来し方と行く末(中)
2017.10/22 更新分 1/1 ・10/23 誤字を修正
ライエルファム=スドラは、もともとスドラ本家の次兄であった。
次兄であり、末弟だ。自分の下に弟はなく、妹は幼い頃に病魔で魂を返してしまっていた。
しかし長兄は、力にあふれた狩人であった。本家の血筋を守るために、長兄は大事に育てられたのだ。特に、次兄のライエルファム=スドラが身体の小さい非力な男衆であったため、余計に期待がかけられたのだろう。なかなかギバが狩れずに飢えで苦しんでいたときにも、長兄にだけはなるべくたくさんの食べ物が与えられていた。
その後、兄弟が年齢を重ねても、その習わしが破られることはなかった。満足な食べ物が与えられなかったためか、ライエルファム=スドラはいっこうに大きくなれなかったので、ますます長兄にばかり期待がかけられることになったのだ。
15歳になってすぐ、長兄は血族でもっとも美しい女衆を娶ることになった。
眷族であるミーマの、本家の長姉である。長兄と同じ年齢で、すらりと背が高く、豊満な身体つきをした女衆だった。その女衆もまた、血族の行く末を託されて、大事に育てられていたのだった。
スドラの血族は不幸が続き、もはや眷族もミーマしか残されていなかった。痩せ細った血族の中で、そのふたりだけは輝くような力と美しさを放っており、彼らこそが血族に新たな道を示してくれるはずだと誰もが信じていた。
だが、スドラの不幸は終わっていなかった。
ミーマの長姉が嫁に入ってから数年が過ぎても、子が生まれなかったのだ。
最初の一年は、皆も大して気にしてはいなかった。
二年が過ぎると、不安の声が囁かれることになった。
そうして三年、四年と日が過ぎていくと、まず長兄が心の平穏を失った。
どうして子を生まぬのだと、伴侶を口汚く罵るようになった。さらには少ない蓄えを勝手に持ち出して、あびるように果実酒を飲み、暴力までふるうようになった。家長たる父親は大いに怒って長兄をたしなめたが、しかしそれよりも深い絶望に目を曇らせるようになっていた。
そして、5年目――父親と長兄は、同じ日に魂を返すことになった。
狩りの最中に飢えたギバに襲われて、あっけなく生命を散らすことになったのだ。
分家の狩人たちと別の場所で狩りをしていたライエルファム=スドラは、生き残りの狩人からその報を聞いて、しばらくは言葉も出なかった。
母親は、数年前に亡くなっていた。
本家に残されたのは、ライエルファム=スドラと長兄の嫁のふたりきりであった。
そして長兄の嫁もまた、伴侶の後を追うように病魔を患って魂を返してしまった。
そうしてライエルファム=スドラは、あっという間にスドラ本家の最後のひとりになってしまったのだった。
当時のライエルファム=スドラは、17歳。
しかし、背丈は13歳ぐらいからまったくのびておらず、並の女衆よりも小さいぐらいだった。また、目もとは陰気に落ちくぼみ、鼻はぐしゃっと潰れており、顔中にしわが寄っている。意地悪な人間には「モルガの野人でももっと人間がましい顔をしているだろう」と言われるほどの醜貌で、その年になっても伴侶を見つけることができていなかった。
そんなライエルファム=スドラが、本家の家長として血族を導いていかなくてはならなくなってしまったのだ。
さらに悪いことに、眷族のミーマはスドラに反感を抱くようになっていた。
希望を込めてスドラの家に嫁入りさせた本家の長姉が、伴侶によって虐げられることになったからだ。
ライエルファム=スドラは大いに悩んだ末、ひとつの決断をした。
それを血族に伝えるために、すべての人間を本家の前に呼びつけて、ライエルファム=スドラは宣言した。
「父と兄が魂を返したために、今後は俺がスドラとミーマを率いていくことになる。それを不満に思う人間も多いだろうが、俺が不出来な人間だからといって森辺の習わしをくつがえすわけにもいかん。無念の思いは胸に留めて、モルガの子として正しく生きてほしい」
その言葉を明るい表情で聞いている人間はひとりとしていなかった。
分家の人間たちは絶望に打ちひしがれており、ミーマの人間たちは反感もあらわに目を光らせている。
そんな血族たちを前に、ライエルファム=スドラはその言葉を語った。
「ただ、ここにひとつの約束をする。俺はこの先も伴侶を娶らず、子を生すこともない。俺の後に本家の家長となるのは、もっとも血の近い分家の家長だ。しかし、そちらの家長も狩りの仕事で手傷を負っており、その子はまだ幼い。その幼子が立派な狩人に育つまで、俺が本家の家長として皆を導きたいと思う」
