大神の見えざる手⑤~真実は闇の中~
2018.4/27 更新分 1/1
そうして俺たちは、ジャガルの建築屋に家屋の建設を依頼することになった。
もちろんそれは、それなり以上の紆余曲折を経た上での結論であった。建築屋の側の都合と、ファの家の側の都合を、すべてクリアーすることによって、ようやくその結論に至ったのである。
まずは、建築屋の側であるが――これは意外に、それほど入り組んではいなかった。バランのおやっさんの率いる建築屋と取り引きのある宿や家からは、地震の被害による新たな依頼というものもほとんど舞い込んでこなかったようであるのだ。毎年きちんと修繕や点検を行っていれば、あれほどの地震でも被害が出ることはない、ということなのだろう。
では、これまで取り引きのなかった宿や家などはどうかというと、そちらは経済面の事情から、そうそうジャガルの建築屋に修繕の依頼をすることはできないらしい。建築屋というのはジャガルが本場であるので、おやっさんたちに依頼をすると、それなりに費用がかさむのだそうだ。
また、たとえ新規の依頼が舞い込んできたとしても、優先順位は自分たちで定めることができる。ファの家が依頼をするならば、それを最優先にしてやろうと、おやっさんはそのように言ってくれていたのである。
そんなおやっさんからの提案を、俺とアイ=ファは一晩かけて吟味することになった。その末に、アイ=ファは建築屋に依頼をすることに決断したのだった。
その理由の大なる部分は、ファの家に資産がありあまっていたゆえであろう。
デイ=ラヴィッツに指摘されるまでもなく、ファの家はこの1年ばかりでおびただしいほどの銀貨を獲得していた。それは、ふたりきりの家人ではとうていつかいきれないほどの富であったのだ。
「その富をつかおうとせずに、血族ならぬ氏族の世話になるというのは、恥ずべき行いであるのかもしれん」
アイ=ファの根底にあるのは、そのような思いであるらしかった。
たとえば、おやっさんからの提案を断るとしよう。
そうすると、ファの家の再建には、とほうもない時間がかかることになる。その間、俺たちはずっと余所の家で寝泊りすることになるし、いずれは余所の家から再建の仕事を手伝いたいという話が届けられることになるだろう。それはそれで、ありがたい限りの話であったのだが――そんな人々の厚意に甘えるのが正しい行いであるのかどうか、という点をアイ=ファは気にしているのだった。
同胞からの厚意を無下にするのは水臭い、という考えもあるだろう。
しかし、自分の所有している富をつかえば、同胞にいらぬ苦労をかける必要もなくなる。アイ=ファとしては、そちらを重んじたいと願ったのだ。
「それに、もともと森辺の家というのは、南の民の手ほどきで造られたものであるのだ。ならば、以前と同じような家を建ててもらうことも可能なのではないだろうか」
アイ=ファは、そのようにも言っていた。
森辺の民は黒き森に住まっていた頃、草で編んだ家で暮らしていた。それはきっと、あの祭祀堂みたいな家屋であったのだろう。
しかし、このモルガの森辺ではスコールのような雨が降るために、それでは強度が足りなかった。だから、モルガの森辺に移り住んでしばらくしてから、森辺の民は南の民を招いて木造りの家の建て方を学んだのである。
そういった話は、俺も昨年の内に聞いていた。客人としてファの家に招かれたシュミラルとアイ=ファが、世間話の一環としてそのような話を語らっていたのだ。
「森辺の集落に石の家などを建てたら笑いものになってしまうが、これまでと同じような家を建ててもらえるのならば、何も問題はあるまい。……と、私はそのように思うのだが、どうであろうか?」
「うん。俺もおやっさんたちを頼ることに異存はないよ。むしろ、正しい富のつかいかたなんじゃないかって思えてきたよ」
残る問題は、それにかかる費用である。
