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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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    宿場町と森辺の絆(下)

2017.10/20 更新分 1/1 ・10/23 誤表記を修正

「あ、父さん。物置の修繕は終わったの?」


 宿に戻ると、娘のテリア=マスはひとりで厨にこもっていた。

 何をしていたかは問うまでもない。厨には、カロン乳や乳脂の甘い香りが漂っていた。


「また菓子作りか。ずいぶん精が出るもんだな」


「うん。せっかくアスタたちが手ほどきしてくれたんだから、何とか形にしないとね」


 前掛けで手をふきながら、テリア=マスはにこりと微笑んだ。

 内気で小心な娘であるが、最近はずいぶんと笑顔が増えてきた。母親の無念が晴らされたという思いが、テリア=マスに変化をもたらしたのだろう。また、悪事を犯した人間は誰であれ裁く、というジェノスの領主の厳しい態度は、宿場町のすべての民に大きな安心感をもたらしたはずだった。


「これ、けっこういい感じにできたと思うんだけど、どうかなあ?」


 テリア=マスが、菓子の載った木皿を差し出してくる。

 そこに載せられていたのは、小さな団子であった。


「ふん。ポイタンを丸めて焼いたのか?」


「ポイタンだけじゃなくって、フワノと卵も使ってるよ。それをカロンの乳で溶いて、砂糖と乳脂を混ぜてから炙り焼きにしてみたの」


 ミラノ=マスはその団子をひとつつまんで、口に入れてみた。

 とたんに、鮮烈な甘さが口に広がる。

 その団子には、溶かした砂糖もまぶされていたのだ。


 砂糖はすでに固まっていたが、噛んでみると、内側の生地はまだほのかに温かい。

 そして今度は、卵や乳脂のやわらかい甘さと風味が感じられた。


「ふむ。前に作ったものよりもやわらかくて、香りもいいようだな。これなら、文句を言う客もいないだろう」


「そうかなあ? まだ何か、ひと味足りないように思わない?」


「俺にはわからん。甘い菓子などというものは、寄り合いでしか口にしたことがないのだからな」


 指についた砂糖をなめながら、ミラノ=マスはそう答えてみせた。


「ただ思うのは、やっぱり果実酒の酸っぱさとは合わなそうな気がするというだけだ。屋台では女子供も寄ってくるが、宿の食堂では男ばかりを相手にするのだから、酒と合うものでないとなかなか売れないと思うぞ」


「うーん、そうだよね。お茶と一緒に食べると、すごく美味しいんだけどなあ」


 テリア=マスは、残念そうに肩を落としていた。

 他の宿屋はその多くが軽食の屋台を出しているので、きっとそちらで菓子を出そうという心づもりなのだろう。しかし、《キミュスの尻尾亭》では余分な人手がないので、もうずいぶん長いこと屋台などは出していなかった。


「まあ、すべての男が酒を飲むわけでもないからな。酒ではなく茶を注文する客がいたら、そいつにすすめてみればいいんじゃないのか? それに、復活祭では昼間から客が流れてくるものだし、そういうときには女子供を相手にする機会もあるだろうさ」


