緑の月の十三日④~疑惑~
2017.12/21 更新分 1/1
「いやあ、まさか彼らが何の断りもなく森辺の集落に向かうとはねえ。さすがにこれは、俺にとっても予想外の出来事だったよ」
日没の後である。
予定通り《キミュスの尻尾亭》に向かって、カミュア=ヨシュと顔をあわせると、こちらが口を開く前からそのように説明されることになった。
「監査官と部隊長の間で、言葉の行き違いがあったという話だね。それで、正式に謝罪の言葉がドンダ=ルウに届けられたということだけど――その話は、すでに聞いているのかな?」
「はい。ちょうど俺たちがここに向かっている途中、城下町から戻ってくるドンダ=ルウたちの荷車と出くわしましたので」
ルド=ルウからの報告を受けたドンダ=ルウは、その場でギバ狩りの仕事を切り上げて、ルウの集落に戻ってきた。そこで俺とも言葉を交わしてから、ルド=ルウやダルム=ルウをお供として城下町に乗り込んでいったのである。
「もちろん監査官たちは、森辺の集落の自治権というものについて、ジェノス侯から聞かされていた。しかし、部隊長のルイドはその話を知らなかったので、今日のような事態に至ってしまったのだ、という話であったね」
「はい。だけど、ルイドという御方はどうして自治権の話を知らなかったのでしょう? あの人物は、常に監査官たちと行動をともにしているわけではない、ということですか?」
「うん、それについてはジェノス侯も証言していたよ。自治権の話をしたのは彼らがジェノスを訪れた最初の日だったのだけれども、ルイドはそのとき宿場町で兵士たちの指揮を取っていて、会談には参加していなかったのだそうだ」
ならば、いちおうの筋は通っていることになる。
しかし俺は、納得がいかなかった。
「でも、ルウ家の調査というものを命じたのは、監査官たちなのでしょう? その命令を下す際に、注意を与えたりはしなかったのですか?」
「うん、命令を下したのはドレッグのほうだったらしくてね。あの御仁はいつも酔っ払っているから、いつもの調子で雑な命令を下してしまったらしいよ。それでもルイドが自治権についてわきまえていれば、このような騒ぎにはなっていなかったはずだ、とタルオンのほうが謝罪の言葉を述べていたそうだ」
確かにドンダ=ルウたちも、城下町ではタルオンに謝罪されたのだと述べていた。その場にはジェノス侯爵マルスタインも同席しており、どうか穏便に済ませてはくれないかと口添えをされたのだそうだ。
「ルウ家の、ええと……ダルム=ルウだったっけ? 彼は、掟を破った兵士たちの足の指をよこせと、それは大変な剣幕であったらしいね。ドンダ=ルウは、何とか矛を収めてくれたようだけれども」
「はい。ドンダ=ルウが怒りに身をまかせていたら、どうなっていたかわかりませんけどね」
当然のこと、ドンダ=ルウは怒り狂っていた。しかし、城下町に乗り込む前に、俺とライエルファム=スドラがふたりがかりで心中の疑念を伝えてみせると、炎のように両目を燃やしながら考え込んでいたのだった。
「確かにこれは、俺たちを怒らせようとしている策略なのかもしれん。その目的は、十分に達せられたわけだからな」
ダルム=ルウのように怒号をあげたりしない分、その怒りの内圧は凄まじいばかりであった。長いつきあいである俺でさえもが、思わず身を震わせてしまったほどである。
「とにかく、まずは貴族どもの弁明を聞かせてもらう他ない。進むべき道は、それから決める」
そう言って、ドンダ=ルウは城下町に向かい、タルオンやマルスタインと言葉を交わしたのち、その謝罪を受け入れて、帰ってきたのである。
その際に、「二度目はない」と言い捨ててきたのだと、俺は聞いていた。
「なんべんも言っている通り、彼らは王国の安寧を守るために、こんな辺境の果てにまで押しかけてきているんだ。そんな彼らが王国の法を自ら破るはずはないから、俺としても今日の出来事は驚きだったよ」
カミュア=ヨシュがそのように言ったとき、厨房の入り口から「おい」という不機嫌そうな声が投げかけられてきた。
「カミュア、お前さんはまたこんなところで仕事の邪魔をしているのだな。……テリア、ギバの煮付けを二人前と、ぎばかれーを三人前だ」
