緑の月の四日①~友たる火と地~
2017.11/12 更新分 1/1
「なに!? それでは昨晩は、アスタがその宿の厨を任されたのか!?」
翌日の、緑の月の4日である。
屋台に来るなりわめき声をあげていたのは、やはりバランのおやっさんであった。
「ええ、その宿屋はご主人が怪我をされてしまったので、俺たちが仕事を手伝うことになりました。……それがどうかしましたか?」
「どうかしたもへったくれもあるか! そんなの、ずるいではないか!」
壮年の男性が「ずるい」などという言葉を使うのは、実に微笑ましいものである。
などと俺がしょうもないことを考えている間に、アルダスが「まあまあ」とたしなめてくれた。
「こっちはナウディスが元気に働いてるんだから、アスタを呼びつけるわけにもいかないだろ? それに、アスタがいなくったって、美味い料理を腹いっぱい食えてるじゃないか」
「ううむ……しかし、納得がいかん!」
今日は建築屋の仕事が長引いたようで、おやっさんたちが姿を現したのは中天のかきいれどきを過ぎてからであった。
ということで、俺も屋台の料理を仕上げつつ、心置きなく親睦を深めることができた。
「だけど俺たちは、あくまで手伝いをしただけですからね。宿屋で決められた献立を同じように仕上げていただけなんですから、いてもいなくても同じようなものなのですよ」
「そうだよ。ナウディスに怪我をしろと祈ることもできないだろ? 子供みたいな我が儘を言ってないで、おやっさんも早く注文しろよ」
なんというか、おやっさんを筆頭とする建築屋の人々との交流は、俺にとって日々の心労を癒す憩いのひとときみたいになってしまっていた。
現時点で、俺自身には何の災厄も降りかかっていないのだが、《キミュスの尻尾亭》における災難にはたいそう心を痛めることになったし、王都の人々の動きは不穏だ。アイ=ファからダグたちの話を聞かされたライエルファム=スドラらは、いっそう張り詰めた雰囲気で護衛役の仕事に取り組んでいた。
そんな中、賑やかなジャガルの人々と言葉を交わしていると、重苦しい気持ちが緩和されていくのである。
はたから見れば、髭もじゃの男性たちに取り囲まれているようにしか見えないのであろうが、俺としてはちょっとしたハーレム気分であった。
そしてその日は、そこにさらなる彩りを加えてくれる人物が登場した。
ジャガルの民、鉄具屋の息女たるディアルである。
「やあ、ディアル。ちょっとひさびさだね」
ディアルが屋台を訪れるのは、10日か半月に1度のペースである。
今日もラービスをお供に連れて、屋台の前に立ったディアルは、しかし格段に不機嫌そうな顔をしていた。
「アスタのほうは相変わらずみたいだね。宿場町には200名もの兵士たちが居座ってるって聞いたけど、特に迷惑はかけられてないのかな?」
「うん、まあ、それは話すと長くなるんだけど……それよりも、こちらの方々のことは覚えているかな?」
バランのおやっさんたちは、いぶかしげにディアルの姿を見やっていた。
ディアルは面倒くさそうに、そちらを振り返る。
「こちらの方々って? どこかで会ったっけ?」
「ふん。ジェノスでジャガルの若い娘を見るのは珍しいな。……待てよ、その顔にはどこか見覚えがあるような……」
「ああ」と最初に気づいたのは、アルダスであった。
「お前さんは、あれだ。ゼランドの鉄具屋の娘だな。確かに去年も、アスタの屋台の前で顔をあわせたな」
「あー、えっと、もしかしたら、ネルウィアの人たち? うわー、懐かしいね!」
と、不機嫌そうであったディアルの顔に、ぱあっと明るい笑みが広がる。
「なるほどな」と、おやっさんも顎髭をしごいた。
「俺も思い出したぞ。ギバの料理など食えるものかと騒いでいた、あの娘か。その上等な身なりにも覚えがあったわ」
「いやだな、そんな昔のこと、ほじくりかえさないでよ」
ディアルは、照れたように頬を赤くした。
「ふむ」と、おやっさんは片方の眉を吊りあげる。
「以前は小生意気な男のように振る舞っていたのに、ずいぶん娘らしい顔をするようになったではないか。年頃の娘としては、けっこうなことだ」
「もう、やめてってば!」
「しかし、またこのような場所で顔をあわせるとは、ずいぶんな奇遇だな。お前さんたちも、この時期にジェノスを訪れているのか?」
「いや、僕と何人かはジェノスに住みついて、鉄具の注文を受けてるんだよ。このまま城下町に店を開けるかどうか、計画してるところなんだよね」
