青の月の一日⑥~最長老の告白~
2018.2/27 更新分 1/1・2018.4/16 タイトルおよび文章を修正
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
はしゃいだ声をあげていた人々が、いくぶん静かになる。
その姿を見回しながら、リフレイアは穏やかな声で言った。
「あら、ここでは菓子を配っているのね。よかったら、わたしにもいただけるかしら?」
「ええ、どうぞ。お好きな菓子をお取りください」
よどみなく答えたのは、トゥール=ディンである。
この中で、トゥール=ディンは以前からリフレイアを見知っている、数少ないひとりであるのだ。
リフレイアは「ありがとう」と述べながら、卓に近づいてきた。
「ああ、この黒いのは、以前の晩餐会でも出された菓子ね。これは本当に、驚くほど美味であったわ」
「あ、ありがとうございます。このがとーしょこらは甘みが強いので、他の菓子から召し上がったほうがいいかもしれません」
「それは確かにその通りでしょうね。それじゃあ、まずはこちらの菓子からいただきましょう」
そのように言いながら、リフレイアはきょろきょろと周囲を見回した。
「皿や匙が見当たらないけれど、これは手づかみで食べるべきなのかしら?」
「あ、も、申し訳ありません! 必要であれば、ルウ家の方々にお借りしますが……」
「いえ、それには及ばないわ。森辺の流儀に従いましょう」
リフレイアはすましたお顔のまま、細い指先でロールケーキをつまみ取った。
「わたしだって、家ではフワノの菓子をそのままつまんでいるもの。貴族だからといって、誰もが上品にふるまうことを楽しんでいるわけではないのよ」
そうしてリフレイアは、ロールケーキをぱくりとかじり取った。
「うん、美味しいわ。またオディフィア姫があなたをお茶会に呼ぶ際は、わたしも招いていただけるようにお願いするつもりよ」
「そ、そうですか。そちらでもわたしの菓子を食べていただけたら、嬉しいです」
トゥール=ディンはにこりと微笑み、そんな彼女のことを、リッドの女衆は感心しきった面持ちで見守っていた。
いや、気づけばその場に居合わせた全員が、じっとふたりのやりとりを見守っている。みんな貴族などどのように扱えばいいかもわからないので、ごく自然に接することのできているトゥール=ディンに驚いているのだろう。
「ふふん。姫君のほうも、なかなか堂々とした振る舞いではないか。さすがは自分から森辺の集落を訪れたいなどと言いだしただけはあるな」
と、トゥール=ディンとはまったく異なる理由から物怖じしていないゲオル=ザザが、笑いを含んだ声でそのように言いだした。
そちらを振り返ったリフレイアは、「あら……」と軽く目を見開く。
「ゲオル=ザザ、あなたはそのようなところで、何をやっているのかしら?」
「俺は眷族たるかまど番の仕事っぷりを見物していただけだ。ディンとリッドは、ザザの眷族であるのだからな」
「ああ、なるほど……トゥール=ディンはこのように見事な菓子を作ることができるし、あなたはジェノスの闘技会で素晴らしい成績を残していたというし、ザザの血族というのもルウの血族に負けない力を持っているのね」
リフレイアの言葉に、ゲオル=ザザは「ふん」と鼻を鳴らした。
「俺などは途中で敗退することになったのだから、何も褒められたものではない。褒めるべきは、最後まで勝ち抜いたそこのシン=ルウだろうな」
リフレイアは何気なく視線を動かしてから、ぴくりと肩を震わせた。
俺の隣でチャッチ餅を食していたシン=ルウは、ひどく静かな眼差しでリフレイアとサンジュラを見つめている。そして、そんなシン=ルウのかたわらでは、ララ=ルウがちょっと穏やかならざる感じに青い瞳を光らせていた。
「あなたのことは、覚えているわ。昨年のお茶会のときに言葉を交わしたはずよね、シン=ルウ」
「ああ。俺もはっきりと覚えている」
リフレイアは、形のいい眉をいくぶん苦しげにひそめながら、シン=ルウのほうに足を踏み出した。
「あなたとは、もう一度言葉を交わしたいと願っていたの。ねえ、シン=ルウ。もしもあなたが、まだサンジュラに怒りを抱いているのなら――」
「怒りの気持ちは、抱いていない。以前に言葉を交わしたときにも、罪を贖った人間を罪人扱いする習わしは森辺に存在しないと伝えたと思うが」
「だけどあなたは、サンジュラの裏切りを一生忘れないとも言っていたわ。でも、サンジュラがあのような罪を犯してしまったのは、すべてわたしのせいだったの」
「リフレイア」と、サンジュラが低く声をあげた。
その面にも、ちょっと苦しげな表情が浮かべられている。
