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異世界料理道  作者: EDA
第三十二章 母なる森と父なる西方神
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緑の月の十四日③~モルガの禁忌~

2017.12/24 更新分 1/1

 このたびの騒動をルウ家に伝えてきたのは、ダリ=サウティであったらしい。

 王都の人々は、南方に切り開かれた新たな街道から森に入ったので、そこからもっとも近くに住まっていたのはサウティの血族であったのだ。兵士たちのギバ狩りに同行することは許されなかったが、その結果はしっかりと見届けておくべきだと思い至り、ダリ=サウティは早めに仕事を切り上げて、トトスで南の街道に向かったのだという話であった。


「で、トトスを一刻ぐらい走らせたら、道端で留守番してた連中と出くわしたんだとよ。あいつらは、荷車を連れてたらしいな」


《キミュスの尻尾亭》に向かう荷車の中で、ルド=ルウがそのように説明してくれた。

 彼らの荷車には、薬や包帯といった治療の道具が準備されていたらしい。そして、ひっきりなしに火を焚いて狼煙をあげており、森に入った兵士たちに帰るべき場所を知らせる役を果たしていたのだそうだ。


 なおかつその場には、王都の兵士ばかりでなく、ジェノスの武官も加わっていた。森に入った一団にも、待機している一団にも、2名ずつのお目付け役が同行していたのだそうだ。前日にはルウ家でも騒ぎを起こしているのだから、マルスタインも問答無用でお目付け役をつけることを認めさせたようだった。

 しかし――それでもなお、モルガの禁忌は破られてしまったのだ。


「だけどな、ぎりぎり山の中には足を踏み入れてないらしいぜ。山と森の境に足を踏み入れて、そこでヴァルブの狼に襲われたって話だ」


 ルド=ルウは、昨日のように怒り狂ってはいなかった。ルド=ルウにとっては、モルガの山を踏み荒らすという禁忌を犯すよりも、血族の家を踏み荒らされることのほうが許し難いのかもしれない。


「まあ、山に入るなって掟を定めたのは、ジェノスの領主だからな。森の恵みを荒らさないってのは狩人の誇りに関わる掟だけど、聖域がどうのこうのって話は、俺たちには関係ねーもんよ。何も怒る筋合いじゃねーや」


 もちろん、森辺の民がその掟を破ったときは、ジェノス領主との約定を破ったことになるので、森の恵みを荒らしたときと同じぐらいの重い罰が与えられることになる。しかし、町の人間が勝手に山を踏み荒らしたところで、森辺の民には関係のない話だ――という論法であるようだった。


「それにあいつらは、山と森の境に踏み込んだだけなのであろう? ならば厳密には、掟を破ったことにもならん。そこで痛い目を見て引き返したというのなら、それが罰なのではないかな」


 そのように相槌を打ったのは、シン=ルウであった。

 本日もドンダ=ルウは城下町に向かうことになったので、ジザ=ルウは家に居残りになってしまったのだ。


「たしかダン=ルティムも、山と森の境にまで足を踏み入れたことがある、という話だったな。そのときは、ヴァルブの狼に襲われるのではなく、逆に生命を救われたのだと聞いているが」


「うむ! あやつは心正しき獣であるようだった! 魂を返すまでに、もういっぺんぐらいは顔をあわせたいものだと願っているぞ!」


 ダン=ルティムは、ガハハと笑い声を響かせてから、ルド=ルウのほうに向きなおった。


「しかし、そやつらはどうしてヴァルブの狼に襲われてしまったのであろうな。ヴァルブの狼というのは、むやみに人間を襲ったりはしないものだと思っていたのだが」


「そりゃーあいつらが狩人でも何でもない町の人間だったからじゃねーの? そんな連中が50人もぞろぞろと現れたら、モルガの山を踏み荒らすんじゃないかって疑われてもしかたねーだろ」


