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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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第八話 来し方と行く末(上)

2017.10/21 更新分 1/1

 ライエルファム=スドラは、悪夢にうなされていた。

 それは彼ほどの狩人が魂を蝕まれて、苦悶の絶叫をあげたくなるほどの悪夢であった。

 これまでに彼が見届けてきた数多くの死者たちが、青白い顔で周囲を取り囲んでいるのだ。


 その中には、父や母の姿もあった。

 兄や妹の姿もあった。

 分家の家人や、眷族の姿もあった。

 この手で殺めた大罪人の姿もあった。

 そして――幼くして失った子供たちの姿もあった。


(許して……許してくれ……俺だって、誰ひとり失いたくはなかったのだ……)


 ライエルファム=スドラは泣きながら、彼らに懇願した。

 しかし彼らは、誰もライエルファム=スドラを恨んだりはしていなかった。ただ悲しそうに、無念そうに、ライエルファム=スドラを見つめているばかりであるのだ。それがまた、ライエルファム=スドラにこの上ない悲嘆と絶望をもたらしているのだった。


(俺ももうじきに、そちらに行く……だから、だから俺を許してくれ……お前たちを救えなかった、俺のことを……)


 そこでライエルファム=スドラは、目を覚ました。

 しかししばらくは、恐怖の余韻で動くこともできなかった。


 全身が、粘ついた汗にまみれている。

 心臓は激しくあばら骨を叩き、それにあわせてこめかみの血管がどくどくと脈打っていた。

 ちかちかと明滅していた視界がやがて焦点を結んでいくと、そこには見慣れた屋根の裏や梁が見える。

 それでようやく、ライエルファム=スドラは大きく息をつくことができた。


(……夢だったのか……)


 手の平で顔の脂汗をぬぐってから、かたわらに視線を向ける。

 しかしそこには、誰もいなかった。


 ライエルファム=スドラは、えもいわれぬ不安感に見舞われて、身を起こす。そのままよろよろと歩を進めて、震える指先で戸板を引き開けると、「あら」という優しげな声が聞こえてきた。


「ようやくお目覚めになられたのですね。そろそろ起こしたほうがいいのではと考えていたところであったのですよ」


 ライエルファム=スドラの伴侶、リィ=スドラが広間の真ん中に座して、草籠を編んでいた。

 ライエルファム=スドラは、心からの安堵を覚えて、また深々と息をついた。


「どうされたのですか? 何かお加減が悪いようですが」


「いや、何でもない。……リィひとりなのか?」


「ええ。他のみんなはピコの葉を乾かしたり、薪を割ったりしています。家のすぐ外にいますので、何も心配はいりません」


 ライエルファム=スドラは伴侶のかたわらに膝をつくと、その手の先をそっとすくい取った。

 リィ=スドラは、目を細めて笑っている。


「本当にどうされたのですか? わたしも腹の子も、元気に過ごしておりますよ」


「ああ、わかっている……わかっているのだ」


 ライエルファム=スドラは逆の手を、伴侶の腹にあてがってみせた。

 すらりと引きしまっていたリィ=スドラの腹が、嘘のようにふくれがっている。彼女が子を孕むのは3度目のことであったが、ここまで腹が大きくなることはかつてなかった。


「腹の子が生まれるまで、あと半月から20日といったところでしょう。待ち遠しいことですね」


「ああ、そうだな」


 ライエルファム=スドラは、力を込めすぎないように細心の注意を払いながら、伴侶の腹を撫でた。

 するとリィ=スドラが、床から布切れを取り上げて、ライエルファム=スドラの頬をぬぐってきた。


「ずいぶん汗をおかきになられていますね。今日はスンの集落に向かう日なのですから、早めに身を清めたほうがいいのではないですか?」


 リィ=スドラは、ゆったりと微笑んでいる。

 子を孕んでいるさなかにあって、彼女がこれほどに安心しきった表情をしているのは初めてのことであった。これまでは、子を授かった喜びの裏側に、果たして無事に産めるのか、無事に育てられるのか、という不安と焦燥を常にまとわせていたのである。


