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異世界料理道  作者: EDA
第三十四章 三つの縁
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森辺の家長会議⑧~酒宴~

2018.4/9 更新分 1/1 ・2018.4/16 文章を修正

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 ダリ=サウティの口から酒宴の開始が告げられると、どっさりと準備されていた果実酒の土瓶が、手から手へと回されることになった。

 そして、何やら猛烈な勢いで、俺とアイ=ファのほうに押し寄せてくる人々がいる。


「ようやく酒宴だな! お前さんがたは、もうぞんぶんにアスタたちとも語らったのであろう? よければ、俺たちに席を譲ってくれ!」


 その先頭に立っていたのは、ダン=ルティムであった。

 ラウ=レイ、ギラン=リリン、ガズラン=ルティム、シュミラル、そしてその他の血族も土瓶を手に笑っている。バードゥ=フォウやライエルファム=スドラらは、自分たちの果実酒を手に、立ち上がることになった。


「それでは、俺たちは他の家長らと縁を結んでくることにしよう。アイ=ファにアスタ、またのちほどな」


「あ、はい。またのちほど」


 フォウの血族が姿を消すと、ダン=ルティムたちは先を争うように俺とアイ=ファを取り囲んだ。その勢いに、アイ=ファもいささか目を丸くしている。


「いったいこれは、何の騒ぎなのだ? ルウの血族とも、つい先日に祝宴をともにしたばかりであろうが?」


「何を言っている! あれからすでに、10日近くも経っているではないか!」


「そうだぞ。それに、あの日は町の人間と縁を深めなければならなかったからな。お前たちとは、喋り足りていないのだ」


「俺などは、挨拶ぐらいしかしていないはずだぞ。今日こそ、ゆるりと語らせてもらおう」


「そうか」と、アイ=ファは目もとだけで微笑んだ。


「むろん私たちも、ルウの血族をないがしろにしていたわけではない。今日の会議が無事に済んだのも、ルウの血族の尽力あってのことだからな」


「何を水臭いことを言っているのだ! さあ、ぞんぶんに酒を酌み交わそうではないか!」


 ダン=ルティムが、新しい土瓶をアイ=ファに突きつける。

 それを横目に、俺はガズラン=ルティムに笑いかけてみせた。


「ガズラン=ルティム、お疲れさまでした。俺たちが今日までやってこれたのも、一番最初にガズラン=ルティムが知恵と力を貸してくれたおかげです」


「とんでもありません。私などは、その背にそっと手を添えていたに過ぎません」


 ガズラン=ルティムの笑顔を見ていると、俺はまた危うく涙をこぼしてしまいそうだった。

 しかしここで粗相をしてしまったら、またアイ=ファを心配させてしまうので、俺はぐっとこらえてみせる。


「アスタ。宿場町の商売、認められて、何よりでした」


「ありがとうございます、シュミラル。シュミラルも、商団の仕事を続けられるようで、何よりでしたね」


「はい。ですが、その前に、リリンの氏、授かれるように、励みたい、思います」


 シュミラルも、優しげに微笑んでくれていた。

 その後も、ルウの血族の家長やお供の男衆が、次から次へと言葉を投げかけてきてくれる。この場に集っていないのは、ドンダ=ルウとダルム=ルウぐらいなのではないかと思われた。


「何だ、ものすごい騒ぎだな。俺たちにも挨拶をさせてもらいたいのだが」


 そのような声とともに、ぐいぐいと割り込んでくる人物がいた。

 誰かと思えば、ラッド=リッドである。けげんそうに振り返ったダン=ルティムは、「おお!」と笑みくずれた。


「誰かと思えば、リッドの家長か! お前さんは、ファの家とともに行った収穫祭で、勇者の称号を得たそうだな!」


「うむ。もっとも、荷運び以外ではひとつもアイ=ファにかなわなかったがな!」


 大きな笑い声が、交錯する。つねづね似たところのあると思っていたダン=ルティムとラッド=リッドが、ついに俺の前で顔をそろえたのである。


(このふたりも、きっと去年までは敵対する氏族としていがみあってたんだよな)


 豪快に笑うふたりの姿を見ていると、そんなこともまったく信じられないほどであった。

 そして、ひときわ大きな身体をした両名を邪魔そうに押しのけつつ、ディンの家長も顔を覗かせる。


「アスタよ、ついにザザの家もファの家の行いを正しいと認めることになった。今後はディンとリッドの女衆にもぞんぶんに仕事を手伝わせてほしいのだが、了承してもらえるだろうか?」


