緑の月の二十二日①~洗礼~
2018.1/12 更新分 1/1 ・1/13 誤字を修正
・コミック版の第三話が公開されました。ご興味のある方はよろしくお願いいたします。
緑の月の22日。
俺たちは、また城下町に向かっていた。
城下町の大聖堂という場所で、西方神の洗礼を受けるためである。
洗礼の儀式には3日をかけることになり、本日がその最終日であった。会合の日は緑の月の18日であったので、間に1日だけ準備の日をはさんでから、すぐに決行されることになったのだ。
初日には、ルウとサウティを親筋とする13の氏族が洗礼に臨むことになった。
2日目はザザとラヴィッツとスンの血族である11氏族で、最終日たる本日はそれを除く13氏族だ。内訳としては、フォウ、ベイム、ガズ、ラッツ、ダイ、そしてファの血族であった。
もちろん、それだけの氏族が集まれば200名前後の人数になってしまうので、午前と午後で半分ずつに分かれる段取りになっている。ファの家は午前の部であり、ともに城下町へと向かうのはフォウとダイを親筋とする氏族の人々であった。
移動手段は、城下町で準備された2頭引きのトトス車である。そんなトトス車が10台ばかりも森辺の集落にやってくる姿は、壮観の一言であった。
「ついにこの日を迎えてしまいましたね。まさか自分たちが城下町に足を踏み入れるだなんて、わたしは想像もしていませんでした」
同じトトス車に乗ったサリス・ラン=フォウが、かすかに震える声でそのように述べたてると、アイ=ファが「大事ない」と答えていた。
「どうせ我々は、その大聖堂とかいう場所に到着するまで、ずっと荷車の中であるのだ。私とて、たびたび城下町には足を踏み入れているが、いまだに自分の足で道を歩いたこともないほどであるからな」
「ええ、そうなのね。家長も同じように言っていたけれど……だけどやっぱり、むやみに胸が騒いでしまうわ」
「大事ない」と、アイ=ファは繰り返した。
その腕には、アイム=フォウがちょこんと抱かれている。まだ2歳のアイム=フォウはこのたびの行いにも心を乱すことはなく、いつもの無邪気さでアイ=ファの髪に指をからめていた。
「昨日もその前も、無事に儀式を終えることができたのだ。もはや王都の貴族たちも悪さをしでかすことはできないのだから、何も案ずる必要はない」
西方神の洗礼というのがどういうものであるのか、俺たちはすでにルウやディンの人々から概要を聞いている。ひどく厳粛な儀式ではあるようだが、ひとり頭の時間はそれほどかからないようであるし、何も恐れる必要はないという話であった。
「それに、これだけの同胞がともにあるのだ。何も気に病む必要はあるまい?」
「ええ、そうね。アイ=ファが一緒なら、わたしも心強いわ」
そう言って、アイ=ファの手をそっとつかみながら、サリス・ラン=フォウはようやく微笑んだ。
その間に、トトス車は早くも宿場町に差しかかっている。
会合の日から3日が過ぎたが、宿場町でおかしな騒ぎが起きた様子はなかった。
会合の翌日に、この洗礼の儀式についても告知がなされたのだ。監査官たちはそれを見届けたのち、明日には200名の兵士たちとともに王都へと帰還する旨が告げられたので、人々もようやく安堵の息をつくことができたのである。
また、ドレッグおよびルイドからの要請により、タルオンの一件もおおまかにではあるが告知されている。それは、監査官のひとりが王命をないがしろにして、ジェノスに不要な騒乱を招いた疑いをかけられている、という内容であった。
セルヴァの国王がそんな荒っぽい真似を許したわけではない、という部分を広く知らしめる必要があったのだろう。なおかつ、兵士たちはその監査官の命令に従ったのみであり、悪意があってモルガの禁忌に触れたわけではなかったのだという部分も強調されることになった。