「なに!? それでは、去年からずっとジェノスに留まっているというのか!?」
たちまちおやっさんが沸騰すると、アルダスが苦笑してそれをたしなめた。
「また人をずるい呼ばわりするつもりか? おやっさんのギバ料理に対する執着心は尋常じゃないな」
「ずるいって、何が? 言っておくけど、僕だって好きなときにアスタの料理を食べられるわけじゃないんだよ? 城下町にアスタを招こうって話も、あいつらのせいで先のばしにされちゃったしさ!」
「あいつら?」とアルダスが首を傾げる。
ディアルは唇をとがらせながら、俺のことを見つめてきた。
「ね、アスタ、悪いんだけど、少し時間をもらえないかな? あいつらのことで、ちょっと話を聞きたいんだけど」
俺としても、これは城下町の様子を聞くことのできる貴重なチャンスであった。
相方であったリリ=ラヴィッツに屋台の商売をおまかせして、料理を買ったディアルと一緒に青空食堂へと移動する。事情を聞いたユン=スドラは、また気をきかせて屋台のほうに駆けつけてくれた。
「アスタ、あいつらはいったい何なのさ? 毎日のように人を呼びつけて、鬱陶しいったらありゃしないんだけど!」
「ああ、やっぱりディアルのところにも行ってたんだね。ディアルはサイクレウスやリフレイアとも交流があったから、王都の人たちにその話を聞かれてるんだろう?」
「そうなんだよ! 昔の話をぐちぐちとさあ! 何回聞かれたって、おんなじ話しかできやしないってのに!」
『ケル焼き』をがぶりと噛み取って、それを呑み下してから、ディアルは俺に顔を寄せてきた。
「あいつらさ、いったい何を疑ってるわけ? リフレイアは本当にアスタをさらったのか、森辺の民はどうやってそれを取り返したのかって、やたらとしつこく聞いてくるんだけど」
「俺にも確かなことはわからないけど、たぶんジェノスの貴族から報告された内容が真実であるのかどうか、裏を取ってるんじゃないのかな」
族長たちも、昨日と一昨日は2日連続で、トゥラン伯爵家を巡る騒動について問い質されたのだと聞いている。本日はなんとか呼びつけられずに済んだが、グラフ=ザザなどはかなり鬱憤を溜め込んでいるという話であった。
「やっぱり、そういう話なんだね。王都の連中が居座って以来、ポルアースと連絡が取れなくってさ。まったく事情がわからなかったんだよ」
「そうか。でも、ディアルは知っていることをそのまま話してくれれば、それで十分だよ。俺たちには、何も後ろめたいことなんてないからさ」
「うん、そうだよね。……でも、リフレイアは大丈夫なのかなあ? そっちはもう、しばらく面会を禁じるってはっきり言われちゃったんだよね」
雨に打たれた子犬のように、ディアルがしょげた顔をしてしまう。
俺としても、リフレイアの身は心配でならなかった。
「あのさ、まさか今さら、リフレイアに別の罰が下されることにはならないよね?」
「ええ? さすがにそれは、ないと思うよ。むしろ王都の人たちは、ジェノス侯爵家の側に非があるんじゃないかって疑ってるみたいだからさ」
「そっか。それならいいんだけど……せっかくリフレイアも元気になってきたところなんだから、これ以上苦しめたくないんだよね」
ディアルの立場であれば、そのように考えるのが当然であるように思えた。俺にしてみても、リフレイアの処遇が今よりも悪くなるなどとは、考えたくもなかった。
(そうか。それに、北の民の扱いについての話もあったんだった。森辺の民は北の民に関わるべきじゃないっていうメルフリードの言葉は、こういう事態を想定してのことだったんだな)
ジェノスの人々が、敵対国たるマヒュドラの民を、不当に優遇したりはしていないか。王都の人間はその点にも着目しているのだと、メルフリードはかつて語っていたのだった。
「……シフォン=チェルは、今でもリフレイアの侍女なんだよね?」
「え? そりゃもちろん。変な話、今となってはあの娘もリフレイアにとっては心の拠り所みたいだからね」
そのように答えてから、ディアルは猛烈に心配そうな顔をした。
「なんで急にそんな話をするのさ? まさか、王都の連中があの娘をリフレイアから引き離したりはしないよね?」
「うん、俺もそうならないように祈ってるんだけど……」
「何だよもう! 余計に心配になってきちゃったじゃん!」
ディアルは、やけくそのように『ケル焼き』を噛みちぎった。
