大神の見えざる手②~青の月の十五日~
2018.3/24 更新分 1/1
翌日の、青の月の15日である。
その日は最初から、異変の兆候ともいうべき出来事が起きていた。
俺たちが普段通りの時間に宿場町に下りると、街道の人々が妙にざわめいていたのである。
俺たちがその理由を知ったのは、《キミュスの尻尾亭》で屋台を借り受けた際であった。
「どうやらこの街道沿いで、ジェノスの護民兵団が演習というものを行っているそうなのです。あまり普段にはないことなので、町の人たちも不安に思ってしまっているのでしょうね」
そのように述べるテリア=マスも、やはりいささかならず不安そうな面持ちになってしまっていた。
「護民兵団の演習ですか。でも、べつだんその姿を見かけたりはしませんでしたね」
「はい。町には足を踏み入れていないようです。ただ、町の外には街道を埋め尽くすほどの兵士たちが集まっているそうですよ」
確かにそれは常ならぬ出来事であったが、俺としては何を不安に思えばいいのかもわからなかった。
「演習って、いったい何の演習なのでしょうね。そういうのは、闘技会の会場で行われると聞いた覚えがあるのですが」
「はい。闘技場は、練兵場とも呼ばれているそうですね。わたしも護民兵団が街道で演習をするなどという話は聞いたこともありません」
テリア=マスは、とても頼りなげな面持ちで溜息をついていた。
すでに屋台は引き渡されていたものの、このまま別れてしまうのは忍びなかったので、俺は別の話題を振ってみることにする。
「話は変わりますが、レビの調子はどうですか? 《キミュスの尻尾亭》で働き始めてから、もう6日ぐらいは経ちましたよね」
「あ、はい。今ではすっかり、馴染んでいますよ。レビは気さくで、会話も巧みなので、お客さまがたにも評判はいいようです」
たちまちその頬に血を巡らせつつ、それでもテリア=マスは幸福そうに微笑んでいた。
「ちょっと荒っぽいお客さまでも、レビは物怖じすることもありませんし。父さんも、男手が増えて喜んでくれていると思います」
「そうですか。それは何よりです」
一般的には不良少年と呼ばれる立場にあるレビが、真っ当な場所で働き、真っ当な評価を受けるというのは、俺にとっても非常に喜ばしい話であった。つい最近まで名前も知らなかった相手であるとはいえ、もう1年以上のつきあいになる相手でもあったのだ。そんな彼が《キミュスの尻尾亭》で働き始めるというのも、なかなか不思議な縁であった。
とりあえず、テリア=マスが笑顔になってくれたことに満足しつつ、俺は《キミュスの尻尾亭》を後にする。
次に言葉を交わしたのは、露店区域で商売をしていたドーラの親父さんとターラである。注文の野菜を準備してくれながら、ドーラの親父さんはぷりぷりと怒っていた。
「ああ、街道の兵士どもな。あいつらが邪魔で、宿場町まで出向いてくるのもひと苦労だったよ。演習だか何だか知らないが、こっちの迷惑も考えてほしいもんさ」
「へえ。ダレイムと宿場町の間でも演習というのが行われていたのですか」
「ああ。ダレイムの真ん前と、宿場町の手前だね。どこかの盗賊団が襲ってきたってんならわかるけど、そんなお触れは回されていないしさ。まったく、何を考えているんだかなあ」
親父さんは怒っていたが、ターラはにこにこと微笑んでいた。そうして会話が途切れると、「ねえねえ」と声をあげてくる。
「アスタおにいちゃん、今日はリミ=ルウが屋台のお仕事をする順番だったよね?」
「あ、うん、そうだよ。今ごろは、宿屋に肉と料理を届けてるんじゃないかな」
「やったー! あとでターラも、屋台に行くからね!」
リミ=ルウが宿場町に下りてくるのは、おおよそ3日に1度のこととなる。ターラはその日を、毎回心待ちにしているのだ。
