緑の月の十四日②~狩人の力~
2017.12/23 更新分 1/1
それから数刻の後、森辺の集落に帰還した俺たちは、ファの家のかまど小屋で料理の勉強会に励んでいた。
かまど小屋には、本日も十数名の女衆が集まっている。スドラ家の赤子たちも、町で売る肉の仕分けについても落ち着いてきたので、フォウやランの女衆も以前と変わらない頻度で勉強会に参加するようになっていた。
本日の主題は、パスタソースのバリエーションの拡大である。トゥール=ディンだけは昨日に引き続いてガトーショコラの研究に取り組んでいたが、ファの近在の氏族では高級食材たるギギの葉をあまり好きなようには使えなかったので、トゥール=ディンひとりに託されることになったのだ。
ただし、収穫祭などの祝宴であれば、そういった贅沢も許されるようになる。その日までにレシピを完成させるべく、トゥール=ディンは単独の研究を受け持ち、その間に他の女衆は自分たちの勉強を進めることにした、といった次第であった。
もちろん、トゥール=ディンに何もかもを押しつけているわけではなく、ギギの葉の下ごしらえなどはみんなで取り組んでいたし、パスタソースのほうで目新しいアイディアなどが閃いたときは、トゥール=ディンも輪に加わえていた。分業するべきときは分業し、共同作業が必要なときは手を携える、そういう臨機応変さも彼女たちは体得しつつあったのだった。
料理に対する熱意という面でも、決してルウ家の人々に引けは取らない。俺たちはその日も懸命に、かつ和やかに、充実した時間を過ごすことができていた。
ただやっぱり、王都の視察団のことを完全に頭から追い払うのは難しい。具材を煮込んだりする待ち時間などにおいては、どうしてもそういう話題が取り沙汰されることになった。
「今ごろ王都の兵士たちは、モルガの森でギバを追っているのでしょうね。町の人間が森に入るというのは、何だか奇妙な感じです」
味の調整をしたタラパソースを攪拌しながら、マトゥアの若い女衆もそのように述べていた。
かつては銀の月にも、外部の人間たる《ギャムレイの一座》が森に入ることになった。しかしそのときは、あくまでルウ家のギバ狩りに同行する、という体裁であったのだ。狩人の同行もなしに、町の人間だけでギバ狩りの仕事に取り組むというのは、この80年の間でも初めてのことなのかもしれなかった。
「自分からギバの前に身をさらそうだなんて、まったく正気とは思えないね! ギバがどれだけ恐ろしい獣か、好きなだけ思い知るがいいさ!」
今日の昼ごろ、宿場町では、ドーラの親父さんがそのように述べていた。
親父さんは、畑の周囲に仕掛けておいた落とし穴に嵌ったギバを、手製の槍で仕留めた経験があるのだ。身動きの取れないギバを上から覗いただけで、親父さんは身の毛もよだつような恐怖を味わわされることになったのだった。
かくいう俺も、生きたギバには二度だけ対面した経験がある。モルガの森で目覚めた初日と、その翌日である。一度目は自分自身が落とし穴に落ちることで難を逃れ、二度目はアイ=ファによって救われることになったのであるが――そのときの恐怖心は、今でもまざまざと心に刻みつけられていた。
ギバは、イノシシによく似ている。しかし、イノシシ以上に危険な獣である。イノシシだって十分に危険な獣なのであろうが、あれはそれ以上の凶悪さを有した獣なのだということを、狩人ならぬ俺でも察することができた。
(たぶんそれ以上に、俺は森辺の民がすさまじい力を持っているということを知ってるからな。その森辺の民が生命を懸けなければ相手にできないぐらい、ギバっていうのは恐ろしい存在なんだ)
俺はたびたび、狩人の力比べというものを目にしたことがある。それで知ったのは、森辺の民が俺の知る通常の人間よりもはるかに優れた身体能力を持っている、という揺るぎない事実であった。
たとえばアイ=ファなどは、わずかなりとも俺よりは身長が低く、とてもすらりとした体格をしているのに、俺などとは比べ物にならない筋力を保持している。それはもう、筋肉や骨の性質が違うのだと思うしかないぐらい、顕著な差であるのだった。
