緑の月の八日③~王都の貴族たち~
2017.11/30 更新分 1/1 ・2017.12/2 誤字を修正
「こ、これはその……アスタから習い覚えた、でこれーしょんけーきという菓子です」
トゥール=ディンの言葉を聞いても、ティマロは目を丸くしたままであった。
「実に面妖な外見をしておりますな。味の想像が、まったくつきません」
「は、はい。お口にあえば幸いです……」
貴族たちに捧げたものより一回り小さなホールのケーキが、陶磁の皿の上にちょこんと載せられていた。
それでも、直径15センチぐらいはあっただろう。リミ=ルウとレイナ=ルウも試食をせがんでいたので、そのサイズに設定されたのだ。
なおかつ、本日のデコレーションケーキは、ギギの葉のクリームで作られていた。全体的にはチョコクリームの色合いで、そこにプレーンの白いクリームで装飾がほどこされている。さらには、砂糖漬けにされたイチゴのごときアロウの実も配置されて、なかなかカラフルな見栄えである。
「あ、これはとてもやわらかいので、わたしが切らせていただきます」
トゥール=ディンがいそいそと立ち上がり、ホールのケーキを切り分けていく。
五等分は難しいので、俺も最後のひと切れをいただくことができた。リミ=ルウなどは、瞳を輝かせてケーキの断面を見つめている。
「内側は、フワノの生地なのですな。それにこれは……ラマムの実ですか」
「は、はい。煮込んでやわらかくしたラマムの実を刻んで、くりーむと混ぜています」
ラマムは、リンゴに似た甘酸っぱい果実である。スポンジ部分は三層に分かれていたので、その隙間にプレーンのクリームとともに、小さく刻まれたラマムの実が練り込まれているのだった。
「この物珍しい外見は、貴族の方々にも喜ばれるでしょうな。しかし、重要なのは、あくまで味です」
そう言って、ティマロは匙ですくったケーキを口に運んだ。
その目が、さらなる勢いで驚愕に見開かれる。
左右の助手たちも、それは同じことであった。
そしてリミ=ルウは、「おいしー!」と快哉をあげている。
「すごいね! アスタの作ってくれたけーきに負けないぐらい美味しい! やっぱりトゥール=ディンはすごいなあ」
「あ、ありがとうございます」
トゥール=ディンは、不安そうにティマロのほうを見つめていた。
ティマロはひと口食べたきり、固まったままである。
その間に、俺もトゥール=ディンの力作を味わわさせていただくことにした。
ホイップした卵を使ったスポンジ部分は、匙で難なく切り分けられるほど、やわらかい。クリーム部分はいくぶん溶けかけてしまっていたが、そのつやつやとした輝きが、いっそう甘やかな味の予感をかきたてた。
実際に口に運んでみると、まぎれもなく甘い。ギギの葉も分量は抑えられているので、苦味が先に立つことはなく、チョコ風味のクリームとして成立している。このあたりの分量を見極めるトゥール=ディンの舌とセンスは、さすがであった。
ときどき混入しているラマムの酸味と食感が、また心地好い。熱を通していても、まだ多少はしゃくしゃくとした食感が残されており、リンゴっぽい酸味が甘みでとろけそうな舌を休ませてくれる。ラマムを使うかどうかは最後まで悩んでいたトゥール=ディンであるが、これは使って大成功であろうと思われた。
「なるほど……これならば、オディフィア姫がトゥール=ディン殿の菓子をねだるのも当然のことでありましょう」
硬直していたティマロが、今度はぐにゃりと弛緩しながら、そう言った。
「アスタ殿の腕前はわきまえていたので、今さら驚きはしませんが……アスタ殿には、これほどまでに優秀なお弟子がおられたのですな」
「はい。ですが、菓子に関してはとっくにトゥール=ディンに上を行かれています。俺が新しい発想を伝授すると、数日後にはもう俺よりも立派な菓子を作れてしまいますからね」
「そ、そんなことは、ありません。わたしなんて、アスタがいなかったら……」
と、トゥール=ディンはますます小さくなってしまう。
そんなトゥール=ディンの姿を見返しながら、ティマロはゆるゆると首を振った。