「ええ、もちろんです。これまでだって、ディンとリッドの方々にはさんざんお世話になっていましたからね」


「……しかしこれまでは、必要以上の手は出さぬように、ごく限られた女衆しか預けてはいなかったのだ。もっとたくさんの女衆まで面倒を見てもらえるものなのだろうか?」


「はい。そのあたりのことは、フォウの人たちと調整しましょう。ちょうどあちらは肉を売る商売で忙しくなっているさなかですし、ディンとリッドの方々に下ごしらえの仕事を手伝っていただけたら、とても助かります」


「そうか」とうなずきつつ、ディンの家長はさらに顔を寄せてきた。


「それで、アスタよ……ついでというわけではないのだが、お前に謝罪の言葉を申し述べておきたい」


「はい? 謝罪の言葉ですか?」


「うむ。俺はかつて、トゥールの作る甘い菓子というものに文句をつけてしまった。アスタが取りなしていなければ、トゥールはその仕事の修練を積むこともあきらめてしまっていたかもしれん。……そのことに関して、詫びの言葉を述べておくべきだろう」


「ええ? それはだって……もうずいぶんと昔の話ですよね?」


「しかし俺は、アスタに感謝の言葉も謝罪の言葉も伝えてはいなかった。様子を見ている間に、時期を逸してしまったのだ」


 眉間に気難しげな皺を寄せながら、ディンの家長はそう述べたてた。


「俺はいまだに、そこまで甘い菓子というものを好いているわけではないのだが……これだけ多くの人間がトゥールを賞賛しているということは、きっとかけがえのないことであるのだろう。家人を正しく導いてくれたことを、俺は深く感謝している」


「とんでもありません。俺は……トゥール=ディンの背に、そっと手を添えていただけですよ」


 こっそりガズラン=ルティムのほうを見やりつつ、俺はそんな風に答えてみせた。

 ガズラン=ルティムは小声でシュミラルと語らっていたようであるが、俺の言葉も聞こえていたらしい。こちらに目を向けて、にこりと微笑んでくれていた。


「謝罪の言葉も感謝の言葉も、俺には不要です。どうかそのお気持ちは、トゥール=ディンに向けてあげてください」


「……そうするべきだとは思っているのだがな」


 ディンの家長がそのように答えたとき、後片付けを終えた女衆が祭祀堂に戻ってきた。

 その内の半数ぐらいが、俺たちのほうに近づいてくる。その大半は、やはりルウの血族であるようだった。


「おお、ようやく戻ったか! そら、お前も果実酒で咽喉を潤すがいい、ヤミルよ」


 こちらの輪からラウ=レイが呼びかけると、ヤミル=レイは深々と息をついた。


「あなたはもうすっかり出来上がってしまっているようね。余計にくたびれてしまいそうだわ」


「フン、祝宴みたいな騒ぎだネ! 仕事が済んだんなら、とっとと休ませてほしいところサ」


 ヤミル=レイのかたわらには、ツヴァイ=ルティムの姿もあった。彼女もかまど番のメンバーとして招かれていたのだ。


「何を言っておるのだ! お前さんたちは、森辺の民として正しく生きているという姿を、皆に見せておくべきであろうが? 余所の氏族の人間とも、ぞんぶんに絆を深めておくがいいぞ!」


 ダン=ルティムがガハハと笑うと、そこにラッド=リッドの笑い声も重なった。


「いや、そのたたずまいを見ているだけで、お前たちが健やかに生きていることは見て取れるぞ! 以前とは、すっかり別人のようではないか!」


 リッドもかつてはスンの眷族であったのだから、もちろんヤミル=レイたちのことは見知っていたのだろう。ヤミル=レイとツヴァイ=ルティムは、それぞれ複雑そうな眼差しでラッド=リッドの笑顔を見返していた。


「以前の家長会議では、お前が弟どもに指示を下して、アスタやアイ=ファを害そうとしていたのだろうが? 俺とてその場に立ちあっていたはずなのに、とうてい真実とは思えぬほどだな!」


 ダン=ルティムに負けぬ豪放さでラッド=リッドがそのように述べたてると、ヤミル=レイは「ええ……」と俺のほうに目を向けてきた。


「そうね。あれからちょうど1年が経ってしまったのだわ。なんだかもう……10年ぐらいは経ってしまったような心地だけれどね」


「本当ですね」と、俺は笑いかけてみせた。

 ギバの血にまみれながら、スン家に婿入りしろと迫ってきた、ヤミル=スン――あのときの、毒蛇のごとき妖しい笑顔と、今の取りすました表情を重ねることは、なかなかできそうになかった。


