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異世界料理道  作者: EDA
第三十三章 大神の子
556/1706

緑の月の二十五日②~二つの大罪~

2018.1/30 更新分 1/1

 俺はしばらく呆気に取られたまま、そこに横たわる赤き野人の姿を観察することになった。


 体格は、小柄である。身長はせいぜい130センチぐらいで、身体つきはずいぶんとほっそりしている。

 しかし、それが不思議なことはない。彼女は、ごく幼げな少女であったのだった。


 ざんばらに乱れた髪が顔にまでかかっているので、目鼻立ちはよくわからない。ただ、まぶたを閉ざして安らかに眠っているようだ。

 身体を横にして、胎児のように身を丸めている。そのせいで、彼女はいっそう小さく見えた。


 その身体には、まだらの染色がほどこされた胴衣を纏っている。腕や足は剥き出しで、腰には帯を巻いており、そこに木製の大きな鞘が差し込まれている。足は裸足で、手にも何も持ってはいなかった。


 ただ、右の足首から膝の上まで添え木が当てられており、それが灰色の布でぐるぐる巻きにされていた。察するに、足を骨折していたのだろう。それを、フォウの人々が治療したに違いない。


 普通に考えれば、ただの人間である。

 森辺に侵入した外部の人間が、ラントの川で流されることになった。そう考えるのが、妥当なところだ。

 だけど俺は、他の人々と同じように、それが赤き野人であるという確信に近い思いを抱くことになった。


 理由は、ふたつある。

 そのひとつは、彼女が肩から羽織っているマントだ。

 それは、黒みがかった青色にてらてらと照り輝く、鱗の皮で作られていたのだった。


 これだけ立派なマントを作るには、かなり巨大な爬虫類が必要となることだろう。そして、その青黒い色合いは、俺がかつて遭遇したマダラマの大蛇と同一のものだった。


 そしてもうひとつは、彼女自身の色彩だ。

 彼女はどこにもおかしなところのない人間の姿をしていたが、しかしただ一点、その髪も肌も赤い色彩に彩られていたのである。


 赤褐色、というのが適切であろうか。俺が知る赤レンガよりも、もう少しだけ赤味が強いぐらいの色合いだ。髪も肌もまったく同じ色合いをしていることから、それは生来のものではなく、染料か何かで染めた結果であるように思えた。


「このように赤い姿をしていて、おまけにマダラマの鱗を狩人の衣としているのだから、これは赤き野人で間違いないだろう。そもそもモルガの山の住人でなければ、マダラマを狩ることもできないのだからな」


 低い声で、バードゥ=フォウがそう言った。


「人と呼ばれるからには、我らと似た姿をしているのだろうと思っていたが……しかしこれでは、人間そのものだ。だから俺たちも、捨て置くことができずに家まで連れ帰ることになってしまった」


「そ、そうですね……彼女はずっと気を失っているのですか?」


「うむ。右のすねが折れている他に、頭を強く打ったらしい。今は髪で隠れているが、額にも大きな傷を負っていたのだ。いちおう、そちらにも薬だけは塗っておいたが……この後はどう扱うべきか、族長や貴族たちの言葉を待とうと思う」