血族たちは、誰もが驚いた顔をしていた。
おそらく、こんな馬鹿げた話をする森辺の民は、かつて存在しなかったのだ。
しかし、ライエルファム=スドラは、自分にとってもっとも正しいと思える道を示しているばかりであった。
「そして俺は、父や兄たちが道を誤っていたのだということを、ここで皆に詫びさせてもらいたい。父は長兄たる兄にすべての期待を託して、他の家人よりも多くの食事を与えていた。また、それが正しいことなのだとミーマの家長を諭し、同じ道を歩ませていた。それが間違っていたために、俺の兄と伴侶は長く苦しみ、また、血族にも同じ苦しみをもたらしてしまったのだと思う。長兄や長姉が大事だからといって、他の家人をないがしろにするのは、絶対に間違ったことなのだ」
驚きの表情で立ちつくす血族たちに、ライエルファム=スドラはそう言いつのった。
「下の子よりも上の子を重んずるべし、分家よりも本家を重んずるべし、眷族よりも親筋を重んずるべし、というのは、森辺の習わしだ。それは正しい行いであるのだろうが、度が過ぎれば道を間違うことになる。ましてや俺たちはこれっぽっちの人数しかいないのだから、親筋だ本家だ分家だと区切りをつける甲斐もあるまい。だから、少なくとも俺が家長でいる間は、そのような習わしにとらわれすぎず、すべての血族を家族と思って慈しんでもらいたい。……俺の指し示すこの道が間違っていたときは、きっと森の裁きによって、俺の魂も召されることになるだろう。父や兄たちと同じようにな」
それで、ライエルファム=スドラの伝えたいことはすべてであった。
そうしてライエルファム=スドラは、17歳の若さで血族を導いていくことになったのである。
それからも、スドラとミーマの辿る道は険しかった。
赤児は幼いまま魂を返すことが多く、血族の数はじわじわと減じていく。他の氏族と血の縁を結ぶこともかなわず、族長筋のスン家からは弱き氏族だと蔑まれて、毎日が泥をすするような日々であった。
やがて10年ほどの歳月が過ぎると、次代の族長とみなされていた分家の長兄が森に出られる年齢となった。
しかしその長兄は、森に出て半月ほどで魂を返すことになってしまった。
その家に、他の子供はなかった。
「だったら、次に血の近い分家の子が次代の家長だ。その子が立派に育つまで、俺がスドラを守ってみせよう」
ライエルファム=スドラは、そのように宣言してみせた。
その頃にはすでに30歳も間近な年齢になっていたが、彼は約定通り、伴侶を娶っていなかった。その甲斐もあってか、血族たちはライエルファム=スドラの言葉を守り、慈しみの気持ちを大事にしてくれているように思えた。
だが、いかに心正しく生きようとも、銅貨がわいて出ることはない。
力のない彼らは必要な数のギバを狩ることも難しく、常に貧しかった。刀がへし折れたら弓だけでギバを狩り、病魔を患っても町で薬を買うこともできず、時にはアリアやポイタンや塩を買うことすら難しかった。ギバの肉を胴体まで喰らい、なんとかその場の腹を満たしても、力はますます弱っていくように感じられた。
そうして、さらに7年後。
17歳であったライエルファム=スドラが、同じ歳月を家長として生きた頃、次代の族長とみなしていた若衆が、また森に朽ちることになった。
「……嘆いていても始まらん。ならば、次に血の近い人間を次代の家長とみなすのみだ」
またすべての血族を本家の前に集めて、ライエルファム=スドラはそのように宣言した。
誰よりも悲嘆に暮れていたのはライエルファム=スドラ自身であったが、そのような弱みを血族たちにさらすわけにはいかなかった。
「男の子供は絶えてしまったが、まだそちらには若い長姉がいたはずだな?」
ライエルファム=スドラが問うと、ひとりの若い女衆が「はい」と進み出た。
すらりと背の高い、美しい女衆だった。
「では、お前の婿となる男衆が、さしあたっては次代の家長だ。さらにその子が本家の家長を受け継ぐのだから、そのつもりで婿を選び、強い子を生むがいい」
「了解いたしました。……わたしはすでに、心に決めている男衆がおります」
若くて未婚の人間は限られていたので、それも不思議な話ではなかった。
「では早々に、その男衆と婚儀をあげるがいい。お前はすでに15歳になっているのであろう?」