俺はとても微笑ましい気持ちを抱きながら、所定のスペースに向かうことができた。
そこで待ち受けていたのが、衛兵の一団である。
俺たちの屋台は北の端にかまえているので、そこからは街道に密集した兵士たちの姿を嫌というほど確認することができたのだった。
「あら、これはずいぶんと、物々しい有り様ね」
自分の屋台の準備をしながら、ヤミル=レイもそのように述べていた。
復活祭の折に露店区域は拡張されているので、北端である青空食堂の向こう側には、何十メートルもの空白のスペースが生まれている。その場所にも、衛兵たちがずらりと立ち並んでいたのだ。おそらくは、数百名にも及ぼうかという人数である。ぴしりと整列した兵士たちに、隊長格の人間が何か声を飛ばしている様子であった。
(ダレイムの真ん前と宿場町の手前も同じような有り様だとしたら、かなりの人数になるな)
これでは確かに、町の人々がざわめくのも当然である。普段、護民兵団などというものは、宿場町を巡回している衛兵たちぐらいしか目にする機会はなかったのだった。
「いったい、何なのでしょう? 何か悪いことでも起きるのでしょうか……?」
心配そうな顔をしているトゥール=ディンに、俺は「大丈夫だよ」と笑いかけてみせる。
「何かあったんなら、きちんと布告が回されるはずさ。いざというときにきちんと働けるように、演習をしているだけなんじゃないのかな」
それは俺にとっても願望まじりの言葉であったが、同時に掛け値なしの本心でもあった。たとえばドーラの親父さんの言う通り、大規模な盗賊団などが接近しているのだとしたら、それを町の人々に隠す理由はないだろう。きちんと布告を回して、警戒をうながすのが当然の処置であるはずだ。
(いったい何なんだろうな。王都の監査団が帰ってからは、ずっと平和だったのに)
そこで俺は、ふいに昨日の出来事を思い出すことになった。
アリシュナとの、奇妙なやりとりについてである。アリシュナから託された飾り物は腰の物入れに仕舞い込んで、大事に持ち歩いていた。
(何か危険の兆候があったから、アリシュナは俺の身を案じてお守りを預けてくれたってことなのか? でも、それならどうして、理由を教えてくれないんだろう)
そしてそれは、このジェノスの護民兵団にしてみても同じことだった。
常とは異なる動きを見せながら、その理由を明かそうとしない。そういった部分で、アリシュナと護民兵団には相似が見られたのである。
(うーん。だけど、それとこれとは無関係かもしれないしなあ。アリシュナが事情を打ち明けてくれるのを待つしかないか)
そんなモヤモヤとした気持ちを胸に、俺はその日の商売をスタートすることになった。
兵士たちのもたらす不穏な空気にもめげず、お客さんたちはいつも通りに押し寄せてくれている。朝一番のピークが過ぎ去ると、それを見計らったようなタイミングで、建築屋の一団も姿を現した。
「なんだか騒がしいと思ったら、こういうことだったのか。今日は朝から仕事にかかりきりだったから、こんな騒ぎには気づきもしなかったよ」
兵士たちは、青空食堂から数メートルほどの距離を置いて、何やかんやと演習に取り組んでいる。何をしているのかは見て取れなかったが、とりあえず刀を振り回したりはしていないようだ。
「こんな平和な町で、何の演習が必要だってんだろうな。まさか、ジャガルやシムに攻め込むつもりでもあるまいしよ」
「馬鹿なことを抜かすな。ジャガルやシムを敵に回したら、ジェノスの連中はどうやって商売を続けようというのだ?」
バランのおやっさんが、おっかない目つきでアルダスをにらみつけた。
アルダスは、分厚い肩をすくめながら、「冗談だよ」と笑っている。