 俺たちは3メートルばかりの距離をはさんでその少女を取り囲んでいたので、額の傷というのを確認することはできなかった。

 その代わりに、俺は新たな発見をした。彼女の頬には、何か黒い紋様が描かれているようだった。

 よく見ると、手の甲と足の甲にも同じような紋様が渦を巻いていた。いかにも呪術的な、意味ありげな紋様だ。


「いちおう、武器も取り上げておいた。あちらの獣と一緒に、この刀も固く握りしめていたのだ」


 バードゥ=フォウが目配せをすると、他の男衆が一本の刀を差し出してきた。

 刀身が黒い、厚刃の短刀である。刀身は黒光りする石を削ったもので、柄には蔓草が巻かれていた。


「その身の装束も、山でとれる草木から作ったものなのだろう。俺たちの祖も、黒き森ではそうして石や草木から武器や装束をこしらえていたらしいからな」


「だけどこれは、驚くべき話ですね。赤き野人というのが、こんな人間そのものの姿をしているとは思っていませんでした」


「うむ。やはり王都の兵士たちを脅かしたのも、赤き野人であったのだろうな」


 バードゥ=フォウがそのように述べたとき、赤き野人たる少女がいきなり「かはっ!」と鋭く息を吐いた。

 たちまちバードゥ=フォウが、長い腕を振り上げながら血族たちに呼びかける。


「目を覚ましたようだぞ! 女衆や幼子は下がっていろ!」


 半径3メートルほどの包囲の輪が、5メートルほどまで広げられることになった。

 少女は敷物に片手をついて、大儀そうに上体を起こす。


「そのまま動かず、俺の言葉を聞くがいい。お前は、モルガの赤き野人だな?」


 バードゥ=フォウが張りのある声でそう問い質した。

 少女は、うろんげに面を上げる。


 顔にかかった長い前髪の隙間から、大きな瞳が輝いていた。

 その瞳もまた、赤みがかった色合いをしているようだった。

 肌や髪とは異なり、これは生まれつきのものであるのだろう。宝石のガーネットを思わせる、深くて暗い赤である。


(すごく綺麗な瞳だな。これでこっちの言葉も理解できるなら、何も心配する必要は――)


 と、俺がそのように考えたとき、少女の赤い瞳が炎のように燃えあがった。

 それを知覚した瞬間に、俺の視界が暗転した。


 ものすごい衝撃に身体を突き飛ばされて、次の瞬間、身動きが取れなくなる。わけもわからぬまま目を開くと、数メートル先にバードゥ=フォウの姿が見えた。


「何をするのだ! アスタを離せ!」


 バードゥ=フォウの双眸が、怒りに燃えあがっていた。

 左右に並んだ男衆は、すでに刀を抜いている。

 そして俺は、呼吸も困難なぐらいに咽喉を圧迫されていることに、ようやく気づくことができた。


 何者かが、背後から俺の咽喉もとをわしづかみにしているのだ。

 どう考えても、そのような真似をするのは赤き野人の少女でしかありえなかった。


 しかし俺は、彼女から5メートルほども離れていたはずだ。

 なおかつ、すぐそばにはバードゥ=フォウたち森辺の狩人が立ち並んでいたのである。

 警戒態勢にあった森辺の狩人を出し抜いて、片足の折れた人間がこのように不埒な真似に及ぶなど、普通では考えられない話であった。


「お前たちは、モルガの禁忌を破るつもりか! 今すぐに立ち去らねば、お前たちの世界を滅ぼすぞ!」


 凄まじい怒号が、俺の耳もとで爆発する。

 俺を拘束している赤き野人の少女が、怒りの声をあげているのだ。


 このシチュエーションは、嫌でも俺にかつての窮地を思い出させた。言うまでもなく、テイ=スンに身柄を拘束されたときの恐ろしい記憶である。


「何を言っている! 禁忌を破ったのは、お前のほうだ! 外の人間は山に触れず、山の三獣は外に触れずというのが、モルガの掟であろうが!」


 少女に負けない咆哮をあげながら、バードゥ=フォウもまた刀を抜き放った。

 バードゥ=フォウがこれほどまでに狩人の気迫をあらわにする姿を見るのは、初めてのことだった。長身だが痩せているその身体に、怒りの炎がたちのぼっているかのようである。


「それでも俺たちは、手傷を負っていたお前に治療をほどこした! その恩義も踏みにじって、お前は俺たちの同胞を傷つけるつもりか!」


「いいから、とっとと山を下りろ! 手始めに、こいつの首をひっこ抜いてやろうか!?」


 俺の頚骨が、ぎりぎりと嫌な音色を奏で始めた。

 かつてのテイ=スンよりも容赦のない責め苦である。俺は声をあげることもできないまま必死に相手の腕をつかんでいたが、それは鋼鉄でできているかのようにビクともしなかった。


