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異世界料理道  作者: EDA
第三十二章 母なる森と父なる西方神
548/1678

幕間②~ファの家の晩餐~

2018.1/1 更新分 1/1

・新年あけましておめでとうございます。

・次回の更新は1/8を予定しております。

 緑の月の17日。俺は、半月ぶりにファの家で晩餐をこしらえていた。

 昨日や一昨日はルウ家の族長会議にお招きされたために、《キミュスの尻尾亭》の仕事もレイナ=ルウとシーラ=ルウに任せることになり、いざ今日こそは――というタイミングで、ミラノ=マスが完全復帰することになったのである。


 つい3日前にはダグたちを宿から追い出そうとしていたミラノ=マスであったので、そういう意味では俺としても後ろ髪を引かれる思いであった。

 が、ミラノ=マスは商会長タパスを通して城下町の貴族たちと話し合った結果、もうしばらくは王都の兵士たちを預かることに同意していた。ジェノスの貴族たちも、このまま無条件で兵士たちを逗留させるつもりはない、と申し述べていたそうで、ミラノ=マスはひとまずその言葉を信じることにしたのだという話であった。


 また、兵士たちを預かることに文句を言いたてた宿屋は他にも複数あったらしく、そちらにも同様の言葉が届けられたらしい。やはり、モルガの禁忌に触れるというのは、ジェノスの民にとって決して看過できぬ出来事であったのだった。


《アロウのつぼみ亭》のレマ=ゲイトなどは問答無用で兵士たちを追い出してしまったが、幸いにも罪に問われたりはしなかった。

 ただ罰則として、事前に支払われていた褒賞金と宿賃は没収されたのだと聞いている。忍耐を強いている他の宿屋の手前、罰則を与えないわけにはいかなかったのだろう。それでも、貴族からの依頼を無下にしたのだから、罰金ていどで済んだのは幸いと言うべきなのだろうと思われた。


 ともあれ、宿場町には不穏な空気が蔓延してしまっている。

 それに、ダレイムのほうでもそれに負けないぐらい王都の人々に対する反感がつのってしまっているのだと、ドーラの親父さんが教えてくれた。


「兵士なんぞがギバ狩りに挑もうってだけで馬鹿げていたのに、モルガの禁忌に触れるってのはどういう馬鹿さ加減だよ! うちの爺婆なんかはもう、頭にきすぎてぶっ倒れちまいそうな勢いだったさ!」


 当のドーラの親父さんも、ぷりぷりと怒っていた。

 今回の一件で心を乱す人々は、怒るか、恐れおののくかのどちらであったのだが、親父さんは前者であったのだ。

 また、同じダレイムの野菜売りであるミシル婆さんなどは、相変わらずの不機嫌そうな面持ちで「馬鹿な連中だ」と言い捨てているばかりであった。


 やはりジェノスにはさまざまな素性の人々が住まっているので、同じ話を聞いても反応がまちまちであるようだった。

 近年に移住してきた人々などは、周囲の人々が何を騒いでいるのかも理解できずに、面食らっている様子である。ユーミの父親のサムスなどは、その代表格であった。


 いっぽう、古くからこの地に住まっており、両親や祖父母などからモルガの伝承を入念に伝えられていた人々は、大きく心を乱すことになる。自由開拓民の末裔であるミラノ=マスやレマ=ゲイトなどが、そちらの代表格だ。


 今のところは、ジェノスの民と兵士たちの間で大きな諍いが起きたりはしていない。しかし、このまま何の手も打たずに放置していたら、それもどうなってしまうかわからないだろう。誰かが兵士に石でも投げたら、それを引き金にして暴動にまで発展しそうな危うさが、ここ数日の宿場町には満ちみちていたのだった。


 だからやっぱり、早急に対処すべきであると主張していたガズラン=ルティムは、正しかったのだ。

 昨日と一昨日の2日をかけて、森辺の族長たちは進むべき道を模索することになった。その場には俺やアイ=ファやカミュア=ヨシュも招かれて、大いに激論を交わすことになった。それでようやくまとまった結論を城下町に伝えて、マルスタインから了承を取りつけることがかなったのだった。