 ツヴァイ=ルティムは、それほど大きく変わったようには思えない。しかしそれは、変化が表に出ていないだけなのだろう。兄弟たちとの縁を絶たれて、祖父であるテイ=スンとザッツ=スンを失うことで、ツヴァイ=ルティムも大きく変化しているはずだった。


(ディガやドッドは、どうしているだろう。あとでレム=ドムに聞いてみなくっちゃな)


 俺がそのように考えたとき、新たな一団がこちらに近づいてきた。

 ガズとラッツを親筋とする、5つの氏族の男衆である。ガズの家長は、眉をひそめながら周囲の人々を見回していた。


「おい、俺たちにもファの家に挨拶をさせてもらいたい。ちょっと席を空けてはもらえんか?」


「なに? 俺たちとて、ついさっき陣取ったばかりなのだぞ」


「しかしルウの血族は、普段からファの家と縁を深めているのだろう? 俺たちは、こういう機会でもないとなかなか言葉を交わすこともできないのだ」


「それは俺たちも同じことだ。俺たちよりも、お前たちのほうがファの家とは近在なのだろうが?」


「家が近在でも、行き来しているのは女衆だけだ。お前たちは、祝宴などをともにしているのだろう?」


「それでも俺たちは、アスタたちと喋り足りていないのだ。先に陣取ったのは俺たちなのだから、順番を待て」


「……それは、族長筋としての命令であるのか?」


 と、ラッツの家長がその声に不穏な気配をみなぎらせた。

 ガズラン=ルティムよりも若いぐらいの家長であるが、けっこうこの人物は苛烈な気性をしているのだ。ガズとラッツの若衆がアイ=ファに嫁入りを願って諍いを起こしそうになったとき、カミナリを落としてそれを諌めたのも、たしかこの人物であるはずだった。


