緑の月の十八日②~告発~
2018.1/9 更新分 1/1 ・2018.11/26 誤字を修正
「我々は、監査官のあり方に大きな疑念を抱いています」
ガズラン=ルティムは、言葉を飾らずにそう言い放った。
「あなたがたが間違った命令を下したために、ジェノスの平穏は大きく揺さぶられることになりました。それは、自覚しておられますか?」
「ふん。辺境区域の領民風情が、俺たちを告発しようというのか?」
「我々は、ジェノスに平穏を取り戻したいと願っています。あなたがたは、そうではないのでしょうか?」
相手がどのように高圧的であっても、ガズラン=ルティムが心を乱すことはない。そのぶん、ドレッグは苛立ちを募らせているようだった。
「しかし、あなたがたも好んでジェノスの平穏を脅かしたわけではないのでしょう。少なくとも、モルガの禁忌を破ろうなどという気持ちはなかったはずです。それなのに、無茶な要求を通そうとするあまりに、大きな失敗を犯すことになりました。それは、何故なのでしょう?」
「何故かだと? それは、モルガの森に出向いた兵士どもが無能だったからだ! 責めたいのならば、あいつらを責めろ!」
俺は、ひそかに首をすくめることになった。ドレッグの隣のルイドが、灰色の瞳をぎらりと輝かせたためである。
アイ=ファはアイ=ファで、不快そうに眉をひそめている。内緒話が可能であれば、ドレッグに対する怒りの言葉をもらしていたことだろう。
「それは、違います。町の人間が森に足を踏み入れれば、方向を見誤るのも当然の話です。どれほど優秀な兵士であっても、修練を積まなければギバ狩りの仕事を果たすことはかないません」
「ふん。ならば、無茶な命令を下した俺たちを無能だとそしる気か?」
「そしる気持ちはありません。しかし、あなたがたがどれほどジェノスや森辺やモルガについての知識が足りていないか、それを知っていただきたいと願っています」
口調は丁寧だが、辛辣な言葉の内容である。
しかしそれも、こちらの言い分を伝えるには必要な措置であるはずだった。
「あなたがたは、最初から判断を誤っていました。ジェノス侯爵と森辺の民にあらぬ疑いをかけたことも、それを証すために無茶な行いに及んだことも、すべてです。それは、あなたがたが物事の表面しか見ていないためだと思われます」
「おい、お前はどこまで俺たちを侮辱すれば――」
「侮辱ではありません。我々は、その理由を突き止めるために、森辺で会議を重ねていたのです」
やわらかい口調で、ガズラン=ルティムはドレッグの言葉をさえぎった。
「それで私たちは、ひとつの結論に至りました。あなたがたも森辺の民も、おたがいを理解しあえるように、行いを改めるべきではないか――私たちは、そのように考えています」
「……我々が、どのように行いを改めるべきであると?」
ついに、タルオンのほうが反応してきた。
ガズラン=ルティムは、ゆっくりとそちらに視線を差し向ける。
「言葉を飾らずに言わせていただきます。あなたがたも、このジェノスで暮らすべきではないでしょうか?」
「……ジェノスで、暮らす?」
「はい。年に一、二度訪れるだけで、ジェノスの有り様を理解するのは難しいことでしょう。この地に住まい、その目で人々の暮らしを見なければ、正しい判断は下せないと思います」
「馬鹿を言うな! どうして俺たちが、このような辺境区域に根を下ろさなければならないのだ!」
たちまち、ドレッグが爆発した。
すると、マルスタインがそれを掣肘する。
「それはべつだん、常軌を逸した提案ではないはずだ。王都では、近在の領地に外交官というものを置いているのだろう? それと同じものをジェノスにも派遣すればいいのではないのかな」
「それは、マヒュドラやゼラドとの戦いに関わる領地に限ったことだ! このような辺境の果てに外交官を派遣する習わしなど存在しない!」
「しかし、貴方がたは監査官としての公務を全うすることができなかった。ならば、監査官のあり方そのものを変革するべきではないのかな」
すでに森辺の民からの提案を聞いているマルスタインは、悠揚せまらぬ様子で言葉を重ねていく。
「貴方がたは――いや、王都におわす国王陛下は、ジェノスがゼラド大公国のように叛旗をひるがえすことを懸念しておられる。それならば、外交官を置いてでも、我々の様子を監査するべきではないだろうか。我々に後ろ暗いところはない、と知っていただくためには、それがもっとも有用な手立てだと思える」
「いや、しかし――」
「むろん、すべてをお決めになるのは国王陛下だ。だから私は、それを文書にしたためて、国王陛下に進言させていただこうと考えている」