「だから、ここは山ではなく山麓の森だ! 俺たちは、禁忌を破ったりはしていない!」


「馬鹿を抜かすな! モルガの山は、我らの聖域だ! こいつの魂は、大神に捧げさせてもらう!」


「やめろ! ……アスタの身を害したら、俺がお前を八つ裂きにしてくれるぞ」


 バードゥ=フォウが、刀を握りなおす。

 そのかたわらに、小柄な人影が音もなく近づいた。


「赤き野人よ、あれを見ろ。そうすれば、俺たちの言葉が真実であると知れるはずだ」


 それは、チム=スドラであった。

 その指先が、俺から見て右手側に差しのべられている。

 その方向には、当のモルガの山が屹立しているはずであった。


 数秒の後、俺の首にかけられた指の力が、ふっとゆるめられる。

 その瞬間、また暴虐なまでの力がふるわれて、俺の身体が少女のもとからもぎ離されることになった。


 俺は地面に倒れ込み、せきとめられていた呼吸を再開する。

 すると、俺を救ってくれた何者かが、その背にそっと手をあてがってくれた。


「大丈夫か、アスタ? 落ち着いて、ゆっくり息を吸え」


 俺はぜいぜいとあえぎながら、なんとかそちらを振り返ってみせた。

 俺のかたわらで膝をついていたのは、誰あろうライエルファム=スドラであった。


「ありがとうございます……またライエルファム=スドラに救われてしまいましたね……」


「どうしてアスタばかりがこのような目にあうのだろうな。俺は生きた心地がしなかったぞ」


 ライエルファム=スドラは、仏頂面で息をついていた。

 ただその小さな瞳には、安堵の光がくるめいているように感じられる。焼けたように痛む咽喉もとをおさえながら、俺はそちらに微笑みかけてみせた。


 すると、ライエルファム=スドラの身体を回り込んで、ジルベが近づいてきた。

 何だかとても申し訳なさそうな目つきをしながら、俺の頬をなめてくる。もしかしたら、ジルベは赤き野人の少女の迫力にあてられて、今まで動けずにいたのかもしれなかった。


「大丈夫だよ。ジルベが無茶な真似をしなくてよかった」


 俺がたてがみの内部を撫でてやると、ジルベは甘えたように顔をすり寄せてきた。

 ジルベはアイ=ファと同様に、俺のことも主人と認めてくれているのである。

 そんな俺の背中を優しくさすりながら、ライエルファム=スドラは横合いに視線を飛ばしていた。


「それにしても、恐ろしい力を持ったやつだ。さすが、ギバよりも強き獣と呼ばれるだけはあるな」


 俺も、そちらに視線を移動させた。

 フォウやランの狩人たちが、刀を手に赤き野人の少女を取り囲んでいる。

 少女は地面にへたり込み、がっくりとうなだれてしまっていた。


「なんということだ……ここは本当に、山の外だったのか……」


 さきほどの怒号が嘘のような、悄然とした声である。

 その小さな身体に似つかわしい、とても幼げな女の子の声だ。

 そしてその言葉は、ややイントネーションにゆらぎがあるものの、たいていの東や北の民よりもよほどはっきりとした西の言葉であった。


「だから、何度もそう言っている。俺たちは、禁忌など破っていない。お前がラントの川を流れてきたので、それを救い、傷の手当をしてやったのだ」


 厳しい声で言いながら、バードゥ=フォウが少女の胸もとに刀の切っ先を突きつけた。

 少女はゆっくりと頭をもたげて、バードゥ=フォウの長身を見上げた。


「理解した。禁忌を破ったのは、こちらのほうだった。その刀で、罪人の魂を召すがいい。ティアは、逃げも隠れもしない」


「ティア? それが、お前の名か?」


「……モルガの赤き民、ティア=ハムラ=ナムカルだ。罪を犯したこの身の魂は、大神に返す。その行いをもって、どうか許してもらいたい」


 そう言って、少女は赤く光る瞳をまぶたの裏に隠した。

 その奇怪な紋様の描かれた頬に、すうっと透明な涙が流れ落ちる。

 その横顔は、あまりに幼げであり、そして純然たる悲哀に満ちみちているようだった。


                  ◇


「……なるほどな。そういう顛末であったのか」


 しばらくして、日没の間際である。

 晩餐の準備が進められるかたわらで、すべての事情を聞き終えたアイ=ファは、深甚なる怒りをひそめた声でそのようにつぶやいた。


「片足の折れていた野人めがそこまでの力でアスタに飛びかかるとは、誰にも考えられなかったのだろう。私とて、話を聞いてもまだ信じられぬほどであるのだから、バードゥ=フォウらの見込みが甘かったのだと責めたてることはできまい」


「そのように言ってもらえるのならば、幸いだ。俺は最初から狩人ならぬ人間を近づけるべきではなかったと、今でも強く悔いている」


 下座に座したバードゥ=フォウは、無念の面持ちでそのように答えていた。アイ=ファに事情を説明するために、わざわざバードゥ=フォウ自らがファの家を訪れてくれていたのだ。