「族長筋など関係ない。だいたい俺たちは、ルウの眷族に過ぎないからな。いいから、後ろに引っ込んでいろ」


 と、いい具合に酒の回っているラウ=レイも、いささか荒っぽい感じになってしまっている。こちらはもう、ラッツの家長よりもさらに直情的な気質であるのだ。

 そんなふたりの若き家長の間に不可視の火花が散り始めると、ダン=ルティムがおもむろに「よし!」と声をあげた。


「ならばここは、きっちり勝負をして決めようではないか! そうすれば、おたがいに不満も残らぬであろう?」


「勝負だと? こんな酔いどれと力比べをさせようというのか?」


「ふん。酒が入っているのは、おたがいさまではないか。俺はいっこうにかまわんぞ」


 そうしてラウ=レイが立ち上がろうとすると、ダン=ルティムがグローブのような手でその肩を抑えつけた。


「力比べは力比べだが、何も荒っぽい話ではない! おおい、ダルム=ルウよ、例のものをお披露目してくれぬか?」


 輪から外れたところで父親と酒杯を酌み交わしていたダルム=ルウが、うろんげに振り返ってくる。


「何だ。しばらくはファの連中と語らうのではなかったのか?」


「そのために、そいつが必要になってしまったのだ! ラウ=レイとラッツの家長に、そいつの遊び方を教えてやってくれ!」


 ダルム=ルウはどうでもよさげに肩をすくめてから、壁際のほうに引っ込んでいった。

 そこから戻ってきたダルム=ルウの手に携えられていたのは、なんと盤上遊戯の盤である。


「ああ、なるほど。そういうことですか」


「うむ! 何やらルウの家に愉快な遊びがもたらされたという話であったから、俺たちもこの場で習おうと考えていたのだ!」


 ルウ家に盤上遊戯の情報がもたらされたのは、昨日のことだ。さっそくバルシャの手ほどきによって、盤と駒が作製されたらしい。

 ダルム=ルウが敷物の上に盤を置き、革袋の駒を盤上にぶちまけると、ラウ=レイとラッツの家長は目を丸くしてそれを見つめやった。


「何だこれは? このようなもので、どうやって勝負をしようというのだ?」


「俺もわからん! ダルム=ルウよ、勝負の仕方を教えてくれ!」


 ダルム=ルウが合戦遊びのルールを説明し始めると、周囲の人々も興味深そうにそれを聞いていた。

 そして、こちらの騒ぎを聞きつけたらしいバードゥ=フォウが、ダン=ルティムの肩ごしにひょこりと顔を覗かせる。


「おお、ルウ家からもそいつを持ってきていたのか。それでは、俺たちの分も準備するか」


「え? バードゥ=フォウたちも、盤と駒を持ってきていたのですか?」


「ああ。きっと喜ぶ男衆も多いと思ったのでな」


 盤と駒は、ファの近在の氏族がひと組ずつ作製している。フォウ、ラン、スドラ、ディン、リッドの人々が新たな盤を持ち出すと、そこでも人の輪ができあがった。


「こんなことなら、俺たちも盤と駒を持ってくればよかったな?」


 俺がそのように呼びかけると、「うむ?」という不明瞭な声が返ってきた。

 慌てて振り返ると、アイ=ファが据わった目つきで俺を見返してくる。心なし、その頬はほんのり赤く染まっているようだった。


「ど、どうしたんだ? 果実酒の飲みすぎか?」


「飲みすぎというほど、飲んではいない。……しかし最近は果実酒を口にする機会も少なかったので、いささか回りが早いようだ」


 すると、熱心に説明を聞いていたダン=ルティムが、笑顔をこちらに向けてきた。


「アイ=ファはもう酔いが回ってしまったのか? ならば、しばらく休んでいるがいい! 誰がファの人間と席をともにするか、この盤上遊戯とやらで順番を決めておくからな!」


 順番を決めるも何も、その場にいる人々はのきなみ盤上遊戯に夢中になってしまっていた。これこそ、本末転倒というものであろう。

 しかし、アイ=ファが酔いを冷ますには、ちょうどいいブレイクタイムであったに違いない。俺はアイ=ファに手を貸して、こっそり壁際まで避難させていただくことにした。


「大丈夫か、アイ=ファ? 水でももらってこようか?」


「案ずるな。しばらく休めば、酔いもおさまろう」


 アイ=ファはそのように答えていたが、目つきはとろんとしてしまっている。アイ=ファがこれほど酩酊するのは、バランのおやっさんたちからいただいたママリアの蒸留酒を口にして以来ではないかと思われた。


「何だ、アイ=ファは酒に弱いのだな。果実酒という酒がどのようなものかは知らないが、飲み比べをしてもティアが負けることはなさそうだ」


 家長たちが騒いでいる間、ずっと静かにしていたティアが、楽しげに笑いながらそのように述べていた。

 壁にもたれて座り込んでいたアイ=ファは、不服そうなお顔でそちらを振り返る。


「酒に強いかどうかなど、狩人の力量には関係ないことだ。お前たちは、酒の強さなどを競っているのか?」


「うむ。ティアの母ハムラは、一族で一番の大酒飲みだったぞ。飲み比べを挑んだものたちが酔い潰れても、ひとりでがぶがぶと飲み続けていたな」


 そう言って、ティアはふっと目を細めた。


「ティアがモルガの山を離れてから、16日も経ってしまった。きっと同胞は、ティアが魂を返したと考えているだろう。同胞のもとに帰れる日を、ティアは心から待ち望んでいる」


「ふん……何を嘆いても、その身に力が戻らねばどうすることもできぬのであろうが? ならば、余計なことは考えずに、傷を癒すことに努めるべきであろう。無駄に思い悩んで、心を痛める必要はない」


「うむ、わかっている。アイ=ファは酔っていても、優しいのだな」


 アイ=ファは大儀そうに、ティアを蹴っ飛ばす真似をした。

 そこに、いくつかの人影が忍び寄ってくる。


「お、お休みのところを申し訳ありません。少しだけお時間をいただいてもかまわないでしょうか……?」


「やあ、トゥール=ディン。今日はお疲れさま。もちろん、まったくかまわないよ」


「そ、そうですか。アスタたちと言葉を交わすには、あちらの勝負に挑まなければいけないのかと思っていました」


 トゥール=ディンはほっとしたように息をつきながら、俺たちの前に膝を折った。そのかたわらに控えていたのは、スフィラ=ザザと、スンの家長である。


「あちらはもう盤上遊戯に夢中みたいだから、大丈夫さ。スフィラ=ザザもスンの家長も、お疲れさまでした」


 スフィラ=ザザは無言のままうなずき、スンの家長は思い詰めた面持ちで膝を乗り出してきた。


「ファの家長アイ=ファに、家人アスタ。今日はお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。スンの血族を代表して、礼の言葉を述べさせていただきたく思います」