 そのリィ=スドラのやわらかい笑顔が、ライエルファム=スドラの心中に残っていた悪夢の残滓を溶かしてくれた。

 ライエルファム=スドラは最後に伴侶の手をぎゅっと握ってから、身を起こした。


「それじゃあちょっと、ラントの川まで出向いてくるか。くれぐれも無理をするのではないぞ、リィよ」


「ええ、わきまえております」


 ライエルファム=スドラは大きくうなずいてから、家を出た。

 それでようやく、普段通りの日常が始まったようだった。


                   ◇


 それからしばらくして、ライエルファム=スドラは3名の男衆とともにスンの集落を目指していた。

 この日だけは荷車を使わせてもらえるようにと、他の氏族の人々には話をつけてある。スドラの狩人がスン家まで出向くのは、せいぜい5、6日にいっぺんのことであったので、どこからも文句の声があがることはなかった。


 荷車を北に走らせながら、皆はめいめい女衆から託された食事をかじっている。それは、焼いた肉と野菜をポイタンの生地ではさみ込んだ、女衆の心尽くしであった。


「……今日のはまた、格別に美味いな」


 男衆のひとりが、ぽつりと言った。

 確かに今日の食事は、普段以上に美味であるように感じられる。肉にも野菜にも焼き色がついているのに、内側のほうはしっとりとやわらかく、そして香草で風味がつけられている。狩りの前でなければ、腹いっぱいに食べたいぐらいの味であった。


「これはあの、ルウ家の客人に習って造りあげた、石窯というものを使って作られているらしい」


 そのように答えたのは、この中でもっとも若いチム=スドラであった。

 最初に声をあげた男衆が、にやりと笑ってそちらを振り返る。


「さすがに詳しいな。伴侶が教えてくれたのか?」


「……そうだとしたら、何かおかしいのか?」


「いや、仲睦まじくて羨ましいと思ったまでだ」


 チム=スドラは不機嫌そうに顔をしかめて、残りの食事を口に放り入れる。

 ただその若い面は、うっすら血の気がさしているようだった。

 そんなふたりのやりとりを見届けてから、ライエルファム=スドラは御者台のほうに足を向ける。


「おおかた食べ終わったので、運転を代わる。お前も腹を満たしておけ」


 トトスを走らせたまま手綱を受け取ると、御者の役を果たしていた男衆は荷台に引っ込んでいった。

 空いた御者台に座りつつ、ライエルファム=スドラは腰の物入れから干し肉を引っ張り出す。


 たとえ日中にきちんとした食事をとるようになっても、干し肉を食べる習慣はなくさないほうがいい――そのように言い出したのは、美味なる料理を森辺にもたらした張本人、ファの家のアスタであった。この固い干し肉を噛みちぎることのできる歯の強さ、顎の強さは、狩人として維持するべきであると、アスタはそのように述べていたのである。


 それ以外でも、アスタは目新しい料理をお披露目するたびに、何やかんやと言葉をつけ加えることが多かった。塩や砂糖やタウ油を使いすぎないこと、脂の多い料理を口にするときは野菜や酸っぱいものもたくさん食べること、ギバの内臓を食べるときはくれぐれも腐敗に気をつけること――などなど、幼子に言いきかせる母親のような口うるささであったのだ。


(アスタはアスタで、自分の存在が森辺の毒になってしまわないようにと、常に懸命であるのだろう)


 そのようなことを考えながら、ライエルファム=スドラは干し肉をかじり取った。

 城下町に売りつけている『ギバ・ベーコン』ではなく、以前のままの干し肉である。しかし、血抜きをした肉で作られて、香草の使い方も変えたこの干し肉は、これだけでも十分に美味であった。


「家長、そういえば、干し肉についてなのですが」


 と、チム=スドラが背後から呼びかけてきた。


「この干し肉ではなく、城下町で売られるべーこんと腸詰肉についてです。あの仕事は、ガズの家に引き継がれるのですよね?」


「ああ。フォウの眷族は、市場で生の肉を売る仕事を受け持ったからな。ひとつの氏族ばかりが仕事を抱え込むのは正しくない、というのがルウ家の考えだ。俺もそれは、正しい考えだと思っている」