「うん、そうだね。いずれ胸を張って出せるように、もっと美味しい菓子をこしらえてみせるよ」


 テリア=マスが、また微笑んだ。

 その無邪気な笑顔に、ミラノ=マスはひとつの思いを喚起させられてしまう。


「……しかし、お前だっていつまでこの宿にいるかもわからんのだから、そんな先のことを考えても意味はないかもしれんな」


「え? どういうこと?」


「どういうことも何も、どこかに嫁に入れば、家を出ていくことになるだろうが?」


 テリア=マスは、穏やかな面持ちで首を横に振った。


「わたしが家を出ていったら、跡継ぎがいなくなっちゃうじゃない。この大事な《キミュスの尻尾亭》を潰してしまうつもりなの?」


「こんな古びた宿が潰れたところで、惜しむやつはいないだろうさ。それに、俺がくたばった後で宿がどうなろうが知ったことか」


「でも……わたしが余所に嫁入りしたら、マスの氏が絶えちゃうよ?」


「それこそ、惜しむ人間などいない。ジェノスの貴族などは、むしろ自由開拓民の氏などさっさと絶えてしまえばいいと願っているだろうよ」


 水瓶の水で手を清めながら、ミラノ=マスはことさらぶっきらぼうに答えてみせる。


「こんな宿に好きこのんで婿に入ろうという男がそうそういるとは思えないし、お前だっていつまでも若くないんだ。母さんに似て器量は悪くないんだから、とっととどこかの男をつかまえるべきだろう。それでたくさんの子供をこさえて人手が余るようなら、子のひとりにこの宿をくれてやってもいいぞ」


「……父さん、わたしはこの家を出るつもりはないよ」


 テリア=マスは、はっきりとした声音でそう言った。


「いつか婿を取って、その人と一緒にこの宿を切り盛りしていくの。もちろん、父さんも一緒にね。それ以外の人生なんて、わたしは考えたこともないよ」


「ふん。お前がそこまで宿の仕事を楽しんでいるとは思わなかったな」


「1年前までは、そうだったかもね。あの頃のわたしは、無法者が怖くてしかたがなかったから。……だけど今では、色々な人に出会える宿屋の仕事を楽しいと思っているよ。それで、父さんみたいに立派に切り盛りしていきたいと願っているの」


 ミラノ=マスは溜息をついてから、真剣な表情を浮かべた娘の姿を振り返った。


「だったら、手頃な男をつかまえられるように色々と精進するべきだろうな。あの、たいそう色っぽい姿をした《西風亭》の娘に手ほどきしてもらったらどうだ?」


「もう! 真面目に話してるのに!」


 テリア=マスが赤い顔で大きな声をあげたとき、店の手伝いをしてくれる壮年の女がひょっこりと姿を現した。


「あらあら、親子喧嘩かい? この家では珍しいこったね」


「あ、いえ、別にそういうわけでは……ど、どうもお疲れ様です」


「はいよ、おつかれさん。今日もひとつよろしくね」


 最近はたいそう食堂が賑わっているので、夕方からは毎日人を雇うようになったのだ。しばらくすると、もうひとりの若い娘もやってきた。


「食堂の掃除はこれからですか? それじゃあ、片付けてきちゃいますね!」


 テリア=マスと同じ年頃の、ころころとよく肥えた娘である。その娘も年をくった女のほうも、夜に宿屋の仕事を手伝おうというだけあって、それなりに胆は据わっていた。夜の食事では酒も入るし、中には無法者がまぎれたりもするので、気の弱い人間にはなかなか相手もつとまらないのである。


(少し前までは、テリアが一番びくついてたってのにな)


 テリア=マスはミラノ=マスと一緒に厨を預かることが多かったが、ときおり給仕の仕事を受け持つときでも、以前ほど客を怖がらないようになっていた。それも、この1年ほどで生じた変化である。


「客が来るまで、あたしはこっちを手伝うよ。この鍋を火にかければいいのかい?」


「ああ。煮詰まっちまうから、火は弱めでな」


 ミラノ=マスたちも、来客に備えて準備を整えた。

 森辺の民から買いつけた料理には火を入れなおして、自分たちの料理の下ごしらえに取りかかる。ギバとカロンとキミュスの料理で、最近では献立も10種類ぐらいに増えていた。