 それは確かに、甲冑を纏った兵士の一団が山との境にまで踏み込んでくれば、不穏である。

 が、それは人間目線で考えたときの話であるはずだった。そもそも野の獣に、狩人と兵士の区別をつけることなどできはしないだろう。


「それで、彼らはどうしてそんな場所に足を踏み入れてしまったんだい? まさか、ジェノスに災厄をもたらすために、わざと禁忌を破ったわけじゃないだろうね?」


 俺がそのように言葉をはさんでみせると、ルド=ルウは「んー?」と首を傾げた。


「わざとってことはねーと思うよ。ジェノスの領主は、そのためにお目付け役ってのをつけたんだろうしな」


「うむ。森になれぬ人間がむやみに足を踏み入れれば、方角を見失っても不思議はあるまい。そやつらは東に向かっているつもりで、知らず内に北へと向かってしまったのであろうよ。甲冑などを纏っていれば、木にのぼって太陽の位置を確かめることもできぬだろうからな」


「ああ。それで、歩いても歩いてもギバに出くわさねーから、そろそろ引き返すかって考えたところで、その声が聞こえてきたらしーぜ」


「声? 声って、誰の声?」


「知らねーけど、モルガの山が怒ったんじゃねーの? 『貴様たちは我らの領土を踏み荒らすつもりか!』って声が響いて、その後にヴァルブの狼が襲いかかってきたんだってよ」


 俺は思わず、目をぱちくりとさせてしまった。

 しかし、ダン=ルティムとシン=ルウは同じ表情でルド=ルウの言葉を聞いている。アイ=ファはギルルの手綱を握っているし、少しでも俺と気持ちを分かち合えそうなのは、レイナ=ルウただひとりであった。


「ちょっと待って、ルド。それはもちろん、モルガの山が怒っても当然の話なのかもしれないけれど……山や森は、人間の言葉を発したりはしないでしょう?」


「知らねーってば。だったら、ヴァルブの狼じゃねーの?」


「いや。案外、赤き野人かもしれんぞ。赤き野人の中には、ヴァルブの狼やマダラマの大蛇と心を通わせることのできるものもいるという伝承が残されているからな」


 ダン=ルティムの言葉に、俺は再び驚かされることになった。


「ちょ、ちょっと待ってください。赤き野人というのは、口がきけるのですか? 俺は、ヴァムダの黒猿みたいな獣を想像していたのですけれども……」


「うむ。俺も赤き野人を目にしたことはない。しかし、猿ではなく人と呼ばれているのだから、口をきいても不思議はあるまいよ」


「ていうか、モルガの三獣は聖域を守る聖獣ってやつなんだろ? だったら、狼だろうが大蛇だろうが、口をきいてもおかしくないんじゃねーの」


「うむ! 俺の生命を救ってくれたヴァルブの狼も、実に賢そうな目つきをしていたぞ! あやつが人間の言葉を発しても、俺はとりたてて驚かんな!」


 何だかいよいよ現実離れした話になってきてしまった。


「いや、だけど……俺はマダラマの大蛇と出くわしたことがありますけど、ただの大きな蛇にしか見えませんでしたよ」


「そやつは子蛇で、言葉を発するほどの知恵がなかったのではないか? マダラマの王などは山を一巻きできるぐらい、でかい図体をしているという伝承が残されているらしいぞ!」


 豪快に笑いながら、ダン=ルティムは俺の背中をバンバンと叩いてきた。


「ともあれ、モルガの山に住まう何者かが、禁忌を犯そうとする兵士たちに怒りの声をあげたということだ! その何者かは、他に言葉を発しておったのか?」


「ああ。ヴァルブの狼にさんざん痛めつけられた兵士たちが逃げだそうとしたところで、『禁忌を犯さば、貴様たちを滅ぼすぞ! 肝に銘じておけ!』とか何とか言ってたらしーな」