 家長会議の際には普通の口調であったスンの家長が、とても丁寧な口調になっていた。

 その口調の変化と言葉の内容に驚かされつつ、「お礼の言葉ですか?」と俺は反問してみせる。アイ=ファも、とてもけげんそうな面持ちであった。


「とりたてて、俺たちがお礼を言われるようなことはないと思うのですが……」


「いえ。スンの家が正しい道に戻れたのも、そもそもはファの家あってのことと考えています」


 そう言って、スンの家長は深々と頭を垂れてきた。


「むろん、スンの家を正しき道に戻してくれたのは、三族長とすべての家長たちです。ですが、そのきっかけを与えてくれたのは、やはりファの家であったはずです。あなたがたがこれほどまでに強く、正しくあらねば、スン家の罪を暴くこともできなかったことでしょう」


「いえ、決してそのようなことは――」


「そして、スンの集落に居残った人間ばかりでなく、スン家を離れたかつての家人たちも、正しき道を歩むことができているようです。そこにもまた、ファの家の力が及んでいるのでしょう」


 スンの家長が、かたわらのトゥール=ディンを振り返る。

 トゥール=ディンは、うっすらと涙の浮かんだ目で、それを見つめ返していた。


「トゥール=ディンとその父ゼイ=ディンは、自分にとってもかけがえのない血族でありました。今は血の縁を絶たれた身ですが……トゥール=ディンはかまど番として、ゼイ=ディンは狩人として、それぞれまたとない力を得ることになったのだと聞いています。自分はそれを……心から誇らしく思っています」


「それは、トゥール=ディンとゼイ=ディンの力です。ふたりには、それだけの力がもともと備わっていたのですよ」


「いえ。わたしなどは、アスタの導きに従っていただけです。ゼイ父さんだって、美味なる食事というものに支えられていなかったら、どうなっていたかもわかりません」


 そのように述べるトゥール=ディンの瞳から、こらえかねたように涙がこぼれた。


「わたしたちを家人として迎えてくれたディンの家と同じぐらい、わたしたちはファの家にも感謝しています。わたしたちなんて、ファの家がなかったら……」


「それはきっと、おたがいさまのことなんだよ。俺の商売だって、トゥール=ディンにはすごく助けられていたんだからさ」


 俺はせいいっぱいの気持ちを込めながら、トゥール=ディンに笑いかけてみせた。


「俺たちはそうやって支え合いながら、ここまで進むことができたんだ。俺のほうこそ、心から感謝しているよ」


 トゥール=ディンは顔をくしゃくしゃにすると、嗚咽をこぼしながら、俺の胸に取りすがってきた。

 小さな手で俺の胸もとをつかみ、肩を震わせながら、泣いている。その姿を見下ろしながら、スフィラ=ザザは小さく息をついていた。


「大役を無事に果たすことができて、張り詰めていた気持ちが切れてしまったのでしょう。みだりに男女が触れ合うのは禁忌となりますが、しばらくは容赦を願います」


「ええ、もちろん」と応じつつ、俺は横目でアイ=ファをうかがった。

 アイ=ファは相変わらずとろんとした目つきで、俺たちの姿を見守っている。


「異存はないが、お前まで涙をこぼすのではないぞ、アスタよ」


「うん、わかってる」


 俺も何とか、この場では涙腺を制御することができていた。

 ただ、万感の思いを込めて、トゥール=ディンのやわらかい髪を撫でてみせる。


(トゥール=ディンにとっても、今日は区切りの日だったんだろう。去年の今日を境に、トゥール=ディンは生まれ変わることができたんだからな)


 俺だって、日中には2度も泣くことになってしまったのだ。まだ11歳であるトゥール=ディンであれば、それ以上に情動を揺さぶられるのが当然であるように思えた。


(こんなに小さな身体で他の女衆を取り仕切って、見事に大役を果たしてみせたんだ。トゥール=ディンは、本当にすごいよ)


