幼鳥の羽ばたき(下)
2017.10/18 更新分 1/1
その後は大きな失敗や事故に見舞われることもなく、トゥール=ディンたちは日が暮れるまでに祝いの料理を完成させることができた。
ザザ家の広場には大勢の血族が集結し、あちらこちらにかがり火が焚かれている。そうして祝宴のために組んだ石のかまどに鉄鍋が載せられると、親筋の家長たるグラフ=ザザが広場の中央に進み出た。
「祝いの準備はできたようだな。新たな血の縁を結ぶ両名を、ここに!」
広場に集まった人間たちが、低い声音で不思議な歌を響かせ始める。
北の一族に伝わる、祝いの歌である。
それは、地を這うような声音でありながら、妙に聞く者を厳粛な心地にさせる、不思議な旋律であった。
北の一族というのは、どの氏族よりも古来の習わしを重んじているのだ。
だからこれも、きっと先人たちがジャガルの黒き森に住んでいた頃から続く習わしなのだろう。
その旋律に導かれるようにして、ふたりの若き男女が広間の中央まで歩を進めてきた。
この日に婚儀をあげる、ザザの分家の長兄と、ハヴィラ本家の次姉である。どちらも自分の母親に手を取られており、その後ろには数名の家人が付き従っていた。
大きく焚かれた儀式の火の前には、ザザとドムとジーンの本家の女衆が待ち受けている。
彼女たちもまた祝いの歌を詠唱しながら、儀式の火に向かって香草を投げ入れていた。
スフィラ=ザザやレム=ドムも、その輪に加わっている。
宴衣装に身を包んだ彼女たちは、この日の花嫁に劣らず美しかった。
しかしやっぱり、もっとも美しいのは花嫁であっただろう。
七色にきらめく装束を纏い、たくさんの飾り物をつけたその姿は、儀式の火によって神々しく照らしだされていた。
やがて、花婿と花嫁が儀式の火の前で膝をつく。
その背後に立ったのは、グラフ=ザザの伴侶である女衆であった。
祝いの歌に、新たな音色がかぶせられる。
男衆が、ギバの骨を打ち鳴らし始めたのだ。
一種異様とも思える雰囲気が、広場を満たし始めている。
そんな中で、新たなる絆を結ぶ両者の名前が血族と母なる森に告げられて、草冠の交換が行われた。
ギバの骨が、狂ったような勢いで打ち鳴らされる。
しばらくの後、グラフ=ザザが右腕を天に突き上げると、その音色はぴたりとかき消えた。
「ここに、ザザとハヴィラの新たな絆が結ばれた! 血族とその喜びを分かち合うがいい!」
怒号のような歓声が、暗い天空へと解き放たれる。
そうして、祝宴が開始された。
まずは果実酒を酌み交わしてから、数十名の血族たちがかまどのほうに群がってくる。
「こちらは、ぱすたという料理になります。いささか食べづらいかもしれませんが、是非お食べください」
自分の取り仕切るかまどに近づいてきた人々に、トゥール=ディンは懸命に呼びかける。
人々の大半は、台の上に並べられた木皿をうろんげな顔つきで見回していた。
「何だこれは? どうやって食えばいいのだ?」
「は、はい。小さな木皿にぱすたを取り分けますので、そこにあちらで温めている煮汁をかけて食するのです」
しかし人々は、なかなか動こうとはしなかった。
そこに、ずかずかと大柄な人影が近づいてくる。
「おお、ここにおったのか。お前は小さいから、人影にうもれてしまうと見つけにくいな」
それはザザ本家の末弟にして跡取りたるゲオル=ザザであった。
男衆は、宴の場でも毛皮や頭骨をかぶっている。その毛皮の下で、ゲオル=ザザは勇猛に笑っていた。
「どれ、まずはお前の料理からいただくか。お前たちは、食わんのか?」
「うむ。何だかこれは、いつも以上に得体が知れんのでな」
「いささかおかしな形をしているが、こいつはポイタンだ。何も尻込みする必要はあるまい」
別の女衆が取り分けたパスタの小皿を手に、ゲオル=ザザがかまどのほうに歩を進める。
そちらでは、2種のソースが準備されていた。
