緑の月の三日②~キミュスの尻尾亭~
2017.11/11 更新分 1/1
夕暮れ時である。
森辺の集落で明日のための仕込み作業を済ませた俺たちは、再び宿場町に下りていた。
ドンダ=ルウからもアイ=ファからも、《キミュスの尻尾亭》の仕事を手伝う了承をいただくことがかなったのだ。
その代わりに、護衛役には錚々たるメンバーが準備されることになった。
アイ=ファ、ジザ=ルウ、ルド=ルウ、ダン=ルティムという、森辺でも屈指の狩人たちである。
「この顔ぶれだったら、たとえ200名の兵士に囲まれようが、無事に逃げおおせることができるだろうさ」
出立の間際、ドンダ=ルウはそのように述べながら笑っていた。
ドンダ=ルウが笑っているということは、すなわち臨戦の態勢にあるということだった。
「兵士どもがどんな連中かは知らねえが、俺たちが城下町で顔をあわせた貴族どもはまったく信用がならなかった。あのレイトという小僧が何と言おうとも、用心しないわけにはいかねえ」
ドンダ=ルウは、そんな風にも言っていた。
それで俺たちは、狩人らが森から戻ってくるのを待ち、宿場町へと出立することになったわけである。
「ふふふ。宿場町に下りるのは、実にひさびさだ! こいつはなかなか愉快な夜になりそうだな!」
荷車で揺られながら、ダン=ルティムはひとりご満悦であった。
荷車の運転をルド=ルウに任せたアイ=ファは、俺のかたわらで苦い顔をしている。
「ダン=ルティムよ、遊びに行くのではないのだから、そのつもりでな。そして、自分から騒ぎを起こすような真似も控えてもらいたい」
「案ずるな! 俺もそこまで浅はかではないぞ! ……しかし、リャダ=ルウにそこまで言わしめたほどの者たちというのは、やはり気になるではないか!」
もともと護衛役は、ルウ家から3名を出す予定であった。しかし、ガズラン=ルティムから事情を聞いたダン=ルティムが、ミム・チャーをすっとばしてルウの集落まで駆けつけて、護衛役に名乗りをあげてきたのである。
ドンダ=ルウもしばし黙考していたが、最終的にはダン=ルティムの提案を受け入れていた。何せダン=ルティムは、ルウの血族でも一、二を争う実力者であるのだ。その直情的な気性に若干の不安を残しつつも、狩人としての力量を重んずることになったのであろう。
「ま、ダン=ルティムが来なかったら、きっとダルム兄が選ばれてたんだろうしな。せっかく嫁を取ったばかりなんだから、ダルム兄もこっそり喜んでるんじゃねーの?」
御者台で手綱をあやつりながら、ルド=ルウがそのように述べたてた。
ダルム=ルウの心情は不明なれども、俺は同じ気持ちをライエルファム=スドラに抱いていた。せっかく赤児が産まれたばかりであるのだから、夜ぐらいは家でその喜びを噛みしめてほしいと、俺もずっとそのように願っていたのだ。
「そういえば、我らの向かう宿屋にその百獅子長なる者たちは滞在しているのだろうか?」
と、ずっと静かにしていたジザ=ルウが、そのように問うてきた。
俺は、「はい」とうなずいてみせる。
「俺もレイトに聞いてみたのですが、百獅子長のダグという人物は《キミュスの尻尾亭》に滞在しているそうです」
「ふむ! それがどのような男であるのか、実に楽しみだ!」
ダン=ルティムは、あくまで陽気である。
アイ=ファとジザ=ルウは、真剣そのものの表情だ。
そして、厨の仕事を手伝う人間としては、俺の他にレイナ=ルウも同行していた。
森辺を出立したのは日没間際であったので、荷車を走らせる内に、どんどん周囲は暗くなっていく。
そうして宿場町に辿り着いてみると、街道にはもうかがり火が焚かれていた。
復活祭の折にも目にした、夜間用のかがり火である。
一定の間隔で街道に壺が置かれて、そこに火が灯されるのだ。復活祭のときよりも壺の数は少ないように思えたが、暗闇の中にぽつんぽつんと等間隔で赤い火が灯されているのは、何とも玄妙なる様相であった。
