緑の月の二十二日②~希望の道~
2018.1/13 更新分 1/1 ・2018.1/17 誤字を修正
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その後、すべての同胞の洗礼を見届けてから、俺たちは大聖堂を後にすることになった。
ひとり頭は2分ていどの儀式であっても、100名近い人間がいたので、かなりの時間が経過している。城門を出る頃には、もう太陽もずいぶんと高くなっていた。
10台のトトス車はこのまま森辺に向かい、大仕事を終えた人々は本来の仕事に戻ることになる。
ただし、俺とアイ=ファとユン=スドラ、それにスドラ家の狩人たちは宿場町で離脱する段取りになっていた。
俺は屋台の商売に参加するためであり、アイ=ファたちは護衛役の仕事に参加するためである。アイ=ファは本日、変則的な半休の日と定めており、屋台の商売が終わってから集落に戻り、それから森に入るのだと述べていた。
「よー、けっこうかかったな。でもまあ、中天までには間に合いそうだ」
離脱組が青空食堂の手前でトトス車を降りると、臨時で護衛役を果たしていたルド=ルウが笑いかけてきた。彼らは俺たちの代わりにトトス車に乗って帰還するのだ。
同じく青空食堂で働いていたリミ=ルウが、「あー!」と大きな声をあげる。
「その子、あのときの獅子犬ってやつだよね! なんでなんで? なんでその子がアイ=ファたちと一緒にいるの?」
「わけあって、この者はファの家に迎えることになった。名は、ジルベという」
「いいなー! この子、でっかくて可愛いよね! 怒ったら、すごく怖そうだけど!」
リミ=ルウは大喜びであったが、青空食堂のお客たちは一様にぎょっとしていた。ジェノスにおいて番犬というのは城下町でしか使われていないので、宿場町においては犬自体が未知なる獣なのである。
「今はまだ、このジルベの身に触れるのではないぞ。森辺の民が敵でないと教えるのは、集落に戻ってからだからな」
「わかったー! そうしたら、リミにも仲良くさせてね!」
番犬の取り扱いについては、これから指導役の人間が宿場町まで来てくれることになっていた。が、アイ=ファのそばにある限り、獅子犬のジルベは従順そのものである。この獅子犬というやつも猟犬と同じように、俺の故郷の犬よりもいっそう知能は高いように思えた。
「それじゃーな。最後まで油断するんじゃねーぞ」
そんな言葉を残して、ルド=ルウを筆頭とするルウ家の若衆たちはトトス車に乗り込んでいった。
それがしずしずと街道の向こうに消えていくのを見守ってから、俺はまず屋台のほうに足を向ける。
「お疲れさまです、アスタ。こちらは滞りなく仕事を進めています」
ちょうど朝一番のピークを終えたぐらいであるらしく、屋台には数名のお客が並んでいるばかりであった。
その中で、俺の代わりに日替わりメニューの屋台を受け持ってくれていたトゥール=ディンが、にこりと笑いかけてくる。
朝から参加できなかったのは俺とユン=スドラのみであったので、屋台の商売は通常通りに営業していた。足りない分の人手は、普段ローテーションで参加しているメンバーを2名追加して補っている。
ただし、そちらのメンバーは午後から洗礼を受けるガズ、ラッツ、ベイムの血族ばかりであったので、その後に居残れるのはリリ=ラヴィッツただひとりだ。そうすると、ヤミル=レイを含めて5名のメンバーしか残れず、普段よりも2名少ない配置となってしまうが、それを見越して手間のない献立にしているので問題はないはずだった。
「どうもお疲れさま、トゥール=ディン。屋台の商売よりも、朝の下準備のほうが大変だっただろう?」
「いえ。今日の献立であれば、何も難しいことはなかったので……問題なく仕上げることができました」
ディン家はザザ家の眷族として、昨日の内に洗礼を終えていたのである。そうでなくては、さすがに屋台の商売を敢行することもできなかっただろう。俺とユン=スドラの助けなくして朝方の下ごしらえを取り仕切れるのは、このトゥール=ディンただひとりであるはずだった。