しかしそれも、ファの家の資産で無理なくまかなえるていどであるという見積もりが、すでに出ていた。ファの家の造りや規模などをおやっさんに伝えて、そこから大体の数字を算出してもらったのである。
おやっさんが言っていた通り、それは俺が考えていたよりもずいぶん安めの金額であった。20名の作業員が朝から晩まで働いて、3日間もかければ十分であろうという話であったのだが――その代価は、銀貨9枚であるというのだ。
「わずか銀貨9枚で、家を建てなおしていただけるのですか?」
俺が思わずそのように問い返してしまうと、おやっさんはこれ以上もないぐらいの渋面になっていたものであった。
「俺たちの腕が安いとでも言いたいのか? お前さんは、ずいぶん裕福な暮らしをしているようだな」
「あ、礼を失していたなら、謝ります。俺は相場というものをまったくわかっていなかったもので……」
俺は常々、赤銅貨は1枚で200円ぐらいの価値なのかなと考えていた。で、銀貨というのは1枚で赤銅貨1000枚の価値を持つ貨幣であるから、銀貨9枚であれば、180万円だ。
180万円といえば、もちろん大金である。が、それで家が建つとなれば、やはり安いと感じてしまうのが、日本という国で生まれ育った俺の感覚であった。
ただし、この地においては俺の故郷ほど簡単に富を築くことはできない、という側面もある。たとえば日雇いの人足の仕事などは、せいぜい時給が赤銅貨2、3枚ていどであるのだ。
それを考えると、3日間の労働で20名の人間の賃金が銀貨9枚というのは――どんぶり勘定で、時給が赤銅貨15枚ていどということになるので、十分に高額なのかもしれなかった。
(まあもちろん、取り仕切り役であるおやっさんやアルダスと、現地で雇った作業員なんかでは、手にする報酬も違ってくるんだろうけどな)
俺がそのように思案していると、おやっさんにじろりとにらまれたものだった。
「言っておくが、これは基本の料金だからな。本来であれば、これに材木の料金や、それを現場まで運び込む手間も加えられるのだから、倍や3倍の値段になっていたはずだ」
「ああ、なるほど……材木に関しては、周囲の樹木を使っていただいてかまいません。余所の氏族も、そうやって家を建てていますので」
「ふん。だったら、これが相場だ。まあ、他に必要な材料が生じたときは、そのたびに料金を上乗せさせてもらうぞ。あと、お前さんの話に何か間違いがあって、完成させるのにもっと多くの時間が必要になったときは、1日ごとに銀貨3枚が必要になるからな」
そんなやり取りを踏まえつつ、俺たちは仕事を依頼することになったのだった。
昨日と同じように屋台を開いて、炊き出しの仕事に励んでいると、またすぐに建築屋の一行が訪れてくれたので、俺は家長からも同意を得られた旨を告げることができた。
「へえ、本当に了承をもらえたのか! 俺たちがアスタの家を建てるだなんて、こいつは面白いことになったもんだな!」
アルダスはとてもはしゃいだ声をあげており、他の作業員たちもそれは同様であった。
ただ、バランのおやっさんだけが、ひとりで仏頂面である。
「こちらも、仕事の調整をつけることはできた。作業は明日から始めてかまわんだろうな?」
「はい、大丈夫です。先約の方々は大丈夫だったのですか?」
「ふん。今回はゆとりをもってふた月もジェノスに居座っていたから、どうということもない。青の月の31日までには、すべての仕事を終えられるはずだ」
そういえば、昨年の滞在期間はひと月半ぐらいであったはずだ。俺が出会ったのはその途中であったが、緑の月の中盤にジェノスを訪れた、という話であったのである。
「ところでさ、アスタたちはまだしばらくこうやって銅貨を取らずにギバ料理を配るつもりなのか?」
アルダスがそのように尋ねてきたので、俺は「はい」とうなずいてみせた。
「少なくとも、明日までは無料で配ることが決まっています。その先は、貴族の方々が宿場町の様子を確認してからというお話でしたね」