「私の罪、私のものです。アスタと森辺の民、裏切った、私の罪です。その肩代わり、誰もできません」
「そんなことはないわ。わたしがアスタを屋敷に連れ帰れ、などという命令さえ下していなかったら――」
リフレイアがうわずった声で反論しようとすると、シン=ルウが「待て」と声をあげた。
「お前たちは、いったい何を言い争っているのだ? 和解はすでに果たされたのだから、何も気に病む必要はないはずだ」
「だけどあなたは目の前でアスタをさらわれたために、誰よりも深い怒りを覚えることになったのでしょう? いくら和解をしようとも、その怒りは簡単に消えたりしないはずだわ」
「誰よりも深い怒りを覚えたのは、俺ではなく、アスタの家族であったアイ=ファだ。俺はただ、アスタを守りきれなかった自分に深い怒りを覚えただけだからな」
そのアイ=ファは、普段通りの落ち着いた眼差しで、このやりとりを見守っている。
それに負けない沈着な声で、シン=ルウはさらに言った。
「俺はそこのサンジュラに屈してしまったために、弱き自分を許せなくなった。そのために、死に物狂いでこの身を鍛えぬいたのだ。……だから俺は、サンジュラの存在も俺に与えられた試練であったのだろうと考えている」
「でも……」
「リフレイアよ、お前も父親を失うという試練を乗り越えて、今の自分を手に入れたのではないのか? もしもそうなら、俺の言葉も理解できるはずだ。かつての不幸や災厄を喜びと感じることはできないかもしれないが、それは自分に必要な試練であったのだと思えば……怒りや悲しみではなく、別の気持ちで受け止めることもできるのではないだろうか」
そう言って、シン=ルウはわずかに口もとをほころばせた。
「あれからずいぶん長きの時間が経ったので、俺はそんな風に考えることができるようになった。だからお前たちも、過去の過ちを悔いる気持ちは忘れぬまま、森辺の民と正しい絆を結んでほしく思う」
「そう……でも、あなたの隣のその娘は、敵でも見るような目でわたしたちをにらみつけているわ」
シン=ルウが不思議そうに目を向けると、ララ=ルウは「ふん!」とそっぽを向いてしまった。
シン=ルウは黒褐色の長い前髪をかきあげながら、ちょっと目の周りを赤くしている。
「ララ=ルウは……きっと、俺がまた心を乱すのではないかと、心配してくれているだけだろう。これまでに、ずいぶんみっともない姿をさらしてしまったからな」
「わかったわ。ありがとう、シン=ルウ。わたしもサンジュラも、あなたの言葉を一生この胸に抱きながら、生きていきたいと思います」
リフレイアは、栗色の髪を揺らして、深々と頭を下げた。
サンジュラも、まぶたを閉ざして、それにならっている。
そのななめ後ろに控えたジザ=ルウは、とても満足そうな面持ちでシン=ルウの姿を見つめているようだった。
「やれやれ。宴のさなかに、無粋なことだ。ルウの血族に客人らよ、気にせず祝宴を楽しむがいいぞ」
と、ゲオル=ザザの陽気な声によって、その場にたちこめていた重めの空気も、ようやく取り払われることになった。
人々は、気を取り直した様子で菓子に手をのばしている。シン=ルウはララ=ルウをうながして、人混みの中に消えていった。
「リフレイアにサンジュラ、シン=ルウと心情を打ち明け合うことができて、よかったですね」
俺がこっそり呼びかけると、リフレイアはまだいくぶん元気のない目つきで俺を見返してきた。
「彼がルウの血族であることはわかっていたのだから、祝宴の前に言葉を交わしておくべきだったわ。皆に迷惑をかけてしまったわね」
「何も迷惑なことはありませんよ。むしろ、絆を深める一助になったんじゃないでしょうか」
するとリフレイアは、いきなり年齢相応の幼い表情で唇をとがらせた。
「ねえ、あなたはこのような際にも、その丁寧な口調を崩さないつもりなの? 他の貴族の目がなかったら、そのような真似をする必要はないと思うのだけれど」
「え? それはそうかもしれませんけど……でも、リフレイアはいまやトゥラン伯爵家の当主であるわけですし……」
「でも、森辺の殿方のほとんどは、貴族が相手でも口調を変えたりはしないじゃない。あなたのそういう喋り方は、とてもよそよそしく感じられるのよね」
確かに俺も、わずか12歳のリフレイアにかしこまった喋り方をすることに、違和感を感じていないことはなかった。
「それじゃあ、普通に喋らせてもらうけど……やっぱり他の貴族の目があるときは、丁寧な言葉を使わせてもらおうと思うよ」
「ええ。それはべつだん、かまわないわ。そういう場では、わたしだって伯爵家の当主らしく振る舞わなければならないしね」
そう言って、リフレイアは満足そうに目を細めた。