ドレッグは、愕然と身をのけぞらせることになった。
タルオンは、笑いの形に細めた目でマルスタインを見つめている。
「ジェノス侯、それは本心であられるのでしょうかな?」
「本心だ。私自身が望んでいるとあれば、陛下もお悩みはしないことだろう」
ガズラン=ルティムは、口を閉ざして貴族たちのやりとりを見守っていた。
森辺の民としては、単に監査官たちとも正しい縁を紡ぎたい、と願っただけの話であるのだ。そうするためには、何が必要か――やはり、時間をかけて信頼関係を構築するしかない。そういった、至極シンプルな内容であったのだった。
その提案を聞き入れて、マルスタインは独自の提案を供していた。俺たちもその内容を聞くのは初めてであったので、ガズラン=ルティムも耳をそばだてているのだろう。
「このたびの貴方がたの失敗も、功を焦ったゆえであろう。限られた時間で成果をあげようとすれば、判断を誤ることにもなる。それはもう、身をもって理解できているのではないのかな?」
「しかし……しかしそれでも、ジェノスに居を移すなどというのは……」
「何もジェノスに永住するわけではない。外交官というものは、半年や一年の任期で交代するものであったはずだ。あまり長きに渡って腰を据えては、その地の人間と癒着して、外交官としての本分を果たせなくなってしまうのだろう。それぐらいのことは、外交官と無縁であった私にも容易に想像することができる」
そうしてマルスタインは、力強い笑みをたたえながら、さらに言った。
「森辺の民を森から下ろすだの、町の人間で自警団を作るだの、そのような話はジェノスの領主として容認することは決してできない。ジェノスに住まい、その実情をしっかり把握していれば、私の言葉も正しく理解できるはずだ」
「…………」
「そして、森辺の民は自分たちも行いを正す意思がある、という話だったね」
マルスタインからの視線を受けて、ガズラン=ルティムは「はい」とうなずいた。
「監査官の方々は、森辺の民に対して大きな不信感を抱いているようでした。それには、我々の側にも非があったのではないかと考えています」
「ふむ? 我々の知らないところで、何か落ち度でもあったのかな?」
しばらく聞き役に徹していたルイドロスが、興味深そうに発言する。
ガズラン=ルティムは、「いえ」と首を振っていた。
「知らないところではありません。ただ、誰も気に止めていなかったのです。貴族であるあなたがたも、ジェノスに住まう領民たちも――そして、森辺の民自身もです」
「ますますわからんな。それは何の話なのだろうか?」
「それは、私たち森辺の民が、あまりにも王国の習わしから外れた存在である、ということです」
それが、最後の議題であった。
森辺の民にとっては、これこそがもっとも大きな決断を必要とする案件であったのだ。
ガズラン=ルティムは、静かに言葉を重ねていった。
「私たちはこれまで、外部の人間との交流を拒んでいたために、自分たちがどれほど特異な存在であるかを知ることができませんでした。……いや、町の人間たちと自分たちは異なる存在であるのが当然だと考えて、そこに重きを置いていなかったのです」
「ふむ。確かに森辺の民というのは特異な存在であるのだろうが……それは、どの点においての話なのかな?」
「それは、すべてにおいてです。ですが、その中心にあるのは……やはり、四大神と四大王国に対する認識や姿勢だと思うのです。それゆえに、王都の人々には森辺の民があやしげな蛮族にしか思えないのではないでしょうか」
「いや、それはまあ……森辺の民というのは、自由開拓民さながらの生活に身を置いているからな。そのような目を向けられてしまうのも、致し方ない部分はあるのだろう」
ルイドロスは、場をとりなすようにそう述べたてた。
しかし、ガズラン=ルティムは「いえ」と首を振っている。
「我々は、自由開拓民よりもなお、王国の規範から外れた存在であるのだと思います。これは、我々の友人であるカミュア=ヨシュから聞いた話であるのですが……自由開拓民というのは、四大神を父として、山や森などを母としているそうですね」
「ああ。セルヴァにおいては、地神や氏を捨てることのできなかった一族が、自由開拓民として生きているのだからな。しかし、森辺の民にそれを許したのは、80年前のジェノス侯爵なのだから、今さらそれを責めたてるわけにはいくまい」
「地神と氏に関しては、その通りなのでしょう。ですが、問題は、四大神に対する認識と姿勢にあるのです」
