青の月の二十三日②~七番目の屋台~
2018.5/15 更新分 1/1 ・2018.5/18 誤字を修正
そうして俺たちは、いざ宿場町へと向かうことになった。
ルウ家の人々とも合流して、3台の荷車で突き進む。ルウの血族のかまど番が何名か同乗することになると、マルフィラ=ナハムはまたぺこぺこと頭を下げていた。
宿場町に到着したのちは、《キミュスの尻尾亭》へと向かう。他の宿屋に料理を届ける仕事は、ユン=スドラにお願いすることにした。
(何せ今日は、トゥール=ディンの屋台の初契約だからな。いちおう、見届けておかないと)
それに、新人であるマルフィラ=ナハムも紹介しておくべきであろう。
俺たちが《キミュスの尻尾亭》まで出向くと、受付台に座っていたのはテリア=マスであった。
「おはようございます。父さんとレビは倉庫のほうにいますので、そちらから屋台をお受け取りください」
「はい、了解しました。……あと、今日からこちらのマルフィラ=ナハムにも屋台の手伝いをしてもらうことになったので、いちおうご紹介しておきますね。しばらくは毎日宿場町に下りることになると思いますので、よろしくお願いします」
マルフィラ=ナハムは、またぺこぺこと頭を下げている。その背の高さにいくぶん目を見開きつつ、テリア=マスは「はい」と微笑んでくれた。
「わたしはこの宿屋の娘で、テリア=マスと申します。森辺の方々とは商売以外のところでも懇意にさせていただいていますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「は、は、はい。こ、こちらこそよろしくお願いいたします」
このマルフィラ=ナハムと比べてしまうと、テリア=マスのほうが何倍も堂々としているように思えてしまった。
そのような思いを胸に抱えながら、宿の裏手に回ってみると、ミラノ=マスとレビは倉庫の扉を補修している真っ最中であった。
「よお、森辺のみなさんがた、おはようさん」
「おはよう、レビ。扉の補修かい?」
「ああ。この前の地震いで、ちょいと建て付けが悪くなっちまったみたいでさ」
そのように述べるレビは、すっかり元気そうな様子を取り戻していた。こけていた頬にも肉がつき、すっかり以前のままの姿である。
ミラノ=マスは挨拶もそこそこに、外した扉の縁を小刀で削っている。マルフィラ=ナハムを紹介しても、「ああ」というぶっきらぼうな声が返ってくるばかりであった。
そんな中、意を決した様子で、トゥール=ディンがミラノ=マスの前に進み出る。
「あ、あの、ミラノ=マス。先日にお話しした通り、今日から新たな屋台をお借りしたいのですが……」
「うん? ああ、お前さんか。それじゃあ、屋台で売りに出す菓子を作り上げることができたんだな」
「は、はい。屋台をお借りすることはできますか……?」
「ふん。こっちは屋台を貸すのが商売だ。何も断る理由はない」
そのように述べてから、ミラノ=マスは俺たちの姿を見回してきた。
「ただし、うちで扱ってる屋台は、これで最後だ。これ以上屋台を増やすときは、別の宿屋に頼むことだな」
「はい。けっきょく、すべての屋台を森辺の民が借り受けることになってしまったのですね」
「ふん。復活祭でもないのにすべての屋台が出払うなんて、初めてのことだ。まったく、ありがたい限りだな」
仏頂面で言いながら、ミラノ=マスはレビに視線を差し向けた。
レビはうなずき、ぽっかりと口を開けた倉庫に入っていく。そこから引っ張り出されたのは、いくぶん古びた感じのする屋台であった。
「こいつはずっと、車輪が外れたままだったんだけどな。トゥール=ディンが入り用だっていうから、昨日の内に直しておいたんだよ」
「え、あ、そうだったのですか? お、お手数をかけさせてしまって、申し訳ありません……」
「何も申し訳ないことはない。壊れたままにしておいても、無駄に場所を食うだけなのだからな」
ミラノ=マスは小刀を鞘に収めてから、トゥール=ディンのほうに手を差し出した。
「屋台の貸出料と場所代、それぞれ10日分で白銅貨2枚だぞ」
「は、はい。どうぞ、こちらになります」
