緑の月の九日④~信ずる道を~
2017.12/4 更新分 1/1 ・2023.1/2 誤字を修正
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「俺が……ジェノス侯爵の送り込んだ間諜ではないか、と仰るのですか」
心ならずも、俺の声はうわずってしまっていた。
「でたらめの出自を口にして、森辺の民に取り入って、トゥラン伯爵家を陥れるための役割を担ったのではないかと……そんな風に仰っているのですね?」
「はい。森辺の集落において、スン家とルウ家は対立していたのでしょう? そこであなたはルウ家の味方となり、スン家を滅ぼすことで、より強い信頼を勝ち取った。そうして今度は満を持して、トゥラン伯爵家を失脚に追い込んだわけです」
虫も殺さないような微笑をたたえながら、タルオンはそのように述べていた。
「間諜役に選ばれるのが料理人、というのは、いささか奇妙な人選ではありますが……しかし実際、あなたはその手腕で森辺の民の頑なな心を開くことに成功したようですしな。そう考えれば、実に適切な人選であったわけです」
「いや、だけど――!」
「そしてまた、この場に集められた者たちは全員、あなたと縁を結ぶことで自分たちの役割を演じることになりました。唯一の例外はマサラのバルシャですが、彼女はカミュア=ヨシュの手によってジェノスに連れてこられたのですから、何も不都合はありません。カミュア=ヨシュとあなたこそが、トゥラン伯爵家を失脚させるための、とっておきの刀であったのでしょう」
胸の中が、苦しいぐらいにざわめいていく。
そんな中、タルオンは得々と語り続けた。
「確かにトゥラン伯爵家とスン家は過去に大罪を犯していたのでしょう。ジェノス侯爵は、それを効果的に暴きたてることによって、トゥラン伯爵家を失脚させ、残る伯爵家を掌握したのです。その中で、トゥラン伯爵家と繋がっていたスン家を失脚させると同時に、森辺の民をジェノス侯爵の陣営に引き入れるのが、あなたの役割であった――違いますかな、アスタ?」
「違います! 俺は――!」
と、俺は思わず腰を浮かせかけてしまった。
その腕が、横からふわりとつかみ取られる。
振り返ると、アイ=ファがとても優しげな表情で俺を見つめていた。
「昂ぶるな。我らは、真実を語るのみだ」
アイ=ファの青い瞳には、ひとかけらの疑念も浮かんではいなかった。
そのやわらかい眼差しで、俺の心は急速に落ち着きを取り戻していく。
「まさか、あなたがたがそのような疑いを抱いているとは、夢さら思っていなかった。しかし、思い起こせばサイクレウスたちも、かつては同じような言葉を口にしていたな」
「ほう、トゥラン伯爵家の先代当主が、我々と同じような言葉を?」
「うむ。あやつは、北の民を奴隷として使うサイクレウスを失脚させるために、カミュア=ヨシュとアスタがジェノス侯爵や森辺の民をたぶらかしたのではないか、などと述べていた。しかし、あやつは実際に罪を犯していたのだから、それを隠すために讒言をでっちあげたにすぎん」
そう言って、アイ=ファは強い光をたたえた瞳で、タルオンを真正面からにらみすえた。
「確かにアスタとカミュア=ヨシュは、人を動かす大きな力を有しているのだろう。それゆえに、そうした疑いを招いてしまうこともあるのやもしれんが……しかし、それは完全なる思い違いであると言わせていただこう」
「ほう。あなたにはそれを証明することができるのでしょうかな、アイ=ファ?」
「証明もへったくれもない。私たちは、アスタがそんな卑劣な人間ではないということを知っているのだ」
落ち着いた口調で、アイ=ファはそう言いたてた。
「あなたがたはジェノス侯爵を貶めたいがために、真実を見失ってしまっているのであろう。そもそも、アスタがそのような役割を担わされていたのならば、私の前に現れるわけがない。最初から、ルウ家の集落を訪れていたはずだ」
「しかし結果として、アスタはあなたを通じてルウ家と縁を結んでおりますな」
「私とルウ家の縁は、ほとんど切れかけていた。また、私とルウ家に縁があったことを知る者は、森辺においても数えるほどしか存在しない。それでは、わざわざファの家を選ぶ理由もなかろう」
「……あるいは、どの家の人間に拾われたとしても、どうにかしてルウ家に取り入ろうと考えていたのやもしれませんな」
