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異世界料理道  作者: EDA
第三十章 群像演舞~三ノ巻~
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第七話 宿場町と森辺の絆(上)

2017.10/19 更新分 1/1

「おお、いたいた。こんなところで、あんたは何をやってるんだよ?」


 そんな風に呼びかけられて、ミラノ=マスは背後を振り返った。

《キミュスの尻尾亭》の裏庭である。振り返ると、そこに立ち並んでいるのは顔なじみの宿屋の主人たちだった。


「俺が自分の家で何をしようが勝手だろうが? そっちこそ、雁首を並べて何の用だ?」


「いやまあ、あんたにちょいと相談したいことがあってな」


 ミラノ=マスは、物置の修繕に取り組んでいるところであった。

 緑の月になれば、ジャガルから建築屋の一団がやってくる。大きな補修はそちらに任せるとして、それまでに自分でできる修繕は片付けておこうと思いたったのだ。

 ミラノ=マスは手ぬぐいで顔をふきながら、その場にいる主人たちの姿を見回した。


「何だか知らんが、たいそうな顔ぶれじゃないか。宿のほうは、よっぽどひまなのか?」


「この時間はみんな外に出ちまうんだから、気軽なもんさ。だからあんたも、こんなところで建築屋の真似事をしていたんだろう?」


「ふん。大事な銅貨を、無駄につかうことはできんからな」


 その場には、3人もの主人たちが集まっていた。寄り合いでもないのにわざわざ主人たちが寄り集まるというのは、あまり普通の話ではない。ミラノ=マスも、腰を据えて話を聞く必要があるようだった。


「で、相談ってのは何なんだ? よければ、食堂で話すか」


「あ、いや、ここでかまわねえよ。というか、関係のない連中にはあまり聞かれたくねえからな」


「うちだって、宿の客はみんな屋台の料理を買うために出払っているが……何だか、穏やかならぬ雰囲気だな。俺の商売に文句でもつけにきたのか?」


 ミラノ=マスがにらみつけてみせると、主人のひとりが「いやいや」と手を振った。


「あんたに文句なんてあるわけがねえだろ? ただちょっと、相談に乗ってほしいんだよ。その……ギバの肉についてさ」


「ギバの肉? ギバの肉が欲しいなら、市場に行け。そろそろ新しい肉が売りに出される頃合いだろうが」


「いや、ギバの肉はもう手に入れてるんだよ。この場にいる全員な」


「全員?」と、ミラノ=マスは眉をひそめることになった。


「市場でギバ肉を買うことができた宿屋は4軒だけだったと聞いているぞ。その内の3軒の主人が、そうして寄り集まってるってことなのか?」


「ああ、ここにいないのは《ラムリアのとぐろ亭》のジーゼ婆さんぐらいだな。あの婆さんは料理自慢で有名だから、自分の力だけで上等なギバ料理をこしらえることができてるんだろうさ」


「ふん。つまり、お前さんたちは上等なギバ料理をこしらえることができずに苦労している、ということか」


「そうなんだ」と、主人のひとりががっくりと肩を落とした。


「ギバの肉ってのは、焼いたり煮込んだりするだけで十分に美味いだろう? だから、こんな風にてこずるとは考えもしなかったんだよ」


「うちもだよ。ジーゼ婆さんやナウディスほどじゃないけれど、うちだって料理にはちょいと自信があったんだ」


「それなのに、どうにも上手くいかなくってなあ」


 主人たちは、一様に力を落としている様子であった。

 ミラノ=マスは、思わず首を傾げてしまう。


「そんなに上手くいかないものなのか? 少なくとも、キミュスの皮なし肉やカロンの足肉よりは上等な料理に仕上げられるはずだろう?」


「それが、駄目なんだよ。色々な食材が扱えるようになって以来、キミュスやカロンの料理なんかはけっこう喜ばれてるんだけどな。ギバの料理だけは、駄目なんだ」


「どうして駄目なんだ。さっぱり理由がわからんぞ」


「それはほら、あれだよ。森辺の民の屋台でも、先にギバ肉を買っていた宿屋でも、たいそう立派なギバ料理を出していただろう? だから、それと比べられちまうんだよ。キミュスやカロンの料理と同じていどの出来栄えじゃあ、お客が納得してくれねえんだ」