トゥール=ディンが、腰の物入れから言われた通りの銅貨を差し出す。
それを受け取って、ミラノ=マスは大きくうなずいた。
「よし。古びた屋台だが、決して壊したりはせんようにな。しっかり商売に励むがいい」
「は、はい。ありがとうございます」
トゥール=ディンは、はにかむように微笑んだ。
不安と誇らしさの入り混じった笑顔である。
いっぽう俺は、雛鳥が巣立っていく姿を見届けているような感慨を抱かされていた。
「よし、それじゃあ出発だ」
7台の屋台と2台の荷車を引き連れて、露店区域に出発である。
これだけいっぺんに屋台が移動するということは、宿場町でもそうある話ではない。俺たちはいつも通りに町中の関心を集めながら、石の街道を闊歩した。
あの大地震から8日ほどが経過して、宿場町もずいぶん落ち着きを取り戻した様子である。
きっと裏通りではまだ家屋の修繕などが行われているのであろうが、この表通りにはもともと立派で頑丈そうな建物ばかりが並んでいるので、少なくとも表面上は痛手から立ち直っているように見える。往来を行き来する人々の表情も明るく、あの、やけくそ気味の熱気というものも緩和されたように感じられた。
途中でドーラの親父さんたちにも挨拶をして、いざ所定のスペースに到着してみると、そこにはすでに4、50人のお客が待ちかまえていた。
無料配布をしていた頃よりはひかえめであったものの、それ以前よりは人数が多いように感じられる。俺たちが近づいていくと、人々は歓声のような声をあげていた。
「待ってたぜ! 今日からは、普通に商売をするんだろう?」
「はい。ジェノス侯爵家のふるまいは、一昨日で終了しました」
「ああ。ただでギバ料理を食えるのはありがたかったけどさ。ジェノスを発つ前に、もっと立派な料理も食べておきたかったんだ。さっさと準備を始めてくれ!」
ギバ料理の無料配布などをしてしまうと、今後はお客も銅貨を出し渋るのではないか――というツヴァイ=ルティムの懸念は、いまのところ杞憂であったようだ。ツヴァイ=ルティムは細っこい肩をすくめつつ、黙々と屋台の準備を進めている。
(トゥール=ディンは、大丈夫かな……)
マルフィラ=ナハムに屋台の設置方法を手ほどきしつつ、俺の意識はついついそちらに引き寄せられてしまった。
協議の末、トゥール=ディンの屋台は南端に設置されることになっていた。これまで南端であったマイムの、さらに南側である。7台の屋台のど真ん中に位置する俺からは、なかなか様子をうかがうことも難しかった。
(まあ、屋台の商売自体は手馴れてるんだから、何も心配する必要はないんだけど……うーん、何だか落ち着かないなあ)
しかし俺も、トゥール=ディンの心配ばかりはしていられない。こちらも今日からは新メンバーによる新体制であるのだ。トゥール=ディンの抜けた分は、残された俺たちがしっかり支えなければならなかったのだった。
もちろんマルフィラ=ナハムはまだ初日であるので、頭数には入れていない。『ギバの回鍋肉』の屋台は俺とマルフィラ=ナハムとマトゥアの女衆の3名で取り組む所存であった。
「それじゃあ、まずは俺がマルフィラ=ナハムに接客の手ほどきをするので、調理のほうをよろしくね」
「はい、おまかせください」
トゥール=ディンの次に若年であるマトゥアの女衆であるが、彼女は日替わり要員の中では一番の実力者であった。おまけに性格も明朗で接客の仕事にも長けているので、よき見本となるように今日のメンバーに組み入れさせていただいたのだった。
左右の屋台では、ユン=スドラとヤミル=レイがそれぞれの助手とともに屋台を取り仕切ってくれている。新メニューの『ミートソースのパスタ』を託したユン=スドラなどは、普段以上にはりきった面持ちをしていた。
「あれ? こっちの料理は、いつもと具合が違うみたいだな。前までは、カロンの乳やらキミュスの卵やらを使ってたよな?」
パスタが茹であがるのを待っていたお客がそのように述べたてると、ユン=スドラは笑顔で「はい」とうなずいた。
「これまではかるぼなーらという料理で、今日はみーとそーすという料理です。わたしはどちらも同じぐらい美味だと思っています」