「そうか。だったら、俺たちの分は銅貨を払うから、何とか現場でギバ料理を準備してもらえないもんかなあ? いちいち宿場町まで下りる時間はないし、かといって、干し肉なんかをかじるだけじゃあ力は出ないからさ」
「ああ、そのことでしたら、あらかじめ食事を作っておくつもりでしたよ。銅貨も不要ですので、どうか心配はなさらないでください」
「本当か?」と、アルダスは瞳をきらめかせた。
おやっさんのほうは、なんとも言えない面持ちで眉間に皺を寄せている。
「だったら俺たちも、きっちり銅貨を支払うべきだろう。お前さんの家を建てるのは、あくまで仕事なのだからな」
「いえ。俺たちのために3日も予定を空けてくださったのですから、せめてものお礼です。家長にも了承はもらっていますので、ご遠慮は無用ですよ」
さらに俺はもう一点、告げておかなければならない話があった。
「それでですね、これは別の家長からの言伝なのですが……仕事の後、何名かの方々と晩餐をご一緒させてもらえませんか?」
「うん? それはどういう話だ?」
「はい。俺たちがお世話になっているフォウの家の家長と、あとは族長筋であるルウの家の家長が、おやっさんたちと晩餐をともにしたいと仰っているのです。青の月の31日にはみなさんを祝宴にお招きするので、その前に言葉を交わしておきたい、ということであるようですね」
「それはつまり……俺たちを、森辺の家に招こうという話なのか?」
「ええ。さすがに20名は無理ですので、主だった方を2、3名ほど招待したいのですが、いかがでしょう?」
建築屋の人々は屋台の常連客であるものの、森辺の狩人とはほとんど交流がない。こういったお誘いが彼らにはどのように感じられるのか、俺としてもいささか不安なところであったのだが――とりあえず、アルダスは愉快そうに笑っていた。
「そいつは何だか、楽しそうな申し出だな。おやっさん、もちろん受けるだろ?」
「うむ……しかし、帰り道はどうするのだ? 夜の森というのは、危険なものなんだろう?」
「帰りはこちらで荷車を出して、《南の大樹亭》までお送りします。これまでも何回か、そうやって森辺に客人を招待したことはあるのですよ」
それでもおやっさんが不明瞭な面持ちをしていると、アルダスが「どうしたんだ?」と首をひねった。
「べつだん、断る理由はないだろう? アスタたちの準備する晩餐を口にできるなら、それだけでも行く価値はあるじゃないか」
「しかし……何やら見知らぬ連中に値踏みをされるようで、気に食わん」
それは確かにバードゥ=フォウもドンダ=ルウもおやっさんたちの人柄を見極めようと考えてこのような申し出をしてきたのだから、おやっさんの気持ちも的外れなものではなかった。
「ご不快にさせてしまったのなら、申し訳ありません。ただ、フォウの家長もルウの家長も、せっかくの機会だから縁を結びたいと考えてくれたのだと思います。森辺の民とジャガルの民は、長らく不和の状態にありましたし……」
「そうだよ。おやっさんだって、アスタと縁を結ぶまでは森辺の民のことを毛嫌いしてたじゃないか? そんな南の民を森辺に招こうっていうんだから、ちっとは値踏みしておきたいって思うのが当たり前さ」
「ふん……」
「森辺の民は現在、西の民として正しく生きていこうと模索しているさなかなんです。それで、セルヴァとジャガルは友国なのですから、おやっさんたちとも友としての絆を深めたいと願ってくれているのだと思います」
精一杯の誠意を込めて、俺はおやっさんに笑いかけてみせた。
「もちろん、どちらの晩餐でも俺はご一緒します。そんな堅苦しい集まりではありませんので、晩餐をともにしていただけませんか?」
「べつに、断るとまでは言っておらん。ただ、見知らぬ人間に値踏みをされるのは気に食わんと思っただけだ」
「見知らぬ相手だからこそ、縁を結びたいと願っているのですよ。というか、家人からあれこれ話を聞かされていたので、自分も顔をあわせてみたいという思いがつのることになったのでしょう」