「それじゃあ、トトスの車が戻ってくるまで、俺とユン=スドラは食堂のほうを手伝っていようかな。フェイ=ベイムにヤミル=レイ、それで大丈夫ですか?」
左右の屋台から「問題なし」という頼もしい言葉が返ってきたので、俺とユン=スドラは青空食堂に舞い戻ることにした。
スドラ家の狩人たちはすでにいつも通りの配置についていたので、アイ=ファとジルベだけが後からついてくる。
「えーと、ジルベはそのまま外に出しておくのかな? 荷車の中で休ませることもできるけど」
「いや、むしろ目を離すほうが危険であるように思える。私さえそばにいれば、余人に牙を剥くこともなかろうからな」
そうして青空食堂に到着すると、今度はお客たちから好奇心に満ちみちた言葉をかけられることになった。
「なあ、そいつは獅子って獣なのか? それにしては、図体が小さめのようだけど」
「これは、獅子犬というものだそうです。獅子に似た犬、ということなのでしょうね」
「へーえ、そいつが犬ってやつなのか。なかなか愉快な面がまえをしてるじゃないか」
どうやらそのお客さんは、獅子を目にしたことがあるようだった。もしかしたら、《ギャムレイの一座》の天幕でも見物したのかもしれない。
(獅子を知ってて犬を見たことないなんて、俺の故郷では考えられない話だな。まあ、犬はもともとジャガルにしかいないみたいだから、不思議ではないのかもしれないけれど)
そんな風に考えながら、俺は食堂の仕事に参加した。
が、現時点ではそちらも通常通りの人数がそろっているので、あまり仕事は残されていない。これならば、俺とユン=スドラが屋台を受け持って、これから洗礼に出向くことになるメンバーを休ませたほうが利口だろうか、と俺はしばし考え込むことになった。
「そうですね。フェイ=ベイムたちは朝から働いていますので、楽な仕事を割り振ってあげてもいいと思います」
ユン=スドラからの賛同も得られたので、俺は早々に方針を切り替えることにした。
しかし、俺が行動するよりも早く、見覚えのある一団が屋台に近づいてくる姿が見えた。
キルティング素材のようなお仕着せを纏った、王都の兵士たちである。
その中にダグの長身を発見した俺は、ちょっと悩んでからユン=スドラに向きなおった。
「ごめん、俺はもうちょっとだけこっちにいるから、ユン=スドラはフェイ=ベイムと交代してもらえるかい?」
「はい、わかりました」
ユン=スドラは不思議そうに小首を傾げつつ、屋台のほうに立ち去っていった。
アイ=ファは、それよりもいっそうけげんそうに俺を見つめている。
「どうしたのだ? あの者たちに用事でもあるのか?」
「うん。ちょっと確認したいことがあって……ほら、アイ=ファには昨日の夜に話しただろう?」
「ああ、あの話か。……しかし、今さらそのような話を蒸し返しても、詮無きことであろう」
「それはそうなんだけど、やっぱりちょっと気になっちゃってさ」
そんな会話を繰り広げている内に、ダグを筆頭とする兵士たちが10名ばかり、食堂のほうに近づいてきた。その中には、イフィウスも含まれている。
「よお、ひさしぶりだな、ファの家のアスタ。お前は今日、洗礼を受ける日取りじゃなかったのか?」
頭の包帯も外れて、すっかり以前の精悍さを取り戻したダグが、ふてぶてしく笑いかけてくる。イフィウスは、シュコーシュコーと呼吸音を撒き散らしながら、感情の読めない目で俺とアイ=ファを見やっていた。
「おや、そいつは監査官殿の獅子犬か。女狩人の気迫にあてられて意気地をなくしたという話だったのに、ずいぶん元気そうだな」
「ゆえあって、この者は私の家に迎え入れることになった。名は、ジルベだ」
「ふうん。よくわからないが、和解の証か何かか? まあ、穏便に話をまとめることができて、何よりだったな」
まるで他人事のように言いながら、ダグは食堂の席に腰を下ろした。
他の面々はすでに食事を始めており、イフィウスは優雅な手つきで前掛けをつけようとしている。