「ふむ。このように暗くとも、まだ出歩いている人間はいるのだな」
御者台の脇から外界をうかがっていたアイ=ファが、ぽつりとつぶやく。
それでも人の数はまばらであったし、なおかつ、巡回している衛兵の数は日中よりも多くなっていた。余所の町よりも豊かであるために、ジェノスの宿場町はこうして夜間も衛兵に守られているのである。
そうして《キミュスの尻尾亭》に到着すると、出迎えてくれたのはレイトであった。
普段の装束の上から前掛けをつけているのが、ちょっと可愛らしい。
「お待ちしておりました。トトスと荷車は僕がお預かりしましょう。王都の兵士たちはまだ戻っていませんので、今の内に厨にどうぞ」
「え? 彼らはまだ戻っていないのかい?」
「ええ。今日はずいぶん遠くのほうまで足をのばした様子ですね。そのまま別の宿で食事を済ませてくれたら、ありがたいぐらいなのですが」
そのように述べながら、レイトはギルルの手綱を引いて建物の裏手に消えていった。
俺たちは、ひとかたまりとなって《キミュスの尻尾亭》の扉をくぐる。
「ああ、アスタにレイナ=ルウ……それに他のみなさんも……今日はご足労をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません……」
厨では、テリア=マスがひとりで仕事の準備をしていた。
まずはルウ家の代表として、ジザ=ルウが前に進み出る。
「俺はルウ本家の長兄ジザ=ルウだ。何度か顔はあわせているはずだが、いちおう名乗りをあげておく。……そして、今日のことは我々にとっても必要な行いであると族長は判断したので、何も気にする必要はない」
「ひ、必要な行い、ですか……?」
「うむ。王都の者たちは、森辺の民に大きな関心を寄せているようだからな。宿場町に居座った兵士たちがどのような性根をしているか、族長に代わって俺が見届けさせていただこうと考えている」
しかつめらしく述べるジザ=ルウの横から、ルド=ルウがひょこりと顔を出す。
「それに、あんたたちはもうルウ家の友だからな。礼を言うのはいっぺんで十分だから、あとは遠慮なく頼ってくれよ」
ルド=ルウは先日、リミ=ルウやドーラ家の人々とともに、食堂の客として《キミュスの尻尾亭》を訪れたのだという話であった。
テリア=マスは、泣きそうな笑顔で「ありがとうございます」と頭を下げている。
「父も御礼を述べると言ってきかなかったのですが、今は痛み止めの薬を飲ませて眠らせていますので……また後日、あらためて御礼を言わせてやってください」
「ああ。親父さんが動けるようになるまでは、毎日俺たちが顔を出すことになるんだろうからさ。無理せず身体を大事にしろって伝えておいてくれよ」
ルド=ルウが、にっと白い歯を見せる。
そのかたわらで、ダン=ルティムはひくひくと大きな鼻をひくつかせていた。
「しかし、美味そうな匂いが漂っているものだな! 俺は腹が空いてきてしまったぞ!」
「ば、晩餐はこれからなのでしょうか? でしたら、今の内にお召しあがりください。まだ食堂にはほとんど人も入っていない様子ですので……」
厨には物置が併設されており、そこにふたりの人間が座れる卓と椅子が準備されていた。普段、テリア=マスたちも、手が空いたときにそこで手早く食事を済ませるのだそうだ。
「それでは、2名ずつ食事を済ませましょうか。ジザ=ルウ、ダン=ルティム、よかったらお先にどうぞ」
「うむ! 何を食わせてくれるのだ?」
「そうですね。ギバ肉にはゆとりがあるそうですので、何かささっと作ってしまいましょう」
ダバッグで購入した革張りの鞄を作業台で広げつつ、俺はどうしようかと思案する。
すると、テリア=マスがおずおずと声をかけてきた。
