⑤誇りと堕落
2014.9/8 更新分 1/2
見覚えのない若者だった。
だけど、森辺の民であることに間違いはない。
ギバの毛皮の長マントに、複雑な渦巻き模様の織りこまれた胴衣と腰あて。腰から下げた大小の刀に、そして牙と角の首飾り。
ざんばらの髪は黒褐色で、肌の色は浅黒く、ギラギラと燃える目は、青。
そんなに背は大きくないが、身体中にみっしりと筋肉がついており、顔は狛犬のように厳めしい。
そんな森辺の若い男が、ころころとよく肥えた商人風の男のむなぐらをひっつかみ、その丸っこい顔が真っ赤になるぐらいギリギリと絞め上げていたのである。
「アスタ。お前は、ここにいろ」
そんな風に言い捨てて、アイ=ファはひたひたと人垣のほうに歩いていってしまった。何故か、その手に1本の果実酒をぶらさげて。
しかし、黙って見物はしていられない。喧嘩の仲裁など俺には不相応な役割かもしれないが、あの気の毒な女の子を放っておくわけにもいかないだろう。
アイ=ファは人垣をかきわけて輪の中心へと向かっていたので、俺は人垣を迂回する格好で女の子に忍び寄ることにした。
「なあ、もういっぺん言ってみろよ? 『臭いギバ喰い』ってのは誰のことだ? 『飯が不味くなる』とも言っていたなあ? もういっぺん、俺にもよく聞こえるように言ってみてくれよ、なあ、石の都の住人様よ?」
どうやらその森辺の男は、酩酊しているようだった。
その手には、俺たちのと少し形は違うがよく似たデザインの土瓶が握られていたし、顔が赤いのも、声が上ずっているのも、ただ怒りのためだけとは思えない。
(こんな昼間っから酒をかっくらうやつもいるんだな。ギバ狩りの仕事はどうしたんだよ?)
そんなことを考えながら、俺は早足で女の子に近づいていく。
あと5メートルほどでゴールイン、というタイミングで――新たなる悲鳴と驚愕の声が響きわたった。
そこに、ガシャンと不吉な破壊音も重なる。
森辺の男が、酒の土瓶を放り捨てて、小刀を抜いたのだ。
小刀とはいえ、鉈のように厚刃で、刃渡りは20センチもある。ギバの毛皮や肉をも断つ、危険な武具である。
(この大馬鹿野郎――ッ!)
俺はもう見物人をおしのける勢いで走りだした。
女の子もまた悲鳴をあげて、食べかけの肉饅頭を落としてしまう。
取っ組みあった男たちの足が、その饅頭をぐしゃぐしゃに踏み潰した。
それぐらい、男たちと女の子とは接近してしまっていた。
と――そこに新たな音色が重なる。
アイ=ファが、その手に持っていた果実酒の土瓶で、男の頭を後ろから殴りつけたのだ。
土瓶は粉々に砕け散り、さらなる果実酒の甘い香りが街路にひろがる。
男は、もんどりうって、ぶっ倒れて。
俺は、その下敷きになる寸前であった女の子の身体を地面からすくいあげることに、なんとか成功した。
「そんなに酒が好きならば私の分も喰らうがいい、痴れ者めッ!」
アイ=ファの鋼のような声が、その場のざわめきを叩き斬った。
しん――と静まりかえった街道に、さらなるアイ=ファの声が響く。
「石の都にて騒乱を起こすのは強い禁忌であろう。貴様は、森辺の民の、恥だ」
後頭部を押さえてうずくまっていた男が、首をねじまげてアイ=ファを見上げやる。
その澱んだ瞳には、目もあてられぬような憎悪と呪詛の念が渦巻いていた。
「手前は、ファの家の女狩人か……こ、この俺にこんな真似をして、手前はただで済むと思っているのか……?」
「森辺の掟を破ったのはどちらだ? 私の身に恥ずるところはない」
「へえ……格好いい女だな」とつぶやいたのは、森辺の男ではなかった。
いつのまにか俺のかたわらで膝をついていた、見知らぬ男だ。
「女の狩人なんて初めて見た。あの首飾りが本物なら、こいつは賞賛に値するな」
「な、何だよ、あんたは?」
アイ=ファの邪魔にならぬよう騒乱の中心から身を遠ざけつつ、同じように後を追ってくる男に問いかける。
「俺か? 俺はただの通りすがりさ。その気の毒の女の子を保護しようとしたら、君に先を越されてしまったというわけだ」
何だか、飄々とした男だった。
