緑の月の四日②~再会~
2017.11/13 更新分 1/1 ・12/16 一部文章を修正
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
・コミック版の1話目が更新されましたので、ご興味のある方は「コミックファイア」をご確認くださいませ。
・また、本日から「イマギカ・クロニクル」という新作を小説家になろう様において公開し始めました。ご興味のある方はそちらもよろしくお願いいたします。
その日の夜、俺たちが《キミュスの尻尾亭》を訪れると、厨には痛々しい姿をしたミラノ=マスが待ち受けていた。
「ミラノ=マス! お身体は大丈夫なのですか?」
「ふん。これしきの怪我など、どうということもない」
その言葉とは裏腹に、ミラノ=マスはげっそりとやつれてしまっていた。
頭と左肩に、包帯を巻いている。テリア=マスは大した傷ではないと言っていたが、とてもそうは思えない。顔色は悪く、目の下に隈ができており、怪我人というよりは病人のように見えてしまった。
「痛み止めの薬というやつが、俺にはあまり合わんのだ。そいつのおかげで腹を下してしまい、いらん苦労を背負うことになってしまった。……そんなことよりも、またお前さんたちには面倒をかけてしまったな」
「そんなことはありません。どうかお気になさらず、養生なさってください」
「そうだよ。無理をして身体を悪くしたら、余計に迷惑をかけてしまうでしょう? さ、部屋に戻って休まないと」
テリア=マスもそう言ったが、ミラノ=マスはその場にいる森辺の民を順番に見回してきた。
「……これだけの面倒をかけてしまって、本当に申し訳なく思っているし、また、ありがたくも思っている。明日や明後日には俺もまともに動けるはずだから、どうかそれまでは娘を助けてやってもらいたい」
「肩の骨が外れたんなら、狩人だって10日や半月は休むと思うぜ? 無理をせずに、大人しく寝ておけよ」
と、笑いながらルド=ルウが進み出た。
「ほら、肩を貸してやるからさ。あんたの娘は立派に宿を守ってるから、心配すんな。足りない分は、アスタやレイナ姉が何とかしてくれるよ」
「うむ……」と力なくうなずきながら、ミラノ=マスは立ち上がった。そうしてルド=ルウに支えられながら、厨を出ていく。
「かなりお加減が悪いようですね。お腹を下されてしまったのですか」
「はい……痛み止めの薬は3日分だったので、明日ぐらいにはもう少しよくなると思うのですが……」
「でも、肩の骨が外れたのなら、しばらくかまどの仕事は無理でしょう。ミラノ=マスが働けるようになるまでは、わたしとアスタがお力を貸しますよ」
そう言って、レイナ=ルウがテリア=マスに笑いかけた。
テリア=マスは「ありがとうございます……」と、また涙ぐんでしまう。
「それでは、仕事を始めましょう。というか、まずはみんなの腹ごしらえですね」
「うむ! 今日は何を食わせてくれるのだ?」
本日も、護衛役は同じ顔ぶれであった。
ダン=ルティムは愉快げに笑っており、アイ=ファとジザ=ルウは真剣な面持ちで出入り口や窓の外の様子をうかがっている。ダグという人物の尋常ならざる素性を知ったアイ=ファたちは、昨晩以上に張り詰めているように感じられた。
そんな中、各人の食事と、そして厨の仕事が開始される。
今日も王都の兵士たちは帰還が遅かったので、料理の注文もゆるやかなペースであった。
献立は、昨晩とほとんど同じ内容である。ただ異なるのは、ルウ家から買いつけた料理が『ロール・ティノ』から『酢ギバ』に変更されたぐらいだ。
「……アスタたちが厨の仕事を手伝っているという話は、もう他の宿にまで伝わっているようですよ」
と、テリア=マスが仕事に励みながら、そんな話をしてくれた。
