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異世界料理道  作者: EDA
第三十一章 波乱の幕開け
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緑の月の一日②~銀獅子の軍~

2017.11/7 更新分 1/1 ・11/11 一部文章を修正

 その後の宿場町は、てんやわんやの騒ぎであった。

 といっても、宿場町を訪れた軍勢が何か騒ぎを起こしたわけではない。彼らはしばらくジェノスに留まるので、その宿泊する場所を準備してもらいたいと、そのように要請してきたのだった。


 しかし、のちに聞いたところによると、視察団の護衛部隊の人数は200名にも及んだのだ。その人数の宿をいきなり準備しろなどというのは、部外者の俺でも無茶な申し出としか思えなかった。


 むろん、ジェノスの宿場町には数多くの宿屋が存在する。商会の寄り合いには30名ていどのご主人が集まっていたのだから、最低でもそれぐらいの数は存在するということだ。


 また、中には複数の宿屋を経営するご主人もいるのだと聞くし、商会に参加しないもぐりの宿屋などというものも存在するらしい。それだけの数の宿屋が存在するからこそ、ジェノスは数多くの旅人を迎え入れることがかなうのである。


 しかし、それでもなお、これは危急の事態であった。

 どれだけ数多くの旅人が来訪するジェノスにおいても、いっぺんに200名もの一団がやってくることはまずありえなかったのだ。


 しかも彼らは、少人数で分かれることを肯んじなかった。最低でも10名、可能であれば20名の組として宿泊できるようにと条件をつけてきたのである。

 それだけの空室が空いているのは、よほど流行っていない宿屋だけだ。この突如として降りかかってきた難題に対処するために、宿屋のご主人がたはたいそう頭を悩ませることになってしまったのだった。


「けっきょくうちでは、20名の兵士様をお迎えすることになってしまいました。そんなに部屋の空きはなかったので、何組かのお客様には余所の宿屋に移ってもらうことになってしまったのです」


 商売を終えた俺たちが屋台を返却しに行くと、テリア=マスは途方に暮れた面持ちでそのように説明してくれた。

 ミラノ=マスは、他のお客への対応でてんてこまいらしい。200名の兵士たちはまだ街道のほうで待機しているのだが、彼らが動きだす前にすべての準備を整えなければならないのだ。


「まったく、はた迷惑な話だよね! 王都の視察団だか何だか知らないけど、いったい何様のつもりなんだろう!」


 そのように怒りの声をあげたのは、テリア=マスを心配して駆けつけていた《西風亭》のユーミであった。

《西風亭》は王都の人間を宿泊させるのに適切ではないという判断で、今回の依頼からは除外されたのだという話であった。


「ま、うちに偉ぶった兵士どもなんかが押し寄せてきたら、その場で血を見る騒ぎになりそうだからね! どれだけ銅貨を積まれたって、あんな連中を受け入れるのはまっぴらさ!」


「はい。兵士様を受け入れる宿屋には特別な褒賞が与えられるという話ですが……わたしも父も、できることならば関わらずにいたかったです」


 貴族の言いつけで上等なお客を招き入れるよりも、馴染みのお客を大事にしたかった、ということなのだろう。テリア=マスは、見ているこちらが気の毒になるぐらい悄然としてしまっていた。


「だいたいさ、そんな大人数で押しかけるときは、事前に使者でも走らせて、予約を入れるもんなんじゃないの? それぐらいのことが、どうしてあいつらには考えられないんだろうね!」


「ええ。これまでに通ってきた町に対しては、あらかじめ使者を走らせていましたよ。そうでなければ、どの町でもなかなか200名の人間を宿泊させることはできなかったでしょうからね」


 そう答えたのは、レイトであった。

 いったん姿を消した彼は、俺たちの商売が終わる頃合いを見計らって、また合流してきたのである。


「ただ、最終の目的地であるジェノスに対してだけは、使者を走らせていませんでした。カミュアに案内役などを依頼したのも、おそらくはジェノスにこの話を伏せておきたかったからなのでしょう。ジェノスの侯爵家とカミュアが懇意にしていることは、もう王都の人々にも知れ渡ってしまっていましたからね」