「あの、よかったらうちで準備したギバ料理もお召し上がりください。昨日も一昨日も、いくつか売れ残りを出してしまっていますので……」
「え? ああ、そうか。王都の兵士たちは、ギバ料理に興味がなさそうだというお話でしたね」
それで、他のお客の大半は宿を移してしまったのだから、せっかくのギバ料理ももてあますことになってしまうわけだ。
「でも、生焼けで出してしまったのはギバ料理だったのですよね? 王都の方々も、ギバ料理をいっさい注文しない、というわけでもないのですか」
「あ、いえ、それは……」
と、テリア=マスが目を伏せてしまう。
糸のように細いジザ=ルウの目が、すかさずテリア=マスのほうに向けられた。
「俺たちに気兼ねをする必要はない。というか、王都の人間にまつわる話であるならば、何でも包み隠さず聞かせてもらいたいのだが」
「そ、そうですか……わたしが腹立たしく思ったぐらいですので、森辺のみなさんにとっては非常に不愉快な話になってしまうと思うのですが……」
「かまわん。何があったのだ?」
「は、はい……どうやら彼らは、食事の最中に賭け事をして……それに負けた人間がギバ料理を口にする、という遊びをしていたようなのです」
ダン=ルティムが、きょとんと目を丸くしていた。
それから、グローブのように肉厚な手をぽんと打つ。
「なるほど! その者たちにとっては、ギバ料理を口にすることが罰になる、ということか! なんのことかと、一瞬悩んでしまったぞ!」
「は、はい、本当に申し訳ありません……」
「何を謝っておるのだ? べつだん、お前さんが詫びるような話ではなかろう! それに、ジェノスの人間たちもかつてはギバ肉を忌み嫌っておったのだからな! 余所者がそのように振る舞うのも、無理からぬことなのであろうさ!」
そう言って、ダン=ルティムはガハハと笑い声をあげた。
「きちんと食べれば、ギバ肉の美味さを知ることもできたろうにな! 生焼けの肉ではそれもかなうまい! まったく気の毒な連中だ!」
見るからに豪放そうなダン=ルティムが気を悪くした様子もなく笑っているので、テリア=マスもほっと息をついていた。
ジザ=ルウも、変わらぬ表情でうなずいている。
「俺たちが売りに出したギバの肉や牙や角を、町の人間がどのように扱っても、それは町の人間たちの勝手だ。たとえそれを足で踏みにじられたとしても、俺たちが気を悪くすることはないので、何も心配する必要はない」
そんな中、アイ=ファはひとりでがりがりと頭をかいていた。
すぐにその心中を察することができた俺は、アイ=ファの耳にそっと口を寄せてみせる。
「これが、レイトの言っていたことなんだな。ギバ料理がどんな扱いをされても腹を立ててしまわないように、俺たちも気をつけよう」
「うむ……アスタの料理を足で踏みにじられたりしたら、私は一生その相手を敵とみなすであろうがな」
俺だって、そんなことをされれば相当な鬱憤を抱え込むことになるだろう。
しかしそれでも、その感情は腹の底にぐっと抑えつけなければならないのだった。
「では、さっそく取りかかりましょう。最近の《キミュスの尻尾亭》では、どのようなギバ料理を準備されていたのですか?」
「はい。タウ油を使った汁物料理と、タラパを使った煮付けの料理と、焼いた肉と野菜にうすたーそーすを掛ける料理と……あとは、ルウ家から買いつけた『ろーるてぃの』です」
今期の5日間は、ルウ家が宿屋に料理を卸す担当であった。『ロール・ティノ』は、キャベツに似たティノでギバの挽き肉をくるんだ、ロール・キャベツのごとき料理である。
「でも、『ロール・ティノ』までいただいてしまうのは申し訳ないですね。そちらはお客さんのために取っておきましょう」
「あ、いえ、むしろそちらを召し上がっていただいたほうが……他の料理は作り置きを減らせば、余らせることもありませんので……」