 だから、決戦の日は、明日である。

 そんな決戦の日を前にして、俺とアイ=ファは半月ぶりに自分たちの家で晩餐を囲む機会に見舞われたのだった。


「まるまる半月も外で晩餐を取ることになるなんて、ずいぶん珍しい体験だったよな。サイクレウスともめて、ルウ家でお世話になってたとき以来ってことになるわけか」


 母屋のかまどで晩餐の最後の仕上げに取りかかりながら、俺はそんな風に言ってみせた。


「サウティの集落でお世話になったり、ダバッグに旅行に行ったりしたこともあったけど、あれはせいぜい数日ていどの話だったし……まあとにかく、ミラノ=マスが元気になって何よりだよ」


 玄関口のところで、ブレイブが肉塊をたいらげているさまを見守りながら、アイ=ファは「うむ」とうなずいている。その目が、いくぶん恨めしげに俺を見やってきた。


「ところで、アスタよ。私は腹が減ってたまらないのだが」


「ごめんごめん! 半月ぶりのきちんとした晩餐だから、ついつい気合が入っちゃってな。そのぶん、アイ=ファにも喜んでもらえるように工夫を凝らしたつもりだから、もうちょっとだけ待っていてくれよ」


「工夫を凝らさずとも、アスタの料理に文句はないぞ。……とにかく私は、腹が減ったのだ」


「了解です! それじゃあ悪いけど、かまど小屋の鉄鍋を持ってきてもらえるかなあ? こっちも、すぐに仕上がるから」


「鉄鍋か。わかった」


「かまどに置いてある、小さなほうの鉄鍋な。火を消した炭の上で保温されてるから、火傷しないように気をつけて」


「うむ、心得ている」


 アイ=ファは、颯爽とした足取りで玄関を出ていった。

 その間に、俺は鉄鍋に果実酒を投じて、蓋をする。これで余熱を通せば、メインディッシュも完成である。


 アイ=ファが戻ってくる前に、俺は食器と副菜の皿を並べていった。

 シュミラルからもらった硝子の酒杯には冷やしたチャッチの茶を注ぎ、ラダジッドからもらった硝子の大皿には生野菜のサラダを盛りつけている。

 太い木串を加工した箸や、城下町から取り寄せたフォークのごとき食器など、ファの家でもずいぶん食器類は充実してきていた。


「待たせたな」と、アイ=ファが戻ってきた。

 ひとりでも容易に運搬できる、小さな鉄鍋である。きちんと専用の蓋もついているし、ふたりきりの晩餐ではこの小鍋もたいそう重宝していた。


「ありがとう。この鍋敷きの上に置いてくれ」


「うむ」と、アイ=ファが鍋を下ろす。

 俺はさっそく蓋を開いて、ミネストローネ風のタラパスープを木皿によそった。

 上座に陣取ったアイ=ファは、威厳たっぷりの眼差しで俺を見つめてくる。


「……それで、そっちはまだ仕上がらんのか?」


「もうすぐ完成だよ。本当に待ち遠しそうだな」


「……半月ぶりの晩餐を心待ちにして、何かおかしいか?」


「いえいえ、滅相もない! 俺だって、この日を待ちわびていたよ」


 俺は大鍋の蓋を取り払い、木串で焼き加減を確かめてみた。

 問題なく、火は通っている。この料理は今日の昼下がりから着手した新メニューであったので、火加減にはかなり気をつかっていた。


「よし、完成だ。盛り付けるから、ちょっと待っててな」


 鉄鍋の中身を木皿に移し、残った肉汁でソースをこしらえて、これで完成である。

 目の前に置かれた木皿を見下ろしたアイ=ファは「ふむ」と重々しくうなずいた。


「やはり、はんばーぐであったか」


「うん。この半月はハンバーグを作る機会がなかったからな。でも、今日のは特別仕立てだぞ」


 俺が自分の席に着くと、アイ=ファはまぶたを閉ざして食前の文言をつぶやいた。

《キミュスの尻尾亭》で晩餐を取る際も、俺はアイ=ファとペアにならせてもらっていたものの、やはり自分たちの家で家族水入らずで食事をする、という行為に大きな意味が生じるのである。食前の文言を復唱しながら、俺はとても温かい気持ちを抱くことができた。