「なるほど。それならば、このたびの罪はひとまず許されたということだな。誰にとっても、幸いな話だ」


 シン=ルウが、静かな面持ちでうなずいている。

 確かにまあ、それが事実であるならば、幸いだ。


「それで、兵士たちはどんな様子だったんだい? 無傷ってことはないんだろう?」


「ああ。ダリ=サウティも居残りの連中と一緒に見届けたらしいけど、とりあえず全員自分の足で戻ってきたって話だな。何人かは、肩が外れたり腕が折れたりしたみたいだけどよ」


「その逃げ帰る最中に飢えたギバにでも襲われていたら、ただでは済まなかったろうな。それもまた、幸いだ」


 シン=ルウがそのように述べたてると、眉をひそめたルド=ルウがそちらに顔を寄せた。


「なーんかシン=ルウも、あいつらを心配してるみたいな口ぶりだな。アスタと一緒で、あんな連中に情けをかけてんのか?」


「情けをかけているわけではない。あいつらは、ただ命令を聞くしかできない立場であるのだ。かつてのスン家で言えば、分家のようなものなのだろう。上に立つ人間を正さねば、何も解決しないのだと思う」


「へん! それでもルウ家の集落を踏み荒らしたのは、あいつらだかんな!」


 ルド=ルウは子供のように口をとがらせながら、そう言い捨てた。

 そのとき、荷車が平地に下りた感触があった。


「森の道を抜けたぞ。これから宿場町に入る」


 アイ=ファはひらりと御者台を降りると、あとは手綱を引いてギルルを歩かせた。

 日没が近くなり、だいぶん辺りは薄暗くなっている。街道のほうに出ると、本日も壺の中で火が焚かれていた。


「森に入ったのは、ダグってやつらなんだよな? あいつら、宿屋に戻ってんのかな」


「どうだろうね。怪我をしたなら、別の場所に移されてるかもしれないけれど」


 俺としても、ダグの様子は気になってしかたがないところであった。

 ギバ狩りに出向いた彼らがヴァルブの狼に襲われるなんて、想定外のことだ。この騒動によって、ジェノスと王都の関係性にはどのような影響が生じるのか、俺には想像もつかなかった。


「ようこそいらっしゃいました。トトスと荷車をお預かりします」


《キミュスの尻尾亭》の扉を開けると、すぐにレイトが出てきてくれた。今日も食堂の手伝いをするらしく、前掛けをつけている。


「兵士たちの話は、夕刻にザッシュマから聞きました。族長たちは、まだ城下町ですか?」


「うん。さすがに話し合いが長引いてるんだろうね」


「そうでしょうね。ジェノスで最大の禁忌を犯すだなんて、迂闊であるにもほどがあります。この宿に宿泊している兵士たちも、半分ぐらいは手傷を負って、部屋で休んでいるようですよ」


 そう言って、レイトは深々と嘆息した。


「しかし、彼らに怒りの声を投げかけるものがあったというのは、どういうことなのでしょうね。モルガの山には、精霊か何かが巣食っているのでしょうか」


「あ、やっぱりジェノス生まれのレイトにとっても、それは不思議な話なんだね」


「当然です。そもそもモルガの三獣だって、決して人間の前には姿を現さない、伝説の存在であるのですから。王都の兵士たちは、神の怒りに触れたようなものですよ」


 そのように言ってから、レイトは鳶色の瞳をきらりと光らせた。


「でもまあ何にせよ、これは彼らの大失態です。同行していたジェノスの武官たちも目撃しているのですから、言い逃れはできません。ジェノス侯なら、これを契機に話を有利な方向に持っていくこともできるでしょう」


