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異世界料理道  作者: EDA
第三十四章 三つの縁
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大神の見えざる手①~予兆~

2018.4/23 更新分 1/1 ・2018.5/14 誤字を修正

・今回は全8回の更新です。

 家長会議から4日が過ぎて、青の月の14日。

 その日も俺たちは、普段通りに宿場町での商売に励んでいた。

 今後、ジェノスにおける商売については、すべての氏族に偏りなく富が行き渡るように仕事が分担されることに決定されたわけであるが、屋台の商売についてはこれまで通り、ファとルウの家が取り仕切ることが許されたのである。


 また、その他の仕事についても、いきなり大がかりな変更をすることはできなかった。まずはそのために、引き継ぎの作業というものに取り組まなければならなかったのだ。


 大まかに言って、仕事は2種類。生鮮肉を市場で売る仕事と、腸詰肉およびギバ・ベーコンを城下町に売る仕事である。

 それらはいずれも、すべての氏族がローテーションで受け持つことになっていた。そこから得られる稼ぎばかりでなく、すべての苦労もすべての氏族で受け持つべきである、という結論に至ったのだ。

 さしあたって、生鮮肉の仕事はサウティおよびラヴィッツ、腸詰肉とギバ・ベーコンの仕事はベイムの家に引き継がれることになっていた。


 現在は、白の月の始まりまでに作業を引き継げるように、手ほどきを進めているさなかである。サウティの人間はダイの家に、ラヴィッツの人間はフォウの家に通って、まずは肉を箱詰めにする作業を習い、ベイムの人間はガズかラッツの家に通って、腸詰肉とギバ・ベーコンの正しい作り方を習っている。そうして白の月からは、3ヶ月ごとに担当する氏族を交代させていく、という段取りになっていた。


 なおかつ、商売用の生鮮肉を準備する仕事に関しては、ファとルウを除くすべての氏族が総がかりで受け持つことになっている。

 屋台の商売を除けば、これがもっとも直接的に富となる行いであったので、まずはすべての氏族に銅貨が回るようにと、そのように定められたのだ。


 ただし、町で売るギバ肉というものは、血抜きも解体も万全に仕上げられている必要があるし、なおかつ、なるべく新鮮でなければならない。最初の内は、各氏族が1頭分ずつの生鮮肉を厳選して持ち寄って、それが使用されることと相成った。


 最近では、月に5、6回のペースで肉の市場に参加しており、そのたびにギバ10頭分以上の肉を準備している。ひと月の稼ぎは、赤銅貨8000枚といったところであろう。まずはその稼ぎが、ファとルウの血族を除くすべての氏族で分けられるのだ。

 そして、それ以上の稼ぎが、全氏族の共有の資産として保管されることになる。それらは前回の資産とともに、まずは薬や刀などが不足している氏族のためにつかわれて、残りはなるべく猟犬の購入にあてがおうという話に落ち着いていた。


 とはいえ、そういった生活必需品に関しては、城下町から授かっている褒賞金だけでまかなうことができていたので、実質的にはまるまる猟犬につかうことができる。ただ、いちどきにすべての資産をつかい果たしてしまうのは危うい話であったし、また、猟犬というのは銅貨さえ出せばすぐに手に入るというものではなかったので、まずはジャガルから猟犬売りの商人が到着する日を待つしかなかった。


 ともあれ、森辺の民は新たな道を進もうとしている。

 すべての氏族が手を携えて、ジェノスでギバの肉を売るという商売に取り組もうとしているのだ。

 その変革が、森辺にどのような行く末をもたらすのか。それを見定めるために、俺たちは大きな一歩を踏み出したところであったのだった。


                   ◇


「なんだかよくわからないが、アスタたちがこれまで通りに商売を続けられるようになったのは、何よりだよ」


 その日、俺たちの屋台の前でそのように述べていたのは、建築屋の副棟梁アルダスであった。

 棟梁であるバランのおやっさんは、そのかたわらで「ふん」と鼻息をふいている。


「お前もしつこい男だな。もう何日も前に終わった話だというのに、何をぐずぐずと抜かしているのだ」


「だって、事と次第によってはアスタたちが商売を取りやめていたかもしれないんだぞ? そんなことになったら、今後はジェノスまで出向いてくる楽しみもなくなっちまうじゃないか」