それはつまり、個数限定かつ人気商品である『ロール・ティノ』さえもが売れ残ってしまっているということであった。
厨で借りた調理刀の切れ味を確かめていたレイナ=ルウが、気の毒そうにテリア=マスを見る。
「テリア=マス、明日からは料理の数を減らしましょうか? 銅貨を出して買いつけた料理を余らせてしまっては、あなたがたの損になってしまうでしょう?」
「いえ。いずれ落ち着けば、また他の宿からお客様が流れてくることもあるかもしれませんので……そのときに、お客様をがっかりさせたくないのです」
そう言って、テリア=マスは自分を励ますように微笑んだ。
「それに、余った料理は宿の人間で食べることになります。ちょっと贅沢な晩餐となりますが、手伝いをしてくれている方々などは、とても嬉しそうにルウ家から買いつけた料理を食べておりましたよ」
背負った苦労の重さを考えれば、それは実にささやかな喜びであった。
しかし、少しでも前向きに考えようとするテリア=マスの心意気に、俺はひそかに感銘を受けることになった。
「では、汁物料理と煮付けの料理と、あとは『ロール・ティノ』を人数分いただきますね。足りない分は、俺がステーキを焼きましょう」
これらの食事が、俺たちの本日の報酬であった。
テリア=マスはたいそう恐縮していたが、食堂を手伝うと言っても時間にすれば2、3時間のことなのである。銅貨を出して購入したギバ肉やギバ料理を頂戴するだけで、価格的にはそれなりの額にのぼるはずだった。
そんなわけで、森辺の民の6名は、2名ずつ食事を取らせてもらうことにした。
その間に、ようやく食堂からも料理の注文が届けられることになった。
俺とレイナ=ルウは別々に食事を取り、手の空いているほうがテリア=マスとともにその注文を片付けていく。いまだ王都の兵士たちは戻っていないらしく、その注文は半分以上がギバ料理だった。
やはり、一般のお客にはギバ料理が人気であるのだ。《キミュスの尻尾亭》でも料理は以前よりも小分けで売られるようになっていたので、ひとりにつき複数の料理を食することになるのであるが、そこにギバ料理をひと品も組み込まないお客はいないように感じられた。
「そういえば、今日は『ギバ・カレー』を出していないのですね」
煮付けの料理を盛り付けながら、俺が問うてみると、テリア=マスは「はい」と弱々しく微笑んだ。
「さすがにあれは、余らせてしまうともったいないので……王都の方々がいなくなるまではお出ししないことに決めました」
普段であれば売り切れ必須のメニューであるのに、それすらも売れ残しを出してしまった様子だ。
まあ、20席を王都の兵士たちに占領されてしまっては、それもしかたのないことなのだろう。しかも、2日連続で騒ぎを起こされてしまっては、なおさら他の宿から流れてくるお客も減ってしまいそうなところであった。
ともあれ、時間が経つにつれて、どんどん注文の数は増えていく。
そして、森辺の6名が全員食事を終えたタイミングで、レイトが厨に姿を現した。
「兵士たちが戻ってきました。食事はこれからのようです」
厨に、ちょっとした緊張が走り抜ける。
その中で、ダン=ルティムはひとり瞳を輝かせていた。
「ようやく姿を現したか。ちょっと覗いてみたいところだが、どうであろうな?」
「いや、むやみに姿を見せるのは避けたほうがいいだろう。俺も今日の内にひと目ぐらいは姿を見ておきたく思うが、もう少し時期をはかろう」
「そうか。いっそ酒でも酌み交わしてしまえば、あんがい話は早いかもしれんがな」
そのように述べつつ、ダン=ルティムもジザ=ルウに逆らおうとはしなかった。
復活祭のときよりも、ずいぶん聞き分けがいいようだ。もしかしたら、ダン=ルティムも外から見えるよりは、このたびの任務を重く考えているのかもしれなかった。