それに、シン=ルウである。シン=ルウだって俺よりは小柄であるのに、甲冑を纏った大の男を刀のひとふりで数メートルも吹っ飛ばしたことがある。俺の常識に照らし合わせると、そんな真似は普通の人間には決して為し得ないことであるはずだった。
それに加えて、森辺の狩人は並々ならぬ反射神経や、視力、聴力、周囲の気配を探る能力、自分の気配を殺す能力、などといったものを備え持っている。それらもひっくるめて、森辺の狩人の力であるのだろう。
かつて吟遊詩人のニーヤが歌ってみせた『黒き王と白き女王』の歌が真実であるとしたら、森辺の民はシムの王国が建立される以前から、黒き森で黒猿という野獣を狩り続けていたことになる。さらに、黒き森を追われることで、あてどもなく放浪の生活に身をやつすことになり――その果てに、モルガの森という第二の故郷を見出すことになったのだ。
モルガの森に辿り着くまでに、多くの同胞が力尽きることになったと、ジバ婆さんはかつて語っていた。なおかつ、モルガの森で暮らすようになってからも、ギバという未知なる獣との戦いで、一族の数は半分にまで減じることになった。森辺の集落においては、そういった苛烈な運命を生き抜いた血筋の人間だけが、生き残ることを許されたのだ。
そんな彼らであるからこそ、今もなおギバ狩りの仕事を果たし続けることができているのだろう。
数百年にも及ぶ過酷な生が、森辺の民に尋常ならざる力を与えることになったのだ。
もちろんダグたちも、優れた兵士なのだろうと思う。しかし、カミュア=ヨシュも言っていた通り、それは人間同士で戦うための、戦争に勝利するための力であるのだ。極端な話、王都の兵士たちと森辺の民が戦ったとしたら、兵士たちは身体能力のハンデをものともせずに、善戦できるのかもしれなかったが――その力が、ギバを相手に十全に出せるなどとは、なかなか考えることはできなかった。
「……アスタ、浮かない顔ですね」
と、ふいに横合いから声をかけられた。
振り返ると、ユン=スドラが心配そうに俺を見つめている。
「そろそろ石窯の菓子が焼きあがる頃合いだと思いますが、わたしが行ってきましょうか?」
「あ、いや、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていただけさ」
「そうですか。それはきっと、わたしたちを救う力となるのでしょう」
と、ユン=スドラがいくぶん切なげな面持ちで微笑んだ。
「アスタはまぎれもなく森辺の同胞です。でもきっと……アスタには、わたしたちにはない力が備わっています。そうだからこそ、アスタはこれまでもわたしたちを救うことができたのでしょうね」
「え、それは何の話だい? 俺にできるのは、こうして料理を作ることぐらいだよ」
「いえ、アスタは森辺を訪れるまで、どこかの町で暮らしていたのでしょう? そうして町の人間の考えや心情をも察することができるというのは、わたしたちにはない力です。だから昨日も、兵士たちを追い返したり、ドンダ=ルウの怒りを抑えることもできたのではないでしょうか?」
ユン=スドラは何だか、とても大人びた表情になっていた。
少し悲しそうな――しかしそれ以上に、幸福そうな笑顔である。
「そんな風に考えると、アスタの存在を遠く感じて、少しさびしくなったりもするのですが……だけどやっぱり、そんなアスタを同胞として迎え入れることのできた喜びと誇らしさがまさります。どうかこれからも、森辺の同胞としてわたしたちに力を与えてください」
「うん、もちろん。……ありがとう、ユン=スドラ」
「御礼を言いたいのはこちらのほうですよ、アスタ。……さあ、あんまり遅くなると、トゥール=ディンがやきもきしてしまいます」
ユン=スドラに背中を押されるようにして、俺はかまど小屋の出口に向かった。
その胸には、ユン=スドラの言葉がしんしんと染み入っていくかのようであった。
(確かに、ユン=スドラの言う通りだ。俺の思考回路は町の人間のほうに近いから、森辺のみんなには思いつけないようなことを思いついたりすることができる。森辺の民として、そういう部分をぞんぶんに発揮することができれば、何か力になれるかもしれない)
そんな風に考えながら、俺はかまど小屋を出て、トゥール=ディンの待つ石窯のほうに向かった。
トゥール=ディンは、真剣な面持ちで石窯と向かい合っている。そのかたわらには、護衛役たるチム=スドラの姿もあった。