「家人?」と、おやっさんはけげんそうな顔をした。
俺は、隣の屋台で働いていたユン=スドラのほうを指し示してみせる。
「彼女は、フォウの血族の家人です。いずれみなさんをお招きする祝宴は、そのフォウの集落の広場で開かれるのですよ」
それから俺は、反対の側の屋台を指し示す。
「それで、ルウ家というのは、彼女たちの家です。黒髪と赤髪の女の子たちは、どちらも族長の娘さんたちなのですよ。あとふたりの姉妹も交代で屋台の商売をしていますので、おやっさんたちは見知っているはずです」
本日のルウ家の当番は、レイナ=ルウとララ=ルウであった。
「へえ」と、アルダスは目を丸くする。
「あの娘っ子たちは、そんな立派な家の出だったのか。もしかしたら、あのむやみに色っぽい娘っ子も姉妹なのか?」
「それはきっと、ヴィナ=ルウですね。ええ、彼女は四姉妹の長姉です」
「そいつは、ますます楽しそうじゃないか。堅苦しいことは考えないで、素直に申し出を受ければいいと思うぞ?」
「……だから、断るとは言っていないと言っているだろうが」
おやっさんは、ぶすっとした顔で豊かな顎髭をまさぐった。
「そんなに俺たちを呼びつけたいなら、好きにしろ。いらん悪縁が生まれても、俺は知らんからな」
「それはきっと大丈夫です。復活祭なんかでは、森辺の男衆と南の民が酒杯を交わしたりもしていたのですよ」
「そうだよ。これから祝宴にお招きされようっていうのに、そんな心配をしたって始まらないさ」
そうして、再建作業に関するちょっとした打ち合わせも済ませてから、おやっさんたちは自分の仕事に戻っていった。
ふうっと息をつく俺に、「アスタ」という声が投げかけられる。
「ずいぶん長々と話し込んでたね。こっちは待ちくたびれちゃったよ」
「あ、ユーミ。ごめんね、ちょっと色々あってさ。……あ、ユーミが無事であったことは、きちんとジョウ=ランに伝えておいたからね。ジョウ=ランは、すごくほっとしていたよ」
「そ、そんな話はどうでもいいってば。それより、こっちもレビとは話をつけておいたからね」
「ああ、レビも無事だったんだね。それなら、よかったよ」
レビは昨晩も《キミュスの尻尾亭》に姿を現さず、テリア=マスを死ぬほど心配させていたのである。
「うん、あたしはまだ顔をあわせてないんだけどね。ルイアがばったり出くわして、テリア=マスが心配してるってことを伝えてくれたってさ。今日の内には、《キミュスの尻尾亭》に顔を出すと思うよ」
「そっか。でも、無事でいたんなら、どうして《キミュスの尻尾亭》に顔を出さなかったんだろう?」
「さあ? 家の修理でもしてたんじゃない? レビが住んでた家なんて、きっとかなり古びてただろうからね」
そう言って、ユーミはわずかに眉を吊り上げた。
「まあ、何かしらの事情はあったんだろうけどさ。女の子に心配させんなって話だよね。あたしがあいつと出くわしたら、きっちり叱りつけといてやるよ」
「うん、まあ、あまりやりすぎないようにね」
そうしてユーミも『ギバ肉のポイタン巻き』を受け取ると、早々に立ち去っていった。
やっぱり本日も、町全体がざわざわとしていて、慌ただしい気配に満ちている。木材を積んだ荷車はひっきりなしに行き交っているし、包帯姿でひょこひょこと歩いている人も少なくはなかった。
しかし、それほど暗鬱な雰囲気ではない。さすがに多少は殺伐としていたが、それもどちらかというと祭などを連想させる熱っぽい騒擾であった。やけくそ気味の熱気というか、苦難を退けるために人々が生命力を沸騰させている感があった。
(森辺の民ほどじゃないけど、町の人たちもたくましいんだな)
そのような思いを新たにしながら、俺はギバ肉を焼き続けた。
普段の商売のように、朝一番や中天の前後にピークがあるわけではなく、ひっきりなしに人々は押しかけてくる。昨日などは、下りの一の刻ぐらいにはほとんど料理も尽きてしまっていたのだ。本日も、この調子だと終業時間はずいぶん早まりそうなところであった。