(だからジェノスの人たちも、ようやく胸を撫でおろすことができたんだろうな)
窓から外の様子をうかがってみても、普段通りの平穏な光景が見いだせるばかりである。10台ものトトス車が列をなして進む姿も、3日目ともなれば気にならなくなるのだろう。
そうして宿場町を過ぎて、城下町の城門まで辿り着いても、トトス車の扉が開けられることはなかった。そのまま跳ね橋の上を渡り、城下町の奥深くにまで進んでいく。大聖堂というのは、ジェノス城のすぐそばに位置するのだという話であった。
宿場町にも、いわゆる聖堂というものは存在するらしい。しかし、神を乗り換える儀式を行うには、貴族に管理される城下町の大聖堂まで足を運ぶ必要があったのだ。さらにその結果は、公式の文書にしたためて王都に報告する必要があるのだということであった。
そうして、誰に邪魔されることもなく、10台のトトス車は粛々と行進していき――やがて、ぴたりと動きを止めた。
後部の扉がゆっくりと開かれて、そこから武官の声が届けられる。
「到着いたしました。足もとに気をつけてお降りください」
アイム=フォウを母親の手に託してから、アイ=ファが真っ先に立ち上がった。まずは城下町に馴染みのある俺たちが先陣を切るべきであるのだろう。
アイ=ファとともに車を降りると、そこはやはり石造りの世界であった。
眼前には、大聖堂の名に相応しい巨大な建造物が立ちはだかっている。ここは石畳の前庭であり、周囲には大勢の兵士たちも立ち並んでいた。
兵士たちに見守られながら、森辺の民は次々と車を降りてくる。サリス・ラン=フォウたちが降りてくるのを待ってから、アイ=ファは一台のトトス車のほうに向かっていった。
そこから現れたのは、赤子を抱いたライエルファム=スドラである。
さらにその後から、同じく赤子を抱いたリィ=スドラも降りてくる。マルスタインの宣言通り、生後ひと月足らずの赤子たちもこの場に招かれることになったのだ。
「ライエルファム=スドラよ、赤子らは大丈夫であったか?」
「うむ。荷台で揺られている内に眠ってしまった。眠ったままでも、儀式を受けられるものであるのかな」
ライエルファム=スドラの腕に抱かれているのは、弟のホドゥレイル=スドラであるようだった。見るたびに丸みを増していくその小さな顔は、確かに愛くるしい天使のような寝顔をさらしている。
「車に準備されていた寝具のおかげですね。これならば、年老いた人間でも苦痛を感じることはなかったと思います」
アスラ=スドラを抱いたリィ=スドラも、穏やかな笑顔でそう述べている。赤子や老人や身体の不自由な人間の乗るトトス車には、やわらかい羽毛の寝具が準備されていたのである。
なお、それを最初に要請したのは、ガズラン=ルティムであった。伴侶のアマ・ミン=ルティムが身重であるために、その身を慮ったのであろう。そちらでも、問題なく城下町に下りることができたのだという話を、俺は2日前に聞いていた。
「やあやあ、お待ちしていたよ、アスタ殿。それじゃあ、こちらに進んでくれたまえ」
と、建物のほうから近づいてきたのは、ポルアースだった。彼とマルスタインとメルフリードも、このたびの行いを見届けるために毎日同席しているのである。
俺たちは、氏族ごとに固まって、大聖堂へと足を向けた。
もともと刀の持ち込みは禁じられているという話であったので、刀は入り口に置かれた台の上に預けられる。武官たちはその場に待機して、入館を控えるようだった。
いくぶん胸を高鳴らせながら、俺はアイ=ファやサリス・ラン=フォウらとともに足を踏み入れる。
そこに待ち受けていたのは、実に荘厳なる大聖堂の様相であった。
白い石で組み上げられた、巨大な建造物である。
吹き抜けで、驚くほどに天井が高い。そして、壁にはいくつもの窓が切られており、やわらかな光がその空間を照らし出していた。