「ふうん。こいつは、タラパの煮汁か。とりあえず、ひと皿頼むよ」
「はい。少々お待ちください」
あちこちの屋台で料理が仕上げられていき、あたりにはいっそうの喧騒と芳香が満ちていく。俺の隣に待機していたマルフィラ=ナハムは、「はふう」とおかしな声とともに息をついていた。
「し、し、仕事をする前から、目が眩んでしまいそうです。ま、まるで祝宴のような熱気なのですね」
「そうだね。この時間と中天の前後が、一番の賑わいなんだよ」
いまだ料理は仕上がっていないので、俺たちの仕事も始まらない。
すると、最前列に陣取っていたジャガルのお客が、うろんげな眼差しをマルフィラ=ナハムに差し向けてきた。
「そこの娘は、初めて見るな。もしかしたら、新入りか?」
「あ、はい。今日から屋台を手伝ってもらうことになりました」
「ふうん。……まるで東の民みたいに、ひょろひょろと背の高い娘だな」
マルフィラ=ナハムは、ものすごい勢いで目を泳がせ始めていた。
俺は背伸びをしつつ、「大丈夫だよ」と耳打ちしてみせる。
「南の民には、ざっくばらんに喋る人が多いんだ。ちょっと荒っぽく聞こえたりもするけど、何も心配する必要はないからね」
「そ、そ、そうなのでしょうか? 何か、忌々しげであるように聞こえたのですが……」
「それはきっと、東の民に対する感情が出ちゃったんだよ。南と東は、敵対関係にあるからさ」
そんな風に囁き合っていると、ジャガルのお客がじろりとねめつけてきた。
「なんだ、何か気を悪くさせてしまったか?」
「いえ、決してそういうわけでは――」
「すまんな。腹が空いて、気が立っているのだ。何も文句などありゃしないから、早く料理を食わせてくれ」
すると、鉄鍋の中で木べらをふるっていたマトゥアの女衆が顔を上げた。
「どうもお待たせしました。10食分が仕上がりましたよ」
鉄鍋の中身は大皿に移されて、マトゥアの女衆はすぐさま新たな具材を焼き始める。これを小皿に取り分けて、木匙と焼きポイタンを添えつつ、銅貨まで受け取るのが、こちらの仕事であった。
「はい、お待たせしました。赤銅貨2枚です」
「こっちは3人前を頼むよ!」
「はい、赤銅貨6枚ですね。赤銅貨4枚のお返しです」
朝一番のピーク時には、10食分の料理など瞬時に尽きてしまう。そうして再び待機の時間に戻ると、マルフィラ=ナハムはまた目を泳がせていた。
「こ、こ、これはかなりせわしないですね。い、いささか自信がなくなってきてしまいました」
「とにかく、慌てないことが肝要だね。次に料理が仕上がったら、まずは銅貨を受け取る仕事をやってみておくれよ。1人前で代価は赤銅貨2枚、お釣りはこの袋に入ってるからね」
「は、は、はい。りょ、了解いたしました」
いちおう宿場町に向かう道中で、この仕事の内容は伝え済みである。それでもマルフィラ=ナハムは緊張しきった面持ちで、具材が焼きあがるのを待ち受けていた。
そうしていよいよ料理が完成すると、ちょっと強面の男性が「ふた皿くれ」とぶっきらぼうに言い捨てた。
「は、は、はい。ふた皿ですと、赤銅貨、よ、4枚です」
そのように述べながら、マルフィラ=ナハムはにたーっと微笑んだ。
口角だけが持ち上がって、目もとはまったく笑っていない。銅貨を差し出しつつ、強面のお客はぎょっとしたように身を引いていた。
「な、何だよ、薄気味わりいなあ。何か文句でもあるってのか?」
「い、い、いえ、とんでもありません」
マルフィラ=ナハムはにたにたと笑いながら、銅貨を受け取った。
その後のお客も、びくっと身体を震わせたり、うろんげににらみ返したり、反応はまちまちであったが、気持ちはひとつであるようだった。親子連れで訪れたお客などは、怯えた子供が母親に取りすがっていたものである。
「……わ、わ、わたしは薄気味悪いのでしょうか……?」
10人分の料理が尽きると、マルフィラ=ナハムは奇怪な笑みを消し去って、俺のほうを振り返ってきた。どことなく、悄然とした面持ちである。
「そ、そんなことはないよ。でも、無理して笑う必要はないからね」
