? もとよりこれは、ジェノスの貴族たちと正しき絆を深めるための行いであるのだから、是非もない」


 言葉の内容は普段通りであるように思えるが、やっぱりアイ=ファの不機嫌そうなオーラは消えていないように思えた。

 ともあれ、晩餐は無事に終了したので、後片付けをして、寝支度である。

 その段に至って、アイ=ファが常ならぬ言葉をティアに申しつけた。


「ティアよ、お前は先に寝所に入っていろ。私はアスタと、少し言葉を交わしておく」


「うむ? すぐにアスタたちも来てくれるのか?」


「うむ。それほどの時間はかからん」


 ティアは早くもあくびを噛み殺しつつ、「わかった」とうなずいた。


「アイ=ファの言葉に従おう。できるだけ早く来てくれることを願っている」


 そうしてティアの姿が戸板の向こうに消えると、アイ=ファがあらためて俺の前に立ちはだかった。

 胸の下で腕を組み、わずかに目を細めて俺の顔をねめつけてくる。最近あまり俺に向けられることのなかった、狩人の迫力である。


「えーと、いったい何のお話なのかな?」


「……お前はマルフィラ=ナハムという女衆に、どのような思いを抱いているのだ?」


「どのようなって、それはさっき話した通りだよ。将来有望なかまど番かもしれないから、嬉しく思っているだけさ」


「……しかし、お前が出会ったその日に他者を褒めそやすというのは、かつてなかったことだ。お前がそのようにふるまったのは、せいぜいマイムと出会ったときぐらいであろうな」


 そのように述べながら、アイ=ファがぐぐっと顔を近づけてきた。


「……あのマルフィラ=ナハムというのは、マイムにも匹敵するようなかまど番であるのか? それならば、私も合点がいく」


「ええ? まさか! 本当に、見込みがあるかもなって感じただけの話だよ。彼女がどれぐらいの腕前に成長するかなんて、現時点では想像もつかないな」


「……ならば、どうしてそのように熱心であるのだ?」


「だからそれは、さっき語った通りだってば。俺が隠し事をしたり虚言を吐いたりしてるって疑ってるのか?」


 そうだとしたら、これほど心外な話はない。俺は胸を張って、アイ=ファの鋭い眼光を受け止めさせていただいた。

 するとアイ=ファは同じ目つきのまま、可愛らしく唇をとがらせてしまう。


「お前がそのような真似をするわけはないと、信じている。しかし……お前が出会ったばかりの人間をあれほど熱っぽく語るというのは、かつてなかったことだ」


「だからって、俺が他の女衆におかしな気持ちを抱くことなんてありえないだろう? 俺の心は、もう定まってるんだからさ」


 やむをえなく、俺は伝家の宝刀を引き抜くことになった。

 アイ=ファは唇をとがらせたまま、見る見る顔を赤くしていく。

 しかし、この宝刀は諸刃の剣でもあるので、俺も同じように顔を赤くすることになった。


「決してお前の心情を疑っているわけではない。だが……お前がラヴィッツとの絆を結びなおすために、その血族を嫁に迎えようなどと考えることはありえるのだろうか……と、そんな考えが頭をよぎってしまったのだ」


「ば、馬鹿なことを言わないでくれよ。俺がそんなことを考えるわけがないじゃないか」


「馬鹿な考えだということはわかっている。しかし、いったん頭に浮かんでしまうと、それを打ち払うことができなくなってしまったのだ」


 アイ=ファは唇をとがらせたままうつむくと、上目づかいに俺を見つめてきた。


「……お前はかつて、酒に酔ったダルム=ルウと私が交流をするさまを見て、心を乱してしまっていたな。もしかしたら、これはそれと似たような状況であるのかもしれん」


「う、うん。それは懐かしい話だな」


「……あのときにお前をたしなめていた私が同じ過ちを犯すというのは、愚かしいことだ。お前を不愉快にさせてしまったのなら、謝罪せねばなるまい」


「い、いや、謝罪する必要はないけどさ。俺は絶対、他の女衆におかしな気持ちを抱いたりはしないから……それだけは信じてくれよ」


「うむ」と、アイ=ファは小さくうなずいた。

 ようやく唇のほうは通常の形に戻っていたものの、お顔は赤いままである。自分の失態を恥じるように眉をひそめているアイ=ファは、思わず抱きすくめてしまいたくなるぐらい、可憐で魅力的であった。

 そこに、からからと戸板の開けられる音色が響く。


「アスタにアイ=ファ、ひとつ言い忘れたのだが、別の部屋でふたりがまぐわうつもりなら、こちらに来るのが遅くなってもかまいはしないぞ」


 アイ=ファは全身を硬直させてから、すさまじい勢いで寝所のほうを振り返った。


「たわけたことを抜かすな! すぐに向かうから、大人しく待っていろ!」


「うむ、わかった」


 戸板は閉められて、ティアの姿は見えなくなる。

 俺はわなわなと肩を震わせているアイ=ファに、横から笑いかけてみせた。


「それじゃあ、俺たちも寝支度をしようか。燭台は、俺が持っていくよ」


 オレンジ色の火を灯した燭台は、窓の縁に置かれている。俺がそちらに手をのばそうとすると、途中でアイ=ファに手首をつかまれてしまった。

 アイ=ファは俺の手を引き寄せると、それを自分の頬に押しあてながら、まぶたを閉ざした。


「自分の至らなさを恥ずかしく思う。どうか許してくれ、アスタよ」


「許すも許さないもないってば」


 俺はせいいっぱいの思いを込めて、アイ=ファの頬を指先でそっと撫でてみせた。

 切なげにひそめられていたアイ=ファの眉が、それでゆっくりと強張りをほどいていく。やがてまぶたを開いたとき、アイ=ファの青い瞳には喜びと情愛の光があふれかえっているように感じられた。


「……では、行くか」


「うん、そうだな」


 そうしておたがいの温もりをわずかに確かめ合ってから、俺たちはティアの待つ寝所に向かうことにした。

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