その間に、給仕役の女性たちから、次々と注文が届けられてくる。
いよいよ王都の兵士たちが食事を開始したのだろう。さっきまでは静かであったのに、食堂のほうからは賑やかな気配が伝わってきている。
まずは大量の果実酒と、それからカロン料理とキミュス料理の注文が届けられた。
宿屋において、果実酒は果汁や干しキキの汁と調合されて売りに出される。その配分はテリア=マスにしかわからなかったので、料理のほうは俺とレイナ=ルウが受け持つことになった。
「あたしが至らないばっかりに、ご迷惑をかけて申し訳ありません。どうかくれぐれもよろしくお願いいたします、森辺のみなさんがた」
と、給仕役の若い娘が、心底から申し訳なさそうに述べていた。
この丸っこい体格をした娘さんが、生焼けの肉を王都の兵士たちに出してしまったのだ。
それでも彼女は逃げ出したりせずに、今日も《キミュスの尻尾亭》で働いている。
きっとテリア=マスやミラノ=マスとも、強い絆で結ばれているのだろう。そんな風に考えながら、俺は「おまかせください」と笑顔で応じてみせた。
相手が王都の兵士であろうと、俺たちのやるべきことに変わりはない。他のお客さんに対するのと同じように、きちんと料理を仕上げるばかりだ。
《キミュスの尻尾亭》で売りに出されているのは、『カロン肉の細切り炒め』『タウ油仕立てのカロン肉の煮付け』『キミュス肉のつくね』『キミュス肉のオムレツ』といった献立である。
『カロン肉の細切り炒め』は、カロンの固い足肉を叩いて繊維を潰したのちに、さらに限界まで細切りにして、ティノやアリアやプラ、そしてモヤシのごときオンダと炒める。味のベースは果実酒とミャームーで、砂糖とタウ油もわずかながらに使っていた。
『タウ油仕立てのカロン肉の煮付け』は、砂糖とママリア酢と果実酒を加えたタウ油で、じっくりと煮込んでいる。使っている野菜は、チャッチとネェノンとシィマだ。
ギバより固いカロンの足肉も、時間をかけて熱を通せば、ほろほろと崩れるぐらいやわらかくなる。これは日中にテリア=マスが作っておいてくれたので、それを温めなおすだけだった。
『キミュス肉のつくね』はじょじょにバージョンアップされており、最近ではラマンパの実とレモングラスに似た香草が挽き肉の中に練り込まれていた。
ラマンパの実は、落花生のような食感と風味を有している。キミュスの骨には軟骨が少ないので、ラマンパの実で噛みごたえを加えることに決めたのだ。
レモングラスのような香草は、タウ油ベースの甘辛いタレとも、梅干を思わせる干しキキのディップとも相性が悪くなかったので、採用した。つくねは小さめにこしらえて、異なる味つけをした2本ひと組で提供することになる。
『キミュス肉のオムレツ』は、挽き肉とアリアとプラを使った、シンプルな仕上がりだ。
ただし、食材を焼きあげるのにはすべて乳脂を使っており、その風味が素晴らしい。味つけは、もちろん俺直伝のケチャップである。
料理は苦手と言い張っていたマス父娘も、今では難なくこの料理を作れるようになっていた。
「ふーん。カロンだとかキミュスだとかの料理でも、アスタやレイナ姉は当たり前みたいに作れるんだなー」
窓の近くに立って外の様子をうかがっていたルド=ルウが、そんな風に呼びかけてきた。
レイナ=ルウは「もちろん」と笑顔でうなずいている。
「だってこの料理も、アスタがテリア=マスたちに教えた料理だからね。わたしやシーラ=ルウはずっとその手ほどきをそばで見ていたし、一緒に作らせてもらったりもしていたから、普通に作れるのが当たり前だよ」
「あー、そっか。昔は屋台の商売を途中で抜け出して、宿屋を巡ったりしてたんだもんな。なんだか懐かしいや」
