青の月の一日④~二品目~
2018.2/25 更新分 1/1 ・2018.4/16 タイトルを修正
「あー、アスタ! こんなとこにいたんだね!」
元気のいい声があがったので振り返ると、ユーミを先頭にした一団がこちらのかまどに近づいてくるところであった。
メンバーは、テリア=マスとシン=ルウとふたりの弟たち、というなかなか面白い組み合わせである。テリア=マスもようやく宴衣装になれてきたようで、そんなに恥ずかしそうな様子ではなかった。
「やあ、ずっと姿が見えなかったね。『カレー・シャスカ』はちゃんと口にできたかな?」
「うん! シーラ=ルウが働いてる場所で立ち話してたら、ルウ家の女衆が運んできてくれたよ! あれ、すっごく面白い料理だね!」
宿場町の民たるユーミでも、やはり第一声は「面白い」であるようだった。
「うちの父さんや母さんにも食べさせたいところだけど、でも、シムの食材だったら値も張るんだろうね」
「うん。あるていど流通の見込みが立ったら、少しは値下げされると思うけどね。今のところは、高級食材扱いになっちゃうかな」
「それじゃあ、うちの宿では扱えないなー。でもまあ、そんな料理を食べられるのも、森辺の民と仲良くさせてもらったおかげだね!」
祝宴が開始されて数十分が経過して、ユーミもいよいよ昂揚しきっている様子であった。
そのかたわらで静かに立ちつくしている3名の少年たちにも、俺は「やあ」と笑いかけてみせる。
「シン=ルウも、ちょっとひさびさな感じがするね。シーラ=ルウのところで、ユーミと出くわしたのかな?」
「うむ。しばらく言葉を交わしていたのだが、ダルム=ルウがうるさそうにしていたので、離れることにしたのだ」
「その後は、ララ=ルウのところにいたんだよね! で、そろそろアスタたちの次の料理が仕上がるんじゃないかと思って、様子を見に来たの!」
「それは鼻がきいてるね。ちょうど今、下ごしらえが終わったところだよ」
その下ごしらえに取り組んでいたトゥール=ディンが、笑顔でこちらを振り返る。
「では、料理をお出ししますね。ユン=スドラ、お願いします」
「はい」と応じたユン=スドラが取り上げた皿の中身を見て、ユーミはきょとんと目を丸くした。
「それって、ぎばかつじゃん。とっくに完成してたんじゃないの?」
「いや、これを使って、料理を仕上げるんだよ」
トゥール=ディンが煮立てている鉄鍋の中では、甘辛いタウ油ベースのタレで大量のアリアが煮込まれていた。
そこからすくったタレとアリアを、隣のかまどの平鍋に少量だけ移し替える。こちらはこうしてふたつのかまどが必要であったので、『カレー・シャスカ』を配り終えるのを待つ必要があったのだ。
ユン=スドラが平鍋のほうに『ギバ・カツ』を投じると、トゥール=ディンはボウルに準備していたキミュスの生卵をとろりとかぶせる。その間に、俺はふたつ目の鉄鍋からシャスカをよそった。
シャスカが5名分準備できたところで、鍋はひと煮立ちして、キミュスの卵は半熟に仕上がった。
そこでトゥール=ディンは『ギバ・カツ』とアリアと卵をタレごとすくいあげ、シャスカの木皿に載せていく。
これにて、『ギバ・カツ丼』の完成である。
「さあ、どうぞ。『カレー・シャスカ』に負けない味だと思うから、みんな食べてみておくれよ」
ユーミとテリア=マスとシン=ルウと弟たちが、興味津々の面持ちで木皿を取り上げる。
それを口にするなり、ユーミは「美味しい!」と賞賛の声を響かせてくれた。
「これは美味しいよ! ぎばかつなんて最初っから美味しいけど、これはその上をいく美味しさだね!」
「あ、本当に? だったら、嬉しいよ」
では、森辺の民の反応はどうだろうと思ってうかがうと、シン=ルウは満足そうに吐息をついており、ふたりの弟たちはユーミに劣らぬ笑顔であった。
