青の月の一日③~宴の始まり~
2018.2/24 更新分 1/1 ・2018.2/27 一部文章を修正 ・2018.4/16 タイトルおよび文章を修正
日没が近づくと、ルウの集落にはいっそう賑やかな気配が満ちていった。
ルウの血族の狩人たちや、他の氏族からの招待客なども到着して、いよいよ100名を超えようかという人々が集結しつつあったのだ。
かまどの仕事を終えた俺も、広場でそれらの人々がやってくる姿を見届けている。トゥール=ディンたちは宴衣装に着替えるためにシン=ルウ家の母屋にこもっていたので、一緒に立ち並んでいるのはベンやレビたちだ。
ファの家の近在の氏族からは、バードゥ=フォウ、ジョウ=ラン、チム=スドラ、ディン本家の長兄、リッド本家の長兄、という面々がやってきていた。
バードゥ=フォウを除けば、いずれも若めの狩人たちだ。そういえば、かまど番として訪れた女衆ものきなみ若い世代であったし、今後の森辺の運命を担っていく若者たちこそが西の民と親睦を深めるべきである、という考えなのだろう。
また、他の族長筋からは、それぞれ親筋から2名、眷族から2名、という定員で招かれていた。
サウティ家からはダリ=サウティと、若い女衆、眷族のヴェラ家からは本家の若き家長と、やはり若い女衆である。
そうして、ザザ家の荷車も到着すると、広場にはいっそう大きなざわめきがあがった。
ザザ家は眷族のドム家から、本家の2名を選出していたのである。
「ああ、アスタ。ちょっとおひさしぶりかしらね」
荷車からひらりと降り立ったレム=ドムが、勇猛そうな顔で笑いかけてくる。その後ろからは、ギバの頭骨をかぶったディック=ドムがのそりと降りてきた。
いっぽうザザ家からは、おなじみゲオル=ザザとスフィラ=ザザの姉弟である。
その4名が広場に立ち並ぶと、俺のそばにいたベンが腕を引っ張ってきた。
「お、おい。あいつらは何だか、ものすげえ迫力だな。男だけじゃなく、女のほうまでおっかねえや」
「ああ、あちらのレム=ドムは見習いの狩人ですからね。狩人の衣を纏っていなくても、やっぱりわかりますか」
「だって、すげえ筋肉じゃん。顔だけ見てりゃあ美人だけど、おかしなことしたら取って食われちまいそうだ」
すると、その声が耳に入ってしまったのか、レム=ドムが流し目で俺たちを見つめてきた。
「美人というのは、わたしのことなのかしら? とても光栄な話だけど、うかつに女衆の見てくれを褒めそやすのは、習わしに背く行いよ」
「べ、別にあんたに向かって言ったわけじゃねえんだから、かまわねえだろ?」
「ふふん。内緒話だったのなら、もっと声をひそめることね」
レム=ドムは、にいっと唇を吊り上げた。
ただ勇猛なだけではなく、妖艶さもあわせもったレム=ドムなのである。ベンはいっそう縮こまりながら、今度はほとんど聞こえないぐらいの小声で囁きかけてきた。
「こんなに色っぽいのに、こんなにおっかねえ女を見たのは初めてだよ。アスタんとこの家長なんて、まだ可愛いほうだったんだな」
なかなか反応に困る言葉であったので、俺は「あはは」と笑ってごまかすことにした。
ともあれ、これで余所の氏族からの客人はすべて到着したことになる。
すると、それを見計らったようなタイミングで、広場の入り口に何台ものトトス車が到着した。
停車したトトス車から、白銀の甲冑を纏った兵士たちが、ぞろぞろと下りてくる。その兵士たちは、広場の入り口をふさぐ格好でずらりと立ち並んだ。
広場の人々は、大きくどよめいている。
やがてその兵士たちの隙間から2名の人物が進み出ると、そのどよめきはさらに大きくなった。
旅用の革の外套を纏った、大小の影である。