「そうなのかな。だったら、災い転じて何とやらだね」


 ともあれ、俺たちは厨房に向かうことになった。

 本日は、テリア=マスと一緒にミラノ=マスも下準備を手伝っている。俺たちが挨拶をすると、ミラノ=マスは「ああ」と不機嫌そうな目を向けてきた。


「毎日、すまんな。あと数日もすれば、俺もまともに働けるようになるはずだから、もうしばらくだけ手伝いを頼みたい」


「もちろんです。無理をなさらないでくださいね、ミラノ=マス」


 ミラノ=マスは無言でうなずき、鍋のほうに視線を戻した。

 その横顔を眺めながら、ルド=ルウはけげんそうに首をひねっている。


「どうしたんだよ。機嫌が悪そうだな、ミラノ=マス」


「ああ。さっきまで、医術師だの何だのが出入りして、やかましくてかなわなかったのだ。まったく、兵士が森になど入るから、こんな騒ぎになってしまうのだ」


「そっか。そっちも災難だったんだな」


 ルド=ルウは、頭の後ろで手を組んで、窓のほうに近づいていった。


「ま、あいつらもこれで森に入ろうなんて気は失せただろ。けっきょくギバは一頭も狩れなかったみたいだしなー」


「当たり前だ。あんなぼんくらどもに、ギバを狩れるはずがない」


「ふむ。しかしあやつらも、ギバを狩りに出向いてヴァルブの狼に襲われるとは思わなかったろうな」


 ダン=ルティムが笑顔で相槌を打つと、ミラノ=マスの背中がぴくりと震えた。

 そしてそこに、かつんと小気味のいい音色が響く。テリア=マスが、床に木皿を落としてしまったのだ。


「……あんた、ダン=ルティムといったな。今、あんたはなんと言ったのだ?」


「うむ? 俺が何か気に障るようなことでも言ってしまったか?」


「ヴァルブの狼……と聞こえたような気がしたのだが」


 ミラノ=マスが、ゆらりとダン=ルティムのほうを振り返った。

 その面には、不機嫌という言葉では収まらない、瞋恚の表情が浮かべられている。

 そしてその後方では、テリア=マスが呆然とした顔で立ちすくんでいた。


「確かにヴァルブの狼と言ったが、それが何なのだ? お前さんたちは、あのレイトという子供から何も聞いておらんのか?」


「レイトはさっき顔をあわせたばかりで、まだ何の話もしていない。……それで、ヴァルブの狼が何だというのだ?」


「だからあいつらは、山と森の境にまで足を踏み入れて、ヴァルブの狼に襲われてしまったのだそうだ。それで魂を返さずに済んだのだから、森に感謝するべきであろうな」


「そうか」と、ミラノ=マスは低く言い捨てた。


「俺はちょっと外に出てくる。テリア、後は頼んだぞ」


「うん……」と応じるテリア=マスの顔は、ほとんど蒼白になってしまっていた。

 それから、胸もとで指先を組み合わせて、何か小声で唱え始める。彼女の手から落ちた木皿は、床に転がったままであった。


「どうしたのですか、テリア=マス? ヴァルブの狼がどうしたというのです?」


「そ、それは、聖域を守る三獣のことなのでしょう? モルガの怒りに触れてしまうなんて、それは……それは、許されざることです」


 震える声でそう言ってから、テリア=マスは力なく壁にもたれてしまった。


「モルガが怒れば、ジェノスが滅ぶ……いえ、わたしたちの祖は、モルガが怒れば、山麓に住まう自分たちの世界が滅ぶと、そのように信じて生きてきたのです。だから、たとえ王国にこの地を手渡すとしても、決してモルガの聖域を犯したりはしないと約定を交わしたはずなのに……どうしてこんな……」


「掟を破ったのは、ジェノスの人間じゃなくて王都の人間だからな。あんたたちが怯える必要はないんじゃねーの?」


 ルド=ルウがそう言っても、テリア=マスは「いえ」と首を振っていた。


「わたしたちの祖もまた、聖域を犯さないという約定のもとに、この地に住まうことを許されたのです。モルガの山との約定を破れば、滅ぼされるのはわたしたち……ジェノスの領土に住まう人間たち、ということになるのでしょう」