それから、影のように控えているアイ=ファのほうに視線を向ける。
「ああ、あなた……あなたはサンジュラに怒っているのかしら? それならやっぱり、あらためて謝罪をさせてもらいたいのだけれど……」
「和解を果たした後に、謝罪など無用だ。お前たちがきちんと正しく生きていくならば、もはや文句はない」
威厳たっぷりにアイ=ファが応じると、リフレイアは「ありがとう」と目を伏せた。サンジュラも、胸もとに手を置きながら、目礼をしている。
「それにしても、リフレイアたちはまだ広場を一周していなかったんだね。とっくに元の席に戻っているのかと思ったよ」
「だって、そんなすぐに戻ってしまったら、つまらないじゃない? いったん腰を落ち着けたら、またしばらくは動けなくなってしまうのでしょうし」
面を上げたリフレイアは、気丈な態度を取り戻して、そう言った。
「この後も、なるべくゆっくり歩を進めていくつもりよ。そうしてひとりでも多くの人間と言葉を交わさないと、ここまで出向いてきた甲斐もないものね」
「そっか。立派な心がけだね」
俺は本心からそう言ったが、リフレイアは小さく溜息をついていた。
「だけどやっぱり、わたしなんて皆の邪魔にしかなっていないのでしょうね。さっきもあちらで、ミケルやバルシャやジーダといった人たちに謝罪の言葉を伝えたのだけれど……わたしがいくら頭を下げたところで、ねじ曲がってしまった運命がもとに戻るわけではないのだもの」
「ミケルたちとも言葉を交わしたのか。……でも、誰もリフレイアを責めたりはしなかっただろう?」
「だから、余計に居たたまれないのよ。むしろ石でも投げられたほうが、よほど気は晴れるのでしょうね」
「ミケルや《赤髭党》に災厄を招いたのはリフレイアじゃないんだから、そんな真似できるわけがないじゃないか。ミケルたちがリフレイアを責めないのは、リフレイアに罪がないからさ」
俺はリフレイアの淡い色合いをした瞳を真っ直ぐに見返しながら、そのように言ってみせた。
「リフレイアの覚悟は立派だと思うけど、そこまで肩肘を張る必要はないはずだよ。今日は親睦の祝宴なんだから、客人として楽しんでくれれば、それで十分さ」
「周りに迷惑をかけながら自分だけ楽しんでいたら、これまでと何も変わらなくなってしまうじゃない」
リフレイアは、強情にそう言い張った。
この強情さは、俺が知るリフレイアそのものだ。
それに懐かしささえ感じながら、俺は「そんなことないよ」と答えてみせた。
「以前のリフレイアだったら、絶対にこんな真似はしていなかっただろう? それだけでも、十分な変化なんじゃないのかな」
「でも……」
「少なくとも、俺はリフレイアが森辺の祝宴に参加したいと言ってくれただけで、とても嬉しかったよ。他のみんなだって、多かれ少なかれそう思っているはずさ」
リフレイアは、ちょっときょとんとした顔で俺を見返してきた。
それから、「ありがとう」とあどけなく微笑む。
リフレイアが、ここまではっきりとした笑顔を俺に見せるのは、たぶん初めてのことだった。
「わたしはそこまで楽観的に考えることはできないけれど……でも、あなたにそんな風に言ってもらえるだけで、とても嬉しいわ」
「うん。俺たちこそ、悪い縁を紡いでしまった当人同士だけど、どうかこれからは仲良くしておくれよ」
「もちろんよ。……でも、わたしがこんな風に森辺を訪れることはそうそう許されないでしょうから、またあなたのほうからも城下町に出向いてきてね、アスタ」
「うん、もちろん」
リフレイアは同じ笑顔のままひとつうなずくと、外套をひるがえして菓子の卓に向きなおった。
「それじゃあ、あらためて菓子をいただくわね。そちらの菓子も、とても美味しそうだわ」
「ええ。どうぞお食べください、リフレイア。ルウ家の女衆が腕によりをかけてこしらえた菓子ですからねえ」
穏やかに微笑むタリ=ルウとリフレイアのやりとりを横目に、俺たちもその場を離れることにした。
そうして何歩も進まぬ内に、アイ=ファが溜息まじりの言葉をもらす。
「それにしても、大して料理を口にせぬ内に、どんどん時間が過ぎてしまうな。できれば、舞の刻限になる前に、ジバ婆に声をかけておきたかったのだが」
「それじゃあ、先に声をかけておこうか。まだしばらくは料理がなくなったりもしないだろうからさ」
しかし、来た道をそのまま戻るというのは味気ないので、俺たちはまだ巡っていないかまどの様子を眺めながら、広場を一周することにした。
マイムが手伝っているかまどのそばではミケルとボズルが語らっており、ジーダとバルシャの姿も見える。リフレイアとはどのように言葉を交わしたのか、それは不明なれども、暗い陰が落ちている様子は一切なかった。