「どうしてそんな風に隠しだてしなくちゃならないのさ? 王都の連中はジェノスに恨みでもあるわけ?」


「恨みがあるわけではないのですが、そこのところはちょっと複雑なのですよ」


 ユーミと言葉を交わすレイトの姿を、テリア=マスは感慨深そうな眼差しで見守っている。レイトは幼少期、この《キミュスの尻尾亭》でテリア=マスとともに育てられていたのである。

 しかし、レイトがまだジェノスに留まっていた当時、テリア=マスは森辺の民を恐れてなかなか姿を見せようとしなかったので、俺はこの両名が顔をそろえている姿を見るのは初めてのことだった。


「……それで、これは王都の護衛部隊を受け入れる宿屋にこっそりと根回ししていただきたいのですが――」


 と、レイトがテリア=マスを振り返る。


「王都の軍勢といっても、このたびの任務に参加しているのは傭兵の集まりです。下手な無法者よりも気の荒い人間がそろっていますので、そのつもりで対応するようにとお伝え願えませんか?」


「そうなの……うん、わかったわ。ありがとうね、レイト」


「いえ。僕にとっても、ジェノスは大事な故郷ですから」


 レイトはにこにこと笑っていても、感情を読み取ることが難しい。

 しかし、それと相対するテリア=マスのほうは、それこそ弟を見るような目つきでレイトを見ていた。


「それでは、くれぐれもお気をつけて。ミラノ=マスにもよろしくお伝えください」


「え、レイトはもう行ってしまうの?」


「はい。僕はこれから、森辺の集落に向かわないといけないのです」


 そうして俺たちはテリア=マスとユーミに別れを告げて、森辺の集落を目指すことにした。

 レイトは徒歩であったので、ギルルの荷車に同乗させる。ざわめきに満ちた宿場町を後にして、森辺に通ずる緑の深い道に差しかかったところで、俺は胸中の疑念を吐き出させてもらうことにした。


「レイト、さっきの話だけどさ。ジェノスにこの話を伏せておきたかったっていうのは、どういう意味なんだい?」


「ええ。それは、到着の期日を教えてしまうと、ジェノスの貴族たちが用心をして前工作をしたり、口裏を合わせたりするのではないか、という考えであったようです」


「口裏を合わせる?」


「ええ。昨年に起きた、トゥラン伯爵家と森辺の民にまつわる騒動や――その他にも、あれこれジェノスの貴族たちをつつき回そうという目論見なのでしょうね」


 ギルルを運転する俺の背中に向かって、レイトはそのように語り続けた。


「もともと王都の視察団は、年に1、2度ほどジェノスを訪れていました。しかし、これほどの軍勢を引き連れてきたことは、かつてありません。それほど今回は、本気ということなのでしょう」


「ほ、本気というのは、どういう意味かな?」


「だから、意にそまぬ場合は武力の行使も辞さない、ということですよ。まあ、たかだか200名の兵士でジェノスを陥落させることはできないでしょうが、とにかく威嚇をしているわけですね」


 それは何とも、剣呑な話であった。

 しかも、森辺の民も他人事ではない、といった口ぶりである。


「でもさ、サイクレウスたちにまつわる騒ぎが起きたのは、もう何ヶ月も前の話じゃないか。それなのに、今さらそれを蒸し返そうっていうつもりなのかい?」


「前回の視察の折に、何か納得のいかない話でもあったのでしょうね。だから今回は、徹底的にその話も蒸し返されると思います。それで、森辺の族長やアスタたちに注意を喚起したかったのですよ」


 緊迫感のない声音で、レイトはそのように述べたてた。


「王都の貴族はジェノスの貴族よりも居丈高で、護衛部隊は気の荒い傭兵の集まりです。森辺の民にとってはこれまで以上の忍耐が強いられるかと思いますが、どうか穏便にやりすごしてください」