「わたしはダイア殿の菓子を何度か口にしたことがあります。あれはまるで、宝石や銀細工が菓子に姿を変えたような、そんな素晴らしい仕上がりでした。……わたしは今、それと同じ驚嘆とおののきを味わわされてしまっています」
「きょ、恐縮です……あ、あの、それじゃあ……」
「はい、何でしょうか?」
「……わたしはこれからも、オディフィアに菓子を届けることを許されるでしょうか?」
トゥール=ディンは、祈るような眼差しになっていた。
ティマロはつやつやのおでこをひと撫でしてから、「ええ」とうなずく。
「トゥール=ディン殿はダイア殿にも劣らぬ菓子作りの才覚を有しておられるのですから、何もとがめられる道理などありません。王都の方々も、きっとそのように考えることでしょう」
「そうですか……」と、トゥール=ディンは自分の胸もとに手を置いて、深々と息をついた。
ティマロはようやくふた口目のケーキを頬張り、「んん……」と奇妙なうめき声をあげる。
「これはあの、シムのギギの葉を使っておられるのですな。あのような苦い茶の葉が、どうしてこのような風味を生み出せるのか……ああ、すべて食べてしまうのが惜しいほどです」
どうやらトゥール=ディンの菓子は、ティマロの琴線を大いに揺さぶったようだった。
そしてそれに追い打ちをかけたのは、リミ=ルウの作製した『チャッチ餅』であった。
俺が以前と同じ献立をお出しするつもりだと告げると、リミ=ルウもそれに合わせて最新版の『チャッチ餅』を提供することに決めたのだ。トゥール=ディンのデコレーションケーキの余韻にひたりながら、何気なくリミ=ルウの『チャッチ餅』を口にしたティマロは、完全に不意をつかれた様子で身体をのけぞらせていた。
「これはまた……以前よりも、格段に味がよくなっておりますな」
ティマロの言葉に、リミ=ルウは「えへへ」と頭をかいている。
「アスタがまた新しい作り方を教えてくれたの! 森辺のみんなも、美味しいって言ってくれたよ!」
今回は、タウの実を使って新しいトッピングを考案したのだ。
タウの実は大豆に似ているので、それを炒ってから、皮を剥いて、すりつぶした。それだけで、香ばしいきな粉のごとき状態に仕上げることがかなったのだった。
そのタウの実のきな粉に砂糖を混ぜて、チャッチ餅にまぶしたのちに、砂糖でこしらえた黒蜜をかける。わらび餅のごときチャッチ餅としては、ある意味、原点に戻ったようなものである。
また、チャッチ餅の本体は、カロン乳とギギの葉の汁で練られた2種が準備されており、ミルク風味とカカオ風味が楽しめる仕上がりとなっていた。
「このタウの実の粉を使ったことで、香ばしい風味と不可思議な食感が加えられたのですな。そして、溶かした砂糖とタウの実にはどちらにも強い甘さがあり、そのどちらの甘さを際立たせるかは、食べる人間の匙加減ひとつ……いや、もともとのチャッチ餅という玄妙な菓子の味わいも相まって、これは素晴らしい仕上がりです」
「ありがとー! でも、リミはアスタが教えてくれた通りに作っただけだからね!」
「そんなことないよ。チャッチ餅にカロン乳やギギの葉を使おうと思いついたのはリミ=ルウだし、俺が作るよりもよっぽど美味しく出来上がってるはずさ」
リミ=ルウは、嬉しさと照れくささの入り混じった可愛らしいお顔で微笑んでいる。
その笑顔を見やりながら、ティマロは溜息まじりに問うた。
「……トゥール=ディン殿とリミ=ルウ殿は、いったい何歳であられるのでしょうかな?」
「わ、わたしは11歳です」
「リミはこの前、9歳になったよ!」
「11歳と9歳……まことに末恐ろしいものでありますな。そして、トゥール=ディン殿ばかりに着目して、あなたの存在をないがしろにしていたことを、わたしは恥ずかしく思います」
そのように嘆息するティマロの菓子も、リミ=ルウたちを落胆させることはなかった。前回は菓子でもリミ=ルウに「まじゅい」と言わしめてしまったティマロであるのだが、今回は風味づけに酒類なども使っておらず、俺たちでも安心して食べられる味わいであったのだ。
その内容は、ミンミを主体にしたフワノの焼き菓子であった。