「でも、ジェノスの兵士が相手取るっていったら、せいぜい盗賊団ぐらいのもんだろ? セルヴァが敵対しているマヒュドラやゼラドなんかは、トトスでひと月がかりの場所なんだからさ。その道中にある町や砦をのきなみぶっ潰さないとジェノスにまでは辿りつけないんだから、この場で戦が起きることなんてまずありえないよな」
「ふん。だったら、盗賊団相手の演習をしているのだろうさ」
「そうなのかねえ。まあ、俺たちの仕事を邪魔しなければ、何でもかまわないけどさ」
豪放なる南の民たちは、宿場町の人々ほど不安そうな様子ではなかった。
そして、その後に訪れた《西風亭》のユーミもまた、あっけらかんとした顔で笑っていたものであった。
「ジェノスは、平和だからねえ。平和ぼけしないように、ああやってわやくちゃ騒いでるんじゃないの? ま、町の外で騒いでる分には、放っておけばいいさ」
そのように述べてから、ユーミはわずかに顔を赤くした。
「そんなことよりさ、例の祝宴ってやつはどうなったの? あれからちっともお呼びがかからないんだけど」
「ああ、フォウの血族の婚儀の祝宴ね。それがさ、市場の商売を他の氏族に引き継がせるために、フォウの血族はちょっと忙しくなっちゃったんだよ。この調子だと、祝宴は白の月までもつれこんじゃうかもしれないね」
「あっそう。ま、遅くなる分には、いっこうにかまわないよ。あたしだって、何も急いでるわけじゃないからさ」
ユーミはいっそう顔を赤くしつつ、それをごまかすようにそっぽを向いた。
「それで……あいつは、元気なの?」
「うん。フォウの血族も、一昨日から狩人の仕事を再開させたよ。まあまだしばらくは狩場の実りも復活しないから、仕掛けた罠の様子を見て回るぐらいだろうけどね」
「それじゃあ、そんなに危ないことはないんだね?」
「うん。本格的にギバが寄ってくるのは、半月からひと月ぐらいが過ぎてからだね」
するとユーミは、そっぽを向いたまま深々と溜息をついた。
「森辺の女衆は、狩人たちが無事に森から戻って来られるように、毎日祈ってるんだろうね。よっぽど心が強くないと、そんなのは我慢できないんだろうなあ」
「うん。俺も最初の頃は、アイ=ファのことが心配でたまらなかったよ。……ユーミだったら、きっと大丈夫さ」
「あ、あたしはまだ嫁入りが決まったわけじゃないんだからね! いいから、さっさと料理をよこしてよ!」
そうしてユーミは、それぞれの屋台で買い求めたギバ料理を手に、青空食堂へと立ち去っていった。
その後に訪れたのは、ベンとカーゴの悪たれコンビである。
「どうも、いらっしゃいませ。ユーミは今、青空食堂で食べてますよ」
「へえ、そうなのか。最近あいつ、つきあいが悪いんだよな」
「ああ。広場のほうにも、あんまり顔を出さないしよ」
ユーミとジョウ=ランの一件は、レビとテリア=マスぐらいしか耳にしていないのだ。隠し事をしている気まずさをこらえつつ、俺は「そうですか」と笑いかけてみせた。
「そういえば最近、レビが姿を見せないんですよね。宿屋では元気に働いてるっていう話を聞いているんですけど」
「ああ、人足の仕事で忙しいんだろ。最近、作業場が遠くなったから、昼は自前の食い物を持っていってるんじゃねえかな」
「親父さんが歩けるようになれば、もうちっとは楽になるんだろうけどな。朝から晩まで働き詰めで、気の毒なこったよ」
そのように述べてから、カーゴは細長い顔に笑みを浮かべた。
「でも、立派な宿屋で働けるようになったのは、幸運だったよな。あいつ、あそこの娘さんといい感じだったけど、どうなったんだろう?」
「え? いやあ、どうでしょう。そういう話は、あまりしないので」
「あいつは自分の生まれに引け目を感じてるみたいだけどさ。子供に親を選ぶことはできねえんだから、そんなことで引け目を感じる必要はないよな。せっかく娘さんのほうがその気になってるんだから、とっととくっついちまえばいいんだよ」