大きさは、ちょっとした体育館ほどもあっただろう。石の床には、入り口から奥に向かって真紅の絨毯が真っ直ぐに敷かれている。その道をはさみこむようにして、左右の空間にはベンチのような木造りの椅子がずらりと並べられていた。
「前のほうから詰めて座ってくれたまえ。最初に祭祀長のお言葉をいただいてから、洗礼の儀式を始めるからね」
ポルアースの先導で、俺たちは絨毯の道を進んでいく。
マルスタインからの要請で、この日はファの家から儀式を始めることになっていたので、俺とアイ=ファは先頭を切って歩くことにした。森辺の民の中で、俺だけが例外的な存在であるので、間違いがないように順番を指定させてほしいという話であったのだ。
俺とアイ=ファは、一番前側の席で腰を下ろした。
眼前には、1メートルほどの高さの壇が設置されている。そしてそこには祭具の並べられた卓が準備されており、すでに何名かの神職と思しき人々が立ち並んでいた。
壇の奥には、真っ赤に塗られた石像も置かれている。
きっとこれが、西方神セルヴァなのだろう。
その髪は炎のように逆だっており、背中には炎とも翼ともつかないものが4枚、大きく広げられている。手にしているのは巨大な槍で、不動明王のように厳めしい姿であった。
(そうか。セルヴァは炎の神なんだっけ。思ったよりも、おっかない姿をしてるんだな)
俺がそんなことを考えている間に、100名近い同胞もすべて着席したようだった。
俺の隣にはバードゥ=フォウが並び、さらにフォウの人々が続いている。当然のことながら、人々は同じ氏族同士で寄り集まり、親筋の家長を先頭にして並んでいるのだった。
「それではこれより、西方神セルヴァの子として生きるための、洗礼の儀式を執り行います」
壇の真ん中に立っていた人物が、おごそかな口調でそのように述べたてた。
小柄で、優しげな眼差しをした老人である。乳白色の長衣に緋色の肩掛けを羽織っており、首もとには銀の飾り物が下げられていた。
「森辺の民は、80余年前にジャガルからセルヴァに神を移しました。しかし、その際の儀式が不十分であったとのことで、今日という日を迎えることになりました。これは先例のない話ではありますが、西方神セルヴァよりこの座を賜った祭祀長デルゼンの名において、洗礼の儀式を取り仕切らせていただきます」
神官のひとりが、祭祀長デルゼンに奇妙な祭具を手渡した。
それはまた炎のように真っ赤な枝と葉を束ねられたもので、大きな扇のような形状をしていた。
そして、背後に立ち並んだ人々が、手にしていた器具を鳴らし始める。小さな鈴や、トライアングルや、金管に似た清涼なる金属の音色が、さざなみのように堂内の空気を揺らしていった。
「では、1名ずつ壇上にお上がりください」
アイ=ファが立ち上がり、狩人の衣をなびかせながら、恐れげもなく壇上に上がっていった。
石の階段を踏みしめて、祭祀長の前に立つ。その颯爽とした姿を見返しながら、祭祀長は微笑んだ。
「まずは、セルヴァの前で己の名を告げてください」
「私は森辺の民、ファの家の家長アイ=ファだ」
「アイ=ファ。汝にセルヴァの祝福を与えます。膝をつき、頭を垂れなさい」
アイ=ファは黙然と、その言葉に従った。
祭祀長は、真紅の扇をアイ=ファの右肩に触れさせる。
「南方神ジャガルの民の末裔、アイ=ファよ。汝は汝の祖の意思に従い、西方神セルヴァの子となることを望みますか?」
「私は私の祖の意思に従い、西方神セルヴァの子となることを望む」
「この誓いが破られたとき、汝の魂は死した後に四つに砕かれ、永劫に無明の闇をさまようこととなるでしょう。セルヴァ、ジャガル、シム、マヒュドラ、大いなる四大神は、常に汝の行いを見守っています」
真紅の扇が、右肩から左肩に移される。