「それで、赤き野人めの処遇については、ジェノスの貴族たちからも意見を聞いた上で定めるというのだな?」


「ああ。今ごろドンダ=ルウは、城下町でジェノスの領主らと語り合っているだろう。その返答は、明日の朝にでも届けられるはずだ」


「うむ。獣と称されていた赤き野人が人間の姿をしていたのだから、それもおかしな話ではない。ことに、モルガの禁忌に関しては、我々よりもジェノスの民のほうが重く考えているのだからな」


 そのように述べながら、アイ=ファはぎらりと目を光らせた。


「それで……いったい何故、その野人めはファの家に腰を落ち着けているのであろうか?」


「うむ。アイ=ファが怒るのは承知していたが、こやつがどうしてもと言い張っていたのでな」


 バードゥ=フォウは、申し訳なさそうに視線を転じた。

 その視線の先で、赤き野人たる少女は悄然と座り込んでいる。特に捕縛されたりはせずに、添え木の当てられた右足は敷物の上に投げ出されていた。


「こやつは罪もないアスタを傷つけてしまったために、それを贖うまではアスタのそばから離れられないそうなのだ。よくわからぬが、それがこやつらの習わしであるらしい」


「…………」


「むろん俺たちも説き伏せようと苦心したが、それすら許されぬならどうか魂を返してほしいと泣かれてしまってな。あやつは山の外に出るという禁忌と罪もない人間を傷つけたという禁忌をいっぺんに犯してしまい、どうにも気持ちが弱ってしまっているようなのだ」


「……だからといって、アスタを傷つけた者をアスタのそばに置こうというのか?」


 アイ=ファがここまで腹を立てているのは、俺の咽喉もとに青黒い痣がくっきりと残されてしまっているためだった。

 このような傷を負ったのは、おそらくドッドに腹を蹴られて以来のことだ。アイ=ファの優美なる肢体には、さきほどから青白い怒りのオーラがめらめらとたちのぼっているように感じられた。


「こやつがアスタに害をなすことは、もはやないだろう。それだけは、信ずることができる。しかし、アイ=ファが信じられぬというのなら、俺たちは明日の朝までこやつを見張っていようと思う」


 バードゥ=フォウのかたわらには、もうふたりの若き狩人たちが控えている。バードゥ=フォウたちはあれから3人がかりで、ずっとこの少女を監視してくれていたのだ。


 だが、頭と右足に深手を負っているとはいえ、森辺の狩人を出し抜くほどの膂力を見せつけた少女である。そんな彼女に対してわずか3名の見張り役しか立てなかったというのは、バードゥ=フォウが少女の言葉を心から信用したためであった。


「よければ、アイ=ファもその者と言葉を交わしてほしい。そうすれば、俺の言葉も理解できるはずだ」


 バードゥ=フォウがそう告げると、アイ=ファは刀を手に立ち上がった。

 そうして少女のもとで片方の膝をつき、その小さな顔を覗き込む。


「顔を上げよ。私はお前が傷つけたアスタの家族たる、ファの家のアイ=ファだ」


 少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 その深い色合いをしたガーネットのような瞳が、真っ直ぐにアイ=ファを見つめ返す。


「ファの家のアイ=ファ。お前の家族であるファの家のアスタを傷つけたことを、ティア=ハムラ=ナムカルは心から謝罪する」


「その謝罪は受け入れよう。だから、ファの家を出ていってもらいたい」


「それはできない。ティアは大きな禁忌をふたつも犯してしまったために、このままでは大神に許されないのだ」


 少女ティアは、切実なる思いをたたえた表情でそのように述べたてた。

 鱗のマントを脱がせたために、その身体はいっそう小さく見えてしまう。身長も体重も、おそらくはツヴァイ=ルティムていどしかないだろう。こんなに小さな身体のどこにあれほどの力が秘められているのか、ちょっと常識では考えられないところであった。


 また、びしょびしょに濡れていた髪や衣服も、この数時間ですっかり乾いている。肩のあたりでざっくりと切りそろえられた彼女の髪は、何かの果実や花のような香りを発散させているように、俺には感じられた。


 長い前髪の隙間から見える顔は、やっぱり幼げである。目と口が大きくて、鼻だけがちょこんと小さな造作をしており、どこか小動物めいている。年齢は十二歳であるという話であったが、小さな身体と相まって、彼女はそれよりもうんと幼げに見えた。