 これ以上トゥール=ディンの心をかき乱してしまわないように、俺は心中でそのように語りかけてみせた。

 トゥール=ディンは俺の胸に取りすがったまま、弱々しくしゃくりあげている。トゥール=ディンが自分から身を起こすまでの数分間、俺はその髪を撫で続けてあげた。


「……な、情けない姿を見せてしまって、どうも申し訳ありません」


 やがてトゥール=ディンは、そのように述べながら身を離した。

 すかさずスフィラ=ザザが手ぬぐいを差しだしたので、恥ずかしそうにそれで顔を覆ってしまう。


「情けないことなんて、まったくないよ。今日は本当に頑張ったね、トゥール=ディン」


 するとそこに、新たな人影が近づいてきた。

 誰かと思って振り返ると、ラウ=レイたちの勝負を見守っていたディンの家長が、これ以上ないぐらい眉を寄せながら、俺たちを見下ろしている。


「どうしてトゥールが、涙などをこぼしているのだ? まさか誰かが、トゥールによからぬ真似を働いたのではなかろうな?」


「い、いえ、違います! これはわたしが、勝手に心を乱しただけで……」


 トゥール=ディンは手ぬぐいで半分顔を隠しながら、必死な眼差しで家長を見上げた。

 ディンの家長は同じ表情のまま、「ふん」と鼻を鳴らす。


「誰かを庇い立てしているのではなかろうな? ……まあいい。話があるので、ちょっとこっちに来るがいい」


「は、はい。そ、それではアスタにアイ=ファ、失礼いたします」


「うん。また後でね」


 もしかしたら、ディンの家長はこの場でトゥール=ディンにも謝罪の言葉を述べるつもりなのかもしれない。そうだとしたら、きっと彼もトゥール=ディンの涙の意味を思い知ることになるだろう。


 スフィラ=ザザとスンの家長も一緒に腰を上げたので、その場にはまた俺たち3名だけが残される。ラウ=レイとラッツの家長は大勢の血族に見守られながら、まだ盤上遊戯に取り組んでいる様子だった。


 バードゥ=フォウらが持ち出した盤と駒で、他の場所でも同じような輪ができている。その様子を見回してから、俺はアイ=ファを振り返った。


「やっぱり合戦遊びっていうのは、森辺の狩人の気性に合うみたいだな。アイ=ファも酔いが冷めたら、挑んでみたらどうだ?」


「ふん。気が向いたらな」


 そのように述べながら、アイ=ファはいきなり唇をとがらせてきた。


「……そのようなことよりも、男女がみだりに触れ合うのは大きな禁忌であるのだぞ、アスタよ」


「え? う、うん。それは許してもらえたんじゃなかったのかな?」


「許していなければ、その場でお前を叩いていた」


 俺のことをじっとりとにらみつけながら、アイ=ファがにじり寄ってくる。


「お前とトゥール=ディンの間に邪な気持ちなどないことはわかっている。また、お前とトゥール=ディンが正しく絆を深めていることを、私はとても喜ばしく思っている」


「そ、そうか。それなら、よかったよ」


「しかし、それとこれとは、話が別だ。腹の底がただれるように熱いのだが、私はどのようにしてこの苦しみに耐えればいいのだろうか?」


 酔いの回ったアイ=ファの顔が、目の前にまで迫ってきた。

 やはりその面は普段よりも赤らんでおり、目もとは若干うるんでしまっている。不満でいっぱいのお顔になりながら、アイ=ファはとても色っぽかった。


「アスタ、お前には、この苦しみを癒すことができるのか?」


「ええ? ど、どうすればそれを癒すことができるんだろう?」


「それを考えるのは、お前の役目だ」


 俺は一瞬で決断を下し、えいやっとばかりにアイ=ファの頭に手を置いてみせた。

 そうして金褐色の髪を撫でていく内に、極限までとがらされていた唇がじょじょに戻っていく。


「……やればできるではないか」


「お、おほめにあずかり、恐縮です」


 俺がほっとして手を下ろすと、とたんに唇がとがらされた。


「……トゥール=ディンとはもっと長い時間、触れ合っていたはずだ」


「う、うん。だけど、他の人の目もあるからさ。こんな姿を人に見られたら、アイ=ファもちょっと気まずいんじゃないか?」


 アイ=ファの手が俺の両肩をつかんで、壁に押しつけてきた。

 叩かれるのか、と首をすくめると、アイ=ファは身を引いて、自分も壁にもたれかかる。そうして、俺の肩にころんと頭を乗せてきた。


「では、これで勘弁してやろう。私の気が晴れるまで、動くのではないぞ?」


「は、承知いたしました」


 アイ=ファの頬が俺の肩に、アイ=ファの髪が俺の頬に、それぞれ触れている。それだけで、俺の心臓を高鳴らせるには十分であった。

 そんな俺たちの正面に座り込んだまま、ティアは「ふむ」と小首を傾げていた。


「何だかアイ=ファは幼子のようだな。とても可愛らしく思う」


「やかましい」と応じつつ、アイ=ファは動こうとしなかった。

 その重みと温もりに幸福感をかきたてられつつ、俺は目だけで再び祭祀堂の内部を見回してみる。


 ダン=ルティムはラウ=レイのもとから離れて、チム=スドラと対戦している様子であった。

 ヤミル=レイはラウ=レイのもとに留まっていたが、盤のほうには目を向けずに、別の男衆らと語らっている。あれはたしか、ハヴィラとダナの家長たちであったはずだ。彼らも、かつてはスン家の血族であったのである。