「ふむ。こちらの赤いやつは、以前にも見た気がするな」
「は、はい。ギバの肉をこまかく刻んでタラパなどと一緒に煮込んだ、みーとそーすというものです。白いほうには、カロンの乳を使っています」
「あの、ギバの骨を煮込んだ汁はないのか?」
不満そうな顔をするゲオル=ザザに、トゥール=ディンは「すみません」と頭を下げた。
「あの料理は作るのに時間がかかりますし、それに、干した海草というとても高価な食材が必要となるのです。ザザ家の祝宴には不似合いかと思い、取りやめることになりました」
「ふん。まあ確かに、あまり銅貨をつかってしまうと親父がうるさいからな」
ゲオル=ザザは唇をとがらせつつ、カロン乳のソースを選択した。
味つけは、宿場町で売っている『カルボナーラ』に近い。使っている食材は、ギバのバラ肉とアリアとナナールである。
三股に割った木匙でそれをくるくるとからめ取って食したゲオル=ザザは、「ふむ」と目を輝かした。
「あの煮汁ほどではないが、これも美味だな」
「は、はい。ありがとうございます」
「これならば、親父たちが文句を言うこともないだろう。……お前たちは、食わんのか?」
ゲオル=ザザの様子をうかがっていた他の人々も、それでようやく手をのばすことになった。
見よう見まねで木匙を使い、2種のパスタを口に運んでいく。たいていの人間は、それで驚きに目を見張っていた。
「やっぱり奇妙な食べ心地だな。これは本当にポイタンなのか?」
「は、はい。他にもフワノや卵などを混ぜていますが、半分がたはポイタンです」
「ううむ。つるつるとすべって食べにくい……しかし、上に掛かっている煮汁は文句なく美味いな」
トゥール=ディンも祝宴でかまどを預かるのは4度目にもなるので、北の集落の人々も珍妙な料理にはずいぶん慣れてきている頃合いであった。
よって、より大きな驚きに見舞われていたのは、ダナとハヴィラの人々である。今日はハヴィラの人間の婚儀であるので、普段の祝宴よりも大勢の家人が招かれているのだ。そちらの人々は性別や年齢を問わず、全員が仰天している様子であった。
「噂には聞いていたが、ずいぶん不可思議な料理だな」
「どうしてわざわざこのような形にしているのだろう。煮汁はうまいのだから、普通に焼いたポイタンをひたして食せばいいように思えるが」
「そうかねえ。あたしはこっちのほうが美味だと思うよ。確かにちょいと食べづらいとは思うけどさ」
まだあまり凝った料理を口にする機会もなかった人々には、やはりずいぶんと困惑を与えることになってしまったようだった。
新しいパスタを茹であげながら、トゥール=ディンはまた「すみません」と頭を下げてみせる。
「本日準備された中で、これは一番風変わりな料理だと思います。他の料理は食べにくいこともないと思いますので、どうぞそちらのほうも――」
「いや、何も謝る必要はない。俺はとても美味だと思うぞ」
と、ひとりの若い男衆が笑顔でそのように声をあげた。
毛皮や頭骨をかぶっていないので、ハヴィラかダナの男衆である。非常にすらりとした体格をしているが、その面はずいぶん若々しい。年齢は、せいぜい17、8歳ぐらいであるように思われた。
「俺は毎回、祝いの料理を楽しませてもらっているが、こいつは格別美味いように思える。さすがは、トゥール=ディンだな」
「あ、ありがとうございます。わ、わたしの名前をご存じであったのですか……?」
「その名を忘れるわけがなかろう。いつもこのような喜びを与えてもらっているのだからな」
その男衆は、いっそう清々しげな面持ちで微笑んだ。
トゥール=ディンが目を白黒とさせていると、それに気づいたゲオル=ザザがこちらに近づいてくる。
「こいつは、ハヴィラの本家の長兄だ。ここ最近の婚儀の祝宴では、だいたい顔を出していたはずだな」
「ああ。親父が留守番を好むので、俺がトゥール=ディンの料理を口にする幸運に見舞われたのだ」
