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異世界料理道  作者: EDA
第三十二章 母なる森と父なる西方神
546/1678

緑の月の十五日~決意~

2017.12/25 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。

・大晦日と元日に幕間のエピソードを一話ずつ更新する予定です。

 翌日、緑の月の15日である。

 下ごしらえの仕事を終えて、2台の荷車でルウの集落に向かうと、そこには予期せぬ人物が待ちかまえていた。

 ルティム本家の若き家長、ガズラン=ルティムである。


「ガズラン=ルティム、このような時間にどうしたのですか?」


「はい。これから宿場町に下りるので、どうせならばアスタたちとともに向かおうと思い、お待ちしていました」


 とても穏やかに笑いながら、ガズラン=ルティムはそう言った。

 ガズラン=ルティムの手には、ルティム家のトトス、ミム・チャーの手綱が握られている。そして、ミム・チャーは荷車につながれたルウルウやジドゥラとのんびりにらめっこをしており、レイナ=ルウたちは宿屋に引き渡すための料理を積み込んでいるさなかであった。


「申し訳ありません、アスタ。すぐに片付きますので、少しだけお待ちください」


「うん。まだ時間にゆとりはあるから、焦らなくて大丈夫だよ」


 レイナ=ルウに答えてから、俺はあらためてガズラン=ルティムに向きなおった。


「どうしてガズラン=ルティムが宿場町に? 何か用事でもあるのですか?」


「いえ。ただ、宿場町の様子をこの目で確認しておきたいと願ったまでです。とりたてて、用事があるわけではありません」


 話を聞いても、俺にはいまひとつ理解が及ばなかった。

 この時間ではまだ王都の兵士たちも眠りこけているし、彼らが活動する頃には、ギバ狩りの開始時刻に至ってしまう。それで、何を確認しようというのだろうか。


「ここ数日で大きな騒ぎが続いたので、宿場町の様子が気になってしまったのです。特に昨晩は、アスタたちの手伝っている宿屋の主人が、王都の兵士たちに食ってかかってしまったのでしょう?」


「ああ、ダン=ルティムに話を聞いたのですね。はい、モルガの聖域を踏み荒らされそうになったことが、ご主人の逆鱗に触れてしまったようです」


「その主人は、自由開拓民というものの末裔であるそうですね。しかし、この地にジェノスの町が作られてから、すでに200年もの歳月が過ぎているという話なのですから、自由開拓民の末裔でなくとも、同じように心を乱す人間は多いのではないでしょうか?」


 俺は昨晩、恐怖に青ざめていたお客たちの姿を思い出しながら、「そうですね」と答えてみせた。


「もともとギバは、ジェノスで災厄の象徴とみなされていたのですよね。モルガの三獣は、そんなギバを山から追い出したという逸話が残されているそうですから……それだけでも、モルガの三獣は凄まじい力を持った存在として恐れられているような気はします」


「ええ。それで宿場町がおかしな騒ぎになったりはしていないか、私はそれを危惧しているのです」


 すると、俺のかたわらに控えていたライエルファム=スドラが「ふむ?」と小首を傾げた。


「町がどのような騒ぎになろうと、かまど番の身は俺たちが守ってみせよう。ルティムの家長は、護衛役に加わるつもりであるのか?」


「いえ。私はあくまで、町の様子が気になるだけです。それを見届けたら、中天までには集落に戻る心づもりです」


「そうか。まあ、お前は森辺でも指折りの知恵者であるという評判だからな。よくはわからぬが、好きにするといい」


 すると、ガズラン=ルティムはにこやかに目を細めながら、ライエルファム=スドラの姿を見返した。


「私こそ、スドラの家長は思慮の深さと決断力をあわせ持つ傑物であると聞き及んでいます。ファの近在の氏族をまとめあげることができたのも、あなたの裁量あってのことなのでしょう?」