「ぎばかつには、このような食べ方もあったのだな。それに、このシャスカというものも、ぎばかれーのときよりなお美味に感じられる」
「そっか。口に合ったんなら、本当によかったよ」
森辺の民は『ギバ・カツ』を強く好む傾向にあったので、ここまで味付けの変わる『ギバ・カツ丼』はどのような評価になるのだろう、という若干の心配があったのだった。
しかし、昨日の試食会ではアイ=ファにも近在のかまど番たちにもきわめて高評価であったので、自信がないことはなかった。シン=ルウたちも、心からこの料理を喜んでくれているようだった。
「これもひとり一杯なの? うわー、もっと食べたかったなあ! 食べる前よりお腹が空いちゃった感じがするよ! それじゃあ、ララ=ルウたちにも持っていってあげよっか!」
そうしてユーミが大騒ぎにすることによって、料理の完成に気づいた人々がどっと押し寄せてきた。
これは数名分ずつしか作製することができないので、さきほど以上の行列になってしまう。それでもトゥール=ディンは慌てずに、慎重に、確かな手さばきで『ギバ・カツ丼』を仕上げていった。
「……この料理は昨日完成させたばかりだというのに、トゥール=ディンにかまどを任せているのだな」
と、ひたすらシャスカをよそい続ける俺に、アイ=ファがそっと耳打ちしてくる。
「うん。この、シャスカを盛りつけるっていうのも、ちょっと慣れが必要な作業だからさ。今日のところは、俺がこっちを受け持つことにしたんだ」
それに、トゥール=ディンは『ギバ肉の卵とじ』を作製した経験があったので、具材の調理に関しては安心して任せることができた。
人々は、大喜びで『ギバ・カツ丼』を頬張ってくれている。こよなく『ギバ・カツ』を愛する人々にとっては、『カレー・シャスカ』よりもなお美味に感じられるようだった。
森辺の民の好みにあわせて、タウ油ベースのタレはやや薄味に仕上げている。しかし、そのタレをたっぷりと吸ったシャスカは、これまでになかった喜びを与えてくれることだろう。そもそも白米の存在しなかった森辺やジェノスであるのだから、これで初めて『丼物』の美味しさを伝えることができたのだ。
「うわあ、今度はぎばかつなの? すっごく美味しそう!」
と、気づくとまたリミ=ルウたちが列に並んでいた。
俺はユン=スドラに指示を出してから、そちらに呼びかける。
「ねえ、リミ=ルウ。ジバ=ルウのために『メンチ・カツ』を準備してるからさ。それも持っていってあげておくれよ」
「わかったー! ジバ婆も喜ぶよ! アスタ、ありがとう!」
歯の弱いジバ婆さんは『ギバ・カツ』を食することができないので、こういう際にはいつも『メンチ・カツ』を準備しているのだ。本日は、それを使った特別仕立ての『メンチ・カツ丼』である。
俺が飯盛りの作業を再開させると、アイ=ファがまた耳打ちしてきた。
「アスタよ、お前がジバ婆のために力を尽くしてくれることを、私はとても嬉しく思っている」
「そりゃあ、俺にとってもジバ婆さんは大事な相手だからな。これぐらいは、当たり前のことだよ」
「うむ。……それにしても、めんちかつでその料理を仕上げたら、いったいどのような味になるのだろうな」
「ああ、アイ=ファも『メンチ・カツ』は好物のひとつだもんな。近い内に、晩餐でこしらえるよ。ファの家の晩餐用にと思って、シャスカは余分に買いつけておいたからさ」
「うむ」という声が聞こえた数秒後に、いきなりわしゃわしゃと頭をかき回された。
驚いて顔をあげると、アイ=ファはすました顔でそっぽを向いている。
「……これぐらいは、許せ」
「いや、許すも許さないもないけどさ」
アイ=ファが俺の身に触れたということは、その内の感情を抑制しかねたということである。
俺はひそかに幸福感を噛みしめながら、粛々とシャスカをよそい続けた。