 怒った山猫のようにきらめくアイ=ファの瞳にねめつけられながら、ティアはさらに言葉を重ねる。


「怒っているならば、ティアの首を刎ねてほしい。ティアはそれだけの罪を犯した。そして、その罰をもって、ティアの罪は贖われるだろう」


「……家人を傷つけた者を家に置きたくはないという、私の心情を汲んではくれぬのか?」


「だから、ティアの首を刎ねるべきだ。何故そうしないのか、ティアにはわからない」


 しばらくティアと見つめ合ってから、アイ=ファは深々と溜息をついた。

 そうして身を起こすと、癇癪を起こしたように頭をひっかき回す。


「なんと厄介なやつだ。こやつは……まさしく、山の子であるようだな」


「ああ。こやつに虚言を吐くことはできまい。だから俺も、こやつを信ずることにしたのだ」


 俺もフォウの集落にて、少しばかりこの少女と言葉を交わすことになった。

 そのときに感じたのは、なんて澄んだ瞳をしているのだろう――という強烈な思いであった。


 髪や肌が不思議な色合いをしている他は、普通の人間と変わらぬ姿である。しかし、この少女の赤みがかった大きな瞳は、生まれたての赤子みたいに澄みわたり、無垢そのものであったのだ。

 あるいはそれは、トトスや猟犬に似た眼差しであったかもしれない。俺たちと同じ言葉を喋る、まぎれもない人間であるはずなのに、彼女はまるで野の動物みたいな眼差しを有していたのだった。


 そしてそれは、俺が最初に森辺の民に抱いたのと似た感覚であった。

 今でこそ当たり前に接しているが、森辺の民というのはみんな町の住人とは異なる清廉さと野性味をあわせ持った存在であったのだ。それをさらに練磨して、いっそう稀有なる存在に仕立てあげたのが、この少女であるように思えてならなかった。


 これが本当に人間であるのかと、そんな驚きにとらわれるほどである。実は魔法の力で野の獣が人間の姿に変えられたのだと言われても、俺は思わず納得してしまいそうなところであった。


「やはり野人というからには、通常の人間と異なるものであるのだろう。しかしそれは、俺たちにとって悪い要因にはならぬように思える。だから俺は、むやみにそやつの心情をねじふせたりはしたくないのだ」


「……だから、そやつを明日の朝までファの家に置いてほしいと言うのだな?」


「アイ=ファが心配であるならば、俺たちが寝ずに朝まで見張っていよう。だから、なんとか許してもらいたい」


 アイ=ファはもう一度溜息をついてから、ちょっと恨めしげにバードゥ=フォウを見返した。


「私とて、こやつの言葉や心情を疑っているわけではない。……バードゥ=フォウらは、自分の家に戻るがいい」


「それでいいのか? こやつを集落に連れ帰ったのは俺たちなのだから、何も気をつかう必要はないのだぞ」


「暴れる心配のない者を見張っても意味はなかろう。自分の家で、家人とともに晩餐を取るべきだ」


 どうやらアイ=ファも、無条件でティアの言葉を信用したようだった。

 ひとたびは、俺に害をなそうとした相手なのである。そんなティアを信用しようというのだから、やはりアイ=ファたちは俺以上にこの少女の本質を見抜いているのだろうと思われた。