あまり陽に灼けていない象牙色の肌に、森辺でもこの宿場町でもあまり見ない金褐色の髪。瞳はちょっと紫がかっている。
長マントの前を合わせていたので体型はわからないが、顔はものすごく面長で、背も高そうだ。今は中腰で、俺のほうに顔を寄せている。
髪も髭も不精に伸ばしており、垂れ目で、鼻が高い。その不思議な色合いをした瞳には、妙に老成した落ち着きと子どもっぽい無邪気そうな輝きが混在しており、何とも年齢の見当をつけにくい風貌をしていた。
「お。ようやく怠け者の役人たちが動きだしたようだよ?」
そうして差しだされた男のひょろ長い指の先を見ると、おっとり刀という表現がぴったりの様相で、長槍を携えた剣呑な風体の男たちが人垣をかきわけている姿が見えた。
「お前たち、往来で何をやっているかッ!」
革の兜に、革の胸あて、黄褐色の肌に、がっしりとした身体つき。その物々しい装備を見るからに、この宿場町の安寧を守る衛兵か何かなのだろう。
俺はほっと息をつきかけたが――その長槍の穂先がアイ=ファにまで突きつけられるのを見て、愕然と立ちすくんだ。
女の子は、俺の腕の中でぷるぷると震えている。
「森辺の民か……おい! この宿場町で騒乱を起こすのは固く禁じられているはずだ! 貴様たちは、ジェノス侯との約定を踏みにじる心づもりか!?」
さすがに衛兵ともなれば、むやみに森辺の民を恐れたりはしないようだ。
しかし、その目つきや顔つきはいくぶん平静さを欠いているようにも見受けられる。
「……その約定を守るために、私は禁忌を破った痴れ者を粛清したまでだ」
グリギみたいに真っ黒の棒の先にくくりつけられた鋼の穂先をにらみすえつつ、アイ=ファは感情のない声で言った。
衛兵たちの目が、まだ地べたにうずくまっている男のほうに転じられる。
男は。
これ以上ないぐらい、醜悪な顔で哂っていた。
「石の都の衛兵よ……俺は、スン家の、ドッド=スンだ」
その色の悪い唇が、毒液のような声を街路にしたたらせる。
「お前らのような木っ端役人でもわかるだろう? 森辺を治めるスン家の人間だ、俺は。……この女を、捕えろ」
衛兵たちは、困惑気味に目を見交わす。
その姿をねめつけながら、ドッド=スンと名乗る男は、さらに言った。
「この女は、いきなり往来で俺に襲いかかってきたのだッ! この有り様を見ればわかるだろう? 俺は何も悪くないッ! その女こそ、森辺の禁忌を破り、ジェノスとの約定を破った、痴れ者だッ!」
「スン家の人間か……」と、衛兵が槍を引く姿を見て、俺はさらに愕然とした。
アイ=ファに向けられた穂先は、まだ下げられていない。
「女、詰所に来い。その上で罪を吟味する。……スン家の子息よ、貴方にも同行を願う他ないが、承諾していただけるか?」
「ああ、もちろん……」と、ドッド=スンは舌なめずりをしながら、身を起こす。
俺は思わず、叫びだしそうになった。
それよりも早く叫ぶ者がいた。
俺に抱きかかえられていた、女の子だ。
「違うよっ! ……最初に暴れていたのは男の人で、女の人は、それを止めただけだよっ!」
再び往来に、沈黙が落ちた。
何だか――嫌な感じの沈黙だ。
「……スン家の子息よ、これはどういうことなのだろうか?」
衛兵のひとりが、渋い面持ちでドッド=スンを見る。
しかし、ドッド=スンはまだ哂っていた。
「いわれなき誹謗だ。何なら、周りの連中に聞いてみるがいい。これだけの騒ぎだったのだから、一部始終を見届けていた者など、いくらでもいるだろう」
すると、信じられないことが起きた。
それまで物見高そうに首を伸ばしていた野次馬どもが、迷惑そうに顔をしかめて、ゆるゆるとその場から立ち去り始めてしまったのだ。
「おやおや。こいつはよくないねえ」
長マントの男が、すっとぼけた声でつぶやく。
立ち上がってみると、やっぱりその男は俺よりも頭半分以上は背が高かった。
上背だけなら、ドンダ=ルウぐらいあるかもしれない。しかし、猫背の上になで肩で、やっぱりずいぶんと痩せてもいるようなので、ひょろひょろのカマキリみたいな印象だ。
いや、そんなことは、どうでもいい!
