緑の月の一日①~千客万来~
2017.11/6 更新分 2/2
・今回の更新は全8話です。
その日の朝――俺が目を覚ますと、まずアイ=ファの姿が真っ先に視界に飛び込んできた。
何故かアイ=ファは俺の枕もとに座り、俺の寝顔をじっと見下ろしていたようなのだ。結果、俺は朝からずいぶんと心をかき乱されることになってしまった。
「や、やあ、おはよう、アイ=ファ。いったい何をやっているんだ?」
「うむ? べつだん何もしていないぞ。自分の身支度が済んだので、お前の寝顔を眺めていただけだ」
そのように応じるアイ=ファは普段通りの凛然とした面持ちであったが、その青い瞳にはとてもやわらかい光が灯っているように感じられた。
最近のアイ=ファは、こういう目つきをすることが多い。最近というのは、黄の月の24日――俺の生誕の日を過ぎてから、という意味であった。
あの夜に、俺たちはひとつの約束を交わした。
いつかその時期に至ったら婚儀をあげよう、という約束だ。
俺はアイ=ファが婚儀をあげられる身になるのを待つと誓い、アイ=ファは――アイ=ファはこの先、俺だけを愛すると誓ってくれた。
あのときのアイ=ファの透き通った笑顔や、頬に伝った一筋の涙、その頬や小指のぬくもりなどを思い出し、俺はまたひとりで惑乱してしまう。
そんな俺の顔を見つめながら、アイ=ファはふっと笑みをもらした。
「もう少しして起きなかったら、髪でも引っ張ってやろうかと考えていたところだ。朝から痛い目を見ずに済んだな、アスタよ」
「そ、そうか。これも森の導きだな」
「そんなに気安く母なる森を持ち出すな、このうつけ者め」
そのように叱る声さえもが、優しげで温かい。
俺は寝具の上に身を起こして、アイ=ファと正面から見つめ合うことにした。
アイ=ファと俺は身長も大して変わらないので、立っていても座っていても、目線はいつも同じぐらいになる。
アイ=ファは今日も、綺麗で、凛々しくて、魅力的だった。
こんなに魅力的な存在が、俺だけを愛すると誓ってくれた。その喜びと幸福感に、俺はまた胸が詰まってしまいそうだった。
「……3日前の……」
「え?」
「3日前の、スドラの家の赤児たちは……本当に、信じられないぐらい愛くるしい姿をしていたな」
3日前、リィ=スドラの腹に宿っていた子たちが、ついに産まれたのである。
予定よりも半月以上は早い出産であり、しかも、森辺では珍しい双子の赤ん坊たちだった。それでもその赤ん坊たちは元気に産声をあげており、現段階では何の問題も見られないという話であった。
「私は、産まれたばかりの赤児というのを見るのは初めてであったのだ。お前には、そういう経験があったのか?」
「いや、俺も初めてだよ」
「そうか。まあ、初めて目にしたのだから、余所の幼子とも比べられぬわけだが……産まれたての赤児というのは、皆あのように愛くるしいのだろうか?」
産まれたての赤ん坊というのは、顔も手もしわくちゃで、目も開いていない。肌は不自然なほど赤みがかっており、赤児と呼ばれるのもむべなるかなといった姿をしている。
だけどそれでも、スドラの家に産まれた赤児たちは、この上もなく愛くるしかった。
とても小さくて、とても軽いのに、この手に抱くと何よりも重く感じられる。余所の家の俺たちがこれほどの思いをかきたてられたのだから、ライエルファム=スドラとリィ=スドラの胸にはどれほどの喜びがあふれかえっていたのか、ちょっと想像がつかないぐらいだった。
「そんなことは、俺にもわからないけどさ。でも、あれが自分の子供だったら、もっと可愛く感じられるんだろうな」
「うむ。それは当然のことだ」
「……ファの家でも、いつか――」
俺は思わず、そのように言いかけてしまった。
すると、アイ=ファの指先が俺の口もとにのばされてきた。
ぴんとのばされた人差し指が、俺の唇に触れるか触れないかという位置で停止する。
「定まってもいない行く末のことを気にかけても始まるまい。私はまだ当分、刀を置くつもりはないのだからな」
そう言って、アイ=ファは照れくさそうに微笑んだ。
その頬が、ほのかに赤くなっている。唇にアイ=ファの体温を感じながら、俺は激しく動揺することになった。
「……何を赤くなっているのだ、お前は」