桃に似たミンミの実を熱して溶かして、それをフワノの生地に練り込んでから焼きあげた、という話だ。生地全体からミンミの甘さと香りがたちのぼる、それは不可思議な味わいであった。
また、ときおり感じられる、しゃくっとした食感が心地好い。ラマムの実でも使っているのかと思い、尋ねてみると、それはタケノコのごときチャムチャムを砂糖漬けにしたものであった。
「これは美味しいです。とても優しい味わいですね」
トゥール=ディンもそう言っていたが、ティマロはちょっとほろ苦い微笑をたたえていた。
俺たちとしては満足な出来栄えであったが、城下町の料理人としては細工が少なかった、と後悔しているのかもしれない。使用する食材は多ければ多いほど立派である、というのがティマロたちの価値観であるのだ。
「わたしも自信をもってこの菓子を作りあげたつもりでありましたが、おふたりの菓子の前ではかすんでしまうでしょうな。初めてあなたがたの菓子を口にする人々ならば、なおさらです」
「い、いえ、わたしは本当に美味しいと思います……けど……」
「いいのです。本日のわたしには、これが最善の献立と思えたのですからな」
ティマロがそのように答えたとき、背後の扉がノックされた。
静かにたたずんでいたアイ=ファとルド=ルウが、鋭くそちらを振り返る。
「森辺の皆様方、ティマロ様、ジェノス侯爵マルスタイン様より、食堂に参じよとのお言葉です」
侍女のシェイラの声である。
俺たちは目を見交わしてから、立ち上がった。
ティマロも立ち上がり、助手たちには厨の片付けを申しつける。
扉を開けると、シェイラをはさむようにして、ジェノスの武官が2名、立ち並んでいた。
その背後には、ジザ=ルウとガズラン=ルティムの変わらぬ姿もうかがえる。
「どうぞこちらに――食堂までご案内いたします」
俺たちは連れ立って、煉瓦造りの回廊に足を踏み出した。
回廊の要所要所には、やはりジェノスの武官たちが立ち尽くしている。この貴賓館には数多くのお客が滞在しているはずであるので、それが貴族たちの会食の場に近づかぬよう、見張っているのだろう。
やがて到着したのは、見覚えのある両開きの扉であった。
これまでに何度か、この食堂には連れてこられている。最初にティマロと厨を預かった日も、俺たちはこの部屋で料理を供したのだ。
「……狩人の方々も入室されるならば、刀と外套をお預かりいたします」
扉の前に立った武官のひとりが、そのように述べてくる。
短いやりとりの後、ルド=ルウだけが外に残ることになった。武装を解かぬまま、そこに待機するのだ。
アイ=ファたちの刀とマントが守衛の手に渡されるのを見届けてから、武官が声を張り上げる。
「森辺の民7名、および料理人ティマロ殿をお連れいたしました。入室の許可を願います」
室内からの「許可する」という声とともに、武官は扉を引き開けた。
そこに足を踏み入れるなり、俺は異様な雰囲気にとらわれた。
また、その理由は一目にして瞭然であった。
「よくぞ参ったな、森辺の民たちよ。部屋の中央まで進み出るがいい」
マルスタインが、鷹揚に呼びかけてくる。
かまど番の背後に狩人たちがぴったりと付き従い、7人がひとかたまりとなって歩を進める。
異様な雰囲気の正体は、その部屋を守る兵士の数の多さであった。
左右の壁に、10名ずつの兵士たちが並んでいる。しかも、甲冑を纏って長剣を下げた、完全武装の姿である。銀色の胸甲に獅子の紋章を掲げた、それは王都の兵士たちであった。
そして、食堂の卓が、いささか奇妙な形に並べられている。
横に長い大きな卓が、奥に一台、右側に一台、逆L字の形で並べられていたのだ。奥に座った3名は正面から、右側に座った三名は横合いから、部屋の中央に進み出る俺たちを眺める格好になった。
右側の3名が、ジェノスの貴族たちである。
ジェノス侯爵マルスタイン、その第一子息にして近衛兵団団長たるメルフリード、そしてダレイム伯爵家のポルアースだ。
マルスタインは、ゆったりと微笑んでいた。
メルフリードは、無表情に俺たちを見つめている。
ポルアースは、不安そうに眉尻を下げていた。
そんな3名に見守られながら、俺たちは部屋の中央に立った。
奥の席に陣取った3名の姿が、それでよりはっきりと見て取ることができた。