ルド=ルウたちが護衛役として一緒に宿屋巡りをしていたのは、まだサイクレウスらが健在であった時代であるのだ。復活祭の頃にはすでにその風習もなくなっていたので、懐かしく感じられるのが当然であった。
ともあれ、どれだけの料理が客席に届けられても、苦情が舞い込んでくることはなかった。
気づけば、それなりの時間が経過している。《キミュスの尻尾亭》に到着してからは1時間以上、王都の兵士たちが戻ってきてからも30分ぐらいは経っているように感じられた。
「ちょっと落ち着いてきましたね。王都の兵士たちも、20名分にしては控えめな量であったようですが」
「はい。いちどきに頼んでしまうと冷めてしまうので、だいたいは2回に分けて半分ずつ注文するようです。……今頃は、果実酒を飲みながら賭け事に興じているのではないでしょうか」
ならば、本日も罰ゲームとしてギバ料理が注文されるのだろうか。
そんな風に考えていると、ひさかたぶりにレイトが姿を現した。
「王都の兵士たちから、ギバ料理の注文が入りました。何か食べごたえのあるものを一品、とのことです」
そのように述べてから、レイトはにこりと微笑んだ。
「いちおうお伝えしておきますが、また生焼けの肉などを出したら食堂の壁に穴を空けてやるからな、だそうです」
「何だよお前、怒ってるときに笑う必要はねーだろ?」
ルド=ルウが呼びかけると、レイトは同じ表情のまま、そちらを振り返った。
「別に怒ってはいませんよ。ただ、若干の苛立たしさを感じているまでです」
「だったら、なおさら笑う必要ねーだろ。ジザ兄じゃあるまいし。……ああ、冗談だよ怒るなよ」
ルド=ルウの軽口はさておき、どのギバ料理を提供するかは、こちらに一任されてしまったようだった。
「食べごたえのある料理、か。挽き肉を使った『ロール・ティノ』や、やわらかい煮付けの料理よりも、焼き肉のほうが望ましいのかな?」
「そうですね。わたしもそれで問題ないと思います」
レイナ=ルウとのささやかな協議の末、献立はギバの焼き肉と定められた。
ほどほどに薄く切ったギバのバラ肉を、塩とピコの葉で焼きあげるだけの料理である。一緒に焼きあげるのはアリアとティノとオンダであり、どの食材も生焼けを心配するようなものではなかった。
「ま、初めて口にするギバ料理には相応しいかもね。王都の人間の口にあうかはわからないけどさ」
「べつだん何でも、かまうまい! まずいと思えなければ罰にもならんのだろうからな!」
新たに焼かれていくギバ肉の香りに、ダン=ルティムがまた鼻をひくつかせている。
俺は普段よりも入念に、なおかつ焦げつかせることなく、ギバのバラ肉を焼きあげてみせた。
木皿にそいつを盛りつけて、ウスターソースをひと回し掛ければ、もう完成だ。
すると、その作業をじっと見守っていたアイ=ファが、ぽつりとつぶやいた。
「罰などのために銅貨を支払うというのも馬鹿げた話だ。しかもそれがギバの料理というのは、やはり不愉快に感じられてしまうな」
「しかたないさ。買った料理をどう扱うかは、もともとお客さんの自由だしな」
俺にできるのは、そんな馬鹿げた真似をする相手を心の中で軽蔑することぐらいであった。
そんな風に考えながら、俺は完成した料理をレイトに差し出してみせる。
「さ、仕上がったよ。絶対に生焼けではないから、安心してお出ししてくれ」
「ありがとうございます。……アスタたちにこのような役割をお願いしてしまったことを、僕も心から申し訳なく思っています」
「いいさ。俺にとっても、《キミュスの尻尾亭》は大事な場所だからね」
レイトはひとつうなずくと、木皿を手に厨を出ていった。
王都の兵士たちが戻ってきた影響か、他のお客からの注文も止まってしまっている。ときおり果実酒の追加を求められるぐらいで、俺たちはしばし無聊をかこつことになった。
「あとは、兵士たちの残り半分の料理を仕上げたら、今日の仕事も一段落でしょうかね?」
