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異世界料理道  作者: EDA
第三十二章 母なる森と父なる西方神
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緑の月の十三日②~甘い昼下がり~

2017.12/19 更新分 1/1

 その後もとりたてて波乱に見舞われることもなく、俺たちは森辺の集落に帰りついていた。

 本日はルウ家で勉強会をする日取りであったので、トゥール=ディンとユン=スドラを除くメンバーは、先に自分の家へと戻っていく。特に料理の勉強に熱心なその両名は、ルウ家のほうでも勉強会に加わることを許可されているのだ。


 家に戻る荷車のほうにはスドラの狩人が1名だけ同行して、残りの3名はともに残留する。そうして彼らはアイ=ファがギバ狩りから戻るまで、ずっと俺のことを警護してくれるのだ。申し訳なく思うことしきりであったが、たとえ森辺の集落にあっても俺から目を離すべきではない、というのがライエルファム=スドラの主張であった。


「アスタの身に何かあったら、俺たちは悔やんでも悔やみきれないからな。自分たちの心の平穏のために為しているようなものなのだから、アスタが気にする必要はない」


 ライエルファム=スドラは、そのように言ってくれていた。

 ファの家で勉強会をする日でも、彼らはこうして俺のことを警護してくれている。ならば、スケジュールを変える甲斐もないということで、俺は一日置きにルウ家での勉強会を継続させてもらっていた。


 そもそもこのような時期に、料理の勉強会にいそしんでいてよいものか――という思いもなくはなかったが、勉強会を取りやめたところで、他の仕事にいそしむばかりであるので、あまり変わりはない。

 それにマルスタインからも、森辺の民は何も生活をあらためる必要はない、というありがたい言葉をいただいてもいた。それは、森辺の民は現在のままでもジェノスの調和を乱す存在ではない、という事実を監査官たちに知らしめるために、そうするべきなのだという話であったのだった。


「フン! だけど、あんなうじゃうじゃと兵士どもがうろついていたら、こっちもこれまで通りってわけにはいかないけどネ!」


 本家のかまど小屋に向かいながら、そのようにぼやいていたのは、ツヴァイ=ルティムであった。

 3日ほど前、ツヴァイ=ルティムたちは肉の市に参加していたのだ。これで3回目の参加となるその肉の市において、ツヴァイ=ルティムたちはフォウとランの男衆をごっそりと引き連れて、宿場町に向かう事態に至っていたのだった。


 本来であれば、王都の兵士たちは中天ぐらいまで宿屋で眠りをむさぼっている。しかしその日は20名ばかりの兵士たちが広場を訪れて、肉の市に参加する森辺の民の様子を視察していたのだそうだ。

 もちろんそれで、何か揉め事が生じたわけではない。ただ、王都の兵士たちと森辺の狩人たちの姿は、肉の市に参加した人々を少なからずおののかせたはずであった。


「アイツらはいったい、いつまでジェノスに居座るつもりなんだろうネ! 200人もいたら、宿屋に払う銅貨だけでも馬鹿にならないってのにサ! まったく、間抜けな連中だヨ!」


「そうだねえ。旅費と宿泊費だけで、ものすごい金額になっちゃいそうだ。……でも、彼らは視察のついでで、大量の食材も運んできてくれたんだよね」


 ジェノスは王都から、実にさまざまな食材を買いつけている。その大半は、年に一、二度だけ訪れる視察団が運び入れてきたものであるのだ。それ以外では、《銀の壺》や《黒の風切り羽》といった一部のシムの商団が活躍しているぐらいで、ほとんどはこの視察団が頼りであるのだった。


「フン! だったら商売だけして、とっとと帰ればいいのサ。あんな連中、目障りでたまらないヨ!」


 なおもツヴァイ=ルティムが言いたてると、その母であるオウラ=ルティムが優しげな視線を傾けた。


「ツヴァイはアスタのことが心配なのね。大丈夫よ、族長たちがアスタを貴族に渡したりはしないわ」


「なに言ってんのサ! アタシはそんなことを心配してるんじゃないヨ!」


 ツヴァイ=ルティムは、金属的な声音でキイキイとわめきたてた。

 それと同時に、先頭を歩いていたレイナ=ルウがかまど小屋の戸を開ける。


「ああ、お帰り。みんな無事で、何よりだ」


 かまど小屋では、ルウ家の人々が明日のための下ごしらえに励んでいた。

 まとめ役はシーラ=ルウで、ミーア・レイ母さんやララ=ルウ、それにミケルの姿も見える。ミケルは、勉強会のために集まってくれたのだろう。そんな父親の姿を発見すると、マイムは瞳を輝かせて、てけてけと走り寄っていった。


