緑の月の二十八日①~収穫祭~
2018.2/2 更新分 1/1 ・2018.4/16 タイトルおよび文章を修正
そうしてファの家においては、赤き野人の娘ティアとの共同生活が始められることとなった。
とはいえ、それはそれほど大きな問題の生じる話でもなかった。とにかくティアは従順で、森辺の掟をないがしろにすることもなかったので、ずいぶんとスムーズに新たな生活を構築することがかなったのである。
唯一の難点は、ティアが俺のそばから離れようとしないことだった。
いくら傷に障るから、と言っても、それだけはどうしても聞き入れてくれないのだ。
「森辺の掟や外界の法がそれを許さないというのなら、ティアも従う。でも、そうでないのなら、どうかティアに罪を贖わせてほしい」
そういうわけで、宿場町に下りる時間帯を除いては、朝から晩までティアと行動をともにすることになってしまった。
もちろんそれで、何か迷惑をこうむるわけではない。ただ俺としては、アイ=ファに対してえもいわれぬ申し訳なさを感じるばかりであった。
また、それに付随して、薪やピコの葉の採取作業でもティアを同行させなければならないのが、いささか憂慮の種ではあった。
初日はこちらが折れて、アイ=ファのみがその仕事に取り組むことになったものの、いつまでもそうしてはいられない。商売のための採取作業は他の氏族に依頼していたが、自分の家で使う薪やピコの葉は自分たちで採取するべき、というのがファの家のモットーであったのである。
「だったら、好きにするがいい。森で倒れて傷を痛めたとしても、手などは貸さぬからな!」
そんなアイ=ファの号令のもと、俺たちは3人で森の端に向かうことになった。
が、その行いが足の傷に響くのでは、というのは俺たちの杞憂であったらしい。足もとの悪い森の端でも、ティアは器用に松葉杖を扱い、難なく俺たちについてくることができたのである。
モルガの山もまた鬱蒼とした樹木に覆われているので、ティアにとってもこういった環境はごく慣れ親しんだものであったのだろう。
しかもティアは、森の端に踏み込む際にさえ、裸足であった。靴を履くという習慣を持たないティアの足の裏は、それこそなめした革のように頑丈で、トゲのある草木や小石を踏みつけても痛みを感じることがなかったのである。
ともあれ、採取作業に同行させる問題に関しては、それでクリアーすることができた。
が、それに付随して、ちょっと論議を必要とする騒ぎも持ち上がっていた。
俺とアイ=ファが森の端に入った際に行う、水浴びの習わしについてのことだ。
ともに森の端に入った初日、ティアは水浴びの際にも俺から身を遠ざけたくはない、などと言い張っていたのである。
「アスタの身を清めるのを手伝えば、それも贖いのひとつとなる。ティアは少しでもアスタに贖いたい」
もちろんその申し出は、アイ=ファの穏やかならざる感情をひそめた声で却下されることになった。
「……森辺の集落において、未婚の女衆の裸身を目にすれば、目玉をえぐられることとなる。お前は同胞ならぬ存在だが、ファの家の家長としてアスタにそのような真似を許すわけにはいかん」
「だけどティアは、まだ十二歳だ。モルガにおいて十三歳になっていない人間は、男とも女とも見なされない」
「森辺においては、十歳から女衆と見なされるのだ! 血を分けた家人でもない限り、裸身を目にすることは許されない!」
ということで、ティアは不満そうに唇をとがらせながら、アイ=ファと一緒に水浴びをすることになった。
俺はいつもの大岩にもたれかかりながら、荷物番である。大岩の向こうからは、アイ=ファとティアの織り成す賑やかな声が響きわたったものであった。
「森辺の民は、毎日身を清めているのか? ティアたちは、せいぜい数日に1回ていどだ」
「やかましい。森辺で暮らすからには、森辺の習わしに従ってもらおう」
「まったく面倒な習わしだ。髪が濡れると、乾くまで不快ではないか?」
「汚れたままにしているほうが、よほど不快だ。いいから、大人しくしていろ」
ふたりの声と一緒に、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音色が聞こえてくる。