「ア、アイ=ファだって赤くなってるじゃないか」
「そのようなことはない。虚言は罪だぞ、うつけ者め」
アイ=ファは唇にあてていた指先でぴんと俺の鼻を弾くと、颯爽と立ち上がった。
「それでは、そろそろ仕事を始めるか。お前もさっさと身支度を済ませるがいい」
「あ、ああ、了解したよ、家長殿」
すっかり熱くなってしまった頬をさすりながら、俺も立ち上がる。
そうして、その日――緑の月の1日は、妙に甘やかな空気の中で幕を開けられることになったのだった。
◇
俺が森辺の集落に住みついてから、ついに1年が突破した。しかも本年は閏月があったので、日数としては400日ぐらいが過ぎている。長かったような、短かったような、とにかく濃密な1年間であった。
しかし、そのような感慨は感慨として、日々の生活に大きな変化が生じたわけではない。というか、常に変転の日々であるので、1年を境に何かが大きく動いたわけではない、といった具合だ。
昨日は休業日であったので、今日からまた5日間の商売が始まる。準備した料理の数は、ルウ家の屋台と合わせればおよそ800食、マイムも合わせれば900食。この数を、3時間強ていどで売り切るというのが、雨季が明けて以来の通常ペースであった。
だいたい2、3食で満腹になるようなサイズであるので、来客数は300名から450名といったところであろう。以前はシムとジャガルのお客の数が目立っていたものであるが、今はもう割合も判別できないぐらい入り乱れている。さらに、ジェノス在住の女性や子供のお客も増えたので、まさしく老若男女といった様相だ。
肉の市場でギバ肉を売り始めた影響も、今のところはまったく見られない。先日、ギバ肉を購入してくれたご主人がたの要請で、ギバ料理の勉強会というものも開いてみたのだが、まだしばらくは宿屋の食堂のみで売りに出すつもりだと、ご主人がたは述べていた。屋台で売りに出すと、いっそう俺たちの料理と比べられてしまうので、とうてい太刀打ちできそうにない、とのことであったのだ。
(だけどこの調子でギバ肉が普及していけば、いずれは目新しさもなくなって、俺たちの屋台も規模を縮小することになるかもしれないな)
だけど俺は、それでかまわないと思っていた。
俺たちの本来の目的は、ギバの肉を売ることであったのだ。ギバの料理を売っていたのは、あくまでギバ肉の美味しさを広く知らしめるためなのである。
ギバの料理など珍しくもない。どこの屋台でも宿屋でも、気軽に買い求めることができる。という、そんな状況を作りあげることこそが、俺たちの――俺とアイ=ファの一番の目的であったのだった。
ギバの肉に商品としての価値を与えることができれば、森辺の民はこれまで以上の豊かさを得ることができる。貧困に苦しむことなく、より強い力でギバ狩りの仕事に励むことができる。その豊かさを、森辺に住まうすべての氏族と分かち合うことができたとき、初めてファの家の悲願は達成されたと言うことができるのだ。
極論を言えば、俺たちは料理を売る商売を取りやめてもかまわない。町の人々が自分たちで美味しいギバ料理を作り、ギバ肉を欲してくれさえすれば、それで目的はかなうのである。むしろ、ギバ料理とは特別なものではなく、誰でも美味しく仕上げることができるのだ、と思われたほうが理想的なぐらいであった。
(とはいえ、屋台の商売を取りやめたいなんていう気持ちは、これっぽっちもないけどな)
そんな風に考えながら、俺はその日も屋台の商売に取り組んでいた。
たとえギバ肉の普及が完全に達成されたとしても、俺たちはこの商売を通じて、町の人々と縁を結んでいる。それだって、森辺の民には必要な行いであるはずだった。
そうしてその日、俺はその仕事の喜びを再確認させられる幸運に見舞われた。
中天を迎えて、いっそう慌ただしく仕事に取り組んでいたとき、その面々がついに姿を現してくれたのである。
「よお、こいつはたいそうな賑わいだな」
それは、俺にとっても事前に予見できる出来事であった。
しかし、そうだからといって、喜びや驚きの念を抑えられるものではなかった。
「ああ、アルダス! それに、皆さんも! 予定通り、ジェノスに到着されたのですね!」