「……とりあえず、ご忠告は胸に刻みつけておくよ。それで、カミュアは城下町なんだよね?」


「はい。視察団の目をすりぬけて、メルフリードやポルアースなどに助言をして回っているのでしょう。あちらはあちらで、大変な騒ぎになっているはずですよ」


 それからレイトは、ふいに「ああ」と声をあげた。


「もうひとつ伝言があったのを忘れていました。早くアスタのギバ料理を堪能したいよ、だそうです。城下町のほうが少し落ち着いたら、きっと屋台のほうに顔を出すことでしょう」


「うん。再会の日を心待ちにしているよ」


 カミュア=ヨシュのとぼけた笑顔を思い出しながら、俺はそんな風に答えてみせた。

 それからほどなくして、まずはルウの集落に到着した。


「では、僕はこの場で族長の帰りを待たせていただこうと思います。ここまで運んでいただいて、どうもありがとうございました」


「うん。レイトも気をつけてね」


 今日はファの家で勉強会をする日取りであったので、俺たちはここでお別れであった。

 あらためてギルルの手綱を取ると、それを待ちかまえていたかのようにトゥール=ディンが声をかけてくる。


「あの、アスタ……今日は残念でしたね」


「え、何が?」


「いえ、その……今日はせっかくジャガルの人々とひさびさに再会できた日であったのに……このような形で水を差されてしまいましたから……」


「ああ、うん。しかもレイトまで現れたもんだから、まさしく千客万来だったね。なんだか気持ちの整理が追いつかないよ」


「……わたしは何だか、口惜しいです。1日でも日がずれていれば、アスタは心おきなく再会の喜びにひたれたのでしょうし……」


「ありがとう。トゥール=ディンは、優しいね」


 ギルルを軽快に走らせながら、俺はひとりで微笑むことになった。

「そ、そんなことはありません」と、トゥール=ディンは取り乱した声をあげる。


「大丈夫だよ。バランのおやっさんたちとは、これから2ヶ月も交流できるんだからさ。明日からもぞんぶんにその喜びを噛みしめさせていただくよ」


「は、はい……テリア=マスたちも、無事に日々を過ごせるといいですね」


 そう、俺としてもまずはそちらのほうが懸念の種であった。

 王都の貴族の護衛部隊という肩書きを持った荒くれ者の集団など、どう考えたって厄介であるに違いない。そんな連中を10名から20名ずつも迎え入れなければならない宿屋の人々こそ、災難の極みであった。


(でも、屋台から見えた兵士たちの姿は、まるでロボットみたいに整然としてたよな。あれの中身が荒くれ者だなんて、ちょっと想像するのが難しいんだけど……いったいどんな連中なんだろう)