「それなら、よかったです。さすがにフォウとランとスドラの女衆だけでは、手に余ってしまいそうでしたから」


「何だ、やっぱり伴侶のことが心配なのか?」


 それはもちろんライエルファム=スドラではなく、さきほどの男衆の言葉であった。

 彼もいずれランから嫁を取る予定になっているが、それは収穫祭の後でと取り決められてしまったので、早々に婚儀をあげたチム=スドラをやっかんでいるのかもしれない。


 しかし、それもまたスドラの家が平和で健やかな生を過ごしている証であった。

 これまでのスドラ家は、婚儀をあげることも子を生すこともあきらめて、ひたすら滅びを待つだけであったのだ。それがフォウ家と血の縁を結び、もはや飢えの心配もなく、婚儀や出産の日を待つことができている。これほどの喜びが、他に存在するとは思えなかった。


(それもすべて、ファの家のおかげであるのだ。アスタにもアイ=ファにも、どれだけ感謝したって足りないぐらいだろう)


 そんなことを考えている間に、スンの集落に到着した。

 巨大で古びた祭祀堂を迂回して荷車を進めていくと、本家の前に人だかりができている。どうやら他の氏族の狩人たちは、すでに集結しているようであった。


「待たせてしまって申し訳なかった」


 御者台の上からライエルファム=スドラが呼びかけると、巨大な人影がこちらを振り返った。


「べつだん、お前たちが遅れたわけではないだろう。太陽を見る限り、まだ中天は過ぎておらん」


 北の集落から出向いてきた、ジーンの狩人である。

 ザザの狩人と同じように、頭からギバの毛皮をかぶっている彼らであるので、その姿を見間違えることはなかった。

 御者台を降りて、トトスを荷車から解放してやりながら、ライエルファム=スドラはその場に集まった狩人たちの姿を見回す。


「何やら今日は人数が多いように感じられるのだが、俺の気のせいか?」


「いや、今日はハヴィラとダナからも2名ずつの狩人を連れてきた。急な話だが、了承してもらいたい」


 ジーンの狩人の言葉とともに、4名の狩人が前に進み出た。

 ハヴィラとダナもまた、ザザの眷族だ。しかし、北の集落の狩人のように、毛皮や頭骨をかぶったりはしていない。体格も、ひょろ長かったり小太りであったりと、まちまちだ。


「こちらはいっこうにかまわんが、いちおう理由は聞いておこう。ジーンとスンとスドラの狩人で、十分に人数は足りているように思えるが」


「人数の話ではない。こやつらにも、猟犬の扱い方を学ばせたいのだ。北の集落でも学ばせてはいるが、何せ猟犬は1頭しかいないので、なかなか話が進まなくてな」


「ああ、そういうことか」


 ルウ家で購入された猟犬は、各氏族の親筋に1頭ずつ貸し出されている。その中で、ザザは6つもの眷族を抱えているのだから、手が回らないのが当然であるように思えた。


「だったら、ディンやリッドの狩人たちにもその機会を与えてほしいものだな。リッドの家長などは、猟犬を扱いたくてうずうずしているようであったぞ」


「わかっている。しかしまずは、ハヴィラとダナからだ」


 すると、後ろに引っ込んでいたスンの狩人が、その貴重な猟犬を引き連れながら進み出てきた。


「我々は他に眷族も持たないのに猟犬を預かってしまい、心苦しいばかりです。やはりこれは、ザザやサウティなどの眷族の多い氏族に引き渡すべきではないでしょうか?」


「余計な気を回す必要はない。それはあくまでルウ家の猟犬であるのだから、どの氏族に預けるかはルウ家が決めるべきであろう」


「ですが、同じ族長筋のザザやサウティが異議を申し立てれば――」


「ルウ家のやり口に文句があれば、最初から言っている。何も言わないということは、他の族長たちもドンダ=ルウに賛同したということだ」


 そのように述べてから、ジーンの狩人は横目でスンの狩人をねめつけた。


「……だいたい、その猟犬がスン家に預けられたからこそ、我々もこうして頻繁に扱うことができるのだ。余計なことを言いたててその猟犬をサウティにでも奪われてしまったら、我々が損をするばかりではないか」