「とにかくさ、あいつらロクなもんじゃないよ。上っ面は礼儀正しいけど、ジャガルの民を見下してるのも丸わかりだね! 僕たちは、ゼラド大公国なんかとは何の商売もしてないってのにさ!」
「それじゃあ王都の人たちってのは、シムの民と仲がいいのかな?」
「いーや、シムの民のことも嫌ってるみたいだね。ていうか、西の王都とシムは遠いから、貴族の連中はシムの民なんかとつきあいがないんじゃない? シムの商人はどこにでも現れるけど、ジェノスみたいに貴族が相手にすることはないだろうしさ」
それでは、城下町に滞在しているシムの人々――アリシュナや《黒の風切り羽》の面々は、どのような扱いを受けているのだろうか。
俺としては、心配がつのっていくばかりであった。
「あいつらがいなくならないと、アスタを城下町に呼ぶこともできないんでしょ? まったく、僕にとっては疫病神そのものだよ! あんな連中、とっとと王都にでもどこにでも――」
と、ディアルがわめきかけたとき、影のようにたたずんでいたラービスが「ディアル様」と呼びかけてきた。
「食事を終えたのなら、城下町に戻りましょう。これ以上この場には留まらないほうがいいようです」
「え? 急にどうしたのさ、ラービス?」
そして、俺のほうもまた、青空食堂の護衛をしていたチム=スドラに呼びかけられることになった。
「アスタよ、王都の兵士たちというものがやってきたようだ。お前も屋台に戻るべきではないか?」
俺は愕然と、屋台のほうを振り返った。
確かに、10名ていどの兵士たちが、屋台の前に密集している。それ以前に集まっていたお客たちは、眉をひそめてそれから距離を取っていた。
「……僕がアスタとこそこそ話しているところを見られたら、まずいのかな。ちぇ、もうひと品ぐらい、ギバの料理を食べたかったのに」
不平そうにぼやきながら、ディアルはマントのフードをかぶった。
「しかたない。また時間を見つけて来るからね。アスタもくれぐれも気をつけて」
「ありがとう。ディアルもね」
俺はチム=スドラに付き添われつつ、屋台へと駆け戻った。
が、何もおかしな騒ぎにはなっていない。屋台の女衆は、みんな黙々と料理を仕上げているばかりである。
「あ、アスタ、もうよろしいのですか?」
俺の代わりに『ギバ・ビーンズ』を盛りつけていたユン=スドラなどは、笑顔で俺を振り返ってきた。
毒気を抜かれてしまった俺に、「よお」という声が投げかけられる。
「今日は休みかと思っていたら、どこに引っ込んでいたんだ? まさか、俺たちに恐れをなしたわけじゃねえだろう?」
百獅子長の、ダグである。
その目が、俺の左右に並んだライエルファム=スドラとチム=スドラの姿を見比べる。
「ま、そんな立派な護衛役に守られてれば、恐れをなす理由もねえな。昨日の連中がよりすぐりなのかと思いきや、どいつもこいつも化け物じみてやがるぜ」
そのように述べながら、ダグは今日もその精悍な面にふてぶてしい笑みをたたえていた。
そして、そのかたわらではもうひとりの百獅子長イフィウスが、シュコーシュコーと奇怪な呼吸音を響かせている。
「昨晩は、どうも。今日はいったいどうされたのですか?」
「見ればわかるだろ。屋台の料理を買いに来てやったんだよ」
周囲の兵士たちも、変わらぬ様子でにやにやと笑っていた。
昨晩も、おかしな騒ぎにはならなかったのだ。20名分のギバ料理を出して、しばらく待機していた俺たちに届けられたのは、「満足した、だそうです」というレイトの言葉のみであった。
「朝になっても腹を下したりはしなかったからな。だったらこいつは、ただの上等な食い物だ。キミュスの皮なし肉やカロンの足肉なんざに銅貨を払うのが馬鹿らしくなっちまうよ」
「……そうですか。お気に召したのなら、よかったです」
俺はいささか迷ったが、そのままユン=スドラに屋台をおまかせして、青空食堂での仕事を受け持つことにした。
ディアルたちは引き上げたが、建築屋の面々はまだ食堂に居残っていたのである。そちらに注意を喚起しておきたいというのが、理由の大なるところであった。
「アスタはあちらで働くのか? では、俺が移ろう」
と、護衛役のほうはライエルファム=スドラとチム=スドラが場所を入れ替えることになった。
青空食堂には、もうひとりのスドラの狩人とリャダ=ルウも待機している。その両名にも、これから王都の兵士たちがやってくることが告げられた。