ザザの集落で祝宴が行われる際は、だいたい眷族の長かその跡取りが供を連れて足を運ぶことになる。よって、ダナとハヴィラでもそういった少数の人々だけは、祝いの料理を口にしているのである。
「しかし今日は、ダナもハヴィラもほとんどの人間が招かれることになったからな。俺の言葉が虚言ではないと、皆も思い知らされていることだろう」
「うむ? 虚言がどうのというのは、何の話だ?」
「だから、トゥール=ディンが素晴らしいかまど番である、という話だ。女衆ももっと北の集落に通って手ほどきを受ければいいと言っているのに、なかなか言うことを聞いてくれなくてな」
「それはまあ、女衆だけではなかなか足を運ぶ気にもなれんのだろうよ。ただでさえ強面の多い俺たちが、親筋と族長筋の名をいっぺんに拝命してしまったのだからな」
どうやら年齢が近いこともあって、ゲオル=ザザとこのハヴィラの長兄は気安い間柄であったようだった。
親筋であり族長筋であり、しかも本家の跡取りであるゲオル=ザザに対しても、臆するところはないようだ。家もそれほど遠くない彼らは、順当に絆を深めることがかなったのだろう。
それを嬉しく思いながら、トゥール=ディンはふっと昼間の出来事を思い出していた。
転倒して水瓶を壊してしまったトゥール=ディンから目をそむけ、ずっと唇を噛んでいた、あのダナの女衆――日が暮れるまでの間、彼女とも何度かは言葉を交わす機会があったのだが、その目にはずっと不穏な光が灯っているように感じられたのだった。
(ハヴィラよりも、ダナのほうがスンを恨む気持ちが強かったのかな……それとも、どこかでわたし自身が恨みを買ってしまったとか……?)
彼女がトゥール=ディンを突き飛ばしたかどうかは、定かではない。
ただ、彼女がトゥール=ディンに対して何かしらの感情を抱いていることは確実であるはずだった。
「……それにしても、トゥール=ディンは見事な飾り物を身につけているな」
と、ミートソースのパスタを食していたハヴィラの長兄が、そのように述べたててきた。
茹であがったパスタを鉄網の上に引きあげたトゥール=ディンは、「は、はい」と応じてみせる。
「こ、これは、城下町の貴族からいただいた飾り物です。アスタの手伝いをしている内に、わたしも縁を結ぶことがかなったので……」
「ああ、貴族の姫君とやらに料理を売っているそうだな。話はザザ家から伝わってきているぞ」
ハヴィラの長兄は、とても優しげな顔で微笑んだ。
「その話を聞いても、俺はべつだん不思議にも思わなかったな。お前には、それだけの力が備わっているのだ、トゥール=ディン」
「ふん。お前はずいぶん、トゥール=ディンに執心しているようだな。こいつはまだ嫁入りできるような年齢ではないぞ?」
ゲオル=ザザが、いくぶん面白くなさそうな顔でそう言いたてた。
ハヴィラの長兄は、にこやかにそちらを振り返る。
「俺はそのような気持ちがあってトゥール=ディンを褒めたたえているわけではない。ただそのかまど番としての腕前に感心しているだけだ」
「どうだかな。ハヴィラ本家の長兄として、少しは身をつつしむべきであるように思えるぞ」
「俺はゲオル=ザザよりも年長なのだから、トゥール=ディンに嫁入りを願うことにもならないさ。何も心配する必要はない」
「べ、別に何も心配などしておらん!」
ゲオル=ザザが大きな声をあげたので、周囲の人々がびくりと身を引いた。
しかし、ハヴィラの長兄は愉快そうに笑っている。
「レム=ドムがああなってしまったので、ゲオル=ザザも嫁のあてがなくなってしまったのだな。よければ、酒でも酌み交わそう」
「ふん! 大きなお世話だ!」
ゲオル=ザザは、狩人の衣をひるがえして立ち去っていった。
ハヴィラの長兄は、トゥール=ディンに「では、また」と笑いかけてから、その後を追っていく。
「……トゥール=ディンは、何歳であるのですか?」
と、かたわらで働いていたドムの女衆が問うてきた。