「ああ。宿屋にトトスと荷車を預けて、真っ先に寄らせてもらったよ。ナウディスに話は聞いていたが、それにしてもたいそうな変わりようだ」
そう言って、その人物――ジャガルの建築屋の副棟梁、アルダスは豪快な笑い声を響かせた。
その背後には、懐かしい人々がずらりと立ちはだかっている。ジャガルの民はみんなもしゃもしゃと髭を生やしているので判別をつけるのがとても難しいのであるが、それでもそれは確かに見知った顔であった。
その中で、アルダスはただひとり180センチを超える巨漢であるので、なおさら見間違えることもない。アルダスは、俺の記憶にある通りに、グリーンの瞳を明るく光らせながら、にこやかに笑っていた。
「ともあれ、元気そうで安心したぞ、アスタ。本当にひさしぶりだからな」
「はい。閏月があったので、きっちり11ヶ月ぶりですね。そちらもお変わりないようで何よりです。……それであの、バランのおやっさんは――」
と、俺が言いかけたとき、アルダスの陰で「おい!」とわめき声をあげる人物がいた。
「何なのだ、これは! ギバ料理の屋台を5つも6つも並べおって……これでは、どれを買っていいかもわからんではないか!」
「お、おやっさん、どうもおひさしぶりです」
それこそが、建築屋の棟梁たるバランのおやっさんであった。
ジャガルの民らしく、小柄で骨太の体格をしており、当然のように豊かな髭をたくわえている。ぎょろりとした目も、大きな鼻も、不機嫌そうな表情も、やはり俺の記憶にある通りのおやっさんであった。
「お前たちの噂はジャガルにまで届いていたぞ! よりにもよって、ジェノスの貴族どもと真っ向からぶつかり合ったそうだな! それで生きながらえることができたのは、ひたすら運がよかったからだ! 少しは身をつつしめ、この馬鹿者め!」
「ああ、はい、その……どうもご心配をおかけしまして……」
「……まあ、こうしてきちんと商売を続けていたのだから、そこのところはほめておいてやろう」
と、ひとしきり騒いでから、おやっさんはいきなり腕をのばして俺の胸もとを小突いてきた。
「元気そうだな、アスタよ。宿の主人に聞いたところ、ずいぶん羽振りがいいようではないか」
「はい。無事にみなさんと再会することができて、心から嬉しく思っています」
「ふん! 緑の月に俺たちがやってくることはわかりきっていただろうが! 仰々しく言葉を連ねるまでもないわ!」
本当に懐かしい、おやっさんのわめき声であった。
昨年の青の月の終わり、シュミラルと同じ日に別れたおやっさんたちと、ついに再会することができたのだ。おやっさんに何と言われようとも、俺は胸中にあふれかえる喜びをおさえることはできなかった。
「まったく、おやっさんは相変わらずだな。荷車の中ではあれだけそわそわしていたのに、いざ顔をあわせたらけっきょくその有り様か」
と、アルダスがまた笑い声をあげる。
「アスタがジェノスの貴族と面倒を起こしたと聞いたときは、それこそ仕事が手につかないほど慌てふためいていたんだぞ。放っておいたら、ひとりでジェノスに向かっていきそうな勢いだったからな」
「たわけたことを抜かすな! お前こそ、どうしようどうしようとずっと慌てふためいていたではないか!」
「そりゃあ心配するのが当たり前だろう。ただでさえ、森辺の民はジェノスでひどい扱いを受けていたからな」
アルダスは、その瞳にとても優しげな光をたたえた。
「ともあれ、無事に済んだのだから、何よりだ。俺たちは、みんなまたジェノスにやってくる日を心待ちにしていたんだからな」
その後は、他の面々も笑顔で挨拶をしてくれた。
建築屋のメンバーは、おやっさんたちを含めて8名である。名前までは知らなくとも、ひと月以上もの間、毎日のように通ってくれていた人々だ。それらの人々と挨拶を交わしながら、俺は何度となく喜びを噛みしめることになった。
「それにしても、まさかここまで商売の手を広げているとはな。あの屋根の下の座席も、アスタたちのものなのか?」
「はい。太陽神の復活祭を機に、食堂を準備することになりました。汁物などの木皿を使う料理を売りたかったので、どうしても座席が必要になってしまったのです」
「なるほどなあ。屋台で働いている顔ぶれも、あの頃とはずいぶん違っているようだ」