 そうして大事な儀式を終えたアイ=ファは、さっそくハンバーグの皿を手に取った。

 ころんとした俵形のパテが2枚並べられており、チャッチとネェノンとブナシメジモドキのソテーも添えられている。

 ソースは、肉汁と果実酒とアリアのみじん切りをベースにした、シンプルなグレイビーソースである。


「ふむ……何が特別仕立てなのか、見た目ではわからぬようだな」


「うん。最初に言っておくと、中に乾酪が仕込んであるわけでもないぞ」


 ギャマの乾酪を使ったハンバーグはアイ=ファの一番の大好物であったので、ガッカリさせてしまわないように事前通告しておくことにした。

「そうか」とうなずきつつ、アイ=ファはフォークを取り上げる。


 それで片方のパテを取り分けても、アイ=ファの表情に変化はなかった。

 どうやら、ぱっと目では細工のわからないほうを引き当てたらしい。そちらで普段と違いがあるとしたら、アリアのみじん切りを使用していないことぐらいであるはずだった。


 アイ=ファは小首を傾げつつ、切り分けたパテを口に運ぶ。

 ミネストローネ風のタラパスープをすすりながら、俺がこっそりその表情をうかがっていると――やがて、アイ=ファの目が驚きに見開かれた。


 ハンバーグのパテを入念に噛みながら、食い入るように俺を見つめてくる。8割の期待と2割の不安に胸を高鳴らせながら、俺はアイ=ファがそれを呑み下すのを待ち受けた。


「アスタ、このはんばーぐは……何なのだ?」


 やがてひと口分のパテを食べ終えたアイ=ファが、さっそく問うてくる。

 その瞳には、とても真剣な光が浮かべられていた。


「それはな、ギバのタン――ギバの舌を使ったハンバーグなんだよ」


「ギバの舌? ギバの舌を使うと、このようなはんばーぐが出来上がるのか?」


「うん。けっこう独特の食感だろ? アイ=ファの口に合うといいんだけど……」


 おそるおそる問うてみると、「美味いに決まっている」というお言葉をいただくことができた。

 俺がほっと息をついている間に、アイ=ファはまたギバ・タンのハンバーグを口に運んでいく。それは何だか、幼い子供みたいにせわしなく見える所作であった。


「アイ=ファの口にも合ったんなら、よかったよ。もともとハンバーグ好きだったアイ=ファの好みに合うかどうか、少しだけ心配だったんだ」


 俺の言葉には、ぶんぶんと首を横に振っている。心配など不要、というジェスチャーであるのだろう。口をきくのも惜しむ性急さで、アイ=ファはハンバーグを頬張っていた。


 その姿にまたとめどもない幸福感を味わわされつつ、俺も自分のハンバーグを口に運ぶ。

 ギバのタンというのは、かなり噛みごたえのある部位である。それを粗挽きにして使っているものだから、このパテもなかなかの噛みごたえであるのだった。


 ただし、むやみに固いわけではない。なんというか、ぎゅっと身が詰まっているような、それでいて弾力にとんだ食感であるのだ。普通の肉よりも肉らしい、実に力強い味わいであった。

 なおかつ、肉汁もたっぷりであるのだが、脂のくどさがなく、けっこうさっぱりとした味わいでもある。上質の赤身肉のような、そんな食べごたえと食べやすさであった。


「で、もう片方のパテにはまた細工があってな。そっちのほうがより独特だと思うんだけど、どうだろう?」


 一気に片方のパテをたいらげそうな勢いであったアイ=ファが、その言葉でフォークの行き先を変更させる。

 新たなパテを切り分けたアイ=ファは、けげんそうに眉を寄せた。


「こちらには、何か食材が加えられているようだな」


「うん。食材って言っても、ギバ肉100パーセントだけどな」


「ぱーせんと?」と首をひねりつつ、アイ=ファはそのパテも口に含んだ。

 ほんの一、二回噛んだだけで、またその目が大きく見開かれる。これは、けっこう変化球な仕上がりであるはずだった。


「そっちのパテには、普通のギバ肉の挽き肉に、大きめに切り分けたギバの舌を混ぜ込んであるんだよ」


 大きめといっても、せいぜい1センチ四方ぐらいである。ごろごろとした四角いタンを、粗挽きの肉にたっぷりと練り込んだ、これはそういうパテであるのだった。

 通常のパテの食感に、タンのしっかりとした食感が加えられる。最初はタンと普通の肉を両方粗挽きにしてブレンドしてみたのだが、あまり効果的ではなかったので、こういう特別仕立てを思いつくに至ったのだ。