 主人のひとりが、思いつめた面持ちでそう言った。


「しかも、ギバ肉は高いから料理の値段も高くなっちまうだろ? それで余計に、客たちが騒いじまってなあ……」


「ああ。ギバ料理の注文があったのは最初の2、3日だけで、あとはもうからきしなんだよ」


「うちも、キミュスやカロンの料理を頼む客しかいなくなっちまった。ギバの料理を食べたい客は、みんなあんたの宿屋だとか《南の大樹亭》だとかに出向いちまうんだろう」


 一番若い主人などは、ほとんど泣きそうな顔になってしまっていた。


「このままじゃあ、塩漬けにしたギバ肉をみんな腐らせることになっちまうよ。せっかく大枚はたいたってのに、こんな馬鹿げた話はないだろう?」


「ああ、うちだって、そんなことになったら嬶に尻を蹴っ飛ばされちまうよ」


「だから……なんとか、助けてくれねえか?」


「助ける?」と、ミラノ=マスはまた眉をひそめることになった。


「助けるってのは、どういう言い草だ。まさか、うちの宿で扱ってるギバ料理の作り方を教えろって話じゃないだろうな?」


 主人たちは、悄然と黙り込んでしまった。

「呆れたな」とミラノ=マスは肩をすくめてみせる。


「いくら何でも、そいつは筋が通らないだろう。俺たちは酒飲み仲間だが、その前に商売人だ。俺も以前は料理を仕上げるのに難渋していたが、それでお前さんたちを頼ったことが一度でもあったか?」


「いや、それはそうなんだけど……で、でも、あんただって、アスタに手ほどきをしてもらったから、いっぱしの料理を作れるようになったんだろ?」


「だから、頭を下げる相手を間違えてると言っているんだ。手ほどきを頼みたいなら、アスタを頼れ。アスタだったら、喜んで手ほどきしてくれるだろうさ」


「そうなのかなあ?」と、主人のひとりが眉尻を下げた。


「ついこの間だって、甘い菓子ってやつの作り方を手ほどきしてもらったばかりなのに、いくら何でも図々しくないか?」


「商売敵にそんな申し出をするほうが、よっぽど図々しいわ! 第一、アスタから習い覚えたことを、軽々しく他の人間に教えられるものか!」


 主人たちは、いっそう悄然としてしまった。

 その力ない面持ちに、ミラノ=マスは別の思いを喚起させられる。


「やっぱりどうも、よくわからんな。ひょっとしたら、アスタに借りを作るのが、癪なのか?」


「違うよ。むしろ、その逆さ。……俺たちはさんざん森辺の民を嫌ってたのに、こんな世話になるばっかりじゃ申し訳ないだろう?」


「ふん。この中で一番森辺の民を嫌っていたのは、この俺だろうがな」


「だけどあんたは、ずっとアスタに力を貸し続けてきたじゃないか? 森辺の大罪人の騒ぎが起きたときだって、身体を張ってアスタを守ってたしさ……」


「そうだよ」と、別の主人も声をあげる。


「俺なんて、森辺の民に屋台なんか貸すなって、あんたのところに怒鳴り込んだぐらいなんだからな。あんただって、あのときのことは覚えてるだろう?」


「またずいぶん昔の話を引っ張りだしたもんだな。そんな話、俺やアスタが少しでも気にしてると思うのか? ……というか、商会の寄り合いで頭を下げて、それで決着にしたんだと思っていたんだがな」


「そうだとしても、アスタに迷惑をかけるばかりじゃ、面目が立たねえだろ?」


 すると、別の主人が深々と溜息をついた。


「あんたなんかは、何の見返りもないのにアスタを助けてきたんだ。アスタがそれに感謝して、料理の手ほどきをしてくれるのも当然さ。だけど俺たちは、そうじゃない」


「ああ。傍から見りゃあ、自分たちの欲得のために手の平を返したようにしか見えないだろうさ」


「しかも、ギバの肉を売ってくれってせっついておきながら、このざまだからな。俺はほとほと情けねえよ」


 ミラノ=マスは、何とも言えない複雑な心地を抱くことになった。


「お前さんたちの言い分はわかった。それでも、俺なんざに手ほどきを願うってのは筋違いだ。こんなことでギバの肉が売れなくなったらアスタたちだって大損なんだから、まずはそっちに相談するべきなんじゃないのか?」