「では、ルウの家から言葉が届けられたら、それはすぐに伝えさせてもらう。余計な気苦労をかけさせてしまって、本当にすまない」


 そうしてバードゥ=フォウたちは、ファの家から出ていった。

 戸板に閂を掛けるアイ=ファの足もとに、ブレイブとジルベがすり寄っている。きっと普段とは異なる気配を発散しているアイ=ファのことを心配しているのだろう。


 そんなブレイブたちの頭を入念に撫でてから、アイ=ファは広間に戻ってきた。

 壁際に座り込んだティアは、その不思議な眼差しでずっとアイ=ファの行動を追っている。


「ファの家のアイ=ファ。お前もやっぱり、ティアの魂を召さないのか?」


「話は聞いていたろう。お前の処遇を決めるのは、森辺の族長とジェノスの貴族だ」


「……やっぱりお前たちは、奇妙な存在だ。外界の人間なのに、どこか赤き民と似ているように思えてしまう」


 上座にどかりと座りなおしてから、アイ=ファはあらためてティアの姿をねめつけた。


「やっぱりというのは、どういう意味だ? お前は以前から森辺の民を知っていたのか?」


「もちろん、知っていた。お前たちは山麓でギバを狩っている一族だ。お前たちは、族長ハムラが生まれる前から山麓でギバを狩っていたと聞いている」


 晩餐の仕上げに取りかかっていた俺は、その言葉に「え?」と振り返ることになった。


「ちょっと待った。君の名前にも、たしかハムラという言葉が入っていたよね。もしかしたら、君は族長筋の血筋なのかい?」


「ティア=ハムラ=ナムカル。ナムカルの一族のハムラの子、ティアだ。ハムラはナムカルを統べる族長だ」


「よりにもよって、族長の子か。しかし、赤き民とやらのすべてを総べているわけではないのだな?」


 アイ=ファが口をはさむと、ティアは「うむ」とうなずいた。


「モルガにはたくさんの一族が暮らしている。ナムカルはヴァルブを友としてマダラマと戦う一族だ。マダラマを友としてヴァルブと戦う一族とは仲が悪い。……だけど、ティアたちがマダラマを食べればそれもまたモルガの力となる。マダラマもヴァルブも赤き民も同じモルガの子であることに変わりはない」


「それは、我々とて同じことだ。ギバやギーズやムントは危険だが、同じ森の子であることに変わりはないからな」


 ティアはきゅうっと眉を寄せながら、ますます不思議そうにアイ=ファを見た。


「やっぱりお前たちは、奇妙だ。外界の人間のくせに、赤き民の真似をしているのか?」


「見知らぬものの真似をすることはできまい。森辺の民はこの80年で、お前たちの姿などほとんど目にしたこともないはずだ」


 そう言って、アイ=ファは不機嫌そうに目を細める。


「ましてやこのようにお前たちと言葉を交わしたりしたのは、これが初めてのこととなろう。これまでモルガの奥深くに潜んでいたお前たちが、どうして姿を現すことになったのだ?」


「それは……外界の人間が、モルガに近づいたからだ」


 ティアの目に、穏やかならぬ光が瞬いた。


「少し前に、大勢の人間がモルガに近づいた。だからナムカルの狩人は、交代で見張りをすることにした。今日はティアの順番だったから、山麓に近い谷で狩りをしながら見張りの仕事を果たしていたのだが……ペイフェイを追っているときに、マダラマに襲われてしまい、川に落ちてしまったのだ」


「……ペイフェイとは、何だ?」


「ペイフェイは、モルガの実りだ。赤き民もマダラマもヴァルブも、みんなペイフェイを食べている。あのマダラマもティアと同じペイフェイを狙っていたのだろう」


 アイ=ファが首を傾げているので、俺が補足することにした。


「たぶんそれは、モルガの山に住む別の獣のことだよ。彼女と一緒にラントの川を流れてきたらしい」


「うむ。ペイフェイの肉はとても力がつくし、爪も毛皮も色々なものに使える。あのような場所にペイフェイがいるのは珍しかったのだが……そのせいで、ティアは川に落ちることになってしまったのだ」


「……しかしそれ以前に、王都の兵士たちが山との境に足を踏み込んだりしなければ、お前たちが見張りを立てることにもならなかったということか」


 そう言って、アイ=ファはまた深々と溜息をついた。


「それでようやく合点がいった。これもけっきょくは王都の監査官どもが引き起こした騒乱とつながっていたのだな」


「……お前たちギバ狩りの一族は、決してモルガを荒らしたりはしないと聞いている。しかしその人間たちは、たくさんの数でモルガを踏み荒らそうとしていたらしい。モルガの禁忌を破ろうとする者を、赤き民は決して許さない」


 ティアの目が、ぎらぎらと輝き始めている。

 床に置いた刀の柄に指先を添えながら、アイ=ファは「おい」と怖い声を出した。


「その者たちは、すでにジェノスを出た。今後はモルガの山に近づくこともあるまい。だから、そのように物騒な気配を撒き散らすな」


「……そうか」と、ティアはまぶたを閉ざした。


「とにかく、ティアは禁忌を犯してしまった。この足ではモルガに戻ることもできないし、アスタに贖いもしなければならない。いつでもこの魂を召してもらいたいと願っている」