「なるほど。この宿の人間は、自由開拓民という一族の血筋であったのだな。一番最初にモルガの山と約定を交わしたのは、その自由開拓民という者たちであったのか」


 シン=ルウが、気がかりそうに厨房の出入り口を見た。


「そうなると、禁忌を破られてもっとも心を乱すのは、森辺の民でも城下町の貴族でもなく、その自由開拓民の末裔たち、ということになるのだろう。もしかしたら、ミラノ=マスは兵士たちのもとに向かってしまったのではないか?」


 俺は慌てて、アイ=ファを振り返った。

 アイ=ファは鋭く目を輝かせつつ、シン=ルウのほうを見る。


「ならば、我々もそちらに向かうべきであろう。シン=ルウもともに来てくれるか?」


「了解した」


 文句の声をあげようとするルド=ルウを尻目に、俺たちは厨房を飛び出した。

 それと同時に、険悪なわめき声が食堂の奥のほうから聞こえてくる。まだ食堂の座席は半分も埋まっていなかったが、それらのお客たちはけげんそうに騒ぎのほうへと目を向けていた。


「……よお、今度はお前らか」


 ミラノ=マスの身体を避けるようにして、最奥の座席に陣取ったダグが視線を向けてきた。

 頭に包帯を巻いているが、その顔から普段の精悍さはまったく損なわれていなかった。


「ミ、ミラノ=マス、どうされたのですか?」


 俺が声をかけても、ミラノ=マスは振り返らなかった。

 その背中は、怒りで小さく震えている。


「どうもこうもない。こんな連中を俺の宿に置いておくことはできんから、追い出そうとしているだけだ」


「ええ? だけどそれは――」


「モルガの山は、聖域だ! 聖域を荒らせば、俺たちが滅ぶことになる! そんな大罪を犯した連中を、俺の宿に置いておけるものか!」


 怒声をあげながら、ミラノ=マスはその手に携えていた小さからぬ布の袋を、床に叩きつけた。中には銅貨か銀貨でも詰まっているのだろう。硬質的な音色が響きわたる。


「事前に受け取った宿賃だ! そいつを拾って、さっさと消え失せろ!」


「……そいつは困った話だな。部屋で休んでいる俺の部下どもは、それなりの手傷を負ってしまっているのでな」


「知ったことか! 勝手に野垂れ死ぬがいい!」


 すると、レイトが駆け足でこちらに近づいてきた。


「いったい何の騒ぎですか、ミラノ=マス?」


「……レイトか。この大罪人どもを、俺の宿から追い出そうとしているだけだ」


「大罪人? ……ああ、モルガの山の件ですか」


 レイトは静かな声で言いながら、床に落ちていた袋を拾った。


「説明が遅くなって申し訳ありません。でも、彼らは山と森の境に足を踏み入れただけなのです。厳密には、禁忌を破ってはいないのですよ」


「しかし、ヴァルブの狼に襲われたのだろうが!?」


「禁忌を破りそうになったので、モルガの山が警告を与えたのでしょう。彼らが禁忌を破っていたのならば、その場で魂を返すことになったはずです。こうして生きながらえているということが、禁忌を破っていない証なのですよ」


 そう言って、レイトが袋を差し出してみせたが、ミラノ=マスは振り返りもしなかった。

 レイトはわずかに眉をひそめつつ、俺たちのほうを振り返ってくる。


「森辺の民のみなさんにおうかがいします。あなたがたとて、かつては森と山の境にまで足を踏み入れたことがあるのではないですか?」


「うむ。この地を故郷として間もない頃は、危うく禁忌を犯しそうになったこともあるはずだ。森と山の境といっても、明確な区切りがあるわけではないからな」


 と、シン=ルウが沈着な声で応じた。


「しかしそれはジェノスの領主から申しつけられた大きな禁忌であったので、俺たちの祖も山と森の境を見分けられるように修練を重ねた。マダラマの大蛇の這いずった跡や、ヴァルブの狼が牙を研いだ跡――それに、赤き野人が枝を折った跡などを見逃すことがなければ、うっかり山に踏み込むこともない」