アリシュナが訪れたのは、そんなさなかである。
屋台から少し離れた場所でぽつねんと立っているその姿に気づいた俺は、思わず「あ」と声をあげてしまった。
「ごめん。ちょっと食堂のほうからひとり借りてくるんで、それまでおまかせしてもいいかな?」
一緒に働いていたマトゥアの女衆にそう告けてから、俺は青空食堂へと足を向けた。
そこで仕事を果たしていたフェイ=ベイムに屋台の補助を頼み、今度はアリシュナのほうに向かう。
「アリシュナ、来ていたのですね。よかったら、話を聞かせてもらえますか?」
「はい。そのため、やってきました」
アリシュナは、普段の調子で静かにうなずいた。
俺はどくどくと心臓が脈打つのを感じつつ、言葉を重ねてみせる。
「アリシュナから腕飾りを預かった翌日に、ジェノスは大きな地震に見舞われました。もしかしたら……これは、厄災除けのお守りだったのではないですか?」
「はい。その通りです」
「それじゃあ、やっぱり……アリシュナは、あの地震を予見していたのですね」
アリシュナは、感情の欠落した表情のまま、小首を傾げた。
「星読みの術、災厄を予見すること、可能です。……しかし、西の民、星読み、重んじていません」
「え? それはどういう――」
「セルヴァの王、シムの技、嫌っているのです。いにしえの術、重んじること、許されません。たとえ、大きな災厄、予見すること、できても、信じること、許さないでしょう。シムの技、国を動かす、あってはならない、考えているのです」
アリシュナの声は、とても静かであった。
「その気持ち、間違ったもの、思いません。四大王国、魔術の国、違うのです。四大王国、魔術、捨てて生まれた、石と鉄の王国です。いにしえの術、重んずること、許さない、当然です」
「でも、だったらどうして……」
「……私、ジェノス、客人です。ジェノス、災厄、近づけば、ジェノス侯爵、伝えます。しかし、ジェノス侯爵、星読みの術、重んずれば、セルヴァの王、怒るでしょう。だから、災厄、近づけば……ジェノス侯爵、何も語らぬまま、それに備える、思います」
そのように語りながら、アリシュナは半歩ほど俺に近づいてきた。
黒くて神秘的な瞳が、間近から俺の瞳を覗き込んでくる。
「そして、私にも、語らぬこと、願うはずです。だから、私、何も語りません」
「え? いや、だけど……たったいま、すべて語ってくれたじゃないですか?」
「すべて、たとえ話です。アスタ、私、災厄、予見した、述べていたので、たとえ話、答えたのです」
「それじゃあ……いままでの話はすべてたとえ話で、真実ではない、ということですね?」
「はい。真実、闇の中です」
その言い回しに、俺はついつい笑ってしまいそうになった。
「わかりました。その闇の中を探ろうとするのは、きっといけないことなのでしょうね」
「はい。危険なこと、思います。いずれ、王都の視察団、再びやってくるのですから、なおさらです」
マルスタインが星読みの結果によって護民兵団を動かしたということが知れたら、まずいことになる――つまりは、そういうことなのだろう。
「了解しました。それじゃあ俺も、追及しないことにします。……でも、ひとつだけいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「アリシュナは、どうして俺の身をそんなに案じてくれるのですか? 厄災除けのお守りを預けてくれるのは、これで2回目ですよね」
アリシュナは、ほんの少しだけ目を細めた。
「アスタ、《星無き民》です。ゆえに、アスタの運命、読むこと、できません。だから、心配、なってしまうのです。私、アスタ、かけがえのない存在、思っていますので、健やかな生、送ってほしい、願っているのです」
「そうですか……俺みたいなものをそんな風に気にかけてくれて、とてもありがたく思います」
俺はアリシュナに笑いかけながら、厄災除けの腕飾りを引っ張り出してみせた。