「だから、それを決めるのは私たちではないと言っているだろうが。……しかしお前は、このたびの罪を許されても、モルガに戻ることはできぬのか?」


「もちろんだ。この身体でモルガに戻っても、百歩といかぬ内にマダラマに食われてしまうだろう」


「しかし、森と山の境では、お前の同胞が見張りを立てているのではないのか? その者に救いを求めれば、無事に戻ることもできよう」


「いや。禁忌を犯した上に力を失った狩人を救うことなど許されない。ティアがこの身でモルガに近づけば、マダラマよりも先に同胞の刀がティアの魂を召すだろう」


「……何やら、ますます面倒なことになってきたようだな」


 アイ=ファは額に手をあてながら、何度めかの溜息をこぼした。


「まあいい。まずは族長や貴族たちの言葉を待つ他ない。……アスタよ、私は空腹だぞ」


「ちょうど今、完成したところだよ。かまど小屋から鍋を運んでくるから、ちょっと待っててくれ」


「ならば、私もともに行こう」


 ティアをその場に置き去りにして、アイ=ファはかまど小屋にまでついてきた。

 目当ての鉄鍋に手をかけながら、俺はアイ=ファに問うてみる。


「アイ=ファもバードゥ=フォウも、心から彼女のことを信用してるんだな。もちろん俺も、彼女が嘘をついたり悪さをしたりはしないと思ってるけどさ」


「うむ。あやつは生まれたての赤子か、あるいは犬やトトスのようなものだ。その言葉や心情を疑う必要は、まったくない」


 そのように言いながら、アイ=ファの指先がふわりと俺の咽喉もとに触れてきた。


「お前を傷つけたりしていなければ、私ももっと穏やかな気持ちであの者と言葉を交わせたのだろうがな……かえすがえすも、口惜しいことだ」


「う、うん、そうだな。……ごめんアイ=ファ、ちょっとくすぐったい」


 アイ=ファは指先を引っ込めながら、不服そうに唇をとがらせた。

 上目づかいに俺をにらみつけてくるその目つきが、びっくりするほど可愛らしい。


「ともあれ、あの者が我々に害をなすことはあるまい。それは信用してかまわぬが、同胞ならぬ者にあまり心を寄せるのではないぞ?」


「うん、彼女は西の民ですらないんだもんな。でも、食事を分けるぐらいは許されるだろう?」


「それはまあ……明日の朝まで、何も食べさせないわけにはいくまいな」


 そうしてふたりで家に戻ると、ティアはさきほどとまったく同じ体勢で座していた。ブレイブもジルベもギルルも、普段通りの様子で土間に控えている。


「さあ、食事だよ。いちおう君の分まで準備したんだけど、どうだろう?」


 俺が呼びかけると、ティアはうろんげに振り返ってきた。


「ティアを殺さず、食事まで与えるのか? どうせティアは魂を返すのだから、食料が無駄になるだけだ」


「まだ先のことはわからないじゃないか。口に合うかはわからないけど、よかったら食べておくれよ」


 俺は鉄鍋からタウ油仕立てのギバ・スープをよそい、それをティアのもとまで届けてあげた。

 木皿に鼻を寄せながら、ティアは動物のように顔をしかめている。


「……何だか、おかしな香りがする」


「身体に悪いものは使っていないはずだよ。いちおう、薄味に仕上げたしね」


 山の中で暮らしていたのなら、調味料というものにも縁がなかったことだろう。だから俺は、なるべく刺激の少ないシンプルなギバ・スープを準備してみたのだった。


 木皿を受け取ったティアは、なおもいぶかしげに鼻をひくひくと動かしていた。

 それから、細長い舌をのばして、スープの表面をちょんと突っつく。

 その末に、ティアは木皿から直接スープをすすり――そうして困り果てたように、眉尻を下げた。


「何だかペイフェイの小便をすすっているようだ。お前は食事を作るのが下手なのだな、アスタ」


 俺は「あはは」と笑うことしかできなかった。

 アイ=ファはアイ=ファで、座ったまま地団駄を踏んでいる。


「やっぱりそやつは気に食わん! どうしてこのような恩知らずをファの家で預からなくてはならないのだ!」


 何にせよ、そのようにして緑の月の25日は終わりを迎えることになった。

 しかし、赤き民の族長の娘、ティア=ハムラ=ナムカルを巡る騒動は、ここからが本番であるのだった。

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