 バードゥ=フォウはギラン=リリンと対戦しており、その輪にはシュミラルとヴィナ=ルウが加わっている。シュミラルがしきりに口を動かしているのは、周囲の人々に合戦遊びのルールを説明しているのかもしれなかった。


 ドンダ=ルウはいずれの輪にも加わらず、ディック=ドムと差し向かいで語らっている。そのそばにはガズラン=ルティムとモルン=ルティム、それにグラフ=ザザの姿もあるので、今後のドムとルティムの交流について語らっているのだろう。何故かしら、リミ=ルウが後ろからドンダ=ルウの首もとにからみついているのが、とても可愛らしかった。


 ダリ=サウティとモガ=サウティは、ラッド=リッドと誰かの対戦を楽しげに覗き込んでいる。なんとなく、サウティの両名はどちらも合戦遊びでなかなかの強さを発揮するのではないかと思えてならなかった。


 レイナ=ルウとシーラ=ルウは、ザザの血族の女衆に取り囲まれていた。今日の料理のレシピなどを問い質されているのかもしれない。

 その近くで何やら語らっているのは、トゥール=ディンとディンの家長だ。スフィラ=ザザの他に、レム=ドムとリッドの女衆も加わって、何かちょっと騒がしくしている様子である。ディンの家長がいくぶんおろおろしているように見えるので、やっぱりトゥール=ディンを泣かせてしまったのかもしれなかった。


 ともあれ、誰もが酒宴を楽しんでいる。

 昨年のように、氏族の間でおかしな緊張感などが生まれている様子もない。どの氏族もわけへだてなく、縁の薄かった相手とぞんぶんに絆を深めているように感じられた。


「……去年のこの時間は、ダリ=サウティやバードゥ=フォウなんかと語らってたんだよな」


 俺が言うと、アイ=ファは「うむ」とかすかに頭を動かした。


「他の人たちもたくさん集まって、美味なる食事についての質問責めにあってたんだ。それでも、順番争いになるようなことはなかったけどさ」


「……それだけ、他の氏族との絆も深まった、ということであろう」


 アイ=ファの声は、ずいぶん眠そうであった。

 ただ、そのぶん穏やかに、優しげにも聞こえる。


「その前の年は、私はひとりで家長会議に加わっていた。さらにその前の年は、父ギルとともに加わっていた。……それらの家長会議では、ファの人間に声をかけてくる者などはいなかった。せいぜいスン家の人間が悪態をついてくるぐらいであったな」