「このギバ肉ってのは、あたしらが買おうとするととんでもない値段になるらしいね。あたしは、目の玉が飛び出しそうになっちまったよ」


 手伝いの女が鍋の中身をかき回しながら、そんな風に述べたてた。

 カロンの足肉を細く切りながら、ミラノ=マスは「まあな」と応じてみせる。


「ギバに限らず、肉は3箱買わないと倍の値段になるってのがジェノスの法だ。これでもカロンの胴体の肉よりはまだ安いって話だがな」


「へーえ。それじゃあ貴族様ってのは、そのギバよりも高いカロンの肉を毎日のように食べてるんだねえ。あたしにゃ想像もつかない生活だ」


 そう言って、女は朗らかに笑った。


「でも、この宿を手伝う日はあたしらもぞんぶんに好きな料理を食べられるしね。今日もギバの料理をいただいちまってかまわないかい?」


「ああ。これだけ忙しくなっても手伝いを続けてくれてる礼だよ」


 他にも手伝いをしてくれる人間は何人かいたが、もっとも多く顔を出しているのは、今日来ている2人であった。そしてこの年をくった女には、かつてレイトの面倒を見てもらった恩もあった。


「最近はこの宿ばかりじゃなく、宿場町そのものが活気づいてるよね。うちの旦那も忙しい忙しいって、にやにやしながら銅貨を勘定してるよ」


「ああ。ジェノスを訪れる人間が以前よりも増えたんだろうな。馬鹿な騒ぎを起こしていた大罪人どもが始末された恩恵だろう」


「そうだねえ。あの頃はこう、みんな気持ちがギスギスしてたよね。どんな悪党が出ても衛兵は役に立たないんじゃないかっていう不安もあったしさ」


 処断された貴族の中には、衛兵の長であった男も含まれていたのだ。さらに、衛兵を束ねる副団長やら大隊長やらいう身分の人間も、何名かは処断されていたはずであった。

 また、それでも用事が足りないと判断してか、最近は衛兵たちを性根から鍛えなおしているという噂もある。アスタから聞いた話によると、トゥランで無法者をわざと逃がした衛兵がいたのではないか、という疑いが取り沙汰されたそうなのだ。


(これまではだんまりを決め込んでいたジェノスの領主が、石塀の外にまで気をかけるようになった。それが、ジェノスを変えたんだろう)


 それもまた、森辺と城下町の大罪人どもが処断された効果である。

 その騒ぎが起こったことによって、ジェノスの領主もどれだけ民たちが貴族に反感を抱いていたかを知ることになったのだ。


(それに、ジェノスを立て直そうとしている領主の息子がカミュア=ヨシュの友なのだとか言っていたな。まったくカミュアといいアスタといい、余所者がずいぶんとジェノスをかき回してくれたことだ)


 ミラノ=マスがそんな風に考えたとき、早くも最初の注文が入った。

 気づけば、窓の外は暗くなっている。食堂の稼ぎ時が訪れたのだ。


「あの、ちょっと酸っぱいギバの料理って言われたんですけど、きっと『すぎば』のことですよね?」


「だろうな。他に酢を使ったギバ料理はない」


「それじゃあ、『すぎば』を2人前、あとは『ぎばかれー』を3人前です」


『酢ギバ』は森辺の民から買いつけた料理で、『ギバ・カレー』はアスタから買いつけたカレーの素を使って自分たちでこしらえた料理であった。

 売りに出した当初はいまひとつ売れ行きが芳しくなかった『酢ギバ』も、今では人気の定番料理になっている。数ヶ月前までは城下町でしか売られていなかったママリア酢もあちこちで使われるようになったので、宿の客たちも甘酸っぱい料理というものの美味しさを知ることになったのだろう。


『ギバ・カレー』のほうなどはもっと強烈な味つけであったが、こちらは売り出した当時からずいぶんな人気であった。その頃にはもう目新しい食材を使うのが当たり前になっていたし、また、他とまったく似たところのない『ギバ・カレー』の味や香りが、人々を強く魅了したようだった。


(最近の宿場町は目新しさを競っている感じだし、それにこの『ぎばかれー』ってやつは妙にクセになる味だからな)