「11歳です」と答えると、女衆は「そうですか」と微笑む。
「婚儀をあげられるようになるまで、あと4年も残されているのですね。その頃には、きっと大勢の男衆が嫁入りを願ってくることでしょう」
「い、いえ、まさか……」
トゥール=ディンは、顔を赤くしてうつむくことになった。
そこに、新たな人影が近づいてくる。
顔をあげたトゥール=ディンは、軽い驚きに見舞われた。それは族長の、グラフ=ザザであったのだ。
「トゥール=ディンよ、今日も祝宴の取り仕切りをご苦労であった」
「は、はい。及ばずながら、力になれれば幸いです」
他の女衆も、群れ集っていた人々も、全員がグラフ=ザザに目礼をしていた。
北の集落において、親筋の家長および族長というのは、それほどの存在であるのだ。だからグラフ=ザザも、普段は族長の席に座して、あまり広場をうろついたりはしないはずであった。
トゥール=ディンが知る中で、もっとも魁偉な容貌をしたグラフ=ザザである。
ルウ家のドンダ=ルウもそれに負けないぐらいの風格を有しているが、ギバの毛皮を頭からかぶっている分、グラフ=ザザのほうが恐ろしげに見えてしまう。また、体格の面ではディック=ドムのほうが上回っていたが、彼はまだ17歳の若さであり、どちらかといえば沈着な気質であった。
「あちらでは、ディンやリッドの女衆も不足なく働いているように見えた。祝宴に招くたびに、お前たちがかまど番としての腕を上げていることがわかるな」
「は、はい。族長グラフ=ザザが、ファの家を手伝うことを許してくださったおかげです」
非常な緊張を覚えつつ、トゥール=ディンはそのように答えてみせた。
グラフ=ザザと言葉を交わす機会も増えたものの、やはりこの迫力にはなかなか慣れるものではない。
「ふん……しかし俺は、ファの家の行いを見定めるために、血族がその仕事を手伝うことを許したまでだ。まさかその血族が、名指しで城下町に招かれたり、貴族に料理を売りつけたりすることになろうなどとは、夢さら思っていなかった」
ギバの毛皮の上顎の下で、ゲオル=ザザの瞳が野獣のように燃えている。
トゥール=ディンは台の陰で自分の装束を握りしめながら、その眼光に耐えた。
「もっとも古くからファの家と親交を結んでいるルウ家のかまど番すら、そのような事態に至ってはいないというのに……それはいったい、何故なのであろうな?」
「それは……ディンの家が、ルウの家よりもファの家に近くて、手ほどきを受ける機会も多かったからではないでしょうか。それに、ルウの家は早い段階で、自分たちだけで商売をするようになっていたので……わたしたちのほうが、より長い時間をアスタとともに過ごすことになったのだと思います」
グラフ=ザザは、また「ふん……」と鼻を鳴らした。
「何にせよ、町で商売をすることの是非は、次の家長会議で定められることになる。それまでは、自らの役割を忘れることなく、仕事に励むがいい」
「は、はい。了解いたしました」
「……だからこれは、事の是非とは関わりのない話だが……」
と、ふいにグラフ=ザザがにやりと笑った。
「俺の血族がルウ家のかまど番よりも優れていると見なされるのは、なかなか悪い心地ではなかった。子供じみた対抗心かもしれんが、あいつらとは長きに渡って角を突き合わせていたので、まあしかたあるまい。力を競うのは、森辺の民として恥ずべき行いでもないわけだしな」
「え、ええ? それはその……」
「戯れ言だ。聞き流しておけ。お前はお前の仕事を果たせばいい」
そうしてグラフ=ザザは、女衆に手渡された料理の木皿を手に、立ち去っていった。
呆然とたたずむトゥール=ディンの肩を、ジーンの年を食った女衆が小突いてくる。
「グラフ=ザザとは長いつきあいだけど、あんな風に子供じみた笑顔を見せたのはひさしぶりだよ。あんたはずいぶん気に入られているみたいだね、トゥール=ディン」