「そうですか」とスンの狩人は目を細めて微笑んだ。

 これはたしか、新しいスンの本家と定められた家の長兄である。狩人としてはまだまだ修練を積んでいるさなかであるが、ここ数ヶ月でずいぶん立ち居振る舞いは堂々としてきたように見える。


「それは確かに、その通りなのかもしれませんね。数日置きでも、ジーンやスドラの狩人に猟犬を使ってもらうことができているのですから」


「ああ。こちらも親筋のフォウ家に猟犬を与えられているが、やはり1頭しかいないとなかなか触れる機会も巡ってこないからな。俺もありがたいと思っているぞ」


 ライエルファム=スドラも口をはさむと、スンの狩人は穏やかな表情でうなずいた。


「了解いたしました。それでは、今日はどうしましょう? やはり、2組に分かれますか?」


「いや、この人数ならば、3組に分かれるのが相応であろう。ただ、ハヴィラとダナは別々の組に分けるとして、そのどちらにも猟犬の扱いを覚えさせたい」


「そうすると……時間で区切るしかないでしょうね。太陽が半分まで下がったら、どこかでいったん落ち合うことにしましょうか」


「うむ。それぐらいしか、手立てはなかろう。……くそ、この場でも猟犬が2頭は欲しいところだな。いや、欲を言えば、3頭か」


 そう言って、ジーンの狩人は不満そうに息をついた。

 ライエルファム=スドラは、下からその巨体を見上げやる。


「その様子では、北の集落でも猟犬は重宝されているようだな」


「うむ? それは当然のことであろう。銅貨さえあれば、何頭でも買いつけたいところだ」


 ライエルファム=スドラは、「そうか」とだけ言っておいた。

 猟犬は、1頭で白銅貨65枚もする。いかに北の集落の狩人たちがルウ家に負けない収穫をあげていたとしても、そう簡単に捻出できる額ではないはずだ。


 しかし、フォウ家においては、すでに自分たちでも猟犬を買いつけたいとルウ家に願い出る算段を立てていた。

 フォウとその眷族はこの数ヶ月間、ファの家の仕事を手伝い、料理用の肉も売り続けてきた。さらに、干し肉と腸詰肉、現在では生の肉を町で売る仕事も受け持ち、おそらくはファとルウに次ぐ銅貨を手に入れていたのである。


 生の肉を準備して、それを町で売る仕事などは、10日で白銅貨24枚が手に入る。それをひと月続けるだけでも、もう猟犬1頭分以上の稼ぎとなるのだ。すでに十分に蓄えはあるのだから、早い段階で猟犬を買いつけたいと願うのもごく自然なことに思えた。


(しかし、家長会議が終わるまでは、ザザやベイムやラヴィッツも今の立場をくつがえすことはできんだろうからな。ここでファの家の正しさを述べたてても、反感をくらうだけだろう)


 そのように考えて、ライエルファム=スドラは口をつぐんでおくことにした。

 どのみち家長会議までは、あとふた月足らずあるのだ。それまでは、事を荒立てるべきではないと思えた。


「では、行くか。スドラは4人しかいないのだから、いつも通り2人ずつで分かれるがいい」


「了解した。……チムは、俺と来い」


 伴侶を娶ったチム=スドラはすでに分家の家長となっていたが、ライエルファム=スドラは今さら呼び方を改めるつもりはなかった。ともに苦難を乗り越えてきた8名の家人は、これからも魂を返すまで家族であるのだ。


 そうして5つの氏族から為る狩人たちは、3組に分かれて森に散った。

 ライエルファム=スドラとチム=スドラの組には、ジーンとハヴィラの狩人が2名ずつと、スンの狩人が3名、そして猟犬が加わることになった。


 9名の狩人が横に広がって、森の中を進んでいく。

 先頭を行くのは、猟犬を連れたスンの狩人だ。ライエルファム=スドラはチム=スドラとともに、その姿がぎりぎり見えるぐらいの距離で、右の端を進むことにした。


(まだまだ森の恵みも十分に生っているな。本当に実りの豊かな場所だ)