 これはこれで、けっこう面白い仕上がりになったのではないかと、自負している。しかし、ハンバーグに対して人一倍強い思い入れを抱いているアイ=ファには、どのように感じられるか――俺がまたドキドキしながら待ちかまえていると、「美味い」という言葉が届けられた。


「どちらも美味い。普段食べているはんばーぐに劣らず、美味い」


「そっか。それならよかったよ。じゃあ、その2種類の中では、どっちがアイ=ファの好みに合ったかな?」


 アイ=ファはいったん開いた口を閉ざすと、真剣そのものの眼差しで2種類のパテをにらみすえた。

 その末に、今度はちょっと眉を下げて、俺のほうを見つめてくる。


「アスタよ……お前はどうしてそのように難しい質問を、私に持ちかけるのだ?」


「あ、ごめん。どっちも気に入ってくれたんなら、それが一番嬉しいよ」


「だから、最初からそう言っている」


 アイ=ファはわずかに唇をとがらせてから、ようやく他の料理の存在を思い出したように、焼きポイタンを手に取った。

 その後はもう、ものすごい回転力で次々と料理をたいらげていく。アイ=ファのハンバーグはどちらも250グラムの見当でこしらえたのに、最後のひと口を食べる際には、とても名残惜しそうな顔をしていた。


 そうしてタラパスープも生野菜サラダも焼きポイタンも、残らずふたりの胃袋に落とし込まれて、半月ぶりの晩餐もあっという間に終了である。

 空いた皿を重ねて鉄鍋の中に投じ、水瓶の水を注いでから、ふたりで並んで壁際に座り込む。アイ=ファはひとつ満足そうな吐息をついてから、俺のほうに顔を向けてきた。


「アスタよ、とても美味だったぞ」


「うん。満足してもらえたなら、嬉しいよ」


「満足しないわけはあるまい。期待以上の晩餐だった」


 そのように述べてから、アイ=ファは何故か切なげに眉をひそめた。


「……アスタよ、一度口にした言葉をひるがえすのは、森辺の民として恥ずべき行いであると思うのだが……」


「うん? 何の話かな?」


 アイ=ファは答えず、床に投げ出されていた俺の右手の先を、そっとすくいあげた。

 そしてそれを、自分の両手でふわりと包み込む。そのいきなりの行動と、アイ=ファの指先の温かさに、俺はずいぶんドギマギすることになった。


「なるべくおたがいの身に触れるべきではないと言ったのは私だが、どうにも気持ちを抑えるのが難しい。せめて手の先だけに留めるので、容赦してくれ」


「い、いや、容赦もへったくれもないけどさ」


 俺の生誕の日にだって、俺はアイ=ファの涙をぬぐってしまったり、指切りのために小指をからめたりしてしまっている。極度なスキンシップでなければ、何をはばかる必要もないだろう。

 とはいえ、こんな風に手を握られながら、アイ=ファにやわらかく微笑みかけられるだけで、俺はこれ以上もなく鼓動を速めることになってしまった。


「……それにしても、はんばーぐでまたここまで驚かされることになろうとは、私も思っていなかった。よくあのような作り方を思いついたものだな」


「うん。実は、そのきっかけはドンダ=ルウだったんだよな」


「ドンダ=ルウ? どうしてドンダ=ルウが、新しいはんばーぐを思いつくきっかけになったのだ?」


 不思議そうに言ってから、アイ=ファは「ああ」と楽しげに目を細めた。


「なるほどな。ドンダ=ルウははんばーぐのやわらかさを嫌っているから、少しでも噛みごたえのあるはんばーぐをこしらえてやろうと思いたったのか」


「うん。昨日や一昨日みたいにルウ家にお招きされると、俺も晩餐作りを手伝うことになるけれど、やっぱりなかなかドンダ=ルウの好みでないハンバーグを作る気にはなれなかったからさ」