「そのような楽しみが生まれたのは、昨年からだろうが? 俺たちは、ギバの料理を食うためにジェノスまで出向いてきているわけではないのだぞ?」


「そんなこと言って、アスタに話を聞かされたときには、おやっさんが一番青い顔をしていたくせにさ」


 俺は無用な心配をかけないように、家長会議ぎりぎりまでその話は打ち明けずにおいたのだ。その話を聞かされたときに、バランのおやっさんがどれほど顔色をなくしていたかは、俺にとっても記憶に新しいところであった。


「お騒がせしてしまって、本当に申し訳ありませんでした。どうかこれからもよろしくお願いいたします」


 俺がそのように取りなすと、アルダスは「もちろんだ!」と笑ってくれた。


「それに、俺たちを森辺の祝宴に招いてくれるって話も、お許しをもらえたんだろう? 俺はもう、そいつが嬉しくってさあ」


 その件についても、俺は家長会議で議題にあげてもらったのである。異国の民であるジャガルの人々を祝宴に招きたいという俺からの要望は、大きな関心をひかない代わりに、大きな反発を招くこともなかったのだった。

 もちろんその際には、フォウ、ガズ、ラッツの人々から、後押ししてもらうことができていた。それらの家長たちも、南の民そのものに大きな関心はないようであったが、ファの家と一緒に祝宴を開けるならば是非もないということで、快く力を貸してくれたのである。


「期日は、青の月の31日でいいのですよね? 仕事の終わる日が早まったり遅まったりすることはないのですか?」


「ああ。青の月の31日できっかり終わるように、適当に仕事を割り振ってるんだよ。だから日によっては、屋根や柱をちょちょいと直すだけで、やることのなくなっちまうときもあるわけだな」


「なるほど。仕事を詰めて帰る期日を早めれば、そのぶん宿賃も浮くのに、そうはしないのですね。……ああ、もちろん、俺はなるべく長めに滞在していただけたほうが嬉しいのですけれど」


「そうだな。飛び込みで急な仕事が入るときもあるから、なるべくゆとりを持たせてるんだ。わざわざジェノスまで出向いてきて、急いで帰るのも味気ないしな」


 そのように述べてから、アルダスはまた愉快げに笑った。


「で、去年からはこうして美味いギバ料理も食えるようになったからさ。なおさら急いで帰る気はなくなっちまったよ。あと半月ていどで帰らなきゃならないのが惜しいぐらいさ」


「ええ、何だか、あっという間でしたね。……最初のほうは、かなりバタバタしていましたし」


「ああ、俺たちと同じ日に、あの王都の兵士どもがやってきたんだっけ。今となっては、何だか懐かしいや」


 そのような会話を繰り広げている内に、ようやくパスタが茹であがった。本日は日替わり献立の『ギバ肉の揚げ焼き』をトゥール=ディンに託し、俺が『ギバ肉とナナールのカルボナーラ』を受け持っていたのである。


「どうもお待たせしました。またよろしくお願いします」


「ああ、こちらこそな。宿屋での食事も楽しみにしているよ」


 建築屋の一団がぞろぞろと青空食堂のほうに消えていくと、屋台の周りは少し静かになった。本日は彼らも遅い到着で、すでに中天を大きく過ぎていたのだった。


「売れ行きはいつもと同じぐらいかな。トゥール=ディンのほうはどうだい?」


「はい。それほど大きく変わりはないようです。昨日や一昨日よりは、ずいぶん落ち着いているようですね」


「うん。家長会議とその翌日は連休にしちゃったから、昨日や一昨日が騒がしかったのはその反動だったんだろうね」


 家長会議の翌々日から仕切りなおして、本日は3日目の営業日であった。5日間の営業日の、ちょうど中日である。

 ちなみに明日は家長会議を終えて初めての肉の市であり、サウティとラヴィッツの人々も研修のために同行する手はずになっていた。


(サウティとラヴィッツの人たちが宿場町で肉を売るなんて、それだけで何だか感慨深くなっちゃうな)