その両名が何歩か足を進めてから立ち止まると、いくつかの人影がそちらに近づいていった。
ドンダ=ルウとジザ=ルウ、それにダリ=サウティとゲオル=ザザだ。
「今日はお招きをありがとう。あなたがたの寛大な取り計らいに、深く感謝しています」
そのように述べながら、小さなほうの人影が外套のフードをはねのけた。
人々が、また大きくざわめく。特に町から訪れた人々は、くいいるようにその姿を見守っているはずだった。
トゥラン伯爵家の当主、リフレイアである。
淡い栗色の髪をショートヘアにした、幼くも美しい姫君だ。
城下町においてはだいぶ見慣れてきた姿ではあるものの、それを森辺の集落で目にするというのは、やはり俺としても非現実感をともなってやまなかった。
そのかたわらでは、従者のサンジュラがフードを外している。
すると、俺の中の非現実感に、既視感までもが混ざりこんできた。
「懐かしいわ……わたしはこの場所で、アスタに願いを聞き届けてもらうために、自分の髪を切り落としたのよね」
そう言って、リフレイアは族長たちの姿を見回していった。
「あれから1年近くの月日を経て、今日は客人として招いていただくことがかないました。本当に、心から嬉しく思っています」
「……ルウ家の家長ドンダ=ルウは、トゥラン伯爵家の当主リフレイアを歓迎しよう」
ドンダ=ルウは、重々しい声音でそう応じた。
「まもなく日が没するので、祝宴を始めようと思う。鋼があれば、預かるが」
「いえ。刀、車に置いてきました」
サンジュラは、ゆったりと微笑んでいる。
ドンダ=ルウはひとつうなずくと、客人らを率いて広場を横断し始めた。その道すがらで、また重々しい声を発する。
「町から訪れた客人も、余所の氏族から訪れた客人も、全員集まってもらいたい。祝宴の前に、紹介をさせてもらおう」
俺は近くにいたベンやレビとともに、ドンダ=ルウらの後を追った。
あちこちから、他の客人たちも本家の前に集まり始める。ユーミやテリア=マスは、やはり目を皿にしてリフレイアの姿を追っているようだった。
そうして客人たちは横一列で立ち並び、広場に群れ集ったルウの血族たちと相対する。
その姿を見回したドンダ=ルウは、いぶかしげに眉をひそめて俺を振り返ってきた。
「おい。貴様の家の家長が見当たらんようだが」
「あれ? そうですね。俺もしばらく姿を見ていないのですが……」
俺がそのように答えたとき、背後の戸板がガラリと開かれた。
とたんに、人々がおおっとどよめく。
「すまん。支度に手間取ってしまった」
そこから現れたのは、アイ=ファに他ならなかった。
人々がどよめいたのは、アイ=ファが宴衣装に身を包んでいたためだ。
チム=スドラの婚儀の祝宴に備えて、ファの家で購入した宴衣装である。その姿はジバ婆さんの生誕のお祝いでもお披露目していたが、やっぱりアイ=ファの宴衣装というのは何度見ても驚嘆に値する美しさであるのだ。もちろん俺も、大いに胸を高鳴らせながら、アイ=ファを迎えることになった。
「無用に人目を集めてしまったな。……お前まで、何を驚いた顔をしているのだ」
「いや、心の準備はしてたつもりなんだけどな」
玉虫色のヴェールの向こう側で、アイ=ファは口をへの字にしている。その金褐色の髪には虹色に光る薔薇のような髪飾りもつけられており、俺をいっそう陶然たる心地にいざなった。
アイ=ファの着付けを手伝ってくれたらしいヴィナ=ルウとララ=ルウが、客人たちのかたわらをすりぬけて、広場の人混みにまぎれていく。そんな彼女たちも、広場にたたずむ人々も、未婚の女衆であれば全員が宴衣装だ。トゥール=ディンやユン=スドラたちも、無事に着替えを終えて、俺の横に並んでいる。