「昼間に、別の宿のお客がわざわざ話を聞きに来られたのです。それで、王都の兵士様たちの様子に関しても熱心に聞いておられましたから……しばらく騒ぎが起きなければ、アスタ目当てのお客が訪れてくれるかもしれません」
「そうなのですか。俺がいようともいなくとも、料理の内容に変わりはないのに、おかしなものですね」
「そんなことはありません。昨晩の兵士様も、料理の出来がいいように感じられたと仰っていたではないですか? 同じ料理でも、やはりアスタやレイナ=ルウの手にかかると、出来栄えに差が生じるのです」
「それが事実だとしたら、テリア=マスもいっそう腕を磨かなければなりませんね。俺たちがいなくなったとたんに味が落ちたなどと言われたら不本意でしょう? そこは、奮起しないといけません」
冗談めかして、俺はそのように答えてみせた。
「よかったら、今日はなるべく俺と組になって料理を作りましょう。俺とテリア=マスで何か違いはあるのか、それでわかると思います」
「ありがとうございます。……きっと母が生きていたら、こんな風に手ほどきをしてくれたのでしょうね」
そう言って、テリア=マスははかなげに微笑んだ。
「このご恩は決して忘れません。いつかアスタたちにこのご恩を返せるように励みたいと思います」
「ご恩を返しているのは、こちらのほうですよ。まだまだ返し足りないぐらいです」
そうしてしばらくすると、レイトが厨にやってきた。
「兵士たちが戻りました。今日は最初からギバ料理を注文されるそうです」
「そうか。内容は、またおまかせかな?」
「はい。ますは昨日と同じていどの分量を、だそうです」
昨日と異なるのは『酢ギバ』ぐらいであるので、問題はないだろう。『酢ギバ』は作り置きの料理であるので、生焼けの心配も不要である。
「あ、レイト、ママリアの酢が王都の人たちに嫌がられることはないかな? 宿場町では、ママリアの酢の味が受け入れられるのに、多少の時間がかかったのだけれども」
「はい。それはサイクレウスによって、ママリアの酢が宿場町に流通していなかったためですよね。王都の近辺ではママリアの酢も普通に売られていますので、特に問題はないはずです」
ならば、なおさら心配は不要であるようだった。
『酢ギバ』の他に、タラパを使った煮付けの料理と、タウ油を使った汁物料理、そしてウスターソースで味わうシンプルな焼き肉料理を続々と仕上げていく。改めて肉を焼くのは焼き肉料理のみであるので、そこには細心の注意を払った。
「あ、そういえば、今日は屋台のほうにも王都の兵士たちがやってきて、ギバの料理を食べていったのですよ」
と、ともに仕事を進めながら、俺がテリア=マスに呼びかける。
「そのときに、『ギバ・カレー』を注文する人がけっこう多かったのです。こちらの兵士たちがギバ料理を食べられるようになったのですから、『ギバ・カレー』の売れ残りを心配しなくてもいいようになるのではないでしょうか?」
「そうなのですか。でしたら、明日からは準備したいと思います。きっと他のお客様も、ぎばかれーを待ち焦がれていると思いますので」
ようやくテリア=マスの表情も明るくなってきた様子である。
そんな風に考えていると、テリア=マスははにかむように微笑んだ。
「兵士様がギバ料理を注文されるようになっただけで、ずいぶん気持ちが軽くなった気がします。ギバ料理を小馬鹿にされるのは、やはり腹立たしいものですからね」
「そうですね。その一点だけは、俺も本当にほっとしています」
それは、アイ=ファも同じ気持ちだろう。
そのように考えて、俺はアイ=ファの様子をうかがってみたが、愛しき家長はやはり山猫のように両目を光らせながら、窓の外をうかがっていた。