「それでは、こちらはお返ししますね」
「はい」と、アリシュナはそれを受け取った。
が、それをそのまま、また俺のほうに差し出してくる。
「アスタ、こちら、預かってもらえますか?」
「え? まだ何か災厄が近づいているのですか?」
「いえ。ですが、災厄、近づくたび、アスタのもと、訪れる、大変です。ずっと預けていれば、私、安心です」
俺は、また思わず笑うことになった。
「アリシュナ、それでは今回も災厄が近づいていたことを予見していたと認めることになってしまいますよ」
「……たとえ話です」
アリシュナは、あくまで無表情である。
俺は何だか愛想のない黒猫になつかれているような心地で、腕飾りを受け取ることになった。
「それじゃあ、この腕飾りはいつお返しすればいいのでしょうね」
「わかりません。アスタと私、絆、壊れたときでしょうか」
そうしてアリシュナは、またお行儀よく一礼した。
「そのような日、訪れないこと、願っています。それでは、失礼します」
「はい。わざわざありがとうございました。……あ、アリシュナ。本来であれば明日は『ギバ・カレー』を売る日取りだったので、ヤンに頼んで届けてもらいますね」
アリシュナは、俺の顔をじっと見つめてから、また一礼した。
「心から、嬉しく思います。アスタ、かけがえのない存在です」
「ありがとうございます。城下町まで、お気をつけて」
俺は、屋台に舞い戻った。
フェイ=ベイムが、いぶかしそうに視線を向けてくる。
「大丈夫なのですか? 何やら神妙な様子でしたが」
「はい。問題ありません」
このような話は、迂闊に広げるべきではないだろう。西の王都がからむような話には、なるべく誰も関わるべきではないのだ。
(だけどそれじゃあ、護民兵団の兵士たちも事情を知らされていなかったっていうことなのか。それであれだけ働けるなら、大したものだな)
あるいは隊長格の人間にだけは知らされていたのかもしれないが、何にせよ、このような話はマルスタインに一任するべきなのだろうと思えた。
そうして時間は流れすぎ、ついに1000食分の料理が尽きた。時刻としては下りの一の刻ていどで、やはり普段よりもずいぶん早い終業だ。
「フン。これで町の連中が無料の食事に味をしめちまったら、今後は銅貨を出すのを渋るようになっちまうんじゃないのかネ」
屋台の後片付けをしながら、ツヴァイ=ルティムがぶちぶちとぼやいていた。それを手伝っていたララ=ルウは「大丈夫さ」と肩をすくめている。
「いくら銅貨を惜しんだって、食べ物が天から降ってくるわけじゃないんだからね。そんなこともわからないような馬鹿はいないでしょ」
「フン。銅貨を惜しんで森の恵みを荒らすような馬鹿ならいたけどネ」
「面白いことを言うやつだね! さ、とっとと片付けちゃいな」
どちらも遠慮のない、13歳コンビである。俺はわりあい、このコンビのやり取りが好きだった。
ともあれ、あとは森辺に帰るばかりだ。すべての荷物を荷車に積み込んで、俺たちは《キミュスの尻尾亭》を目指すことにした。
そこで俺は、思わぬ人物を発見することになった。
レビである。
レビが、《キミュスの尻尾亭》の前でじっと立ち尽くしていたのだ。
「あれ、レビじゃないか。どうしたんだい? みんな、心配してたんだよ?」
俺が呼びかけると、レビはのろのろと振り返った。
その姿を見て、俺は愕然としてしまう。レビはこの2日間で、別人のようにやつれ果ててしまっていたのだった。
「い、いったいどうしたのさ? どこか怪我でもしちゃったのかい?」
「ああ、アスタか……いや、どこにも怪我なんてしちゃいねえよ」
しかし、レビは目の下に隈を作って、頬もげっそりとこけてしまっていた。いつもすっきりとした下顎には、薄く無精髭まで生やしてしまっている。
「だったら、どうしたっていうのさ? ちょっと普通の様子じゃないよ?」
「……何でもねえよ。けじめをつけに来ただけだ」