建築屋の面々が見知っているのは、ヴィナ=ルウとレイナ=ルウとララ=ルウとシーラ=ルウ、そしてリィ=スドラぐらいのものである。その中で本日商売に取り組んでいるのは、髪を切って様変わりをしたシーラ=ルウのみであった。
2台きりであった屋台は6台に増えて、屋根を張った青空食堂までが準備されている。開店当初のつつましい姿しか知らない彼らには、ずいぶんな変容に感じられたことだろう。
どれだけ話をしても尽きないところであったが、そこで後ろに並んだ人々から、「おい、まだ待たせるのか!?」というお声をいただいてしまった。
「おっと、うっかり話しこんじまったな。それじゃあ、料理を買わせていただくか。……しかし、確かにこいつはおやっさんの言う通り、何を買うべきか迷っちまうなあ」
「でしたら、俺が料理をみつくろいましょうか? 料理は6種類ありますので、みなさんがそれぞれ楽しめるように、小分けにして配分いたしますよ」
「お、それは助かるな! それじゃあ、アスタにおまかせしよう」
ということで、建築屋の面々は手ぶらで座席に向かうことになった。
まずはさんざん待たせてしまったお客さんたちに料理を手渡してから、俺は配分を考える。かつては《ギャムレイの一座》の人々にも、こうして配分を頼まれた俺であった。
「……あれが、ジャガルの建築屋という人々であったのですね」
と、俺の手伝いをしてくれていたマトゥアの女衆が、にこりと笑いかけてきた。
「アスタも南の民たちも、本当に嬉しそうなご様子でした。リリンの家のシュミラルと同じように、彼らもアスタにとっては大事な存在であるのですね」
「うん。真っ先に屋台の常連さんになってくれた人たちだからさ。どうしても、思い入れが強くなっちゃうんだよね」
「とても素晴らしいことだと思います。よければ、わたしがしばらく仕事を受け持ちますので、アスタが料理を届けてあげてください」
本日の俺に、その申し出を断ることはできなかった。
ということで、各々の屋台に必要な数を注文したのち、俺は荷車からお盆代わりの板を引っ張り出して、手ずから給仕することになった。
「お待たせしました。何回か往復しますので、少々お待ちくださいね」
何せ8名分の料理であるので、けっこうな量である。建築屋の人々の歓声を聞きながら、俺はいそいそと給仕の仕事に取り組んだ。
本日の日替わりメニューは、石窯で作製した『ロースト・ギバ』であった。
一緒に蒸し焼きにした野菜と焼いたポイタンをひと切れそえて、提供する。以前にもこの献立を売りに出していたことはあったが、石窯が導入されたことによって、より本格的なものをお届けすることができるようになっていた。
ファの家の残りの2種は、『ケル焼き』と『カルボナーラのパスタ』。ルウの家の屋台からは、『ギバの香味焼き』と『ギバのモツ鍋』。そしてマイムの屋台からは、不動のメニューたる『カロン乳仕立ての煮付け』である。
この中で、小分けにできるのは『ロースト・ギバ』と『カルボナーラ』と『ギバのモツ鍋』のみであった。
残りの料理はポイタンの生地ごと等分に切り分けて、それぞれを少量ずつ味わっていただくことにした。
「たぶんみなさんだと、これで腹八分目の量になると思います。もしもお気に召すようでしたら、あとは各自で追加の注文をお願いいたします」
「こいつは豪勢だな! これで本当に、お代はひとり赤銅貨3枚なのか?」
「はい。おひとりで2、3種類の料理を楽しめるように、以前よりもひとつずつを小さめに仕上げているのです」
「ああ。きっと腹の中に収めちまえば、これでも物足りなく感じられるんだろうな」
アルダスを筆頭に、みんな期待に満ちあふれた面持ちである。
バランのおやっさんは相変わらず仏頂面であったが、その目は誰よりも爛々と光っていた。
「よし、それじゃあ、いただくか!」
アルダスの言葉を合図に、全員がいっせいに卓へと手をのばす。
その後は、もう火のついたような騒ぎであった。
「おお、こいつはケルの根を使っているのか! まさかジェノスでケルの根を味わえるとは思わなかった!」
「こっちのこいつは、シムの香草を使ってるんだな。……ううむ、癪だけど美味いな」