「そのように馬鹿げたことを抜かすのは、バードゥ=フォウだな? 俺など、そんな大した人間ではない」


「しかし、そのフォウとベイムの家長が族長たちと行動をともにするようになったのも、もともとはあなたの言葉がきっかけであったのではないですか?」


 それは確かに、その通りのはずだった。大事な会議の場に小さき氏族の代表者が加わり、その結果をすみやかに全氏族に通達するように定められたのも、そもそもはライエルファム=スドラの発案であったのである。

 ガズラン=ルティムもまたバードゥ=フォウらとともに族長のお供をする立場であったので、ライエルファム=スドラの評判を聞き及ぶことになったのだろう。


「スドラの家と血の縁を結ぶことができて、バードゥ=フォウはとても喜んでいました。私からも、祝福の言葉を届けさせてもらいたく思います」


「ふん。俺たちこそ、滅びに瀕していたところを、フォウの家に救われた身であるのだ。買いかぶりもほどほどにしてほしいところだな」


 居心地悪そうに小さな身体をゆすってから、ライエルファム=スドラはガズラン=ルティムの笑顔をじろりとねめつけた。


「それよりも今は、王都の貴族どもの話だ。城下町のほうでも、なかなかの騒ぎであったようだな」


「ええ。ジェノス侯爵にとっても、あれは看過できぬ話であったはずですからね。昨晩は族長たちも交えて、ずいぶん長きの時間、会議が続けられたようです」


 その話は、朝方に連絡網が回されていた。昨日の会議に参席したのはドンダ=ルウとダリ=サウティのみであり、彼らが帰還したのは夜遅くになってからであったので、朝方にようやくフォウの家にまで伝令役を回されることになったのだ。


 それによると、監査官たちはかなり厳しく批判されることになったのだという話であった。

 まあ、ジェノスにおいて最大の禁忌を破りそうになってしまったのだから、それも当然だ。実際に事を起こしたのは兵士たちでも、命令を下したのは監査官たちであるので、彼らが責任を逃れることもかなわなかったのだった。


「貴族どもは、決してジェノスに害をなすつもりではなかった、と言いたてていたそうだな」


「はい。西方神に誓って、それだけは違うと申し立てていたそうです」


「ふむ。族長たちは、その言葉を信じたのだな?」


「ええ。監査官たちは、激しく狼狽していたそうです。ドレッグという人物はそれほど心情を隠すことに長けてはいないようですので、族長たちが見誤ることはないでしょう」


 では、タルオンのほうはどうだったのだろう。

 俺がその点を尋ねてみると、ガズラン=ルティムは「はい」とうなずいた。


「タルオンという人物は、心情の読みにくい相手だと思います。しかし族長たちは、彼の言葉も虚言ではないようだった、と言っていたそうです」


 タルオンの弁明については、俺もフォウの人々から聞き及んでいた。

 いわく、そのような手段でジェノスに災厄をもたらせば、セルヴァの王が暴虐な命令を下したのだという悪評を招くことになる。セルヴァの王の代理人としてこの地を訪れている自分たちに、そのような行いは決して許されない――という弁明であるようだった。


 王国セルヴァの仕組みが理解しきれていない俺たちには、その信憑性をはかることは難しい。

 ただ、ドンダ=ルウとダリ=サウティは、タルオンの態度や口ぶりから、それは虚言でないと判断した。なおかつ、話の内容の信憑性に関しては、マルスタインから保証してもらえたのだそうだ。


「そのような真似をすれば、ジェノスの反乱を後押しすることになってしまうからね。王都の貴き方々は、ジェノスの独立こそを防ぎたいと願っているのだから、そのような真似に及ぶはずもない」


 マルスタインは、そのように述べていたらしい。

 また、ドレッグなどは、このような大失態を犯した兵士たちに、怒り心頭であったそうだ。


「どうやら昨日の騒ぎは、監査官たちの立場をずいぶん苦しくさせたようです。ジェノス侯爵の不始末を弾劾するのに、自分たちのほうが不始末を起こしてしまうというのは、はなはだ具合が悪いことなのでしょう」