3名の内、2名はゆったりとした長衣を纏っている。もう1名の、襟つきのぴしりとした装束を纏っているのが、おそらくはダグとイフィウスの上官たる千獅子長ルイドという人物であるのだろう。
思いがけないほど、その人物は若かった。ダグやイフィウスとそれほど変わらないぐらいに見える、二十代半ばの青年だ。
長身で、背筋がのびており、いかにも武人らしい厳つい面立ちをしている。あまり感情の感じられないその瞳は灰色で、褐色の髪は短く切りそろえられていた。
「今日は、大儀だった。膝を折る必要はないので、そのまま名乗りをあげるがいい」
相変わらずゆったりとした口調で、マルスタインがそう述べたてた。
この御仁と顔をあわせるのはけっこうひさびさのことであるが、どこにも変わりはないようだ。若々しくて、すらりとしていて、褐色の髪を長めにのばしており、形のよい口髭をたくわえた、いかにも瀟洒な貴族然とした姿である。鉄仮面のように無表情なメルフリードとは、どこにも似たところがない。
まずはジェノス陣営の貴族たちを見回してから、王都の貴族たちのほうに視線を固定させて、ジザ=ルウは静かに口火を切った。
「森辺の族長筋、ルウ本家の長兄ジザ=ルウだ」
「同じく、ルウ本家の次姉レイナ=ルウです」
「えーと……ルウ本家の末妹リミ=ルウです」
「族長筋ルウ家の眷族、ルティム本家の家長ガズラン=ルティムです」
穏やかな声音で述べてから、ガズラン=ルティムはうながすようにトゥール=ディンを見た。
森辺の習わしで、次に名乗るのはトゥール=ディンの順番であったのだ。
「……森辺の族長筋ザザ家の眷族、ディン本家の家人トゥール=ディンです」
「森辺の民、ファの家の家長アイ=ファだ」
「森辺の民、ファの家の家人アスタです」
そこで初めて、「はん」と鼻を鳴らす音がした。
王都の貴族たちの真ん中に陣取った人物が、小馬鹿にした様子でせせら笑ったのだ。
その人物が何か発言する様子はない、と見届けてから、ティマロがうやうやしく一礼した。
「ジェノスの料理人、《セルヴァの矛槍亭》の料理長、ティマロと申します。本日は貴き方々にお目見えする栄誉を賜り、恐悦至極にてございます」
城下町に住むティマロは、20名の兵士に囲まれながら、6名の貴族と相対しても、とりたてて臆するところはないようであった。
「なるほど……」と、貴族のひとりが笑いをふくんだ声をあげる。
「これが、渡来の民を名乗るファの家のアスタか。報告にあった通り、とうてい渡来の民とは思えぬ見てくれだな」
さきほど鼻を鳴らしていた人物である。
言うまでもなく、俺は最初からその人物に警戒心をかきたてられていた。
これがきっと、酩酊した状態で族長たちとの会談に臨んでいた人物であるのだ。
その証拠に、彼はこの場においてもしたたかに酩酊していた。
立派な装飾のされた椅子にだらしなく座して、卓に片方の肘をついている。その指や手首には、銀細工や宝石の飾り物がぎらぎらと輝いていた。
この人物もまた、二十代の青年である。面長で、貴族風の顔立ちなのかもしれないが、目の下にはくっきりと隈が浮かんでしまっている。いかにも不摂生で、自堕落で、高慢きわまりない薄笑いをたたえていた。
それに比べると、もうひとりの貴族は、実に当たり障りのない風貌をしている。こちらは四十路を越えていそうな壮年の男性で、やや痩せ気味であり、口髭と顎髭をたくわえている。穏やかで、気品のある、いかにも優しげな面立ちであった。
「紹介しよう。右から、王都アルグラッドの監査官タルオン殿、同じくドレッグ殿、そして、千獅子長のルイド殿だ」
マルスタインの言葉に、壮年の優しげな人物、タルオンだけがうなずいた。
若き貴族ドレッグは、酔いで濁った目で、俺たちの姿をじろじろと見回している。
「この中で、ガズラン=ルティムだけは王都のお歴々と顔をあわせていたはずだな。先日に引き続き、大儀であった」
マルスタインの言葉に、ガズラン=ルティムが一礼する。
すると、ドレッグは再び「はん」と鼻を鳴らした。
「前回は族長どものお守りで、今回は料理人どものお守りか。お前は一度として名指しで呼びつけられたことはないはずだな、ガズラン=ルティムとやら?」