最近は穏やかな表情を見せることの多かったアイ=ファであるのに、王都の連中のおかげでまた厳しい家長に逆戻りしてしまったようだ。
しかし、そんなことで俺が意気消沈することはなかった。
年齢相応の娘らしく振る舞うアイ=ファも、女狩人として毅然と振る舞うアイ=ファも、俺にとっては同じぐらい魅力的に思えるのだった。
そんなことを考えている間に、20人前のギバ料理はすべて仕上げることができた。
これでまたしばらくしたら、同じ量の追加分が求められるのだろう。王都の兵士たちというのは、森辺の狩人にも負けない旺盛な食欲を備え持っていた。
「これといって、おかしな騒ぎが起こる様子はないな。あの兵士たちも、貴族の命令でもなければ我々に敵対する気持ちはない、ということか」
ジザ=ルウが、誰にともなくつぶやいた。
すると、それを待ちかまえていたかのように、レイトの「困ります」という声が聞こえてきた。
「よお、今日も同じ顔ぶれか。毎晩、ご苦労なことだな」
百獅子長のダグである。
狩人たちは目を光らせながら、それぞれ担当のかまど番を守れる位置に移動していた。
「いいかげんになさってください。本当に衛兵をお呼びしますよ?」
「だから、呼びたきゃ勝手にしろよ。その間に、こっちの用事は済むからよ」
厨の入り口に立ったダグは、にやにやと笑いながら俺のほうに視線を向けてくる。
「なあ、お前さんに頼みがあるんだ。どうか聞いてはもらえないもんかな、ファの家のアスタ」
「何でしょうか? 俺はあくまで仕事を手伝っている身ですので、何も勝手な真似はできないのですが」
「そんなに堅苦しい話じゃねえよ。イフィウスのために、料理をこしらえてもらいてえんだ」
そう言って、ダグは引き締まった腰に手を当てた。
「あいつもすっかりギバ料理がお気に召したみたいでな。わざわざこっちの宿にまで足をのばしてきたんだ。だけど、お目当ての料理が出てこなくて、すっかりしょげちまってるんだよ」
「お目当ての料理? とは、いったい何のことでしょう?」
「ほら、昨日は売りに出してただろう? ティノでやわらかい肉をくるんだ、あの料理だよ。あいつはやわらかいものしか食えないから、それならおあつらえ向きの料理があるって、俺が教えてやったのさ」
確かに本日、『ロール・ティノ』は売りに出していなかった。
レイトの頭ごしに、ダグは陽気に笑っている。
「あいつが不自由な口をしてるって話は昼間にしただろう? あいつはこう、上の前歯を根こそぎ失っちまったから、奥歯でしかものを噛めねえんだよ。だから、煮込んだ肉でも皿の上で小さくちぎって、口の奥に押し込んでるんだな。昼間に食った香草の料理も、けっこう苦労して食ったみたいだぜ?」
「なるほど……でも、昨日のあの料理を作るのには、ちょっと時間がかかってしまうのですよね。同じぐらいやわらかい別の料理でしたら、それほどお待たせせずに済むと思いますが」
そのように答えながら、俺はテリア=マスのほうを振り返った。
《キミュスの尻尾亭》ではもう一品、ギバの挽き肉を使った料理が存在するのだ。テリア=マスは、緊張しきった面持ちでうなずいていた。
「ギ、ギバの肉団子でしたら、すぐにお出しできると思います。幸い、材料もそろっていますので……」
「それじゃあ、そいつで頼む。もしも無理がなかったら、俺たちの分までどっさりこしらえてほしいところだな」
それだけ言い残して、ダグはすみやかに姿を消した。
雄弁なる溜息をつきつつ、レイトがこちらを振り返る。
「申し訳ありません。あの御方は、どうにも強引な気性をしているもので……」
「大丈夫よ。あれぐらいの申し出をするお客様は、珍しくもないから」
テリア=マスは、やわらかく微笑んだ。
「レイトも、あまり気を張らないでね。わたしは、大丈夫だから」