「そうか。しかし、兵士たちにギバ狩りを命じたのはその貴族どもなのだからな。兵士たちを叱責する前に、自分たちの愚かさを嘆くべきであろうよ」


 ライエルファム=スドラとガズラン=ルティムは、とても穏やかに会話を続けている。

 レイナ=ルウたちが出発の準備を進めている姿を横目に、俺は昨晩も感じた疑念をぶつけてみることにした。


「あの、町の人間がモルガの山に踏み入りそうになったという話は、森辺の民にとって大したことではないのでしょうか?」


 ふたりは、けげんそうに俺を振り返ってきた。

 まずは、ガズラン=ルティムが「そうですね」と応じてくる。


「もしもモルガの禁忌を完全に破ってしまい、聖域たる山を踏み荒らしてしまったとしたら、それは大ごとなのでしょうが……このたびは、ヴァルブの狼によってそれも守られているのですから、べつだん騒ぎにする必要はないように思います」


「そうですか。では、彼らがヴァルブの狼を傷つけたり、モルガの山を踏み荒らしたりしていたら、森辺の民も心を乱すことになっていたのでしょうか?」


 その問いに対する答えは、「いいえ」であった。


「森辺の民は、80年前のジェノス侯爵との約定を重んじているに過ぎません。町の人間が山を踏み荒らすという禁忌を犯しても、心を乱したりはしないと思います」


「でも、モルガの怒りはジェノスを滅ぼす、とされているのでしょう?」


「そうですね……つまり、森辺の民は自分たちもジェノスの民であるという自覚が足りていない、ということになるのでしょうか」


 そう言って、ガズラン=ルティムは考え深げに目を伏せた。


「今では我々も、宿場町や城下町に友を持つ身です。そちらにまで災厄が降りかかってしまうのだと考えれば、禁忌を犯そうとする人間に怒りを向けるべきなのかもしれませんね」


「そ、それよりもまず、自分たちの身のことは考えないのですか? たとえば、モルガの三獣が怒って山を下りてきたら、まず真っ先に森辺の集落が危うくなってしまうでしょう?」


「そのときは、死力を尽くして戦うまでです。禁忌を犯したのが町の人間であるならば、森辺の民が滅びを受け入れる理由もありませんので」


 ガズラン=ルティムの言葉に、ライエルファム=スドラも「そうだな」と相槌を打った。


「それに俺たちは、モルガの山を聖域とする人間の心持ちが、いまひとつ理解できていない。俺たちは森を母としているが、ジェノスの民はそういう意味でモルガの山を大事に思っているわけではないのだろう?」


「はい。むしろ、人間の踏み入ってはいけない危険な領域とみなしているように感じられますね」


「うむ。ならば、近づかないのが当たり前だ。森辺の民にとって、モルガの山というのはただの危険な場所であるに過ぎない。モルガの山を聖域と呼ぶのは、あくまでジェノスの民たちなのだ。だから、たとえその場所を踏み荒らされようとも、俺たちが怒りを感ずることはない」


 つまり森辺の民は、モルガの山に神秘性を認めていない、ということなのだろう。だからこそ、兵士たちが禁忌を犯しそうになっても、心を乱すことにならなかったのだ。


「だから私は、宿場町の民の様子を案じているのです。彼らにとって、モルガの山というのがどのような存在であるのか、それが実感できないために、不安になってしまうのかもしれません」


 そう言って、ガズラン=ルティムは静かに微笑んだ。


「昨日の騒ぎも、ジェノス侯爵によって布告が回されることでしょう。それはむしろ、禁忌は破っていないので心を乱す必要はない、という内容になるはずです。しかし、彼らがヴァルブの狼に襲われたという話は隠すわけにもいかないでしょうから……やっぱり私は、いささか心配です」