そして、他の神官たちも、動いた。
ひとりは黄金色の壺から茶色い砂のようなものをつまみあげ、それをアイ=ファの右肩に散らす。
その次は、黒いカラスの羽のようなもので、アイ=ファの左すねが撫でられた。
そして最後に、純白の壺に手をひたした神官が、アイ=ファの右足に水滴を垂らす。
それらの動作を見届けてから、祭祀長は真紅の扇を引き上げた。
「火神セルヴァ、大地神ジャガル、風神シム、氷神マヒュドラが、汝に祝福を与えました。立ち上がり、セルヴァの像に目を向けなさい」
アイ=ファは立ち上がり、不動明王のごときセルヴァ像に目をやった。
その石像は3メートルぐらいの大きさであったので、やや首をのけぞらせることになる。
「宣誓の儀式です。左の手を心臓に置き、右の手は真っ直ぐ横に広げなさい」
アイ=ファは無言で、指示に従う。
それは、かつてバルシャやカミュア=ヨシュなどが見せた、宣誓のポーズと同一であった。
「セルヴァの御名のもとに……汝は西方神セルヴァの子として生きることを誓いますか、アイ=ファ?」
「私は、西方神セルヴァの子として生きることを誓う」
祭祀長は、アイ=ファと石像の視線を繋ぐように、祭具を振り払った。
「西方神セルヴァは、アイ=ファが己の子として生きることをお許しになりました。汝は魂の安息のために、セルヴァの敬虔なる子として生きるのです」
アイ=ファはうなずき、腕を下ろした。
祭祀長もまた祭具を下ろして、にこりと微笑む。
「汝を祝福します、アイ=ファ。……では、壇の下にお控えください」
アイ=ファはもう一度礼をしてから、祭祀長に背を向けた。
その足が石段を降り終えたところで、「次の御方」と俺が呼ばれる。
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、俺にやわらかい視線を向けてきた。
そちらにうなずき返してから、俺は立ち上がる。
そうして壇上に足を向けると、途中でポルアースたちの姿が見えた。
森辺の民とは別に、壁際に座席が準備されていたのだ。そこにはマルスタインやメルフリードの姿もあり、そして、分厚い帳面をたずさえた書記官の姿も見えた。
これを機会に、マルスタインは森辺の民の戸籍調査を実施したのである。
どの氏族に何人の家人がいるのか、これでつまびらかにされるのだ。それもまた、王国の民としては必要な行いであったのだろう。
(俺の名前も森辺の民として記載されるんだから、ありがたいことだ)
そのように考えながら、俺は石段をのぼっていった。
祭祀長は、真紅の扇を手に、俺を待ち受けている。近くで見ると、このご老人は頭ひとつ分ぐらい、俺より小柄であった。
「セルヴァの前で、己の名を告げてください」
「はい。俺は森辺の民、ファの家の家人アスタです」
「アスタ。汝にセルヴァの祝福を与えます。膝をつき、頭を垂れなさい」
躊躇うことなく、俺はその言葉に従った。
知らず内に鼓動は速くなってしまっているが、俺はアイ=ファや森辺のみんなと同じ道を歩きたいと願ったのだ。そのためだったら、異世界の神の子となることも厭いはしなかった。
「大陸アムスホルンの外より来たりし異邦人、アスタよ。汝は、西方神セルヴァの子となることを望みますか?」
「はい。俺は西方神セルヴァの子となることを望みます」
その後は、アイ=ファと同じように儀式が進められた。
砂をかけられ、足を撫でられ、水滴を垂らされる。これが、ジャガルとシムとマヒュドラの祝福であるのだろう。
「火神セルヴァ、大地神ジャガル、風神シム、氷神マヒュドラが、汝に祝福を与えました。立ち上がり、セルヴァの像に目を向けなさい」
俺は立ち上がり、真紅の石像へと目をやった。
そのとき――思わぬ変調が、俺を捕らえた。