「そ、そうなのでしょうか……? わたしにはよくわからないのですが……」
「そうじゃなかったら、そもそも自分から挨拶に出向いてきたりもしないだろうさ。あんたの力は、しっかり族長にも認められてるってことだよ」
トゥール=ディンは、さまざまな意味で心をかき乱されることになった。
自分がルウ家のかまど番よりも優れているなどというのは大いなる誤解であるし、自分には他者と競う気持ちもない。過度な期待をかけられるというのは、トゥール=ディンにとってきわめて心苦しいことであった。
その反面、グラフ=ザザに力を認められたのだ、と考えると――たとえようもない誇らしさが胸にあふれかえってくる。森辺の族長であり、自分の家の親筋の家長であり、しかもあれだけ厳しい気性をしたグラフ=ザザに、苦労をねぎらわれて、笑いかけられたというだけで、トゥール=ディンは胸が詰まるぐらいであった。
(これも全部、アスタのおかげだ……そして、スン家の罪を許してくれた、森辺の同胞の全員のおかげなんだ)
トゥール=ディンは、涙のにじんできた目もとをこっそりとぬぐった。
すると、ジーンの女衆が「おや」と声をあげた。
「今度はスフィラ=ザザかい。ザザの本家の人間が次から次へと、せわしないことだね」
トゥール=ディンが顔を上げると、確かにスフィラ=ザザがこちらに近づいてくるところであった。
そしてもうひとり、スフィラ=ザザに手首をつかまれて歩いている女衆の姿も見える。
その正体に気づいて、トゥール=ディンはぎくりと身をすくめることになった。
それはあの、険悪な雰囲気を漂わせていたダナの若い女衆であったのだ。
「トゥール=ディン、ちょっとお話があるのですが、よろしいですか?」
「え、あ、わたしはその、かまど番の仕事がありますので……」
「それほど時間は取らせません。どうぞお願いいたします」
パスタの数にはまだ余裕があったし、他の女衆にも火の加減や砂時計の使い方は教えていた。トゥール=ディンがこの場を離れても、ただちに困ることはないだろう。
トゥール=ディンは覚悟を決めて、スフィラ=ザザたちのほうに進み出た。
「ありがとうございます」と述べながら、スフィラ=ザザはかまどから離れていく。
やがて、あまり人影のない広場の片隅まで歩を進めてから、スフィラ=ザザは立ち止まった。
「さあ、それではさきほどの話を、もう一度お願いします」
厳しい声音で言いながら、スフィラ=ザザはダナの女衆から手を離した。
ダナの女衆は軽くうつむき、唇を噛んでいる。かまど小屋で見せていたのと、同じ表情である。
「どうしたのですか? あなたの口から話さないと意味がありませんよ」
「…………」
「あなたは、ダナの家族たちにも迷惑をかけたいのですか? だったら、おたがいの家長をここに呼びつけて、真偽を明らかにする他ありませんね」
最近は穏やかな表情を見せることも多くなっていたスフィラ=ザザであるが、その瞳には父親譲りの激しい眼光が宿っていた。
その眼光から逃げるように顔をそむけつつ、ダナの女衆は「わたしは……」と声を振り絞る。
「わたしは……かまど小屋でトゥール=ディンとぶつかってしまい、危ない目にあわせてしまったのに……謝罪もせずに、逃げてしまいました」
「どうしてそのような真似をしたのですか? 故意でないなら、一言わびるだけで済む話でしょう?」
「…………」
「それともまさか、故意であったのですか?」
スフィラ=ザザの目が、いっそう苛烈な炎を噴きあげた。
トゥール=ディンは、思わずその手に取りすがってしまう。
「も、もうけっこうです、スフィラ=ザザ! わたしは別に、怪我をしたわけでもないのですから……」
「いいえ。このような話を見過ごすわけにはいきません。血族たるトゥール=ディンを突き飛ばしておいて、謝罪もなく、しかもこのような態度を取ることなど、どうして許すことができますか?」