そのように言い捨てるなり、レビは《キミュスの尻尾亭》へと足を踏み出した。俺もギルルの手綱をトゥール=ディンに託して、その後を追いかける。
「まあ、レビ! いったいどうしたのですか!?」
受付台に控えていたテリア=マスも、仰天したような声をあげる。
その不安と喜びのごちゃまぜになった眼差しから顔を背けつつ、レビは受付台の前まで歩を進めた。
「……ご主人はいるかい?」
「え、ええ。父さんなら、厨で壊れた棚を直していますけれど……でも、本当にどうしたのですか? まるで病人のようなお顔ではないですか?」
「……ご主人を呼んでくれよ」
テリア=マスは泣くのをこらえるように眉をひそめてから、「父さん!」と声をあげた。
受付台の裏にある扉から、ミラノ=マスがのそりと現れる。そちらに向かって、レビは深々と頭を下げた。
「ミラノ=マス、2日も勝手に休んじまって、どうも申し訳ありませんでした。俺のことは……今日限りで、縁を切ってください」
「何だと?」と、ミラノ=マスは顔をしかめた。
テリア=マスは、今にも泣きだしそうな様子で両手をもみしぼっている。
「ようやく顔を出したと思ったら、何だその言い草は。事情があるなら、説明してみろ」
「……そんな話を聞かせたって、どうにもなりません。ご迷惑ばかりかけて、本当に申し訳ありませんでした」
「申し訳ないと思うなら、事情を説明しろ。真面目に働くのが馬鹿らしくなったということか?」
「父さん……」と、テリア=マスが父親の腕に取りすがる。
それにはかまわぬまま、ミラノ=マスは強く光る目でレビをにらみ続けた。
「一昨日の地震で、何かあったのか? お前さんは、人足の仕事をしていたのだろうが?」
「……べつに、なんにもありゃしません。だけどもう、この宿では働けないんです」
「さっぱりわからんな。見たところ五体満足なようだし、働けない理由などどこにも見当たらんぞ」
そのように述べてから、ミラノ=マスは険しく眉を寄せた。
「もしかしたら、親父さんのほうに何かあったのか? 親父さんは、足を痛めて寝込んでいたのだったな」
頭を下げた体勢のまま、レビは肩を震わせた。
「親父は……ヴァイラスの聖堂にいます。今でも呑気に眠りこけているでしょうね」
「ヴァイラスの聖堂? そこはたしか……手ひどい怪我を負った人間が集められているのではなかったか?」
レビは低い声で「はい」と応じた。
「俺たちは、貧民窟の長屋で暮らしていたんですが……この前の地震で、そいつがぶっ潰れちまったんです。親父は瓦礫の下敷きになって、今度はあばらを何本かやられちまいました」
「そいつは気の毒な話だな。しかし、それでどうしてお前さんが仕事をやめることになるんだ? 家が潰れてしまったんなら、ますます銅貨は必要だろうが?」
「もう、まともな稼ぎではどうにもならないんですよ。あと数日もしたら、聖堂だって追い出されるでしょう。そうしたら……もう、おしまいです」
そこでレビは、低く笑い声をたてた。
レビらしからぬ、荒んだ笑い方である。
「これからは、いままでよりもひどい場所で暮らすしかないでしょう。野垂れ死にたくなかったら、貧民窟の奥の奥まで引っ込むしかありません。本物の悪党どもが取り仕切ってる、ギーズの巣穴みたいな場所ですよ」
「どうしてそのような場所で暮らさなければならんのだ。真面目に働けば、もっとまともな場所で暮らせるだろうが?」
「もっとまともな場所は、もっとまともな連中で埋め尽くされちまいますよ。家の潰れた人間は、俺たちだけじゃないんです。でも、俺たちより貧しい人間なんて、そうそういないでしょう。俺たちみたいなごみ屑は、日陰に引っ込むしかないんです」
「だったら、なおさら真面目に働くべきだろうが? そうして銅貨を貯めたら、まともな場所に移り住めばいい」
「そんなの、周りの悪党どもが許しちゃくれませんよ。稼いだ銅貨は悪党どもに奪われるか……あるいは、自分も悪党になるしかないんです」