他の場所では、みんな楽しげに過ごしている姿がうかがえる。
シュミラルとヴィナ=ルウはまだふたりで過ごしていたし、ジィ=マァムとディム=ルティムが酒杯を酌み交わしている姿も見えた。前回の収穫祭を機に、両名も親睦が深まったのだろうか。
そうして祝宴の熱気を満喫しながら歩いていると、喧騒の場から離れて輪を作っている一団の姿を発見した。
ユーミとベン、そしてジョウ=ランとチム=スドラである。
分家の家の前で座り込んでおり、ユーミやベンは酒杯を傾けている様子だ。とりたてておかしな雰囲気ではなかったが、その組み合わせには興味を引かれた。
「ごめん、アイ=ファ。ジョウ=ランやチム=スドラにはまだ挨拶してなかったから、一声かけてもいいかなあ?」
「かまわんぞ」というお言葉をいただけたので、俺はそちらに早足で近づいていった。
こちらを向く位置に座っていたユーミが、「あ、アスタとアイ=ファだ!」と陽気な声をあげる。
すると、ジョウ=ランがぎくりとした様子で振り返ってきた。
その挙動に、アイ=ファが鋭く目を光らせる。
「やあ、ジョウ=ランとチム=スドラは、こんなところにいたんだね。祝宴は楽しめてるかな?」
チム=スドラは、普段通りの沈着さで「うむ」とうなずき返してきた。
が、ジョウ=ランはやっぱりおどおどと目を泳がせている。それに比例して、アイ=ファの眼光はいよいよ鋭さを増していった。
「何やら楽しげな様子だな。いったい何を語らっていたのだ?」
「あのねー、このジョウ=ランってお人の色恋話を聞いてたんだよ! いやー、森辺でもそんな風に話がこんがらがることもあるんだねー!」
ユーミもベンも、楽しげに笑っている。
宴衣装のアイ=ファが狩人としての気迫を放ち始めると、ジョウ=ランはあたふたと立ち上がった。
「い、いや、違うんです! 俺の話を聞いてください、アイ=ファ!」
「……いったい何が違うというのだ?」
「ジョウ=ランは、人の恥になるような話はしていない。ただ、自らの恥をさらしていただけだ」
と、チム=スドラが座ったまま発言した。
ユーミも「そうそう」と笑っている。
「いや、なーんかこのお人が元気のない様子だったから、あたしのほうから声をかけたんだよ。で、なんか悩んでるっていう話だったから、それなら相談に乗るよーって言ってあげたわけ」
「うむ。しかし、色恋の話を迂闊に広げれば、相手の迷惑にもなりかねないからな。だから、相手がたの名前は明かさぬようにと、俺が助言をしたのだ」
そう言ってチム=スドラが肩をすくめると、ジョウ=ランも「そうなんです!」と声を張り上げた。
「俺はただ、自分の心情をつらつらと語ってみせただけなので、誰の迷惑にもならないと思います! 母なる森に誓って、それは本当です!」
アイ=ファはまだ収まりがつかない様子で、ジョウ=ランをにらみつけている。
その眼光の鋭さには気づいていない様子で、ベンも口を開いた。
「しっかし、惚れた相手に想い人がいるってのは、一番つれえよなあ。しかも相思相愛でつけいる隙もないときたら、もう最悪だぜ!」
「それはだけど、しかたのないこったよ! 相手の幸福を第一に考えるなら、自分が身を引くしかないからね! きちんと自分でその道を選んだあんたは、立派だよ!」
ベンやユーミの様子を見るに、その相手が俺とアイ=ファだということは、確かに伝わっていないようだ。俺はひそかに顔が赤くなるのを感じながら、ひたすらチム=スドラに感謝するばかりであった。
「でもまあ、町ではそんな話もしょっちゅうだからね! 森辺では、あんまり色恋で悩んだりすることもないの?」
「ないことはないのだろうが、誰と婚儀をあげることになるかは、森の導きだ。相手に想い人がいると知れれば、その場で気持ちを断ち切るしかないのだから、その後でジョウ=ランのように思い悩むのは珍しいかもしれない」
チム=スドラがそう答えると、ユーミは「へー!」と大声をあげた。
「やっぱ森辺の民ってのは潔いんだね! 普通は誰でも、もっとうじうじ思い悩むもんだと思うよ! 少なくとも、宿場町なんかではね!」
「そうなのでしょうか? 身を引くと決めたからには、思い悩んでも意味はないように思えてしまうのですが」
ジョウ=ランがすがるような目を向けると、ユーミは笑いながらその腕を引っ張った。
「意味がなくても思い悩んじゃうのが、人情ってもんでしょ! いいから、もっと気持ちをぶちまけちゃいなよ! そーゆーのは、人に話した分だけ、心も軽くなるもんだからさ!」
「は、はい。ありがとうございます」
ジョウ=ランは、ぺたりとその場に座り込んだ。