「そうそう、レビにはああいう大人しそうな娘さんがお似合いだ。あいつだって、もうちっとまともな家に生まれついてれば、俺たちみたいな悪たれとつるむことにもならなかったんだろうしよ」
カーゴとベンは、愉快そうに笑い声をあげていた。
口は悪いが、やっぱり友人であるレビの行く末を思いやっているのだろう。
そうしてひとしきり笑ってから、カーゴが俺のほうに顔を寄せてきた。
「ところでさ、森辺の人らはまだ盤上遊戯で遊んでるのか?」
「ええ。この前の家長会議でもお披露目されたんですけどね。あの調子だと、すべての氏族で盤と駒を作ることになりそうです」
「へえ、そいつはいいや。次に手合わせするのが楽しみだな」
「あはは。アイ=ファもカーゴと手合わせする日を楽しみにしてましたよ」
そこで料理が仕上がったので、俺はふたりに『ギバ肉の卵とじ』を手渡した。調理していたのは、俺に手ほどきをされたフェイ=ベイムである。
「お、ありがとさん。じゃ、またな」
ふたりは青空食堂の向こう側に居並んだ兵士たちを気にすることもなく、屋台の前から立ち去っていった。
これといっておかしなところのない、俺たちにとっての日常風景である。
その後も、ターラが訪れてリミ=ルウとぞんぶんに親交を深めたり、交流会で親しくなった若衆が大挙して訪れたりして、賑やかながらも平和な時間が過ぎ去っていくことになった。
「……何だか今日は、ジェノスを出ていこうとする人間が多いように感じませんか?」
フェイ=ベイムがそのように言いだしたのは、あと半刻ほどで終業時間といった頃合いである。
確かに目前の通りでは、荷車を引いて街道の北側に抜けていこうとする人間が多いように思える。それらの光景を確認してから、俺は「そうですね」と答えてみせた。
「月の半ばの15日は、旅立ちの吉日とされているそうですよ。そのせいで、今日を出立の日と定めた人が多いのかもしれません」
「町には、そのような習わしがあるのですか。わたしはまったく知りませんでした」
「ええ。俺も普段は、まったく意識していませんでしたね」
しかし、俺にとって、今日という日は特別な意味合いを持っていた。
青の月の15日――それは、スン家の大罪人をおびき寄せるために、シムに向かう商団に扮したザッシュマたちが、森辺に足を踏み入れた日であったのである。
15日が旅立ちの吉日だとカミュア=ヨシュに聞かされたのも、その際であった。
そうして彼らは森辺に踏み込み、まんまとおびき寄せられたザッツ=スンとテイ=スンを返り討ちにして――そして、その夜にザッツ=スンは、獄中で魂を返すことになったのだった。
(言ってみれば、今日がザッツ=スンの命日ってことになるんだよな)
しかし、森辺の集落に命日という概念は存在しない。
少なくとも、その日に故人を偲ぶための儀式を行ったりはしないのだ。
左右の屋台を見回してみても、かつてスン本家であった人々――ヤミル=レイやツヴァイ=ルティムやオウラ=ルティムから、何か普段と異なる感情を読み取ることはできなかった。
(でも、俺でさえ覚えていることを、彼女たちが忘れるわけはないよな)
仮に命日という概念があったとしても、彼女たちはすでにスン家と血の縁を絶たれているので、何を為すことも許されない。
だから彼女たちは、胸中の思いを余人にさらすことなく、普段通りにふるまっているのかもしれなかった。
「……でも、そういう理由があったのなら、何よりでした。わたしはてっきり、ジェノスの不穏な雰囲気に嫌気がさして、町を出ていく人間が増えてしまったのかと思ったのです」
フェイ=ベイムの声で、俺は我に返ることになった。