「……そちらも元気そうで何よりです。顔をあわせるのは、あの宿屋の夜以来ですよね」
「ああ。あの夜以来、なるべく外出を控えるように言いつけられていたからな。それでも、俺の部下どもが顔を出していたはずだろう?」
そう、モルガの禁忌に触れて以来、兵士たちの多くは宿屋に引きこもっていたのである。
その中で、数名ばかりの兵士が屋台に現れては、仲間たちのために大量のギバ料理を購入していた。しかし、ダグやイフィウスは一度として姿を現さなかったのである。
「まあ、明日の朝にはジェノスを出る予定だし、町の連中もすっかり落ち着いたようだから、最後ぐらいは太陽の下で好きなものを食ってやろうと思いたったまでだ。この後も、他の連中がぞろぞろ顔を出すだろうぜ」
「それは、ありがとうございます。なんとか騒ぎを収めることができて、本当によかったです」
「そいつはお前たちがさんざん頭を悩ませた結果だろう。勝ち誇りたいなら、好きなだけそうするがいいぜ」
「いえ、別に勝ち誇るつもりでは……」
俺の胸中には、やっぱりモヤモヤとしたものがわだかまってしまっていた。
それを払拭するべく、俺は「あの」と声をあげてみせる。
「食事中に申し訳ありませんが、ほんの少しだけ時間をいただけませんか?」
「あん? そいつは、俺に言ってるのか? 今さら何も語る話はないように思えるがな」
「ひとつだけ、お聞きしたいことがあるのです。そんなにお時間は取らせません」
ダグはうろんげに眉をひそめてから、立ち上がった。
「まあ、お前と言葉を交わすのも、これが最後になるだろうからな。そこまで言うなら、聞いてやるよ」
「ありがとうございます。それでは、こちらに」
俺は、ダグとともに青空食堂を離れた。
むろん、アイ=ファとジルベもぴったり追従してくる。
街道の端に寄り、ここなら食堂まで声は届くまい、という位置で、俺はダグに向きなおった。
「あの……タルオンとドレッグの関係については、あなたもルイドから話を聞いていたのですよね?」
「そりゃあそうだろ。俺みたいな傭兵あがりの百獅子長が、貴き方々と言葉を交わす機会なんざ、そうそうありゃしねえからな。タルオンって貴族様がどんな性根をしているのか、俺に教えてくれたのは部隊長殿だ」
「そうですか。それじゃあ……あなたたちがモルガの森に派遣された段階で、ルイドはすでにタルオンの企みには薄々気づいていたということなのですね」
ダグは、ますますうろんげに目を細めた。
鋭い眼光が、射るように俺を見る。
「言葉の意味がわからねえな。俺たちの部隊長殿に、何か難癖でもつけようってのか?」
「いえ、決してそんなつもりではないのですが……ただ、タルオンは、あなたがたがモルガの禁忌に触れたことで、ずいぶんまずい立場に立たされたようなので……」
ダグが、おもむろに顔を近づけてきた。
火のような眼光が、15センチほどの至近距離から突きつけられてくる。
その瞬間に、アイ=ファが「おい」と低く声を発した。
「そのような気配を撒き散らしながら、アスタに近づくな。お前たちと敵対する心づもりはない」
「それはこっちも同じことだ。しかし、大事な部隊長殿におかしな疑いをかけられちまったら、黙ってはいられねえな」
「ならば、言葉で疑いを晴らすがいい。あのルイドという者は、タルオンという者の罪を暴くために、あえてモルガの禁忌に触れたのか?」
それが、俺の思いついてしまった疑念であった。
タルオンは本心からモルガの禁忌に触れるつもりなどはなく、ただ、森辺の狩人の力がなくともギバを狩ることはできる、と証明したかっただけのはずであるのだ。森辺の民を森から下ろすべき、と主張するために、それは必要な行いであったのである。
しかし、ダグたちがモルガの禁忌に触れてしまったために、その目論見は破れることになった。しかも、ジェノスの領民から強い反感を買ってしまったおかげで、その後は何の行動も取れなくなってしまったのだ。