レイトは「はい」と目を伏せた。
それは何となく、レイトらしからぬ――というか、むしろ年齢相応に見える子供らしい仕草であった。
「それでは、肉団子を仕上げましょうか。最近、何か作り方を変えたりはしましたか?」
「いえ、アスタに習った通りのままです。……とりあえず、5人前ほどお出ししましょうか」
他に注文はなかったので、俺たちは3人がかりでその仕事に取り組むことになった。
肉を挽いて、塩とピコの葉を練り込み、団子の形をこしらえてから、鉄鍋で火を通す。表面が焼けたら果実酒を投じ、蓋をして蒸し焼きにする。添え物は、肉団子と一緒に火を通した、アリアとネェノンとナナールのソテーである。
それらに火が通ったら、肉団子と野菜を皿に盛りつけたのち、鉄鍋に残った肉汁と果実酒にタウ油とママリア酢を少量加えて、ソースをこしらえる。フワノの粉をわずかに加えてとろみをつけたら、それを肉団子にまぶして完成だ。
(一年前にはジバ婆さんのためにハンバーグをこしらえて、今日は王都の兵士のために肉団子か。なんというか……運命ってのは、不思議なもんだな)
俺がそんな風に考えている間に、レイトが5人前の皿を食堂へと運んでいく。
それを見届けてから、アイ=ファが「おい」と声をかけてきた。
「あの男が言っていたイフィウスというのは、リャダ=ルウやライエルファム=スドラの言っていた、もうひとりの手練だな?」
「ああ。戦で鼻と上顎を失ってしまったらしいよ。それでいつも、奇妙な仮面をつけているんだ」
「……その男は、貴族であるという話であったな。あのダグという男以上に厄介なやつなのか?」
「いや、仮面のせいで不気味な印象だったけど、他のお客さんとのやりとりを見た限りでは、荒っぽい気性でもないように思う」
昼間の様子を思い出しながら、俺はそんな風に答えてみせた。
すると、入り口のあたりから「そうだね」というとぼけた声が響きわたった。
「貴族といっても騎士階級だし、彼は根っからの武人だよ。そういう意味では、傭兵あがりのダグよりも武人らしい武人だと思う。たとえ料理の味が好みにあわなくとも難癖をつけたりはしないから、何も心配の必要はないさ」
俺は、心から驚くことになった。
刀に手をかけたルド=ルウが、「なんだよー」と不平の声をあげる。
「こんなときに気配を殺して近づくんじゃねーっての! あんたを知らない人間だったら、斬りかかってるところだぞ?」
「ごめんごめん。声をかける機会をうかがっていたのだよね」
ひょろりとした人影が、厨の入り口に立っていた。
金褐色の蓬髪に、同じ色をした無精ひげ、やや垂れ気味の目は紫色で、肉の薄い顔は象牙色。首から足もとまでを隠す旅用のマントを纏った、その人物は――誰あろう、《守護人》のカミュア=ヨシュであった。
「ようやく城下町を離れられるようになったので、様子を見に来たんだ。元気そうだね、アスタにアイ=ファ。それに、ジザ=ルウとルド=ルウと――あなたはたしか、ダン=ルティムでしたか」
「うむ! ようやく姿を現したな! お前さんも、息災のようではないか!」
カミュア=ヨシュとダン=ルティムが交流していた姿は、あまり覚えがない。しかしそれでも、ともにサイクレウスらを打倒した間柄だ。シルエルが俺たちの謀殺を企んだとき、ダン=ルティムやラウ=レイが扉を叩き開けて乱入してきた姿は、今でも鮮烈に記憶に残っていた。
「ちょっと宿場町を一巡りしてきたので、遅くなってしまったよ。レイトから話は聞いていたけれど、今のところは波風立てずに上手くやれているようだね」
ほとんど10ヶ月ぶりぐらいの再会であるというのに、カミュア=ヨシュは変わらぬ姿でのほほんと笑っていた。