「父さん、戻ったよ。そっちは何も変わりなかった?」


「何もあるわけないだろう。町に下りているお前のほうが、よっぽど危険なのだぞ」


 ミケルは仏頂面のまま、マイムの頭にぽんと手を置いた。

 やはりミケルたちも、すべてがこれまで通りという心情ではいられないのだろう。審問の際、最終的には俺の存在が強く取り沙汰されることになっていたが、ミケルたちとて、監査官たちにあらぬ疑いをかけられてしまった立場であるのだ。


「そっちのほうは、どうだったんだい? 何か変わったことはあったのかね?」


 ミーア・レイ母さんが問うてきたので、俺が説明役を担うことになった。サンジュラについてと、千獅子長ルイドのあやしげな行動についてだ。


「ルイドってのは、兵士たちの長だったっけ? 宿場町では、何かおかしな騒ぎは起きていなかったのかい?」


「はい。商売を終えた帰り道にも、兵士たちの姿をちらほら見かけましたけど、特に普段と変わりはないようでしたね」


 中天には、ダグとイフィウスも屋台を訪れている。しかしその際にも、彼らが普段と異なる様子を見せることはなかったのだった。


(まあ、上官から何か新しい命令を下されていたとしても、それを俺たちにもらすはずはないけどな)


 カミュア=ヨシュたちは城下町に出向いていたので、いちおうテリア=マスに伝言は頼んでおいた。しかし、サンジュラの一件は入り組んでいたので、詳しく話すのは夜になってからだ。


「それじゃあ、ひと通りの話は家長に伝えておくからね。……やれやれ、こんな面倒な話は、とっとと終わってほしいもんだよ」


 そのように述べながらも、ミーア・レイ母さんは力強く笑っていた。

 俺がジェノス侯爵の送り込んだ間諜なのではないのか――という監査官たちの疑惑については、何も隠されることなく森辺の人々に伝えられていたが、それで俺に対する態度を変えるような人間はひとりとして存在しなかった。それどころか、大半の人々は「馬鹿な考えだ」と一笑に付すばかりであったのだった。


 もちろん俺も、それが当然の話だと思っている。監査官たちは、机上の空論を語っているだけであるのだ。俺がどのような形で森辺の民と関わり、どのような形で現在の立場を築いてきたか、それを目の当たりにしていれば、そんな馬鹿げた話がありうるわけはないと理解してもらえるはずであった。


 しかしそれとは別の話で、やっぱり俺は温かい気持ちを抱くことができている。今さらそんな疑惑を持ち出されたところで、決して揺らぐことのない信頼関係を、俺たちは築くことができていたのだ。自分の信頼する人々が、同じように自分のことを信頼してくれている、それが嬉しくないはずはなかった。


「それじゃあ、勉強会を始めようか。今日は、何を教えてくれるんだい?」


「そうですね。これといって、特別な案はないんですけど……逆に、みなさんのほうから何か案などはありませんか?」


 すると、シーラ=ルウがひかえめに手をあげた。


「それでしたら、わたしは菓子の作り方を習いたいのですが……いかがでしょう?」


「菓子ですか。具体的に、何か案はありますか?」


「はい。わたしは、でこれーしょんけーきというものについて学びたいと考えています。以前にもアスタから教えていただきましたが、トゥール=ディンはそれをまたより素晴らしい形で仕上げることができたのでしょう?」