 その香りを嗅いでいるだけで、ミラノ=マスも腹が鳴りそうになってしまった。

 しかし、宿の人間が食事を口にするのは、食堂の仕事が一段落してからだ。


 その後は、次から次へと注文が入ってくることになった。

 半分がたはギバの料理で、残りの半分はカロンとキミュスの料理だ。もっとも割高なのはギバ料理であったが、その人気はまったく衰えていなかった。


 壮年の女も給仕の仕事に移行し、厨はミラノ=マスとテリア=マスだけで受け持つ。慌ただしく料理を仕上げていきながら、テリア=マスがにこりと笑いかけてきた。


「やっぱりギバ料理の人気はすごいね。でも、市場でギバ肉が売られるようになったから、少しはこれも落ち着いちゃうのかな?」


「どうだかな。他の宿がどれだけ上等な料理を出せるかにかかっているだろう」


 日中に話をした3人の主人たちの姿を思い出しながら、ミラノ=マスはそんな風に答えてみせた。


「まあ、余所の宿から流れてくる客は減るかもしれんが、うちに泊まっている連中はおおかたギバ料理を求めるだろうさ」


「うん。食事の時間に別の宿の客が流れてくるなんて、ちょっと前までは考えられなかったもんね」


 テリア=マスは、楽しそうに笑っている。


「でもさ、『ぎばかれー』を作れるのは、アスタからかれーの素を買ってる4つの宿だけなんでしょう? それだったら、やっぱり少しは他の宿の客が流れてくるかもね」


「ああ、かれーの素を作るのはけっこうな手間だから、これ以上は売りに出さないと言っていたな」


 そして、アスタやルウ家の娘たちが作る料理もこれ以上は他の宿屋に売りつける気はない、と言っていた。というか、ギバ肉を市場で売りに出す算段を立てられた以上、宿屋に料理を売る意義も失われたように思うのだが、アスタたちは今後もミラノ=マスたちに料理やカレーの素を卸し続けると約束してくれたのだった。


「お世話になったみなさんに俺たちができるのは、それぐらいのことしか残されていませんから」


 アスタは、そのように述べていた。

《南の大樹亭》のナウディスなどは、さぞかし胸を撫でおろしていたことだろう。ジェノスの貴族をもうならせたというアスタの料理を求めて宿屋を訪れる人間も少なくはないのだ。


(……どう考えたって、世話になりっぱなしなのは俺たちのほうだな)