「はい。前回も今回も、私は族長ドンダ=ルウの意思によって付き添いの仕事を果たしています」
「ふん。ギバ狩りは崇高な仕事だなどとのたまいながら、勝手に手を抜いているのは自分たちのほうではないか。何も後ろ暗いところがないならば、付き添いの必要などなかろうにな」
すると、かたわらのタルオンが「まあまあ」とドレッグをたしなめた。
「そのように声を荒らげても話は進まないでしょう。今宵は森辺の料理人たちの腕前を見定めるために召喚したのですから、まずはその話を済ませるべきでございましょう」
タルオンという人物には、年齢以上の落ち着きが感じられた。
物腰はやわらかいし、言葉づかいは丁寧であるし、今のところは悪い印象も感じられない。
しかしドレッグは、「はん」と口もとをねじ曲げていた。
「そのようなものは、判別のつけようもない。俺にわかるのは、せいぜい菓子の出来栄えぐらいだな」
そう言って、ドレッグはトゥール=ディンとリミ=ルウの姿を見比べた。
「しかし、このような幼子どもが料理人とは、恐れ入った。あれは本当に、お前たちが自分の手でこしらえたのか?」
「は、はい。アスタから習い覚えた技で、わたしたちがこしらえました」
「ふん……城下町の料理人よ、お前が裏で手を貸したのではなかろうな?」
「はい。わたしも味見をさせていただきましたが、どちらも見事なお手並みでございました」
ティマロは上品に微笑みながら、一礼した。
ドレッグは頬杖をついたまま、「ふふん」と肩をすくめる。
「それでは、ジェノス侯爵の娘御の行いを酔狂と咎めることもかなうまいな。まったく、小憎たらしいことだ」
「そうですな。少なくとも、我々がジェノス城で出されている菓子と比べても、遜色はなかったように思います。物珍しさがまされば、森辺の料理人の作る菓子のほうが優れている、とさえ言えるやもしれません」
トゥール=ディンはハッとしたように身体をのけぞらしてから、頭を下げた。
その手がまた、胸もとの装束をぎゅっとつかんでいる。トゥール=ディンたちの菓子の腕前は、思いも寄らぬあっけなさで認められることになったのだ。
しかし、その喜びを噛みしめるひまもなく、ドレッグの充血した目は俺のほうに向けられてきた。
「そうなると、問題はやはりお前だな、ファの家のアスタよ」
「は……自分の料理には、ご満足いただけなかったでしょうか?」
「満足もへったくれもない。あのような料理に裁定の下しようはあるまいよ」
いったい何が、彼の不興を買ってしまったのだろうか。
覚悟を据えて、俺が言葉の続きを待ち受けていると、横合いのポルアースが「しかし……」と声をあげようとした。
それをさえぎるようにして、ドレッグが言い捨てる。
「ギバの肉などという得体の知れないものを、そう容易く口にできると思うのか? お前の出した皿で口にできたのは、前菜のギーゴだけだった。あんな生のギーゴだけで、お前の腕を見定めることなどできるはずがなかろうが?」
「……ギバ肉を使うべきではなかったのですか?」
さすがに俺は困惑して、ポルアースたちのほうを振り返ってしまった。
それに応じるように、ポルアースが再び「しかし」と声をあげる。
「それならば、最初からギバ肉を使わないように申しつけるべきでありましょう。アスタ殿はギバ料理で名を馳せた料理人であるのですから、腕を見せよと命じられれば、ギバ肉を使うのが当然のお話です」
「ふん。だったら、お前たちがそのように指示を出すべきであったな。まったく、迂闊な連中だ」
そう言って、ドレッグは酒杯の果実酒を一息に飲み干した。
俺としては、ひたすら困惑するばかりである。
すると、ドレッグはいっそう酔いの回った顔でふてぶてしく笑った。
「それじゃあ、俺の代わりに料理をたいらげたやつから感想でも聞いてみるか? そちらの食いっぷりは、なかなか悪くなかったようだぞ」
「ドレッグ殿、それは――」
ポルアースが、腰を浮かせかける。
その声に、じゃらりと硬質的な音色が重なった。
「あ……」と頼りなげな声をあげて、トゥール=ディンが俺の腕にすがりついてくる。
それと同時に、逆側の腕をアイ=ファがひっつかんできた。