ティアは足の添え木を外すことができないので、きっと川べりに腰かけた状態で、アイ=ファに身体をぬぐわれているのだろう。
「……お前は全身が奇妙な色をしているので、どこが汚れているのかもよくわからんな」
「お前たちこそ、湿った土のように茶色い色をしているではないか。……そういえば、アスタはどうしてひとりだけ色が違うのだ?」
「アスタは森辺の外で生まれた人間だからだ。しかし、今では森辺の同胞なのだから、肌の色などは関係ない」
「そうか。ティアが最初にアスタを狙ったのは、ひとりだけ色が違くて目立っていたからだ。あと、大人の男なのにずいぶん弱そうだったから、都合がよかった。……アイ=ファ、そんなに頭をかきむしったら、痛い」
「やかましい! お前がそうしてアスタを傷つけたりしなければ、こんな面倒を背負い込むことにはならなかったのだ!」
ティアが怒ったりすることはないので、声を荒らげるのはいつもアイ=ファの役割となってしまう。
俺としては、何とも居たたまれないところであった。
「あ、それともうひとつ、ずっと聞きたいことがあったのだが……アイ=ファとアスタの子らは、みんな別の家の子となってしまったのか?」
「……お前はいきなり何を抜かしているのだ。私とアスタの間に、子などはおらん」
「何? だけど、アイ=ファとアスタは親子でも兄弟でもないのだろう? それで家族ということは、アイ=ファとアスタで婚儀をあげたということなのではないのか?」
「……アスタは心正しき人間であったので、ファの家の家人として迎えることになった。それだけのことだ」
アイ=ファは鋼の意思で、平静な声を返していた。
しかし、ティアのほうは無邪気そのものである。
「では、アイ=ファの伴侶は魂を返してしまったのか? アイ=ファはもうこのように大きいのだから、たくさんの子を生しているのだろう?」
「……私は子など生していない。私は狩人として生きているのだからな」
「ええ? だけどアイ=ファは、こんなに乳や尻が張っているではないか。子を生さぬ女がこのような身体になることはないだろう?」
「そのようなことはない。……お前は、どこをさわっているのだ!」
「ほら、こんなに乳が重たいではないか。うわあ、すごくやわらかいのに、すごく重たいぞ。ほらほら。……痛い、どうしてティアを叩くのだ?」
俺が大岩にもたれながら、ひとりで頭を抱え込むことになったのは言うまでもなかった。
まあ、おおむねそのような感じで、ファの家ではティアとの騒がしい共同生活が形成されていくことになったわけである。
朝になったらティアとともに森の端に入り、水浴びと採取作業。家に戻れば商売の下ごしらえに従事して、宿場町に下りる間は、ルウ家でティアを預かってもらう。商売を終えたらまたティアと合流し、ファの家に戻って宴料理の勉強会。あとは狩りから戻ったアイ=ファと晩餐を取って、就寝だ。
その中で特筆するべきは、やはり晩餐であっただろうか。
ティアがファの家に滞在している間、俺はペイフェイの肉を積極的に使うことにした。というか、ティアのための晩餐は、すべてペイフェイの肉でこしらえることに決めたのである。
「これはアスタに贈った肉なのだから、アスタが口にするべきだ」
最初の夜、ティアはそのように述べたてていた。
しかし俺は、屁理屈をこねまくって、それをティアに食べさせることを承諾させてみせたのだった。
「俺がもらった肉なんだから、俺がどのように扱ってもいいはずだろう? それに、どっちみちティアの食事は俺が準備することになったんだから、ギバの肉を使おうとペイフェイの肉を使おうと同じことじゃないか?」
森辺の集落にしばらく滞在することが決められた際、ティアは自力で自分の食料を調達しようと考えていたようなのだが、森の恵みを収穫するのは大きな禁忌なのである。もう少し足がよくなれば、弓で野鳥を捕らえることぐらいはできたのかもしれないが、それもまだまだ先の話になることだろう。
また、町に下りることの許されないティアであるのだから、他に食料を調達するすべは残されていない。これらはすべて森辺の掟とジェノスの法にもとづく行いであるのだから、ティアとしても反論の余地は残されていなかった。