「いや、だけどさ……」


「だけどじゃない。大の男が雁首そろえて、泣き言ばかりほざくな。もうじきアスタたちは屋台を返しに戻ってくるだろうから、腹をくくって頭を下げてみろ」


 ミラノ=マスはそれだけ言い捨てて、自分の仕事を再開することにした。

 アスタたちが戻ってきたのは、それから半刻ほど経ったのちのことである。

 ずっとその場でああでもないこうでもないと言い合っていた主人たちも、その半刻で何とか心を決めることができたらしく、アスタに向かって相談を持ちかけていた。


「ええ? それは、のっぴきならない事態ですね! わかりました。何とか、対処いたしましょう」


 話を聞くなり、アスタはそのように言いきった。

 主人たちは、初心な小娘のようにもじもじとしている。


「な、何だか申し訳ないな。俺たちも、まさかここまで料理が売れないとは思わなくってさ……」


「いえ、こちらのほうこそ見通しが甘かったです。これぐらいのことは、事前に予想しておくべきでした」


 そう言って、アスタはにこりと微笑んだ。


「森辺に帰る前に、《タントの恵み亭》のタパスと話をしてきます。菓子のときと同じように、あちらの厨で勉強会を開かせてもらえるかどうか、俺から頼んでみますよ」


「だ、だけどこれは俺たちが勝手に言いだしたことなんだから、なんの褒賞も出ないんだぞ? あ、いや、もちろん俺たちのほうから手間賃ぐらいは出せると思うけど……」


「手間賃なんて、とんでもない。結果的にたくさんのギバ肉が売れれば、それが俺たちの稼ぎになるんです。何もお気になさらないでください」


 アスタのかたわらに控えていたレイナ=ルウも、「そうですね」とうなずいていた。


「これでギバ肉が売れなくなってしまったら、準備している肉も無駄になってしまいます。今後も宿場町でギバ肉を売っていくために、これは必要な行いなのでしょう」


 それで話はまとまったようだった。

 3名の主人たちは、恐縮しきった様子で帰っていく。その背中を見送ってから、アスタはふっと息をついていた。


「早い段階で相談してくれて、助かりました。やっぱりギバ料理は割高になってしまうので、お客さんの理想も高くなるということですね」


「ふん。お前さんたちがさんざん上等なギバ料理を売り続けてきたんだから、当然と言えば当然の話だ。言ってみれば、自分たちの行いに首をしめられたわけだな」


「あはは。それでみなさんがより美味しいギバ料理を求めてくれたら、俺は嬉しく思いますけどね」


 そんな風に言ってから、アスタはまた無邪気そうに微笑んだ。


「それに、宿屋のご主人がたとこうして腹を割って話ができるようになったのも嬉しいです。昔の険悪な関係を思えば、夢みたいですよね」


「……それはお前さんがたが、どれだけ疎まれようとも、しぶとく商売を続けてきた成果だろうさ」


「はい。一番危うかった時代に、ミラノ=マスが見放さないでくれたおかげです」


 そうしてアスタは、ミラノ=マスに頭を下げてきた。


「それでは、タパスのところに相談に行ってきます。また明日もよろしくお願いしますね、ミラノ=マス」


「ああ。無法者なんざにひっかからんようにな」


 アスタを先頭にして、森辺の一団が立ち去っていく。

 ミラノ=マスは、誰にともなく「やれやれ」とつぶやいた。


(だから最初から、アスタに話を通せばよかったのだ)