アイ=ファは激昂するどころか、タルオンを憐れんでいるかのような眼差しになっていた。
「それでも私たちは、真実がどうであったかを知っている。アスタはただ、人々の喜びのために尽力しているのだ。森辺の民ならず、宿場町の民でも、城下町の民でも、それを疑う人間はひとりとして存在しないだろう。私は、そう信じている」
「ふん。情にほだされた女の言葉など聞いていても、背中がむずがゆくなるだけだ」
しばらくタルオンに出番を譲っていたドレッグが、酔いで濁った目をアイ=ファと俺に突きつけてくる。
「お前が何をほざこうとも、そのアスタという男が胡散臭いという事実を動かすことはできん。お前たちは、知らず内にジェノス侯爵の道具に成り下がっていたのだろうさ。東の王国シムを後ろ盾にして、ジェノスを独立させようという、大がかりな謀略の手駒にされていたのだ」
「……ひとつ、疑問、あるのですが」
と、ふいにシュミラルが発言した。
ドレッグは、うるさそうにそちらを振り返る。
「森辺、新たな道、切り開き、シムの商売、大きく広げる。それもまた、謀略のひとつ、お考えなのですか?」
「無論だな。それを提案したのは東の民であるというのだから、なおさら疑う余地はあるまい」
「そうですか。しかし、ジェノス、独立すれば、西の領土、通商、禁じられる、違いますか?」
シュミラルは、とても静かに言葉を重ねていった。
「また、シム、独立、手助けすれば、ジャガルの民、ジェノス、見捨てる、思います。そうすれば、ジェノス、シムしか、商売すること、できません。ジェノス、豊かな土地であるのに、きっと、衰退するでしょう」
「……ふん。だったら、シムの8つ目の藩として名乗りをあげるつもりなのではないのか?」
「セルヴァ、捨てて、シム、領土、なるのですか? ジェノス侯爵、ジェノス藩主となり、何か、嬉しいこと、あるのでしょうか?」
ドレッグは、ついに黙り込んでしまった。
タルオンは、にこやかに目を細めつつ、シュミラルを凝視している。
「また、新たな道、切り開いても、シム、遠いです。トトス、ひと月半、かかるでしょう。しかし、ジャガル、トトス、半月です。ジェノス、ジャガル、とても近いのです。ジェノス、シムの領土、なったら、ジャガル、侵攻、考える、違いますか?」
「……なるほど、それは一理あるのやもしれませんな」
タルオンが、ゆったりとした口調でそう言った。
「確かにジェノスがシムを後ろ盾とするには、さまざまな障害がつきまとうようです。むろん、それに対しても何らかの策を立てているという可能性は否めませんが……現状では、あまり現実味のない話であるのかもしれませんな」
シュミラルは、長い弁舌をわびるように一礼した。
タルオンは、俺のほうに視線を移しながら、「しかし」と続ける。
「シムの後ろ盾があろうとなかろうと、ジェノスが独立を目論んでいるという可能性もまた、捨てることはできませんし……たとえ独立を目論んでいなかったとしても、トゥラン伯爵家を計画的に失脚させたという可能性も捨てきれないのです」
「……しかし、トゥラン伯爵家は実際に罪を犯していたのだから、それを裁くのは正しき行いであろう?」
辛抱強くアイ=ファが述べたてると、タルオンは「そうですな」と目尻に皺を寄せた。
「ともあれ、我々の前にはひとつの大いなる謎が転がっております。それはすなわち、あなたの存在です、アスタ」
「……はい。後ろめたいことは何もありませんが、みなさんをお騒がせしてしまったことは申し訳なく思っています」
「ほほ。カミュア=ヨシュもまた一筋縄ではいかない存在でありますが、あの人物は素性も知れております。マヒュドラとの混血であり、北方神から西方神に神を乗り換えたという、きわめて特殊な素性でありますが……現在ではまぎれもなく西の民であり、《守護人》としての認可も受けているのですから、何もあやしむところはありません」
「しかしお前は、出自すら明らかにされていない。お前の正体を暴くことさえできれば、ジェノス侯爵の思惑も知れることだろう」
そう言って、ドレッグが新しい果実酒に口をつけた。
「ずいぶん時も移ってきた。この後は、お前の審問に絞らせてもらおう」
「そうですな。他の方々には、お引き取りを願いましょうか」