過半数の人々は自らかまどにまで出向いてくれたが、やはり敷物に腰を落ち着けている人々も多いので、そちらには気をきかせた人々が配膳してくれている。今回は、ボズルたちの顔を見る前に、料理を出し終えることになった。
その後は、自分たちのための食事である。
残ったシャスカを等分に分けて、『ギバ・カツ丼』を味わった俺たちは、他の人々とあらためて喜びを分かち合うことができた。
俺の知る『カツ丼』に負けぬ美味しさである。『ギバ・カツ』は作り置きであるし、シャスカも若干冷めかけてしまっていたものの、俺たちの喜びが損なわれることにはならなかった。
タウ油ベースのタレには、清酒のごときニャッタの蒸留酒と海草および干し魚の出汁も使い、満足な出来に仕上げている。砂糖の分量はひかえめで、あくまで薄味ではあったが、ラードで仕上げた『ギバ・カツ』にも半熟加減の溶き卵にも絶妙にマッチしており、やわらかく煮込まれたアリアもまた格段の美味しさであった。
「この料理は、本当に美味だと思います。客人たちにもルウ家の人々にも、きっと喜ばれていることでしょう」
「ええ。こんなに素晴らしい宴料理の手伝いをすることができて、わたしはとても光栄です」
5名のかまど番たちも、口々にそう言ってくれていた。
そうして俺たちは、ひとまずこの夜の仕事を終えることになったのだった。
「それじゃあ、後片付けですね。鉄鍋は水につけて、洗い終わった木皿は他のかまどに回しましょう」
「それは、わたしたちがお引き受けします。アスタとアイ=ファは、どうぞ祝宴のほうに」
こういう際、トゥール=ディンはだいたい同行を願ってきたものであるが、本日はリッドの女衆と行動をともにするらしい。リッドの女衆にとっては大半の相手が初対面となるので、トゥール=ディンが案内役を担うのだそうだ。
それはフォウとランの女衆も同様であるので、そちらはユン=スドラが案内をすることになる。俺としては、ちょっと巣立ちを見守る親鳥のような心境であった。
「それじゃあ、よろしくお願いします。みんなも祝宴を楽しんでください」
そうして俺は、アイ=ファとふたりでかまどを離れることになった。
すさまじい熱気に包まれた広場を歩きながら、俺はアイ=ファに呼びかける。
「なあ、祝宴を楽しむ前に、ティアに声をかけておきたいんだけど、どうだろう?」
「かまわんぞ。私はほとんど一日中行動をともにしていたが、お前はずっと離れたままであったからな」
ということで、俺たちはティアが預けられている分家の家に向かうことにした。
あちこちから投げかけられる挨拶に返事をしつつ、俺はまたアイ=ファに声をかける。
「なあ、アイ=ファが俺のところに顔を出したのは、ほとんど日没間際になってからだったよな。それまでずっと、ジバ婆さんと一緒にモルガの山の話を聞いていたのか?」
「うむ。ジバ婆はずいぶん赤き民というものに興味を寄せているらしい。まあ、ジバ婆は町の人間と話すことにも熱心であったから、何もおかしなことはあるまい」
確かにジバ婆さんは、ダレイムのドーラ家におもむいた際、とても熱心に言葉を交わしていた。もともと余所の土地に住む人々の暮らしに興味が強いのだろう。
そのジバ婆さんは、本家の家屋と儀式の火の間に敷かれた敷物の上で、大勢の人々に囲まれていた。そこにはドンダ=ルウを筆頭とする族長筋の人々やリフレイアなどの姿もあり、ちょっとした首脳会議みたいな雰囲気でもあった。
それを横目に分家の家屋の前に立つと、戸板の向こうから「バウッ」というジルベの声が響いてくる。ルウ家の幼子たちも犬たちも、みんな同じ場所に集められているのだ。
「ファの家のアイ=ファとアスタです。ちょっとお邪魔してもよろしいでしょうか?」
俺が声をかけると、「どうぞ」という声が聞こえてきた。