ガズラン=ルティムはいったん口を閉ざし、森辺の同胞を見回してから、言った。
「我々は、四大神というものに重きを置いていません。はっきり言ってしまうならば……そのようなものは、どうでもいいと考えてしまっているのです」
「どうでもいい? いや、しかし……この大陸に住まう人間は、すべてが四大神の子であるのだぞ」
「その認識が、森辺の民には薄いのです。我々の母は森であり、死した後には森に魂を返すのだと信じています。そこに、四大神というものが介在する余地はありません」
ルイドロスはちょっと顔色を変えて、周囲の人々を見回した。
パウドやトルストも、同じような顔色になってしまっている。それぐらい、彼らにとっては四大神というのが神聖なる存在であるのだ。
「我々の祖は、ジャガルの黒き森という場所で暮らしていました。その時代から、四大神に対する信仰というものは持っていなかったようです。そうだからこそ、セルヴァに神を乗り換えることについても、まったく抵抗がなかったのでしょう」
「いや、しかし……そのようなことが、ありえるのだろうか? 森辺の民が四大神の子でなかったのなら、さすがに移住を許されることもなかったと思うのだが……」
「詳しい経緯は、我々にもわかりません。ただ、自分たちがジャガルの民であるという自覚はあったようなのです。しかし、それは故郷たる黒き森がジャガルの版図にあったというだけの話で、四大神の信仰には結びつかなかったようなのですね」
その話を俺たちにもたらしてくれたのは、ルウ家の最長老たるジバ婆さんであった。現在の森辺において、黒き森の時代を知るのはジバ婆さんただひとりであるのだ。
しかしそのジバ婆さんも、黒き森で暮らしていたのは5歳ぐらいまでである。あとの話は、想像や憶測で埋める他なかった。
「森辺の民は、ジャガルとシムの間に生まれた一族である、という伝承も残されています。ジャガルとシムは敵対国であるので、本来は血の縁を結べる間柄でもありません。それゆえに、四大神を重んじる気風が生まれなかったのかもしれません。……ともあれ、私たちは四大神の子であるという強い自覚をもたないまま、今日まで過ごすことになったのです」
「それは……まったく、驚くべき話だな。自由開拓民といえども、四大神を軽んずることは決してないはずだ」
「はい。ですから我々も、その行いを改めたいと願っています」
そう言って、ガズラン=ルティムは静かに微笑んだ。
「我々は、あくまで森を母とする森辺の民です。その誇りを捨てることはできません。しかし、それと同時に、ジェノスの領土に住まうジェノスの民であるのです。ジェノスの領民を同胞として、ともに正しい道を進んでいきたい――我々は、そのように願っています」
「わたしたちは、その心情を疑ったりはしていないよ。そうでなければ、其方たちからギバの肉を買いつけたりもしなかっただろう」
気を取りなおしたように、ルイドロスが微笑を浮かべた。
「ありがとうございます」と、ガズラン=ルティムも微笑み返す。
「ですが、我々が四大神を軽んじていると知れれば、その真情に疑いを持つ人間が現れてしまうことでしょう。また、その事実を知らなくとも、我々の態度やふるまいから、不遜なものを感じ取れるのかもしれません。……そちらの監査官の方々がそうであったようにです」
いきなり矛先を向けられて、ドレッグはぎょっとしたように身を引いた。
タルオンは、探るようにガズラン=ルティムを見つめている。
「ですから、我々は、自分たちも西方神の子であるという自覚を強く抱きたいと願っています。そのために、力を添えていただきたく思います」
「もちろん、力を添えるのはやぶさかではないが……いったいどのような形で力を添えればいいのだろうか?」
「まずは、西方神の子であるという儀式に取り組ませていただきたいと考えています。それが、最初の第一歩となることでしょう」
ルイドロスは、けげんそうに眉をひそめた。
「儀式とは、何のことであろうな。幼子が生まれた際に、聖堂で行う洗礼のことだろうか?」
「どのような儀式が相応であるのか、我々のほうこそ想像もつかないのですが……我々の祖は、ジャガルからセルヴァに神を乗り換える際にも、族長筋の人間のみが儀式を受けたのだと聞いています。それもまた、森辺の民に四大神への信仰が芽生えなかった一因なのではないでしょうか?」
ガズラン=ルティムの言葉に、パウドがくわっと目を見開いた。
「神を移すのに儀式を行わないなどというのは、ありえない話ですぞ。それは真実であるのですかな、ジェノス侯?」