 ドンダ=ルウも、普通の焼いた肉と一緒にハンバーグを出されたり、スープハンバーグとして出されたりすれば、べつだん嫌な顔をしたりはしない。しかしそれでも、ドンダ=ルウにとってハンバーグが好みでないという事実は動かせなかったので、俺は何とかそれを打破してみせたかったのだ。


「これでドンダ=ルウがギバ・タンのハンバーグを気に入ってくれたら、ルウ家にお招きされた日でも、思うぞんぶん作ることができるだろ? 特に最近は《キミュスの尻尾亭》を手伝ってた関係でアイ=ファにハンバーグを出すことができてなかったから、昨日や一昨日なんかは心苦しいぐらいだったんだよ」


「ならば、昨日や一昨日に作ればよかったのではないか? 商売の後に、作り方を考案する時間は取れたはずであろう?」


「うん、それはそうなんだけど……でもやっぱり、新しいハンバーグはアイ=ファに真っ先に食べてほしかったからさ。ファの家で晩餐を作れる日を待とうって思いなおしたんだ」


 俺の手を握るアイ=ファの指先に、ぎゅっと力が込められた。

 アイ=ファの瞳が潤んだように輝きながら、俺の顔をじっと見つめてくる。


「……アスタよ、一度口にした言葉をひるがえすのは、森辺の民として恥ずべき行いであると思うのだが……」


「え? おい、アイ=ファ?」


 俺の手から、アイ=ファの温もりが離れていった。

 が、次の瞬間には、さらなる温もりが俺を包み込んでくる。アイ=ファは狩人の敏捷さで、俺の身体をこれでもかとばかりに抱きすくめてきたのだった。


「いや、アイ=ファ、何もそこまで感極まらなくても……」


「やかましい。責任の大部分は、お前にある」


 かすれた声で囁きながら、アイ=ファは俺の頬に自分の頬をすりつけてきた。

 きっと罠などでギバ寄せの実を使っているのだろう。甘い香りが、とてつもない陶酔感をともなって、俺の鼻腔に忍び込んでくる。


 俺の心臓は、早鐘のように胸郭を打っていた。

 そして、薄っぺらい衣服を通して、アイ=ファの鼓動までもが俺の胸に伝わってきていた。


 アイ=ファの温もりが、あらゆる箇所から俺の内に浸透してくる。こんな風に身を寄せ合うのは、雨期以来――《アムスホルンの息吹》を発症した俺がようやくまともに動けるようになって、アイ=ファにこれが最後だと宣言されながら抱きすくめられて以来のことであるはずだった。


「……今後はただ愛しいというだけの理由でお前の身に触れたりはしないと誓ったのに、私は自ら禁を破ってしまった」


 俺の背中に腕を回したまま、アイ=ファがまた囁いている。


「しかし私は、あの頃以上にアスタのことを愛おしいと思ってしまっている。だから、あの頃の覚悟もあっけなく砕け散ることになってしまったのだろう」


「う、うん、そうなのか……」


「うむ。だから、私にそのような思いを抱かせるに至った、お前にも大きな責任があるのだ」


 だったら、それぐらいの責任は引き受けてみせよう。

 俺はこれほどに幸福であるのだから、それでアイ=ファの気が安らぐのであれば本望であった。


 そんな風にぼんやりと考えながら、俺もアイ=ファのしなやかな身体をそっと抱きすくめてみせた。

 アイ=ファは心地好さそうに吐息をもらしながら、また俺の頬に頬をすりつけてきた。


「……明日はいよいよ、王都の貴族たちに我々の進むべき道を示すことになる」


 と、アイ=ファがふいに押しひそめた声でそのように述べてきた。


「それでこの騒ぎが収束するかはわからんが……お前さえかたわらにいてくれれば、私はどのように険しい道でも切り開いてみせよう」


「うん。俺も同じ気持ちだよ、アイ=ファ」


 アイ=ファはますます強い力で、俺の身体を抱きすくめてきた。

 いささかならず呼吸が苦しくなってきたものの、それはアイ=ファの怪力で締めあげられているゆえなのか、単に昂揚して息が詰まってしまっているだけなのか、俺には判別することができなかった。

 ただわかるのは、俺がこの世の誰よりも幸福である、というその一点のみである。


 半月ぶりにゆったりと過ごすファの家の夜は、そうして誰に邪魔されることもなく、しんしんと更けていったのだった。

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