 そんな風に考えながら、俺はこっそりトゥール=ディンの横顔を盗み見た。

 トゥール=ディンは真剣な面持ちで、ダゴラの女衆に揚げ焼きの手ほどきをしている。


 実は家長会議で提案された案件において、棄却されることになった事項がひとつ存在した。

 それは、「ディンとリッドの家が独自で屋台を出す」という提案であった。

 会議の終盤、商売についての細々とした話が取り決められていた際に、それを提案したのはリッドの家長たるラッド=リッドであった。


「いっそのこと、俺たちもルウ家のように、独自で屋台の商売に取り組んでみてはどうだろうか? トゥール=ディンほどのかまど番がいれば、それも難しくはないように思えるぞ!」


 ラッド=リッドはいつも通り豪放に笑いながら、そのように述べていた。


「ファの家は、3つも屋台というものを出しているのだろう? その内のひとつをディンとリッドの家に任せてしまえば、ファの家の負担も減るのではないか? それに、余所の氏族から肉を買ったり、手伝いを頼んだりすることも減るから、屋台を減らしてもそれほどファの家の富が減ることにはなるまい!」


 それは確かに、ラッド=リッドの言う通りであった。富も苦労もすべての氏族で分かち合う、という根本の理念にも合致する提案である。


 が――それはトゥール=ディン自身の意思によって、棄却されてしまったのだった。

 家長会議の日の夜、あの楽しい酒宴のさなかにその話をディンの家長から聞かされたトゥール=ディンは、はらはらと涙をこぼしてしまったのである。


「それが族長や家長の取り決めたことであるのなら、わたしは従います。でも……もしもわたしに道を選ばせていただけるのなら……わたしは自分で屋台を出すのではなく、アスタの手伝いを続けたいと願っています」


「何故だ? 理由を述べるがいい」


「……自分で屋台を出すならば、わたしは毎日その下ごしらえの仕事を取り仕切ることになります。そうしたら……きっとアスタに手ほどきをされる機会も失われてしまうので……」


 そうしてトゥール=ディンが泣き伏してしまうと、ディンの家長もグラフ=ザザも二の句が継げなくなってしまったのだった。

 その結果として、トゥール=ディンはこれまで通り、ファの家に雇われた立場として働いてくれている。

 しかしこの4日間、トゥール=ディンはずっと浮かない面持ちをしているように感じられた。おそらくは、血族の期待に応えられなかったことに、思い悩んでいるのだ。


 今では族長のグラフ=ザザまでもが、トゥール=ディンの力量には一目置いているのだと聞き及んでいる。トゥール=ディンがルウ家の人々と同じように、独自で屋台の商売を取り仕切れば、それはきっとグラフ=ザザや他の血族たちにとっても非常に誇らしいことであるのだろう。それぐらい、かまど番の仕事やジェノスでの商売というのは、森辺において価値のあるものと見なされ始めているのである。


 それをトゥール=ディンは、自分の都合ではねのけてしまった。そのことに非難の声をあげるものがいなかったとしても、トゥール=ディンの繊細な心は自責の念に苛まれてしまっているのだろうと思われた。