やがてドンダ=ルウの命令で儀式の火が灯されると、それらの女衆が纏ったヴェールやショールや飾り物が、いっそう美しくきらめいた。
「……では、祝宴の前に挨拶をさせてもらう。あらかじめ伝えていた通り、今日はこれだけ数多くの客人を招くことになった。余所の氏族からは20名、集落の外からは14名だ」
ドンダ=ルウが、その名をひとりずつ述べていく。
まずは族長筋から始まって、その次に小さき氏族、そうして町の人々である。
それらの名をすべて告げてから、ドンダ=ルウはリフレイアとサンジュラの姿を指し示した。
「先日にも伝えた通り、森辺の民はトゥラン伯爵家と和解を果たした。この両名はかつて大きな罪を犯したが、すでにジェノスの法で罰を与えられており、そして、自分の行いを深く悔いていると述べている。その言葉を信じて、今後は正しき縁を紡いでいきたいと願う」
リフレイアとサンジュラは、優雅にも見える仕草で一礼した。
人々も、怒りや非難の目を向けている様子はない。ただ、物珍しげにふたりの姿を見やっているばかりであった。
「また、森辺の民は西方神の洗礼を受けて、今後は西の民として正しく生きていくことを誓った。いまだそれがどのような道であるのか、判然としない部分は多々あろうが、モルガの森を母として生きていくのに、それは必要な行いだ。これらの客人たちと絆を深めることにより、いっそう正しい道を見いだせるように願っている」
ドンダ=ルウは、静まりかえった血族たちの姿を見回してから、ミーア・レイ母さんの差し出した果実酒の土瓶を受け取った。
「それでは、同じ場所で、同じものを食べ、同じ喜びを分かち合ってもらいたい。母なる森と、父なる西方神に!」
100名近い森辺の民が、「母なる森と、父なる西方神に!」と復唱した。
初めて祝宴に参席するベンたちは、その勢いに度肝を抜かれている様子である。が、カミュア=ヨシュやザッシュマやレイトなどは、にこやかな笑顔でその熱気を受け止めていた。
そして、ルウの血族の人々が、土瓶を片手に客人たちへと殺到してくる。ベンたちが「ひゃあ」とかぼそい声をあげているのを尻目に、俺とアイ=ファと5名のかまど番はその人混みから離脱することにした。
「それでは、おのおの準備を始めましょう。みなさん、よろしくお願いします」
俺たちも招待客であるものの、まずは料理の配膳だ。シャスカを除く料理はすでに簡易型かまどに設置しておいたので、そちらの準備はトゥール=ディンたち4名に託し、俺はユン=スドラおよびアイ=ファとかまど小屋に向かうことになった。
シン=ルウの家の裏手に回り込むと、広場の喧騒が少し遠くなる。
ちょっと息をついてからかまど小屋に踏み込むと、火の消えたかまどの上でふたつの鉄鍋が出番を待ちかまえていた。
「これを運ぶのか? ならば、ひとつは私が受け持とう」
「え、大丈夫か? せっかくの宴衣装を煤で汚さないようにな」
「無用な心配だ」と述べながら、アイ=ファは準備されていた手ぬぐいを水に浸し、それを固く絞ってから、鉄鍋の持ち手をくるんだ。
同じ手順で持ち手の熱を封じた俺とユン=スドラは、ふたりがかりで鉄鍋を持ち上げる。許容いっぱいまでシャスカの詰め込まれた鉄鍋は、ぞんぶんに重かった。
「お待たせ。そっちの準備はどうかな?」
「はい。いつでも大丈夫です」
俺たちのために準備してもらった簡易型かまどは、2台である。そしてそのかまどの前側には丸太と板で組み上げた卓が用意されており、そこに大量の木皿と木匙とお盆が置かれていた。
「こちらは客人として招かれた6氏族の、特別料理となります! 数に限りがありますので、おひとりにつきひと皿ずつでお願いします!」
俺が口もとに手をあてて大声を張り上げると、たくさんの人たちが一斉に群がってきた。