「そうですね。昨日の宿屋の様子を見た限りでも、少なからず動揺は広がると思います」


 俺がそのように答えたとき、「よー」とルド=ルウが近づいてきた。


「ガズラン=ルティムも、宿場町を覗きに行くんだって? よかったら、俺も一緒に連れてってくれよ」


「はい。荷車は引かせてこなかったので、ともにトトスにまたがることになりますが、それでかまいませんか?」


「ああ。行きは荷車に乗せてもらうからよ。帰りだけ、トトスの尻に乗っけてくれ」


 ルド=ルウは、呑気そうに笑っている。ガズラン=ルティムのように宿場町の様子を心配しているわけではなく、単に好奇心から同行を求めているのだろう。

 そうしている間に、レイナ=ルウたちのほうも準備が整ったようだった。


 護衛役を同行させるために、荷車は4台の大所帯だ。ルド=ルウはレイナ=ルウやリミ=ルウと同じ荷車に乗り込み、ガズラン=ルティムはミム・チャーで最後尾を進むことになった。


 荷車の手綱を握るのはいずれもスドラの狩人であり、かまど番たちは大量の調理器具や食材とともに、荷台で揺られている。同乗しているトゥール=ディンやユン=スドラの表情にも、とりたてて普段と異なる様子は見られなかった。


(確かに森辺にとって、モルガの山っていうのはあまり関心のない存在なんだろう。そうだからこそ、山麓の森辺で暮らすことにも抵抗がなかったんだろうしな)


 しかし、昨晩のミラノ=マスやテリア=マスは、あれほどまでに取り乱していた。普段はモルガの山のことなど話題にも出ないのに、禁忌が破られそうになったと聞いた途端、恐怖や怒りの念にとらわれることになったのだ。


(自由開拓民の氏を残している家はもう残りわずかだっていう話だけど、それは余所から移住してきた人たちと婚姻を繰り返した結果なんだろうし……ジェノスの住人ではなさそうな宿屋のお客でさえ、あれだけ動揺してたんだからな。きっとガズラン=ルティムの心配も的外れではないんだろう)


 となると、宿場町にはこれまで以上に不穏な空気が蔓延してしまっているのだろうか。

 そんな不安を抱え込みながら、俺は宿場町に下りることになった。


「……べつだん、普段と異なった様子はないようだな」


 そのように言いながら、ライエルファム=スドラは御者台を降りた。

 しばらくして、荷車が大通りのほうに差しかかった頃合いで、俺も外界を覗き見てみる。


 街道には、普段通りに人があふれていた。

 西や南や東の人々が、それぞれの仕事を果たすために、往来を行き交っている。陽気なジャガルの民の中には、さっそくこちらに挨拶をしてくれる人々もいた。


「すでに布告は回されているはずですが、それほどの動揺は見られないようですね」


 と、最後尾にいたガズラン=ルティムが、ミム・チャーの手綱を引きながら、俺たちの隣に並んできた。


「この後、アスタたちはどのように仕事を進めるのですか?」


「まずは宿屋で屋台を借り受けて、それから露店区域に向かいます。あ、ルウ家の人たちは宿屋の料理を受け持つ当番なので、それを先に届けることになりますね」


「では、アスタたちが所定の場所に着くまでは、私も同行させていただきます」


 ジドゥラの荷車が、途中で列を離れて横道に入っていく。裏通りにある《玄翁亭》へと料理を届けにいくのだ。そちらの荷車には、御者の狩人の他にバルシャも同行しているはずだった。


 俺たちは真っ直ぐ《キミュスの尻尾亭》に向かい、屋台を借り受ける。そちらに晩餐用の料理を渡すのは、ルウルウの荷車に乗ったレイナ=ルウたちの仕事である。


「兵士たちは、まだ部屋ですか?」


 俺が問いかけると、テリア=マスは「はい」とうなずいた。

 普段よりも、わずかに元気のない様子である。


「朝方、広場で布告が回されたようですね。兵士様たちは禁忌を犯したわけではないので、何も心配する必要はない……という内容であったようです」


「そうですか。ミラノ=マスは、大丈夫ですか?」


「はい。このまま兵士様をお預かりするべきかどうか、商会長に相談しようと考えているようです」


 兵士たちを宿泊させるのは城下町からの依頼であったので、その窓口は商会長のタパスとなるのである。レイトの忠告通り、今後のことは正規の手順を踏んで決めようという心づもりであるのだろう。