たとえタルオンの目的が、ジェノスや森辺の民を刺激して、自ら刀を取らせることにあったとしても、そうまであからさまに法を踏みにじることは許されなかったのだろう。あくまで正義は、王都の側になくてはならなかったのだ。王都の側が暴虐であり、それゆえにジェノスが叛乱を起こすことになってしまったら、武力を行使する正当性も失われてしまうのであろうと思われた。
よって、タルオンの謀略を阻止するには、王都の人間が先に無法な真似をする、というのがもっとも効果的であったのである。
それゆえに、俺はすべてがルイドの計略だったのではないかと疑ってしまったのだった。
「……それなら、答えてやる。うちの部隊長殿は、馬鹿がつくほどの真面目な人間なんだ。どれほど気に食わない人間がいたって、それを騙し討ちにするような真似はしねえよ」
俺の鼻先に顔を寄せながら、ダグはそのように言い捨てた。
腰の刀に手を添えつつ、アイ=ファは「そうか」と低くつぶやく。アイ=ファのかもしだす気迫に呼応して、獅子犬ジルベもグルグルと剣呑なうなり声をあげているようだった。
「ならば、我らも引き下がろう。だからお前も、アスタから身を離せ」
「ふん……まったく、小賢しいことを思いつくやつだな」
ダグは身を引いて、黒褐色の髪を乱暴にかき回した。
「せっかく穏便に話がまとまったのに、今さら厄介な話をふっかけるんじゃねえよ。もしも部隊長殿がそんな命令を下していたとしたら、審問の場で不利に話が進んじまうだろうが? ……ま、部隊長殿のクソ真面目さは王都でも知れ渡ってるから、そんな疑いをかけられることもねえだろうがな」
「そうですか。あらぬ疑いをかけてしまって、本当に申し訳ありません。ただ、どうもこう、妙に心にひっかかってしまって……」
その原因も、俺にはわかっている。ダグのように優秀そうな兵士が、うかうかとモルガの禁忌に触れてしまったというのが、どうにも腑に落ちなかったのである。
だからそれは、ルイドの命令によるものなのではないかと、俺はついつい勘ぐってしまったのだが――それはどうやら、下衆の勘ぐりというものであるようだった。
「何をどう思おうが勝手だが、部隊長殿は実直そのもののお人柄なんだよ。だいたいあのお人が、大事な部下たちにそんな不名誉な命令を下すわけねえだろうが? あんなぶざまな姿をさらしたおかげで、俺たちがどれほどの恥をかいたと思ってやがるんだ?」
「す、すみません。俺はあまりルイドというお人と言葉を交わす機会がなかったので、つい……もちろんあの御方は、公正で尊敬すべきお人柄だと思っています」
「当たり前だ。あのお人は、大事な部下にそんな汚れ仕事を命じるような性根はしてねえんだよ」
そのように言ってから、ダグはふいににやりと笑った。
「しかしまあ……そんな部隊長殿の下で働きながら、傭兵あがりの馬鹿どもが暴走することはありうるかもしれねえな」
「え? それはどういう……」
「自分たちが大間抜けのふりをして大失態を演じてみせりゃあ、恥知らずの貴族様に一泡ふかせられるかもしれねえ。それに、足の指を切られずに済んだ恩義を、森辺の誰かさんに返すこともできるだろうしな。そう考えれば、50人の兵士全員が大間抜けのふりをしてもおかしくはねえってことだ」
俺は、愕然と息を呑むことになった。
アイ=ファはアイ=ファで、信じ難いものでも見るような目でダグを見つめている。
「おい、それでは、お前たちは……」
「俺たちは、あのていどの森で方角を見失うような大間抜けの集まりだよ。そういうことにしておかねえと、のちのち面倒だろ」
そう言って、ダグはくるりときびすを返した。
それから、自分の肩ごしに笑いを含んだ視線を差し向けてくる。
「俺たちの部隊がジェノスに派遣されることは、もう二度とないだろう。だから、お前たちともこれっきりだ。貸し借りはなしってことで、ひとつ頼むぜ」
それだけ言い残して、ダグは食堂のほうに歩み去っていった。
アイ=ファは深々と溜息をつきながら、心配そうに見上げているジルベの頭を撫でている。