「残念ながら、80年前の真実を知る者は、城下町には存在しない。……しかしまあ、森辺の民がジェノスを訪れたとき、その数は1000名にも及んだようだからね。その全員を城下町の大聖堂に招くことはなかったのだろうと思うよ」
「はい。ルウ家の最長老は、そのように述べていました。族長筋の、族長に近しい数名だけが、石塀の内側に招かれたようだったと、最長老は証言しています」
そして、神を乗り換えるには大仰な儀式が必要であるという情報をもたらしてくれたのは、カミュア=ヨシュとシュミラルであった。その両名とジバ婆さんの話を照らし合わせた結果、俺たちはその事実を知るに至ったのである。
「儀式を受けた族長筋のガゼ家は、すでに滅んでいます。後に残された我々は、誰ひとり神を乗り換える儀式さえ行っておりません。これもまた、王国の法や習わしに背く行いなのではないでしょうか」
「だから、西方神の子としての儀式をほどこしたい、と……それは、当然の話でありますな。そもそも、80年前のジェノス侯のやりようが杜撰に過ぎたのです」
パウドは眉間に皺を寄せながら、そのように言いたてた。
マルスタインは、それをなだめるように微笑んでいる。
「それは私の曽祖父のしでかした失敗だ。80年の歳月を経て、私が償わせてもらおうと考えているよ。祭祀長と相談して、神を乗り換える洗礼の儀式を行ってもらうつもりだ」
「しかし、今でも森辺の民は500から600という人数であるのでしょう? その全員を、城下町の大聖堂に招くのですか?」
ルイドロスの問いかけに、マルスタインは「無論だ」とうなずいた。
「これでまた族長筋の人間だけを呼びつけても、80年前と変わらないからね。生まれたばかりの赤子から老人まで、全員に洗礼を受けてもらおうと思う。……それが、森辺の民からの提案でもあるからね」
「は……それはまた、思い切った決断でありますな」
ジェノスと王都の区別なく、貴族たちには大きな動揺が広がっている様子だった。
その中で、ずっと押し黙っていたドンダ=ルウが、発言する。
「俺たちは数百年間、森を母として生きてきた。それと同じぐらい強い気持ちで西方神を父と念ずるのには、おそらく長きの時間がかかることだろう。それでもこれは、モルガの森辺を故郷と定めた我々に必要な行いなのだろうと思う」
「そうだね。ジェノスの領主として、私はその申し出を心から嬉しく思っているよ」
すると今度は、ギバの毛皮の下で黒い瞳を輝かせていたグラフ=ザザが、ドンダ=ルウに劣らぬ重々しい声を発した。
「それでもなお、この地が我らの故郷に相応しくないと断じたときには、モルガを捨てて新たな森を探す他ない。我らはそれだけの覚悟をもって、この行いに身を投じようと決断したのだ」
その鋭い眼光の先には、監査官たちの姿がある。
ドレッグは恐れをなしたように顔をそむけて、タルオンはややうつむき加減にグラフ=ザザを見返していた。
「黒き森からモルガの森に移り住む際、我らは数百名の同胞を失ったと聞いている。モルガを捨てて新たな森を探すには、また同じだけの同胞を失うやもしれん。そのような苦難を同胞に与えるのは、我らにとっても大きな痛苦だが……それでも俺たちは、誇りなくして生きることはできないのだ」
「…………」
「森辺の民を森から下ろそうというならば、西方神の子としての洗礼を受けた後でも、我らはこの地を捨てることになろう。それは、数百名の森辺の民を死なせるに等しい行いであるということを、心に刻みつけてもらいたい」
「大丈夫だよ。森辺の民なくして、ジェノスの繁栄はありえない。私はジェノスの領主として、森辺の民から森を奪ったりはしないと約束する。文字通り、我々は運命をともにする同胞であるのだよ」
そう言って、マルスタインも監査官たちのほうを見た。
「以上が、森辺の民からの三つの提案だ。トゥラン伯爵家との和解、西方神の洗礼、そして、監査官たちの永続的な逗留――私はそれらを、全面的に支持しようと思う」
「…………」
「さらにもう一点、私と森辺の民からの、共通の提案がある。監査官たちには、是非とも承諾してもらいたいと願っている」
ドレッグとタルオンが、それぞれの表情でマルスタインを振り返る。
マルスタインは微笑をたたえたまま、言った。
「近日中に、200名の兵士たちを率いて、王都に帰還していただきたい。期日は、そうだな……森辺の民の洗礼を見届け次第、ということにしてもらおうか」
「な、何を抜かしているのだ、ジェノス侯よ。お前は今、監査官は永続的に逗留するべきであると申し出たばかりではないか!」