 俺たちはテリア=マスに別れの挨拶を告げて、露店区域を目指すことにした。

 今のところ、おかしな空気は感じられない。まだ兵士たちは宿屋で休んでいる時間帯であるので、なおさらだ。それに、東や南の民はもちろん、遠方からやってきた西の民にとっても、昨日の一件などは他人事であるはずだった。


「なー、別になんにも変わりはねーじゃん。ガズラン=ルティムの考えすぎだったんじゃねーの?」


 と、気づけばルド=ルウがガズラン=ルティムの横を歩いていた。

 周囲の様子に目を配りながら、ガズラン=ルティムは「そうですね」と微笑んでいる。


「私の杞憂であったのなら、それが何よりです。ルド=ルウには無駄足を踏ませることになってしまいますが」


「いや、俺も自分の目で確かめたかったから、それは別にいいんだけどさ」


 屋台を押して歩きながら、俺は意外の念にとらわれることになった。


「それじゃあ、ルド=ルウも町の様子が心配だったのかい?」


「そりゃまあ、ガズラン=ルティムにあんな風に言われちゃな。知り合い連中が無事かどうか気になるだろ」


 ルド=ルウの知り合いと言えば、ごく限られた顔ぶれしか存在しない。ミラノ=マスとテリア=マス、ユーミとミシル婆さん、それにドーラの親父さんとターラである。


「そっか。ルド=ルウはターラとも仲良しだったしね」


「別に、あんなちびっこの話はしてねーだろ。おかしなこと言うと、ひっぱたくぞ?」


 と、ルド=ルウは妙にムキになった様子で、俺をにらみつけてきた。

 内心で、俺は「あれれ?」と小首を傾げてしまう。


(ルド=ルウが、リミ=ルウ以外のことでムキになるなんて、珍しいな。……そういえば、ターラとリミ=ルウは同い年だったっけ)


 その両名は、まるで姉妹のように仲良しだ。リミ=ルウのことをひそかに溺愛するルド=ルウは、ターラに対しても強い情愛を抱くようになったのだろうか。


(まあ、ターラのほうもルド=ルウを慕ってるから、仲良くなれたのなら何よりだ)