 シーラ=ルウの言葉に、トゥール=ディンは「とんでもありません」と縮こまってしまった。


「わ、わたしはただ、ちょこくりーむを使っただけですので、決してアスタより優れたものを作れたわけでは……」


「でも、トゥール=ディンはアスタよりも巧みにちょこくりーむを作ることができるのでしょう?」


「そうですね。今では、俺がトゥール=ディンに食材の分量を尋ねているぐらいですよ」


 そのように応じてから、俺は一計を案じてみせた。


「それじゃあ今日は、チョコクリームやチョコソースの作り方と、さらにそれを応用した菓子の作り方を研究してみましょうか」


「はい。さらにまた、新しい菓子の作り方を教えていただけるのですか?」


「ええ。トゥール=ディンのおかげで素晴らしいチョコソースを作れるようになったので、それをまた発展させたくなってしまったのですよね」


 縮こまっていたトゥール=ディンが、期待に瞳を輝かせながら、俺を見上げていた。その隣では、ユン=スドラも同じように瞳をきらめかせている。


 ともあれ、まずはチョコクリームとチョコソースのレシピであった。

 トゥール=ディンの述べていく分量を、レイナ=ルウが帳面に書き留めていく。筆と帳面が森辺にもたらされて、そろそろ20日ぐらいという頃合いであるが、ルウ家においてはレイナ=ルウがもっともその文明の利器を使いこなせるようになっていた。


 イメージ的に、俺はシーラ=ルウあたりがこういう作業を得意にするのではないのかと思っていたのだが、レイナ=ルウが意外な適性を発揮してみせたのだ。レイナ=ルウはすでに数字やいくつかの料理名を読み書きできるようになっており、掛け算の九九に関してもなかなかの成績を残しているのだという話であった。


「なるほど。以前にアスタから習ったときよりも、乳脂やカロン乳の量が多くなっているようですね。それに、ギギの葉もそこまで入念にすり潰していたのですか」


「は、はい。ギギの葉も多少は油分を含んでいるようで……入念にすり潰すと、その油分だけでギギの粉がねっとりしてくるのです。そうすると、口あたりがよりなめらかになるような気がして……」


「すごいですね。菓子作りに関しては、トゥール=ディンにまったくかないません」


 レイナ=ルウが笑顔で言うと、トゥール=ディンはまた顔を赤くしてうつむいてしまった。


「それで、今度はどのような菓子の作り方を教えていただけるのですか、アスタ?」


「うん。これまでも、チョコソースをフワノの生地に練り込んだりしていたけど、その比率をもっと高くして、より濃厚な味に仕上げてみたいんだ。俺の故郷では、ガトーショコラと呼ばれていたお菓子だね」


 玲奈はたしか、溶かしたチョコやホットケーキミックスなどを使って、その菓子をこしらえていた。俺は、その再現を目指すつもりであった。


 本当は、チョコレートそのものを作ってみたかったのだが、冷蔵機器のないこの土地においては心もとないし、そもそもチョコレートの作製方法などわかるわけもない。フワノの粉でもぶちこんで日干しにすれば固まるのかな、とも考えたが、それだったらきちんとしたガトーショコラを作ったほうがより建設的なのではないかと思い至ったのだった。


「とりあえず、このトゥール=ディンがお手本で作ってくれたチョコソースで試作品をこしらえてみよう。このチョコソースに乳脂を加えて、同じ重さのフワノの生地を混ぜ合わせるっていう感じかな」


「え、ちょこそーすとフワノの量を同じにするのですか? それは……ずいぶんと甘くなりそうですね」


「うん。それで甘すぎたら、今度はチョコソースの甘さをひかえめにしてみればいいんじゃないのかな」


 そういえば、玲奈もガトーショコラを作る際は、ビターのチョコレートを使っていた気がする。それでも、生地のほうに砂糖を加えていたために、苦すぎる仕上がりにはなっていなかった。


「だから今回は、生地のほうに砂糖を加えないで作ってみようか。フワノにはカロン乳と卵だけを入れて、それをチョコソースに合わせるんだ」


「はい、わかりました。こちらの鍋をお借りしますね」


 トゥール=ディンが率先して、調理に取りかかる。

 熱中すると、普段の気弱さもなりをひそめるトゥール=ディンであった。

 かつては人の目を見て話すことすら難しかったトゥール=ディンであるが、今では北の集落の祝宴をまかされるほどに成長しているのだ。


(そういえば、トゥール=ディンは俺がいない場所でのほうが、すごくしっかり者に見えるって、ディンやリッドの女衆が言ってたっけ)