「やあ、お待たせ。ちょっと遅くなっちゃったかな?」
「いえ。おかしな香りはしないので、焦げついたりはしていないと思います。砂時計の砂も、今ちょうど落ちきったところですので」
「そっか。それじゃあ、さっそく取りだしてみよう」
俺がきょろきょろと視線をさまよわせると、チム=スドラが無言で鈎のついた鉄の棒を差し出してくれた。石窯の戸は、この器具で引き抜くのだ。
「ありがとう、チム=スドラ。……なんとなく、トゥール=ディンとチム=スドラの組み合わせっていうのは新鮮だね。何か話は弾んだのかな?」
石窯の戸を引き抜きながら、俺がそのように尋ねてみると、チム=スドラは「いや」と首を振った。
「トゥール=ディンはずっと火の具合を確かめたり、煙の匂いを嗅いだりして、俺の姿など目に入っていない様子だった。これほど真剣に取り組んでいるからこそ、トゥール=ディンはアスタをも上回る菓子というものを作りあげることができるのだろうな」
「い、いえ、とんでもありません。わたしは力が足りていないので、人並み以上に頑張らないといけないだけで……」
と、トゥール=ディンはたちまち小さくなってしまう。
その姿を見やりながら、チム=スドラは「ふむ」と小首を傾げた。
「しかし、トゥール=ディンの話はユンからもたびたび聞かされているぞ。北の集落の祝宴をまかされているというのも大した話であるし……そういえば、この前の祝宴ではその幼さで嫁取りを願われそうになったそうだな」
「ええ!? そうなのかい、トゥール=ディン?」
「ち、違います! 嫁取りなどは、願われていません!」
「そうなのか? ハヴィラの男衆がトゥール=ディンに懸想してしまい、ダナの女衆とややこしい騒ぎになってしまったのだと聞いたのだが」
「あ、あれはちょっとした誤解があっただけで……ど、どうしてユン=スドラがそんな話をご存じなのですか?」
「知らん。まあ、女衆というのは、噂話が好きなものだからな。こうして寄り集まったときに、ディンかリッドの女衆に聞いたのだろう」
トゥール=ディンは耳まで赤くなって、今にも消え入ってしまいそうであった。
その姿を見やりながら、チム=スドラはけげんそうに首を傾げている。
「どうしたのだ? ユンもその女衆らも、それだけトゥール=ディンは立派なかまど番である、ということを伝えたかったのだと思うぞ。ユンなどは、まるで自分の自慢話のようにトゥール=ディンのことを語ることが多いからな。……しかし、何か気を悪くしてしまったのなら、謝ろう」
「いえ……」と、トゥール=ディンは真っ赤な顔で小さくなってしまっている。
トゥール=ディンには気の毒であったが、チム=スドラのほうに悪気があるわけもないし、はたから見ている俺にとっては微笑ましいぐらいの話であった。
そんな思いを胸に、耐熱用の皿を石窯の中から引っ張りだす。
そうすると、ガトーショコラの甘い香りが、また嫌というほどあふれかえった。
「うん、いい色合いだ。味見が楽しみだね」
トゥール=ディンは、無言でこくこくとうなずいていた。
そんなトゥール=ディンとともにかまど小屋に引き返すと、その場には本日何度目かの歓声があがった。
「やっぱりその菓子は、ものすごい香りだね! ミャームーの香りも吹っ飛んじまったよ!」
「今度はどんな味がするのでしょう。とっても楽しみです!」
ユン=スドラを筆頭に、みんな瞳を輝かせている。試食を重ねる内に、すっかりガトーショコラの虜になってしまったようである。
今回の試食品は、三皿だ。それぞれ、砂糖やカロン乳や乳脂の分量を調整している。試食だけでお腹がふくれてしまわないように、薄っぺらい生地に仕上げて、ひとりにつきひと口分の量しか焼きあげてはいない。
そうして生地を冷ましてから試食に及ぶと、十数名のかまど番たちはのきなみ陶然たる表情を浮かべることになった。
「ああ、やっぱり美味しいですね……早く家の子供たちにも食べさせてあげたいです」
「そうだねえ。でも、こいつを先に食べさせると夢中になっちまいそうだから、祝宴のときは他の料理をいくらか食べさせてから出したほうがいいかもしれないね」
わいわいと騒ぐ女衆を横目に、俺はトゥール=ディンへと語りかける。