 スドラの狩り場は、実に貧弱な狩り場であった。しかし、たった4人の狩人では、そこに現れる数少ないギバを仕留めるのにも必死であったのだ――ファの家と縁を結ぶまでは。


(スン家の狩人も、そこまで力が足りていないとは思えない。まだ全員が見習いのようなものであるのに、大したものだ)


 ライエルファム=スドラがそのように考えたとき、先頭の狩人が立ち止まって右腕を上げた。

 目を凝らすと、猟犬が右の側――つまりはライエルファム=スドラたちの側を向いているのがわかる。猟犬が、早くもその鋭敏なる耳や鼻でギバの気配を感じ取ったのだ。


 ライエルファム=スドラも足を止めて、左端に陣取っていた狩人たちがこちら側に回り込んでくるのを待った。

 そのとき、猟犬が地を蹴って疾走し始めた。

 こちらが陣形を整える前に、ギバが動いてしまったのだ。


 ジーンの狩人が、猟犬の走る方向の右側を腕で指していた。

 そちらにギバを追い込む、という意味だ。

 この辺りには落とし穴の仕掛けもないので、見つけたギバは刀か弓で仕留めるしかない。ライエルファム=スドラはチム=スドラとともに、ジーンの狩人が示した方向へと駆け出した。


 他の狩人たちよりも、スドラの2名はギバに近い方角にいた。なおかつ、この中ではスドラの狩人がもっとも俊足であるので、仕留め役を任されたのだろう。


 走りながら、地形を読み、ライエルファム=スドラは待ち伏せに相応しい場所を探した。

 やがて、深い茂みに囲まれた広場のような場所を発見し、ライエルファム=スドラは草笛を吹いた。


 チム=スドラが茂みに飛び込んだので、ライエルファム=スドラは木を駆け上がる。

 手頃な枝に腰を落ち着けて、弓に矢をつがえつつ、口にくわえていた草笛をもう一度吹き鳴らす。


 しばらくは、何の気配もしなかった。

 しかしその内に、轟くような猟犬の咆哮が聞こえてきた。

 その声で方向の見当をつけながら、ライエルファム=スドラは弓を引き絞る。


 やがて、猟犬の咆哮に尻を押される格好で、巨大なギバが広場に飛び出してきた。

 同時に、ライエルファム=スドラは矢を放つ。

 別の方向から、チム=スドラの矢も放たれた。


 ライエルファム=スドラの矢はギバの首筋に、チム=スドラの矢は後ろ足のつけねに命中した。

 ギバはびくんと痙攣して、地面に転倒する。

 さらに二本、無防備な首筋に矢を撃ち込んでから、ライエルファム=スドラは短く草笛の合図をして、木から飛び降りた。


 弓を肩に引っ掛けて、刀を抜く。

 ギバは、ごろごろと地面をのたうち回っていた。

 すでに起き上がる力はないようだが、絶命する気配もない。かなりの大物で、ライエルファム=スドラとチム=スドラの体重を合わせたよりも重そうなぐらいであった。


「これでは近づけませんね。もっと矢を撃ち込みますか?」


 茂みから出てきたチム=スドラに、ライエルファム=スドラは「いや」と首を振ってみせる。


「ジーンの狩人がいるのだから、矢を無駄にすることはない。ただし、最後の力で襲いかかってくるかもしれんから、その用心だけは怠るな」


「わかりました」


 ふたりは刀をかまえたまま、仲間の狩人が現れるのを待った。

 やがて、ガサガサと茂みが鳴って、猟犬がひょこりと顔を出す。


「おお、仕留めたか。……いや、とどめはこれからか」


 猟犬の後から、7名の狩人がぞろぞろと姿を現した。

 暴れ狂うギバの巨体を見据えたまま、ライエルファム=スドラは「うむ」とうなずいてみせる。


「我々だけで仕留めるならば、大人しくなるまで矢を射かけるしかないが、それでは肉も毛皮も台無しだからな。できれば、とどめはそちらに任せたい」


「うむ、よかろう」


 ジーンの狩人が、恐れげもなくギバに近づいていく。

 手負いのギバほど恐ろしいものはないのだが、彼らがそれを恐れないのは慢心ではなく自信のあらわれであった。


 ギバが凄まじい咆哮をあげて、ジーンの狩人に向きなおる。