監査官たちの言葉に、バルシャたちがざわめいた。
アイ=ファは、すっとまぶたを半分だけ下げる。
「それならば、私はファの家の家長として同席を求めたい」
「同席は、無用です。あなたは集落にお帰りください、アイ=ファ」
「……アスタを置いて帰ることはできん。同席が許されないならば、扉の外で待たせていただく」
「それも無用です。審問には、何日かかるかもわかりませんからな」
俺は思わず、息を呑んでしまった。
アイ=ファは半眼のまま、青い瞳に刃のような輝きをたたえる。
「待たれよ。まさか、アスタをこのまま城下町に留めおく、という意味ではなかろうな?」
「後ろ暗いところがないならば、何も心配する必要はありません。罪人でもない人間を鞭で打つことはないと、ここでお約束いたしましょう」
タルオンは、にこにこと微笑んでいる。
アイ=ファは顔色も変えぬまま、ただ爛々とその目を燃やし続けた。
「ファの家長として、そのような行いを許すことはできん。それでもアスタを城下町に留めようというのならば、私もともに残らせていただく」
「これだから、情に狂った女などというものは手に負えん。お前などに用事はない、と言っているのだ、森辺の女狩人よ」
ドレッグは小馬鹿にしきった顔つきで、手の先をひらひらと振った。
「そいつの正体が判明したならば、すぐにでも集落に戻してやろう。お前の見初めた男が卑劣な裏切り者でないことを祈りながら、大人しく待っているがいい」
「いや、その言葉にだけは従えない」
アイ=ファはいまだに表情も変えていなかったが、その全身には裂帛の気合がみなぎっているように感じられた。
それに反応したのか、ずっと素知らぬ顔でうずくまっていた獅子犬が起き上がり、ぐるるる……と地鳴りのような声をあげ始める。
「ほう、俺たちの言葉に逆らうつもりか」
むしろ愉快げに言いながら、ドレッグは口もとをねじ曲げた。
そして、椅子の背に掛けていた獅子犬の鎖に手をかける。
「ここで蛮族としての本性をあらわにしてくれるのならば、それも一興だ。もう一度言うぞ、アスタを置いて、集落に戻れ」
「断る」と、アイ=ファは言いきった。
そして、青く燃える瞳を獅子犬に差し向ける。
「お前も、大人しくしているがいい。私は、犬と争うつもりはない」
獅子犬は、その潰れ気味の鼻面に凶悪な皺を寄せて、うなっていた。
しかし、アイ=ファに見据えられていると、やがてじりじりと後ずさり、ふさふさの尻尾を足の間に隠してしまう。
「こいつは驚いた! まさか、獅子犬をひるませるとはな。それでは、いよいよ兵士たちの出番か」
左右の壁際に立ち並んだ兵士たちは石像のように微動だにせず、ただ主人からの命令を待っていた。
そんな中、アイ=ファは熾烈な眼光を監査官たちに突きつける。
「私を、罪人として捕らえようというのか? それでは問うが、私はどのような罪を犯したのだ?」
「何を言っている。お前はたった今、俺たちの命令に背いただろうが?」
「私は、あなたがたの命令を受ける立場ではない。私の長は森辺の三族長であり、森辺の民の君主は、ジェノス侯爵だ」
「ふん。俺たちは、そのジェノス侯爵の君主である国王陛下の代理人としてこの場にあるのだ。俺たちの命令に背くのは国王陛下のお言葉に背く行いであり、それは重大な叛逆罪であろうが」
「……では、ジェノス侯爵も同じ命令を私に下すのか?」
アイ=ファは挑むように、マルスタインをねめつけた。
綺麗に整えた口髭をひねりながら、マルスタインは「ふむ」と微笑む。
「それでは、私からもひとつだけ問わせてもらおう。ファの家のアスタよ」
「は、はい」
「其方が自分の素性を語ったのは、かのサイクレウスが罪人として処断された頃だ。あれからずいぶん長きの時間が過ぎていったが、何かつけ加えるべき話はあるか?」
「いえ、何も……強いて言うなら、占星師の人たちが俺のことを《星無き民》と呼ぶことぐらいでしょうか」
アリシュナはジェノス侯爵の客人であるはずなので、いちおう俺はその件を告げておくことにした。
笑顔でこの問答を見守っていたタルオンは、「《星無き民》……?」とうろんげにつぶやいている。
それを横目に、マルスタインは気安く微笑んだ。
「占星師か。あれは余興として楽しむものであり、私は重きを置く気持ちにはなれん。それでは、新たな記憶が蘇ったり、自分の記憶違いに気づかされたり、ということは一切ないのだな?」