「ああ、その頃にアイ=ファはディガと悪縁を結んじゃったんだもんな」


「うむ。あの頃は、迂闊に果実酒を口にすることさえできなかった。スン家のみならず、どの氏族にも弱みを見せる気持ちにはなれなかったのだ」


 アイ=ファの身体が、いっそうの重みをともなって肩に預けられてくる。


「このように幸福な心地で身を置けるようになったのは、お前という家人を迎えることができたおかげだ。私は何度でも、母なる森に感謝の言葉を捧げようと思う」


「うん。俺も同じ気持ちだよ」


「……アスタと出会うことができて、私は幸福だ。そして、アスタの行いが正しいと認められたことを、心から誇らしく思う……」


 アイ=ファの手が、俺の手に重ねられてきた。

 その温かい指先を握り返しながら、俺は「うん」とうなずいてみせる。

 そのとき、小さな人影がちょこちょこと走り寄ってきた。


「やっとお話が終わったよー! ……あれれ、アイ=ファは寝ちゃったの?」


「やあ、リミ=ルウ。アイ=ファだったら、きちんと起きて――」


 そのように言いかけて、俺は口をつぐむことになった。リミ=ルウの背後には、その父親の巨体までもが立ちはだかっていたのである。


「ふん。このように早い時間に眠りこけるとは、ずいぶん面白みのないやつだ」


「あ、いえ、アイ=ファはお酒が回ってしまったので、ちょっと休んでいただけなのです。なあ、アイ=ファ?」


 俺はそのように呼びかけたが、返事はなかった。代わりに返ってきたのは、とても安らかな寝息ばかりである。


「……申し訳ありません。ついさっきまでは起きていたのですが、どうやら寝入ってしまったようです」


「ふん。べつだん、謝罪をされる筋合いはない」


 そのように述べながら、ドンダ=ルウが身を屈めて、俺たちの顔を覗き込んできた。つきあいは長いが、ここまで間近から相対するというのは、なかなかないことだ。


「きょ、今日はどうもお疲れさまでした。俺たちの行いが正しいと認めてもらえたのも、最初に力を添えてくださったドンダ=ルウのおかげです」


「ふん……貴様たちの口車に乗ったのは、俺ではなくガズラン=ルティムであろうが?」


「はい。だけど、最終的な決断を下したのはドンダ=ルウであるのですから、感謝せずにはいられません」


「……貴様は自分の右腕を賭けて、自分の正しさを示してみせたのだ。それで俺に礼などを言う必要はあるまい」


 低い声で言いながら、ドンダ=ルウはいっそう顔を近づけてきた。

 獅子が人間に変じたかのような、誰よりも勇猛で厳つい面相である。ただ、その表情はとても静かであるように感じられた。


「……この、牙と角の首飾り――」


 と、ドンダ=ルウの頑丈そうな指先が、俺の首飾りにじゃらりと触れてきた。


「――これは、ルウ家の家人から授かったものをそのまま残していると聞いたが、それは真実であるのか?」


「あ、はい。これは俺にとって、大事な思い出の品ですので」


 婚儀の祝宴においてダルム=ルウからも牙を授かり、11本となった首飾りである。ルウの本家の、ジザ=ルウとコタ=ルウを除くみんなから授かった思い出の品であった。

 ドンダ=ルウは、「酔狂なやつだ」と息をつく。


「……貴様たちが初めてルウの家に招かれてから、もう1年以上の時が過ぎたということだな」


「はい。1年とひと月ぐらいになるのでしょうね」


「……あの頃の貴様は、本当に忌々しい小僧だった。貴様も、そちらで眠りこけている家長もな」


 青い火のようなドンダ=ルウの瞳が、俺とアイ=ファの顔を見比べている。

 そして――思いも寄らぬことが起きた。

 ドンダ=ルウが、ふっと口もとをほころばせたのだ。

 それは、難敵を前にしたときの、あの不敵な笑い方ではなく、とても静かで、とても穏やかな微笑であった。

 俺が言葉を失っている間に、ドンダ=ルウはゆらりと身を起こしてしまう。


「今日まで、ご苦労だった。そして明日からも、これまで通りに励むがいい。森辺の民として、森辺の同胞のために力を尽くせ」


「は、はい。ありがとうございます、ドンダ=ルウ。アイ=ファにも、必ず伝えておきます」


 ドンダ=ルウはひとつうなずくと、俺たちの前から立ち去っていった。

 その代わりに、リミ=ルウがぴょこんと飛び跳ねてくる。


「ドンダ父さんも、会議がどうなるか、ずーっと心配だったみたいだよ! 町での商売を許してもらえて、よかったね!」


「うん。これまで力を貸してくれた、みんなのおかげだよ。リミ=ルウも、ありがとうね」


「うん!」と元気にうなずいてから、リミ=ルウはそろそろとアイ=ファの頭を撫でた。


「アイ=ファも、ほっとしたんだろうねー。気持ちよさそうに眠っちゃってるー」


「ごめんね。ついさっきまでは起きてたんだけどさ」


「いいよいいよ! 起きたら、いーっぱいおしゃべりしてもらうから!」


 リミ=ルウの姿が、視界から消えた。おそらく、俺とは反対の側からアイ=ファに寄り添ったのだろう。

 ドンダ=ルウのために場所を空けていたティアが、ずりずりと俺たちの正面にまで戻りながら、可愛らしい顔でにこりと微笑んだ。


「アスタからは見えないだろうから、ティアが教えてやろう。アイ=ファはとても幸せそうな寝顔をしているぞ」


「そっか。ありがとう」


 俺はティアに笑顔を返しつつ、甘い香りのするアイ=ファの頭にそっと頬をもたせかける。

 盤上遊戯の結果によって、こちらに押し寄せてくるのはルウの血族かラッツの血族か。その結果が出るまでは、こうしてアイ=ファと身を寄せ合える幸福を噛みしめさせてもらうつもりだった。

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