「うん、わかった。……アスタ、煮付けのほうをお願いしてもよろしいですか?」
「あ、はい。了解いたしました」
言葉の内容から察せられる通り、注文を持ち込んできたのはミラノ=マスであった。
2日ほど前から、ついにミラノ=マスも仕事に復帰することになったのだ。まだ脱臼した右肩は万全でないし、無理をすると熱が出ると医術師にも念を押されていたが、給仕の仕事だけでもと言い張って働き始めたのである。
身体にあわない痛み止めの服用期間が終わったために、ミラノ=マスもすっかり元気そうになっている。頭に巻いた包帯は痛々しいものの、げっそりとこけた頬には肉が戻り、顔色も健康そうだった。
「さすがに今日は、兵士どもも少しは大人しくなっているようだ。……まったく、ルウ家の人らには災難だったな」
「うむ! 俺がその場に居合わせていたら、誰に止められても二、三人は投げ飛ばしていたかもしれんな!」
そのように応じてガハハと笑ったのは、ダン=ルティムであった。
そのダン=ルティムとアイ=ファ以外は、護衛役の顔ぶれが変わっている。ルド=ルウはドンダ=ルウのお供で城下町に向かい、ジザ=ルウはその留守を預かることになったので、代わりにシン=ルウとラウ=レイが選出されることになったのである。
「まったく、間の抜けた連中だな。俺たちの同胞をひとりでも傷つけていたら、謝罪の言葉だけでは済まなかったところだぞ」
ひさびさの宿場町でご機嫌そうな顔をしているラウ=レイも、笑顔でそのように述べている。が、次の瞬間には、その水色の瞳が猟犬のごとく輝いていた。
「特に、俺の家人にまで害が及んでいたら、俺も黙ってはいられなかった。母なる森に感謝の祈りを捧げなければな」
兵士たちが押しかけてきたとき、ヤミル=レイも勉強会に参加していたのである。本当に、兵士たちが女衆を手にかけなかったのは、不幸中の幸いであった。
「俺の家は父リャダに守られていたために、兵士たちに踏み荒らされることもなかった。だからといって、やつらの行いを許せるものではないがな」
そのように述べつつ、シン=ルウは沈着な面持ちであった。たとえ内心では怒っていても、それをあらわにしたりはしない気性であるのだ。
温めなおしたギバの煮付けを木皿に盛りつけてから、俺はあらためてカミュア=ヨシュを振り返る。
「カミュア、ひとつおうかがいしたいのですが」
「うん、何だい? 何でも遠慮なく聞いておくれよ」
「カミュアは以前、王都の人たちのことを悪人ではないと言っていましたよね。だからこそ、サイクレウスのときよりも厄介なんだ、と。……その言葉は、本当に真実なのでしょうか?」
「ふむ。それは、正義と悪の定義にもよるかもしれないね」
そう言って、カミュア=ヨシュはにんまりと笑った。
「彼らがサイクレウスのような大悪人ではない、ということは保証できると思うよ。ただ、森辺の民のような実直さや清廉さなどは望むべくもない。それは、理解してもらえるかな?」
「はい。だけど、法を犯すことは罪ですよね? 俺にとって、法をないがしろにする人間は悪人とみなしたいところなのですが」
「それは、兵士たちの話なのかな? それとも……別の人々の話であるのかな?」
「それを、カミュアにお聞きしたいのです。ふたりの監査官たちと部隊長のルイドという御方は、いったいどのような人柄であるのでしょう?」
カミュア=ヨシュはマントの隙間から出した手で、無精髭ののびた下顎を撫でさすった。
「俺もそこまで詳しく知っているわけではないけれどね。いちおう王都でジェノスまでの案内役を依頼されたとき、懇意にしている御方たちに監査官たちの人となりは確認しておいた。それをそのまま伝えさせていただくけど……まず、ドレッグというのは、現在の自分の立場に鬱屈を抱えている。バンズ公爵家という立派な家に生まれつきながら、第三子息という立場では安穏ともしていられず、王都の監査官という立場を与えられたのだけれども、それが不満でならないらしい」
「バンズ公爵家というのは、かなり高い身分なのですか?」
「そりゃもう、公爵家というのはセルヴァ王家に次ぐ身分だからね。しかもバンズというのは、王都を取り囲む五大公爵領のひとつなんだから、その格式は推して測るべしさ」