 そうでなければ、北の集落の祝宴を取り仕切ることなどできないのだろう。

 できれば俺もトゥール=ディンの勇姿を拝見したいところであるのだが、こっそり盗み見するわけにもいかないし、なかなか難しいところであった。


「あー、何やってんの!? もしかしたら、お菓子のお勉強!?」


 と、みんなで試作品をこしらえていると、いきなりリミ=ルウの声が響きわたった。

 見ると、コタ=ルウの手を引いたリミ=ルウが、かまど小屋の入り口に立ちすくんでいる。2歳児のコタ=ルウは、鉄鍋から漂うチョコソースの芳香に、うっとりと目を細めていた。


「ちょこそーすを鉄鍋で煮込んでるの? なんでなんで? 煮込むとどうなるの!?」


「これは、乳脂を混ぜるために少し温めているだけだよ。温めないと、うまく混ざらなそうだったからさ」


「乳脂を混ぜて、どうするの? あんまり脂っこいと、ちょこそーすも美味しくなくなっちゃうでしょ!?」


 リミ=ルウは好奇心の塊となって、今にも飛びかかってきそうな勢いであった。

 しかし、火を扱っている場所にコタ=ルウを連れ込むことはできないので、その場で地団駄を踏んでいる。それに気づいたコタ=ルウは、楽しそうに笑いながら、リミ=ルウの真似をしてぴょこぴょこと飛びはねていた。


「うっさいなー。リミはコタのお守りが仕事でしょ? 危ないから、あっちに行ってなよ」


 ララ=ルウがそっけなく言葉を返すと、リミ=ルウは「だってー!」とその場で飛びあがった。コタ=ルウは、やはり笑顔でその真似をする。


「ったく、お菓子がからむとうるさいんだから……そんなに気になるんだったら、あたしがお守りを代わってあげよっか?」


「えー、いいの!?」


「そこで騒がれるよりはマシだよ。どうせお菓子だったら、リミのほうが上手に作れるんだし」


 と、口は悪いが気の優しいララ=ルウが、コタ=ルウを肩車して立ち去っていった。

 リミ=ルウは「わーい」とはしゃぎながら、かまど小屋に駆け込んでくる。


 そうして心強い援軍を得た俺たちは、あらためてガトーショコラの試作に取り組んだ。

 チョコソースと同じ重さのフワノ粉に卵とカロン乳を加えて、攪拌する。本来はここにココアパウダーなども入れていたはずであるが、その代用品は存在しない。

 卵はいちおう白身を取り分けて、メレンゲ状に仕上げることにした。玲奈がどのように卵を扱っていたかは記憶にないのだが、ただでさえ食感の重いガトーショコラであるので、やはり生地のほうは軽やかに仕上げるべきかと思えたのだ。


「あとはチョコソースと混ぜて、焼きあげるだけだね。これはたぶん、石窯で焼くべきだと思うよ」


 グラタンを作製するときに使用する耐熱の大皿に、生地を流し込む。皿が大きすぎるために生地はずいぶん薄っぺらくなってしまったが、こればかりは如何ともし難かった。


 石窯はかまど小屋の外であるので、俺とトゥール=ディンとレイナ=ルウだけがそちらに移動する。他のメンバーには、今の内に新たなギギの葉を挽いておいてもらうことにした。


「うむ? 石窯を使うのか?」


 と、かまど小屋の外で護衛の役を果たしてくれていたライエルファム=スドラが、けげんそうに振り返ってくる。そのかたわらには、さきほど出ていったララ=ルウとコタ=ルウの姿もあった。


「ええ、この菓子を焼きあげようと思って。ララ=ルウ、コタ=ルウは大丈夫かな?」


「うん。石窯には近づくなって教えてあるからね。……いーい、コタ、あの石窯はあっちっちだからね」


「あっちっちー」と、コタ=ルウは笑顔でうなずいた。

 すくすく大きくなっているコタ=ルウであるが、むしろ大きくになるにつれて感情表現の幅が広くなり、いっそう無邪気に見えるようである。気性でいえば、フォウ家のアイム=フォウよりも活発でやんちゃな感じがした。