視界が石像の真紅に染められた瞬間、俺の五体に電流のようなものが走り抜けたのだ。
(これは……この感覚は……)
胸の中身が、熱くなっていく。
まるで、炎の指先に心臓をわしづかみにされたかのようだ。
そうして俺は、全身にたとえようもない激痛が走るのではないか、という戦慄に見舞われた。
この感覚は――ときおり悪夢の中で再現される、あの死の記憶とひどく似通っていたのだ。
業火に包まれた建物の中で、生きながら五体を焼かれて、最後には瓦礫で無茶苦茶に圧し潰される、あのおぞましい記憶である。
だが、俺があの恐ろしい痛苦に脅かされることはなかった。
ただ、心臓がガンガンと胸郭を叩き、俺の呼吸を荒くしていく。祭祀長の声も、清涼なる楽器の調べも、激しい耳鳴りの向こうにかすんでいくことになった。
(西方神セルヴァは、火を司る神……もしかして、俺は……俺をこの世界に呼び寄せたのは……)
視界が、赤く染まっていく。
いや、俺の視界は神像の真紅によって、最初から染められていたのだ。
その背から生えのびた二対の翼が大きく広がり、左右から俺を包み込んだかのようだった。
あるいは、その眼差しが俺を真紅に染めあげているのだろうか。
何にせよ、この神像を彩った真紅の色合いが、俺に死の記憶を喚起せしめたのだった。
(いや……俺は、自分の意思で火の中に飛び込んだんだ。誰かに焼き殺されたわけじゃない)
そのように念じながら、俺はセルヴァの神像を見つめ続けた。
そして、ひとつの事実に思いあたった。
いかにも恐ろしげな姿をした神像であったが、その瞳にはとても涼やかなものが感じられたのだ。
慈愛に満ちみちた、優しげな眼差しである。
炎の翼をはためかせ、巨大な槍などを掲げているが、この異形の神は決してやみくもに世界を焼き尽くしたりはしない。俺には、そのように信ずることができた。
(俺が死んだのは、俺の責任だ。その責任を他の誰かになすりつけたりは、絶対にしない)
俺は拳を握り込み、なんとか呼吸を落ち着けようと試みた。
神像は、静かに俺を見下ろしている。
(俺が死んだ後、その魂をこの世界に導いてくれたのが、西方神セルヴァだったとしたら……俺は喜んで、あなたの子になってみせる)
やがて、祭祀長の低い声音が輪郭を定め始めた。
「……どうされましたか? 宣誓の儀式をお願いいたします」
俺は大きく息をついてから、左手を左胸に置き、右腕を横に広げてみせた。
視界の片隅で、祭祀長がうなずいている。
「セルヴァの御名のもとに……汝は西方神セルヴァの子として生きることを誓いますか、アスタ?」
「はい。俺は西方神セルヴァの子として生きることを誓います」
祭祀長が、祭具を振り払った。
「西方神セルヴァは、アスタが己の子として生きることをお許しになりました。汝は魂の安息のために、セルヴァの敬虔なる子として生きるのです」
「はい」と応じてから、俺は腕を下ろした。
そして最後にもう一度、神像の瞳を見つめ返してから、一礼する。
「汝を祝福します、アスタ。……では、壇の下にお控えください」
ふらつきそうになる足に力を込めて、俺はその場から退去した。
席に戻ると案の定、アイ=ファが怖い顔を近づけてきた。
「どうしたのだ、アスタよ? 危うく駆け寄りそうになってしまったではないか」
「ごめん。あとでゆっくり説明するよ」
俺は気力を振り絞って、アイ=ファに微笑みかけてみせた。
アイ=ファは、不服そうに唇をとがらせている。
その愛おしい姿を見ていると、俺の身体には瞬く間に力が満ちていった。
俺は、アイ=ファとともに生きていくことを決意したのだ。
俺がどのような原理でこの世界に導かれたのか、そんなことは俺の決意に関わりがない。今さら何に怯える必要もないはずだった。
アイ=ファは唇をとがらせたまま、マントの内ポケットから取り出した手ぬぐいで俺の額をぬぐってくれた。