「それに、ペイフェイ1頭分の肉なんて、数日もすればなくなっちゃうんだからさ。その後は傷が癒えるまでギバの肉を食べるしかないんだし。今のうちにペイフェイの肉を味わっておきなよ」
「いや、しかし……」
「ティアがペイフェイの肉を食べてくれたら、俺は嬉しいよ。俺を嬉しい気分にさせたら、それもティアにとっては贖いのひとつになるんじゃないのかな?」
ティアは言葉が巧みであるし、年齢相応の賢さも有しているように思えたが、やっぱり根っこは実直を旨とする気性であった。ゆえに、俺の屁理屈を論破することもかなわないようだった。
「……わかった。アスタがそれを望むのなら、ティアはその言葉に従う」
「ありがとう。それで、ティアはどういう食事が好みなのかな? タウ油のスープはお気に召さなかったみたいだよね」
「モルガでは、肉を香草にはさんで食べていた。煮るときは、香草や木の実などを一緒に煮込んでいた」
では、いったいどのような香辛料が好みであるのかと、さまざまな種類を味見させてみたところ、ティアのお眼鏡にかなったのは、レモングラスに似た香草と、クミンに似た果実、それにイラの葉とチットの実であった。
イラの葉は、チットの実と似たところのある、トウガラシ系の香草である。思いの外、それは刺激的なラインナップであった。
「驚いたな。モルガの山では、そんな刺激の強い香草がとれるんだね。俺は薄味の食事を準備していたのに、まったく裏目に出てたわけだ」
そうして俺は、レイナ=ルウたちに伝授された香味焼きや、《玄翁亭》に卸しているアラビアータ風の料理などで、ティアのための晩餐をこしらえることになった。
ペイフェイの肉のすべてをティアに食べさせるのはさすがに気が引けたので、同じ料理を少量だけ自分とアイ=ファのためにも準備する。それでわかったのは、ティアがアイ=ファよりもはるかに刺激的な味付けを好んでいる、ということであった。
「この味なら、ティアも美味いと思うことができる。アスタもそれほど食事を作るのが下手なわけではなかったのだな」
ティアは満足そうに笑いながら、そのように言ってくれた。
もちろんアイ=ファは不満そうに口をへの字にしていたが、ここまで好みが違っては文句を言ってもしかたないと悟ったのか、無言のままであった。
「うん、このペイフェイの肉っていうのは、香草とも相性がいいんだね。普通に焼くだけでも、十分に美味しいけどさ」
「ペイフェイの肉は、焼かなくても美味だ。干す前の肉をライアの葉にはさんで食べるのが、一番美味だと思う」
そのような会話をしていると、俺の心にはひとつの疑念が浮かびあがった。
「そういえば、赤き民も普通に火を使ってるんだね。その割には、モルガの山から煙がのぼったり、夜に火が灯ったりするところを見たことがないんだけど」
「当たり前だ。火の明かりも煙も、山の外からは見えないように隠している。外界の人間に集落の場所を知られるのは、危険だからな」
俺の作ったペイフェイ料理を美味しそうに食しながら、ティアはそのように語ってくれた。
「この数百年で、外界の人間とモルガの民の間で、大きな争いが起きたことはない。でも、大神が目覚める前に外界の人間が悪心を抱けば、きっとモルガの民を滅ぼそうとするだろう。だからティアたちは、自分たちの血を守るために、力を尽くしているのだ」
「ふうん、そうだったんだね。……でも、赤き民と外界の人間っていうのは、どうしてそこまで徹底的に縁を切ってしまったんだろうね。同じ言葉を使ってるっていうことは、もともと同じ場所に住む血族だったんじゃないかって思えるんだけど」
「わからない。わかるのは、おたがいに異なる神を崇めているということだけだ」
ティアにとって、それは頭を悩ますような問題ではないようだった。
しかし、俺としてはなかなか気にかかる問題である。
「それに、言葉が同じというだけじゃなく、固有の名前まで共通してるんだよね。モルガの山とか、モルガに住む獣の名前とか……それはやっぱり、あるていどの時期までは交流があったっていうことなんじゃないのかな?」
「わからない。あったとしても、何百年も昔の話なのだろうと思う」
そのような感じで、この大いなる謎が解明される機会はなかなか訪れなかった。