アイ=ファが深々と溜息をついていると、チム=スドラが「案ずるな」と目で訴えかけてくる。きっとジョウ=ランが俺たちやユン=スドラの名を明かさないように、見届けようとしてくれているのだろう。
「……ここはチム=スドラにまかせて、ジバ婆さんのところに向かおうか」
俺とアイ=ファは挨拶もそこそこに、その場を離脱することになった。
そうして離脱するなり、アイ=ファは憤懣やるかたない様子で、俺に囁きかけてくる。
「あのジョウ=ランという男衆は、つくづく森辺の習わしにそぐわない人間であるのだな。このような話を余人に語って、いったい何になるというのだ?」
「うん。だけどまあ、これでジョウ=ランが少しでも楽になるなら、いいんじゃないのかな。やっぱりジョウ=ランは、どこか町の人間っぽい感性を持っているんだよ」
ジョウ=ランが森辺で自分の心情を打ち明けても、お前が悪いと叱責されるばかりであるのだ。しかし、ユーミやベンだったら、きっとジョウ=ランに同情し、その気持ちを癒してくれることだろう。俺としては、そんな風に期待をかけるばかりであった。
そんなちょっとした騒ぎを経て、ようやく本家の家屋が見えてくる。
敷物の上で、ジバ婆さんはちょこんと座したままであった。周囲の人間は入れ替わっているものの、ドンダ=ルウとダリ=サウティもその場に残ったままであり、今はそこにバードゥ=フォウや、ディンとリッドの長兄たちも加わっていた。
「ジバ婆よ、よかったら、私たちとともに広場を巡らぬか?」
アイ=ファが声をかけると、ジバ婆さんは不思議そうに振り返ってきた。
「あたしが、広場をかい……? だけどあたしは歩くのも鈍いし、身体が小さくて人の目につきにくいから、みんなの迷惑になっちまうんじゃないのかねえ……」
「よければ、私が背に担ごう。ジバ婆が姿を見せれば、皆も喜ぶと思うぞ」
ジバ婆さんはしばらく口をつぐんでから、「そうだねえ……」とつぶやいた。
「それじゃあ、アイ=ファの言葉に甘えさせてもらおうか……ドンダ、ちょいと離れさせてもらうよ……」
ドンダ=ルウは、無言でうなずいていた。
ジバ婆さんを背に乗せて、アイ=ファが立ち上がる。アイ=ファの肩に手を置きながら、ジバ婆さんは「ふふ……」と小さく笑った。
「何だか、幼子に戻った気分だねえ……もっと身体の弱っていた頃は、ダルムやルドもこうして背負ってくれたもんだけど……あの頃は、それを楽しむ気持ちにもなれなかったからさ……」
「うむ。私も、楽しいぞ」
てくてくと歩きながら、アイ=ファも微笑んだ。
広場の人々は、陽気に歓迎の声をあげている。それを見返すジバ婆さんは、とても嬉しそうだった。
「ありがとうねえ、アイ=ファ……あたしがちょっとぼんやりしてたもんだから、心配してくれたんだろう……?」
「うむ。まあ、いささか気にはなっていた。本家の寝所で話していたときは、とても元気そうだったからな」
「ああ、あのときは、ティアの話が楽しくってねえ……宴が始まっても、なかなか気持ちを切り替えられなかったのさ……」
ジバ婆さんの声は小さかったが、それを背負っているアイ=ファとすぐ隣を歩いている俺には、問題なく聞き取ることができた。
「それではジバ婆は、祝宴のさなかに赤き民のことなどを考えて、あのようにぼんやりしていたのか? それはずいぶん……ジバ婆らしからぬ行いだな」
「うん、そうかもしれないねえ……ちょっとあたしも、心を乱しちまっていたからさ……でも、少しぐらいは心を乱したって、しかたのないことなんだと思うよ……」
歩きながら、アイ=ファはけげんそうに首を傾げた。
「ジバ婆は、心を乱していたのか? 私もずっとティアの話を聞いていたが、べつだん心を乱されるような内容ではなかったと思うぞ」
「それはそうさ……それで心を乱す人間なんて、もう森辺にはあたししかいないんだろうしねえ……」
アイ=ファは、わずかに眉をひそめた。
「いったい、どうしたのだ? ジバ婆が何か思い悩んでいるのなら、私とアスタにも聞かせてほしい」
「何も思い悩んではいないよ……今さら思い悩んだって、しかたのない話だからさ……」
「それは、どのような話であるのだ?」
またジバ婆さんが、口をつぐんだ。
それから、やわらかく口もとをほころばせる。
「そうだねえ……明日になったらドンダにも聞いてもらおうと思っていた話だから、アイ=ファとアスタにはここで伝えておこうか……こんな風に、あたしなんかのことを心配してくれたんだからさ……」
「うむ。ティアにまつわる話であれば、私たちも無関係ではないからな。あやつが何か、ジバ婆の心を乱すようなことを言ってしまったのか?」
「いいや、そうじゃないんだよ……これはもう、話を聞く前から、ずっと思っていたことなのさ……あの娘がルウの集落に連れて来られた、最初の日からね……」