それを尻目に、俺は建築屋の面々へと声をかけさせていただく。
「あの、おやっさん、これから兵士の方々がこちらにやってきますので……その、何とか穏便にお願いいたします」
「うむ? あいつらがギバの料理を買ったのか? 4日目にして、ようやくギバ料理の美味さを知ったか!」
宿屋でも兵士たちと顔をあわせているおやっさんたちは、まるで平気な顔をしていた。
が、それ以外のお客たちは、いさかならず慌てた様子で料理をたいらげている。中には、食べかけの料理を持ったまま、席を離れる人々もいた。
「おお、こいつは立派な席だ。気分は貴族様だな」
と、ダグの率いる兵士たちが、ぞろぞろと近づいてくる。
その手には、いずれも持てるだけの料理がどっさりと抱えられていた。
「何だ、南の民ばっかりだな。ちょいとお邪魔するぜ」
自分の席につきながらダグが呼びかけると、おやっさんはじろりと視線を返した。
「べつだん邪魔なことはないぞ。ギバの料理を買った人間には、誰もが座る権利があるのだからな」
「そうかい。そいつは何よりだ。……火の友たる地に幸いを」
ダグがよくわからないことを言いながら、その手の『ケル焼き』をひょいっと持ち上げると、おやっさんはけげんそうに立派な眉をひそめた。
「……お前さんは、ジャガルの民を疎んではおらんのか?」
「うん? 俺たちがあんたたちを疎む理由があるかい?」
「王都の兵士連中は、ジャガルの民を疎むものであろうが? 宿屋で居合わせた連中などは、やかましくてかなわんぞ」
「そいつは尻の穴の小さな連中だな! 俺の隊の人間じゃないことを祈るばかりだぜ!」
ダグが笑い声をあげると、他の兵士たちも笑った。
ただひとり、奇妙な面をつけたイフィウスだけは、にこりともせずに虚空を見つめている。
「ゼラドを育てたのは、ジャガルだろう? で、育ったゼラドを刈り取るのが、俺たちの仕事だ。獲物がいなくちゃ働く場所もなくなるんだから、俺なんかはジャガルに感謝してるぐらいだな!」
「ふん。よくわからん若造だ。……地の友たる火に幸いを」
そのように言い捨ててから、おやっさんは食べかけの『ギバ・ビーンズ』が載った木皿をひょいっと持ち上げた。
よくわからないが、それはどうやらセルヴァとジャガルの間で交わされる挨拶のようだった。俺にとっては、初めて目にする光景である。
(そういえば、セルヴァは火を司る神で、ジャガルは大地を司る神なんだっけ。それで、シムが風で、マヒュドラは……えーと、水だか氷だったかな?)
ともあれ、ダグの率いる一団と建築屋の面々がおたがいを尊重できるのであれば、それほどありがたい話はなかった。
俺は胸を撫でおろしつつ、自分の仕事に取りかかる。レイやムファの女衆とともに、空いた木皿を洗うのだ。
酒が入っていないせいか、兵士たちが馬鹿騒ぎをすることはなかった。
どちらかといえば、建築屋の面々のほうが賑やかなぐらいである。
それで、屋台を遠巻きにしていた人々も、おそるおそる料理を買ってくれるようになった。木皿の料理を買った人々は、なるべく兵士たちから遠い席に座って、背を向けて料理を食べている。
(今のところ、《キミュスの尻尾亭》の他で大きな騒ぎが起きたって話も聞かないんだよな。この調子で、穏便に終わるといいんだけど……)
そうしてひと通りの皿洗いを終えて、これなら屋台に戻っても大丈夫かな――と、俺が考えかけたとき、いきなり「おい!」という怒声が響きわたった。
「その男は何とかならんのか!? 幼子でもあるまいし、もう少し食い方というものがあるだろうが!」
怒っているのは、バランのおやっさんであった。
俺はライエルファム=スドラに目配せをしてから、そちらに駆け寄っていく。
「ど、どうされたのですか、おやっさん?」
「おお、アスタ! そこのそいつを何とかしてくれ! こっちの料理までまずくなってしまうわ!」
おやっさんの指し示す方向には、百獅子長イフィウスの姿があった。
しかし、こちらに背を向けているので、何がおやっさんの逆鱗に触れたのかは、さっぱりわからない。
困惑しながらダグのほうに目を向けると、彼はにやにやと笑いながら肩をすくめていた。
「何とかしろって言われても、何ともならねえんだよなあ。背中を向けてるのが、せめてもの気づかいってもんさ」
「そんなもん、何の気づかいにもなっておらんわ! ぐちゅるぐちゅると気色の悪い音をたておって!」