ともあれ、ティアとの共同生活は、賑やかながらも平和に過ぎ去っていったのである。
そうして俺たちは、そんな状況のまま、6氏族合同の収穫祭を迎えることに相成ったのだった。
◇
「しゅうかくさいとは、何なのだ?」
その日もティアはかまど小屋の片隅に控えながら、そのように問うてきた。
ただし、ファの家ではなく、フォウの家のかまど小屋である。本日の主催者は持ち回りでリッドの家が受け持つことになっていたが、6氏族の全員を無理なく招くことができるのはフォウの集落のみであったので、本日も俺たちはこの場でかまどの仕事に取り組んでいたのである。
「それはこの前も説明しただろう? 恵みをもたらしてくれる森に感謝の念を捧げる、森辺の集落の大事なお祝いごとなんだよ」
「ふむ。そのために、いつもより豪華な食事を準備するのか? よくわからないが、生誕の祝いのようなものなのか」
「ああ、赤き民の集落でも、生誕の祝いっていうのが存在するんだね」
「うむ。一族に新たな子が生まれたときと、あとは族長が10年を生き抜くたびに、祝いの宴をする」
すると、隣のかまどで鉄鍋の面倒を見ていたサリス・ラン=フォウが、微笑まじりの視線をティアに差し向けた。
「モルガの山でも、月や日というものが存在するのですか? わたしたちの祖は、それを町の人間から学んだそうなのですが」
「うむ? モルガで大事なのは、大神の瞳がモルガの頭上に瞬く日だけだ。赤き民は、その日を迎えるごとに年齢を重ねる」
「ああ、同じ日に全員が年齢を重ねるのですか。それなら、西の民の習わしに似ているようですね」
ティアが森辺の集落に現れて、今日で4日目。この頃には、近在の人間の大部分がティアと普通に接することができるようになっていた。
ただし、ティアは客分という身分ではなく、「保護されている獣」という扱いである。むやみに絆を深めるのはジェノスの意向にそぐわないという旨は周知されているので、誰もが適切な距離をはかろうと考慮している気配があった。
しかしそれでも、ティアは魅力的な存在である。その純朴さと実直さは、きわめて森辺の民の気風と合致している。それゆえに、うかうかと心を寄せてしまわないように、みんな意識的に距離をはかろうとしているのかもしれなかった。
「さあ、そろそろ狩人たちの力比べが始まる時間だよ! 間に合いそうにない仕事は次に回して、中途半端にならないようにね!」
本日の仕切り役をまかされている、リッドの家長の奥方が威勢のいい声をあげていた。
リッドの家長ラッド=リッドの伴侶である彼女は、俺と同じぐらい背が高く、そして、俺よりも5割増しで体格のいい壮年の女性であった。明朗快活なるラッド=リッドの伴侶に相応しく、ミーア・レイ母さんに劣らぬきっぷのよさである。
「どうだろうね、アスタ? 今のところ、仕事が遅れたりはしていないよね?」
「ええ、もちろん。少なくとも、ここで進めている作業はのきなみ順調ですよ」
「それじゃあ、他のかまど小屋も見回ってこなくっちゃね! ああ、忙しい忙しい!」
実作業の取り仕切り役を担っているのは、やはり俺である。しかし、俺にばかり負担をかけては申し訳ないということで、今回から主催者の家の女衆が名目上の取り仕切り役を担うことになったのだ。
そのように大事な役目をまかされることになって、ラッド=リッドの伴侶は大いに奮起し、なおかつ、とても楽しそうであった。
「次の収穫祭では、わたしがあの役を担わなくてはならないのですよね。まだ何ヶ月も先の話なのに、今から気が張ってしまいそうです」
そのように述べていたのは、ラン本家の家長の伴侶たる女性であった。
年齢はラッド=リッドの伴侶とあまり変わらぬように見えるが、線が細くて、たおやかな気性である。この先は、血族の家が連続にならぬよう、ラン、ディン、スドラ、ファ、の順番で取り仕切り役は持ち回りになる予定であったのだった。
(この調子でいくと、俺に出番が回ってくるのは、来年の終わりか再来年だよな。なんだか、想像がつかないや)
しかし何にせよ、楽しみであることに変わりはない。ラン家の彼女も不安そうな表情なれど、そこには期待や喜びの表情も確かにうかがうことができた。