 そのとき、若い娘のほうが厨に飛び込んできた。


「あの、ちょっと! 森辺の民が、食堂に来てますよ!」


「なに? こんな時間に、いったい何の用事だ?」


「いや、お客として来ただけだって言ってます。こんなこともあるんですねえ」


 娘は、すっかり度肝を抜かれている様子だった。

 しかし、驚いているのはミラノ=マスも一緒である。森辺の民が客として食堂を訪れるなどというのは、かつてなかったことなのだ。


「手が空いているなら主人に挨拶をしたいって言ってるんですけど、どうします?」


「それはまあ、俺も顔を拝んでおきたいところだが……そいつらは、名前を名乗ったか?」


「名乗っていたけど、忘れちゃいました。あのお人らも、氏ってやつを持ってるんですね」


 さっぱりわけもわからないまま、ミラノ=マスはテリア=マスを振り返った。

 テリア=マスも、きょとんとした顔で小首を傾げている。


「とりあえず、今はひとりでも大丈夫そうだから、行ってきなよ。それでもしもわたしも知っている相手だったら、あとで挨拶させてほしいかな」


「そうだな。それじゃあ、ちょっと行ってくる」


 ミラノ=マスは木皿によそった『ギバ・カレー』を給仕の娘に託してから、ともに厨を出た。

 娘は「あっちの奥ですよ」と言い置いて、注文を受けた卓に向かっていく。ミラノ=マスは、客で埋まった卓の間をすりぬけて、壁の向こうの奥の席へと足を向けた。


「おー、来た来た。忙しいだろうに、呼びつけちまって悪かったな」


 見覚えのある若衆が、奥の席で手を振っている。

 6人掛けの卓の、2名が森辺の民であった。


「ああ、お前さんたちか。森辺の民が客としてやってくるなんて、いったいどういう風の吹き回しだ?」


「いやー、話せば長くなるんだけどな。こっちの親父さんのつきあいで出向くことになったんだよ」


 目を向けると、これまた見覚えのある人物が笑顔で席についていた。

《キミュスの尻尾亭》でもいくつかの野菜を買いつけている、野菜売りのドーラである。


「実はさ、家の連中がギバ料理を食べたいっていうから、宿場町で晩餐をとることにしたんだよ。こっちは俺の上の息子とその嫁で、こっちのこいつは末娘だ」


 見覚えのない若夫婦と、見覚えのある小さな娘が頭を下げてくる。


「下の娘は、御用聞きで顔をあわせているな。しかし、ダレイムの民が宿場町で食事とは珍しいことだ」


「ああ。ダレイムから宿場町までは荷車でもそこそこかかるし、夜は野盗が出ないとも限らないから、復活祭の時期ぐらいしか足を向けることもないんだけどな」


「でも、毎日町に出ている親父やターラと違って、俺たちはなかなかダレイムを離れる機会がないから、すっかりギバ料理が恋しくなってしまったんですよ」


 ドーラの息子が、そんな風に言葉を添えた。


「だけどやっぱり夜道は危険なんで、宿場町に出ることはあきらめていたんです。そうしたら、そんな話が森辺の人たちの耳に入って――」


「それで俺が、護衛役を買って出たってわけさ。ま、ほんとは別のやつが受け持つはずだったんだけどな。今日はたまたま狩人の仕事が早く終わったから、交代してもらったんだ」


 黄褐色の髪をした若衆が、にっと悪戯っぽく笑っている。

 ことあるごとにアスタたちを護衛していた、森辺の若き狩人である。その隣では、いつも屋台の仕事を手伝っている幼い妹がにこにこと笑っていた。


「ええと、お前さんの名前は……たしか、ルド=ルウだったか?」


「ああ、あんたはミラノ=マスだよな。俺はルド=ルウで、こっちのちびはリミ=ルウだ」


 リミ=ルウとは、3日に1度ぐらいの割合で顔をあわせている。しかし、あらたまって名前を確認したことなどはないように思えた。


「本当は、バルシャってやつが護衛役を引き受ける予定だったんだけどさ。あいつもけっこう腕が立つけど、ギバ狩りの仕事には手を出してないから、いつでも自由に動けるんだ」


「リミは、最初っから行きたいーって言ってたの。ターラと一緒に晩餐をとりたかったから!」


 ターラというのは、ドーラの末娘だ。ぴったりと寄り添いあったふたりの幼い娘たちは、髪や肌の色も異なっているのに、まるで姉妹みたいに見えた。


「それで、バルシャと一緒にルウの家を出ようと思ったら、ルドが帰ってきたからさ。一緒に連れてきてあげたの」


「へん。バルシャより俺のほうが腕は立つんだから、護衛役にはちょうどいいだろ。親父だって、お前のことを心配してたみたいだしさ」


「えへへ」とリミ=ルウは屈託なく笑っている。

 いつも笑っている朗らかな娘であるが、今日はひときわ楽しそうであった。

 そんなふたりの娘たちを笑顔で見やってから、ドーラがまたミラノ=マスを振り返ってくる。


「そんなわけで、家族を宿場町に連れてくることができたんだよ。家には年寄りもいるんで全員は連れてこられなかったけど、明日には俺の嫁と二番目の息子を連れてくるつもりなんだ」


「明日も俺が来られるといいんだけどなー。ま、仕事が早めに終わるかどうかは、森の思し召しだな」


 ドーラの一家とルウ家の兄妹は、すっかり打ち解けている様子だった。

 その様子を眺めながら、ミラノ=マスは「なるほどな」とうなずいてみせる。


「それじゃあお前さんがたは、食事が済んだらそっちの人らをダレイムまで送り届けて、そのまま森辺に帰るわけか。ずいぶん慌ただしいことだな」


「しかたねーさ。むやみに余所の家で眠るもんではねーからな。ま、荷車を走らせるぐらい、大した手間じゃねーよ」


「本当にありがたく思ってるよ。ドンダ=ルウには、しっかり礼を言っておいてくれ」


 そのように述べながら、ドーラもにこやかに笑っている。

 たしかこのドーラも、復活祭の時期にはテリア=マスとともに森辺の集落を訪れていたのだ。感謝はしていても、必要以上に恐縮はしていない。森辺の民とも確かな信頼関係が構築できている様子だった。