俺は大いに昂揚しながら、鉄鍋の蓋を取りはらう。
とたんに、白い蒸気がもわっとたちこめた。
シャスカの甘くてまろやかな芳香に、人々が歓声をあげている。大半の人には、これが初のお目見えとなるはずだった。
俺は水にひたした特大サイズの木べらで、白く炊きあがったシャスカをほぐしていく。
この2日間の、研究の成果である。シャスカはほとんど焦げつくこともなく、ほかほかに炊きあがっていた。
勉強会でも実践した水研ぎと『湯取り法』で、俺はついにシャスカをほぼ理想的な形に仕上げることができた。
水研ぎにもけっこうな時間をかけ、火を入れる際にはシャスカの倍近い重さの水を使っている。そうしてシャスカにまだ芯が残っている内に余分な水を除去し、蒸らしの時間も調整することで、シャスカの有する粘性を大部分緩和させることに成功せしめたのである。
2日前とは比べ物にならないぐらい、シャスカの粒は立っている。
木べらにこびりついた分をこっそり味見したところ、ほどよい粘り気と歯ごたえが返ってきて、俺を満足させてくれた。
これならもう、餅米よりもうるち米に近いぐらいだろう。
物心ついたときから俺が慣れ親しんできた、白米の美味しさだ。
俺はふたつの鉄鍋の面倒を見て、片方の蓋を閉めなおしてから、いざ木皿をつかみ取った。
つぶしすぎないように気をつけながら、木皿にシャスカを盛りつける。この感覚も、実に1年以上ぶりのことだった。
「お願いします」と俺が木皿を引き渡すと、かまどの前で待機していたフォウの女衆が、笑顔でそれを受け取る。彼女の担当は、『ギバ・カレー』であった。
「さあ、ひとりひと皿ですよ! ふたつ目の料理が仕上がるまでは、こちらを召し上がりください!」
初のルウ家の祝宴となる彼女たちも、物怖じしている様子はなかった。
その手から最初に木皿を受け取ったのは、誰あろうリミ=ルウである。可愛らしい宴衣装に身を包んだリミ=ルウは、「うわあ」と瞳を輝かせた。
「すごいすごい! シャスカにかれーをかけたんだね! どんな味がするんだろう!」
城下町でもルウ家の勉強会でも、リミ=ルウはすでにシャスカを食している。が、それをきちんとした料理として食するのは、これが初めてのことだった。
「ほらほら、これがシャスカだよ! 面白いでしょ? なんかね、もにゅもにゅしてて味も面白いの!」
リミ=ルウは受け取った木皿をそのままターラに手渡していた。当然のことながら、ふたりは行動をともにしていたのだ。
「わーい」と無邪気な声をあげるターラの背後には、これまた当然のようにルド=ルウが立ちはだかっている。初めてシャスカを目にするルド=ルウは「何だこりゃ」と目を丸くしていた。
「何だか、豆粒みてーだな。シムの民はこんなもんをポイタンやフワノの代わりに食ってんのか?」
「代わりっていうか、シムではそれが主食らしいよ。土地が違えば農作物の種類も変わるだろうからね」
俺は次々と木皿にシャスカをよそいながら、そのように答えてみせた。
それを受け取ったフォウの女衆は、次々にカレーをかけて人々に回していく。大半の人々は、「へえ」だの「ほう」だの感嘆の声をあげていた。
「どうぞ、冷めない内に召し上がりください」
その声に真っ先に応じたのは、やはりリミ=ルウであった。
新たに受け取った木皿に木匙を差し入れ、カレーとシャスカを等分に口へと運ぶ。
もにゅもにゅと口を動かしてから、リミ=ルウはぱあっと顔を輝かせた。
「やっぱり面白いね! でも、すごく美味しいと思うよ!」
「ほんとだー! ポイタンをつけて食べるのとは、全然ちがうね!」
リミ=ルウもターラも、ぴょんぴょんと飛び跳ねてはしゃいでいる。