それは、ティアがバードゥ=フォウらに拾われた翌日の話であるはずだった。
それからすでに、6日ばかりの日が過ぎている。そんな頃からジバ婆さんが心を乱していたなどとは、まったく想像もしていなかったことだ。
「あの娘は、とても綺麗な眼差しをしているだろう……? あの不思議な赤い瞳で見つめられた瞬間に、あたしは思い出しちまったんだよ……」
「思い出した? いったい何を思い出したのだ?」
「それはね……あたしの家族や、眷族や、同胞のことをだよ……」
透徹した眼差しで虚空を見つめながら、ジバ婆さんはそう言った。
「あの娘の眼差しは、あたしの同胞にそっくりだったのさ……まだジャガルの黒き森で黒猿を狩っていた、あの頃の同胞の眼差しとね……」
「それは……どういう意味なのだ?」
アイ=ファの声が、わずかに揺れていた。
そして、俺もまた、奇妙な胸の高鳴りを覚えてしまっている。その言葉の続きを聞くのが、少し怖い気がした。
「あの娘は……モルガの赤き民っていうのは、もう何百年も、外界の人間とは触れ合わずに、モルガの山で過ごしているんだろう……? あたしたちも、黒き森で暮らしていた頃は、そういう生活に身を置いていたからさ……草の葉や樹木の皮で糸を紡ぎ、石の刀を鋭く研いで、森の中だけで生き、森に魂を返していたんだよ……」
「ああ……だから、同じような眼差しであったということか。それならば、何も不思議な話ではないな」
「うん……だけど、それだけの話じゃなかったんだよ……あの娘の考え方や、気持ちの持ちようや、モルガの山での暮らしぶりは……あたしたちと、そっくり同じであったのさ……」
ぞくぞくと、冷たい感覚が背筋をのぼっていった。
そんな俺に、ジバ婆さんが優しく笑いかけてくる。
「ねえ、アスタ……以前に町の民を祝宴に招いたとき、旅芸人っていう愉快な連中がいたよねえ……あのときの祝宴で聞かされた歌を覚えているかい……?」
「は、はい。『黒き王と白き女王』の歌ですよね。森辺の族長筋であったガゼ家と同じ名を持つ、シムの一族の伝説です」
「うん……それじゃあ、そのガゼの一族が黒き森で出会った『白き女王の一族』っていうのは、いったい何だったんだろうねえ……?」
「それは……やっぱり、ジャガルの一族だったんじゃないですか? 南の民は、白い肌をしていますからね。森辺の民は、シムとジャガルの血があわさって生まれたっていう伝承も残されているそうですし」
「うん、あたしもそう思ってた……でも、それならどうして、あたしたちは南方神ジャガルの子だっていう意識もないまま、何百年も過ごすことになったんだろうねえ……? ガゼの一族は故郷を捨てたんだから、そのときに東方神シムのことも捨てたんだろうけど……そうしてジャガルの民と血の縁を結んだのなら、ジャガルの子として生きようとしたんじゃないのかねえ……?」
俺には、答えることができなかった。
アイ=ファも、無言のままである。
ジバ婆さんは、静かに言葉を紡ぎ続けた。
「あたしはね……その『白き女王の一族』は、モルガの赤き民から分かれた一族なんじゃないかと考えたんだよ……あの娘は肌を赤く染めていたけれど、その下には白い肌が隠されているんじゃないのかね……あるいは、『白き女王の一族』が、肌を白く塗っていたのかもしれないけどさ……」
「そ、それはでも……あまりに、突拍子のない話じゃないですか? いくら何でも、『白き女王の一族』と赤き民が同じ一族だったなんて、そんな話は……」
「でも、赤き民は女衆が族長をつとめるって話だっただろう……? 『白き女王の一族』も、女衆が王であったんだろうし……それに、『白き女王の一族』は、とても小さな身体をしていたって話だったよね……」
「み、南の民は、西の民よりも小柄なぐらいですからね。東の民であるガゼの一族から見れば、ずいぶん小さく見えたことでしょう」
「うん、そんな風に考えることもできるねえ……でも、『白き女王の一族』は、名前のある神を持たないと語られていたはずだよ……それもやっぱり、赤き民とそっくり同じとは思わないかい……?」
それは確かに、その通りのはずだった。
吟遊詩人ニーヤが歌った『黒き王と白き女王』という歌の中で、ジャガルという言葉は一言たりとも登場していなかったのである。あの歌は妙な鮮烈さでもって胸に刻みつけられていたので、俺もそのことは記憶に留めていた。
『白き女王の一族』は、名前のある神を持たず、ただ森を母と呼んでいた――ニーヤは、そのように語っていたのだ。
名前のある神を持たない。それはすなわち、名前のない神を崇めていた、ということなのだろうか?