「はい、ありません」
「そうか」と、マルスタインはうなずいた。
「ならば、其方をこれ以上問い詰めても、有益な話を聞くことはかなわぬだろう。同胞とともに、森辺へ帰るがいい」
「何を言っているのだ、ジェノス侯爵よ。俺たちの審問は終わっておらぬぞ」
ドレッグが憎々しげに声をあげると、マルスタインは「ふむ?」と首をひねった。
「それならば、審問を続けていただきたい。それが夜半まで及ぼうとも、彼らが文句の声をあげることもなかろう。……ただし、あなたがたが眠りにつく頃には、彼らを森辺の集落に戻すべきであろうな」
「……お前は、何を考えているのだ? 俺たちは、国王陛下の代理人であるのだぞ?」
「確かに貴方がたは、国王陛下からの命によってジェノスにまでおもむかれた監査官だ。しかし、国王陛下に全権を委任されているわけではなかろう? それとも何か、ジェノス侯爵たるこの私に命令を下すことのできる特権でも与えられているのだろうか?」
ドレッグは、血走った目でマルスタインをねめつけていた。
タルオンが、「ほほ」とわざとらしい声をあげる。
「確かに我々はジェノス侯爵に命令を下せるような立場にはございません。しかし、監査官としての使命をまっとうするべく、尽力しておるのです。何故にジェノス侯爵は、アスタを城下町に拘留することに肯んようとなさらないのでしょうかな?」
「それは私が、ジェノスの領主であるからだ。領主として、領民の安寧を守るのは当然の行いであろう」
「……我々が、不当な手段でアスタを責め苛むとでも?」
タルオンもマルスタインも、穏やかな笑顔のままである。
それは何だか、古狸と化け狐のにらみあいのごとき様相であった。
「貴方がたがそのような暴虐を働こうなどと心配しているわけではない。私の言う領民とは、宿場町と森辺の集落に住まう民たちのことだ」
「宿場町と森辺の集落の民……? それは、どのような意味でありましょうか」
「このアスタを幾日も城下町に留め置けば、それらの民たちの安寧を脅かすことになる。簡単に言うと、多くの領民が城門に押し寄せてきかねない。それこそ、トゥラン伯爵家のリフレイア姫がアスタをさらったときのようにな」
そう言って、マルスタインは楽しそうに口角をあげた。
「もっとも、私もその光景を見たわけではないのだが……あの夜は、ずいぶんな騒ぎであったのだろう?」
「はい。およそ100名ていどの領民が城門に押し寄せていたと聞いています」
この場において、初めてメルフリードが口を開いた。
「100名か」と、マルスタインはうなずく。
「今回は、そのていどの人数では済むまいな。500名か、1000名か……アスタに縁のある領民たちが、怒りに燃えて押し寄せることだろう」
「では、領民の怒りを恐れて、道理をねじ曲げると?」
「道理があれば、領民たちが怒ることもない。道理がないから、そのように無法な真似はできないと言っている」
あくまでも穏やかに、マルスタインはそう述べたてた。
「アスタに何か罪を犯したという疑いでもあれば、それを審問するために拘留を命じるというのは、王国の道理だ。しかし、現在のところ、アスタにそのような疑いはあるまい? 仮にアスタが私の間諜であったところで、やったことといえば罪人の糾弾だ。アスタ自身は、何の罪も犯してはいない」
「いや、しかし――」
「言っておくが、これはジェノスの安寧、ひいては王国の安寧を願ってのことであるのだ。貴方がたには、そのことが理解できていないらしい」
マルスタインは、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「貴方がたは、いわれなき疑いをかけて、アスタを拘留しようとしている。それを知った領民たちが、誰に怒りを覚えるか、それを考えていただきたい。私の不甲斐なさを責めたてる者も少なくはないだろうが、それ以上に、王都から訪れた監査官たちがアスタを不当に扱っているのだ、と怒りに燃えることだろう。あなたがたは、ジェノスが叛旗をひるがえすことを憂慮しているのに、自らジェノスの民を敵に回すおつもりか?」
「なるほど……つまりはどうあっても、俺たちの命令に従うつもりはない、ということだな?」