それを見下ろしながら木匙を口に運んだルド=ルウは、仰天したように目を見開いた。
「なんだか、やたらとやわらかいんだな。それに、ギーゴほどじゃねーけど、ねばねばしてるしよ。……んー、ギーゴとチャッチのもちを一緒くたにしたみたいな感じなのかなー」
「ああ、このシャスカでも餅を作ることができるんだよね。チャッチ餅よりすごく粘り気は強くなると思うけど」
「あー、そっか! チャッチもちにちょっと似てるんだね! リミ、チャッチもちもシャスカも大好き!」
「ターラも大好き! ……でも、もうなくなっちゃった」
他の料理との兼ね合いもあるので、シャスカは一膳の半分ていどの量であったのだ。
ターラのみならず、その料理を口にした人々の大半は物足りなげなお顔をしていた。
「シャスカの料理はもう一品あるのですが、それはこれから作りあげるのです。よかったら、他の料理を楽しんだ後に、また来てください」
その二品目の料理は、現在トゥール=ディンが下ごしらえを進めてくれている。祝宴で出すにはちょっと手間のかかる料理であったものの、『ギバ・カレー』と時間差で出すにはちょうどいい献立でもあった。
「それじゃあ、ドンダ父さんとかジバ婆たちに持っていってあげよー! ルド、手伝ってね!」
「あー、これだったら、ジバ婆でも食えそうだよな」
ルウ家の心優しき兄妹は、お盆に載せられるだけの木皿を載せて、家族のもとへと立ち去っていった。もちろんターラも、笑顔でそれを手伝っている。
その間も、かまどの前にはたくさんの人々が列をなしていた。
くれぐれもひとりひと皿ということを言い置いて、フォウの女衆が木皿を配っていく。そうして空になった木皿は、ランとリッドの女衆によって片っ端から洗われていった。
「このシャスカというのは、木皿にこびりつくとなかなか取れないのですね。湯でもかけたいところです」
「ああ、そうなんですよね。お手数かけてすみません」
「いえ。わたしたちも、口にするのが楽しみです」
この場にいるかまど番たちも、試食でシャスカそのものは口にしている。ファの家の勉強会でも時間の許す限りシャスカを炊き続けていたので、むしろ食べ飽きているぐらいだろう。
しかし、白米を知らない人々であれば、やはり料理として口にしないとこの美味しさを実感することも難しいに違いない。ルウ家においてもファの近在の氏族においても、シャスカを食べて一言目の感想は「面白い」であったのだった。
「おお、アスタ殿はこちらでしたか」
と、聞き覚えのある声が近づいてくる。
それはボズルの声であり、かたわらにはロイとシリィ=ロウの姿もあった。
「アスタ殿の料理を真っ先にいただこうと歩いていたら、ほとんど広場を一周してしまいました。いや、どのかまどからも素晴らしい香りがたちのぼっておりましたな」
「ええ。ぜひすべての料理を味わっていってください」
「もちろんです。ですがまずは、アスタ殿のシャスカをいただきましょう」
にこやかに笑うボズルのかたわらで、ロイは鼻をひくつかせていた。
「ふん。本当にそのかれーって料理をシャスカにかけるんだな。ヴァルカスとタートゥマイにいい土産話ができそうだ」
「……香草もシャスカもシムの食材ですが、そうだからといってこの作り方ではどうなるかもわかりませんけれどね」
シリィ=ロウは、あくまで疑い深げな面持ちである。
ともあれ、食べていただかないことには話も始まらない。先に並んでいた人々に料理を回してから、ついに3名の手もとにも『カレー・シャスカ』の木皿が届けられた。
「うむ、芳しいですな」
大きな鼻でその香りを堪能してから、ボズルは木匙を口に運んだ。
ロイとシリィ=ロウもそれにならい、咀嚼する内に、じわじわと眉をひそめていく。
「いかがでしょう? お口に合いましたか?」