 そんなことを考えている間に、ファの家に到着した。

 家の前には、6名の女衆が待ちかまえている。フォウの血族はスドラに赤児が産まれた関係で色々とせわしないため、本日集まってくれたのはガズとラッツの血族たちであった。


「どうもお疲れ様です。では、まず下ごしらえの仕事から取りかかりましょう」


 どれほどの変転に見舞われても、俺たちは自分の仕事を果たすしかなかった。

 だけどやっぱり、他の女衆にとっても今日の騒ぎは大ごとであったらしく、作業中はその話題でもちきりであった。


「わたしには、いまひとつ状況が呑み込めません。森辺と城下町の大罪人を裁いた一件について、余所の人間から文句をつけられるいわれなどあるのでしょうか?」


 そのように言いだしたのは、屋台の商売から継続して下ごしらえの仕事も手伝ってくれていたフェイ=ベイムであった。


「俺にもつかみきれない部分が多いのですが、カミュア=ヨシュが注意を呼びかけてきたということは、やっぱり用心するべきなのだと思いますよ」


「カミュア=ヨシュですか。その名は、家長からも聞いています」


 カミュア=ヨシュとともにサイクレウスらの大罪を暴いたとき、ベイムの家長もその場には居合わせていたのである。それももはや、10ヶ月以上は昔の話であるはずだった。


「でも、森辺の民もジェノスの貴族たちも、これが正しいと信じて進むべき道を選んだのですから、何を言われても堂々と振る舞えばいいのだと思いますよ」


 そのように述べてから、俺は切り分けたギバ肉を詰め込んだ木箱に蓋をした。


「こっちはこれで終了です。パスタとカレーの素のほうはどうですか?」


「はい。あとは干して固めるだけです」


「それじゃあ一休みしたら、一昨日の続きに取りかかりましょう」


 一昨日の続きというのは、城下町から届けられた新しい食材の取り扱いについてであった。

《黒の風切り羽》がバルドという土地から持ち込んできた、いくつかの食材である。その中から、備蓄にゆとりのあるものだけが森辺にも届けられたのだった。


「とりあえず、ティンファとレミロムに関しては、もう問題もありませんよね」


「はい。それほど取り扱いの難しい野菜でもないので、あまり値の張る食材でないのなら、こちらの家でも買わせていただきたいと思いました」


 ティンファとレミロムは、ヴァルカスが《銀星堂》の料理で使用していた野菜であった。

 ティンファは真っ白な色をした葉菜で、レミロムは濃い緑色をした花序――つまりは、花の咲く前のつぼみだ。遠方から運ばれてくるそれらの野菜は腐らないように干し固められていたが、水に戻すと瑞々しさを取り戻す。そしてヴァルカスの教えの通りに軽く茹でてみると、それぞれ白菜とブロッコリーに似た味わいを確認することができた。


 ヴァルカスなどはそれらをパナムの蜜やミンミの実などで甘く仕上げていたが、ただ煮込んだだけでも十分に美味である。というか、どちらもそれほど味の強い野菜ではなかったので、他の野菜にはない独特の食感を素直に楽しむことができた。


「残る食材はふたつ、ブレの実と魚の煮干ですね。とりあえず、この魚の煮干はかなり上質の出汁が取れるようです」


 それはアネイラという魚の煮干で、ヴァルカスが不可思議な汁物料理で使用していた。

 俺たちがこれまでにも使っていた干し魚は、王都から届けられた海魚のものであり、カツオブシと似た風味を有している。形状も、魚の身を切ってから干し固めたもので、ガチガチに固かった。


 いっぽうアネイラは、生きていた頃の姿のまま、煮干にされている。体長は12、3センチで、綺麗な銀色の鱗をしており、これを煮込むと甘くてすっきりとした上品な出汁が取れるのだ。俺の印象としては、「あご」と呼ばれるトビウオの煮干に近いように感じられた。


「先日、ルウ家で試してみたのですが、頭と腹のワタは取ってから煮込んだほうが、濁りもなくて味もいっそうすっきりするようですね。これまでの魚の出汁とは、また別の美味しさだと思います」


「でも、魚ってやつは値が張るんだろう? あたしらも、祝宴ぐらいでしか魚や海草だとかの干物は使ってないからねえ」


「値段のほうは、バルドという土地との取り引きが正式に始まるまで、まだつけられないそうです。ただ、バルドは王都よりも近いですし、この魚は収穫量がものすごいそうですから、そこまで高値にはならないんじゃないかという話でした」