「何なんだよ、畜生――そうだ、あの糞野郎にからまれてたおっさんは……?」
「あんなの、あの酔っ払いがぶっ飛ばされるなり、礼も言わずに逃げだしてしまったよ。まったく世知辛いことだねえ」
俺は歯噛みして、衛兵の前に進み出ようとした。
それと同時に、ドッド=スンの澱んだ目が、俺を見る。
その顔が、またおぞましい喜悦に引き歪んだ。
「石の都の衛兵よ。どうやらあの小僧は異国の民でありながら森辺の家人となった者らしい。おおかたあの小僧はこの痴れ者の同胞で、それであの小さな娘に馬鹿げた言葉を無理矢理吐きださせたのではないのかな?」
さっきまでドッド=スンに向けられていた穂先が、俺に向けられる。
「おい。……その娘を地面に下ろせ」
その瞬間、女の子が俺の首ったまにかじりついてきた。
「やだっ! このおにいちゃんはターラを助けてくれたんだよ? 悪いのはその男の人なのに、どうして信じてくれないの!?」
「それをこれから詰所で吟味するのだ。いいからお前は、家に帰れ」
「やだっ!」
「やれやれ。そんなお役所仕事だから、君たちは市井の人々から尊敬を集めることができないのだよ? 森辺の民を相手にするのは厄介だからって、真実を追究する手間をはぶいてしまうのは感心できないねえ」
そんな風に割って入ったのは、もちろん長マントの男である。
次から次へと先を越されて、俺はさっきから一言も発言できていない。
「何だ、貴様は? 無関係なら、引っ込んでいろ」
「関係者にはなり損ねたけど。俺は一部始終を拝見していたよ? 関係者ではないからこそ、その客観的な情報には信憑性と価値が生まれるのではないのかな?」
人を食ったことを言いながら、さらに男は言葉を重ねる。
「ここで果実を売っていた男と、その友人らしき商人風の男が、そちらの森辺の御仁をこっそり指さして、何やら笑い声をあげていたんだ。そうしたら、そちらの御仁が血相を変えて商人風の男につかみかかり、果実の木箱が、こうして街道に突き崩された。果実を売っていた男は逃走し、御仁は叫ぶ。『文句があるなら、はっきり言ってみろッ! 貴様たちは誇り高き石の都の住人なんだろうがッ!?』とね」
ぷっと少女が吹き出した。
それぐらい、男の声には緊迫感というものが欠落してしまっていた。
「あれ? 似てなかったかなあ? まあいいや。……で、押し問答が開始される。『お、俺は何も言っていない』『嘘をつけ!』『本当だっ』『聞こえたんだよ。森辺の民の耳は、手前らの腐った耳とは作りが違うんだ!』『た、助けてくれえ!』『なあ、もういっぺん言ってみろよ? 《臭いギバ喰い》ってのは誰のことだ? 《飯が不味くなる》とも言っていたなあ? もういっぺん、俺にもよく聞こえるように言ってみてくれよ、なあ、石の都の住人様よ?』……とまあ、こんな感じだったかな?」
あきれたことに、このひょろ長い男は本当にその問答を丸暗記している様子だった。
衛兵たちはすっかり困惑顔になり、ドッド=スンは、野犬のような目で男をにらみすえている。
そして、アイ=ファは――
アイ=ファは、これ以上ないぐらい、けげんそうな顔をしていた。
「そこでこの御仁は、手に持っていた酒瓶を放り捨て、腰から刀を抜き放った。そちら側でいい匂いを撒き散らしているのがその土瓶の残骸で、そこに転がってるのが、その刀だね」
ハッとしたように、ドッド=スンと衛兵が俺たちの足もとに目線を落とす。
確かにそこには、鍔のない厚刃の小刀がころんと転がっていた。