「ちょっと待ってくれ。ひと口じゃ何とも言えねえ」
ロイは慌ただしく、ふた口目をかきこんだ。
ボズルとシリィ=ロウも、無言で『カレー・シャスカ』を食べ続けている。
ボズルが「なるほど」と声をあげたのは、木皿の中身をすべて食べ終えてからのことであった。
「ど、どうでしょう? あまりお気に召しませんでしたか?」
「いや、これは……何とも判断が難しいところです」
ロイやシリィ=ロウはまだしも、ボズルまでもが難しい顔をしているのが、ちょっと不安なところであった。
「いや、しかし、美味であることに間違いはありません。そもそもぎばかれーが美味であるのですから、それも当然です。ただ、これは……」
「はい、何でしょう?」
「このシャスカの食感は、どのような料理にも似ていないように思います。本来の形に仕上げたシャスカでも、それは同様のことであるのですが……それがいっそう際立っているように感じられるのですな。それゆえに、わたしの抱いた驚きや衝撃が、いったい何に根ざしているのか……それを上手く言葉で表すことができないのです」
そのように述べてから、ボズルはふいに微笑んだ。
「ですからこれは、料理人ではなくひとりの人間の言葉としてお聞きください。この料理は、きわめて美味です。初めてシャスカを口にしたときよりも、わたしは大きな驚きと喜びに見舞われております」
「そうですか。それなら、よかったです」
「ああ。俺も掛け値なしに美味いと思うよ。だけど、上手く言葉にできなくて……おい、ミケルはまだこの料理を食べてねえのか?」
ロイの言葉に、俺は「はい」とうなずいてみせる。
「ミケルはまだ足の怪我が完全ではないので、どこかの敷物に腰を落ち着けていると思います。……あ、でも、そういう人たちのために料理を配ってくれる人も多いので、もしかしたらもう口にしているかもしれません」
「そうか。ミケルの感想を聞きたいところだな。ていうか、ヴァルカスやタートゥマイにも自分で食べてもらわねえと、こんなの説明できねえよ」
そんな風に述べるロイのかたわらで、シリィ=ロウはかすかに肩を震わせている。それに気づいたロイは、うろんげにシリィ=ロウの肩を小突いた。
「どうした? あまりの美味さに、また悔しくなってきちまったか?」
「そ、そのようなことはありません! 上手く批評できない自分の不甲斐なさを嘆いているだけです!」
どうも『カレー・シャスカ』は、城下町の料理人たちに大きな困惑と動揺を与えたようだった。
「こちらの料理がなくなる頃に、次の料理を出すことになっています。よかったら、それまで他のかまどの料理をお楽しみください」
俺がうながすと、ボズルたちは素直に引き下がっていった。
もしかしたら、俺のいないところでも、喧々諤々の討論会が行われるのかもしれない。料理人というのも、なかなか因果な商売であった。
「かれーも残りわずかになってきましたね。そろそろ全員に行き渡った頃でしょうか」
フォウの女衆がそのように述べたとき、長身の人影と優美な人影が近づいてきた。
「アスタ、ようやく、挨拶できました」
「ああ、シュミラル、どうもおひさしぶりです。ヴィナ=ルウも、お疲れさまです」
「……別に疲れてはいないわよぉ……」
宴衣装のヴィナ=ルウが、居心地悪そうに肢体をくねらせている。今日も誰かのはからいで、シュミラルと行動をともにすることになったのだろうか。
「おふたりは、こちらの料理をもう口にされましたか? 俺たちの作った特別料理です」
「いえ。『ギバ・カレー』の香り、ひかれて、やってきました」
「それなら、どうぞお食べください。こちらの白いのは、俺が仕上げたシムのシャスカですよ」