「はい。先月に15の年となりました」
「それではいっそ、この場で婿取りを願ったらどうだ? お前のような女衆であれば、婚儀を断られることもあるまい」
「そうだと嬉しいのですが、いかがなものでしょう」
そう言って、その娘はふわりと微笑んだ。
「わたし、スドラの分家の長姉たるリィ=スドラは、本家の家長ライエルファム=スドラの嫁となることを望みます。……この願いをかなえていただけますか?」
「なに?」と、ライエルファム=スドラは目を剥くことになった。
「お前は何を言っているのだ。俺の話を聞いていなかったのか?」
「はい。あなたがわたしの生まれる前から、伴侶を娶らぬと誓ったことは知っています。だけどわたしは、あなた以外の男衆を伴侶に迎える気持ちにはなれないのです」
「何を馬鹿な……」と、ライエルファム=スドラは絶句した。
そこに、ライエルファム=スドラと同じぐらい年をくった男衆が進み出てくる。リィ=スドラの、父親である。
「先の月から、リィとはずっとそのことについて語り合っていた。その末に決めたことであるので、どうか了承してもらえないだろうか?」
「お、お前まで何を言っているのだ。17年前の俺の言葉を忘れたわけではあるまい?」
「もちろん、忘れてはいない。しかしこの段に至って、お前のことを不出来な人間と思う血族はひとりとして存在しないはずだ」
そうしてその男衆は、その場に集まった血族たちを見回した。
「スドラとミーマのすべての家人に問う。本家の家長ライエルファム=スドラが伴侶を娶り、子を生すことに、反対する人間はいるか? そして、その子供が次代の家長として我々を導いていくことを、不満に思う人間はいるか?」
反対する者は、ひとりとしていなかった。
その結果を満足そうに見届けてから、リィ=スドラの父親はライエルファム=スドラに向きなおってくる。
「ご覧の通りだ。この17年間で、お前は家長としての力を示し続けてきた。お前の父と兄は道を踏み外したが、お前は正しい道を歩いている。血族の全員が、それを認めたのだ」
「いや、しかし……」
「俺とお前は血が近いといっても、おたがいの祖父が兄弟であったというだけだ。それほどまでに血族の数が減ってしまったというのは、悲しい限りだが……しかし、それだけ血が遠ければ、俺の子とお前が婚儀をあげるのに不都合はなかろう」
「…………」
「だから後は、お前の気持ち次第だ。お前がリィを伴侶に相応しい人間だと思えるならば、どうか嫁として迎えてやってくれ」
ライエルファム=スドラは大いに惑乱しながら、リィ=スドラを振り返ることになった。
リィ=スドラは、同じ表情で微笑んでいる。
「……お前は本気で、俺などの嫁になりたいと言っているのか?」
「はい、もちろんです」
「しかし俺は、このように醜い姿をしている」
「顔の美醜など、どうでもよいことです。あなたは血族で一番の狩人ではないですか」
「しかし俺は、お前よりも身体が小さい」
「わたしよりも小さな男衆は、他にもたくさんいます。スドラとミーマには、あまり大きな人間もいませんので」
「しかし俺は……もう34歳にもなるのだぞ?」
リィ=スドラは、祈るような仕草で両手を組み合わせた。
「ライエルファム=スドラ、わたしはあなたの魂のありように心をひかれてしまったのです。あなたの伴侶となれなければ、この世に生まれた甲斐もありません。どうか嫁入りをお許しくださいませんでしょうか?」
それでライエルファム=スドラは、リィ=スドラと婚儀をあげることになった。
19歳も年少で、頭半分以上も背が高く、そして聡明で美しいリィ=スドラを、伴侶として迎えることになったのである。
それは、ふってわいたような幸福であった。
これが本当に現実のことであるのかと、ライエルファム=スドラはしばらく信じることもできないほどであった。
そしてまた、すべての血族がその婚儀を祝福してくれたことが、ライエルファム=スドラにさらなる衝撃と幸福感を与えてくれた。
ライエルファム=スドラは、血族を慈しむべしと皆を導きつつ、自分の存在はその枠に入れていなかったのだ。
父と兄がもたらしてしまった苦しみを少しでも取り除き、あとは次代の家長に託して、自分は孤独に朽ちていけばいい。そのように考えていたライエルファム=スドラの思いは、血族たちの情愛によって見事にくつがえされてしまったのだった。
だが――
それでもなお、スドラの血族の苦難は終わらなかった。