「これだから、町の人間というやつは……しかし、今後はああいう者どもを同胞と思えるように心がけねばならないのだな」
「うん。だけど、森辺の民が森辺の民らしさを捨てる必要はないはずだよ」
「そんなことは、最初からわかりきっている。というか、そんな真似は最初から不可能であろう」
そう言って、アイ=ファは通りのほうに目をやった。
中天が近くなり、人通りは増えている。そこにはさまざまな生まれの人間が入り乱れていたが、もちろん一番目につくのは西の民の人々であった。
商人らしい身なりのいい人間もいれば、ずいぶんと薄汚れた格好をした人間もいる。中には昼から酒をかっくらい、下卑た笑い声を響かせている無法者もいる。小さな子供や、若い女性や、よぼよぼに年老いたご老人や――この宿場町には、ありとあらゆる人々がいた。
「……ジェノスの宿場町だけでも、この人数だ。やはり、西の王国のすべての民を同胞と思うことなど、そう容易い話ではないのだろう」
「うん、俺もそう思うよ」
「しかし私は、アスタと出会うまでひとりきりだった。同じ森辺の民でも、顔と名を知っている人間は数えるほどしかおらず、両親を失ってからはリミ=ルウやジバ婆とも縁を切ろうとして……本当に、ひとりきりで生きていたのだ」
そう言って、アイ=ファは俺のほうを振り返った。
その青い瞳には、とても優しげな光が浮かべられている。
「それが今では、さまざまな氏族の人間と縁を結ぶことができた。時にはそれを煩わしく思わないこともないが……あの頃よりも幸福であることだけは疑いがない。ジェノスに住まう民たちを同胞だと思うことができれば、さらなる幸福を手にすることができるのかもしれんな」
「うん。俺はそうなることを心から願っているよ」
胸の中に生じた温かい気持ちに従って、俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
アイ=ファは何故だか、一回ぐらりと身体を揺らしてから、その場に膝をついてジルベの太い首を抱きすくめる。
「どうしたんだ、アイ=ファ?」
「やかましい。お前が無防備な笑顔を見せるから、また心が揺らいでしまったのだ」
アイ=ファは頬を赤く染めながら、ジルベをぎゅうっと抱きすくめる。
ジルベは不思議そうにまばたきをしつつ、それでも嬉しそうだった。
「ともあれ、一歩ずつ進んでいく他あるまい。きっとルウの集落では、また町の人間を招いて祝宴を開くのであろうからな」
「ああ、ようやくそいつも実現できるな。だけどその前に、俺たちは収穫祭か」
「うむ。我々は休息の期間となるから、ルウ家で祝宴の準備を願い出ることもできよう。町からも森辺からも、なるべく多くの人間を招いてもらいたいものだな」
明日には王都の人々もジェノスを離れて、ついにこれまで通りの日常が戻ってくるのだ。
しかし、何もかもが以前の通りなわけではない。西方神の洗礼を受けた俺たちは、ここから新たなスタートを切るのである。
いずれは新たな監査官だか外交官だかがやってくるはずだし、そうでなくともさまざまな波乱が待ち受けていることだろう。森辺の民のように特異な存在が町の人々の同胞たろうとしているのだから、それは当然の話だ。
だけど俺たちは、不安よりも大きな希望を胸に、新たな道に挑むことができていた。
これが正しい道であるのだと、心から信ずることさえできれば、どのような苦難でも恐れる必要はない。それはもうこの一年ばかりの生活でも証し立てられているはずだった。
「それじゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るよ」
俺が宣言してみせると、アイ=ファはようやく立ち上がって、「うむ」とうなずいた。
まだその顔はわずかに赤かったが、目もとには慈愛にあふれた笑みがひろげられている。
そんなアイ=ファと肩を並べて、俺はゆっくりと足を踏み出した。
この道の先には、どのような未来が待ち受けているのか。俺の胸は、見果てぬ希望にはっきりと高鳴っていた。