そうだとすると――ますますティアの語る、赤き民の習わしと符合することになってしまう。
「もちろん、何も証はない話さ……でも、この世界には、モルガの山みたいな聖域がいくつかあるって、カミュア=ヨシュが言ってたんだよ……そうだよね、アイ=ファ……?」
「……うむ。それでジバ婆は、ジャガルの黒き森も聖域のひとつであり、聖域には赤き民の血族が暮らしているのではないか、と考えたのだな」
ゆっくりと歩きながら、アイ=ファはそのように答えていた。
その背中で、ジバ婆さんは静かにうなずいている。
「まあ、何を考えたって、答えの出しようもない話だけどさ……ただ、ティアがあたしの同胞にそっくりだっていうのは確かな話なんだよ……あたしの親も、兄弟も、眷族も、余所の氏族の同胞も……あの頃は、みんなティアみたいな眼差しをしていたし、ティアみたいな考え方をしていた……それが、モルガの森辺に移り住んでから、少しずつ、少しずつ変わっていったんだよねえ……」
「…………」
「あたしは最初、それがすごく嫌だった……大好きだった家族や同胞が、まったく違う人間に変わっていっちまうみたいでさ……でも、いつからかそんなことも、気にならなくなっていた……あたしも同じ場所で暮らしていたから、みんなと同じように変わっていって、それが当たり前になっちまったんだろうねえ……」
「ジバ婆、それは――」
「それはきっと、町の人間と交わったためなんだろう……あたしたちは、決して町の人間に心を開こうとはしなかったけれど、アリアやポイタンを買うためには、町まで下りなきゃいけなかったし……それに、鋼の刀や鉄の鍋なんていう便利なものを知っちまった……あと、身につけるものだって、草木で作ることは許されなかったから、いちいち町で買わなきゃいけなくなっちまったしねえ……」
「…………」
「町の人間と深く関わりすぎると、堕落することになる……そういう森辺の習わしが生まれたのは、きっと自分たちが変わりつつあることに恐怖を覚えたからなんじゃないのかねえ……森の中だけで、自分たちのことだけを考えていたあの頃とは、すべてが変わっちまったからさ……」
「それでは、ジバ婆は……赤き民のありようこそが正しいと考えているのか?」
そのとき、軽やかな笛の音が広場に響きわたった。
草笛の音ではなく、もっとしっかりとした楽器の音色である。
視線を巡らせると、レビとカーゴがその笛を吹き鳴らしていた。彼らは舞の刻限でお披露目するために、自前の横笛を持ち込んできていたのだ。
儀式の火を取り囲む格好で、若い男女が進み出ていく。
きっと俺たちの知らないところで、舞の始まりが告げられたのだろう。人々は、笛の音に合わせて、楽しそうにステップを踏み始めていた。
聞き覚えのある陽気な旋律が、軽やかに広場の中を吹きすぎていく。
これはたしか、『黒き王と白き女王』の後に演奏された曲――『ヴァイラスの宴』である。
森辺の男衆は、薪やギバの骨を打ち鳴らしている。また、横笛の旋律に草笛の旋律を重ねている者もいた。
そんな光景を遠くに眺めながら、アイ=ファがまた不安げな声で囁いた。
「ジバ婆、答えてほしい。我々は、道を踏み外してしまったのだろうか? 我々は、赤き民のように、外界の人間とは交わらずに生きていくべきだったのだろうか……?」
「何を言っているんだい、アイ=ファ……」と、ジバ婆さんは小さく笑い声をたてた。
「考えてごらん。『白き女王の一族』は、もう何百年も前に、東の民であるガゼの一族と血の縁を結んでいるんだよ……? その時点で、すでに外界と交わっているのさ……モルガの山の赤き民だったら、決してそんな真似はしなかっただろうねえ……」
「うむ……それは、そうかもしれないが……」
「ああ、きっとそうさ……どうして『白き女王の一族』が、ガゼの一族を受け入れたのか……それを知るすべは、もうないけどさ……そのときに、ガゼの一族は東方神を、『白き女王の一族』は名もなき大神を、それぞれ捨てることになったんじゃないのかねえ……そうじゃなかったら、あたしたちだって自分の崇める神を忘れたりはしないだろうからさ……」
ジバ婆さんの声は、とても優しかった。
その優しい声音が、俺の心にまとわりついていた冷たい感覚を、ゆるやかに溶かしていくかのようである。