「……ライエルファム=スドラのお子さんたちは元気ですか?」


 石窯のセットを終えてからそのように尋ねると、ライエルファム=スドラはコタ=ルウたちのほうに目をやったまま、「うむ」とうなずいた。


「ホドゥレイルもアスラも、元気に育っている。日増しに肉がついて、丸くなっていくようだ」


 それが、スドラ家に生まれた双子たちの名前であった。

 ホドゥレイル=スドラが男児で、アスラ=スドラが女児だ。ホドゥレイルは古い言葉で「折れない剣」という意味であり、アスラは――森辺で使われる名前でもっとも俺の名前に響きが似ているものを選んだ、という話であった。


「アスタのように立派なかまど番になれることを願って、そのように名づけました。許していただけますか?」


 以前、ユン=スドラを送りがてらスドラの家に寄った際、リィ=スドラはそのように言ってくれていた。

 もちろん俺に異存などあるはずもなく、こぼれそうになる涙をこらえるのが大変なほどであった。


「……あのルウ家の幼子は、2歳だという話だったか?」


「はい、俺はそう聞いています」


「わずか2年で、あそこまで育つものなのだな。俺は――自分の家であそこまで幼子が育つ姿を見たことがないのだ」


 ライエルファム=スドラの言葉は、さまざまな感情をともなって、俺の胸にしみいった。


「そういえば、収穫祭を迎えるのには、まだしばらく時間がかかりそうだという話だったな」


「ええ。ファとフォウとランの狩り場では、けっこう森の恵みが残されているようですね。やっぱり猟犬のおかげで、効率よくギバを狩ることができているのでしょうか」


「きっとそうなのだろう。ディンとリッドはそろそろ森の恵みも尽きてしまいそうなので、そうしたらスンの狩り場に出向くつもりだと話していた」


 これまでは、数日置きにスドラの狩人がスンの狩り場まで出向いていた。しかし、こうして護衛役の仕事を果たすために、そちらの仕事からはいったん手を引くことになってしまったのだ。


「あちらでは、リッドとディンの血族たるハヴィラとダナの狩人も姿を見せるようになったからな。ジーンともども、絆を深めるのによい機会となるだろう」


「ハヴィラとダナですか。その氏族の人たちとは、まったく交流がないのですよね」


「あいつらは、スンよりも北寄りに住んでいるからな。俺もこれまでは、家長会議ぐらいでしか顔をあわせることはなかった。なかなか気のいい連中であるようだったぞ」


 そのように語るライエルファム=スドラの横顔は、ずいぶん真剣な表情をたたえているように感じられた。


「アスタと出会い、トトスや猟犬を扱うようになって、森辺の民はこれまで以上に強く正しく生きることができるようになった。王都の貴族たちは、どうしてそのことが理解できぬのであろうな」


「それはやっぱり……理解しようという気持ちが足りないためではないでしょうか。彼らは最初から、俺が悪巧みをしていると決めてかかっていたようでしたからね」


「まったく、馬鹿げた話だな。アスタがどれほど懸命に生きてきたか、王都の貴族どもは何ひとつわかっていないのだ」


 そうして俺はライエルファム=スドラと言葉を交わしながら、ガトーショコラが焼きあがるのを待ち続けた。

 それが完成したのは、およそ15分後――鉄の戸を引き抜いて、石窯から大皿を取り出すと、えもいわれぬ芳香が周囲に解き放たれた。


「すごい香りですね! 香りだけで甘さを感じてしまいます」


 レイナ=ルウは楽しげな声をあげており、トゥール=ディンは真剣な眼差しで大皿の中身を見つめている。

 チョコソースを練り込んだフワノの生地は、見事な黒褐色に焼きあがっていた。もともと黒褐色ではあったものの、そこにさらに焼き色がついて、いかにも香ばしい匂いをかもしだしている。これまでさまざまな焼き菓子をこしらえてきた俺たちでも、香りの強烈さは群を抜いているように感じられた。