戸板を開くと、ジルベが真っ先にまとわりついてくる。アイ=ファは優しげに目を細めつつ、その大きな頭を撫でていた。
他にはブレイブと、ルウ家の2頭の猟犬も控えている。そして、広間で幼子たちの面倒を見ていたのは、サティ・レイ=ルウとティト・ミン婆さんであった。
「お疲れさまです。本家のおふたりが当番であったのですね」
「ええ。人手はありますので、なるべく短い時間で交代しています」
この場にいるのはルウの集落の5歳未満の幼子のみであるが、何せ単体で40名近い家人を有する大氏族である。それなりの人数である幼子たちが、祝宴の熱気にあてられた様子で元気にはしゃいでいた。
しかし、どこを見回しても、ティアの姿がない。けげんに思って首を傾げていると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「アスタにアイ=ファ、どうしたのだ? 宴はまだ始まったばかりなのだろう?」
びっくりして顔をあげると、天井の梁からティアが顔を覗かせていた。
森辺の家屋は平屋であるが、天井板というものが存在しないので、天井はかなり高い。3メートルぐらいの高みにある梁の上で、ティアはにこにこと微笑んでいた。
「そ、そんなところで何をやっているんだい? 危ないよ、ティア」
「何も危ないことはない。その幼子たちがむやみに群がってこようとするので、ここで身を休ませることにしたのだ」
「お前は、右足の骨が折れているのだろうが? いったいどうやってそのような場所にまで登ったのだ?」
アイ=ファも眉をひそめつつ問いかけると、ティアは不思議そうに首を傾げた。
「どうやってとは、どういう意味だ? アイ=ファだってあれだけ巧みに木を登れるのだから、これぐらいのことは難しくないだろう?」
それはアイ=ファぐらいの身体能力であれば、どうにかならないことはないだろう。しかし、右足の折れているティアがどうやってそのような芸当を成し遂げたのか、俺にも解答を見つけ出すことはできなかった。
「とりあえず、そこから降りてこい。これでは言葉を交わすにも不自由だ」
「わかった。アイ=ファが受け止めてほしい」
アイ=ファが「待て」と声をあげるより早く、ティアは梁から飛び降りてしまった。
慌ててのばされたアイ=ファの腕によって、ティアの小さな身体が見事に受け止められる。アイ=ファにお姫様だっこをされた状態で、ティアは俺に笑いかけてきた。
「理由はわからないが、アスタとアイ=ファが会いに来てくれて、ティアはとても嬉しく思っている。アスタ、何も災厄になどは見舞われていないか?」
「こ、こっちは大丈夫だけど、あまり危ないことをしたら駄目だよ」
「何も危なくはない。アイ=ファはとても強い力を持っているからな」
アイ=ファはこれ以上ないぐらい顔をしかめながら、ティアを床に降ろした。
左足一本で立ったティアは、無邪気そのものの笑顔で俺たちの姿を見比べている。
「とても右足が折れているとは思えない身のこなしですね。赤き野人の力には恐れ入ってしまいました」
そのように述べるサティ・レイ=ルウも、そのかたわらに座したティト・ミン婆さんも、やはり穏やかな笑顔のままである。ルウ本家の中では強烈な個性を有していないほうに分類されるおふたりであるが、ちょっとやそっとのことでは動じない気性でもあるのだ。
「それで、どうしたのだ? ティアは何も悪さなどしていないぞ」
「ああ、うん。ちょっと様子を見に来たんだよ。もう食事は済んだのかな?」
「うむ。ルウ家の娘が焼いた肉と煮汁を持ってきてくれた。どちらもなかなか美味だったぞ」
ティアが刺激的な味付けを好むということは通達しておいたので、きっとスパイシーな晩餐を準備してくれたのだろう。ティアはとても満足そうに微笑んでいた。