「それをお決めになるのは、国王陛下であろう? その前に、ひとまず兵士たちだけでも撤退してもらわなくては、けっきょく騒乱の火種になってしまう。貴方がたは早急に王都へと帰還して、今後のことを定めていただきたい」
「馬鹿を抜かすな! 何の成果もあげられぬ内に、王都の土を踏めるものか!」
「では、兵士たちのみを帰還させることになるのかな。さしあたって、宿場町に逗留している200名の兵士たちさえ撤退していただければ、わたしたちの側には不服もないよ」
そう言って、マルスタインは卓の上で指先を組み合わせた。
その面には穏やかな微笑がたたえられたままであるが、茶色い瞳には明るく力強い輝きが宿されている。
「それとも、どこかに天幕でも張らせるかね? 街道を北に上れば、ジェノスで管理している闘技場がある。あそこならばかまどの準備もあるし、200名の兵士たちが逗留するのにも不都合はないだろう」
「天幕だと? 戦場でもないのに、どうしてそのような真似を――」
「このままでは、ジェノスが戦場となりかねないから、このような言葉を申し述べているのだ。貴方がたは、何のために森辺の民がこれほどの決意を固めることになったのだと思っているのかね?」
マルスタインは、ドレッグのわめき声をやんわりと断ち切った。
「宿場町に蔓延する不穏な空気を一掃するには、もはや兵士たちを撤退させる他ない。森辺の民はそのように考えて、最善の道を選び抜いたのだよ。監査官が永続的にジェノスに逗留するならば、もはや兵士たちなど不要だろう? なおかつ、森辺の民は王国に叛意がないことを示すために、トゥラン伯爵家との和解と西方神の洗礼を受けることを申し出てきた。これ以上、何が必要だというのかな?」
「いや、しかし……」
「しかしも何もない。森辺に住まう全住民の洗礼を終えた日を最後に、兵士たちには宿場町を出ていってもらう。これは、ジェノス侯爵たる私の決定だ」
マルスタインは、決して声を荒らげたりはしない。
しかし、その穏やかな声音には、何にも屈しない確かな意思の力が感じられた。
「天幕が必要であれば、私のほうで準備させていただこう。幸い、西方の町ダバッグではいくらでもカロンの革を買いつけることができるので、数日もあれば準備できるはずだ」
「天幕は、必要ない。ただ、負傷した兵士たちを王都まで運ぶための車を準備していただきたい」
と、低い声音でマルスタインに応じる者があった。
千獅子長にして部隊長たる、ルイドである。
ドレッグは、惑乱しきった顔つきでそちらを振り返った。
「か、勝手に話を進めるな、ルイド! 俺たちはまだ、ジェノス侯の申し出を承諾したわけでは――」
「それでは、わたしの部下たちをなおもこの地に留めようというおつもりか? 宿場町に出入りできない身で、これ以上何の仕事が残されているというのです?」
「だから、宿場町に出入りさせないというのも、ジェノス侯の勝手な申し出であるのだから――」
「勝手な申し出をしているのは、すべてあなたがたのほうだ。そうだからこそ、このような事態を招いてしまったのでしょう?」
ルイドは、無表情のままだった。
しかしその灰色の瞳は、煮えたぎった水銀のように燃えさかっている。ドレッグは、病人のような顔色で口をつぐむことになった。
「このままジェノスとの争いになれば、わたしの部下たちは罪もない領民を斬ることになる。そのような真似は決してさせないし、また、国王陛下もお許しにならないはずです」
「……しかし、この地において命令権を持つのは、ルイド殿ではなくわたくしどもであるはずですな」
性懲りもなくタルオンが反論すると、ルイドはそちらにも同じ眼差しを送った。
「ならば、命令なさるがいい。これ以上の無理を通してジェノスとの争いになれば、その責任はすべてあなたがたのものとなるのです。ジェノス侯やわたしの言葉を退けて、いらぬ争乱を招いたとあっては、いったいどちらが叛逆罪と見なされることでしょうな」
「ほ……ルイド殿は、わたくしどもを叛逆者呼ばわりされるおつもりか? これはまた、驚きを禁じ得ないところでありますな」
「わたしが糾弾しているのはあなただけだ、タルオン殿。ドレッグ殿はあなたの指示に従っていただけなのだから、糾弾する甲斐もありません」
ルイドの双眸は、いよいよ激しく燃えさかっている。
それに対するタルオンは、つくりもののような笑顔になっていた。
「ルイド殿は、何か誤解されておられるようですな。森辺の集落やギバの生態の調査をルイド殿に命じたのは、ドレッグ殿であったはずですが……」