それからしばらくして、広場から集合の合図が届けられる。
狩人の力比べが始められる刻限、下りの一の刻に達したのだ。
前半戦の仕事を終えた俺たちは、充足した気持ちを胸に、そちらへ向かうことになった。
俺のかたわらにぴったりと寄り添いながら、松葉杖のティアもひょこひょこと歩いている。
広場には、6氏族の狩人が集結していた。
昨年の人数は33名であったが、あれから2名の若衆が13歳に達して、総数は35名となっている。初めて力比べに参加するその両名は、幼さの残る顔に誇らしさと緊張感を等分に漂わせつつ、他の狩人らとともに立ち並んでいた。
他の家で作業をしていたかまど番も、のきなみ出揃っている。この場にいないのは、火を止めることのできないギバ骨スープの面倒を見ている2名と、5歳未満の幼子たちの面倒を見ている2名のみであり、総数は30名ていどだ。
それとは別に、13歳未満の男衆と10歳未満の女衆が、十数名ほど存在する。かまど以外の仕事を受け持っていたそれらの若衆も、もちろん瞳を輝かせながら狩人たちを取り巻いていた。
そして今回、見届け人として余所の氏族から訪れたのは、スフィラ=ザザのみである。
他の族長筋やベイムの人々は、前回の収穫祭を見届けたことで、役目を終えたと考えたらしい。それはつまり、血族ならぬ氏族同士で収穫祭をあげることに、大きな問題は見られなかったと判断してくれたということであった。
そんな中、ザザ家だけが見届け人を送り込んできたのは、やはりディンにリッドという眷族がこの中に加わっているためなのだろう。夕方ぐらいには、ゲオル=ザザも狩人の仕事を切り上げて来訪するはずだという話であった。
「皆、朝からご苦労だった! これから、狩人の力比べを開始する!」
本日の取り仕切り役であるラッド=リッドが、大きな声でそう宣言した。
そのぎょろりとした大きな目が周囲の人の輪を見回してから、ティアのもとで固定される。
「その前に、いちおう赤き野人についても説明しておくべきであろうな! すでに誰もが事情は聞いているだろうが、まだその姿を目にしていない人間も多少はいるはずだ! ……アスタ、そやつをこちらに連れてきてもらえるか?」
俺はうなずき、ティアとともにラッド=リッドのほうに近づいていった。
ラッド=リッドは笑顔でティアの姿を見下ろしてから、また周囲の人々へと視線を差し向ける。
「すでに皆も聞いている通り、こやつは現在、ファの家に身柄を預けられている! こやつを収穫祭に招くいわれはないが、べつだん邪魔になることもないようなので、アスタのそばにいることを許しているのだ! ……聞くところによると、もうじきに行われるルウ家の祝宴では宴に加わることを禁じられたらしいが、この場には町の人間がいるわけでもないし、好きにさせても問題はなかろうよ」
ラッド=リッドが言っているのは、町の人々を招く親睦の祝宴についてである。
その日取りは青の月の1日に決定されたのであるが、ジェノス侯爵マルスタインからティアを参席させないように、というお達しが届けられたのだった。
その代わりに、本日の収穫祭については森辺の民の判断にまかせる、と言ってもらえている。
足の治療を終えたらモルガの山に返す、という行いにも異議をはさまれることはなかったし、基本的にマルスタインは森辺の民の判断力を信用してくれているようだった。
「ただし、こやつが何か悪さをするようであれば、手足を縛って家の中に放り込んでおくことになる。お前もそのつもりで行いをつつしむのだぞ、野人の子よ!」
ティアは普段通りの真っ直ぐな眼差しで人々を見回してから、最後にぺこりと頭を下げた。
この4日間でティアの姿を見る機会のなかった人々はややざわめいているものの、何も不穏な気配はしない。族長たちの決定は、他の氏族からもとりたてて反対はされていなかったのだった。
また、ティアのほうも、どれだけ大勢の森辺の民を前にしても、心を乱すことはない。いつも通りに毅然と背筋をのばして、誇り高い獣のように赤い瞳をきらめかせている。
ちなみに現在のティアは、宿場町で購入したワンピースのような装束を着させられていた。自前の服は一着しかなかったので、洗い替えとして買い与えたのだ。