 ともあれ、俺たちの手もとには試供品ていどの量しか渡されてはいない。小さき氏族にくわしい取り扱いを教えるのは、値段が定まってからでも遅くはないように思われた。


「あとはこのブレの実ですが……もしかしたら、これは菓子のほうが向いているかもしれません」


 ブレの実は、小さくてまん丸い赤褐色の豆であった。

 形状や大きさは、タウの実に似ている。あちらは大豆のような豆であったが、こちらは小豆に似ているように思えたのだ。


「もちろん、タウの実と同じように、煮込むだけで普通に食べられはするのですけどね。砂糖と一緒に煮込んだらどうなるだろう、と俺は考えています」


「それが菓子の材料になるのでしたら、またトゥール=ディンの腕の見せどころですね」


 ユン=スドラの言葉に、トゥール=ディンが顔を赤くする。

 さらに何か言いかけてから、ユン=スドラは「あれ?」と首を傾げた。


「荷車の音が聞こえてきますね。南の方角です」


「荷車? いったい何だろう?」


 俺はいくぶん気持ちを引きしめつつ、格子つきの窓から外を覗いた。

 まさか、町から何者かがやってきたのでは――と、警戒心をかきたてられたのだ。


 しかし、速度を落としてかまど小屋のほうに近づいてきた荷車には、とても馴染み深い人物が座していた。

 俺はほっと安堵の息をつきつつ、かまど小屋の出口に向かった。


「リャダ=ルウでしたか。いったいどうされました?」


「ああ、仕事の邪魔をしてしまったな。いちおうアスタにも伝えておこうと思ったのだ」


 それは、ルウの分家の先代家長リャダ=ルウであった。

 リャダ=ルウは御者台に陣取ったまま、鋭くも沈着な眼差しを俺に向けてくる。


「さきほど、城下町から使者がやってきた。王都から訪れた貴族たちが、森辺の族長との対話を求めているらしい」


「そうですか。本日到着したばかりだというのに、ずいぶんせわしない話ですね」


「うむ。せわしないにも、ほどがあろうな。族長たちは、明日の中天までに城下町を訪れるように言いつけられてしまった」


「明日の中天? でも、族長たちには狩りの仕事が……」


 俺がそのように言いかけると、リャダ=ルウの背後から小さな人影がひょこりと覗いた。

 ついさきほど別れたばかりの、レイトである。


「ジェノスの貴族が森辺の族長を呼びつける際は、狩人の仕事をさまたげないように配慮していたそうですね。だけど王都の人々は、そのようなことを慮る気持ちもないようです」


「ど、どうしてだい? ギバ狩りの仕事は、ジェノスの豊かさを守るための大切な仕事だろう?」


「それよりもまず王都の人間の命令に従うかどうかを試しているのではないでしょうか。森辺の民の君主はジェノス侯爵ですが、ジェノス侯爵の君主はセルヴァの国王です。その国王の代弁者たる自分たちの命令こそが最優先されるべき、というのが彼らの考えなのですよ」


 聞けば聞くほど、馬鹿らしい話であった。

 リャダ=ルウは、静かに双眸を光らせている。


「城下町からの使者も、そのように述べていた。その使者は、メルフリードという貴族の配下の者でな。森辺の民が不服に思うのは承知しているが、悶着を避けるために従ってもらいたい、とメルフリードはそのように言っていたそうだ」