「この汁物は抜群に美味いぞ! 以前に宿屋で食べたやつより美味いぐらいだ!」
俺の仕事は果たされたが、なんとも立ち去りがたい心地である。
すると、食堂で働いていたユン=スドラが笑顔でこちらに近づいてきた。
「アスタ、こちらは木皿を洗う仕事も一段落したところですので、わたしが屋台のほうを手伝ってきます。何かあったら声をかけますので、しばらくはこちらで休んでいてください」
「あ、いや、それはさすがに申し訳ないよ」
「いいではないですか。普段は人の倍以上も働いているのですから、こんなときぐらいはわたしたちを頼ってください」
俺はこの緑の月の1日が待ち遠しくて、周囲のみんなにもさんざんその思いをぶちまけていたのである。マトゥアの娘もユン=スドラも、そんな俺の心情を慮ってくれているようだった。
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただくよ」
「はい。どうぞごゆっくり」
にこりと朗らかな笑みを残して、ユン=スドラは屋台のほうに駆けていった。
そこでアルダスが、猛然と俺を振り返ってくる。
「アスタ! どいつもこいつも美味くてたまらんぞ! ずいぶん腕をあげたものだな!」
「ええ、あれから色々な食材を使えるようになったので、かなり献立の幅を広げることができました。その内の半分は、俺ではなくて別の人たちが作ったものですけどね」
「ああ、さすがにこれだけの数をアスタがひとりで作れるわけはないよな。しかし、何にせよ美味い! これから2ヶ月もこんな美味いものを食い続けることができるなんて、夢みたいだよ」
率直さを美徳するジャガルの民である。その言葉は、真正面から俺に強い喜びを与えてくれた。
「俺はこっちのケルの根を使った料理が一番好きだな! おやっさんは、やっぱりタウ油の汁物か?」
「……こんなに種類があっては、順番などつけられんわ。とりあえず、こっちの料理は食べにくくてかなわんぞ」
もちろんそれは、おやっさんたちにとっては初の体験となる『カルボナーラのパスタ』のことであった。
「あ、それはこう、くるくるっと巻き取って食べてください。木匙の先が3つに割れていますので――」
「そんなまどろっこしい真似をしていられるか」
おやっさんは小皿に取り分けたパスタを、ひと口でかき込んでしまった。
ギバ肉もアリアもナナールも一緒くたである。それを入念に咀嚼して呑みくだしたのち、おやっさんは「むふう」と満足げな吐息をついた。
「何だか酒盛りでもしたい気分だな。果実酒でも買っておくべきだったか」
「あ、今日は仕事をされないのですか?」
「半月ばかりも荷台で揺られていたのに、初日からいきなり屋根などにのぼれるものか! 仕事の開始は、明日からだ!」
「だけど、これから仕事の打ち合わせなんだからな。さすがに果実酒はまずいだろう」
そのように述べながら、アルダスも次々と料理をかっさらっていく。
この勢いでは、八分目の料理もあっという間に尽きてしまいそうだった。
「ああ、これじゃあまったく足りなそうだな。なんなら、同じ量でも食えちまいそうだ」
「同じ量を食ったら、赤銅貨6枚だぞ。さすがに昼の食事でそんな銅貨はつかえまい」
そう言って、おやっさんはじろりと俺をねめつけてきた。
「しかし、以前は赤銅貨2枚でもそこそこ腹は満ちたものだ。ギバの料理が値上がりしたというのは、本当のことだったのだな」
「あ、はい。城下町からのお達しで、1・5倍の値段に引き上げることになってしまったのです。以前のままの料金だと、カロンやキミュスの料理が売れなくなってしまうから、ということで……」
「ふん! そんなことは、最初からわかりきっていたことだ。これでカロンの足肉やキミュスの皮なし肉と同じ料金では、他の連中が商売になるまいよ」
相変わらず笑顔を見せようとはしないおやっさんであるが、その顔には隠しようもない満足感が満ちみちていた。
それだけで、俺のほうも大満足である。
「仕事のある日は、これぐらいの量でも十分だろうな。ということは、ひとり赤銅貨3枚だから、確かに1・5倍の値段だ」
「だけど、お味のほうは倍以上だよ! これなら損をした気分にもならないな!」