スフィラ=ザザが父親や弟と異なるのは、どれほど激しても声を荒らげたりはしない、その沈着さであった。目だけは爛々と輝かせながら、その面はいっそう冷たく冴えわたっていくかのようである。
「ましてやそれが故意のことであったなら、血族に不和をもたらそうという、明らかな罪となります。罪には罰という森辺の掟を忘れたわけではないでしょうね?」
ダナの女衆はがくがくと震えながら、ぎゅうっと唇を噛んでいた。
そこに、複数の人影がわらわらと近づいてくる。
「スフィラ=ザザ、どうかお待ちください! その者にも、悪気はなかったのです!」
トゥール=ディンは、新たな驚きに見舞われることになった。
それは、トゥール=ディンに手ほどきを受けていたもうひとりのダナの女衆と、ゲオル=ザザ――そして、ハヴィラ本家の長兄であった。
「悪気がないとは、どういう意味でしょうか? それが真実であるならば、わびもせずに逃げたりもしなかったはずでしょう」
スフィラ=ザザが眼光を向けると、その女衆も「ひっ」と立ちすくんだ。
すると、果実酒の土瓶を下げたゲオル=ザザが「おいおい」と声をあげる。
「お前がそのような目つきをしたら、たいていの女衆は動けなくなってしまうだろうが? 穏便に話を済ませたいなら、まずはお前が気持ちを落ち着けろ」
「余計なお世話です。あなたは何をしに来たのですか、ゲオル?」
「俺はハヴィラの長兄と酒を酌み交わしていただけだ。そうしたら、そこの女衆が血相を変えてやってきてな」
「ああ。事情はすべて、この女衆から聞いている」
と、ハヴィラの長兄が申し訳なさそうな顔で進み出た。
「まさかとは思ったのだが……これはすべて、俺が原因で起きた騒動なのか?」
その瞬間、唇を噛んでいたダナの女衆が、わっと泣き声をあげてその場に突っ伏した。
「申し訳ありません……すべてはわたしが悪いのです……自分の浅ましい思いから、トゥール=ディンにひどい真似をしてしまいました……」
スフィラ=ザザは眉をひそめつつ、その場にいる全員を見回した。
その視線に応じたのは、ハヴィラの長兄であった。
「本当に申し訳ないことをした。実はその……俺とこの娘は、婚儀の約束をした間柄であったのだ。まだおたがいの家長に話を通してはいないのだがな」
「……それがいったい、何だというのです?」
「だからその……俺があまりにトゥール=ディンの料理をほめちぎるから、この娘が気が悪くしたのではないかと……なあ、やっぱりそうなのか?」
女衆は力なく首を振りながら、トゥール=ディンの足もとにまで膝を進めてきた。
その手が小さく震えながら、トゥール=ディンの手をつかんでくる。
「誓って、故意ではなかったのです……ただ、あなたのことが妬ましくて、羨ましくて……どうしても、あなたに頭を下げようという気持ちになれませんでした……わたしは、浅ましい女です……」
「そんなことはない。俺の配慮が足りなかったのだ。トゥール=ディン、スフィラ=ザザ、どうかこの娘を許してやってほしい。すべては俺の浅はかさが招いたことなのだ」
スフィラ=ザザは深々と溜息をつきながら、激情に燃えていた瞳をまぶたに隠した。
「それでは、あなたがトゥール=ディンの料理をほめちぎるあまりに、この女衆は嫉妬の念にかられたということなのですか? トゥール=ディンは、まだ11歳なのですよ?」
「ああ、うん。だからやっぱり、俺の責任なのだ。本当にすまないと思っている」
すると、不安そうに両手をもみしぼっていたもうひとりの女衆が「そうですよ」と声をあげた。
「トゥール=ディンは器量もいいだとか、トゥール=ディンと婚儀をあげる男衆は幸せ者だとか、横で聞いているわたしでさえ憤慨させられることが多かったぐらいなのです。たとえ相手が幼い女衆であっても、あのように褒めやかすのは森辺の習わしにもそぐわないと思います」
「本当に、そんなつもりではなかったんだがなあ。俺はただ、美味なる料理というやつに感服させられていただけなのだ」