 そんな風に思いながら、ミラノ=マスは板を切るための鋸を取り上げた。

 その胸には、えもいわれぬ満足感が満ちていた。


                   ◇


 ミラノ=マスの伴侶が魂を返したのは、もう10年ばかりも前のことだった。

 もとから身体の丈夫なほうではなかったが、ミラノ=マスと娘を除けば唯一の家族であった兄を失ったため、一気に気持ちが弱くなって、そのまま病魔を患うことになったのだ。


 その、伴侶の兄を殺めたのが、森辺の民だった。

 今では正体もわかっている。森辺の族長筋であったという、スン家の大罪人たちだ。


 伴侶の兄は、大きな商団の副団長であった。それで、もっと頻繁にシムと取り引きできるように、モルガの山麓に新たな行路を開きたい、などと言い出したのである。


 ジェノスを出たこともないミラノ=マスにはよくわからなかったが、モルガの山麓に広がる森はあまりに広大であるために、それを迂回しようとすると、シムに向かうにはずいぶん困難な道のりになってしまうのだそうだ。

 それで伴侶の兄たちは、山麓の森を突っ切ることを計画した。城下町の貴族にも話を通して、森辺の民に案内役を依頼して、モルガの森を安全に通る道を確立しようと考えたのだ。


 結果的に、それが生命とりとなった。

 当時からスン家の大罪人たちは旅人や商団を襲っており、しかもそれを手引きしていたのがジェノスの貴族たちだったのである。そんな連中に助力を願うのは、飢えた獣の口の中に自ら頭をねじ込むのと同様の行いであった。


 それでその商団は、まんまと全滅させられることになった。

 モルガの森で、ギバに襲われたという体裁で、大罪人どもに皆殺しにされる羽目となったのだ。


 そうして伴侶の兄は、魂を返すことになった。

 この世を儚んだミラノ=マスの伴侶もまた、魂を返すことになった。


 さらにその時期、もうひとり魂を返す者もあった。

 その商団の団長の、伴侶であった女性である。

 その女性は腹に子を宿しており、伴侶を失った悲しみの中で出産することになり――そして、子を産み落とすなり、そのまま魂を返してしまったのだった。


 ミラノ=マスにとっては、縁の薄い相手だ。

 しかし、その家にはもう年老いた人間しか残されていなかったため、まともに赤児を育てられるような環境ではなかった。

 それでミラノ=マスは、その赤児を引き取ることになった。失意の中で死んでいったその女性の姿が自分の伴侶と重なってしまい、とうてい放ってはおけなかったのだ。


 ミラノ=マスも伴侶を失ったばかりで、娘のテリア=マスもまだまだ幼かったが、宿屋の手伝いをしてもらうために、近在の人間とは深いつきあいがあった。その中から手頃な人間を選んで、宿屋でその赤児を育ててもらうことにした。それが、のちにカミュア=ヨシュの弟子となるレイトである。


(あいつはいつでもにこにこと笑っていたが、腹の中にはさまざまな気持ちを抱え込んでいたんだろうな)


 10年と少しの時を経て、森辺と城下町の大罪人は裁かれることになった。そこに力を添えたのが、風来坊のカミュア=ヨシュであったのだ。ミラノ=マスには何も語らぬまま、カミュア=ヨシュは大罪人たちを裁くために奔走していた。レイトもまた、そのために力を貸していたのだという話であった。


 レイトがカミュア=ヨシュに弟子入りをしたのは、およそ3年ほど前のことである。

 現在のレイトは12歳であったはずなので、9歳の身でもう《守護人》の弟子などという運命に身を投じていたのだ。


 レイトは「もっと色々な世界を見てみたいのです」としか言っていなかったが、そんな漠然とした思いだけで生家を飛び出すとは思えなかった。

《守護人》というのは、己の剣の腕だけで道を切り開く人間である。だからきっと、レイトも自らの運命を切り開くための力を欲していた、ということなのだろう。


 さらにカミュア=ヨシュという男は、当時から森辺の民についての話を集めているようにうかがえた。そうだからこそ、レイトはカミュア=ヨシュに心をひかれたのだろうと思う。

 自分の父親を殺めておきながら、何の罪にも問われなかった森辺の大罪人たち――それに断罪の刃を振り下ろすために、レイトは力を求めたのではないのか。ミラノ=マスには、そんな風に思えてならなかった。