物騒な感じに両目を光らせながら、ドレッグがそう問うた。
マルスタインは、静かにそれを見つめ返す。
「私は自分にかけられた疑いを晴らすために力を尽くしたいと考えている。貴方にも、いつか真意が伝わると信じているよ、ドレッグ殿」
ドレッグは、椅子を蹴って立ち上がった。
その顔には、敵意に満ちた笑みが浮かべられている。
「お前のやり口は理解した。俺たちも、然るべき手段で真実を見極めさせていただこう」
「ああ。貴方の目に真実が映る日を、心待ちにしている」
ドレッグは最後に俺たちをひとにらみしてから、足取りの重い獅子犬を引き連れて、帳の向こうへと消えていった。
タルオンも、「ほほ」と笑い声をあげながら、立ち上がる。
「それでは、わたしも失礼いたします。いったいどのような真実が隠されているのか、楽しみにしておりますよ」
「真実は、あるがままの姿でさらけ出されている。あとは、何も隠されていないということを知るだけだ」
タルオンはうやうやしく一礼して、ドレッグの後を追っていった。
マルスタインは、「さて」と俺たちのほうを振り返る。
「あの御仁らが気を変えない内に、其方たちもあるべき場所に戻るがいい。本日は、手間をかけさせてしまったな」
俺たちはそれなり以上に混乱していたが、マルスタインの言葉に従うしか道は残されていないように思えた。
そうして扉の外に出てみると、ドンダ=ルウとダン=ルティムのかたわらに、見慣れた人々が立ちつくしている。その片方が、「おお!」と大きな声をあげて、真っ先に駆け寄ってきた。
「意外に早かったね! 今、ドンダ=ルウ殿たちにも事情を話していたところなのだよ!」
それは、ポルアースであった。
もう片方は、カミュア=ヨシュである。
カミュア=ヨシュは、いつものとぼけた表情で「お疲れさま」と手を上げてきた。
「おふたりは、こちらにいらしたのですね。いったいどうしたのですか?」
「だから、ドンダ=ルウ殿たちに事情を話していたのだよ! ジェノス侯が、ようやく心を定めてくれたからね!」
そのようにのたまうポルアースは、ふくよかなお顔にとびっきりの笑みをたたえていた。
「今日の朝、僕もジェノス侯に呼びつけられたのだよ。森辺の民を含む領民たちのために、最善の道を探したい。そのために、どうか力になってくれってね。いやあ、今朝まではジェノス侯の本心が読めなかったので、僕もハラハラしていたのさ。これで、心置きなく職務に励めるよ!」
「職務、ですか?」
「ああ。僕の仕事は外務官の補佐と、森辺の民との調停役の補佐だからね! 王都の人々のいわれなき疑いを晴らすために、全力で駆け回る所存だよ!」
さきほどまでの暗鬱な空気を吹き飛ばすような、ポルアースの笑顔であった。
後ろのほうでは、ダン=ルティムがガハハと笑っている。
「よくわからんが、ジェノスの領主は領主としての仕事を果たそうとしておるのだな。スン家の連中のように性根が腐っていなかったのは、何よりだ!」
「うむ。私もようやく、心からジェノス侯爵を君主と認めることができそうだ」
そのように応じたのは、アイ=ファであった。
バルシャやマイムたちの表情にも、ようやく安堵の表情がひろげられている。
それを確認してから、俺もアイ=ファに笑いかけてみせた。
「さっきはどうなることかと、ひやひやしたよ。でも、アイ=ファはずっと冷静だったな」
「うむ。腹の中は、怒りで煮えくりかえっていたがな」
そう言って、アイ=ファは可愛らしく口をへの字にした。
「だいたい、あの侯爵家の父子は、心情を隠しすぎるのだ。途中までは、敵か味方かを判ずることもできなかったぞ」
「うん。だけどまあ、俺たちを信じて口をつぐんでいたのかもしれないな」
俺たちがそのように語らっていると、カミュア=ヨシュがひょこひょこと近づいてきた。
「何はともあれ、最初の囲みは突き破れたようだね。最後には、監査官たちとも笑顔でお別れできるように、せいぜい力を尽くそうじゃないか」
「それはなかなか、高い目標ですね。……ちなみに審問では、俺がジェノス侯爵の間諜じゃないかとか言われちゃったんですけど、カミュアはそのことをご存じだったのですか?」
「うん、もちろん。俺がジェノス侯の命令で、どこかの町からアスタを引っ張ってきたんじゃないか、とか問い詰められたりしたからねえ。……まあ、そんな前情報は余計と思ったから、アスタたちには何も言わなかったけど」