「昨日と今日の二日間で、格段に味が向上したみたいだね。甘さと苦さの割合いもちょうどいいんじゃないかな?」
「はい。ですが、もう少しだけ食感を軽くしたほうが食べやすいと思います。それに……何か少しは味の変化がないと、食べる内に飽きてしまうかもしれませんね」
気を取り直したように、トゥール=ディンはまた真剣な面持ちになっていた。
たった二日で目を見張るような進化を遂げたというのに、まだまだ納得のいっていない様子である。
「食感を軽くしたいなら、火にかける時間を長くするのがいいかもね。下手にフワノの量を増やすと、また味の調整をやりなおさないといけなくなっちゃうし」
「そうですね……あるいは、ポイタンを使ってみるというのはどうでしょう? そうすれば、自然に食感も軽くなるはずです」
「ああ、なるほど。それもいいかもしれないね」
俺がそのように応じたとき、入り口のほうから「むむ」という声が聞こえてきた。
「ずいぶん甘ったるい香りだな。今日は菓子をこしらえているのか」
「やあ、おかえり、アイ=ファ。今日は早かったんだな」
「そうでもない。森にギバを残しているので、もうひとたび戻らねばならんのだ」
ということは、すでに1頭のギバを運んできたということなのだろう。相変わらず、ギバの収穫量は落ちていない様子であった。
アイ=ファの足もとでは、猟犬のブレイブがけげんそうに鼻をひくつかせている。ガトーショコラの強烈な芳香に反応しているのかもしれない。
「私が次に戻る頃には、家を出る刻限も近くなっていることであろう。それまでに、お前も準備を進めておくのだぞ」
「了解したよ。気をつけてな、アイ=ファ」
「うむ」という返事を残して、アイ=ファは颯爽と立ち去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、ユン=スドラが顔を寄せてくる。
「アスタ、アイ=ファは機嫌を悪くしたりしていませんか?」
「え? どうしてだい?」
「だって、宿屋を手伝うようになってから、もう半月ぐらいは経っているでしょう? それだけ毎日、外で晩餐を取るというのは、森辺の民らしからぬ行いなのですから」
それは確かに、ユン=スドラの言う通りであった。大事な家族と晩餐をともにするというのは、森辺の民にとってかけがえのない行いであるのだ。
「まあ、今のところは大丈夫だよ。それに、あと数日もすれば、手伝いの必要もなくなるだろうからね。もともと食堂を手伝うのは、半月ぐらいっていう話だったからさ」
「そうですか。それなら、いいのですが……」
ユン=スドラはいささか心配げであったが、俺は心配していなかった。実は数日前の寝る間際に、その話題はアイ=ファとの間で持ち上がっていたのだ。
「家でゆっくりと晩餐を取れる日が待ち遠しいな」
そのときのアイ=ファは、寝具の上で横たわり、俺のほうに顔と身体を傾けながら、そのように述べていた。その面に浮かんでいるのは、とても穏やかでやわらかい微笑だった。
王都の貴族たちのもたらした苦難によって、厳しい表情を見せることの多くなったアイ=ファであるが、朝から晩まで張り詰めているわけではない。そうした折には、以前と変わらぬ優しげな表情を見せてくれるのである。
また、俺の生誕の日を境に、そうした表情のやわらかさは格段に魅力を増している。そんなアイ=ファの無防備であけっぴろげな情愛を向けられるだけで、俺は鼓動が速くなるのを禁じえないほどだった。
「……どうやら心配はいらないようですね」
と、ユン=スドラがにっこり微笑んだ。
「何だかアスタの鼻をつまんでしまいたい気持ちに駆られましたが、むやみに触れるのは習わしに背く行いであるので、我慢しておきます」
いったい今の一瞬で何を読み取ったのか、なかなか侮れないユン=スドラの洞察力であった。
顔が赤くなってしまわない内に、俺は後片付けの準備を始めることにする。あとは煮込んでいたタラパソースの試食をするだけで、勉強会を切り上げる刻限に至っているはずであった。
「収穫祭が、楽しみですね。早くみんなが喜ぶ顔を見たいです」
使用した調理器具を水瓶の水で洗いながら、マトゥアの若い女衆がそのように述べてきた。