シム産の、渦巻き模様の装束を与えることは、同胞として迎え入れたという証になってしまうので、それとは別の織物である。素材も色彩もターラが着ている装束とよく似通っているが、それでティアの持つ不思議な雰囲気が緩和されることはまったくなかった。
そんなティアの姿を笑顔で見下ろしてから、ラッド=リッドは「うむ!」とうなずく。
「では、下がっているがいい! アスタ、ご苦労だったな」
「はい。お疲れさまです、ラッド=リッド」
俺は最後にアイ=ファへと目配せをしてから、観客側の輪に戻っていった。
力比べに意識を集中しているのだろう。アイ=ファは、厳粛きわまりない面持ちである。
「では、まずは的当ての力比べからだな! 皆、あちらに移動してくれ!」
ラッド=リッドの号令とともに、俺たちは広場の端へと移動した。
木に吊るされた的を弓矢で狙う、的当ての競技である。十三歳未満の少年たちが、きりっとした表情で弓と矢筒を掲げていた。
「前回、的当てで勇者の称号を得たのは、スドラの分家の家長たるチム=スドラであったな。その力が勇者の名に相応しいものかどうか、俺たち全員で挑ませてもらうぞ!」
やはり小さき氏族の間でも、連続で優勝できる者こそが真なる勇者という扱いであるらしい。
ラッド=リッドの豪放なる笑みを差し向けられながら、チム=スドラはとても張り詰めた顔になっていた。
「それでは、力比べを始めようと思うが……アイ=ファよ、お前は今回も腕ならしが必要であるのかな?」
「いや。猟犬のブレイブを家に招いてから、私も狩りで弓を使うようになった。腕ならしは、不要だ」
「おお、そうか! それでは前回よりもいっそう腕を上げたということだな。これは楽しみなことだ!」
アイ=ファは前回、勝ち抜きトーナメントの準決勝戦でマサ・フォウ=ランに惜敗してしまったのである。
しかしそれは、2年半以上も弓を使っていない状態で挑んだ勝負であったのだ。他の競技でも荷運び以外では優秀な成績を残していたアイ=ファであるので、今回は的当てでも期待をかけられるような気がした。
「今回も、まずは4名ずつの勝負でよかろうな。まずはファとスドラを除く4つの氏族から1名ずつ挑むがいい!」
ラッド=リッドの声に応じて、4名の狩人が進み出る。
的当ての力比べというのは、木の枝に吊るした的を振り子のように揺らして、それを矢で射抜く競技であった。的までの距離は10メートルほどで、10秒の間に3本の矢を放つ。的は10センチ四方の木の板であり、真ん中に印があるので、その印を正確に射抜いた数を競うのである。
なお、的を揺らすのは若衆の仕事であり、秒数を数えるのは幼子の仕事である。10歳未満の幼子たちが笑顔でカウントを合唱するのが、俺には微笑ましく感じられてならなかった。
「なるほど。弓の腕を競っているのか。狩人らしい力比べだ」
と、ティアは周囲の女衆に劣らず熱い眼差しを競技の場に向けていた。
女衆は男衆の勇姿に胸を躍らせているのであるが、ティアは同じ狩人として昂揚しているらしい。
「そういえば、赤き民も狩りでは弓を使うって話だったよね。ティアも弓は得意なのかな?」
「うむ。しかし、大事な弓は川に流されてしまったようで、とても残念だ」
ティアは、きらきらとした目で狩人たちの勝負を見つめている。
心なし、その小さな身体が小刻みに揺れているようだった。
「ティアも参加したくてたまらないって顔だね」
「うむ、もちろんだ! ……しかし、血族ではないティアは、加わるべきではない。それもわかっている」
そんな中、順当に勝負は進められていった。
やはりスドラの狩人は弓の扱いが巧みであり、全員が一回戦を勝ち抜いている。それに、前回好成績であった3名、マサ・フォウ=ランとジョウ=ラン、それにトゥール=ディンの父親も準決勝戦に駒を進めていた。
そして、我が家長アイ=ファである。
アイ=ファもまた、一回戦目は危なげなく勝ち進むことができていた。
やはりアイ=ファというのは、さまざまな面において大きな才覚を持つ狩人であるのだろう。そして、それをたゆまぬ鍛錬で開花させる不屈の精神力をもあわせ持っているのだ。
そうしてアイ=ファが矢を射るだけで、周囲からは黄色い声援があがっている。