「ねえ、トゥール=ディン、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」


 揚げ焼きの手ほどきがひとまず終了したところで、俺はそのように声をかけてみせた。


「本当は、帰り道にでも話そうかと思ってたんだけど。しばらくお客さんも来なそうだし、聞いてもらえるかな?」


「は、はい。何でしょうか……?」


「実は、屋台の商売についてなんだ。ほら、トゥール=ディンが屋台の責任者になればいいっていう話があっただろう?」


 とたんにトゥール=ディンの顔は、不安と焦燥の色に塗り潰されてしまった。

 それをなだめるべく、俺は明るく笑ってみせる。


「最初に言っておくと、俺はこれからもトゥール=ディンにこちらの下ごしらえと勉強会に参加してほしいと思ってる。それを大前提として、聞いてもらえるかな?」


「は、はい……いったいどのようなお話なのでしょう……?」


「うん。実はさ、俺たちが出してる屋台の他に、甘い菓子の屋台を出してみたらどうだろうって思ってたんだ」


「え?」と、トゥール=ディンの目が丸くなった。


「森辺の民の目的は、ギバの肉を売ることだ。だから、菓子の屋台を出しても、意味はない。……って、俺はそんな風に考えてたんだけどね」


「は、はい。わたしもそのように思いますが……」


「でも、城下町や宿場町の人たちからは、菓子の屋台を出してほしいって言われているんだよ。城下町の人たちは、砂糖や蜜がもっと売れるように、宿場町の人たちは、甘い菓子の美味しさをもっと知らしめるためにっていう思いでね。宿場町でもヤンの指導で菓子は売りに出されているけど、いまひとつ芳しい結果が得られないみたいなんだ」


「はあ……」と、トゥール=ディンは不安そうに眉尻を下げている。


「だから、ギバ料理の屋台で評判を呼んでいる俺たちが菓子も売り始めれば、これまで以上に菓子の存在が宿場町に浸透するんじゃないかっていう話みたいだね。それに、森辺の民は西の民と正しく絆を深める必要があるから、ギバ料理だけに固執する必要はないのかなって、俺も考えをあらためたんだよ」


「もしかして……その菓子の屋台を、わたしが取り仕切るべきだというお話なのでしょうか……?」


 トゥール=ディンの目に、ついにじんわりと涙が浮かび始めてしまった。

 俺は慌てて、いっそう朗らかな笑みをこしらえてみせる。


「うん、まさにそう言おうと思ってたんだけどね。でも、菓子だったら下ごしらえにそれほど手間はかからないだろう? ていうか、手間のかからない内容にしてしまえばいいんだよ。そうしたら、これまで通りにこっちの下ごしらえの仕事や勉強会に参加しながら、菓子の屋台を取り仕切ることもできるじゃないか?」


「…………」


「こういう営業中の時間は、別々の屋台で働くことになっちゃうけどさ。でも、この時間帯はもう、トゥール=ディンにはあんまり学ぶこともないはずだ。むしろトゥール=ディンは、人に教える立場になっちゃったぐらいなんだからね」


「…………」


「もちろんそれは、今まで以上に大変な仕事になるんだろうと思う。でも、トゥール=ディンだったら、やりとげられると思うんだ。言ってみれば、レイナ=ルウやシーラ=ルウなんかは、もうずっと前からそういう姿勢で仕事を続けていたんだからね。彼女たちに負けない力量を持つトゥール=ディンなら、きっと――」