そんな俺たちの前に、黒くて巨大な影が、ぬうっと出現する。
それは、途方もなく巨大な、犬であった。
これまでドレッグたちの座席の背後に潜んでいた黒犬が、首につながれた鉄鎖を鳴らしながら、卓の前まで回り込んできたのだ。
「……それは、犬なのか? 俺たちの使っている猟犬とは、ずいぶん異なる姿をしているようだが」
ジザ=ルウが落ち着いた声音で問うと、ドレッグは悦に入った様子で「ふふん」と含み笑いをした。
「これは貴人を守るために育てられた獅子犬というものだ。迂闊な真似をすれば腕を肩から引き抜かれることになるから、せいぜい用心することだな」
それが大げさな脅し文句に聞こえないぐらい、その黒犬は凶悪な外見をしていた。
体長は、猟犬とそれほど変わらないのかもしれない。その代わりに、胴体も四肢も恐ろしいほどに図太くて、頭部もかなり巨大である。その上、全身に長い体毛が生えており、首の周りには獅子のごときたてがみまで生えているのだ。獅子犬という名前がこれほどしっくりくる姿もなかなかないのではないかと思われた。
鼻面はいくぶん潰れ気味で、ちょっとチャウチャウに似ているかもしれない。そう考えれば、多少は愛嬌を感じなくもないのだが、しかしとにかく、巨大すぎる。また、その黒い瞳は獲物を見定めるかのように俺たちの姿を見回しており、それだけで俺は背筋に冷や汗が浮かぶのを感じてしまった。
「……この犬も、貴方がたの護衛役というわけか」
ジザ=ルウは、あくまで沈着に述べたてている。
「無論だ」と、ドレッグはせせら笑っていた。
「この獅子犬一頭で、兵士10人分の働きを果たしてくれるからな。おい、ファの家のアスタの料理は、どうだったのだ?」
ドレッグの問いかけに、獅子犬は大砲のような鳴き声で応じた。
トゥール=ディンは、俺の腕にすがりついたまま、がたがたと震えてしまっている。
「ドレッグ殿、余興が過ぎますぞ。犬に問うても、料理人の腕前を見定めることはかないますまい」
そのように発言したのは、やはりタルオンであった。
「それに、わたくしとルイド殿は、きちんとギバ料理も味わわさせていただきましたからな。ここは、わたくしどもにお任せください」
「ふん。よくもまあ得体の知れない獣の肉など口にできるものだ。明日の朝、貴殿らが魂を召されていないことを祈るとしよう」
そうしてドレッグが指先で二度、卓を叩くと、獅子犬はのそのそと座席の後ろに引っ込んでいった。
そんな中、タルオンは優しげに細めた目で俺たちを見返してくる。
「ギバの肉というのは、なかなか力強い味わいでありましたな。ギャマや山鳥の肉などを思い起こさせる、野生の風味と申しますか……あれならば、肉そのものが商品として扱われるというのも、まあ不思議ではないかもしれません」
「は、はい。そうですか」
「そして、それを調理したあなたの腕前も……わたしには、実に見事であると感じられました」
とても穏やかな表情のまま、タルオンはそう言った。
「というよりも、ジェノスの料理というのは奇抜さを重んじすぎて、少々気品に欠けるきらいがございます。そういう意味では、むしろファの家のアスタの料理のほうが、我々王都の人間にはより好ましく思えるのではないかと……ルイド殿も、そのようにお考えではありませんか?」
「どうでしょう。武人に過ぎないわたしには、上手い感想などひねり出せそうにありません」
しかつめらしく、ルイドはそのように述べたてた。
メルフリードの灰色の瞳はガラス玉のように見えるときが多いが、この御仁の瞳はもう少し色が深く、どちらかというと鋼のような色合いに感じられる。
「ただ、美味であったかそうでなかったか、という話であるならば……わたしには、非常に美味であると思えました」
「ええ、わたしも同感です。森の中に住まう民が、あれほど上等な料理を作れるなどとは、夢さら思ってはおりませんでした」
そうしてにこやかに細められたタルオンの目が、正面から俺を見つめた。
「あなたはもともと、しかるべき場所で調理の技術を学んだ人間であるのでしょうな、ファの家のアスタ」
「はい。自分の家は、料理屋を営んでいましたので……」