レビは頭を下げているために、その表情は見て取れなかった。
ただ、丸めた背中が小さく震えている。
「悪党ってのは、どうして悪党なんだと思います? 悪党はね、こうやって身を持ち崩していくんですよ。他に逃げ場なんてありゃしないから、悪党になってでも生き延びるしかないんです」
「……だったら、お前さんの給金は俺が預かっておいてやる。必要なときに必要な分だけ渡してやれば、悪党に奪われることもないだろうが?」
「駄目ですよ。こんな場所で働いてたら、それだけで悪党どもに目をつけられちまいます。夜中に押し込むからその手引きをしろって言いつけられるんですよ。それを断ったら……まあ、嬲り殺しでしょうね」
俺はずっと、言葉を失ってしまっていた。
テリア=マスは、たまらず涙をこぼしてしまっている。
そんな中、レビは陰鬱に語り続けた。
「これから俺たちは、そういう場所で暮らしていくんです。だから……あなたたちとは、もう縁切りです」
「ふん。縁を切りたいなら、勝手にしろ」
ミラノ=マスはテリア=マスの手を振り払い、ずかずかとレビに近づいていった。
「悪党になりたいなら、悪党になればいい。野垂れ死にたいなら、野垂れ死ね。お前さんの人生だ、お前さんの好きにしろ」
「父さん、そんな……」
「それでけっきょく、お前さんはどうしたいんだ? ぐずぐずと泣き言ばかりほざきおって! そんな性根で、生き延びることなどできると思っているのか?」
ミラノ=マスはレビの肩をわしづかみにして、無理やり身体を引き起こした。
レビは唇を噛みながら、ミラノ=マスを見つめ返す。
「答えろ、小僧。お前さんは、悪党になりたいのか? 道端で野垂れ死にたいのか? 俺たちと、縁を切りたいのか?」
「……縁を切らないと、駄目なんです」
「そんな話は聞いておらん! お前さんがどうしたいかを聞いているのだ!」
レビの肩をつかんだまま、ミラノ=マスはぐっと顔を近づけた。
レビは唇を噛んだまま、ぽろぽろと涙を流し始める。
「俺だって……真っ当に生きていきたいです。だけど……」
「だったら、そのために力を尽くさんか! そんな性根をしているから、身を持ち崩すことになるのだ!」
ミラノ=マスが、レビの身体を突き放した。
よろけるレビの身体を、俺が慌てて後ろから抱きとめる。
「一階の奥に、物置がある。お前さんは、今日からそこで暮らせ」
「え……だけど、親父が……」
「親父さんも連れてくるに決まっているだろうが! いらんものを片付ければ、ふたりが寝る場所を作ることぐらいはできる! わかったら、とっとと片付けろ!」
俺の腕から離れたレビは、呆然とした面持ちでミラノ=マスを見つめていた。
「どうしてそんな……あなたとは、ついこの間、顔をあわせたばかりなのに……」
「文句があるなら、野垂れ死ね! それを引き止めるほど、俺はお人好しじゃないぞ」
ミラノ=マスはぷいっと顔を背けると、そのままレビに背中を向けた。
「俺の前から消え失せるか、物置を片付けるか、とっとと決めろ。俺は棚を直している最中なのだ」
レビは再びうつむくと、床の上にぽたぽたと涙をこぼした。
「ありがとうございます、ミラノ=マス……このご恩は、一生忘れません……」
ミラノ=マスは「ふん」と鼻を鳴らしてから、厨へと姿を消してしまった。
その代わりに、テリア=マスがレビに駆け寄ってくる。
「よかったですね、レビ……どうか気持ちを強くもってください。西方神は、正しく生きようとする子を、決して見放したりはしません」
レビは答えることができず、声を殺して泣き続けた。
テリア=マスも頬を涙で濡らしたまま、そんなレビに微笑みかけている。
俺はひっそりと安堵の息をつきつつ、レビに声をかけてみせた。
「俺も片付けを手伝うよ。それでその後は、一緒に親父さんを迎えに行こう。ちょうど荷車もあるからさ」
独断で決めてしまったが、表のみんなが反対の声をあげることはないだろう。俺は、そのように信ずることができた。