「わたしの目を節穴か何かだと思っているのか? あなたは何が起きようとも自分に火の粉がかからぬよう、ドレッグ殿を傀儡に仕立てあげていたのです。ドレッグ殿ご自身が気づいておられずとも、わたしの目を誤魔化すことはできません」
ドレッグは、呆気に取られた様子で口をぱくぱくとさせている。
それにはかまわず、ルイドは言葉を連ねていった。
「宿場町やトゥランやダレイムにおいて、ジェノス侯爵や森辺の民がどのような存在として見なされているか、その話を聞いて回ったのは他ならぬわたしの部下たちです。その中で、森辺の民を危険視する言葉はほとんどなかったはずであるのに、あなたは強行的な手段ばかりを用いてきた。それは何故なのです、タルオン殿?」
「……わたくしは、監査官としての本分を全うしようとしたまでです」
「監査官の本分は、ジェノス侯爵と森辺の民に叛意があるか否かを見極めることであったはずです。平地に乱を起こすような真似は、国王陛下の御意に背く叛乱行為でありましょう」
そう言って、ルイドは鋭く目を細めた。
目を細めた分、その眼光は凝縮されて、熱と激しさを増したかのようである。
「ベリィ男爵家は、常々ジェノスを武力で屈服させるべきであると言いたてていたはずですね」
「……何を仰っているのか、わたくしには分かりかねますな」
「ジェノスは、大きくなりすぎました。もしもジェノスが独立を宣言したならば、周囲の町までもがともに叛旗をひるがえしかねないところです。この近在の町にしてみれば、ジェノスとの通商なしに今の豊かさを維持することはできないのですから、それもやむをえないことでしょう。これはまさしく、ゼラド大公国が叛乱を起こしたときと同じ構図になっています」
「……そうだからこそ、国王陛下もジェノスを危険視されているのでしょうな」
「陛下が望まれていたのは、ジェノスの叛逆を掣肘することです。あえてジェノスに刀を取らせて、屈服させることではない」
ジェノスの貴族たちは、困惑しきった様子でふたりのやり取りを見守っていた。
その中で、マルスタインだけは落ち着き払った表情を浮かべている。
そしてまた、森辺の民たちも心を乱した様子はなく、すべてを見届けようとばかりに目を光らせていた。
「もしもジェノスが叛乱を起こしたならば、ベリィ男爵家は自らの正しさを誇示することもかなうでしょう。平和裡の解決を願っていた他の重臣たちを押しのけて、これまで以上の権勢を手中にすることができるのでしょうね」
「……確かにわたくしはベリィ男爵家の末席に名を連ねる身でありますが、そのような理由で王命をないがしろにするとお思いでしょうか?」
「表面上、間違った命令を下していたのはドレッグ殿であったのですから、あなたが責任を問われることはないのでしょう。これでジェノスに刀を取らせることができれば、あなたは王命に逆らわぬまま、ベリィ男爵家においても自分の手柄を誇ることができるわけです」
ルイドは、同じ目つきのまま、言った。
「それが、あなたのやり口なのでしょう。わたしの部下たちやドレッグ殿を矢面に立たせて、自分だけが甘い蜜をすすろうとしている。それでどれほどの血が流れることになっても、あなたが傷つくことはない。まったく、小賢しいやり口だ」
「…………」
「しかしあなたは、失敗した。あなたの目的はジェノス侯爵と森辺の民の怒りを刺激することであったのに、それよりも早く領民たちの怒りをかきたててしまったのです。この騒乱を契機として王都とジェノスの戦になってしまったら、正義はジェノスの側にあると見なされることになる。友好国のシムとジャガルですら、そのように考えてしまったら、王家の権威も泥にまみれてしまうことでしょうな」
タルオンは、やはり無言である。
ルイドは凄まじい迫力をその声音ににじませながら、さらに言った。
「それでは、あらためて問わせていただきます。あなたはジェノス侯爵の要請を受け入れて、わたしの部下たちを撤退させるお気持ちであられるのですか、タルオン殿? ドレッグ殿の口を借りずに、あなた自身の言葉でお答えいただきたい」
重苦しい沈黙が、室内に満ちた。
やがて、それをかきわけるように、「いえ……」というタルオンの声が響きわたる。
「王命を受けた監査官として……そのような要請を承諾することはかなわないでしょうな」
「そうですか」と、ルイドは小さく息をついた。
そして、おもむろに立ち上がり、手を振り払う。
「タルオン殿を拘束せよ。わたしはタルオン殿を、叛逆罪の疑いありと見なして、告発する」
左右の壁際に立ち並んでいた兵士たちの内の4名が、無言でタルオンに近づいていった。