「ひさかたぶりだな、カミュア=ヨシュ。族長ドンダも、貴方のことは気にかけていた」
「それはそれは、ありがたいことです。族長らも、今のところは怒りを抑えられているようで何よりですね。王都の貴族の高慢さには、さぞかし鬱憤を溜め込んでおられることでしょう」
厨の中に足を踏み入れてきたカミュア=ヨシュは、テリア=マスにも笑いかけた。
「ああ、テリア=マスもお元気そうで。ミラノ=マスの話は聞いているよ。まったく、とんだ災難であったね」
「あ、はい……その節は、大変お世話になりました」
テリア=マスは、どぎまぎした様子で頭を下げる。
この両者が顔をそろえる姿を見るのも、俺には初めてのことだった。
「それで、何の話だったっけ……ああ、そうそう。イフィウスの話だったね。彼は確かに貴族と呼ばれる身分だけれども、爵位を持つ人間と騎士階級の人間は、まったく別物と考えていただきたい。ましてや彼は、最前線で剣をふるう百獅子長だ。叩きあげの傭兵と変わらぬぐらい、武の道ひと筋に生きてきた人間と認識したほうが、まあ間違いはないだろうね」
「ふむ。お前さんを見ていると、あのダグという者さえ可愛く見えてくるから、不思議だな」
そう言って、ダン=ルティムはまじまじとカミュア=ヨシュを見つめた。
「お前さんのほうが腕が立つというだけの話ではないぞ。お前さんとて人間を斬るために修練を積んで、実際に何人もの人間を斬り捨てているのだろうが……あのダグという者のように、無用な殺気をこぼしたりはしていない。そのほうが、よほど尋常な話ではないのだろうな」
「俺は兵士ではなく《守護人》ですからね。それに、なるべく人を殺めないようにと心がけてもいます。王国のために戦う彼らとは比べるべくもありませんよ」
「そうなのであろうかな。まあ、話半分で聞いておこう」
ダン=ルティムは、にっこりと恵比寿様のように微笑んだ。
カミュア=ヨシュも、変わらずとぼけた笑みを浮かべている。
「まったく、あんたは相変わらずだなー。今までずっと、城下町にこもってたのかよ?」
ルド=ルウが問いかけると、「うん、まあね」とカミュア=ヨシュはそちらを振り返った。
「ある意味では、城下町のほうがよほど大変な騒ぎなんだよ。ジェノス侯はああいうお人柄なんで、そうそう弱みを見せたりはしないけど……だけどまあ、今回ばかりは全身全霊で立ち向かっていることだろうね」
「ふーん。ジェノスの侯爵ってのは、よっぽど王都の連中に嫌われてるんだなー」
「嫌われているというよりは、警戒されているんだよ。ジェノス侯が名君であればあるほど、王都の人間は警戒心をかきたてられてしまうのさ」
「それは、何故なのだ? トトスでひと月もかかるほど遠くにある土地の話を、そこまで重んずる理由がわからない」
ジザ=ルウが口をはさむと、カミュア=ヨシュはひょいっと肩をすくめた。
「それを説明するのは、なかなか手間なのですが……みなさんは、ゼラド大公国というものをご存じかな?」
「あ、はい。たまたま俺が町で話を聞いたので、この場にいる人たちにはざっと説明してありますよ」
俺がそのように答えると、カミュア=ヨシュは「そうか」と目尻を下げた。
「だったら、それほどの手間ではないかもしれない。早い話、王都の人間は、ジェノスが第二のゼラドになるのではないかと危惧しているのですよ」
「第二のゼラド? それはつまり――」
「ええ。王都アルグラッドの支配から逃れて、セルヴァの地に独立国家を打ち立てようと目論んでいるのではないか――端的に言うと、彼らはそれを危ぶんでいるのです」
カミュア=ヨシュは、変わらぬ笑顔でそのように述べたてた。