「事情はわかった。客として出向いてくれたのなら、歓迎するさ。それに、森辺の民にも野菜売りのお前さんにも世話になってるからな。果実酒の一本ぐらいはつけさせてもらおう」


「そいつはありがたいね。今度はうちからも、何か野菜をおまけにさせてもらうよ」


 そう言って、ドーラは図太い腹を撫でさすった。


「さ、それじゃあ注文させてもらおうかな。この人数分のギバ料理を適当に見繕っておくれよ」


「ギバ料理は、森辺の民から買いつけているものと、うちの厨でこしらえているものがある。両方おりまぜてしまっていいのか?」


「ああ。だって、今日のそいつをこしらえたのはルウ家の女衆なんだぜー? そいつにはリミも手を出してるんだから、自分の料理ばっかりじゃ面白くねーだろ」


 そんな風に言いたてたのは、ルド=ルウであった。


「それに、町の人間がどんな風にギバの肉を扱ってるのかも気になるしな。あんたたちのこしらえた料理も、たっぷり食わせてくれよ」


「そうか。まあ、そちらもアスタたちに作り方を教わった料理ばかりだがな」


 ミラノ=マスは肩をひとつすくめてから、きびすを返そうとした。


「では、料理は娘に運ばせるので、そいつにも挨拶をさせてやってくれ」


「あ、ちょっと待った! その前に、ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ」


 と、ルド=ルウが身を乗り出してくる。


「アスタって、客としてここに来たことは一度もねーのか?」


「うん? それはそうだろう。毎日のように顔をあわせてはいるが、客として出向く理由などあるはずがない」


「そっかそっか。一番町の連中と縁の深いアスタを出し抜けたってのは、なんか面白いな」


 そう言って、ルド=ルウはまた悪戯っぽく微笑んだ。


「じゃ、料理を頼むよ。どんな料理なのか、楽しみにしてるからさ」


「ああ」と答えて、今度こそミラノ=マスはきびすを返した。

 周囲の客たちは、普段と変わらぬ様子で騒いでいる。きっとルド=ルウらが入ってきたときにはたいそう注目を集めたのだろうが、今ではべつだん指をさしたりするような者もいなかった。


 森辺の民が、客として宿屋を訪れても、それで顔色を変える者もいない。これもまた、数ヶ月前までは考えられもしないことであった。


(しかも、俺の料理を楽しみにしてる、だって? 初めて顔をあわせたときは、あれだけ派手にやりあった仲なのにな)


 アスタが2度目に《キミュスの尻尾亭》を訪れて、屋台を貸してほしいと願い出てきたとき、それを護衛していたのがあのルド=ルウであったのだ。

 あの頃のミラノ=マスは、森辺の民を心から憎んでいた。だから、ギバの肉などまともな人間の食べるものではない、と蔑みの言葉をぶつけてみせたのである。


 そのミラノ=マスがギバ料理を作り、それをルド=ルウに出そうとしている。こんな運命を、数ヶ月前のミラノ=マスに予見できるはずがなかった。


(たった1年でこの有り様だ。来年には、いったいどんな有り様になっているやらな)


 娘の待つ厨に向かいながら、ミラノ=マスは口もとがゆるむのを抑制することができなかった。

 ただ、目もとまでゆるんで何かが流れそうになることだけは、何としてでも抑制してみせた。


 西方神に魂を返したミラノ=マスの伴侶は、どのような思いでこの情景を見守っているだろう。

 その魂の安からんことを祈りながら、ミラノ=マスは自分の仕事場に足を踏み入れた。

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