その間に、バードゥ=フォウは壇上に上がっている。フォウ家の人々は、息を詰めて家長が洗礼を受けるさまを見守っていた。
そこに、思わぬ客人が訪れたのは、フォウ家の人々の洗礼が終わり、ラン家の家長が壇上に向かった頃であった。
「儀式の最中に失礼いたします、アイ=ファ様。大聖堂の外で、監査官様がお待ちになられています」
それは、ダレイム伯爵家の侍女たるシェイラであった。
アイ=ファは、うろんげにその顔を見つめ返す。
「このような折に、いったい何なのだ? そもそもあの御仁も、我らの洗礼を見届ける役割のはずであろうが?」
「さ……なんでも、アイ=ファ様と交わした約定を果たしたいとのことですが……」
それはきっと、獅子犬の一件であろう。彼は明日にもジェノスを発ってしまうので、約定を果たすチャンスは今日しか残されていなかったのだ。
アイ=ファは眉をひそめながら、俺の身体ごしにバードゥ=フォウを振り返った。
「アイ=ファはすでに儀式を終えているのだから、かまわんだろう。そうでなければ、ポルアースらが止めていただろうしな」
「うむ、そうか。では、しばらく席を外させてもらう。行くぞ、アスタよ」
当然というか何というか、俺もアイ=ファとともに離席することになった。
壇上の儀式を邪魔してしまわないように、忍び足で出口に向かう。扉を出たところでアイ=ファが自分の刀を取り戻すと、今度は2名の武官が近づいてきた。
「監査官は、あちらの車でお待ちです。わたしどもがご案内いたします」
シェイラと別れを告げて歩を進めると、俺たちが乗ってきたトトス車の隣に、ひときわ豪華な車が停車していた。銀色の獅子の紋章が掲げられているので、きっと監査官たちが王都から乗ってきたトトス車であるのだろう。
そして、そのトトス車の前には、甲冑姿のルイドと2名の兵士が待ち受けていた。
「儀式の最中に申し訳ないが、今の内に約定を果たしたいとのことだ。刀は、ジェノスの武官に預けていただきたい」
俺たちを案内してくれたのは、ジェノスの武官であったのだ。アイ=ファは無造作に、そちらへ刀を手渡した。
俺が同行していたことをとがめられることもなく、トトス車の扉はすみやかに引き開けられる。
広々とした空間に、ドレッグと獅子犬だけが待ち受けていた。
扉が閉められるのを待ってから、ドレッグはにやりと笑いかけてくる。
「ずいぶん遅くなってしまったが、あの日の約定を果たさせてもらうぞ、ファの家のアイ=ファよ」
「それはありがたい話だが……他の者たちの儀式を見届けなくてよいのか?」
「昨日も一昨日も、朝から日が傾くまで大聖堂に詰めることになったからな。どうせこの後もまたそちらの仕事に戻らなくてはならないのだから、少しばかり休息をもらっても叱られることはあるまいよ」
立派な座席に座したドレッグは、そのように述べながら足もとの獅子犬を指し示した。
「さあ、ご所望の獅子犬だ。いったいお前は、どのようにしてこいつと和解しようというのかな?」
アイ=ファは無言のまま、荷台の真ん中にまで進んでいった。
そうして膝をつき、主人の足もとにうずくまっている巨大な毛の塊に呼びかける。
「先日は、すまないことをした。もはやお前の主人と敵対することはないはずなので、どうか和解をさせてもらいたい」
獅子犬は、気弱げな眼差しでアイ=ファを見返していた。
もともとチャウチャウのような顔立ちをしているので、そうしているとただの大人しげな犬に見えてしまう。が、やはり大きさだけは規格外だ。
「さすがに獣と言葉を交わすことはできないようだな。必要なら、そちらに獅子犬を向かわせるが」
「ならば、お願いしたい」
ドレッグは、気安い感じで獅子犬の背中を二度叩いた。
獅子犬はとても気の進まなそうな様子で起き上がり、おずおずとアイ=ファのほうに近づいてくる。