「わかりました」と、トゥール=ディンは涙をぬぐった。

 が、後から後から涙はこぼれてしまい、けっきょくトゥール=ディンの頬を濡らしてしまう。


「家長や族長と、相談してみます。それで許しをもらえたら……アスタの言う通り、新しい屋台の仕事に取り組んでみたいと思います」


 そうしてトゥール=ディンは、涙をこぼしながら微笑んだ。


「アスタ、ありがとうございます。わたしは……ありがたい気持ちと誇らしい気持ちでいっぱいです」


「うん」と、俺も笑顔を返してみせた。

 そこに新たなお客がやってきたので、ダゴラの女衆がトゥール=ディンに笑いかける。


「今度はわたしがひとりで焼きあげてみます。トゥール=ディンは、少し休んでいてください」


「あ、ど、どうも申し訳ありません……」


 トゥール=ディンは屋台の陰に引っ込んだが、なかなか涙は止まらないようだった。

 こちらは新規のお客もいなかったので、俺はトゥール=ディンにさらなる言葉を投げかけてみせる。


「そういえばさ、トゥール=ディンに断られたときのために、説得のネタをもうひとつ準備してたんだけど。せっかくだから、それも伝えておこうかな」


「は、はい。何でしょうか?」


「トゥール=ディンが菓子の屋台を出したら、ジェノス侯爵家の人が毎日買いに来ると思うんだよね。いつもの菓子ほど凝った内容にはならないだろうけど、トゥール=ディンの菓子を毎日食べられるようになったら、オディフィアも喜ぶんじゃないかな」


 手ぬぐいで頬をぬぐいながら、トゥール=ディンはまた微笑んだ。


「そのようなことを言われてしまったら、ますます断れません。……アスタ、本当にありがとうございます」


「ふふん。これでも俺は、トゥール=ディンの師匠のつもりだからね。菓子の腕前ではとうてい太刀打ちできないけどさ」


 トゥール=ディンの眼差しがあまりに純真であったので、俺は照れ隠しの言葉を述べることになった。

 そこに、俺の手伝いをしてくれていたリリ=ラヴィッツが声をかけてくる。


「アスタ。こちらのお客が、アスタをお呼びになっています」


「あ、すみません」と振り返った俺は、そこに懐かしい姿を発見することになった。


「ああ、アリシュナ。ずいぶんひさびさですね。お元気でしたか?」


「はい」と、静かな声が返ってくる。

 それはジェノス侯爵家の客分たる、占星師のアリシュナであった。


 俺と同じぐらいの背丈で、びっくりするぐらい華奢な体格をした、シム生まれの少女である。旅用のフードつきマントできらびやかな飾り物を隠したアリシュナは、うやうやしげにも見える仕草で一礼してきた。


「顔をあわせるのは、ひと月ぶりぐらいでしょうか。最近は、占いの仕事が忙しかったんですか?」


「いえ。いくぶん、体調、崩していました。私、身体、弱いのです」


 そういえば、彼女は城下町から宿場町まで歩いてくるだけでも疲弊しきってしまうようなお人であったのだ。いつでも元気いっぱいなディアルとは、そういう部分でも対照的である。


「それは大変でしたね。もうお身体は大丈夫なのですか?」


「はい。復調、しました」


「それは何よりです。……ただ今日は、残念ながら『ギバ・カレー』の日ではないのですよね」


 俺がそのように述べてみせると、アリシュナはゆっくりと首を横に振った。


「今日、アスタ、これを届けに来ました」


「え?」と首を傾げる俺の鼻先に、奇妙な飾り物が差し出されてきた。

 おそらくは、手首にはめるブレスレットである。複雑な形に編み込まれた銀の鎖に、七色に輝く不思議な石が嵌め込まれている。見るからに、値の張りそうな品であった。


「ど、どうして俺に、このようなものを? アリシュナから贈り物をされるいわれはないように思うのですが……」


「いえ。アスタ、『ギバ・カレー』、いつも届けてくれています。私、とても感謝しています」


「いえいえ、お代はいただいているんですから、何も気にしないでください。それに、料理をアリシュナのもとまで届けてくれているのは、俺じゃなくてダレイム伯爵家の方々ですからね」


 俺がそのように答えると、アリシュナは無言でじっと見つめ返してきた。

 見ているだけで魂を吸い込まれそうになる、黒くて神秘的な瞳である。


「だけど、私、贈りたいのです。受け取ってもらうこと、できませんか?」


「そうですね。普段のお礼というには、あまりに不相応な贈り物であるように思えてしまいますし……そもそも俺は、飾り物を身につける習慣もないのですよ」


「身につける必要、ありません。ただ、持っていてほしいのです」


 そこでアリシュナはいったん口を閉ざしてから、さらに言った。


「では、次に会うときまで、預かってもらうこと、できませんか?」


「はい? 預かるだけで、いいのですか?」


「はい。私、アスタ、かけがえのない相手、思っています。この品、絆の証です」


 俺はまじまじとアリシュナの姿を見返したが、やはりその端正な細面から感情や内心を読み取ることはできなかった。ただ、ほんの少しだけ寄せられた眉のあたりに、憂いげな色を感じられなくもない、というぐらいだ。