 そんな風に考えて、俺がこっそり和やかな気分に陥りかけたとき――平穏な空気が、ふいに粉々に打ち砕かれた。

 前方から、年をくった女性のわめき声が響きわたってきたのである。


「御託はいいから、出ていけって言ってんだよ! 二度とあたしの宿に顔を出すんじゃないよ!」


 ガズラン=ルティムとルド=ルウは、同時に同じ方向を見た。

 その視線の先を追うと、大きな建物から何名もの男たちがわらわらと出てくるさまが見えた。


 見覚えのあるお仕着せを纏った、王都の兵士たちだ。

 数は、20名ばかりもいただろう。突然のこの騒ぎに、往来の人々も立ちすくんでいる。


「俺たちの判断で、勝手に宿を移すことは許されていない。お前とて、いったん引き受けた仕事をそのように投げ出すことは許されないはずだ」


 兵士のひとりが、張りのある声でそのように述べたてた。

 兵士たちの後から姿を現した人物が、「はん!」と盛大に鼻を鳴らす。


「先に騒ぎを起こしたのはそっちだろうよ? よりにもよってモルガの禁忌を犯すだなんて、そんな大馬鹿どもと関わりを持つのは、まっぴらだね!」


「昨日のギバ狩りに、俺たちの隊は加わっていない。誰も手傷を負っていないのが、その証だ」


「やかましいってんだよ! どうあれ、禁忌を犯したのはあんたらのお仲間だ! そんな大それた真似をしでかしておいて、でかい顔をするんじゃないよ!」


 怒鳴り散らす女性の背後から、やたらと図体のでかい男が、ぬうっと現れた。

 その腕に抱えられていた数々の荷物が、兵士たちの足もとに投げ出される。

 それは、彼らの持参した荷袋と、そして白銀に輝く甲冑であった。


 建物の中には別の人間たちもひそんでいるらしく、次から次へと同じ荷物が届けられてくる。大男は、それらも同じように街道の石畳へと無造作に放り出していった。


「女……お前は本当に、貴き方々のお言葉に背くつもりであるのだな?」


 兵士の声に、隠しようもない激情の気配が漂った。

 ガズラン=ルティムはきつく眉を寄せて、俺のほうにミム・チャーの手綱を差し出してくる。


「アスタ。申し訳ありませんが、ミム・チャーをお願いいたします」


「ど、どうするつもりなのですか、ガズラン=ルティム?」


「あの女性が兵士に斬られてしまったら、王都とジェノスの間には致命的な亀裂が入ってしまいます。この騒ぎを見過ごすわけにはいきません」


 そうしてガズラン=ルティムは、騒乱の場へと駆け出していった。

「しかたねーなー」と、ルド=ルウもその後を追いかける。

 すると、俺と一緒に屋台を押していたトゥール=ディンが、わずかに震える声で呼びかけてきた。


「ア、アスタ、あの女衆は……宿屋の寄り合いや勉強会に参加していましたよね?」


 トゥール=ディンの言う通り、それは俺たちにとって見知った相手であった。

 肉の厚い体格をした、ひどく貫禄のある壮年の女性――《アロウのつぼみ亭》の女主人、レマ=ゲイトである。


(そうか。レマ=ゲイトも、自由開拓民の末裔だったんだ)


 ミム・チャーの手綱を手に、俺は呆然とそう考えた。

 そんな俺に、ライエルファム=スドラが「おい」と声をかけてくる。


「アスタはあの場に近づくのではないぞ。ルティムの家長らにまかせておくがいい」


「は、はい。ですが……」


 俺がそのように言いかけたとき、どこからか「そうだ!」というひび割れた声があがった。


「森辺の集落だけじゃなく、モルガの山まで踏み荒らそうだなんて……手前ら、何を考えてやがるんだよ!」


 俺は慌てて周囲を見回したが、声の出どころはわからなかった。

 その間に、今度は別の場所から声があがる。


「お前らは、ジェノスに滅びをもたらすつもりなのか!?」


「お前らみたいな大罪人は、ジェノスを出ていきやがれ!」


 静まりかえっていたはずの空気が、ふつふつと煮えたぎっていく。

 ライエルファム=スドラは、いよいよ緊迫した面持ちで、俺のほうに身を寄せていた。


 レマ=ゲイトの怒りに満ちた声が、往来にたたずむ一部の人々に火をつけてしまったのだ。

 事情のわからない南の民たちなどは、けげんそうにそんな人々のことを見やっていた。東の民たちは無言で立ち尽くしており、また、レマ=ゲイトの怒りに感化されなかった西の民たちは、おそれをなした様子で騒乱の場から遠ざかっていく。


「お待ちください。このような場で争うのは、ジェノスの法に背く行いであるはずです」


 そこに、ガズラン=ルティムの力強い声が響きわたった。

 周囲の人々はぎょっとしたように押し黙り、レマ=ゲイトは怒りに満ちた顔つきでそちらを振り返る。


「何だい、森辺の民なんざお呼びじゃないよ! 引っ込んでおいてもらおうか!」


「いえ。確かに私は森辺の民ですが、同時にジェノスの民でもあります。この騒ぎを他人事と考えるわけにはいきません」


 ガズラン=ルティムはよどみのない足取りで、レマ=ゲイトと兵士たちの間に立ちはだかった。

 ルド=ルウもその隣に立ち並び、兵士たちに検分の眼差しを差し向けている。


「……お前たちも、この女に加担しようというつもりか?」


 兵士のひとりが凄みをきかせた声音で問うと、ガズラン=ルティムは「いえ」と応じた。


「私は誰の味方でもありません。あえて言うならば、ジェノスの法にそった立場を取りたいと願っています」


「ジェノスの法だと?」


「はい。残念ながら、私にはあなたがたとこの女性のどちらに非があるのか、それを判ずることはできません。ただし、往来で騒ぎを起こしたり刀を抜いたりすることは罪である、ということは知っています。……ですから、どうぞあなたがたもジェノスの法に従っていただきたく思います」