「なるほど、料理屋を。しかし、これだけさまざまな食材を使いこなせるということは、それ相応の豊かさを有した土地で生まれ育ったのでしょうな」
その言葉を耳にすると同時に、俺はひとつの事実と直面することになった。
これだけにこやかに微笑みながら、タルオンの瞳には鋭い探るような輝きしか見て取ることができなかったのだ。
これは決して、ただ穏やかなだけの人間ではない。遅ればせながら、俺はそう確信することになった。
「それはまた、ずいぶんなほめっぷりだな! さきほどの料理にはポイタンなどが使われていたはずなのに、それでもそこまで美味かったと言うつもりなのか?」
と、ドレッグが下卑た声で割り込んでくる。
タルオンは、笑顔のまま「ええ」とうなずいた。
「というか、あれがポイタンであったなどとは、とうてい信じられない心地でありますな。まるで、極上のフワノを味わっているかのような心地でありましたよ」
「ふん。そこまで言葉を重ねると、さすがに戯れ言としか思えんな」
俺の記憶に間違いがなければ、ポイタンの産地であるバンズという土地の出身であるのは、ドレッグのほうであるはずだった。
しかし、お好み焼きにもふんだんにギバ肉が使われていたのだから、彼の口にそれが届けられることもなかったのだろう。カミュア=ヨシュのせっかくの助言も、完全に空振りで終わってしまったのだ。
「しかし、生まれもつかぬ風来坊と自称しながら、そこまでの腕を持つ料理人であるというのは、胡散臭い話だ。明日には、色々と楽しい話が聞けそうだ」
ドレッグがそのように述べたてたので、俺は思わず「明日?」と反問してしまった。
タルオンのほうが、笑顔で「そうですな」と応じてくる。
「明日はファの家のアスタを審問させていただきます。森辺の族長にはすでに通達しておりますので、ご心配は不要であります」
ジザ=ルウが、真意をはかるようにマルスタインのほうを見た。
マルスタインもまた、もとの穏やかな表情を保ったまま、うなずいている。
「タルオン殿の仰る通り、さきほどルウ家に使者を送った。明日はアスタのみならず、7名の人間に集まってもらう」
「7名?」
「うむ。ファの家のアスタ、ファの家のアイ=ファ、ルウの家の客人バルシャ、ジーダ、ミケル、マイム、リリンの家のシュミラル、以上7名だ」
ジザ=ルウは、けげんそうに小首を傾げた。
「バルシャとジーダはまだわかるが、それ以外の者たちはどういった理由で呼びつけられるのだろうか?」
「何を不思議がることがある。そいつらは、いずれも町から森の中に居を移した者たちなのだろうが? 事情を聞かずに済ませることなどできるものか」
そのように口をはさんだのは、ドレッグであった。
ジザ=ルウは「なるほど」と首肯する。
「ともあれ、我々は族長の決定に従うまでだ。それでは、アスタたちのかまど番としての腕前には納得していただけた、ということなのだな?」
「ええ、そちらはまったく問題ありません。我々も、心から納得することができました」
そう言って、タルオンは思い出したようにティマロのほうを見た。
「あなたの腕前も見事なものでありましたよ。さきほども申しました通り、ジェノスの料理というのは奇をてらいすぎではないかと思わなくもないのですが……しかし、よほどの修練を積まなければ、あれほどの料理を形にすることはできますまい。いや、実に感服いたしました」
「……過分なお言葉をいただき、恐悦至極にてございます」
ティマロはすました顔で、一礼していた。
しかし何となく、あまり嬉しそうな様子ではない。
そんなティマロにもう一度微笑みかけてから、タルオンは締めくくりの言葉を口にした。
「では、今日のところはこれにて閉会ということにいたしましょう。森辺の民の方々は、また明日に」
そうして俺たちは、食堂からあっさりと追い出されることになった。
途中の獅子犬の登場がなければ、肩透かしと思えるほどの扱いである。
武官の手によって扉が開けられると、回廊の真ん中で腕組みをしていたルド=ルウが「あれ?」と目を丸くした。
「何だ、もうおしまいかよ? ずいぶん早かったんだなー」
ジザ=ルウは「うむ」と答えただけで、仔細を語ろうとはしなかった。