「では、山と森の境では、モルガの三獣と出くわすこともありえるのですね?」


「ありうる。かまどの間にいるダン=ルティムも、そこでヴァルブの狼と遭遇したことがあるそうだ」


 レイトはうなずき、ミラノ=マスの腕にそっと手をかけた。


「お聞きになったでしょう? 森辺の民とて、山と森の境にまでは、足を踏み入れることはあるのです。彼らとて、それと同じことをしたにすぎません。ただ、たまたま数多くのヴァルブの狼と出くわして、手痛い洗礼を受けることになってしまったのでしょう」


「…………」


「また、彼らが許されざる罪を犯していたとしたら、ジェノス侯が処断してくれるはずです。ミラノ=マスもジェノスの民なのですから、領主に判断をまかせるべきでしょう? 自由開拓民がモルガの山と交わした約定は、そのままジェノス侯爵家に継承されているのですから」


「…………」


「明日の朝には、ジェノス侯からの布告が回されるはずです。それまでは、どうかこらえてください。もう彼らの身柄を預かりたくはないという話であれば、それも正式に申し出るべきです。宿と家族を守るために、どうかご自分から貴族との約束を踏みにじるような真似はなさらないでください」


 ミラノ=マスはぎゅっとまぶたを閉ざしてから、初めてレイトのほうを見た。


「……この場は、お前さんに従おう。しかし、こいつらの行いを許したわけではない。こいつらのせいで、ジェノスは滅んでいたのかもしれんのだからな」


「はい。それは僕も、同じ気持ちです」


 ミラノ=マスは大きくうなずき、レイトの手から銅貨の袋を受け取った。


「もうしばらくは、この銅貨を預かっておく。しかし、ジェノスの領主が間違った判断を下すようであれば、何がどうあれ出ていってもらうからな」


「ああ、それでかまわねえよ」


 ダグは、不敵に笑っていた。

 最後にその顔をきつくにらみつけてから、ミラノ=マスは厨房に戻っていく。


「やれやれ、まさかお前たちに救われるとはな。部屋でうなっている部下たちのために、礼を言わせてもらうぜ、カミュア=ヨシュの弟子レイトに、ルウ家の狩人シン=ルウ」


「あなたに礼を言われる筋合いはありません。僕は養父に正しい道を歩いてもらいたいと願ったまでです」


「うむ。俺も問われたことに答えたまでだ」


「ふん、可愛げのない連中だぜ」


 ダグは、酒杯に注がれた果実酒をあおった。頭に包帯を巻いているのに、酒を控える気はないらしい。


「さあ、話が終わったんなら、料理を注文させてくれ。今日はへとへとに疲れちまったからな」


 俺は立ち去り難い心境であったが、現時点ではかける言葉が見つからなかった。

 後ろからはアイ=ファにせっつかれてしまったので、しかたなしにきびすを返すことにする。


「我々の出る幕はなかったな。とんだ無駄足を踏んでしまった」


「いや、でもアイ=ファがミラノ=マスのために駆けつけてくれたのは、すごく嬉しかったよ」


 俺が小声で答えると、背中を強めに小突かれることになった。

 そうして厨房に向かっていく過程で、ひそめられた会話の声が耳に忍び入ってくる。


「あいつら、モルガの禁忌を犯したのか……?」


 それは、名も知れぬ食堂のお客たちであった。

 どこにでもいそうな、西の民である。宿屋の食堂に出向いてきているということは、おおよそ他の町から訪れてきた行商人たちであるのだろう。


 だから、ジェノス在住の人間というのは、少なかったはずだ。

 そうであるにも拘わらず、その場に集まった人々の面には、一様に恐怖と戦慄の表情が浮かべられているように感じられた。

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