「そ、そ、そうですか……わ、わたしは愛想がないとよく言われるので、少しでも愛想をよくしようと心がけたのですが……」
「うん、なるほど。その心意気は、立派だと思うよ」
それは、俺の本心であった。俺の知る限り、商売だからといって愛想笑いを浮かべるような人間は、森辺の集落にこれまで存在しなかったのである。
(やっぱり森辺の女衆としては、かなり個性的なタイプなんだろうな)
だけどそれは、決して悪いことではないだろう。ぶきっちょながらも、俺はマルフィラ=ナハムの誠実な人となりを感じ取ることができていた。
「よお、アスタ! 今日もお疲れさん!」
と、ふいにそんな声が響きわたった。
振り返ると、建築屋の面々がパスタの屋台の最前列に立ちはだかっていた。声をかけてくれたのは、アルダスである。
「おはようございます。今日は早いお越しでしたね」
「ああ。中天の後に仕事が詰まってるから、いまの内に腹ごしらえをしておこうと思ってな! しかしこの時間は、やっぱり混み合ってるなあ」
アルダスの陰には、しっかりバランのおやっさんも控えていた。あとはもうひとり、現地で雇った若い衆が、ユン=スドラに注文を告げている。
「混み合ってるから、手分けして屋台に並んだんだよ。もうすぐそっちにはメイトンたちの順番が回ってくるはずだ」
「そうでしたか。そちらのパスタは屋台で初めて出すので、お気に召したら幸いです」
「ああ、こいつは美味そうだな! ……ところで、あっちの端っこでギバじゃない料理を売りに出してる森辺の娘っ子がいたみたいだけど、あれは何なんだ?」
「あれは、菓子を売っているのです。よかったら、あとでお試しになってみてください」
「へえ、菓子か! もしかしたら、あのルウって家で出された、不思議な菓子なのか?」
建築屋の3名をルウ家に招いた日、食後のデザートとして蒸しプリンが出されたのである。
期待に瞳を輝かせるアルダスに、俺は「いえ」と首を振ってみせた。
「でも、それに負けない菓子だと思いますよ。俺も昨日、味見をさせてもらいましたが、それはもう絶品でありました」
「そいつは楽しみだ! ギバの料理を味わった後に楽しませていただくよ!」
砂糖やパナムの蜜の原産地は、ジャガルであるのだ。よって、ジャガルにおいてはジェノス以上に甘い菓子というものが好まれているのだと、俺は聞いていた。
おやっさんなどは、早くもそわそわと身体をゆすっている。かつてリミ=ルウのこしらえた蒸しプリンは、3名の客人に大好評であったのである。
「あの、あちらの屋台は、どんな感じになっていますかね?」
「どんな感じ? まあ、それなりに人だかりができてたよ。こっちの屋台ほどじゃないけどな」
まだまだ甘い菓子の存在が浸透しきっていない宿場町だと、やはり多少は苦戦を強いられるのかもしれない。俺はおやっさんとは別の理由で、そわそわすることになってしまった。
「ところで、新しい家の住み心地はどうなのだ? 何の不備もありはしないだろうな?」
と、おやっさんがそのように問うてきたので、俺は「もちろんです」とうなずいてみせた。
「俺も家長も大満足ですよ。本当に立派な家を、ありがとうございました」
「ふん。代金に見合った仕事をしただけだ」
そこでパスタが茹であがったので、おやっさんたちは両手に木皿を抱えて青空食堂のほうに引っ込んでいった。
その間にこちらの料理も仕上がったので、またマルフィラ=ナハムに銅貨の受け取りをお願いする。愛想笑いを取りやめたマルフィラ=ナハムは、口もとをぴくぴくと引きつらせながら、懸命に仕事に励んでいた。
(うん、物覚えは悪くないみたいだな)
とりあえず、銅貨の勘定を間違えたりはしないし、そこまで慌てている風でもない。見た目の印象よりは、胆も据わっているのではないかと思えた。
次のターンでようやくメイトンが到着したので、そちらとも言葉を交わしつつ、料理を受け渡す。そうして朝一番のピークは、波が引いていくように収まっていった。
「よし。これで一息つけると思うよ。しばらくは客足もゆっくりになるだろうから、俺の盛り付けも注意して見てもらおうかな」