ならばそれは、ジェノス侯爵家をも上回る家の出自である、ということなのだろう。あれだけ高圧的なのも、納得である。
「しかし、第三子息であるために、それほどの要職にはつけなかったということですか。言ってみれば、以前のポルアースやシルエルなどと同じような立場であるということですね」
「うん。だから、憂さを晴らすために果実酒をかっくらっているのだろうね。彼はきっと、一刻も早くこんな厄介な問題は片付けて、王都に帰りたいと願っているのだと思うよ」
「なるほど。……では、タルオンという人物は?」
「彼は逆に、貴族としての格式は微々たるものだ。ベリィ男爵家の末席に名を連ねてはいるものの、ほとんど騎士階級と変わらないぐらいのものだろう。だから、監査官の仕事にも熱心に取り組んで、自分の名をあげることに躍起になっているそうだ。外見はあんな風だけれども、功名心の強さはなかなかのものであるらしいよ」
それは、いささか意外な情報であった。つかみどころのないように見えていたあの人物の裏側には、そのような一面が隠されていたのだ。
「では、ルイドという御方は?」
「あれはもう、典型的な武人だね。メルフリードほどではないけれど、実直で、勤勉で、融通がきかない。ただし、軍の指揮官としては非常に優秀で、将来も有望だとされている。こんな雑用みたいな仕事を押しつけられて気の毒なことだ、と俺の知人は同情していたね」
「なるほど。やっぱりこれは、本来の職務からは外れた仕事なのですね?」
「うーん、職務の重さに優劣はないのだろうけれども、彼らは誉れある遠征兵団の所属であるからね。本懐は、マヒュドラやゼラドの軍と戦うことなのだから、辺境の領地の監査などというのは決してやりがいのある仕事ではないのだと思うよ」
「……ルイドという御方は、監査官の命令から外れて、暴走するような気性なのでしょうか?」
「いやいや、実直で融通がきかないと言っただろう? 特に今回は、監査官たちの手足となって働くように命じられているのだから、粛々と職務をこなすばかりだと思うよ」
それでようやく、俺もイメージを固めることができてきた。
日中から、胸の中にもやもやとわだかまっていたものが、形になってきた気がする。
「カミュア、今日の騒ぎについて、俺なりに考えをまとめてみたのですが……それが見当外れでないかどうか、ちょっとご意見をいただけませんか?」
そうして俺は、自分の考えをあますところなくカミュア=ヨシュに伝えてみせた。
すべてを聞き終えたカミュア=ヨシュは、満足そうににこにこと笑っていた。
「うん、それはなかなか秀逸な意見だね。俺としても、それが真実なのではないかと思えるよ」
「それじゃあカミュアも、最初からこんな風に推察していたのですか?」
「いやいや、俺も内心で首を傾げていたんだよ。彼らのやり口があまりにも荒っぽいから、これはどういう目的で行われた騒ぎなのかなってさ。確かにアスタの言う通りであれば、色んなことに辻褄があうように思えるね」
「だったら……この話は、ダグたちにも伝えるべきではないでしょうか? 彼らだって、いわば被害者のようなものなのですから」
「うん、それも賛成だ。ちょうどそちらの仕事も一段落したようだし、この場で伝えてあげたらいいんじゃないのかな?」
「え? 俺が伝えるのですか?」
俺が驚いて声をあげると、すぐそばに控えていたアイ=ファがぎらりと瞳を輝かせた。
「カミュア=ヨシュ、アスタに危険な真似をさせようというのなら、私が黙ってはおらんぞ」
「彼らにとって有益な情報をもたらそうというのだから、何も危険なことはないよ。むしろ、彼らに感謝されて、正しい縁を結ぶ助けになるのじゃないのかな?」
「しかし、このような話は誰から伝えても同じことであるはずだ」
「いやいや、俺は完全にジェノス侯の手の者とみなされてしまっているからね。ダグやイフィウスも、何かの策略なのではないかと用心して、まともに聞いてくれないかもしれない。ここは騒ぎの場にも立ちあったアスタから伝えるのが、一番適切であると思えるね」
俺もまた、アイ=ファのほうを振り返った。
「何にせよ、この話はダグたちに伝えるべきだと思う。このままだと、彼らが一番危険な役回りになってしまうかもしれないからね」
「……アスタは、あの者たちの身を案じているのか?」