ガーネットのように深い赤色をした瞳が、きらきらと輝いている。俺のそばから離されて、このような場所に閉じ込められても、それを不満に思っている様子はない。最初はひどく不服そうにしていたティアも、これが外界の法ゆえと諭された後は、持ち前の従順さで素直に従ってくれているのだった。
(あまりに素直すぎて、こっちの胸が痛くなるぐらいだよな)
だから俺は、祝宴を楽しむ前に、ティアと言葉を交わしておきたいと思ったのだ。
しかし、いざティアを目の前にしてしまうと、これを置き去りにして広場に戻るのが、たいそう後ろめたく感じられてしまった。
「どうしたのだ? 会いに来てくれたのは嬉しいが、あまり長く留まっていると、宴を楽しむ時間が短くなってしまうぞ」
「え? ああ、うん……ティアだけのけものにしてしまって、申し訳ないね」
「何を言っているのだ。ティアは赤き民なのだから、外界の宴とは関わりがない。ただ、アスタのそばにいられないことを苦しく感じるだけだ」
「うん。だから、ティアに苦しい思いをさせるのが、申し訳ないと思ってさ」
ティアはにこにこと笑いながら、「馬鹿なことを言うな」と言った。
「ティアが苦しい思いをしているのは、ティアがアスタを傷つけるという大きな罪を犯したためだ。アスタが申し訳なく思う理由など、どこにもない。それに、ティアが苦しい思いをするのも贖いの内だと、アスタも言っていたではないか」
「ああ、それはそうだけど……」
「だから、ティアは苦しく思うことを嬉しくも思う。アスタにペイフェイの肉や毛皮を受け取ってもらったときと同じ気持ちだ」
そう言って、ティアはいっそうにこやかに目を細めた。
「それに、アスタがティアのことを思いやってくれることを、ティアはとても嬉しく思っている。そして、アスタが楽しい心地でいてくれたら、それもティアにとっては喜びとなる。だから、アスタは宴を楽しんできてほしい」
俺は小さく息をついて、低い場所にあるティアの顔を覗き込んだ。
同胞ならぬ相手でも、10歳を超えているティアの身に触れることは、なるべく避けるべきだろう。そうでなかったら、その不思議な色合いをした赤い髪を撫でてあげたいところだった。
「わかったよ。祝宴が終わるまで、ここで待っててね」
「うむ。アスタに災厄が近づかぬことを、この場で祈っている」
そうしてティアはアイ=ファにも笑いかけてから、片足でぴょんぴょんと壁のほうに近づいていった。
そうして、ぴょんっと自分の身長よりも高い位置までジャンプすると、左足で軽く壁を蹴り、さらなる高みへと舞い上がって、天井の梁にしがみつく。それは、まるで体重というものを感じさせない、猿のような身軽さであった。
その姿を見守っていた幼子たちは、きゃあきゃあとはしゃいだ声をあげている。アイ=ファはくびれた腰に手をやって、ティアの姿をにらみあげていた。
「なるほど。そうやってその場所に登ったわけだな」
「うむ。何もおかしなことはしていない」
おかしいところがあるとしたら、その人間離れした跳躍力である。
いったいどのような身体のつくりをしていたら、こんな芸当が可能になるのだろうか。
「それじゃあ、俺たちは広場に戻ります。お手数をかけて申し訳ありませんが、ティアをよろしくお願いしますね」
「ええ、もちろん。……あ、ちょっとお待ちください、アスタ」
と、サティ・レイ=ルウが手もとのコタ=ルウをティト・ミン婆さんに預けてから、俺たちのほうに近づいてきた。
「ティアや幼子たちに悪いので、小さな声で失礼します。……あのシャスカという料理は、目がくらむほどに美味でありました」
「あ、サティ・レイ=ルウもちゃんと口にすることができたのですね」
「はい。ひとりひと皿という話であったので、分家の女衆が運んできてくれました。ティト・ミンと順番で外に出て、こっそり食べさせていただいたのです」