「うわー、すごいね! あたしとコタにも味見させてよ?」


「うん、少し冷まさないといけないから、そこで待っててね」


 かまど小屋に帰還すると、そこでも歓声が巻き起こった。

 リミ=ルウとユン=スドラなどはもう、期待ではちきれんばかりになってしまっている。


「やっぱりちょこそーすの分量が多いためか、普通の焼き菓子ほどふくらまないようですね」


「そうだね。食感も、かなり重ためだと思うよ」


 しかし、それこそがガトーショコラの醍醐味であろう。それが森辺の民の好みと合致しないようならば、チョコの分量を抑えて、もっと軽めのチョコケーキを目指すしかあるまい。


 とりあえず数分ほど放置して、粗熱が取れたのちに、皿の底を水につけて、さらに冷却する。それで人肌ぐらいの温度にまで冷ましてから、俺たちはいざ調理刀を取り上げた。


 刀を差し込むと、やはり感触が重い。端から端まで切り終えて、刀を引き抜くと、刀身にはねっとりと黒褐色の生地がまとわりついていた。


「完全に固まりきっていないようですね。火にかける時間をもっと長めにするべきだったでしょうか?」


「いや、とりあえずはこれぐらいで問題ないと思うよ。俺としては、理想に近いぐらいだね」


 チョコの分量を抑えずとも、あまり火にかけすぎると粘度が失われて、通常のケーキに近い仕上がりになってしまうのだ、と玲奈が言っていた覚えがある。ガトーショコラを作る際には、火加減が重要であるようなのだ。


 ともあれ、皿の中の生地を切りわけていく。勉強会には十数名のかまど番が参加していたので、ひとり頭の分量はふた口ずつぐらいにしかならなかった。


「中身も、ほとんど変わらない色合いですね。このように真っ黒なのに、ものすごく甘そうです」


「うん。これまでに作ってきた菓子の中でも、一番甘いと思うよ。でも、あくまで試作品だから、そのつもりでね」


 そうして俺たちは、ついにガトーショコラを口にすることになった。

 想像通り、猛烈に甘い。それに、火にかけたことによって、カカオめいたギギの風味がこれでもかというぐらいに強調されていた。

 食感も、ずしりと重い。俺が知るガトーショコラに負けない重量感である。チョコと生地の分量を同等にすれば、これが当然の結果であるのだ。


 俺としては、やはり甘さが強すぎるかな、という感想であった。

 食感が重いので、その甘さがくどすぎるように感じられてしまう。もう少し甘みを抑えたほうが、ギギの風味もなお活かされるのではないかと思えた。


 だけどそれ以外は、及第点だ。とりあえず、ガトーショコラとしての体裁は保たれているし、不味いことはまったくない。ねっとりとした重い食感も、ガトーショコラの再現という意味においては大成功であると言えよう。これで卵をメレンゲ状にしていなかったら、さすがに重すぎる食感になってしまっていたはずだ。


「どうでしょうね。俺が目指したものは、おおよそ再現できたと思うのですが――」


 そう言って、みんなのほうを振り返ると、およそ2種類の表情が待ち受けていた。

 そのうちのひとつは驚嘆の表情、もうひとつは陶酔の表情である。


「いやあ、あまりに甘くてびっくりしちまったよ。砂糖や蜜をそのままなめたって、ここまで甘いことはないような気がするねえ」


 驚嘆の表情を浮かべたメンバーの代表として、ミーア・レイ母さんがそのように述べたてた。レイナ=ルウやシーラ=ルウ、ツヴァイ=ルティムやヤミル=レイなども、こちらのグループである。


「でも、すっごく美味しいよ! リミはこのお菓子、大好き!」


 いっぽうで、リミ=ルウやユン=スドラを筆頭とする半分ぐらいのメンバーは、うっとりと目を細めてガトーショコラを味わっていた。かまど小屋の入り口で試食に臨んでいたコタ=ルウもまた同様である。

 そんな中で、ひとり難しい表情をしていたのは、トゥール=ディンであった。


「確かに、美味だと思います。……でも、ちょっと甘さが強すぎるのではないでしょうか?」


「えー!? リミは、美味しいと思うけど!」


「はい。だけど、これを普通のほっとけーきなどと同じぐらいの量を食べたら、胸が悪くなってしまいそうな気がします。ただ甘いばかりでなく、食感もとても重たいので……」


 そのように述べるトゥール=ディンの木皿には、まだ半分ていどのガトーショコラが残されていた。ひと口だけで、トゥール=ディンはそういった結論に至っていたのだ。


「もちろん、実際にその量を食べてみないと、確かなことは言えませんが……アスタはどのようにお考えですか?」


「うん、俺も同じ意見だよ。そもそも俺の故郷でも、ガトーショコラってのは重たいお菓子だから、ホットケーキほどの量は食べたりしないんだよね。でも、それを差し引いたとしても、もっと甘みを抑えたほうが理想的だと思う」