 いっぽうのミラノ=マスは、何も為すことのないまま、10年ばかりの歳月を過ごしていた。

 伴侶の兄は、狩人の首飾りを握りしめて死んでいた。だから、商団の人間たちはギバではなく森辺の民に襲われたのではないか――ミラノ=マスはそのように訴えたのだが、衛兵どもは何ら動こうとはしなかったのである。


 城下町の貴族どもが大罪人の片棒を担いでいたのなら、それも当然だ。当時から、森辺の民は宿場町で騒ぎを起こしても罪に問われない立場であった。また、森辺の民は他にも商団を襲っているという噂が囁かれていたが、その犯人として処刑されたのは不殺の義賊として名を馳せていた《赤髭党》であった。


 ミラノ=マスの伴侶が悲嘆に暮れていたのは、ただ兄を失ったからではない。兄を殺めた大罪人たちが野放しのままで、罪を問われることもなかったという状況に絶望して、この世を儚むことになったのである。


 貴族というのは、神の代理人だ。セルヴァというのは王国の名前であり、神の名でもある。セルヴァの王は西方神に選ばれた尊き存在であり、貴族というのはその王から認められた民の支配者であったのだ。

 神が絶対の存在であるならば、王も絶対であり、貴族も絶対である。市井の人間が貴族にあらがうすべはない。その貴族が大罪人の罪を許したということは、もう誰にも裁くことはできないのだという絶対の事実なのだった。


 よって、ミラノ=マスにも為すすべは残されていなかった。

 伴侶を失い、幼子を抱えて、懸命に生きていくことしかできなかった。

 森辺の大罪人と、それを許したジェノスの貴族どもに、熱くてどろどろとした煮汁のような怒りを抱きながら、ミラノ=マスは日々を過ごしていた。


 そうして10年ばかりが過ぎたのちに、ミラノ=マスは森辺の家人を名乗る奇妙な若者、ファの家のアスタと巡りあったのだった。


 ファの家のアスタは、本当に奇妙な若者であった。

 外見上は、西の民にしか見えない。黒髪に黒瞳というのはいささか珍しい色合いであったが、西の民でもいないわけではない。また、さまざまな土地から人間の集まるジェノスにおいては、もっと奇矯な風貌をした人間はいくらでもいた。


 しかし、のちに聞いたところによると、アスタは大陸の外からやってきた身であるらしい。

 いまひとつ要領を得ないのだが、気づいたらモルガの森で倒れていたのだそうだ。


 ジェノスは内陸の土地であるのだから、そのような話がありえるわけはない。外海からジェノスにまでやってくるには、どうやったってひと月以上の時間がかかるのだ。トトスに荷車を引かせずに、町ごとで乗り換えるようにすれば、時間を半分に縮めることも可能であるかもしれないが、アスタの場合にはそれも当てはまらなかった。


「自分でも、さっぱりわけがわからないのです」


 アスタ自身も、そのように語っていた。

 そうして、故郷や出自のことを語るとき、アスタはいつでも微笑みながら、その瞳に深い悲しみの光をちらつかせていた。


 どうやって訪れたかもわからないから、どうやって帰るかもわからないのだ。

 それでアスタは、森辺の集落を終の住処にすると決心したのだという話であった。


(それでもアスタは、訪れるべくして森辺を訪れたのだろう)


 ミラノ=マスは、そんな風に考えている。

 外の人間には決して心を開こうとしなかった森辺の民が、アスタにだけは心を開いたのだ。それで現在は、宿場町で商売をするようにまでなっている。森辺と城下町の大罪人が裁かれたことも、アスタの尽力なくしては果たせなかったように思えた。


 そうして、あれほど忌み嫌われていた森辺の民が、今では宿場町の民と確かな交流を紡いでいる。

 およそ1年前、アスタが姿を現すまでは誰にも想像することのできなかった、それは奇跡のような状況であった。


(大罪人を裁くことができたのは、アスタひとりの手柄じゃない。カミュア=ヨシュやレイトや、森辺の民やジェノスの貴族たちが、総出で立ち向かったからこそ、成し遂げることができたのだろう)


 しかしそれでも、ジェノスの民と森辺の民の縁を繋いだ立役者は、アスタであるはずだった。

 ミラノ=マスが、その一点を疑うことだけはなかった。

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