ドッド=スンの腰には、その革鞘が残されている。
「そこでその女性の登場だ。その手に持っていた果実酒の土瓶で、後頭部をぱかん! そして冷静に言い放つ。『そんなに酒が好きならば私の分も喰らうがいい、痴れ者めッ!』」
女の子は、こらえかねたようにくすくすと笑いだしてしまった。
まあ、思わずそうしたくなってしまうような声色であったわけだ。
けげんそうな顔をしていたアイ=ファは、おもいっきりしかめ面になってしまっている。
「さらにもう一言。『石の都にて騒乱を起こすのは強い禁忌であろう。貴様は、森辺の民の、恥だ』……ま、さしあたっては、こんなところで十分だろう。吟味の参考になったかな、各々方?」
衛兵たちは、ものすごく面倒くさそうにドッド=スンを振り返る。
「スン家の子息よ。この男はこのように申しているが――」
「すべて出鱈目だ! いわれなき誹謗だッ!」
青い目を真っ赤に充血させながら、ドッド=スンは金切り声でわめき散らした。
これはどうやら――役者が違う。
「それでは貴方はもっと整合性のある説明を述べなくてはならないだろうねえ。たぶん俺の言葉を否定する人間は、この場に貴方しか存在しない。俺を嘘つきと誹謗するなら、いったいどのような経緯でこの木箱がぶちまけられ、果実酒の瓶が割れ、貴方の短剣が街道に転がることになったのか、それをつぶさに説明していただこうか」
言葉の内容は辛辣だが、やはり表情も口調も飄然としたままである。
ジザ=ルウのように、感情の見えない感じではない。この男は、ただ平然としているだけ――特に激することなく、ただのんびりと自分の考えを述べているようにしか見えなかった。
「……もういい。後は詰所で吟味する。お前らは全員、詰所に出頭しろ」
「ええ? そいつは困るなあ。俺はこれから、ジェノス侯と約束があるんだけど」
とんでもない言葉が飛び出した。
衛兵たちの目玉も、飛び出してしまいそうだ。
「すでに約束の刻限は過ぎてしまっているので、これ以上遅れてしまうのはさすがに申し訳が立たない。出頭するなら、その旨をジェノス侯にお伝えした後でもかまわないかな?」
「あ、貴方は……貴方は、いったい……?」
「そんなに怯えなくても、俺は善良な市井の人間に過ぎないよ。旅人の安全を守る『守護人』のカミュア=ヨシュという者だ」
そう言って、男は長マントの紐を解き、そのひょろ長い首にかけていた首飾りを衛兵たちに示してみせた。
瑪瑙のように複雑な色合いをした石が、銀色の鎖で吊り下げられている。
「ちょっと縁あって、ジェノス侯が王都へと旅立つ際に『守護人』の役を果たすことになり、そのときに知己を得ただけさ。王位も爵位も何もないから、べつだん怯える必要はない。……あ、これはジェノス侯マルスタインから授かったジェノス城下への通行証ね」
そうして新たに取り出されたのは、さっき見た銅貨とは比べものにならないぐらいピカピカに光り輝く、銀色の細長いプレートのような代物だった。サイズはキャッシュカードぐらいで、わけのわからない紋様が緻密に彫りこまれており、由緒の正しさをこれでもかとアピールしているかのようだ。
衛兵たちは、そのプレートを目にするなり、顔面蒼白になって立ちすくむことになった。
それで俺は、察することができた――こいつはかなり、人の悪いおっさんなのだな、と。
カミュア=ヨシュと名乗ったその男は、実にさまざまな感情の込められた目線をその長身にあびながら、いつまでも楽しげにのんびりと笑っていた。