「そうですか……それでは、従わないわけにもいきませんね」


「うむ。だから俺は、これからザザ家にその旨を伝えてくる。サウティ家には、バルシャとララ=ルウに向かってもらった」


 あくまで沈着に述べながら、リャダ=ルウは鋭く眼光を瞬かせる。


「どうにもこれは、サイクレウスという貴族が健在であった頃を思い出してしまうな。グラフ=ザザが短慮を起こさぬように、俺は直接この言葉を伝えるつもりだ」


「僕も事情を説明するために、ご一緒させていただきました。王都の貴族の厄介さを入念に伝える必要があるでしょうからね」


 そうしてふたりは、早々に立ち去っていった。

 いつの間にか隣に立っていたトゥール=ディンが、こらえかねたように俺の腕に取りすがってくる。


「だ、大丈夫なのでしょうか、アスタ……?」


「大丈夫だよ。族長たちなら、きっと大丈夫だ」


 俺は、そのように答えるしかなかった。


                  ◇


「……本当に大丈夫なのか?」


 夜である。

 晩餐を取りながら今日一日の出来事を伝え終わると、アイ=ファの眉間には深いしわが寄せられることになった。


「大丈夫だよ。貴族との会見にはガズラン=ルティムも同行するはずだし、きっと丸く収めてくれるはずさ」


「そちらの話ではない。私は、お前のことを取り沙汰しているのだ」


「え? 今のところ、俺には何の苦労もないけれど」


「しかし、宿場町には200名もの無法者があふれかえっているのだろうが? そんな中、護衛の狩人も連れずに商売をして大丈夫なのか?」


「無法者じゃなくて、護衛部隊の兵士たちな。……まあ、荒くれ者の傭兵たちだから気をつけろとは言われてるけど」


「それでは、ちっとも大丈夫ではないではないか!」


 アイ=ファは座ったまま、じたばたと足を踏み鳴らす。

 とても愛くるしい仕草であるが、今はそれよりもアイ=ファの心配を解きほぐすのが先決だった。


「それに関しては、リャダ=ルウとバルシャに護衛役を頼むことになりそうだよ。日中に手が空いているのはそのふたりだけだしな」


「……わずか2名の護衛役か。相手が200名では、さすがに荷が重かろう」


「だ、だけど、俺たちが王都の連中にからまれる筋合いはないだろう?」


「その筋を通さないのが、悪辣なる貴族のやり口であろうが? 確かにこれは、サイクレウスらが健在であった頃を思い出させるな」


 もりもりと食事を進めながら、アイ=ファの眼光は炯々と燃えさかっていく。

 なんというか、全身の毛を逆立てた山猫がうなり声をあげながら食事をがっついているような様相であった。


「あと半月もすれば、ファの家も休息の期間に入っていたものを……くそっ、なんと忌々しい連中だ」


「ま、まあ落ち着けよ、アイ=ファ。王都の貴族がどんなに傲慢でも、いきなり刀を突きつけてきたりはしないだろうからさ」


「……どうしてお前に、そのようなことがわかるのだ?」


「それは俺たちが、罪人でも何でもないからさ」


 半分は自分に言いきかせるような心地で、俺はそのように答えてみせた。


「俺も王都の貴族がどんな性根をしているかなんてわからないけど、それを知っているカミュアが『決して悶着を起こさないように』っていう助言をしてくれたんだ。レイトなんかも、短慮を起こさずに冷静に対処してくれって言ってたしさ。だから、相手がどんなに高圧的でも、こちらはきちんと礼儀や節度を守って対応すれば、さしあたって危険はないって意味なんだと思うんだ」


「うむ……それはそうかもしれんが……」


「俺たちは、正しい道を進んでいると自分たちで信じている。サイクレウスのときと同じように、油断はしないように用心はしつつ、自分たちの信念を押し通せばいいんじゃないのかな」


「……その言葉に間違いはないと思う」


 そう言って、木皿を下ろしたアイ=ファは、にわかにぐっと顔を近づけてきた。


「ただ、私はお前の身が心配であるのだ、アスタ」


「うん。決して危ない真似はしないと約束するよ」


 アイ=ファは、「うむ」とうなずいた。

 すると、あまりに至近距離であったため、こつんと額が触れることになった。

 そのままアイ=ファは動きを止めて、俺の額に自分の額を押しつけてくる。


「……うっかり、その身に触れてしまった」


「う、うん。うっかり屋さんだな、アイ=ファは」


 アイ=ファはぐりぐりと俺の額を蹂躙してから、身を引いた。

 その瞳には、さまざまな感情がもつれあっているように見えた。


「危険を感じたら、商売の途中でも森辺に戻るのだぞ。人間の生命は、銅貨では買えぬのだ」


「うん。必ず無事に戻ると約束するよ」


 そうして、さまざまな波乱に満ちあふれた緑の月の1日は、ようやく終わりを迎えることになった。

 あるいは――さまざまな波乱に満ちあふれた緑の月は、そうして始まることになったのだった。

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