おたがいを慈しみ、正しい道を歩んでいるのだと信じながら、それでもスドラの血族はゆるやかに滅びの道を辿ることになったのだ。
家人の数は、やはり減っていく一方であった。
リィ=スドラも2度ほど子を孕むことになったが、どちらも幼くして魂を返すことになった。食料に乏しく、満足に乳も与えることのできなかった幼子たちは、のきなみ《アムスホルンの息吹》によって生命の火を吹き消されてしまうのだった。
そのときの悲しみは、いまだにライエルファム=スドラの心を蝕んでいる。
皆に祝福されて生まれてきた幼子たちが、2度までも育つことなく魂を返してしまったのだ。
ライエルファム=スドラが声をあげて泣いたのは、この世に生を受けてからその2回だけだった。
リィ=スドラもまた、やつれた面で声もなく涙をこぼしていた。
そうして、リィ=スドラと婚儀をあげてから4年後――ライエルファム=スドラが家長となってから21年が過ぎて、38歳となった年である。
ミーマの家人が極限まで減じてしまったため、ついに氏を捨てて、スドラの家と合併する事態に至った。
ミーマの家人は6名で、その半数は13歳に満たない幼子であった。
それを迎えるスドラの家も、家人は分家を含めて12名にまで減じてしまっていた。
「これではもはや、俺たちも滅びを待つばかりだ。ミーマばかりでなく、スドラの氏もここまでと考えるべきではないだろうか」
17名の血族を集めて、ライエルファム=スドラはそのように言ってみせた。
すると、ミーマの本家の家長であった男衆が食い入るようにライエルファム=スドラを見つめてきた。
「家長ライエルファム、スドラの氏を捨てて、他の氏族の家人になろうというのですか?」
「それ以外に、道があるか? このままでは、幼子たちに行く末を託すこともままならん」
「しかし……18名もの家人を受け入れられる氏族など、スンやルウを除けば他にありますまい。かといって、力を尊ぶあやつらが我々を受け入れるとは思えませんし、受け入れられたところで、粗末な扱いを受けるだけでしょう。かといって、他の小さき氏族では、これまで以上に貧しい生活を送ることになるやもしれません」
「そのようなことは、俺にだってわかっている。しかし、何も手を打たずに滅びを待つわけにもいかん」
「そうでしょうか? 我々は、誇りを失うぐらいであれば滅ぶべきだと考えています」
その男衆は、目に涙をためながらそう言いつのった。
「他の氏族に、あなたほど立派な家長がいるとも思えません。ミーマの氏を捨てはしても、わたしは魂を返すそのときまでスドラの血族でありたいと願います」
「しかし……」
「あなたの教えの通りに、わたしはこの場にいる人間のすべてを親や子のように慈しんでいます。どんなに貧しくとも、わたしは幸福であり、今の自分に誇りを持っています。わたしは今の喜びと誇りを打ち捨ててまで、生き永らえたいとは思いません」
他の血族たちも、並々ならぬ決意をたたえてうなずいていた。
それでライエルファム=スドラも、心を定めることができた。
「わかった。俺が家長でいる間は、これまで通りに血族を導くと約束しよう。もしも俺が森に朽ちたなら、次の家長は血族にとってもっとも正しいと思える道を探すがいい」
それから3年の月日が過ぎて、家人の数は半分の9名にまで減じた。
しかしライエルファム=スドラはいまだに生き永らえており、家長の座にある。
自分がこのようにしぶとく生き残ってしまっているがゆえに、スドラの家は滅んでいくことになったのではないだろうか。
ライエルファム=スドラがそのように思わぬ日は1日たりともなかった。
9名の内の4名は婚儀もあげていない若衆であるというのに、伴侶を娶ることもできない。これほど貧しくては満足に子供を育てることもできないと考えて、家人の間で婚儀をあげようとする者もなかったのだった。
ライエルファム=スドラ自身も、この数年間は子を生そうとしていない。
これでまた子を幼くして失ってしまったら、自分も妻も絶望に潰されてしまいそうだと思えてしまったからだ。
スドラの家はひそやかに、滅びの道を辿っていた。
わずか4名の狩人でギバを狩り、細々と食いつないでいる。こんな生活も、何年とは続かないだろう。数少ない家人たちとせいいっぱい情愛を紡ぎ、その胸に誇りを抱きながら、彼らももうじきに母なる森へと魂を返すのだ。
そんな諦念の中で生きていた、その年に――彼らは、ファの家のアスタと巡りあうことになったのだった。