「は、は、はい。あの、注意というのは、どうすれば……?」
「俺がどれぐらいの量を盛り付けているかを、まずは見た目で覚えるんだ。あるていど覚えたら、今度は実際に盛り付けてもらうからさ」
「そ、そ、そうですか……い、いちおうこれまでも、注意して見ていたつもりなのですが……」
「あ、そう? だったら、ちょっと練習してみようか」
大皿には、まだ3名分ぐらいの具材が残されていた。
マルフィラ=ナハムはレードルをつかみ取ると、それを1名分、木皿に取り分ける。
見た感じ、分量は適正であるようだし、盛り付けの形も綺麗であった。
「うん、いい感じだね。残りの分も取り分けてみてくれる?」
「しょ、承知いたしました」
マルフィラ=ナハムは、残った分も綺麗に2等分にしてくれた。
タレをこぼしたりもしていないし、このままお客に出せる仕上がりであろう。鉄鍋にこびりついた汚れを木べらで除去していたマトゥアの女衆は、「へえ」と目を丸くしていた。
「マルフィラ=ナハムは、ずいぶん器用なのですね。家でもこれと似たような料理を扱っていたのですか?」
「い、い、いえ、ナハムの家では、アリアとポイタンぐらいしか買っていませんので……せ、せいぜい肉やアリアを焼くときに、果実酒を使うぐらいでしょうか」
「だったら、本当に器用ですね。わたしは最初の日からそんな綺麗に盛り付けることはできませんでした」
マトゥアの女衆が朗らかに微笑むと、マルフィラ=ナハムは恐縮しきった様子で頭を下げていた。
そこに新たなお客がやってきて、マルフィラ=ナハムの盛り付けた料理を買っていく。3食分の料理がすぐに売れてしまったので、マトゥアの女衆は新たな分を調理し始めた。
「マルフィラ=ナハムは、飲み込みが早いね。これならすぐに、一人前になると思うよ」
「と、と、とんでもありません。アスタのご迷惑にならないよう、ひ、必死に取り組んでいるのです」
そうしてマルフィラ=ナハムがまたぺこぺこと頭を下げ始めたとき、往来のほうがちょっとざわめいた。
北の方角から、城下町のトトス車が近づいてきたのだ。そこから現れたのは、いつもトゥール=ディンから菓子を受け取っているジェノス侯爵家の使者であった。
「お仕事の最中に失礼いたします。……おや、トゥール=ディン殿は不在なのでしょうか?」
武官と従者を引き連れた壮年の使者は、いくぶん不安そうに屋台の顔ぶれを見回した。ここからでは、トゥール=ディンの姿を発見できなかったのだろう。
「トゥール=ディンは、一番向こう側の屋台におりますよ。今日もきちんと菓子の準備をしていたので、ご安心ください」
「ああ、そうでしたか。こちらが日取りを聞き違えたのかと、不安になってしまいました」
予定の日にトゥール=ディンの菓子が届けられなかったら、オディフィアはさぞかし落胆することだろう。使者の男性は、心から安堵した様子で息をついていた。
「しかし、本日はずいぶんと離れた場所で働いておられるのですな。実は、ファの家のアスタ殿とルウ家の御方にも言伝を申しつけられているのですが……」
「でしたら、トゥール=ディンのところで一緒にお話をうかがいましょうか」
これは、トゥール=ディンの様子をうかがう千載一遇のチャンスであった。俺が視線を差し向けると、隣の屋台で働いていたヤミル=レイが肩をすくめる。
「こちらはまだぎばまんだから、ぞんぶんに手は空いてるわよ。そちらの屋台にお客が来たら、失敗しないように手助けすればいいのね?」
「はい、お願いします。もうマルフィラ=ナハムもひと通りの作業はできますので、何か不備がないかだけ見てあげてください」
そうしてルウ家の屋台からは、リミ=ルウが参上した。どうやらお茶会がらみの話であるようなので、レイナ=ルウからそのように言い渡されたのである。
そうして俺たちが南端の屋台に出向いてみると、そこにはものすごい人だかりができていた。
ちょうど青空食堂での食事を終えた建築屋の面々が、総出で屋台に群がっていたのだ。20名にも及ぶ南の民に急襲されて、トゥール=ディンらも大わらわの様子であった。
「ああ、アスタ! こいつは美味いなあ! ギバの料理で腹は膨れていたはずなのに、俺は4つも食っちまったよ!」