「それで、森だけを母とする森辺の民が生まれた……あたしには、そんな風に思えてならないんだよ……そう考えれば、色んなことに辻褄が合っちまうからさ……だからあたしたちは、こんなにもティアの存在に心をひかれちまうんじゃないのかねえ……赤き民っていうのは、あたしたちの本来あるべき姿だったんだろうからさ……」
そのように述べながら、ジバ婆さんはアイ=ファの金褐色の髪を撫でた。
アイ=ファは何だかむずかる幼子のような面持ちで、その指先に身をゆだねている。
「それならやはり、ジバ婆は赤き民のありようこそが正しい道だと思っているのか? 外界の人間との交わりを絶って、モルガの山の中だけで暮らしている赤き民のことを、ジバ婆は羨んでいるのではないか?」
「そうだねえ……ちょっと前のあたしだったら、きっとそんな風に考えていたと思うよ……アスタの料理で元気を取り戻す前の、気弱なあたしだったらねえ……」
そうしてジバ婆さんは、アイ=ファの髪を撫でていた指先で、儀式の火のほうを指し示した。
「だけど、ごらんよ……あたしたちは、こんなに幸せな暮らしを手に入れたじゃないか……? こんなに幸せなのに、どうして人を羨む必要があるのさ……外界の人間と交わっていなかったら、あたしたちはこんな幸福を手にすることもできなかったんだから……これが一番の、正しい道だったんだと思うよ……」
人々は、とても楽しげに踊っていた。
森辺の民も町の民も、心から楽しんでいるのがわかる。
シリィ=ロウは、またユーミの手によってその場に引きずり出されていた。
そのすぐそばに、シーラ=ルウやダルム=ルウ、ベンやテリア=マス、それにジョウ=ランの姿まで見える。
ルド=ルウは、左右からリミ=ルウとターラに手を引っ張られていた。
ダン=ルティムはステップを踏むでもなく、果実酒の土瓶を振り上げながら、どすどすと歩いている。
普段は未婚の女衆しか舞を踊ることはないが、親睦の祝宴ではそういう縛りも存在しない。気づけば、幼子や年老いた人間なども、その輪に加わっていた。
リフレイアとサンジュラは、そこだけ舞踏会のように優雅なステップを踏んでいる。
トゥール=ディンは、リッドの女衆に手を引かれながら、気恥かしそうにただ歩いていた。そのすぐ後ろを、ザザの姉弟とレム=ドムも追従している。
マイムとジーダの姿も見える。ディンとリッドの長兄の姿も見える。ミダ=ルウは、何かわめき声をあげているツヴァイ=ルティムを肩車しながら、のそのそと前進していた。
「この大陸に住む人間は、みんな自分の神を持っている……赤き民ですら、名もなき大神を崇めているっていう話だったからね……そんな中で、『白き女王の一族』とガゼの一族との間に生まれたあたしたちは、崇めるべき神を失いながら、ただ母なる森だけを心の拠り所にしていたんじゃないのかねえ……」
ジバ婆さんが、静かに言葉を重ねていく。
「そんなあたしたちが、ようやく西方神を神として迎えることができた……それはきっと、寿ぐべきことなんだと思うよ……あたしたちは数百年を経て、ようやく神を捨てた罪や苦しみから解放されたんじゃないのかねえ……」
そうしてジバ婆さんは、アイ=ファの金褐色の髪に頬ずりをしながら、低く笑い声をたてた。
「まあ、すべてはあたしの想像さ……真実がどうであったかなんて、誰にもわかりはしない……ただわかるのは、今のあたしたちが幸せでたまらないってことだけだろうよ……」
とても優しげな声音で、ジバ婆さんはそう言った。
俺の胸中に残されていた最後のつかえが、それで氷解していくのがわかる。
アイ=ファも力強く、「うむ」と応じていた。
「私も、同じように思う。森辺の民は、きっと一番正しい道を選ぶことができたのだ」
そうしてアイ=ファは、輝くような笑顔で俺を振り返ってきた。
「アスタよ、我々もあの輪に加わるか」
「うん、いいよ。アイ=ファが自分からそんな風に言うなんて珍しいな」
「どのみち、私はジバ婆を背負っているからな。お前は好きに踊るがいい」
「いや、あの輪に加わせてもらうだけで、十分に幸福だよ」
赤き民には、赤き民にしか味わえない幸福というものが存在するのだろう。ティアのように純真な心を保てるのならば、それはきっとかけがえのないものであるに違いない。
だけど俺たちには、俺たちにしか味わえない幸福がある。
これが俺たちの、森辺の民の選んだ幸福なる生であるのだ。
そんな風に考えながら、俺はアイ=ファとともに、その輝ける場所へと足を踏み出した。