 兵士たちは、まだ誰も刀を抜いてはいない。しかし、その柄に手をかけている者は、ひとりやふたりではなかった。


「あなたがたは、昨日も2日前もジェノスの法に触れることになりました。この上、さらに罪を重ねてしまったら、もはや罪人呼ばわりも逃れられない身となってしまうでしょう。それで、王命を果たすことがかなうのでしょうか?」


 思いも寄らぬ森辺の狩人の登場に、周囲の人々は一瞬で静まりかえってしまっていた。

 しかし、兵士たちはまだ剣呑な空気を発散しており、レマ=ゲイトなどは憎々しげに眉を吊り上げている。


「横から出てきて、何をほざいているんだい! 賢しげな口ばかりききやがって……あんた、本当に森辺の民なのかい!?」


「私は森辺の民、ルティム本家の家長ガズラン=ルティムと申します。あなたも今少し落ち着かれるべきでしょう。ジェノスの貴族から引き受けた仕事を投げうとうというおつもりであるならば、然るべき手順を踏むべきではないでしょうか?」


「見ず知らずの人間に偉そうな口を叩かれる覚えはないよ! これは、あたしとこいつらの問題さ!」


「いえ。これは、ジェノスと王都の問題であるはずです」


 ガズラン=ルティムの声や表情は決して昂ぶっていなかったが、そこに秘められた断固たる意思の力に、さしものレマ=ゲイトも口をつぐむことになった。


 そして――昔からガズラン=ルティムを知る俺には、彼がどれほどの覚悟と決意をもってそこに立っているのか、見誤ることもなかった。

 とても沈着な表情を保ったまま、ガズラン=ルティムの茶色い瞳が鋭く輝いている。

 それはまるで、遥かなる高みから地上を見渡す猛禽のように鋭い眼差しであり、レマ=ゲイトを黙らせるに足る迫力と冷徹さをみなぎらせていたのだった。


「うわ……まるで、ルティムの長老みたいな目だね」


 と、少し離れた場所で別の屋台を受け持っていたリミ=ルウが、そんな風につぶやいていた。

 確かにガズラン=ルティムの祖父であるラー=ルティムも、このように鋭い眼差しを有するご老人であったのだ。


「争いが生じてしまったのならば、ジェノスの衛兵にすべてを託すべきでしょう。私はジェノスの民としてそのように考えますが、何か間違っているでしょうか?」


 兵士たちの何名かは、唇を噛んで後ずさり始めていた。

 歴戦の勇士たる彼らも、ガズラン=ルティムの気迫に圧されているのだ。

 そうしてその場に、重苦しい静寂がどんよりと垂れこめかけたとき――人垣をかきわけて、新たな兵士が姿を現した。


「ぞごまでだ……ざわぎをおごずごどは、わだじがゆるざん」


 そばにいた人々が、ぎょっとした様子で身を引いている。

 それは、百獅子長のイフィウスであった。


「た、隊長殿、これは……」


「わがっでいる。ごのようなざわぎになるのではないがど、わだじもげねんじでいだのだ」


 濁った声音を絞り出しながら、その合間にシュコーシュコーという不気味な呼吸音を響かせている。その姿を、ガズラン=ルティムは鋭い眼差しのまま見つめた。


「あなたは……兵士たちの長である、イフィウスという御方ですね」


「ぞのどおりだ……ぶがだぢのびれいは、わだじがわびざぜでいだだぐ」


 金属でできたクチバシのような鼻が、ほんの少しだけ上下した。

 わずかながらに、頭を下げたということなのだろう。


「おまえだぢ、にもづをびろえ……よるまでにはあだらじいやどやをじゅんびざぜるので、ぞれまではわだじのやどやでにもづをあずがる」


 兵士たちが、イフィウスに反問することはなかった。

 レマ=ゲイトに向けていた怒りの表情も消し去って、無言で荷物を拾いあげていく。

 イフィウスはもう一度金属の鼻を上下させてから、優雅な仕草できびすを返した。兵士たちは、規則正しい足取りでそれに付き従っていく。