「え? そりゃまあ……今の推察が当たっていたら、彼らがあまりに気の毒だろう」
アイ=ファは深々と溜息をついてから、金褐色の前髪をかきあげた。
「まったく、お前というやつは……わかった。ただし、あの両名がそろっているなら、護衛役ももうひとりは必要だ」
アイ=ファが目をやると、3名の中からシン=ルウが進み出た。
「ならば、俺が同行しよう。こちらはダン=ルティムとラウ=レイが居残っていれば危険もあるまい」
「何だ? 荒事になりそうなら、俺を連れていけ」
ラウ=レイが笑顔で名乗りをあげると、アイ=ファがきつい目つきでそちらをにらみつけた。
「お前は話を聞いていなかったのか? 荒事になりそうな話であれば、そもそもアスタにそのような真似はさせん」
「何だ、つまらん。それなら、好きにしろ」
「うむ。レイナ=ルウは、我々にまかせておくがいい!」
ダン=ルティムにも、異存はないようだった。
レイナ=ルウとテリア=マスは、心配げに俺たちの姿を見守ってくれている。
「それでは、行こうか。今ならまだイフィウスも居残っていそうだから、ちょうどいい頃合いだね」
カミュア=ヨシュがそう言いたてると、アイ=ファは「うむ?」と眉をひそめた。
「カミュア=ヨシュも同行するのか? ならば、そちらで伝えればいいではないか」
「いやいや、俺はあくまで仲介役さ。それに、アスタの話を俺なりに補強できるはずだからね。手を携えて、あの頑固者たちを説得してみようじゃないか」
というわけで、俺たちは4名で食堂に向かうことになった。
食堂では、ミラノ=マスとレイトとふたりの女性が給仕の仕事に励んでいる。俺がミラノ=マスに話を伝えると、女性のひとりが厨房を手伝うために引っ込んでいった。
「申し訳ありません、ミラノ=マス。まだ仕事の最中であったのに」
「ふん。いちおう俺が、最初に話を通させてもらうぞ。あんな厄介者でも、客は客だからな」
そうしてミラノ=マスをも加えて、俺たちは食堂の奥へと踏み込んでいった。
すでに日没から1時間ぐらいは経過しており、食堂はたいそうな賑わいであった。余所の宿から訪れた人々もギバ料理を堪能しており、陽気に騒いでいる。狩人を引き連れた俺たちがその間をぬっていくと、心配そうに声をかけてくれる人たちも多かったが、「何もご心配はありません」としか返すことはできなかった。
王都の兵士たちは、いつも食堂の最奥の席に陣取っている。
人数は、22名。もともとの宿泊客である20名と、イフィウスおよびそのお供である。
確かに彼らは、青空食堂で食事をしているときよりも、いっそう静かにしているように見えた。ぽつぽつと言葉を交わしながら、ギバ料理を中心とした晩餐を口に運んでいる。
「よお、そっちから出向いてくるとは珍しいな。さっそく詫びの言葉でも聞きに来たのか?」
俺たちが立ち並ぶと、ダグが声をあげてきた。
ミラノ=マスは、むっつりとした顔でそちらを見返す。
「晩餐の最中に失礼をする。厨の仕事を手伝ってくれているアスタが、あんたがたと言葉を交わしたいそうだ」
「ああ、かまわねえぜ。一言ぐらいは文句を言わないと気が済まないだろうからな」
「文句を言いに来たわけではありません。……あの、もう少し静かなところでお話しすることはできませんか?」
俺の言葉に、ダグは「ふうん?」と口の端を吊り上げた。
「森辺の狩人とカミュア=ヨシュを引き連れて、俺を責めたてようって魂胆か? 確かにそんな連中に囲まれちまったら、さすがの俺でも地面に這いつくばるしかないだろうな」
「あなたを責めるいわれはありません。ただ、お話がしたいのです。できれば、あなたとイフィウスに」
カレーまみれの前掛けをつけたイフィウスは、シュコーシュコーと不気味な呼吸音を撒き散らしながら、俺たちの姿を見つめていた。
いっぽう、ダグはうろんげに眉をひそめている。
「イフィウスにまで、何の用事だよ? 言っておくが、森辺の集落に押しかけたのは俺の隊なんだから、イフィウスは宿場町に居残ってたんだぜ?」
「はい。それでも兵士たちを率いるあなたがたにお話をさせていただきたいのです。本来であればルイドという御方に話したかったのですけれども、その御方は城下町なのでしょう?」
ダグは頭をかきながら、ゆらりと立ち上がった。