アイ=ファは膝を折ったまま、同じ目線で獅子犬を迎えた。
「お前は主人を守るために鍛えられたそうだな。ならば、力を取り戻して、その役目を全うするがいい。私がお前の主人の敵となることは、もはやない」
そのようにつぶやきながら、アイ=ファはゆっくりと獅子犬のほうに両手をのばしていった。
その指先が左右から、獅子犬のたてがみの中に差し込まれていく。我が家のブレイブは耳の後ろあたりを撫でられるのを一番好んでいるので、それを実践しているのだろう。
自然、アイ=ファと獅子犬は至近距離から向かい合うことになる。
ここでドレッグがおかしな命令など下していたら、きわめて剣呑な事態に至ってしまうことだろう。
しかしドレッグは、にやにやと笑いながらアイ=ファたちの様子をうかがっているばかりであった。
俺は横側に回り込んで、そこからアイ=ファたちの姿を見守っている。
アイ=ファはとても穏やかな眼差しで、獅子犬の黒い瞳を覗き込んでいた。
その手はほとんど手首までうずまってしまい、どのような動きを見せているのかもわからない。ただ、獅子犬のたてがみはそれ自体が生あるもののようにふわふわと躍っていた。
やがてその動きが、後ろのほうに移動していく。
アイ=ファの指先が、耳の後ろから肩のほうにまで移されたのだ。首周りと肩周りを撫でられることも、ブレイブは非常に好んでいた。
「お前もなかなかあどけない面立ちをしているな。私の家にいるブレイブとはずいぶん造作が異なっているようだが……だけどやっぱり、同胞であるのだろう。その目の輝きは、ブレイブによく似ている」
腕を奥のほうに移動させたために、アイ=ファと獅子犬の距離はいっそう縮まっていた。もうほとんど鼻先がつきそうな位置である。
すると――獅子犬の大きな口から紫色の舌がのびて、アイ=ファの頬をぺろりとなめた。
「……お前を脅かしたことを、許してくれるのか?」
アイ=ファは目もとで優しげに笑い、いっそうわしゃわしゃと獅子犬の首を撫で回した。
その動きに連動するように、獅子犬はアイ=ファの頬をぺろぺろとなめている。
アイ=ファはくすぐったそうにしていたが、それ以上に嬉しそうだった。
やがて獅子犬は、自分からアイ=ファへと身を寄せ始める。
重量ならばアイ=ファよりもまさっているであろう獅子犬が、ぐいっとのしかかってきたのである。
普通の人間ならば尻餅をついていたところであろうが、アイ=ファは真正面からその巨体を受け止めて、ほとんど全身が黒い毛皮にうもれることになった。
「うむ、すごい力だな。並の人間ならば、決してお前にはかなうまい。これからも自身と誇りをもって、自分の仕事を果たすがいい」
アイ=ファは獅子犬の顔に頬ずりをしながら、その背中を撫でた。
それを見届けたドレッグが、「やれやれ」と声をあげる。
「まさか本当に獅子犬を手懐けてしまうとはな。それは、獅子犬を怯えさせるのと同じぐらい、ありえない話であるはずだぞ」
「それは、こやつが賢いゆえであろう。私に敵意がないことを信じてくれたのだ」
「ふん。獣と心を通い合わせるのにもっとも長けているのは、シムの民であると聞く。やはり森辺の民というのは、シムの血筋であるのかもしれんな」
そう言って、ドレッグは腹の上で指先を組み合わせた。
「ファの家のアイ=ファよ、お前はその獅子犬が気に入ったのか?」
「うむ? このように愛くるしい者であれば、好ましく思うのが当然であろう」
「そうか。もしもお前が望むのならば、そいつを譲ってやらなくもないが」
アイ=ファは、仰天したように面を上げた。
「何を言っているのだ、監査官よ。こやつはあなたの大事な護衛犬というやつなのであろう?」