「しかもジェノス侯は、東の王国シムとの交易を活性化させるために、新たな道を切り開いたでしょう? なおかつ、モルガの山の向こう側に、新たな宿場町を建立しようと計画されているそうじゃないですか。そんなことを思いついて、実行に移そうというのは、ジェノス侯が凡庸でない証なのですが……王都の人間にしてみれば、いっそう疑いを深める結果になってしまったわけなのです」
「何故だ? その話がどう関わってくるのか、俺にはさっぱりわからないのだが」
「つまりですね、ゼラド大公国はジャガルの後ろ盾もあって、あそこまでの力をつけることができたわけです。それにならって、ジェノスはシムを後ろ盾にしようと目論んでいるのではないかと、そういう疑いを招いてしまったわけですよ」
ジザ=ルウは、笑顔のように見える表情のまま、眉をひそめていた。
カミュア=ヨシュは、マントから出した手で下顎をかいている。
「実際のところ、ジェノスが独立したところで、王都にそこまで甚大な損が生じるわけではありません。でも、それでは王国の威信が保てないのです。その調子で他の領主たちが次々と離反していってしまったら、王国の基盤が音をたてて崩壊してしまいますからね。それは王都の人々だって、必死になるわけです」
「……ジェノス侯爵は、実際にそのようなことを目論んでいるのだろうか?」
「いいえ。そんなことをしたって、ジェノス侯爵に大きな得はないんです。そんなことをしたら、セルヴァ領内の町はジェノスとの交易を禁じられてしまいますし、最終的には王都から討伐部隊の大軍を迎えることになるでしょう。『王を名乗りたい』という権勢欲にでも取り憑かれない限り、そんな真似をする意義はないのです」
「ならば、王都の人間たちは何をそのように警戒しているのだ?」
「ですからそれは、彼らが権勢というものに一番の重きを置いている、ということなのでしょう。人間は、自分を見本にして相手の存在を見定めようと考えてしまう生き物ですからね」
そう言って、カミュア=ヨシュはふいに背後を振り返った。
それと同時に、狩人たちが張り詰めた気配を発散させる。
「だから、けっきょくはすべてが誤解の産物であるのです。王都とジェノスの間に存在する誤解と確執が一日も早く解けることを、俺は心から願っておりますよ」
「ふん。俺たちにしてみれば、どうでもいい話だな」
笑いをふくんだ声が、入り口のほうから聞こえてくる。
しかし、その声の主が現れるより早く、レイトが厨に飛び込んできた。
「カミュア、来ていたのですね。いつの間に厨まで入り込んでいたのですか?」
「いやあ、レイトは忙しそうにしていたから、声をかけるのは遠慮したんだよ」
レイトの後から、ふたつの人影も姿を見せた。
百獅子長のダグおよびイフィウスである。
ダグはにやにやと笑っており、イフィウスはシュコーと呼吸音を響かせていた。
「ようやく石塀の外に出てきたな、カミュア=ヨシュ。ジェノス侯爵のお守りは終わったのか?」
「ええ、まあ、俺のような余所者にできることなど、おのずと限られておりますからね」
「ふうん」と、ダグはせせら笑った。
「何にせよ、俺たちにできるのは、上官の命令に従って敵を討ち滅ぼすことだけだ。刀が錆びちまう前に、仕事を与えてほしいところだな」
「あなたがたの敵は、マヒュドラとゼラドですよ。このジェノスに、あなたがたの敵は存在しません」
「それを決めるのは、俺たちの上官だ。つまりは、その上官の上におられる国王陛下や貴族たちってことだな」
そう言って、ダグは俺のほうに視線を向けてきた。
「こいつが直接、礼を言いたいっていうんで、連れてきたぜ。そら、とっとと用事を済ましちまいな、イフィウス」
「……どでもびびだっだ……おげえなでばをがげざぜでじばい……ぼうじわげだぐぼぼっでいどぅ……」
「どうだい、聞き取れたか?」
「は、はい、とても美味だった、と仰ってくれたのでしょうか……?」