「次に会ったとき、事情、お話しします。それまで、この品、預かってもらいたい、思います。大事な品なので、肌身離さず、お願いいたします」


「……わかりました。そこまで言うなら、お預かりしましょう」


 俺はついに根負けして、それを受け取ることになった。

 俺とて、アリシュナのことは信頼しているし、確かな友愛を抱いてもいるのだ。アリシュナに邪なたくらみなどないということだけは、信ずることができた。


「次に会ったとき、事情を話してもらえるのですね? 森辺において、虚言は罪とされていますよ?」


「はい。わきまえています」


 アリシュナは、深々と頭を垂れてきた。


「仕事の最中、申し訳ありませんでした。それでは、失礼いたします」


「え? もう帰られるのですか?」


 アリシュナは答えず、ふわりときびすを返してしまった。

 いかに『ギバ・カレー』が売られていないとはいえ、何の料理も買わずに立ち去るというのは、あまりにアリシュナらしからぬ行いだ。きらきらと輝く飾り物を手に、俺はわけもわからず立ち尽くすことになった。


(そういえば……俺がダバッグに旅行に行くときも、アリシュナはお守りを預けてくれたんだよな)


 しかしあのときはきちんと事情を説明してくれたし、今の俺はどこかに出かける用事もない。ざわめきに満ちた白昼の中で、俺は狐につままれたような心地であった。


                  ◇


 その後は特におかしな事態に見舞われることもなく、俺たちは森辺に帰還することになった。

 本日はファの家で手ほどきをする日取りであったので、ルウの集落でティアと合流したのちに、さらに荷車を急がせる。そうしてファの家に帰りつくと、たくさんの女衆が家の前で待ち受けていた。


「アスタ、お疲れさまでした。今日はどうぞよろしくお願いいたします」


 一同を代表して挨拶してきたのは、リッドの女衆であった。ここ数日は、リッドとディンの新たな顔ぶれに下ごしらえの仕事を手ほどきしているのである。


 家長会議において、すべての氏族がファの家の商売を手伝うことが許されるようになった。これまでも陰ながらに力を貸してくれていたリッドとディンの人々が、今後は大手を振って参加できるようになったのだ。その場にいる人々は、誰もが明るい笑顔で俺のことを出迎えてくれていた。


 そして家の中からは、「ばうっ」というお馴染みの声が聞こえてくる。俺が戸板を引き開けると、番犬のジルベが喜び勇んで飛び出してきた。


「よしよし、ジルベも留守番、お疲れさま」


 俺が頭を撫でてやると、ジルベはまた嬉しそうに声をあげた。

 収穫祭から半月が過ぎて、アイ=ファは昨日から狩人の仕事を再開させたのである。アイ=ファやブレイブやティアと半日を過ごすことに慣れてきていたジルベは、それを非常にさびしく思っている様子であった。


「それじゃあ、仕事を始めましょう。かまど小屋のほうにどうぞ」


 屋台の商売に参加していたメンバーも引き連れて、俺は裏手のかまど小屋を目指した。本日の顔ぶれは、トゥール=ディンにユン=スドラにリリ=ラヴィッツ、それにダゴラとマトゥアの女衆だ。トゥール=ディンとユン=スドラはもちろん、今ではマトゥアの若き女衆も、新人に手ほどきできるぐらいの力量に成長していた。


「明日はいよいよ、肉の市ですね。リリ=ラヴィッツも、宿場町に下りるのですか?」


 途中で食料庫に寄って、必要な食材を運び出しながら、ユン=スドラがそのように声をあげた。お地蔵さまのように柔和でつかみどころのない風貌をしたリリ=ラヴィッツは、「いえ」と首を振っている。