「よくわからねえが、こんな場所でうだうだ言っていても話は進まなそうだな。俺にあてがわれた部屋にでも出向くか」
「はい。そうしていただけると、ありがたいです」
イフィウスも前掛けを外して、立ち上がった。
無言の兵士たちに、ダグはにやりと笑いかける。
「聞いての通りだ。俺たちはファの家のアスタと言葉を交わしてくる。俺たちが戻るまで、追加の料理を頼むんじゃねえぞ」
そうしてミラノ=マスとはその場で別れて、俺たちは客室のある二階へと場所を移した。
《キミュスの尻尾亭》の二階に上がるのは、これが初めてのことだ。以前にダバッグでお世話になった宿屋と同じように、木造りの通路にはたくさんの扉が設置されていた。
その一番奥にまで歩を進めたダグは、無造作に扉を開けて、室内に踏み入っていく。彼がラナの葉で燭台に火を灯すのを待ってから、俺たちも入室させていただいた。
部屋は六畳ほどの広さであり、左右の壁際に二段の寝台が設置されていた。正面の壁にだけ窓があり、調度と呼べるものは小さな卓と水瓶ぐらいしかない。
寝台には、見覚えのある甲冑や荷袋などが放り出されている。眠る際には、それを床に下ろすのだろう。ダバッグの宿屋と同じように、この部屋もあくまで眠るためだけに存在する空間であるようだった。
「寝台に座りたかったら、好きにしろ。大事な甲冑に手を触れなきゃ、文句は言わねえよ」
ダグは奥の窓を開けて、そのへりに腰をかけた。イフィウスは、その隣に立ち並んでいる。
俺たちは立ったまま、そんな両名と相対させていただいた。
「さて、話をする前に、そっちの狩人たちの名前を聞かせてもらえるか? このことは、部隊長殿にも後で報告しなけりゃならねえからな」
ダグの言葉に応じて、アイ=ファとシン=ルウが名乗りをあげた。
とたんにダグは、「へえ」と愉快げに笑う。
「ルウの家のシン=ルウ、か。それじゃあ、お前がジェノスの闘技会で優勝したっていう森辺の狩人なんだな。部隊長殿から、話は聞いてるぜ」
「……そうか」
「ああ。噂では、『赤の牙』のドーンもその闘技会には出場していたらしいな。まあ、お前みたいな化け物が相手じゃあ、ドーンでも赤子同然だろうけどよ」
「……そのドーンという男は覚えている。確かに手練ではあるようだったが、城下町のメルフリードやレイリスのほうが、俺にとっては手ごわい相手だった」
「ふうん。こんな平和ぼけした土地でも、そんな大した剣士がいるものなんだな」
ひとつ肩をすくめてから、ダグは俺に向きなおってきた。
「それで? 晩餐の途中で抜け出してきたんだ。余計な前置きはなしで、話を聞かせてもらおうか」
「了解いたしました。……ダグ、あなたたちは本当に、自治権については知らされていなかったのですよね? 現場のあなたたちだけではなく、命令を下したルイドという人物すら、それを知らされていなかったのだと聞きました。それは、真実なのでしょうか?」
「ふん、今さらの話だな。俺たちが、好きこのんで法を破るとでも思っているのか?」
「ええ。あなたたちは、俺から自治権の話を聞かされるなり撤退していったのですから、それは真実なのだろうと思います。でも、監査官の方々は自治権について知らされていた。その話は、すでに聞いているのでしょう?」
「ああ。あの酔いどれ貴族様が、そんな大事な話を伝え忘れたって話だな。まったく、迂闊な話だぜ」
「……それは本当に、うっかり忘れただけの話なのでしょうか? 意図的に伝えなかったという可能性はありませんか?」
ダグは押し黙り、探るように俺を見据えてきた。
イフィウスは無言のまま、呼吸音を響かせている。
「どうも俺には、今日の騒ぎの目的がつかめなかったのです。いきなり森辺の集落に押しかけて、何を調査するというのでしょう? あなたたちは、上官からどのような命令を下されていたのですか?」
「……俺たちは、宿場町の商売で財をなしたルウ家の暮らしぶりを調査せよと命じられただけだ。家の大きさや間取り、調度の具合、氏族の人間の数なんかをな」
「それをジェノス侯に話を通さずに敢行したのは何故でしょう? 最初に一言でもあれば、ルウ家の人たちも心よくあなたたちを迎えたはずですよ」
「ふん。事前に勧告などしていたら、都合の悪いものを隠されてしまうだろうが? それは何も不思議な話ではない」