「不穏な雰囲気というのは、あの兵士たちのことですね? 大丈夫ですよ。他の町でも今日を出立の日にした人は多いのでしょうから、出ていく人が多い分、ジェノスに入ってくる人も多いはずです」
「ええ、それなら安心です」
そのように述べながら、フェイ=ベイムは肉の詰まった革袋の中身を覗き込んだ。
「肉の残りは、あと10食分ていどのようですね。これなら、下りの二の刻までには売り切ることができそうです」
「はい。終業時間までは、あと半刻ていどでしょうからね。料理を売り切ったら、今度はあっちの屋台の手伝いを――」
俺がそのように言いかけたとき、ふいに奇怪な音色が響きわたった。
ブオオオォォォォン……という、重々しい、地鳴りのような音色である。
どこか遠くから響いてきているようであるが、まったく馴染みのない音色だ。屋台の前を行き交っていた人々も、けげんそうに周囲を見回していた。
「何でしょう? 何かおかしな音が聞こえたみたいですけど……」
そのように述べかけた俺の腕が、いきなり横合いからひっつかまれた。
びっくりして振り返ると、隣の屋台で働いていたはずのトゥール=ディンが、真っ青な顔をして俺の腕に取りすがっている。
「ア、アスタ、今のは……ギバの遠鳴きです」
「ギ、ギバの遠鳴き?」
「は、はい。ギバはときおり、あのように鳴くのです。でも、宿場町まで聞こえるほどの大きな遠鳴きなんて……いったいどれだけの数のギバが鳴き声をあげているのか……」
そのとき、新たな異変が生じた。
屋台の裏のスペースで身体を休めていたトトスたちが、暴れ始めたのだ。
雑木林の樹木の枝に繋がれたトトスたちが、その鉤爪の生えた両足で地団駄を踏んでいる。いつものほほんとしているトトスからは考えられない、恐慌しきった動作であった。
その間も、ギバの遠鳴きは大気を震わせている。
道行く人々も、屋台に控えた森辺の民も、やがてはトトスに劣らぬ焦燥感にとらわれることになった。
そして、最後の異変である。
それは、至極ゆるやかにやってきた。
俺たちの踏みしめていた地面が、ぐらぐらと揺れ始めたのである。
「じ、地震かな?」
トゥール=ディンにぎゅっと腕を抱えられたまま、俺はそのように言ってみせた。
俺たちの目の前では、鉄板の置かれた屋台が頼りなく揺れている。
「これはけっこう大きそうだね。火を止めたほうがいいかも――」
そのとき、ぐわんと地面が跳ねた。
あまりに大げさな言い様かもしれないが、俺には地面が激しく波打ったように感じられたのだった。
俺は悲鳴をあげるトゥール=ディンの肩を抱き寄せつつ、他の女衆に向かって叫んだ。
「いや、駄目だ! 屋台から離れたほうがいい! みんな、下がるんだ!」
叫びざま、俺はトゥール=ディンとともに後ずさった。
その目の前で、屋台が次々と横倒しになっていく。
ギルルの繋がれた樹木のもとまで後退した俺は、トゥール=ディンの頭を抱え込みながら、しゃがみ込んだ。横目で見ると、他の女衆もなんとか全員、退避を完了させたようだった。
そこに、「うわあ!」という声が響く。
振り返ると、青空食堂の柱が倒れて、逃げ遅れたお客の頭上に革張りの屋根が覆いかぶさるところであった。
「危ない!」という声とともに、ユン=スドラがそのお客の腕を引っ張る。
地面に突っ伏したお客の足もとに、屋根や柱がばさばさと倒れ込んだ。すっかり我を失ってしまったお客の腕をつかんだまま、ユン=スドラも雑木林のほうへ退避する。
街道のほうでは、すべての人々が地面に突っ伏してしまっていた。
幸い、道の真ん中であれば、何も危険なことはない。それでも人々は頭を抱え込み、口々に西方神の名を唱えているようだった。
そんな周囲の光景も、ぐらぐらと左右に揺らいでいるように感じられる。