「シャスカ?」と、シュミラルがけげんそうに眉をひそめる。
「アスタ、ついに、シャスカ、手に入れたのですか。……しかし、私の知る、シャスカ、違うようです」
「はい。シャスカを俺の故郷の料理に似せて作ったものなのですよね。シムで生まれたシュミラルにはどのような感想をいただけるか、ずっと気になっていたんです」
残りわずかなシャスカを木皿に盛りつけ、フォウの女衆を経由して、シュミラルとヴィナ=ルウに渡す。ヴィナ=ルウはルウ家の勉強会に参加していたので、躊躇なくそれを口に運んでいた。
で、シュミラルである。
『カレー・シャスカ』を口にしたシュミラルは、その長身をぐらりと揺らして、ヴィナ=ルウに肩をぶつけてしまった。
ヴィナ=ルウは「うン」と色っぽい声をあげて、シュミラルから遠ざかる。
「あのねぇ……みだりに女衆に触れるのは禁忌だって教わったでしょう……?」
「申し訳ありません。あまりの美味しさ、驚いてしまいました」
その手に木皿を掲げたまま、シュミラルは深々と頭を垂れる。
そっぽを向いたヴィナ=ルウは、手の平で赤い頬をおさえていた。
「シュミラルの口に合いましたか? それなら、嬉しいです」
「美味です。『ギバ・カレー』、シャスカ、掛けたら、美味ではないか、ずっと思っていましたが……この料理、その想像、超えていました」
「そうですか。これはシャスカの作りかけみたいに感じられるので、シム生まれの方には好まれないかもしれない、という意見もあったんです」
「このシャスカ、本来のシャスカ、まったく異なる料理、思います。比べる意味、あまりない、思います」
そうしてシュミラルは大事そうにふた口目を食すると、黒い瞳をまぶたに隠した。
「とても美味です。アスタの料理、どれも美味ですが、この料理、一番である、思います」
「ふうん……」と、ヴィナ=ルウがすねた声をあげた。
シュミラルは、夢から覚めたようにそちらを振り返る。
「このシャスカ、美味である、という意味です。ヴィナ=ルウの『ギバ・カレー』、とても美味、思います」
「いいわよぉ……わたしなんかより、アスタの作るかれーのほうが美味しいのは当たり前のことでしょう……?」
「いえ。ヴィナ=ルウの『ギバ・カレー』、一番です」
「……虚言は罪という森辺の習わしを忘れたのかしらぁ……?」
「いえ。ですから、真実、口にしています。ヴィナ=ルウの『ギバ・カレー』、口にするとき、私、一番の幸福、感じるのです」
ヴィナ=ルウは、赤いお顔でシュミラルをにらみつけた。
俺は「あはは」と笑ってみせる。
「それなら、ルウ家でもシャスカを買いつければ、完璧ですね。シャスカの炊き方については、俺がルウ家の方々に伝授しますので」
「もう……」と、ヴィナ=ルウはまた身体をくねらせた。
シュミラルは幸福そうに目を細めながら、その姿を見つめている。
そうして料理を食べ終えたふたりが立ち去ると、ずっと影のように控えていたアイ=ファが口を寄せてきた。
「あやつらは、相変わらずのようだな。……しかし、お前よりもヴィナ=ルウのかれーのほうが美味いと言われても、気落ちする必要はないぞ」
「うん。大事な相手の作ってくれた料理を一番美味しいと思うのは当然のことさ。愛情は最大の調味料っていうからな」
「……何やら背中のむずがゆくなりそうな台詞だな」
そのように述べながら、アイ=ファの青い瞳はとても優しげに瞬いていた。
ともあれ、宴は始まったばかりである。
気づけば、俺たちのかまどの前からは人の姿がなくなっている。きっとすべての人々に『カレー・シャスカ』が手渡されたのだろう。
残ったシャスカとカレーはアイ=ファを含めた7名で食させていただき、俺たちはいざ二品目のシャスカ料理に取りかかることにした。