「そうですか。それでも、ジェノスの関係者を同行させていれば、あのような騒ぎにもなりはしませんでした。森辺の民には直前まで勧告せず、ジェノスの誰かと森辺の集落を訪れていれば、用事は済んだのではないですか?」
「……お前たちは、この前の審問で監査官たちに楯突いたんだろうが? それに腹を立てた監査官が、ジェノス侯にも話を通すべきではないと考えたんだろうさ」
「そうですか。それだけの話ならいいのですが、やっぱり俺には腑に落ちません。監査官の方々が穏便に話を進めようという考えを持っているならば、自治権のことを伝え忘れるなんてありえないでしょう」
これはあくまで推測なので、何も確証のある話ではない。だから俺は、自分の思いついたことをそのままダグたちに伝えるしかなかった。
「そもそも俺には、ルウ家の暮らしぶりを調査するという行為に、大きな意味を見いだせません。それよりも、これはルウ家を怒らせるために仕掛けられた謀略なのではないかと疑っています」
「謀略だと? そんな真似をして、監査官に何の得があるってんだ?」
「森辺の民は危険な蛮族であると言いたてることが可能になります。そうすれば、ジェノス侯に与えられた自治権も不当なものである、と主張しやすくなるのではないでしょうか?」
それが、俺の思いついた推測の主眼であった。
ダグは疑わしげに目を光らせつつ、また口をつぐんでいる。
「もしもあのまま強引に調査が行われていたら、族長ドンダ=ルウももっと激しい怒りを抱くことになっていたと思います。その果てに、足の指を差し出せと詰め寄っていたかもしれません。そうしたら、監査官たちはあなたがたに足の指を差し出させた上で、森辺の民に自治権を与えるのは危険だと言いたてていたのではないでしょうか?」
「…………」
「ジェノス侯が打ち立てた法によって、王都の兵士たちの身が損なわれることになったら、それこそ大ごとでしょう? 法を破ったのはあなたたちのほうなのに、苦しい立場に追い込まれるのはジェノス侯と森辺の民のほうなのではないか、と俺には思えてしまいます。そもそも森辺の民に自治権など与えるから、このような悲劇が生じてしまったのだ――などと言われてしまったら、ジェノス侯も相当な窮地に追い込まれてしまいそうですからね」
「……お前は、そんな薄汚い謀略のために、監査官たちが俺たちを生贄にしようとした、などと言い張るつもりか?」
「言い張るつもりはありません。そういう可能性もあるのではないか、と言っているだけです。あなたたちは、俺よりも監査官たちの人柄をわきまえておられるのでしょう? あの方々は、そんな謀略を思いつける人間ではない、とお思いですか? ……それならそれで、俺はとても嬉しく思います」
重苦しい静寂が、その場にたちこめた。
その中で、後ろに引っ込んでいたカミュア=ヨシュが声をあげる。
「俺もあのおふたりについてはそこまで知り尽くしているとは言えないので、君たちの意見をうかがいたいなと考えたのだよ。王都の貴族の方々の中には、兵士を道具としかみなさない手合いも多いだろう? だから、いささか心配になってしまったのだよね」
「……それでも、監査官は監査官だ。王命で仕事を果たしに来た監査官が、法を踏みにじるような真似をすると思うか?」
「法と言っても、現在のジェノス侯が新たに打ち立てた、ジェノスの法だからねえ。いにしえから存在する王国の法を踏みにじるよりは、良心の呵責を覚えることもないんじゃなかろうか」
そのように述べながら、カミュア=ヨシュはのほほんと笑っていた。
「そもそも彼らは、ジェノス侯が大きな力をつけすぎることを危惧して、それを掣肘するためにこの地を訪れたんだ。何名かの兵士を犠牲にすることで、その大義を果たすことができるのなら安いものだ――などと考えたりしたら、困ったものだよね」
「…………」
「それに彼らは、森辺の民の存在に大きな危機感を覚えてしまったようだ。たぶん、君たちからの報告を受けて、森辺の民が凄まじい戦士であると知ってしまったものだから、余計に危機感を煽られてしまったのだろうね。兵士10人分の力を持つ狩人が数百名も存在するとしたら、それは数千名の軍勢にも匹敵する。これはますます厄介だと考えて、森辺の民の力を削ぐことにまで注力を始めたようなのだよね」