周囲の言葉が耳に入っている様子もなく、ダナの女衆はトゥール=ディンの手をつかんだまま、肩を震わせている。
トゥール=ディンはその場に膝をついて、その手をぎゅっと握り返してみせた。
「ど、どうか顔を上げてください。わたしは何も気にしていません」
「……だけどわたしは、あなたにひどいことを……」
「ちょっと身体がぶつかっただけではないですか。わたしも周りが見えていなかったのですから、不注意であったのはおたがいさまです」
ダナの女衆は、おそるおそる顔を上げた。
涙に濡れたその顔は、思っていたよりもずいぶんと幼げに見えた。きつく唇を噛んでいたときとは、まるで別人のようである。
「……わたしはスン家の人間であったので、それで恨まれていたのかと思っていました。そうでなかったのなら、むしろ嬉しいぐらいだと思っています」
「え……わたしは決して、そのようなことは……」
「はい。だから、嬉しいのです」
トゥール=ディンは、精一杯の思いを込めて、笑いかけてみせた。
「かまど番としての腕を上げるには、修練を積むしかありません。よかったら、今後は北の方々と一緒に手ほどきを受けてみませんか?」
「え……手ほどき……?」
「はい。わたしは6日に1度、北の集落を訪れてかまど番の手ほどきをしているのです。それで、行き来の際にはザザ家が荷車を出してくれているのですが……途中でダナやハヴィラの集落に立ち寄ることもできますよね?」
トゥール=ディンがスフィラ=ザザを振り返ると、「ええ」という言葉が返ってきた。
「どうせ荷車にはトゥール=ディンしか乗せていないのですから、あと4、5人ぐらいなら乗せることもできるでしょうね」
「ありがとうございます、スフィラ=ザザ。……いかがでしょう? そうしたら、ダナやハヴィラの人々も、これまで以上に美味なる料理を大事な相手に届けることができるようになれると思います」
女衆はトゥール=ディンの手を離すと、今度は全身で覆いかぶさってきた。
そうしてトゥール=ディンの身体を腕ごと抱きすくめて、おいおいと泣き声をあげ始める。
「そら、トゥール=ディンのほうが、よほど血族の扱いをわかっているではないか」
ゲオル=ザザが、陽気な笑い声をあげていた。
スフィラ=ザザは、むすっとした顔で唇をとがらせている。
そして、ハヴィラの長兄が眉尻を下げて微笑みながら、トゥール=ディンたちに近づいてきた。
「本当に迷惑をかけてしまったな、トゥール=ディン。おかしな誤解を生んでしまわないように、俺たちは家長に嫁入りの話を申し出ようと思う」
「は、はい。ハヴィラとダナの家長らに許されるよう、わたしも祈っています」
「何としてでも、認めさせてみせるさ。そしてその婚儀の祝宴でまたトゥール=ディンの料理を味わわせてくれれば、俺たちは幸せだ」
ハヴィラの長兄も膝をつき、女衆の肩に手をかけた。
トゥール=ディンの身体を抱きすくめて泣きじゃくりながら、女衆もぶんぶんとうなずいている。
「トゥール=ディンが同じ血族であることを、俺たちは誇りに思っているよ」
「ありがとうございます」と、トゥール=ディンは自然に微笑み返すことができた。
これでまた、血族たちと絆を深めることができたのだ。
ザザの血族は、総勢で80名とも100名とも言われている。それらのすべてと絆を深めるには、こうして一歩ずつ進んでいくしかないのだろう。それは果てしない道のりでありながら、トゥール=ディンに強い喜びと充足感を与えてくれた。
(父さんはどうしてるだろう……それに、アスタやオディフィアも……今ごろみんな自分の家で、大事な相手と絆を深めているのかな……)
そんな風に思いながら、トゥール=ディンはいまだ名も知れぬ大切な同胞の背中をきゅっと抱きすくめた。
広場の中央では、他の血族たちがいっそう楽しげに喜びを分かち合っているようだった。