若めのメンバーが、陽気な声を張りあげる。他の面々も、賛同するように満面の笑みであった。
「今日は満腹で動けなくなってもかまわないんだろ? だったら、追加を頼もうぜ!」
「俺はこっちの木皿の肉をもっと食いたいな」
「俺はカロン乳のやつがいい!」
「汁物もこれじゃあ足りないよな。確かにもうひとそろい、同じ量を食いたいところだ」
俺はなんだか油断をしていると、涙をこぼしてしまいそうであった。
ほぼ1年ぶりに再会した面々が、美味い美味いとギバの料理を食べてくれている。特にジャガルの民というのは感情が豊かであるので、俺はことさら胸を揺さぶられてしまうのだった。
「とりあえず、もう1枚ずつ銅貨を出すか。それでどれぐらいの量を注文できるか、アスタに教えてもらって――」
と、アルダスがそのように言いかけたとき、往来のほうからただならぬざわめきが伝わってきた。
そちらに目をやったおやっさんは、「何だありゃ?」と眉をひそめる。
何気なく視線を向けた俺は、それどころではない驚きに見舞われることになった。
北の方角から、ものすごい数の軍勢が押し寄せてきたのである。
軍勢というのは、比喩ではない。それは白銀の甲冑を纏い、いずれもトトスにまたがった、兵士の群れであったのだ。
「おいおい、戦争でも始まったのか?」
アルダスも、呆れたようにつぶやいている。
宿場町に通じる主街道は、道幅が10メートルばかりもあるのだが、その軍勢は5列縦隊で粛々と進軍しており、はるか彼方までその隊列が続いているようだった。
少なくとも、100名やそこらで収まる数ではない。復活祭のパレードでも、俺はこれほどの軍勢を目にする機会はなかった。
宿場町の区域に差しかかったところで、その軍勢はぴたりと停止する。
すると、その先頭にいた唯一の荷車から身なりのいい男性と護衛役の武官が飛び降りて、急ぎ足で宿場町に駆け込んできた。
それと同時に、南の方角からは衛兵たちがやってくる。
北から駆け込んできた人々と南から駆けつけてきた衛兵たちは、ちょうど青空食堂の真ん前でぶつかることになった。
身なりのいい男性は焦燥感もあらわに何事かを囁いており、衛兵たちは青い顔でそれを聞いている。そして、それを遠巻きにした宿場町の人々は、わけもわからぬまま呆然と立ちつくしていた。
その間、トトスにまたがった軍勢のほうは、ぴくりとも動かない。
まるで、ロボットか何かのようだ。なおかつ彼らは、明らかにジェノスの衛兵たちよりも立派な甲冑に身を包んでいた。
「ジェノスであんな軍勢を見るのは初めてのことだな。いったい何があったっていうんだろう」
またアルダスが低くつぶやく。
すると、あらぬ方向からそれに答える者がいた。
「あれは、王都から訪れた視察団の護衛部隊です。彼らのために宿屋を準備するように要請しているところですね」
俺は、愕然とそちらを振り返った。
旅用のフードつきマントを纏った少年が、そこにちょこんと立ち尽くしている。その少年は、にこにこと笑いながら、そのフードを背中のほうにはねのけた。
「おひさしぶりですね、アスタ。お元気そうで何よりです」
「レイト! いったいいつジェノスに戻ってきたんだい!?」
「たった今ですよ。ああして街道をふさがれてしまったので、雑木林の裏から回り込んできました」
それは、数ヶ月前にジェノスを離れて以来、まったく音沙汰のなかった《守護人》カミュア=ヨシュの弟子たるレイト少年であった。
亜麻色の髪に鳶色の瞳を持つ少年は、なおもにこやかに微笑みながら、こう言った。
「カミュアは視察団の本隊とともに城下町に入りました。アスタ、カミュアからの伝言をお伝えいたします」
「で、伝言?」
「はい。王都の視察団とも護衛部隊とも、決して悶着を起こさないように、とのことです。十分に用心をして、万全の体勢でこの苦難を乗り越えてほしい、とカミュアは言っていました」
「この苦難って、いったい……?」
呆然とつぶやきながら、俺は北の方角に立ちはだかる軍勢を振り返る。
よく見ると、先頭の右端に陣取った兵士は、その手に巨大な旗を掲げていた。
緋色の生地に、銀色の獅子の紋章――のちに聞いたところによると、それこそがセルヴァの王都アルグラッドを示す、神聖なる銀獅子旗というものであったのだった。