その場には、ジェノスの武官やシェイラなども控えていたのだ。城下町を出るまでは、明け透けにものを語れるような状況ではなかった。
そんな中、意想外の人物が俺の耳もとに囁きかけてきた。
誰あろう、一緒に退室させられた、ティマロである。
「……アスタ殿、実に心ない仕打ちでありましたな」
「え? 何がでしょうか?」
「もちろん、せっかくの料理を獣などに食べさせたという、あの暴虐な行いについてです。たとえどのような目論見があろうとも、そのような真似は決して許されないはずです」
ティマロは、こめかみのあたりに薄く血管を浮かばせていた。
「わたしが同じ目にあわされていたならば、悲嘆のあまり膝をついていたやもしれません。アスタ殿は、よくぞお堪えになりました」
「ええ、まあ……呆気に取られて、悲嘆に暮れることもできませんでした。というか、もっとひどい嫌がらせを覚悟していたぐらいですので」
「そうですか。わたしはもう、あのような方々のために料理を作るのは、二度と勘弁願いたいものですな」
それだけ言って、ティマロは俺から離れていった。
俺はちょっと心配になって、アイ=ファのほうに顔を寄せる。
「なあ、アイ=ファは大丈夫だったか?」
「うむ……あの場で貴族どもに問い質しておきたいことがあったのだが、余計な口を叩いて場を乱してはまずいと思い、口をつぐんでおいた。それだけが、心残りになってしまったな」
「問い質しておきたいこと? それはどういう内容だったんだ?」
「うむ……アスタの料理には野菜やポイタンなども使われていたのに、それを犬に食べさせても大丈夫なのであろうか?」
俺は思わず、きょとんと目を丸くしてしまった。
アイ=ファは、とても深刻げな面持ちになっている。
「猟犬には肉や骨のみを食べさせるべし、とシュミラルは言っていた。それ以外のものを食べさせられてしまったあの犬が病魔を患ったりはしないか、それが心配でな」
「えーと……それであの犬がお腹を壊してしまったら、俺の料理に難癖をつけられてしまう、ということを心配しているのかな?」
「うむ?」と、アイ=ファは眉をひそめた。
「何を言っているのだ、お前は。食べなれないものを食べさせて犬が身体をおかしくしたら、それはアスタではなく食べさせた貴族の責任であろうが? そのような話ではなく、私はあの犬の行く末が気がかりであるのだ」
「ああ、そうか。……俺の故郷では、犬は肉以外のものも食べていたよ。というか、猟犬たちが肉しか食べないことに驚かされたぐらいだ。だからきっと、あの獅子犬っていうのは肉以外の食事も与えられてきた血統なんじゃないのかな」
「ふむ。それなら、いいのだがな」
アイ=ファは、心配げに息をついた。
俺は俺で、安堵の息をつかせていただく。
「あのドレッグっていう貴族だって、大事な番犬にみすみす毒となるような食事を与えたりはしないだろう。……アイ=ファが怒っていないようで安心したよ」
「怒る? 何に対してだ?」
「だから、あの貴族がギバ料理を馬鹿にして、犬に食べさせてしまったことについてだよ」
「ああ」と、アイ=ファは肩をすくめた。
「私はそのようなことで怒りを覚えたりはしない。あのように礼を失した人間に食べられるぐらいならば、犬に食べられたほうがギバも幸福に思うことであろう」
アイ=ファは、本心からそう言っているようであった。
そうして、俺の顔を横目でねめつけてくる。
「何にせよ、重要な話はすべて明日に持ちこされてしまった。決して用心を怠るのではないぞ、アスタよ」
「うん、わかってる」
明日は俺ばかりでなく、ミケルやバルシャやシュミラルたちまでもが呼び出されてしまったのだ。
そこにはいったいどのような意図が隠されているのか。アイ=ファに念を押されるまでもなく、俺は今日以上に身が引き締まる思いであった。
(それに、マルスタインはやっぱり本心が見えなかったし、メルフリードに至っては一言も口をきこうとしなかったし……ジェノスの貴族たちは、いったいどういう心持ちなんだろう)
しかし、すべては明日のことだ。
俺はアイ=ファや他の人々たちとともに、全力でこの苦難を乗り越えるしかなかった。