「ふん。そりゃあ、こんな化け物みたいな連中が何百人もいたら、それだけで脅威だろうさ」
「うん。ジェノスに住まう人間でなければ、森辺の民がどれほど実直で清廉な気性をしているかもわからないからね。ただその戦士としての力量だけを取り沙汰して、恐ろしく感じてしまうのも、しかたのないことなのだろう。とどのつまり、監査官たちは森辺の民こそがジェノス侯に大きな力と自信を与えているのではないか、と疑っているわけだ」
そうしてカミュア=ヨシュは、俺たちのほうにも目を向けてきた。
「それでここからは、俺からの報告だ。本日、ジェノス侯との会合で、監査官たちはまたとんでもない提案をしてきたようだよ」
「とんでもない提案?」
「ああ。森辺の民は森から下ろして、他の領民と同じように扱うべきではないのか、という提案だ。その話は、ドンダ=ルウにもすでに伝えられているはずだよ」
とたんに、アイ=ファが青い瞳をきらめかせた。
「私たちを森から下ろして、どうしようというのだ? まさか、町の人間として生きるべき、などと抜かすわけではあるまいな?」
「うん、そのまさかで当たりだね。彼らはトゥランで働いている北の民を処分して、その代わりに森辺の民を領民にすればいいではないか、などと言い出してきたのだよ」
「北の民を処分って……まさか、罪もない彼らを処刑するわけではないでしょうね?」
思わず俺が口をはさんでしまうと、カミュア=ヨシュはそれをなだめるように微笑んだ。
「処刑するか別の町に売り払うかはジェノス侯におまかせする、という話であったらしい。そうすると、フワノやママリアを育てる人手がなくなってしまうので、その仕事を森辺の民に受け持ってもらえばいい、と、つまりはそういう話であるわけだね」
「馬鹿な。それでは、森にギバがあふれかえってしまうではないか」
「ああ。それは町の人間で自警団でも編成して対処すればいい、と言っていたようだよ。表向きは、森辺の民にばかりギバ狩りという過酷な仕事を担わせるのは不当である、という提案であるわけだからね」
とぼけた表情で、カミュア=ヨシュは肩をすくめている。
「この前の審問ではアスタにばかり矛先が向いたようだけれども、それもけっきょくジェノス侯が森辺の民を操るのに鍵となるのはアスタの存在である、と見なしているからなのだろうね。まったく、厄介な話だよ」
「……だったら、なおさらさっきの話にも信憑性が増してくるのではないでしょうか。森辺の民を怒らせれば、その危険さを主張しやすくなるでしょうからね」
「うん。だから、ドンダ=ルウの冷静な対処は完全に正しかったと思うよ。監査官たちは、こっそり歯噛みしていたかもしれないね」
そうしてカミュア=ヨシュは、あらためてダグたちに向きなおった。
「まあ、話はそんなところだよ。何も証のある話ではないし、現段階では監査官たちを弾劾することもできない。でも、君たちも用心する必要があるのじゃないのかな。用心しておいて、損になることはないだろうからね」
「ふん……だったら、俺たちに下された新しい命令についても、お前はすでに知らされているんじゃないのか?」
ダグの言葉に、カミュア=ヨシュは「うん」とうなずいた。
「君たちは明日、モルガの森に入るそうだね。それで、ギバがどれほどの力を持つ獣であるのかを調査するんだって? まったく、馬鹿げた話だねえ」
アイ=ファがこらえかねたように、「おい」と声をあげた。
「カミュア=ヨシュ、どうしてお前は、そういう大事な話を黙っているのだ? 隠し事はなしだという話であったろうが?」
「ごめんごめん。さっきはアスタの話に夢中になっていたから、ついつい話しそびれてしまったんだよ。……それに、この話もドンダ=ルウには告げられているはずだよ。夕刻、城下町を訪れたときにね」
アイ=ファの怒りを受け流すように、カミュア=ヨシュは眉尻を下げて笑っている。その笑顔をねめつけながら、アイ=ファは不服そうに腕を組んだ。
「ならば、ドンダ=ルウは何故その話を我々に伝えなかったのだ? 森辺の民を町に下ろすという話も、こやつらが森に入るという話も、我々は何ひとつ聞かされていなかったぞ」