主街道に敷きつめられた石畳はみしみしと軋んで、今にも砕け散ってしまいそうだ。
これほどの地震は、俺の故郷でもそうそう体感したことはなかった。
「母なる森よ……どうかあなたの忠実なる子らをお守りください……」
トゥール=ディンは俺の腕の中で、がたがたと震えてしまっている。
その小さな頭をぎゅっと抱え込みつつ、俺は「大丈夫だよ」と言ってみせた。
「こんな地震は、すぐにおさまるさ。ここでじっとしてれば、何も危険なことはないから――」
そのとき、ギルルが「クエーッ」と鳴いた。
それと同時に、俺の視界がわずかに暗くなる。
振り返ると、もっと離れた場所に停めておいたはずの荷車が、こちらに向かって倒れ込んでくるところであった。
俺は悲鳴をあげるいとまもなく、トゥール=ディンもろともギルルの足もとに身体をすべりこませる。
荷車は、ギルルの繋がれている樹木に衝突し、そのままずるずると横倒しになった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
半分は自分に言いきかせながら、俺はそのように繰り返した。
俺の胸もとに顔をうずめながら、トゥール=ディンはこくこくとうなずいている。
それから、どれほどの時間が過ぎたのか――
世界を揺るがしていた鳴動も、ついには静まっていった。
ただ、屋台はのきなみ横倒しとなって、鉄板や鉄鍋の中身を周囲にぶちまけてしまっている。そして、いくつかの屋台からは火鉢や薪が飛び出して、地面の上でちろちろ赤い火をあげていた。
「よし、もう大丈夫みたいだね。余震に気をつけながら、火の始末をしよう」
俺はそのように述べてみせたが、まだトゥール=ディンが胸もとに取りすがっていたので、動くことができなかった。
そこに、リミ=ルウがちょろちょろと走り寄ってくる。
「アスタ! 水瓶も、倒れて割れちゃった! どうやって火を消せばいいんだろう?」
「うん、そっか。それじゃあ……砂でもかぶせるしかないかな?」
「砂ね、わかったー! レイナ姉、砂だってー!」
他の女衆は、おそるおそる立ち上がろうとしているところであった。
そこに、たくさんの人影が押し寄せてくる。
それは、少し離れた場所で演習をしていた護民兵団の兵士たちだった。
その先頭に立っていた兵士が、地面で燃えていた薪の上に、大きな革の敷物みたいなものを、ばさりとかぶせる。そうして兵士が敷物を踏みにじると、薪の火は無事に消し止められたようだった。
「火の始末は、我らにまかせよ! 負傷をした人間はいるか?」
「いえ……わたしたちは、大丈夫だと思います」
樹木に取りすがって立ち上がったレイナ=ルウがそのように答えると、小隊長の房飾りをつけた兵士が「よし」とうなずいた。
兜の陰から見える顔はだいぶん青ざめているように思えたが、それでも兵士らしい果敢な表情をたたえている。
「それでは、この場で大人しくしていろ。これから救助活動を始めるので、決して邪魔にならぬようにな」
「は、はい。承知いたしました」
兵士たちは街道で倒れ伏していた人々を助け起こしつつ、列をなして町の中央部へと突き進んでいった。
その勇壮なる姿を見守りながら、レイナ=ルウはぽかんとしている。
「何でしょう……まるでこのような騒ぎが起きることを予見していたかのようですね」
その言葉で、俺は愕然と打ちのめされることになった。
打ちのめされながら、半ば無意識の内に腰の物入れをまさぐってしまう。そこには、アリシュナから預かった腕飾りの硬い感触があった。
(まさか……アリシュナは、この地震のことを予見していたのか?)
トゥール=ディンの身体を抱え込んだまま、俺はぼんやりとそのように考えた。
しかし、アリシュナと再会しない限り、その答えを得られることはできなかった。