「フォウやダイでは若い人間が中心となってその仕事を受け持っていたそうなので、ラヴィッツとサウティもそれにならうことになりました。それに、わたしは屋台の手伝いで宿場町に下りていますので、他の人間に機会を譲るべきでしょう」


「ああ、なるほど。ラヴィッツの他の女衆がどのような気持ちを抱くことになるか、楽しみなところですね」


 ユン=スドラが屈託のない笑顔でそう述べると、リリ=ラヴィッツは「ええ」とうなずいた。


「そういえば、ラヴィッツも明日のための肉を1頭分、準備したのでしょう? その銅貨で、新たな食材を買いつけたりはしないのですか?」


「いきなり新たな食材を買いつけたりはしないと思います。そのような真似に及ぶのは、すべての眷族にまで十分な富が行き渡ってからとなりましょう」


「そうですか。ラヴィッツのかまど番がファの家の勉強会に参加する日を楽しみにしています」


 リリ=ラヴィッツはまた「ええ」とうなずいていたが、やっぱり内心は読み取りにくかった。常にうっすらと微笑んでいるように見えるがゆえに、内心の読みにくい、彼女はジザ=ルウと似たようなタイプであるのだ。


「ところで、ラヴィッツの家はかつてファの家と血族であったそうですね! 家長から話を聞いて、わたしはとても驚いてしまいました!」


 そのように口をはさんだのは、マトゥアの若き女衆であった。


「それでラヴィッツの家は、ファの家にことさら厳しい目を向けていたという話でしたが……でも、どうしてわたしたちにその話を打ち明けてくれなかったのですか?」


「……わたしは正しい目でファの家の行いを見定める必要があったのです。古き時代の悪縁を打ち明けることは、その行いのさまたげになると考えていました」


 そんな風に述べてから、リリ=ラヴィッツはふいに俺のほうに目を向けてきた。


「そうしてわたしは、自分の目で見たものをすべて正しく家長にお伝えしたつもりですが……それでも家長の心を解きほぐすことはできなかったようですね。家長会議では、ファの家の行いの是非を問うために、ずいぶん長きの時間がかけられることになったのだと聞き及んでいます」


「いえ、そんなことはありませんよ。デイ=ラヴィッツが慎重になっていたのも当然の話だと思いますし……最終的にはファの家の行いを認めてもらえたのですから、俺はとても喜ばしく思っています」


「ええ、わたしも喜ばしく思っておりますよ、アスタ」


 そう言って、リリ=ラヴィッツはにんまり微笑んだ。

 それは普段のお地蔵様のような笑顔ではなく、悪戯小僧みたいな笑顔であるように思えてしまった。


「ファの家もラヴィッツの家も家長が偏屈で、おたがいに苦労いたしますね。わたしには、それこそがかつてファとラヴィッツが血族であった証のように思えてしまいます」


「え? そ、そうですか? ここ最近は、うちの家長の偏屈さに悩まされた覚えもないのですが……」


「それはあなたがたが、確かな情愛で繋がれているゆえでしょう。ファの家の家長は、家人に対してはとても情が深いお人のようですからね」


 リリ=ラヴィッツは、くっくっくと声を出して笑った。

 彼女はお地蔵様のような顔の下に、このような気性を隠し持っていたのだ。


(今までは、猫をかぶってたのか。さすがはあのデイ=ラヴィッツの奥方だ)


 しかしそれでも、リリ=ラヴィッツがこれまで隠していた気持ちや本性をさらけ出してくれたのだ。同じ道を歩む同胞として、それは寿ぐべき変化なのだろうと思うしかなかった。


「それでは、下ごしらえの仕事を始めましょう」


 気を取りなおして、俺はそのように号令をかけた。

 その頃には、常ならぬ様子を見せていたアリシュナのことも、俺の脳裏からは綺麗に消え去ってしまっていたのだった。

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