「とても美味だった。余計な手間をかけさせてしまい、申し訳なく思っている、だな。実際、あの肉団子は美味かったよ。よければ、さっきの倍の量をこしらえてもらいたいところだな」
ダグは勇猛に笑い、イフィウスはうっそりとうなずいた。
それから、ダグの目が再びカミュア=ヨシュに向けられる。
「お前はギバ料理をさんざん口にしていたんだよな、カミュア=ヨシュ。どうして道中で、それを俺たちに自慢しなかったんだ?」
「王都の方々には、先入観なくギバ料理を味わっていただきたかったのですよね。口にあうかは、人それぞれでしょうし」
「ふん。そいつもお前の計略か? ま、俺たちを相手に計略なんざを仕掛けても意味はねえよ。何度も言う通り、すべてを決めるのは上の連中だからな」
猛禽を思わせるダグの目が、不敵に森辺の狩人たちをにらみ回していく。
「美味い料理を食わせてもらった礼に、ひとつだけ忠告しておくか。貴族様の取り扱いを間違えるんじゃねえぞ? 今回ジェノスまで出張ってきた連中は、とりわけ厄介な性根をしてるからな」
「……それが貴方がたの君主なのではないのか?」
「へん、俺たちの剣の主人は将軍や部隊長だよ。それに命令を下すのが貴族様ってことさ」
ダグは腰に下げた剣の鞘を撫でながら、身を引いた。
「それじゃあな。もういっぺん、同じ量のギバ料理を注文させていただくから、よろしく頼む。おら、行くぞ、イフィウス」
イフィウスは、優雅な仕草で一礼してから、きびすを返した。
カミュア=ヨシュはにこやかに笑いながら、俺たちを振り返る。
「彼らもそれなりに頑なな気性であったと思うけれど、わずか4日でずいぶん懐柔できたようだね。やはり、美味なる料理の力というのは偉大だねえ」
「……でも、重要なのは城下町に居座っている貴族たちのほうなのですね」
「うん。確かにあれは厄介な方々だと思うよ。サイクレウスやシルエルのように悪人なわけではない、というのがまた厄介だね」
「ふん。悪人やら罪人やらだったら、ぶっ倒しちまえばいいだけだもんな。偉ぶってるのに悪人じゃねーってのは、確かに厄介かもしれねーや」
頭の後ろで腕を組みながら、ルド=ルウがそう言い捨てた。
それを合図に、かまど番の3名は自分たちの仕事に取りかかることにした。
その作業を進めつつ、俺はカミュア=ヨシュを横目で見る。
「カミュアはもう食事を済まされたのですか?」
「いや、まさか。アスタたちに会おうと思って城下町から出てきたのに、そんなもったいないことをするわけないじゃないか」
「では、一緒に作ってしまいましょう。以前よりもさまざまな食材を使えるようになったので、きっとカミュアにも喜んでもらえると思いますよ」
そのように言ってから、俺は作業の手を止めて、カミュア=ヨシュに向きなおった。
「今さらですけど、おかえりなさい、カミュア。ひさびさに会えて、嬉しく思っていますよ」
「うん、俺もだよ。アスタは、ずいぶん成長したようだね」
にんまりと笑いながら、カミュア=ヨシュはアイ=ファのほうにも目を向けた。
「アイ=ファはますます美しさに磨きがかかったようだ。……もうアスタと婚儀をあげたりはしたのかな?」
「……数ヶ月ぶりに顔をあわせて、最初の言葉がそれか」
「おお、怖い目だ! 狩人としての力量にも磨きがかかったようだね!」
あまりにすっとぼけたカミュア=ヨシュの挙動に、俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのだ」と、アイ=ファはむくれてしまっている。
しかし、このような状況にあって、カミュア=ヨシュほど頼りになる人間は他にいないだろう。俺は心から、このつかみどころのない魅力を有した友人との再会を寿ぎたかった。