「……ふん!」と最後に鼻を鳴らしてから、レマ=ゲイトも扉の向こうに姿を消した。

 それで往来に立ちすくんでいた人々も、ようよう動き始める。その内の何名か――おそらく兵士たちに非難の声をあびせかけていた人々は、とてもばつが悪そうな顔をしていた。


「さすがはルティムの家長だな。見事な手並みであったぞ」


 俺たちが近づいて、ライエルファム=スドラが声をかけると、ガズラン=ルティムは静かにこちらを振り返ってきた。

 その瞳には、まださきほどの鋭さの余韻めいた光が浮かべられている。


「やはり、町に下りて正解でした。宿場町の一部の人間にとって、モルガの山を踏み荒らすという行いは、強い禁忌であったようです」


「どうやら、そのようですね。さきほどの女性はレマ=ゲイトといって、やはり自由開拓民の末裔であるのです」


 俺の言葉に、ガズラン=ルティムは「そうですか」とうなずいた。


「アスタ、今日の夜、時間をいただくことはできますか?」


「夜ですか? 夜は宿屋の手伝いがあるのですが……でも、他の誰かに代わりを頼むことはできると思います」


「それではどうか、ルウの集落に集まっていただきたく思います。他の族長筋と、フォウとベイムの家には、こちらから伝えておきますので」


「では、三族長の会合を行うつもりであるのだな?」


 ライエルファム=スドラが言うと、ガズラン=ルティムは「はい」と応じた。


「森辺の民はジェノス侯爵と手を携えて、この苦難を一刻も早く乗り越えなければなりません。王都の人々に、正しき道を示してみせるのです」


「では、ガズラン=ルティムにはその道筋が見えたのか?」


 その言葉には、「いえ」と首を振っていた。


「だけど我々は、自分たちの正しいと信ずる道を進む他ないでしょう。森辺の民として――そして、ジェノスの民として、もっとも正しい道を探すのです」


 そう言って、ガズラン=ルティムはひさかたぶりに微笑をもらした。


「そのために、どうか力をお貸しください、アスタ。アスタの存在は、森辺の同胞にまたとない力をもたらしてくれることでしょう」


「はい。俺にできることであれば、決して力は惜しみません」


 さきほどは否定していたが、ガズラン=ルティムには何か進むべき方向が垣間見えたのだろう。なおかつ、ガズラン=ルティムがこれほどまでに話を急いでいるということは――きっと、俺が考えていた以上に、事態は差し迫っているのだ。


 町に住んでいたことのある俺には、森辺の民らしからぬ考えをひねり出すことができる。きっとそれが、森辺の民の力になるだろう――昨日、ユン=スドラはそんな風に言ってくれていた。

 しかしこのガズラン=ルティムは、森辺の集落に生まれついた生粋の森辺の民でありながら、余人の考えの及ばないところにまで目を向けることのできる、そういう傑物であるのだった。


「ガズラン=ルティム、宿屋に伝言を残しておけば、カミュア=ヨシュを呼ぶこともできると思います。彼も森辺の会合に呼んでみてはいかがでしょうか?」


「ああ、それは助かります。カミュア=ヨシュに加わってもらえれば、いっそう進むべき道も明確になるはずです」


 そう言って、ガズラン=ルティムは力強くうなずいた。


「必ずや、この苦難を退けてみせましょう。ジェノスと森辺に平和な生活を取り戻すために」


 俺は、「はい」とうなずいてみせた。

 ガズラン=ルティムが、いったいどのような道を見出したのか――俺などには想像することも難しかったが、迷いや不安の気持ちはなかった。

 これだけ頼もしい同胞が大勢いるのだから、どのような苦難でも乗り越えることはできるはずだ。俺は、そのように信ずることができた。

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