俺の姿に気づいたアルダスが、大きな声でそう言っていた。
そのかたわらでは、おやっさんやメイトンたちが黙々と菓子にかじりついている。どうやらトゥール=ディンの菓子は、建築屋の面々の心を射抜くことに成功せしめたようだった。
トゥール=ディンの準備した屋台の菓子は、蒸し饅頭である。
作製方法は、『ギバまん』とほとんど変わらない。フワノの生地を蒸籠で蒸した菓子である。
もちろんその生地には砂糖とカロン乳とキミュスの卵が使われており、菓子らしい味に仕立てられている。
そして、その生地の内側に包み込まれているのは、ギギの葉でこしらえたチョコクリームのタネであった。
ギギの葉というのは、どちらかといえば高級食材である。多量に使えばコストが跳ね上がってしまうので、宿場町では商品になりえない。
しかし、この饅頭には小さじ一杯ていどのタネしか使われていなかったので、原価率もほどほどであった。直径6、7センチぐらいの小さな団子に、小さじ一杯のタネを封入して、お代は赤銅貨1枚につき4個である。もちろん、割り銭1枚で2個という買い方でもオーケーだ。
もともとトゥール=ディンは、ビスケットに類する菓子を売りに出すつもりでいた。石窯を使えば大量生産も容易であるし、こちらでもチョコを使えば目新しい美味しさを宿場町に広げることができる。そんな思いもあって、俺がチョコチップのビスケットというものを提案させていただいたのだ。
が、宿場町には石窯というものが存在しない。それではいくらその菓子が評判を呼ぼうとも、他の売り手の参考にはならないので、目的から外れてしまうのではないかという話になったのだ。
俺たちの目的は、あくまで菓子の美味しさを宿場町に浸透させて、砂糖や蜜の消費をうながすことにある。菓子の美味しさを知った人々が、他の屋台や食堂でも菓子を注文することにならないと、その目的は達成されないのである。
それで行きついたのは、このギギを使った饅頭、『ギギまん』であった。
蒸籠であれば、以前の勉強会を通じて、多くの宿屋がすでに手にしている。また、ギギの葉も銅貨さえ出せば購入することのできる食材である。これならば、宿場町の人々も後追いで同じような菓子を販売することが可能なはずだった。
「……この菓子に使われているギギの葉というのは、シムの食材であるそうだな。まったく忌々しい」
そのように述べながら、おやっさんは『ギギまん』を大きな口に放り込んでいる。いったいいくつ購入したのか、その手にはまだほかほかの『ギギまん』が乗せられていた。
「やあ、トゥール=ディン。すごい騒ぎじゃないか」
俺がそのように呼びかけると、トゥール=ディンはおずおずと笑い返してきた。
「さきほどまでは、そうでもなかったのです。ただ、こちらの方々には気に入っていただけたみたいで……」
しかし、きっとこれだけ大勢の人間が騒いでいれば、それが呼び水となるだろう。ギバ料理の屋台に並ぼうとしていた人々も、いったい何事かと足を止めて、この騒ぎを見守っている様子であった。
そんな人々を迂回して、ようやく使者の男性らも屋台の横手に現れた。
「どうもお待たせいたしました。……もしかしたら、トゥール=ディン殿は菓子をお売りになられているのですか?」
「あ、どうもお疲れさまです。オディフィアへの菓子ですね? いま、お持ちします」
トゥール=ディンはリッドの女衆に店番をまかせると、荷車から折箱の包みを運んできた。
それを受け取った使者は、包みと屋台の蒸籠を見比べる。
「……こちらの菓子は、屋台で売られているものと別物なのでしょうか?」
「あ、はい……屋台の菓子は値段をおさえるために、あまり豪華な作りにはできませんので……」
そのように述べてから、トゥール=ディンは思いきったように面を上げた。
「だ、だけど、オディフィアにも屋台の菓子を食べてみてほしいと願っているのですが……こちらも一緒に届けていただくことは可能なのでしょうか……?」
「もちろんです。オディフィア姫も、それを望むことでしょう。こちらに、その菓子を詰めていただけますか?」