「しかし俺は、そやつを警護の道具として扱っていただけだ。お前たちのように、情愛をもって接していたわけではない。……正直に言うならば、このまま護衛犬としての役に立たぬようなら処分してしまおうかと考えていたほどだ」
アイ=ファの双眸が、ぎらりと瞬いた。
たちまち獅子犬が怯えた顔つきになったので、それを安心させるように頭を撫でる。
「処分とは、どういうことだ? まさか、殺めてしまうつもりではないだろうな?」
「残念ながら、その通りだ。お前たちとて、折れた刀は捨てる他ないだろう? 俺にとって、護衛犬というのはそれと同じ存在であるのだ」
「…………」
「もちろん、そいつが護衛犬としての力を取り戻せたならば、これからも重宝させてもらうつもりでいた。そいつは猟犬よりも高額な値で取り引きされているので、役に立つ限りは使うのが当然だ。……だが、道具として扱われるよりは、家族として扱われるほうが、そいつも幸福なのではないかな」
アイ=ファは獅子犬の首を抱きすくめつつ、その頭ごしにドレッグをねめつけた。
「……あなたはいったいどのような思惑があって、そのような申し出をしているのだ? こやつを道具として扱っていたならば、こやつの幸福を念ずる理由もあるまい」
「ああ。しかし、お前はずいぶん幸せそうにそいつと戯れていたからな。そいつを献上することで、少しでも罪ほろぼしができるなら幸いと、ついさっき思いついたまでだ」
そう言って、ドレッグはまたにやりと笑った。
「ルイドの言っていた通り、俺はタルオン殿のいいように動かされてしまっていた。下手をしたら、王命をないがしろにした罪で、どのような目にあわされていたかもわからん。それを気づかせてくれた森辺の民に、感謝の念を捧げるべきなのだろうと思いたったのだ」
「……それが、この獅子犬というわけか?」
「ああ。銀貨などを渡すのは筋違いであろうが、そいつには銀貨に負けない価値がある。また、森辺の民は銀貨を手にするよりも、家族たりうる存在を手にしたほうがよほど嬉しいのではないか、と考えたのだが……この想像は、当たっているか?」
アイ=ファはドレッグの真情を探るように目を細めていた。
ドレッグは、苦笑しながら額を撫でている。
「何か最後にひとつぐらいは、森辺の民に喜ばれるようなことをしておきたいものだと念じていたのだ。俺の考えが的外れであったのなら、そいつは置いていくがいい。護衛犬としての力は取り戻せたのだろうから、今後もこれまで通りに働いてもらう」
「…………」
「それにそいつは、大食いだからな。並の猟犬の倍ぐらいは食うだろう。そんな迷惑なものを押しつけられるのは御免だと言うのなら――」
「こやつが私の家人となった暁には、決して飢えさせたりはしない」
アイ=ファはぎゅうっと獅子犬の首を抱きすくめながら、ドレッグをにらみ返した。
「……こやつに、名はあるのか?」
「ああ。名前は、ジルベだ。狩猟の役には立たないだろうが、家を守る番犬としてなら働けることだろう」
「ならば、ジルベの身柄はもらいうける。……アスタ、異存はあるか?」
「いや。俺は家長の決定に従うよ」
「そうか」と、ドレッグは満足そうに笑った。
「番犬の扱いに関しては、ジェノスの連中に学ぶがいい。きちんとしつけ直せば、他の人間にも危険はないはずだ」
「…………」
「俺が護衛犬を道具として扱っていたというのが、ずいぶん気に障ったようだな。しかし、王都の貴族であれば、たいていは同じような心持ちであるはずだぞ」
そう言って、ドレッグは座席に深くもたれた。
その顔には、何かを茶化すような表情と、何かを慮っているような表情が、混在しているように感じられる。
「お前たちがすべての西の民を同胞として受け入れるというのは、並大抵の話ではあるまい。おそらく俺が監査官としてジェノスの地を踏むことはもうないと思うが……次にやってくる連中とも、せいぜい理解しあえるように力を尽くすことだな」