タルオンは、なおも微笑みながら、ルイドを見据えている。
「ルイド殿、本気でありましょうか? このわたくしを叛逆罪で告発するなどとは……これでわたくしの潔白が明かされれば、あなたはすべてを失うことになるのですぞ?」
「弁明は、審問の場でお願いしよう。タルオン殿を、ジェノス城の寝所までお連れしろ。従者は遠ざけて、常に4名で監視するのだ」
兵士たちは、刀の柄に手を添えながら、タルオンの背後に立ち並んだ。
タルオンは笑顔のまま、ゆらりと立ち上がる。
「……後悔なさいますぞ、ルイド殿」
「わたしは、ようやく戦うべき相手を見出しただけです」
タルオンは、4名の兵士たちとともに退場することになった。
静まりかえった部屋の中で、ルイドは着席する。
その中で、ドンダ=ルウの声が重く響きわたった。
「何だか、おかしな話になっちまったようだな。あの男は、それほどの悪党であったのか」
「まあ、べつだん驚くような話ではあるまい。俺たちが信じたのは、モルガの禁忌を破るつもりではなかった、という部分だけであったからな。むしろ、最初に感じた通りの人間であったというだけのことだ」
ダリ=サウティがそのように応じると、ドンダ=ルウは「違いない」と肩をゆすった。
「まあ、たとえあの男が大罪人であったとしても、それを裁くのは俺たちの仕事ではない。こちらはこちらの用事を進めさせてもらおうか」
その鋭い眼光の先にあるのは、ドレッグである。
ドレッグは、逃げ場をなくしたネズミのように視線をさまよわせていた。
「あの男の思惑がどうあれ、俺たちの立場には関わりがない。俺たちの言葉を受け入れて、兵士どもを撤退させるかどうか……あらためて、その返答を聞かせてもらいたい」
「し、しかし……その言葉を受け入れなければ、叛逆者扱いされてしまうのだろう? それでは、従う他ないではないか!」
ドレッグがそのようにわめきたてると、ルイドは冷ややかさを回復させた眼差しでそちらを見た。
「勘違いをなされるな、ドレッグ殿。わたしはタルオン殿が王命よりもベリィ男爵家の意向を重んじたと見なしたまでです。どうかあなたは私心なく、監査官としての職務を全うなさりますように」
「しょ、職務を全うしろと言われても……」
「わたしを含む兵士たちへの命令権を有しておられるのは、あなたなのです。わたしはタルオン殿を告発した身でありますので、取り急ぎ王都まで戻らなくてはなりませんが……宿場町に逗留する兵士たちの処遇に関しては、あなたの決定を待つ他ありません」
ドレッグは、途方に暮れた様子で周囲を見回した。
その視線を受け止めたのは、マルスタインである。
「ドンダ=ルウ殿の言う通り、話は何も終わっていないのだ。国王陛下がジェノスの叛逆を懸念しておられるという事実に変わりはないのだから、我々はその解決をはかるために力を尽くす他ないだろう」
「う、うむ。それはその通りなのだろうが……」
「我々の言い分は、すべてこれまでに語った通りだ。ドレッグ殿もいったん王都に帰還して、国王陛下の御意を仰ぐべきではないだろうか?」
「し、しかし……このような失態にまみれたまま、王都の土を踏むわけには……」
タルオンを失ったことにより、ドレッグはいっそう力を失ってしまったようだった。その顔は、まるでマルスタインに救いを求めているかのように見えてしまう。
そんなドレッグに、マルスタインは明朗なる笑顔を差し向けた。
「確かに貴方は、さまざまな失敗を犯してしまったようだ。しかし、それを契機として、我々は襟を正すことができた。その点だけは、大いなる成果として陛下にご報告することもできよう」
「なに? それはいったい、何の話だ?」
「これまで自由開拓民よりも気ままな生活に身を置いていた森辺の民が、西方神の洗礼を受けることになった。そして、ジェノス侯爵家と森辺の民は、トゥラン伯爵家と揺るぎのない絆を結びなおすことになった。これらはすべて、監査官たる貴方がたのもたらした成果なのではないのかな?」
ドレッグは、まだ理解しきれていない様子で眉をひそめている。
マルスタインは、子供をあやすような笑顔で言葉を続けた。
「無論、それで我々への疑いがすべて解消されたわけではない。今後は交代制で外交官を置き、永続的にジェノスを監査する。ジェノスの動向を懸念しておられる陛下も、それでようやく胸を撫でおろすことができるだろう。ジェノスを監査するのに必要なのは200名の兵士たちではなく、正しい目を持った監査官だ。私の届ける書面とともに、貴方からもそのように進言していただきたい」
「……では、俺の失態を弾劾するつもりはない、というのか?」