アイ=ファは不満げに眉をひそめたが、俺はついつい笑ってしまった。
「きっとカミュアとジェノス侯爵は、そういう部分で気が合うのでしょうね」
「うん、まあ、そうなのかもしれないね」
カミュア=ヨシュは、もともと下がっている目尻をさらに下げて、にんまりと笑った。
「それじゃあ、そろそろ失礼しようか。俺も宿場町に用事があるので、途中までご一緒させていただくよ」
「ふん。また何かを企んでいるような顔つきだな」
そう言って、ドンダ=ルウまでもがこちらに近づいてくる。
「この際は、何でも明け透けに語ってもらおう。族長の中には俺よりも気の短い人間がいるということを忘れるなよ、カミュア=ヨシュ」
「はいはい。ザザ家のグラフ=ザザですね。大丈夫ですよ。ジェノス侯のお気持ちが固まったのならば、もはや案ずることもありません。ともに手を携えて、この苦難を乗り越えようじゃありませんか」
カミュア=ヨシュは、あくまでも陽気であった。
ただその紫色の瞳には、奇妙に老生した透明な光が宿っている。
「以前と比べれば、ジェノスの内には確かな絆ができあがっています。森辺の民を含むジェノスの民が一丸となれば、このような苦難は何ほどのものでもないでしょう。俺なんてもう部外者中の部外者に過ぎませんが、ジェノスに住まうたくさんの友人たちのために、なけなしの力をふるわせていただく所存でありますよ」
「ふん……」と鼻を鳴らしながら、ドンダ=ルウは俺とアイ=ファのほうに向きなおってきた。
「いつ草笛が鳴らされるかと待ちかまえていたが、貴様も短慮を起こさずに済んだようだな、アイ=ファよ」
「うむ? 何の話であろうか?」
「アスタがジェノス侯爵の手先であるなどという馬鹿げた話を聞かされたのだろうが? よくもまあ、怒りで我を失わなかったものだ」
ドンダ=ルウが、野獣のように、にやりと笑う。
つまりは、ドンダ=ルウも怒り狂っていたのかもしれない。
「あの王都の貴族どもは、つくづく俺たちのことがわかっていないらしい。あいつらは、森辺の民に森と氏を捨てるように命令しようと画策していたという話だ」
「ふむ。確かにそれを匂わすような言葉は口にしていたように思うが――」
アイ=ファが険しく眉を寄せると、ポルアースが「そうそう」と笑顔で口をはさんだ。
「その話が、ジェノス侯の決断を後押ししたようなものなのだよ。そんな命令を下したら、森辺の民はジェノスを捨ててどこかに移住してしまうだろう、とね。ドンダ=ルウ殿の言われる通り、王都の方々というのは森辺の民の気質をこれっぽっちも理解していないのですよ」
「それでも、王都の人々に刀を向けるわけにもいきませんからね。なんとか穏便にお帰り願えるよう、最善を尽くしましょう」
カミュア=ヨシュも口をはさむと、ドンダ=ルウは底光りする目でそちらをにらみつけた。
「おい、また俺たちに隠れて、こそこそと動き回ろうというつもりではあるまいな?」
「もちろんです。今回は最初から目的もはっきりしているのですから、しっかりと手を携えるべきでありましょう」
「では、何を企んでいるのか、聞かせてもらおう。城下町を出て、自分たちの荷車に乗り換えてからな」
そう言って、ドンダ=ルウは狩人の衣をひるがえした。
「森辺に戻るぞ。城門を出るまでは、決して気を抜くな」
武官たちから刀とマントを取り戻したアイ=ファたちも、ドンダ=ルウに続いて歩き始めた。
もちろん俺も、アイ=ファにぴったりと付き添われながら、歩を進めている。
これからも、こうしてアイ=ファたちとともに歩んでいくために、俺もなけなしの力をふるうのだ。
カミュア=ヨシュなどに比べたら、それは本当にちっぽけな力なのであろうが、それを惜しむ気持ちは毛頭なかった。
(……アイ=ファもドンダ=ルウもダン=ルティムも、俺がジェノス侯爵の手先だなんていう話は、これっぽっちも信じてないんだろうな)
それが当たり前だと思いながら、やっぱり胸の中にはおさえようもない喜びの気持ちがあふれかえってしまう。
森辺の民が、これほど純朴で、真っ直ぐで、誇り高い一族であるということを、なんとか王都の人々に理解してもらうことはできないだろうか。
そんな風に考えながら、俺は大事な同胞とともに石造りの回廊を歩き続けた。