「それはまあ、ジェノス侯自身が猛反対している話であったから、ドンダ=ルウもそこまで重きを置かなかったのかもしれないね。もちろん、アイ=ファたちが集落に戻ってからゆっくり話そうというつもりでもあるのだろうけどさ。だって、森辺の民を森から下ろすなんて、そんな話が実現するわけはないだろう?」
「当たり前だ。そのような話、承服できるわけがない」
「それに、森辺の民の他にギバ狩りの仕事がつとまるわけもないしね。自警団などでギバを退けられるなら、そもそも80年前に森辺の民の移住が認められたりもしなかっただろうさ」
そう言って、カミュア=ヨシュはまたダグたちのほうに向きなおった。
「それは君たちも同じことだよ、ダグ、イフィウス。君たちは優秀な兵士だけれども、その刀は敵兵を斬るための刀だ。野の獣を斬るためのものではない」
「ふん。それでも俺たちは、与えられた任務をこなすだけだ。今の俺たちにとっては、ギバという獣が敵なんだよ」
ダグは、火のように目を燃やしていた。
しかしそこには、兵士としての誇りを傷つけられた無念の火までもが燃えているように感じられてならなかった。
そんなダグの様子に気づいたシン=ルウが、わずかに目を細めながら発言する。
「……兵士にギバを斬れと命ずるのは、俺たち狩人に人間を斬れと命ずるぐらい、筋違いの話なのだろうな。お前たちの長は、そのように筋違いの命令を拒むことはできないものなのか?」
「できるわけがない。少なくとも、この地で命令権を持つのは監査官たちだ。部隊長殿がその命令に逆らえば、それは叛逆罪と見なされるだろうよ」
ダグは燃えさかる瞳をまぶたの裏に隠しながら、ふてぶてしく笑った。
「とりあえず、お前たちの話はそれで終わりか? だったら、俺たちは食堂に戻らせてもらう」
「ええ、ですが、ダグ……」
「前にも言ったろう。すべてを決めるのは、貴族たちだ。俺たちは、貴き方々の言葉通りに、忠実な刀として働くしか道はない」
それからダグは、まぶたを閉ざしたまま、黒褐色の髪をかき回した。
「あー……それはそれとして、イフィウスよ、今から俺の言う言葉が王国に仇なすような内容だったら、お前から部隊長殿に報告してくれや」
「…………」
「ファの家のアスタ、監査官の仕事を取り仕切ってるのは、タルオンのほうだ。もうひとりの偉そうにふんぞりかえってる酔いどれ貴族様は、自分でも気づかない内に手の平で転がされてるだけなんだよ」
「おやおや、そうなのかい?」
カミュア=ヨシュが興味深げに身を乗り出したが、そちらには「ふん」と口をねじ曲げるダグであった。
「俺はファの家のアスタに話してるんだ。お前は引っ込んでろよ、《北の旋風》。……とにかく、今回の仕事で道筋を作っているのは、タルオンのほうだ。何かロクでもないことを言い出したのがドレッグのほうだとしても、そいつを裏でけしかけているのはタルオンだ。ま、昼間から酒をかっくらってる酔いどれ貴族様に同情する気はないが、戦う相手を間違えないことだな」
「……わかりました。そのように大事な話を打ち明けていただき、ありがとうございます」
「ふん。お前がいなかったら、俺の大事な部下どもの何人かは足の指を切られていたかもしれねえからな。そいつらの恩も返せないようじゃあ、立派な房飾りを垂らす資格もねえだろうよ」
ようやくまぶたを開いたダグが、横目でイフィウスを見る。
イフィウスは、呼吸音の合間に濁った声を絞りだした。
「わだじにどっでも、ぶがはだいぜづだ……おまえのぎもぢは、いだいぼどわがる……」
「ふん。だったら、お目こぼしをもらえるのかね」
「……ぞれは、ごれがらじっぐりがんがえざぜでいだだぐ……」
「ああそうかい。俺が一兵卒に格下げにでもなったら、せいぜいいいように使ってくれ」
そう言って、ダグは跳ねるような勢いで窓のへりから身を起こした。
「さて、晩餐の続きだな。またギバ料理をたんまり注文させていただくから、生焼けの肉なんか出すんじゃねえぞ」
「はい、承りました」
俺はせいいっぱいの気持ちを込めて、そのように応じてみせた。
今日はとんだ災難に見舞われてしまったが、そのぶん得るものも大きかったのだろう。何かを吹っ切ったように笑うダグの精悍な顔を見つめながら、俺はそんな風に考えることができた。