「貴方の失態というのは、タルオン殿の言葉を吟味もせずに賛同してしまったことであろう。その一点を猛省して、自分の進むべき道を決めるべきではないのかな」
そう言って、マルスタインは大きく広げた腕を森辺の民のほうに差し向けてきた。
「何度でも言うが、私たちに後ろ暗いところはない。これからも、西の王国の一領土として、王国の繁栄のために尽力していきたいと願っている。監査官には、国王陛下の代理人として、その姿を見届けていただきたいと願っているよ」
困惑しきった面持ちでドレッグがうなだれてしまうと、ルイドがまた横目でそちらを見やった。
「退き時を見誤らないことです。このまま宿場町の兵士たちと領民の間で争いが起これば、その責任はすべてあなたが負うことになるのですぞ、ドレッグ殿」
ドレッグは、気弱そうにルイドとマルスタインの姿を見比べる。
それから、何かをふっと思いついたように、ドレッグは顔を上げた。
「そういえば……ファの家のアスタに関しては、どうするつもりであるのだ?」
ドレッグの言葉に、アイ=ファがぴくりと反応した。
マルスタインは、むしろ不思議そうにドレッグを見返している。
「どうするつもりとは? 何か不明な点があるならば、お聞かせ願いたい」
「ファの家のアスタには、ジェノス侯爵の間諜であるという疑いをかけられているのだ。それはタルオン殿ひとりの考えではなく、王都においても少なからず取り沙汰されていた話だった。その疑いを晴らさぬ限り、陛下のご懸念を静めることはかなわないだろう」
「ふむ。アスタはもともとどこかの町の料理人であり、それを私が間諜に仕立てあげたのだと、貴方がたはそのように疑っておられたのだったな」
「ああ。渡来の民が大陸のど真ん中に現れたなどという話を容易く信じることはできんからな」
「ならば、何も問題はない。アスタにも西方神の洗礼を受けさせることで、その疑いを晴らすことはかなうだろう」
ドレッグは、うろんげに顔をしかめている。
「西方神の洗礼だと? ファの家のアスタにも、同じ洗礼を受けさせようというのか?」
「もちろんだ。森辺の民は、最初からそのように申し出ていた。すでに森辺の同胞と認められているアスタだけを洗礼の儀式から外す理由など、彼らの中にはどこにもないのだろうね」
そう言って、マルスタインはにこやかに微笑んだ。
「アスタには、渡来の民として神を移す儀式を行ってもらう。いわゆる竜神の民という意味合いではなく、この大陸の外からやってきた異邦人として、西方神の新たな子たる洗礼を受けてもらうのだ。これでもしも彼がもともとアムスホルンの住民であったとしたら、誓いの場で許されざる虚言を述べたとして、死後に魂を砕かれることになろう。その行いをもって、彼が私の間諜などではないという証になるはずだ」
「それでは……本当にファの家のアスタは、大陸の外からやってきた人間であるのか?」
「そうでなくては、洗礼を受けようなどと申し述べるはずがあるまい。自分が間諜であったことを隠し通すために魂を砕かれることになるなんて、そんな馬鹿げた話はないだろうからね」
ドレッグは、ぐったりとした様子で椅子の背にもたれかかった。
「わかった。俺たちは本当に、最初の最初から判断を間違っていたのだな。……ジェノス侯爵の要請を受け入れて、王都に帰還することを了承する」
ほう、っと誰かが息をついた。
おそらくは、ルイドロスかトルストあたりであったのだろう。リフレイアはまぶたを閉ざして、西方神に何かを祈るように指先を組み合わせている。
「ご理解いただけて、心より嬉しく思っているよ、ドレッグ殿。思わぬ騒ぎも生じてしまったが、これでようやく貴方とも正しい絆を結べそうだ」
マルスタインは、笑顔で俺たちのほうを振り返ってきた。
その向こう側では、ずっと無言でいたポルアースも微笑んでいる。
「では、しばし休憩をはさんでから、細々とした話を詰めさせていただこうか。それが済んだら、森辺の料理人たちの心尽くしで楽しませていただこう。……アスタよ、其方はそちらの仕事に加わるがいい」
「はい。それでは、失礼いたします」
無言であったのは、ポルアースだけではない。俺とアイ=ファも、一切口をきく場面はなかったのだ。
しかし、俺たちが2日間をかけてひねり出した提案が受け入れられるさまを見届けることができた。俺にはもう、それだけで十分であった。
席を立って、森辺のみんなのほうに目をやると、ガズラン=ルティムも微笑んでいた。
俺はそちらに微笑みを返してから、アイ=ファとともに会合の場を離れることにした。