そのように述べてから、サティ・レイ=ルウはほうっと息をついた。
「あの料理はシムにおいて、フワノの代わりに食べられているそうですね。つくづくわたしは、ポイタンやフワノに類する料理が口に合うようです」
「ええ、サティ・レイ=ルウはお好み焼きもパスタもそばもお好きだそうですもんね。シムとの取り引きが盛んになれば、誰でも気軽にシャスカを購入できるはずですので、そのときが楽しみですね」
「はい。ルウ家でも祝宴の際に買いつけることができないかどうか、家長やミーア・レイに相談しようと思います」
普段通りにたおやかに微笑みながら、サティ・レイ=ルウはとても幸福そうだった。
「では、お引き止めしてしまって申し訳ありませんでした。どうぞ祝宴をお楽しみください、アスタにアイ=ファ」
「はい、ありがとうございます」
最後に頭上のティアに手を振ってから、俺とアイ=ファはその場を後にした。
戸板を閉めて、広場のほうに足を向けながら、アイ=ファは息をついている。
「ティアのやつめは右足が万全に使えたら、いったいどれほどの力を見せるのだろうな。少なくとも、木登りであやつに勝てる気はしない」
「ああ。地べたでは森辺の民にかなわないって言葉が、少し理解できた気がするな」
ともあれ、俺たちは祝宴の場に戻ることになった。
儀式の火を中心に、人々は大いに祝宴を楽しんでいる。俺たちは早々に仕事を終えてしまったが、まだしばらくは宴料理を楽しむ時間帯であるはずだった。
「どうしようか。とりあえず、ドンダ=ルウとリフレイアにも挨拶をしておいたほうがいいのかな」
「うむ。一声はかけておくべきであろうな」
ということで、今度はそちらの敷物へと向かう。
ごうごうと燃える儀式の火に照らされながら、そちらでも人々は大いに宴料理を楽しんでいた。
輪の中心にいるのは、ドンダ=ルウ、ダリ=サウティ、ゲオル=ザザの3名に、ジバ婆さんとジザ=ルウ、それに、リフレイアとサンジュラである。そこだけ切り抜くとやや硬質の雰囲気を感じなくもなかったが、その周囲では若い男女が楽しげな声をあげたりもしていたので、俺はほっと胸を撫でおろした。
「ドンダ=ルウよ。あらためて、祝宴に呼んでくれたことに感謝の言葉を述べさせてもらいたい」
アイ=ファが敷物に片方の膝をついて、そのように進言した。
ドンダ=ルウは、「ああ」と重々しくうなずき返してくる。
「町の民を招く祝宴に、ファの人間を呼ばぬわけにもいくまい。かまどの仕事が終わったのなら、心ゆくまで祝宴を楽しむがいい」
「ありがとうございます。シャスカ料理は楽しんでいただけましたか?」
俺も膝をつきながら問いかけると、ドンダ=ルウは無言のまま息子のほうを振り返った。その視線を受けて、ジザ=ルウは不思議そうに首を傾げる。
「族長ドンダ、どうしました? 俺が何か?」
「いや。ぎばかつを使った料理に関しては、貴様に何か言いたい言葉でもあるのではないかと思ったまでだ」
ジザ=ルウが押し黙ると、隣のダリ=サウティが「ああ」と笑った。
「ジザ=ルウは、あの料理にずいぶん感銘を受けたようだったな。確かに俺も、見事な料理だと思ったぞ、アスタよ」
「ありがとうございます。みなさんのお口に合ったのなら、とても嬉しいです」
そういえば、ジザ=ルウは『ギバ・カツ』に強い感銘を受けたひとりであったのだ。そんなジザ=ルウが『ギバ・カツ丼』も気に入ってくれたのなら、何よりであった。
それでも無言のジザ=ルウにひとしきり笑いかけてから、ダリ=サウティが俺に向きなおってくる。
「なあ、アスタよ。あのシャスカという料理は、アスタがいなくともこしらえることは可能であるのかな?」
「え? そうですね。ルウ家や近在の氏族のかまど番であれば、一緒に作り方を学んでいたので、すぐに身につけることができると思いますが」