今は食事の手を止めているのか、何の音も聞こえてこない。
ただ、例のシュコーシュコーという呼吸音だけが、不気味に響きわたっていた。
「俺らはすっかり慣れちまったが、やっぱりそんな気色の悪いもんなのかね。おい、イフィウス、南のご友人がすっかりご立腹だぞ?」
ダグはイフィウスの肩を荒っぽく小突いた。
それで振り返ったイフィウスの姿を見て、俺は言葉を失ってしまう。
イフィウスは、その口もとをカレーまみれにしていた。
そして、いつの間にやら胸もとに前掛けをつけており、そこにもカレーの汁を盛大に飛び散らせている。
「……うがいなおぼいをざぜだのだだ、おわびをずず……」
と、カレーまみれの口で、イフィウスが濁った声を絞り出した。
おやっさんはきつく眉を寄せており、他の面々は薄気味悪そうに身を引いている。
「何だその声は。そいつはどこか不自由なのか?」
「ああ。イフィウスはこう、横から顔面を槍で貫かれちまったんだよ。そのときに、鼻と上顎をごっそり持っていかれちまってな。それ以来、こんな具合なんだ」
こともなげに言いながら、ダグはイフィウスの背中をバンバンと叩いた。
「だからまあ、何を食ってもこうやって赤ん坊みたいにこぼしちまうんだよ。口の上半分がないんだから、当然の話だな」
「……うがいなおぼいをざぜだのだだ、おわびをずず……」
「これは、不快な思いをさせたのなら、お詫びをするって言ってるんだ。シムやマヒュドラの言葉に比べりゃ、そんなに難しくもねえだろ?」
おやっさんはいよいよ眉間に深いしわを寄せながら、「そうか」とつぶやいた。
「そんな事情があるとは知らなかったので、つい声を荒らげてしまった。こちらこそ、詫びさせてもらいたい」
「ああ、気にすんな。あんたが西の民だったら、王国のために傷ついた勇士を馬鹿にすんのかって、怒鳴りつけてたかもしれねえけどな。南の民なら、そんな事情は知ったこっちゃねえだろ」
ダグは、あくまで陽気に笑っていた。
目つきの鋭さや威圧的な雰囲気はもともとであるので、ことさら気分を害しているようには思えない。他の兵士たちも、べつだん変わったことが起きたという様子も見せずに食事を続けている。
そんな中、イフィウスはゆらりと立ちあがった。
そして、雑木林に面した最奥の席にぽつんと陣取り、食事を再開した様子である。
「さ、これで静かになったろ? 気にせず食事を続けてくれ」
それから、ダグは俺のほうに目を向けてきた。
「おい、屋台のほうが上等な材料を使ってるみたいだな。宿屋の料理よりも美味いぐらいで、みんな大満足だ」
「そ、そうですか。それは恐縮です」
「今日の夜も、宿屋の仕事を手伝うのか? だったら、また美味い料理を期待してるぜ」
それだけ言って、ダグも仲間たちのほうに向きなおって、食事を再開させた。
おやっさんは、無念そうに俺を見つめてくる。
「アスタよ、騒がしくしてしまって悪かったな。今のは完全に、俺のほうが悪かったようだ」
「い、いえ、お気になさらないでください」
「まったくな。誰かれかまわず怒鳴りつけるから、こういうことになるんだよ」
口ではそのように述べながら、アルダスはいたわるようにおやっさんの肩を叩いていた。
おやっさんは仏頂面のまま、しゅんとしょげてしまっている様子である。
「……確かに、無法者の集まりというわけではないようだな。態度は粗野でも、人間としての礼節はわきまえているように思える」
おやっさんや兵士たちから離れると、ライエルファム=スドラがそのように囁きかけてきた。
「しかし、リャダ=ルウから聞いていた通り、町の人間としては尋常でない力と、そして不吉な気配を纏っているように思える。料理の味を認められたとしても、決して油断するのではないぞ、アスタよ」
「ええ、わかっています」
彼らは、あくまで兵士であるのだ。ジェノスを訪れたのも、宿場町に居座っているのも、情報収集に励んでいるのも、すべては貴族や上官の命令であるのだ。
王都の貴族が森辺の民を敵とみなせば、彼らの刀がこちらに向けられることになる。肝要なのは、彼らではなく王都の貴族たちの思惑なのだった。
(いずれは俺も、王都の貴族たちに呼びつけられるんだろうか……そのときこそ、正念場だな)
そんな風に考えながら、俺は仕事に戻ることにした。
屋台の商売は終わりに近づいていたが、この後にはまた《キミュスの尻尾亭》における仕事が待ちかまえていた。