「はい。その後は、わたしひとりで何も問題はありません。……あの、今日は本当にありがとうございました。いったい何と御礼を言えばいいのか……」
と、テリア=マスの目にじんわり涙が浮かんでしまった。
ルド=ルウが「おいおい」と声をあげる。
「何も泣くことねーだろ? それに、御礼はいっぺんで十分だって言ったよな?」
「はい。だけどやっぱり、申し訳なくって……」
「何もお気になさらないでください。状況はどうあれ、《キミュスの尻尾亭》の仕事を手伝えたことを、俺はとても嬉しく思っていますから」
それは俺の、掛け値なしの本心であった。
《キミュスの尻尾亭》にはさんざんお世話になっているし、それに――こうした厨でお客の注文を聞きながら料理を作りあげるというのは、かつての俺にとってもっとも馴染み深い行為であったのだった。
俺は、足もとに下ろした革の鞄に目を向ける。
その中には、親父の三徳包丁が大事に保管されていた。
ジャガルの肉切り刀とシムの菜切り刀を手にした今、三徳包丁を使う機会はほとんど失われている。それでも俺は、毎日この三徳包丁の調子を確かめて、肌身離さず持ち歩くようにしていた。
「……昔を思い出しているのか?」
と、アイ=ファが低い声で呼びかけてくる。
俺はそちらに、「うん」とうなずいてみせた。
「俺も以前はこういう食堂で働いてたからさ。今となっては、何年も昔のことに感じられちゃうけどな」
アイ=ファは、「そうか」としか言わなかった。
しかしその瞳には、とても優しげな光が灯っていた。
そして――ふいに、騒乱の気配が近づいてきた。
「お待ちください。そちらに踏み込まれては困ります」
レイトのよく通る声が、厨の入り口から聞こえてくる。
たちまちアイ=ファは俺をかばうような位置取りに身を移し、テリア=マスとレイナ=ルウも、それぞれルド=ルウとジザ=ルウに守られることになった。
「何だ、宿屋の人間とは思えない顔が居揃ってるな」
笑いを含んだ男の声が響きわたる。
それは1日ぶりに見る、百獅子長のダグであった。
「これは明らかに、ジェノスの法を破る行いですよ。衛兵をお呼びしましょうか?」
ダグのかたわらをすりぬけて厨に入ってきたレイトが、素早くその眼前に立ちはだかる。
「ああ、べつだんかまわねえぜ。勝手な真似をするなと叱りつけられるぐらいのこったろ? あいつらに俺たちを叱る意気地があればの話だけどな」
そのように述べながら、ダグは猛禽のように光る目で俺たちの姿を見回してきた。
「それにしても、これはこれは、だな。森辺の狩人ってのは、こんな化け物の集まりだったのか」
「貴方は、何者だ? 客がこの場に足を踏み入れるのは、法に背く行いであるようだが」
ジザ=ルウが、落ち着いた声で問い質す。
ダグは、「ふふん」と口もとをねじ曲げた。
「どうせそっちの坊やから聞いてるだろう? 俺は兵士どもを束ねる百獅子長のダグってもんだ。あまりに料理が美味かったもんだから、その御礼を述べてやろうと思ってな」
「ならば、悪意があって踏み込んできたわけではない、と?」
「ああ。ひょっとしたら、そっちの坊やに会えるんじゃないかって期待はしてたがな。ここの宿屋は主人が手傷を負ったはずだし、そっちの坊やはこの宿屋と懇意にしてた。それで今日はどの料理を食っても妙に出来がいいように感じたから、ちょいと当たりをつけてみたってわけさ」
「アスタに、何か用事でもあるのか?」
アイ=ファが、押しひそめた声音で問う。
横からそっと覗き込んでみると、アイ=ファの瞳は爛々と狩人の炎を燃やしていた。
「すげえ目つきだな、お前。……そういえば、ファの家のアスタを森辺に招き入れたのは、森辺でただひとりの女狩人だって話だったな」
「質問に答えよ。アスタに何か用事でもあるのか?」
「用事っていう用事はねえよ。少なくとも、今のところはな」