「そうか。だったら、あれはぜひ家長会議の日にも晩餐で作ってもらいたいものだな。そうすれば、他の氏族の家長たちも、さぞかし驚くことだろう」
ヴァルカスやポルアースに頼み込めば、もうひとたび大量のシャスカを買いつけることはできるはずだった。
が、それよりもひとつ気になる点がある。
「あの、俺がいなくとも、というのはどういう意味なのでしょうか? 俺もその日は家長会議に出向くつもりであったのですが……」
「それはもちろん、アスタには家長会議に出てもらわなくてはならない。だから、晩餐の支度を手伝うわけにもいかなくなるだろう?」
そういえば、家長会議というのは昼の早い時間から開かれるのだ。それに頭から出席するならば、確かに調理を手伝う時間などは捻出できそうになかった。
「家長会議ではファの家の行いについても取り沙汰されるのだから、アスタは最初から最後まで同席するべきだ。だいたい、ファの家にはふたりしか家人がいないのだから、アスタはアイ=ファの供として、そばにあるべきだろうしな」
「うむ。私もそのつもりでいた。それに、スンの集落の女衆だけでは、家長たちの晩餐を準備することもできまい。ならば、ルウやフォウやディンからかまど番を招けばいい」
アイ=ファがそのように応じると、ダリ=サウティは満足そうにうなずいた。
「では、そのように取りはかろう。ゲオル=ザザよ、北の集落に戻ったら、グラフ=ザザに異論はないか尋ねてもらいたい」
「ふん。べつだん親父が文句をつけるような話ではあるまい。どうせ余所の家長どもも、美味なる料理を期待しているだろうしな」
すでに果実酒で顔を赤くしているゲオル=ザザが、陽気にそう言った。
それから、敷物に座した人々をじろりとねめつけていく。
「ところで、このように座していても、同じ顔ぶれとしか言葉を交わすことはできん。これが親睦の祝宴だというのなら、そろそろ腰を上げるべきではないか?」
「そうか? むしろこの場に留まったほうが、周りから人間が集まってくれるので、面倒がないようにも思えるが」
「だけど俺は、ずっと同じ場所に腰を落ち着けているのは、性に合わんのだ」
すると、静かに人々のやりとりを見守っていたリフレイアが、「そうね」と声をあげた。
「わたしがむやみに動き回ってしまうと、人々の興を削いでしまうかもしれないけれど……できることなら、この広場を一周させていただけないかしら?」
「好きにするがいい。いちおう、ジザを同行させよう」
ということで、輪の中心にいた内の過半数が腰を上げることになった。その場に居残るのは、ドンダ=ルウとダリ=サウティとジバ婆さんのみであるようだ。
俺とアイ=ファも立ち上がると、ジバ婆さんが透き通った眼差しを向けてくる。
「ああ、アスタ……さっきは美味しい料理をありがとうねえ……あたしはどっちの料理も大好きになっちまったよ……」
「ありがとうございます。シャスカだったらポイタンよりも食べやすいと思っていたので、ジバ=ルウのお口に合ったのなら、とても嬉しいです」
「うん……ありがとうねえ……」
ジバ婆さんの声は、とてもやわらかかった。
ただ、いつもと少しだけ抑揚が異なっているように感じられる。
気のせいだろうかと内心で首を傾げながら、他の人々にも挨拶をして立ち上がると、アイ=ファがすかさず口を寄せてきた。
「アスタよ、ジバ婆の様子が少し気にかからぬか?」
「ああ、うん。ちょっとぼんやりしてる感じだな。ひさびさの祝宴で疲れちゃったのかな」
「ジバ婆はずいぶん元気を取り戻したので、これぐらいでは疲れぬと思う。……後でもう一度、様子を見に来るか」
なんだかアイ=ファは、とても気がかりそうな面持ちになっていた。
最後に後ろを振り返ると、ジバ婆さんはここではないどこかを見つめながら、静かに微笑んでいるように感じられた。