使者がそのように述べたてると、背後に控えていた従者がうやうやしく新たな折箱を差し出してきた。また3日後に新たな菓子を受け取るために、毎回こうして空の折箱を受け渡しているのだ。
「トゥール=ディン殿は、明日もこの菓子をお売りになられる予定なのですか?」
「は、はい。しばらくは、この菓子を売り続ける予定です」
「ではきっと、オディフィア姫も毎日それをご所望されることでしょう。新しい器は、明日おうかがいしたときにお渡しいたします」
それを面倒がる様子もなく、使者は穏やかに微笑んでいた。オディフィアの行動に理解のある人物であるのだろう。
「こちらの菓子の代価は、いかほどなのでしょうか?」
「あ、こ、こちらは赤銅貨1枚で4個になります」
「そうですか。では、20個ほどお願いいたします」
「え? に、20個もですか?」
「はい。他にも口にされたいと願う御方はいらっしゃるかと思われますので……温めなおすときは、蒸籠を使えばよろしいのですね?」
「は、はい。今日の内に食べていただければ、傷むこともないと思います」
そうして新たな折箱には、ほかほかの『ギギまん』がどっさり詰め込まれることになった。
「ありがとうございます。では、ジェノス侯爵家の第一子息婦人、エウリフィア様からの言伝なのですが――」
それはやはり、トゥール=ディンとリミ=ルウに茶会で菓子を作ってもらいたいという依頼であった。青の月の間には依頼したいと、かねてから告げられていたのだ。
「ジェノスを襲った地震いによって、森辺の集落においても家を修繕する必要などが出ているさなかかと思われますが……お引き受けいただくことは可能でしょうか?」
「は、はい。族長からのお許しはいただいています。ただ、屋台の商売の休業日までお待ちいただきたいのですが……」
「もちろんです。次の休業日は、青の月の28日で間違いなかったでしょうか?」
この使者は3日前にも宿場町を訪れていたので、屋台のスケジュールに関しても把握していた。
「では、くれぐれもよろしくお願いいたします。……そしてその際には、またアスタ殿にもお越しいただくことは可能でありましょうか?」
「はい。できればまた調理助手という形で同行させていただけたらと思っていました」
「それは何よりです。……その茶会にはトゥラン伯爵家のご当主も招待されており、アスタ殿との面会をお望みになられていたのです」
リフレイアとは、4日前にも顔をあわせている。
しかしもちろん、俺に異存などあろうはずもなかった。
「それでは、青の月の28日ということで。森辺の族長にもよろしくお伝えください」
ようやく使者たちが立ち去ると、リミ=ルウは「わーい!」とはしゃいだ声をあげた。
「お茶会、ひさしぶりだね! この前は、たしか雨季の終わりぐらいだったから……えっと、とにかくすっごくひさしぶりだよね!」
「そうだねえ。俺も楽しみだよ」
そんな風に俺たちが語らっていると、まだ屋台のそばにたむろしていた建築屋の面々が呼びかけてきた。
「おい、立ち聞きするつもりはなかったんだけどさ、アスタたちは城下町に招かれたのか?」
「俺はおまけで、招かれたのはこちらのふたりです。城下町の貴婦人がたに、菓子をお出しするのですよ」
「へえ、そんなに小さな娘たちがねえ! どうりで美味い菓子を作れるはずだ!」
たくさんの視線を差し向けられて、トゥール=ディンは小さくなってしまっている。その隣で、リミ=ルウは「えへへー」と笑っていた。
「ジェノスの連中はどうだか知らないけど、南の民ならこの菓子に大満足するはずさ。きっと俺たちの宿でも話題になるだろうから、明日はもっとたくさんの菓子を準備しておくべきだと思うよ」
「あ、ありがとうございます。そのように言っていただけるのは、とても心強いです」
そのように応じつつ、トゥール=ディンはちらりと俺の顔を見上げてきた。
俺が笑顔を差し向けると、トゥール=ディンも恥ずかしげに口もとをほころばせる。
菓子の屋台にはそれなりのお客が集まりつつあったので、トゥール=ディンの新たな商売も無事に実を結ぶことができそうな様子であった。