相変わらず、アイ=ファは女子人気が高いようだった。
なおかつ、アイ=ファが真剣な面持ちで矢を射るその姿は、俺から見ても掛け値なしに格好よく、魅力的であった。
「よし、次の勝負は3名ずつだ!」
一回戦で敗退してしまったラッド=リッドは、気落ちした様子もなく声をあげていた。俺の知る限り、大柄な狩人というのは弓よりも刀を得手にしているようなのである。
ともあれ、準決勝戦だ。
この勝負で、9名の狩人が3名にまで絞られることになる。
アイ=ファの対戦相手は、ライエルファム=スドラにジョウ=ランという強者ぞろいであった。特にジョウ=ランは、前回の力比べでチム=スドラと1位の座を争っていた腕前である。
「あのふたりは、とても腕がいいようだ。でも、きっとアイ=ファが勝つだろう」
そんな風に言いながら、ティアはにこりと俺に笑いかけてきた。
アイ=ファは決して甘い顔を見せないものの、ティアは一緒に暮らすアイ=ファに対しても惜しみなく心を寄せているのである。
そして、そんなティアの予言通りに、アイ=ファは準決勝戦を勝ち抜くことができた。
まずは1本の矢を的から外したジョウ=ランが敗退し、そののちの再勝負でライエルファム=スドラをも見事に下してみせたのである。
「まいったなあ。さすがはアイ=ファです」
ジョウ=ランは、眉尻を下げて笑っていた。
アイ=ファはとりたてて言葉を返そうとはせず、その代わりにライエルファム=スドラがジョウ=ランをねめつけた。
「お前はたしか、前回の力比べで俺を下していたはずだな。若いお前は日を重ねるごとに力を増していくはずなのだから、俺のような老いぼれに追い抜かれてはいかんぞ」
「いえ、ライエルファム=スドラほど立派な狩人が相手では、そう簡単にはいきませんよ」
「……簡単だなどとは言っていない。ただ、口惜しく思う気持ちはお前の力になるはずだ」
「あ、それなら心配はいりません。俺は口惜しさが表に出ないだけなのです」
ジョウ=ランが笑顔でそのように述べたてると、ライエルファム=スドラは苦笑しつつ「ならばいい」ときびすを返した。
そんな中、準決勝の2戦目はすでに開始されている。
そこでは、チム=スドラがフォウとスドラの狩人を下して、勝ち進むことになった。
そして3戦目、トゥール=ディンの父親と、マサ・フォウ=ラン、そしてスドラの若い狩人である。
その勝負を制したのは、トゥール=ディンの父親であった。
前回は準決勝戦で敗退することになった父親が勝利をつかみ取り、トゥール=ディンは目もとを潤ませつつ喜んでいた。
そうして迎えた、決勝戦。
ファイナリストは、アイ=ファ、チム=スドラ、トゥール=ディンの父親である。
「チム=スドラ以外は、前回と異なる顔ぶれとなったな! これは腕を上げたふたりを褒めたたえるべきであろう!」
ラッド=リッドの笑い声とともに、いよいよ決勝戦が開始される。
これがまた、つばぜり合いの大接戦であった。
前回もたしか勝負がつくのに6回ぐらいはかかったように思うが、今回はその数を重ねても、ひとりとして脱落しなかったのである。
勝負がついたのは、8回目であった。
そこでも3名は全員的に矢を当てていたが、真ん中の印をすべて射抜いたのはチム=スドラのみであり、見事に連覇を成し遂げてみせたのだった。
「これは見事だ! 今回も、的当ての勇者はチム=スドラとする!」
人々は、男女の別なく歓声をあげていた。
チム=スドラは大きく息をつきながら、アイ=ファとトゥール=ディンの父親に向きなおる。
「ギバ狩りのときよりも神経が削れた気がするぞ。お前たちも、勇者の名に相応しいと思う」
「しかし、それでも勝利したのはお前だ。心から祝福しよう」
ちょっとリャダ=ルウと似たところのあるトゥール=ディンの父親が、渋みのある顔に穏やかな笑みを浮かべていた。
額の汗をぬぐいながら、アイ=ファも「うむ」とうなずいている。
チム=スドラの伴侶たるイーア・フォウ=スドラはもちろん、トゥール=ディンも嬉しそうに微笑んでいる。きっと俺も、同じ面持ちになっていたことだろう。
狩人の力比べで、負けても恥になることはない。それが当たり前だと再認識できるような、それは素晴らしい勝負だった。