にやりとふてぶてしく笑いつつ、ダグは逞しい腕を組んだ。
「実はな、俺はさっき部下どもとの賭けに負けちまったんだよ。それで嫌々、ギバの料理なんざを食わされることになっちまったわけだが……こいつが思いの外、美味くてびっくりさせられたわけだ」
「……それがいったい、何だというのだ?」
「ああ、だけど、あまりの美味さに全部たいらげちまったからさ、部下どもが俺の言葉を信じようとしねえんだよ。だから、人数分のギバ料理を注文させてもらいたい」
そう言って、ダグは一歩だけ引き下がった。
「この宿屋では、何種類ものギバ料理を扱ってるんだろ? それを適当に人数分、準備してくれ。……ただし、そいつが不味かったら俺がひとりで代金を支払う約束をしちまったからな。くれぐれも、生焼けの肉なんて出さねえでくれよ?」
こちらの返事も待たずに、ダグはすうっと姿を消した。
レイトがふっと息をつき、俺たちのほうを振り返る。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。言葉の内容に嘘はないと思いますので、料理をお出ししていただけますか?」
「あ、ああ、うん、それはもちろんかまわないけど……」
それよりも、俺はアイ=ファたちの様子が気になってしまった。
ダグが姿を消した後も、全員が張り詰めた気配を発散させていたのだ。
その中で、ジザ=ルウがぽつりとつぶやいた。
「あれが百獅子長のダグという者か。確かに大した手練ではあるのだろうが……この場にいる狩人の誰でも、ひとりで退けることはできるだろうな」
「ああ、俺もそんな風に思ったなー。リャダ=ルウは足がきかねーからしかたねーけど、それなりの力を持った狩人だったら、負けやしねーだろ」
「うむ……しかし、あの男からは、何か普通でない気配を感じる。決して負けることはないはずなのに、あいつと刀を交えるのは危険だと思えてならなかったのだ」
ジザ=ルウが、ゆっくりダン=ルティムのほうを振り返った。
「ダン=ルティムよ、歴戦の狩人たる貴方であれば、その理由もわかるのだろうか?」
「ふむ? もちろん俺にだって、想像することしかできんがな」
と、ダン=ルティムは下顎の髭をまさぐった。
その顔には、何かを面白がっているかのような表情がたたえられている。
「あやつはおそらく……人を斬ることに長けているのではないだろうか?」
「……人を斬ることに長けている?」
「うむ。俺たちの刀は人を斬るためにあらず、ギバを斬るための刀だ。で、いつだったかにルウ家を訪れたレイリスとかいう剣士とやらも、人と戦うために腕を磨いた人間であるのだろうが……さっきのダグという男は、実際に何人もの人間を斬り捨てたことのある人間なのではないのかな」
「そうですね」と、それに答えたのは、レイトであった。
「アスタにもお話ししましたが、彼らは王都の精鋭部隊です。実際に、マヒュドラやゼラド大公国の軍と何度も刃を交えています。最前線で百名の兵士を率いる百獅子長ともなれば――斬り捨てた人間の数は、百や二百にも及ぶかもしれませんね」
「ふむ。それでは、尋常ならざる気配を身につけるのも当然だ。そのような人間と生命のやりとりをすれば、どこで足をすくわれるかもわからんぞ」
そう言って、ダン=ルティムはガハハと笑い声をあげた。
「いや、面白いものを見させてもらった! 人間相手に生命のやりとりなど御免こうむるが、珍しい獣でも見物したような心地だぞ。こいつはまったく、厄介な話だ!」
「厄介なのに、何で笑ってるんだよ」
ルド=ルウは、面白くなさそうに眉を寄せていた。
ジザ=ルウは、真剣そのものの表情で、ダグが去っていった方向を見据えている。
そしてアイ=ファは――それこそ獲物を前にした肉食獣のように、青い瞳を激しく燃えさからせていた。