「そっかー。そしたら、ギギの葉で苦くなっちゃったりしないかなあ?」


「もちろん苦くなりすぎないように調整が必要だね。砂糖だけじゃなく、乳脂の分量なんかも変えてみたらどうかな」


「そうですね……それに、本来はフワノのほうにも砂糖を入れるはずだったというお話でしたね?」


「うん。俺の故郷では、そうやって作られていたね。もともとチョコのほうが苦めのものを使っていたからさ」


「もしかしたら、同じ量の砂糖を使うとしても、ちょこに使うかフワノに使うかで甘さの質が変わるのかもしれません。おもいきって、ちょこそーすのほうをうんと苦めにして、そのぶんフワノに砂糖を加えてみましょうか」


 トゥール=ディンは、とても真剣な表情になっていた。

 もともとかまど番の仕事には真剣なトゥール=ディンであるが、こと菓子作りに関すると、さらに磨きがかかるように思える。そしてそれは、オディフィアとの絆が深まるごとに、より顕著になっていくように思われた。


(オディフィアに美味しいお菓子を届けたいっていう気持ちが、いっそうトゥール=ディンを熱心にさせているんだろうな)


 そんな風に考えながら、俺はトゥール=ディンに笑いかけてみせた。


「それじゃあ、次の試作品に取りかかろうか。砂糖の分量に関しては、トゥール=ディンにお願いするよ」


「はい。それじゃあ、まずはちょこそーすに使う砂糖を半分にしてみましょう。それで、その分の砂糖を入れたフワノと、半分の砂糖を入れたフワノと、砂糖を入れないフワノで、味を確かめたいと思います」


「了解。それじゃあ、まずはギギの葉を――」


 と、言いかけたところで、「アスタ!」という緊迫した声があがった。

 振り返ると、入り口のあたりにライエルファム=スドラが立ちはだかっている。


「王都の兵士たちが、ルウの集落にやってきた。人数は、50名ほどもいるようだ」


「何だって?」と応じたのは、ミーア・レイ母さんだった。

 その目が、強い輝きをたたえて、レイナ=ルウのほうを見る。


「レイナ、あんたたちはここを動くんじゃないよ。あたしが事情を聞いてくるからね。ララ、火は使ってないから、あんたもコタと一緒にここにいな」


「うん、わかった」と、コタ=ルウを抱えたララ=ルウが踏み込んでくる。それと入れ替えで、ミーア・レイ母さんはかまど小屋を飛び出していった。


「アスタは、俺たちとともにいろ。やつらの目的は、アスタをさらうことかもしれんからな」


「わ、わかりました。でも、どうして王都の兵士たちが、森辺の集落に――」


 そのように答えながら、俺はサンジュラの言葉を思い出していた。

 きっと千獅子長ルイドは、ダグたちにこの命令を下していたのだ。


(でも、俺がルウ家にいるなんてことを、王都の連中が知るわけはない。それじゃあ、目的は最初からルウ家だったのか?)


 得体の知れない不安感に見舞われながら、俺はライエルファム=スドラのもとに駆け寄った。


「ライエルファム=スドラ、俺は兵士の指揮官たちと言葉をかわしたことがあります。ミーア・レイ=ルウと一緒に、彼らの言葉を聞くべきではないでしょうか?」


 ライエルファム=スドラは一瞬だけ迷うように目を伏せてから、「そうだな」とつぶやいた。


「相手の目的がわからなければ、こちらも動きにくい。いざとなったら、森に逃げ込んで目をくらまそう。……いいか、絶対に俺のそばを離れるのではないぞ」


「はい」とうなずき、俺もまたかまど小屋を飛び出した。

 その頃には、もう広場のほうから穏やかならざるざわめきが伝わってきていた。

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