 そうしてギバが、最後の力を振り絞って飛びかかると、ジーンの狩人は真正面から刀を振り下ろした。


 頭蓋の砕ける音色が響き、ジーンの狩人は素早く身をひるがえす。

 ギバは、顔から地面に落ちた。

 黒褐色の毛皮に包まれた背中が、びくびくと震えている。


 すかさず、スンの3名の狩人が進み出て、ギバの巨体を横に転がした。

 その咽喉もとにずぶりと刀を突き入れるや、後ろ足に荒縄をくくりつける。

 そうして荒縄の逆の先端を、さきほどライエルファム=スドラが隠れていた枝の上に放りあげると、3人がかりでギバの巨体を吊り上げていく。


 ギバの首からは、どくどくと血が噴き出していた。

 矢の刺さった首と右足の部位を除けば、肉も毛皮も無事に確保できたようだった。


「これだけ高い枝に吊るしておけば、ムントに横取りされることもあるまい。いちいち集落に戻るのも手間だから、このまま狩り場を巡るか」


 ジーンの狩人の言葉に、ライエルファム=スドラも賛同した。

 すると、この一幕を見物していたハヴィラの狩人たちが進み出てきた。


「見事な手際だな。違う氏族の集まりであるというのが信じられないほどだ」


「それはまあ、金の月からこの顔ぶれで仕事を果たしているからな」


 ジーンの狩人が、ぶっきらぼうに応じている。


「しかも俺たちは、得意とする技が面白いぐらいに違っている。たがいの力を有効に使おうと考えたら、おのずと役割も決まってしまうのだ」


「うむ。スドラの狩人たちの足の速さには驚かされた。しかも、この矢は……一本が後ろ足の筋を断ち、もう一本が首の急所をとらえている。あと指二本分も深く刺さっていたら、それだけでギバの生命を奪っていたかもしれんな」


 すらりとした体躯を持つハヴィラの若い狩人が、賞賛の目でライエルファム=スドラたちを見つめていた。


「北の狩人たちが屈強であることは最初から知れていたが、この手並みには驚かされた。……しかもスドラというのは、ファの家を除けばもっとも小さな氏族であったはずだな?」


「うむ。先日にフォウから嫁を迎え入れたが、それでも全員で10名だ」


「フォウと血の縁を結ぶまでは、分家も眷族もなかったのだろう? それでこれほどの力量を持つとは、大したものだ」


 ハヴィラの狩人は愉快そうに口もとをほころばせながら、ジーンの狩人へと視線を転じた。


「これほどの力を持つ氏族であれば、ザザの眷族に迎え入れるべきではなかったのか? せっかく近在にはディンやリッドの家もあったのだから、惜しいことだ」


「……しかしスドラは、家長会議でも真っ先にファの家の行いに賛同していたのだ。次の家長会議で道が定められるまでは、おたがいに道を譲ることもかなわぬだろう。それでは、血の縁を結ぶこともできん」


 仏頂面で、ジーンの狩人が言い捨てる。

「なるほどな」と、ハヴィラの狩人は肩をすくめた。


「ファの家といいスドラの家といい、家人が少ないからといって見くびっていたことを恥ずかしく思う。お前たちは、大した狩人だ」


「俺たちなど、大したものではない。ファの家とは比べるべくもあるまいよ」


 ライエルファム=スドラは、静かにそう言った。

 それは、掛け値なしの本心であった。


 ファの家のおかげで力を取り戻すことはできたものの、自分たちなど大したものではない。いや、他の家人たちはともかく、ライエルファム=スドラ自身はちっぽけな存在だ。誰に何を言われようとも、ライエルファム=スドラはそのように固く信じていたのだった。

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― 新着の感想 ―
ライエルファム=スドラ。。。 誰がそれを「背負い続けなければならない苦しみではない」と言おうと彼から重荷を下ろすことはできないんだろうな。 リィ=スドラだって絶対気づいてるでしょこれ。
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