とても朗らかな笑顔であるが、ただ目もとにはわずかに心配そうな陰も落ちている。
「それまでに、今の騒ぎが収まればいいのですけれど……アスタ、今日も町に下りる際は気をつけてくださいね」
「うん、ありがとう。アイ=ファたちがついてくれてるから、心配はいらないよ」
そうしてタラパソースの味見も済ませて、すべての後片付けを終える頃には、アイ=ファのほうも2頭分のギバの処置を終えていた。
時刻は間もなく、下りの五の刻である。ルウの集落に向かう頃合いだ。
ブレイブは、夜食である肉の塊とともにフォウの女衆に託して、俺たちは本日もギルルの荷車でルウ家を目指した。
「……近在の女衆の様子はどうだ?」
御者台のアイ=ファがそんな風に問うてきたので、俺はその横に身を乗り出しながら、「うん」とうなずいてみせた。
「市場に出す肉の準備も手馴れてきたし、いい感じだよ。食材の分量を帳面に書き留めるっていうやり方にも、だいぶ馴れてきたみたいだしな」
「そうか。収穫祭が、楽しみなことだな」
「ああ、前回から何ヶ月も経ってるから、いっそう豪勢な宴料理を準備できるはずだよ」
普段通りの、アイ=ファとの会話である。
森に入った兵士たちのことは気がかりであるが、この場で話題に出しても詮無きことだ。《キミュスの尻尾亭》に向かえば、またカミュア=ヨシュが何かしらの情報をもたらしてくれるだろう。そんな風に考えながら、俺たちはルウの集落に急いだ。
しかし俺たちは、それよりも早く真実を知ることになった。
ギルルの荷車で道を南に下っている内に、行く手からトトスにまたがった狩人の姿が見えてきたのである。
「あれは……リャダ=ルウであるようだな」
「それじゃあまた、北の集落への伝言かな?」
王都の視察団が訪れた初日にも、リャダ=ルウは使者の役を担わされていた。あのときはレイトを乗せて荷車を使っていたが、今日は時間も遅いので、最高速で北の集落を目指しているのだろう。
「リャダ=ルウよ、何か変事でも生じたのか?」
アイ=ファが荷車を停めてそのように呼びかけると、リャダ=ルウもまた手綱を引きしぼった。
「うむ。詳しくは、ルウの集落で聞いてくれ。俺は一刻も早く、北の集落までおもむかなくてはならん」
「いったいどうしたのだ? 森に入った兵士どもが、何か面倒を起こしたのではあるまいな」
「……実はその通りだ。あやつらは、これ以上ないぐらいの面倒を起こしてくれた」
リャダ=ルウは、真剣そのものの表情であった。
俺も思わず、御者台の横からいっそう身を乗り出してしまう。
「い、いったい何があったのですか? まさか、人死にが出てしまったとか……?」
「自らの意思で森に踏み込んだのだから、魂を返すことになっても文句は言えまい。あやつらとて、それぐらいの覚悟は固めていたはずだ」
そう言って、リャダ=ルウは強く首を横に振った。
「だから、そのようなことではない。あやつらは、またも禁忌を犯したのだ」
「き、禁忌ですか?」
「うむ。あやつらは――森と山の境に足を踏み入れてしまった。それで、ヴァルブの狼に襲われることになってしまったのだ」
俺は、後頭部をハンマーで殴られるような衝撃を受けることになった。
リャダ=ルウは、厳しい面持ちで手綱を握りなおす。
「幸い、傷ついたのは兵士たちのほうで、ヴァルブの狼を傷つけることはなかったようだがな。もしもモルガの山に足を踏み入れて、モルガの三獣を傷つけていたら――モルガの怒りで、ジェノスは滅んでいたかもしれん。まさかあやつらは、最初からそれが目的であったのではないだろうな」
「ま、まさか、そんなことは――」
「とにかく、後の話はルウの集落で聞いてくれ。俺は、北の集落に向かう」
リャダ=ルウは、別れの挨拶もそこそこに、ジドゥラの脇腹を蹴りつけた。
赤みがかった羽毛を持つジドゥラの姿が消え去ってから、俺はアイ=ファに向きなおる。
「ア、アイ=ファ、これはいったいどういうことなんだろう?」
「どういうことも何もない。兵士どもがどのような思惑であったとしても、それは許されざる行いだ」
静かな声音でそう述べてから、アイ=ファもまたギルルの脇腹を革鞭で打った。
得たりと駆け出したギルルの手綱を操りながら、アイ=ファの横顔はこれ以上ないぐらい緊迫した面持ちになってしまっていた。